良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2015年03月

 

彦根城天守閣前広場 「ひこにゃん」の登場

2014年11月24日

 彦根城天守閣前広場。時刻は午前10時30分。元祖ゆるキャラ「ひこにゃん」のパフォーマンス開始です。
 前回の訪問は2009年8月。このときの「ひこにゃん」のパフォーマンスは山の下の彦根城博物館の館内でした。
 現在博物館は工事中とのことで、今回は天守閣前広場、国宝の天守閣の真下での「ライブ・パフォーマンス」です!!。
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 10時半から開始とのことで、ちょうどよい時間に入城口に到着しました。このとき9時50分頃、天守閣前広場には、10時過ぎに到着しました。早速場所取りです。天守閣前で待ちます。
 ↓ 写真は開演20分前の状況。すでに人が・・・・集まってきています。

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  私の待っている位置から見上げた天守閣。国宝の天守閣を見上げながら、「ひこにゃん」のパフォーマンスを見れるって本当に幸せです。(笑)
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 開演直前には、すでにこの人垣。写真後ろの白壁の細長い建物が、天守閣への入口です。(手前の「ひこにゃん」待ちの人達に隠れて写真には写っていませんが)登閣待ちの人も列をつくって並んでいます。
 係員がハンドマイクで「・・・・・・・危険ですのでここより前には入らないでください。お子様を前列にするようご協力お願いします。パフォーマンスは約30分です。途中で前列と後列の方を入れ替えをします。・・・・・」とアナウンスしています。

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 定刻、お付きの人達にかこまれて、ひこにゃんがやってきました。歩きにくいようで、両脇を支えられ歩いての登場でした。天守閣前広場のどこかに控室があるのでしょうか!?、それとも下の彦根城博物館付近から登ってきたのでしょうか!?(分かりませんが。(笑))
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 さあ、パフォーマンス開始です!!!。

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彦根城 見学、駐車場、入城口付近

2014年11月24日

 彦根城までやってきました。前回の訪問は2009年8月のこと。5年ぶりの訪問です。あの日は、非常に蒸し暑かったことを覚えています。
 さて、今回は朝寝坊し(少しばかり愛知川宿に寄り)出足が遅かったので、すでに午前10時前です。愛知川から彦根城まで(車で)30分くらいかかりました。
 お堀近くの観光協会が管理する駐車場に停めます。入口で監理員に料金を支払い、駐車します。この時間でほぼ満車でした。

 ↓ 駐車場に隣接する公園。有名な井伊直弼の銅像もあります。
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 今回、駐車場の位置をあまり覚えていなくて、本来は城の西から内堀を通過してここまでやって来れるところ、外堀のほとりをぐるっと迂回するようなルートでやってきました。そのため、外堀付近のホテル近くにあるパス用駐車場に向かってしまい、場所の間違いに気付いて改めて内堀付近の駐車場までやってきました。
 駐車場はほどなく満車になりました。監理員が満車なので、別の駐車場に行くよう誘導し、車がUターンしています。あと数分到着が遅かったら、お堀近くの駐車場に停めることはできませんでした。
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 お堀のとりを歩いて入城口へ。すでにこの付近の駐車場は満車で、別のところに回る車で混雑が始まっています。お堀近くの道は、歩道が無いため車と接触しないように注意が必要です。しかも、堀には柵が無いため、夜だと堀に落っこちてしまいそうです。

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 彦根城博物館に入城も・・・・と考えていましたが、現在工事で閉館中でした。
ひこにゃんのパフォーマンスも坂を登った天守閣前の広場(つまり山の『上』)での一日二回と『下』では工事中の博物館前での一回の合計で一日三回のみ。
 ↓ この看板。橋の前にはおいてあるが、入城チケット売り場付近、つまり彦根城博物館前広場には設置が無いた。そのため、うっかり見落とすと、どこに「ひこにゃん」が登場するのか、わからなくなってしまいます。
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  さあ、入城口のゲートを通り、天主閣への石段を登ります。秋の連休、現在のゆるキャラブームのザ・元祖「ひこにゃん」の本拠地ともいうべき彦根城、賑わっています。
 登り始めてからの今回の「登城」の感想「暑くない!!暑くない!!」です。(笑)
 前回はどんよりした曇り空でしたが、8月の蒸し暑い日・・・・、しかも徒歩で彦根駅からやってきました。そしてこの石段・・・・、「あちい、あち゛い」と汗だくで石段を登りました。
 「やっぱり、秋の行楽はいいよな~」です。(笑)
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 天守台へ向かう橋の下に来ました。前回はここまで来て、もう~火が出るくらいの暑さ感でした。というより「汗だくであった・・・・。」と表現したほうが良いかも知れませんね。(笑)

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 橋の方へ、ぐるっと石段を登ります。「武者返し」の石段ですね。ここでぐるっと石段を回り込んで登ってくる間に、弓や鉄砲でバンバン(弓はヒュ~、ヒューでしょうか!?)と撃てば(射れば)攻め込んできた敵は全滅でしょう。

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 橋まで来ました。
 いや~気持ちのよい秋晴れです。「良き日かな、良き日かな。」
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滋賀 旧中山道 愛知川宿 散策

2014年11月24日

 新章開始です!!。 時間軸をもう一度2014年の秋の巻き戻します。勤労感謝の日の振替休日、京都の夜間拝観で疲れ切って!?この日の未明に旅籠屋に戻ってきました。この日の朝にチェックアウトします。未明に寝たので、朝寝坊です。(笑)

 旅籠屋をチェックアウトし、近くにある愛知川駅方面へ車で向かいます。旅籠屋は基本的にロードサイド立地で駅からは遠いことが多いのですが、ここは愛知川駅を利用して徒歩で来ることも可能でしょう。愛知川駅は、東海道線ではなく、近江鉄道の駅です。ただし、電車の本数には限りがあるので、電車と徒歩で旅籠屋に宿泊するのでしたら、彦根ゆ近江八幡駅などの近くにあるビジネスホテルの方が便利ですね。
 旅籠屋には何回か来ましたが、この道(旧中山道)は通ったことがありませんでした。今の国道八号線はおそらくバイパス道路で昔は旧中山道が8号線だったのでしょう。
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 愛知川の街並み、もっと写真を撮影しておけばよかたです。写真の奥の右手が本陣があったところ、明治時代以降も商業の街として栄え、旧銀行の建物も残っています。
 無料の駐車スペースもあり、少しばかり旧街道、旧宿場町を散策するのも一興でしょう。

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 写真には写っていませんが、このすぐ近くの和菓子屋さんが、老舗ということで後日新聞に紹介されいました。
ツレに言わせると、私達が行った時間帯ですでに開いていたとのこと。買っておけばよかったと悔やまれます。「近江ちゃんぽん」にここの和菓子、さらには(少し遠いですが)木之本の「サラダパン」、『近江食べ物』めぐりが全然できていません。また『課題』ができましたね(笑)。






















 


 

「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念 細川コレクション 永青文庫の見学記、感想など

 2015年2月21日 寒いながもよく晴れた、春の近い訪れを感じさせる日でした。

 平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 於、細川コレクション 永青文庫に行きました。

(展示会のネーミングが長いで以下「信長の手紙展」と省略して記載します。(笑))
 永青文庫では、季節ごとに年四回の企画展示があるようです。「信長の手紙展」のパンフはすでに品切れでおいていないようです。次回、春の展示のパンフはあります。「細川家に伝わる起請文」の展示です。細川家の家臣などから、お殿様などに提出された起請文の展示とのこと。今回の「信長の手紙展」では一通だけ、起請文の展示がありました。先に書いたように山崎の合戦直後に出された秀吉からの起請文です。

 永青文庫のパンレットと「信長の手紙展」の展示リスト。なぜか、画像が横倒しのまま・・・・。

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 先の記事にも書きましたが、本館(勝手に私がネーミングしたのですが、正面入り口と受付のある建物)の三階から四階に至る階段の途中(踊り場)に、「三階」の入口があります。この「三階」が「信長の手紙」の展示室です。普段企画展示はここで開催しているのでしょう。蔵のようになっていて、階段の踊り場には蔵の扉が附いています。きっと、防火のためですね。美術品を保管するために、あとから増築されたかは分かりませんが、特別な構造になっていることがうかがえます。
 展示室(つまり「蔵の中」)に入ります。中は学校の教室よりもやや広いくらいの部屋。モチロン窓はありません。光で展示品が痛んでしまいますからね。
 室内には、数十人の見学者がいます。広くはない展示室なので、キツキツです。ガラスのついた展示ケースは木枠でレトロな感じです。ただ、気密性など防湿を考えると厳しいような・・・・。テレビで放映されていた展示室はここだったのだと分かりました。木枠の展示ケース・・・・、昨年秋に訪問した京都「妙法院」の文化財収蔵庫「龍華蔵」内のベルギー製展示ケースに似ています。

 展示室内を順に見て行きます。今回の展示は、これらの文書が「重要文化財指定」を受けた記念の展示です。信長からの手紙には「天下布武」の判が押してあります。季節行事の進物の礼状、「信長」と名前の記載があります。楷書ではなく、崩し字、しかも優美に崩して署名??しています。
 「信長と幽齋は同じ年」と解説がありました。相通じるものがあったのでしょうか。
  有名な「天下布武」は「天下」の文字は判読できますが、特に「武」は分かりません。ド素人の私は「コレホントニ『布武』って書いてあるの??」が率直な感想でした。(笑)
 宛名は、「細川兵部太輔殿」となっています。ある時期からは「長岡兵部太輔殿」となっています。「長岡」は細川氏の別姓で京都の長岡京付近の地名にちなんでつけたそうです。明らかに 室町幕府が滅びたあと、足利一族の「細川」と名乗るのを(信長の手前)憚ったのでしょう。明治以降でも細川家一族の華族として「長岡氏」と名乗っていたような。つまり細川幽齋あてがほとんどです。
 手紙のかなりの数は「黒印状」。教科書には通常赤い朱肉を付けて押す「天下布武」のハンコを見ているので、「ハンコって赤のインクではないの?」と思ってしまいます。(笑)
 私の頭の中は「黒印状」と「朱印状」はどう違うのか、の一点に焦点が当たり、グルグル回ってしまいました(笑)。ツレも同じことを感じたようで「黒印状と朱印状ってどう違うの??」と私に聞いてきますが、分かるはずがありません。(笑)
 展示の途中で解説がありましたが、主に知行や領地を与えたり、安堵したり権利の保護には朱印状、いくさの作戦指示や一般的な命令や意志伝達には黒印状が押されている・・・・とのことです。
 たしかに「○○の地の○○の権益を与える」「○○を安堵」のような手紙は赤い印。礼状やとくに戦で「ナニナニしろ、ナニナニをコウゲキしろ、戦ではあれこれ注意せよ・・・」などは黒い印。戦の命令は特に重要なので「朱印」かなと思いますが、これは第二次大戦後の現代社会に生きる者の感覚で、戦国の世では、その都度アレコレ発する指示文書の一種なので黒印なのでしょうか。
 同じ判で黒と朱の色わ使い分けていたのか、そろとも同じ刻印で「黒印用」と「朱印用」があったか、は解説はありません。解説が無いということは「天下布武」の判は一個で、使い分けをしていたのでしょう。 
 右筆(祐筆)の名前も伝わっています。解説には祐筆の筆跡も違うとあります。たしかに同一人物の祐筆が書いた書状は私が見ても同一人の筆跡と分かります。展示されていたのは、三人くらいの祐筆の手紙でした。
 教科書でも有名な幽齋の肖像画は展示室の一番奥、正面のガラスケース内にありました。僧形で上に賛文がありますね。
 手紙の内容は、長島一揆や丹波攻め?、浅井朝倉のと戦い関連?、長篠合戦など信長軍団の戦の内容や領地、知行などに関するものが多かったです。こんにち私達が知るような歴史的事件ではなく、案外、日常の領地経営や行事、贈答品などに関するやりとりが多かったような。

 光秀からの手紙は、前期展示のみで後期は、写真パネルのみでした。後期は「山崎の合戦後、秀吉から細川家に宛てた起請文」の現物展示です。
 秀吉の直筆であることに間違いありません。かなりのくせ字です。漢字が横に広がるような書き方です。
縦書きで、最初は「謀反に加担しなかったことはまことにあっぱれで・・・・感謝いたします。・・・・」のような内容。後半は 「南無八幡大菩薩・・・・」と神仏天命に誓って・・・・・ということが判読できます。
 文字から察するに農民、足軽から身をおこしたとされる秀吉は、仕官して取り立てられた後、あとから身につけた学問で得たと思われる書き方です。幼少のころから教育を受けた武将の洗練された筆跡ではなく、一般庶民のような文字、と感じたのは私でけでしょうか・・・・。また、非常におおらかで、しかし(字は巧くないが)マメな感じの文字です。
 血の判を押し、秀吉と判読できる花押があります。年月を経て、血判はかなりかすれてすうくなっています。起請文では羽柴筑前守と名乗ってあったような・・・。(詳細は忘れましたが。)このころ「ちくぜん」と名乗っていたことはホントだったのですね。(笑)
 
 その近くに、信長直筆の手紙の展示がありました。展示品リストを再度見たところたしかに「前期」展示とあります。テレビ放映で話題になったので、延長したのでしようか。いや~、ラッキーでした。
 宛名は「与一郎」。しかし、「よ~いち~ろ~」みたいな感じ(崩し文字)で書いてあるので読めません。(笑)
 当時の手紙は今でいうA4サイズくらいの用紙を横に使い、半分に折って書いています。つまり縦の行の文字が少ないです。横に折った状態で、上半分から読んで、裏返して下半分を読むのですね。つまり、こんにち展示すると、上半分の文章を読む場合はよいのですが、下半分は「さかさま」になっています。直筆文書では「与一郎」の部分がさかさまです。
 「働きぶり」という冒頭、一段下げた箇所は判読できます。「こたびのいくさではたいそうなはたらきぶりであったと聞いたぞ。これからも油断することなく、これからもがんばれ」
という内容だそうです。丸っこい文字で、几帳面そうな、しかし尊大な印象を受けます。
 当時与一郎は15歳だったと解説にあります。満でいうと14歳、現在の中学二年です。ほとんど初陣だったのでしょう。少年に対する激励の手紙でした。堀秀政の添え状も展示があり、これに「信長公がじきじき書かれたありがたいものであるぞ・・・」というような内容のため「直筆」とされているそうです。この中で信長様と書かれているか、「上様」と呼ばれていたのかは・・・忘れました。直筆に家臣が添え状を付けるとはすでに信長はど偉い、武将の上の更に上の武将=上様、遠い存在になってしまっていたのではないでしょうか。

 そのような超偉いお方がわずかな手勢で油断して京に入ってきた、厳重なはずの警護も緩い・・・・、このあたりが「本能寺の変」の真相なのでしょうか・・・・。



















 

新江戸川公園(旧細川家屋敷跡庭園) 散策

 2015年2月21日 
 
 平成26年度冬期展示 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 細川コレクション 永青文庫の見学を終えました。隣接する新江戸川公園に歩きます。というより、崖(がい)の斜面の小みちを下るような感じです。
 池の上の斜面から見た公園内の様子。早稲田、高田馬場方面に高層マンションが見えます。
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 斜面を下る途中、永青文庫の外壁(手前)と建物。緑の木に覆われて建物はよく写っていませんね。
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 永青文庫から公園内に入り、斜面を下ります。斜面途中から眺めた池の様子。永青文庫内と同じく、常緑樹の葉が茂り、冬なのに見通しがよくありませんね。
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 さらに、公園を散策します。池の眺望がきく場所まで来ました。日差しは春を感じさせますが、2月のこと。まだまだ寒いです。公園内、池の周囲の木々も枯れています。春が待ち遠しい・・・・・・。
 奥の建物は和敬塾の木造建築でしたが、工事中です。

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 石畳の道を歩いて池のほとりまでやってきました。池につながる曲水や滝もあります。勢いよく水が流れています。昔は崖から豊富な湧き水があったのでしょう。現在でも湧き水なのか、地下水のくみ上げか、水道水かそれともポンプ循環かは分かりません。

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 池の上の斜面から別方向。
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 池の前まで降りてきました。神田川沿いの正門から入るとこの池がまず目に飛び込んできます。
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 池のほとりに立つと、鯉が集まってきます。お利口さんな鯉さん達です。(笑)

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 (既出) 永青文庫と公園の間の門。最初は通れるかなと思っていましたが、閉まっています・・・。
 心臓破りの坂が・・・。左は芭蕉わかりの地です。が、入場はしませんでした。

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 (既出) 永青文庫と公園の間の門。もともとは、両方、和敬塾の敷地も含めて細川家のお屋敷の敷地でありました。解説板によると、江戸時代ずっと細川家の屋敷であったわけではなく、江戸時代の後期、それも幕末に近い頃から細川家の屋敷になったとありました。では、上屋敷はどこにあったのか・・・、私は知りません。

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「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」と永青文庫美術館 常設展示 見学

 2015年2月21日 

  平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念
 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 細川コレクション 永青文庫。
 
 入館します。続々と入館者がやってきます。チケット売り場は、玄関を入ってすぐのところに小さい窓が一か所のみ。普段は混みあうことは想定していないのでしょう。窓の奥は事務室になっています。女性職員が数名います。公益財団法人永青文庫の職員であり、決して細川家の使用人ではありませんね。
 入館は一人800円。
  ↓ 永青文庫の建物。
   手前の蔵のような建物は、二階部分が常設展示の展示室。一階は事務室か収蔵庫でしょうか。入ることはできません。奥のガラス窓の建物の二階以上は常設展の展示室でした。「信長の手紙」の企画展示室は更に奥写真でいうと、向かって右にあり、写っていないと思います。

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 ↓ 写真左の写っていない所が正面の玄関。
  この建物を本館とすると二階と三階(実は四階と呼ばれている)が、常設展示室。
  二階部分の内部は応接間のように家具が置かれ、書籍や資料が置いてあるのみでした。
  写真右は、増築されたような棟で二階部分が常設展示室でした。
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  チケットを買うとき、「奥の階段を登って、四階の展示室から見てください。」と言われます。館内の廊下は狭く、滞留してしまうと混雑するので、上のフロアに上げているのでしょう。一階には展示室はありませんでした。
 二階に上ると、廊下に書棚が置かれておおり、蔵書があります。細川侯爵様の蔵書棚なのでしょう。展示室もありますが、更に上の階段を登ります。戦前期の家政所の建物なので廊下は狭いし、階段はやや急なので現代のバリアフリーではありません。元々家臣用の建物であり、「お殿様」がお客様を迎える施設ではないのです。
 三階が企画展示室になっていました。「信長の手紙」もここに展示されています。本館に附属する蔵のような建物で、部屋への入口には蔵の防火扉があります。三階というよりも「中三階」です。 更に階段を登ると「四階」の展示室前の廊下に出ます。本来はここが「三階」なのでしょう。建物の外観は写真で見ても「三階建て」です。
 館内は撮影禁止です。「四階」つまり、最上階の常設展示室の廊下からは見事な洋館とその全面に広がる庭が見えます。ああ、これがかつての細川侯爵邸なのだなと説明がなくても分かりました。庭はグラウンドのような感じです。和敬塾の寮の建物も見えます。永青文庫と和敬塾の間には小さな通用門があります。別組織ですが、運営は一体化しているのでしょうか。元々細川家の敷地に立地しているが、直接には関係ないようですが。
 鎌倉文学館になっている旧前田侯爵邸のような建物でした。「展示室内撮影禁止」ではなく「館内撮影禁止」のため、あえてこの見事な洋館の写真は撮りませんでした。展示室以外も景色も撮影禁止なのでしょうかね。

 廊下には写真の展示もあり、横山大観の長寿祝いの席の写真がありました。大観夫妻と護立侯爵が写真に写っています。護立侯爵は、非常に面長で痩身の人物です。洋画家の安井曽太郎?との写真もありました。画家と息子の護貞氏と一緒に写っています。護貞氏は特に目のぱっちりしたところが元首相氏とそっくりですね。
 常設展示室は大きくはない。展示作品も多くはない。江戸期の屏風絵が展示されています。重文など、文化財指定は無いようです。昔の鎧や大名家の長持ちなどの展示がありました。中国伝来の仏像が、ガラスケースではなく、カパーなしでそのまま展示されていました。もちろん触ることは禁止です。この仏像は「重文」指定でした。
 二階にも常設展示室が。細川家の殿様の使用した印章の展示がありました。江戸時代中期~後期の殿様、重賢公や治年公のものも。中国で押していたような立派に印璽です。明治時代以降の白樺派の書籍の展示もありました。同級生なのだそうです。大観など画家のパトロンであり、作品を買い上げていたのでしょう。春草の「黒き猫」もそのひとつですね。武者小路実篤らと一緒に写った写真も展示してありました。
 最後に応接セットの置いてある部屋には書籍など関連資料がありました。二階の数部屋が展示室になっています。
 この建物は昭和初期に建てられた家政所とのこで、あまり大きくありません。文化財を収蔵、保管をしておくには小さいのではないかと思いしました。一階の展示室のない場所か中三階の「蔵」の下層か地下室に保管しているのではないかと思いました。文書や絵画などを熊本の大学や県立博物館に寄託しているのも収蔵スペースの関係もあるのではないかと思いました。

永青文庫(文京区) アクセス、周辺散策

 2015年2月21日 

  平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念
「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 細川コレクション 永青文庫。

 永青文庫は、文京区の目白台にあります。有名な政治家の邸宅にあった地名なので、一定年齢以上の方はおなじみでしょう。ただし、私には、よく分かりませんが(笑)。
 昔から付近に豪邸を構える今でいうセレブの方も多い地域。カトリックの日本本部ともいうべき、「東京カテドラル 聖マリア大聖堂」や椿山荘のある通り(目白通り)を入ったところに永青文庫はあります。
 、「東京カテドラル マリア大聖堂」は、モダンなコンテンポラリー建築なので通りからもすごく目立ちます。東京大司教座がここに置かれていたと記憶します。日本には大阪と長崎に大司教が置かれているばすです。長崎はのカトリックの教会は先年訪問しました。
 話は東京に戻り、ここ東京の大聖堂では著名人の葬儀も営まれることがあります。私が生まれる前のことですが、吉田茂元首相の葬儀もここだったような。
 一般的な目印は、椿山荘ですね。
 さて、永青文庫です。実際に中に入って見学したのは、今回が初めてですが、この前の道や付近は通ったことはあります。ただ、通ったのは久しぶりです。
  ↓ 永青文庫の電柱告知。右は和敬塾の建物。

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 「目白の坂」の階段。「崖」がい、になっていて、眺めがよいです。
 ちょうど、都心部の北から南を見るような感じです。基本的に日本の建物は南向きなので、後背地、つまりうしろの高台から東京の街を「見下ろす」ような感じになります。その昔、山縣有朋がこの付近に自分の別荘(椿山荘)を建てたのも、明治政府の権力者として「東京の街を見下ろす」感慨にふけるだめだったのではないでしょうか。
 写真右は、新江戸川公園ですが、この門は普段は閉鎖されていて通ることはできませんでした。
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 ↓和敬塾と目白通り(北)方向。この先にあるコインパーキングに車を停めました。
 永青文庫の敷地内には、車を停めることはできません。土地は広いのですが・・・。車で来た場合、コインパーキングが別の場所に車を停めて歩くくことになります。この日、着いたのは10時の開館時刻を少し過ぎたころでしたが、コインパーキングでは「最後の一台」で私が車を入れると「満車」表示になりました。
 もっとも、工事関係とおぼしき車も停まっているので、すべての車が永青文庫の来館者のもの、といわけではないでしょう。「年度末工事」の車が多いですね。この時期は。
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 和敬塾の広い敷地。若者が寄宿している寮のようで、室内にギターなどの楽器が置いてあるのも見えます。駐車場にはバイクなども置いてあります。元々は細川家の屋敷地で、現在は財団法人にして寮を運営しているのでしよう。
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 永青文庫、敷地内にあるオブジェ。中国風ですね。日本庭園でも「西湖」を模した池などにありますね。もちろん富士五湖の西湖ではありませんね。(笑)
 ここをくぐり、小路を少し歩くと新江戸川公園に出ます。

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 新江戸川公園に出る門。元々、門の向こう(新江戸川公園)も手前(永青文庫)も所有者は細川侯爵家だったのですが、以前は、この門はなかったです。永青文庫はコンクリートの高い壁にかこまれていましたが、この門のおかげで行き来することができるようになったそうです。
 「お殿様」のご配慮のおかけです。
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 永青文庫の入口。人がいないように見えますが、全く違います。続々見学者がやってきていました。テレビの影響は大きいようです。
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  敷地内は、うっそうとした林です。元々は個人の邸宅の敷地なのですからすごいですね。冬ですが、木々は落葉しておらず、常緑樹が多いことに気づきます。林に隠れていますが、小さい別館もありました。別の展示があり、別料金になっています。

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 よく言われるように、地下鉄の駅からは遠いので、たしかに来館には不便です。(個人のサイトやブログなどでも指摘されていますね。)車で来るにも駐車場は無い。近くというか、目白通りの角に「野間記念館」もあります。こちらも賑わっていました。開放的な敷地で、美術品展示コーナーやカフェーなど飲食店もあるようです。展示会は日本画の速水御舟などがテーマのようです。同時期の山種美術館とテーマがかぶっているような気もしました。
 永青文庫で見かけたた人が、野間記念館に入っていく様子も見えました。さらに椿山荘とあわせて「目白散歩」といったところでしようか。
 
 

「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 永青文庫美術館 見学記

 2015年2月21日 

 平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念
 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 細川コレクション 永青文庫。
 
   会期は年明け1月6日から始まっています。知ったきっかけは「新聞で開催の旨とその解説の記事」を読んだからです。記事を読んだときは「行ってみようかな」と思ったのでしたが、その後(私はニワトリなので)三歩歩いただけで!?、すっかり忘れていましたが(笑)、2月になってテレビ番組でも紹介されたので、改めて気付いて行ってきました次第でございます。(笑)
 放映されたときにテレビをご覧になった方も多いのであまり詳しくは触れませんが、熊本出身のタレント(というか芸人)が司会のパラエティー番組での紹介でした。プラスしてアシスタントの女性が一人出演。私は、キー局か九州の系列局の女子アナかなと思いましたが、女子アナではなく熊本出身の女優、タレントさんでした。どおりで番組中出演している大学教授氏か学芸員氏が「今日は熊本出身の方が多いと聞いているので・・・・。」と言っていたワケです。
 芸人が司会なので、ボケとツッコミのやりとりがうっとおしかったですが(笑)、ともかく永青文庫の展示室内での撮影と展示品の紹介もありました。
 永青文庫はここ文京区にありますが、今回展示される「信長の手紙」は熊本大学の図書館に寄託されているそう。番組で見たのですが、大学には「永青文庫細川家文書研究センター」まで設置されいてほとんど専属研究所のような感じです。戦国期~幕末にかけての熊本領主細川家の文書がまとめて寄託されているのでしよう。保管庫の内部の様子も放映されていましたが、スチール製の棚に文書がボンボンと置かれているような感じで、内部は耐火建築で空調などもあるようですし、それなりにお金をかけた保管施設です。
 古文書といってもすべて見るのは大変なのでしょう。全然整理や解読がされていないようです。しかし何百年も蓄積されてきて、その都度、体系的にまとめる事務の役人がいなかったのでしようか。
 これらの膨大な古文書の中から、今回の信長の手紙がでてきたことは確かなので、今となっては、専属の研究者でないとなかなか本腰入れて解読する時間とお金が無いですね。図書館の中でも保管庫はどこにあるかは非公開だそうです。
 平成26年度冬期展示 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」も、昨年熊本で開催されており、このたび東京での開催です。 後期の展示は2月10日から3月15日まで、合計でも二か月あまりの短い展示です。
 実は、先の記事にも書きましたが、光秀からの手紙は、前期展示のみで後期は、写真パネルのみ。後期は「山崎の合戦後、秀吉から細川家に宛てた起請文」の現物展示がありました。
 「信長の手紙」とはいのものの、信長直筆の手紙の展示は、事前に同文庫のウェブサイトで見たところ、前期に展示の一点のみ。確かにウェブサイトに掲載されている展示リストを見ると「信長黒印状」とあるが、「直筆」とは書いていない。一般人(パンピー)の感覚かにいうと「手紙は自分で書くから手紙なんだろ」と思うが、お殿様の感覚では、「書かせるもの」なのですね。(笑)
 一般人の悲しい常識でした。(涙)
 後期展示では「信長直筆の展示は無いし、光秀の手紙も展示がない。もっと早く、新聞記事を見た時点で行っておけばよかったけど仕方ないな。でもせっかくだから、行ってみるか。」感覚で今回の訪問となった次第です。(笑)
 しかし、別の記事で書きますが、実際には信長直筆の書状の展示がありました。

 ↓ 永青文庫の建物外観。
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「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念 永青文庫 見学

 2015年2月21日 

 このところ、本能寺の変に関する投稿が続いています。 そんな折、
 明智光秀の縁戚、組下(与力)であり、「本能寺の変」後の軍事的、政治的な動きでも重要な役割を果たし、さらに現代も続く旧大名家、「細川氏」のコレクションが公開されました。これまたタイムリーな展示会であったと個人的には思っています。(笑)
 
平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 
細川コレクション 永青文庫。
  ↓ 永青文庫の入口の告知。
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 今回の展示で「本能寺の変」に関連する手紙は、変の1か月と少し前、信長から細川藤孝にあてた「・・・出陣の後はコレトウ日向守の指図に従うよう・・・」の意味のことが書かれている4月25日?付の手紙くらいです。このとき、信長は甲斐の武田の旧領を巡視中だったと記憶します。その後の毛利攻めに関する指示文書でした。信長は武田攻めの指揮はとっていなかったようで、信濃など武田の領地に入ったのは、武田が滅んだあとで、余裕の巡回、視察だったことがわかります。その途中で細川家に手紙を発したのでしょう。
 手紙の解説には「信長は光秀をこのときも信頼していたことがうかがえる。」とありました。

 信長発信ではありませんが、関連して明智光秀から細川藤孝にあてた手紙の展示もありました。ただし、この手紙は、現物の展示期間は終わり、写真のみの展示でした。まじめそうな字で三か条が書いています。
 「覚 条ゝ」とタイトルがついています。本能寺の変を起こした光秀の心境が分かる第一級の資料でしょう。
 謀反を光秀は「このたび不慮の儀」と呼び、「・・・・与一郎や光秀の嫡男のためだ・・・」「細川が味方すれば ○○国など領地を与える・・・、更に××国を与えてもよい」と書いています。なんとなく、あせっているような文面です。「○○国はあげるよ。しかし、××国は本当はあげたくない。けど、非常時で味方集めしないといけないから、ともかくエサをまいて釣っておこう。」という意図が(私にも)ミエミエです。現代に生きる軽薄人生そのもののキャラの私も感じる文章なので、「これじゃ、味方しないよな。」と思います。

 「家康(当時の呼び方は知りませんが、当時官位は三河守であったかは私は知りません。)と連携して・・・」云々とは一切書いてありません。モチロン「元々、実は家康討ちだったこと」を示唆する内容は一切ありません。とすると「偶発的に討った」通説を裏付けることになります。もっともこの光秀の手紙は従来知られているからこそ、通説の元になっているのでしょうけどね。

 明智憲三郎氏の著書を見るとこの光秀の手紙にも言及があり「・・・・細川家が家記として編纂したいわくつきの・・・」とあり、筆跡、花押から判断して偽物とする説もある、と書いています。
 この手紙が光秀の直筆ということが証明されれば、本能寺の変は偶発的なもので、家康討ちなどの陰謀はなかった通説がぐっと信憑性を増すことになります。4月に細川家に出した手紙が書かれた状況からして、甲斐で「余裕のよっちゃん」で武田の旧領地(と家康の領地)を巡回したので、京都に入ったときもその感覚で油断していたのではないでしょうか・・・・、なんてことをフト思いました。
 が、真相はなかなか分かりませんね。(笑)

「本能寺の変」 の通説 ドラマでの演出


 (画像はアマゾンのサイトより)

 2014年も大詰めを迎えた頃。年末近くになって体調を崩してしまい、病院に行きました。
 そのときの病院待合室は大混雑。待っている間、待合室に備え付けのテレビを見ていると、某大河ドラマの再放送でした。ちょうど本能寺の変のシーンの放映が・・・。「テレビではどう描いているのかな?」と興味をもって見ました。(笑)

 先日に行った著者 明智憲三郎氏の講演会。新説は一言で書けば「本来は、信長の命令らよる光秀の家康討ちだった。」です。

では、某大河ドラマではどう描いていたかというと・・・。
・武田攻め
 恵林寺の快川国師が武田の誰かをかくまっていて引き渡さない・・とい一報が・・。
 信長が光秀に「寺ごと焼き殺せ」の命令。光秀は泣く泣く火をつける。
 有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し。」のシーンが・・・。
 ナレーション「快川国師は光秀の学問の師であった・・・。」
・例の家康の接待役のシーン。 
  信長が光秀を叱るシーンが・・・。
  次いで光秀が一人で投げつけられた鯛の切り身?を片付けるシーンへ・・・。

・信長の唐入り計画
 信長が嫡男 信忠に「天下を統一したあとは、外の国を攻める。日本はそなたに任せる。この国に2人 王はいらぬ。」というシーン。
 「信長唐入り計画」は定説なのですね。
・続いて「信長がわずかな手勢を連れて本能寺に入った」シーン。
・続いて 光秀がドロ~ンとした顔で「時は今、雨が下しる五月かな。」のシーン。(不気味でした。)
・で、「敵は本能寺にあり。」 軍勢「オー!!」という歓声。
・ そして「謀反でこざいます!!。」
  信長「誰じゃ」
  森蘭丸「桔梗の紋 光秀にございます。」
  信長「是非に及ばず!。」・・・・何人か兵を斬り、燃え盛る奥の部屋に入り信長は「切腹」。
  
さて、ドラマは信長の死後、秀吉が天下をとった後のシーンへ。
・荒木村重が登場
 回想シーン 村重が謀反を起こした当時のシーンへ。「信長を討つ!!」と気勢を上げる(当時の)村重。
 その後、秀吉の時代になり、村重の名を捨て改め「道糞」と利休の茶室のシーン。
 秀吉に面会を許された「道糞」が、秀吉のそばに控える淀の方に「なぜ両親の仇の庇護の下で暮らすのか。」と質問し、秀吉を怒らせるシーン。
 結果、「道糞」は大阪を「館(やかた)払い」。出立のとき、生き残った自分の子「又兵衛」に筆を渡すシーンが・・・。なんと、この子がのちの絵師「岩佐又兵衛」!?。
・利休の切腹
 唐入りを「おやめなされ。」と秀吉をいさめ、怒らせるシーン。
 「大徳寺の山門に利休の像がある。大徳寺に参るものは皆利休の下をくぐることになりもうします・・・。」と三成が秀吉に告げ口するシーン。秀吉「なぁにぃ~!?」と鬼の形相。
 そして利休「切腹」。
・鶴松の死
 「天下の名医を集めて・・・・」とオロオロする秀吉のシーン。しかし鶴松「死去」。
 のような進行でした。
 そして、本能寺の変の真相は・・・「私には分かりません。」(笑)。

本能寺の変に関する新説 (個人的考察 天海)

 2014年12月のとある日曜日に行った講演会。
 本能寺の変に関する新説でした。この新説を唱える書籍自体は2013年に刊行されています。
 以下は個人的考察です。
 
①光秀=天海 説
  「講演会のときによく質問を受けるのですが・・・・。」と講演の中で「天海は光秀ではない。」と説明がありました。と私を含めて聴衆は聞きましたし、理解しました。が、その後の質疑応答で強調していたのは、「光秀=天海を示す証拠は見つかっていない。」ことでした。「完全に否定することものではない」とのお話でした。私達は、講演者の意図や講演内容をよく聞いて理解しないといけませんね。

②秀満=天海 説
 この説については、言及がありませんでしたし、質問もでませんでした。が、意外と信憑性はあるのではないかと思います。ただ、本書をよく読んでみると、「坂本城で死亡した」と従来通りの説をとっていますし、秀満=天海説は書いていません。
 講演会では、「僧侶というのは、俗世との交わりを絶って出家するのだから、(天海の)前半生が分からないのは当然・・・・。」というお話でした。
 108歳という天海の没年ですが、これは「煩悩」を示す数字でしょう。とにかく、長生きしたことに違いはないが、没年は「108」にしておけ、という誰かの意思が働いていたのでしょう。ニッポン人ってその辺いいかげんですからね。(笑)

  「謎の怪僧 天海」
 このタイトルは私が少年の頃「あるゲームソフトの登場人物の説明」でもありました(笑)。
当時流向した「信長の野望」ではなく「関ヶ原の合戦」か「家康の天下統一」だかのゲームだったのでしょうか??。
ただし、どのソフトも私はプレイしたことはありません。(笑)。
 とにかくそこに「天海は 明智光秀の甥 秀満か!?」とありました。それでこの説を知ったわけです。(笑)。

③春日局の明智再興
 これは以前民放で放送されていた「歴史バラエティー」番組で見ました。局やタイトルは忘れてしまいました。
本書の内容とは関係する部分もあります。
 内容は、 
 明智の血筋の再興を目指す春日局は、自分の子や元夫、元夫の先妻の子孫を含め親戚縁者を家光にお願いして次々に取り立てた。
 天草の乱で討たれた城代三宅氏は、秀満の子であった。これに激怒した春日局は「おのれ~。」天草の乱で決起した領民の全滅を命じた。明智に対抗する者は許さないと。
 のような内容だったです。パラエティー番組ですからね。

 本書では、「家光、春日局実子説」を書いていました。「家光は光秀から一字拝領した」と書いています。この説は考えたことがありませんでした。言われてみれば、確かにそうですね。
 ただ、現代感覚と異なり、武家や公家では実母というのは実子を育てることはせず、乳母が育てるのが通常というのは私のような素人でも知っています。秀吉が淀との最初の子に「捨」と名付けたのは、その考えにも基づくのではないでしょうか。実母が育てるならば、「捨」とは名づけないと思います。「一度捨てて、すぐに拾って自分で育てる」のかもしれませんが・・・。
 弟「忠長」は本書にもあるように父、秀忠と信長から拝領しています。忠長の正室は織田氏。信雄の子孫からです。江の方は、たしかに織田氏を意識していたことが現代人にも分かります。正室織田氏の家は、大名としては小さく、官位も四位 少将くらい?。忠長は「従二位 権大納言」と知られているので、いかに旧名門とはいえ、官位からしても明つり合いがとれません。江の方のたっての希望だったのでしょう。通常正室をむかえるならば、摂家以外の公家でしょう。ただ、三条西家やその血縁の近い公家からというわけにはいきません。ライヴァル春日局の縁者ですから。ただ、江の方のいとこ信雄は官位が高かったのでこの関係からすればつり合いがとれないことはないでしょう。
 武家ならば、親の官位が従三位 権中納言以上のクラスの姫から。従三位でも参議、ましては中将ではありえないでしょう。(推測ですが。笑。)
 人によって異論反論ありますので、素人の私がここで推論するのは自由です。(笑)まっ、批評する人もほとんどの人は自分で研究したわけでも、ましてや論文を書いたわけでもありませんけどね。
 「ほんまでっか?。ウソでっせ!!。」の世界です。(笑)。 くどい。。。。

本能寺の変 (個人的考察 反論)

 明智憲三郎氏の講演会。続きです。

 本能寺の変に関する新説でした。この新説を唱える氏の著書は2013年に刊行されています。

 個人的考察の続報でも反論です。
「えっそうなの!?。なるほど、よくよく考えると確かにそうだ。」と思いました。確かにつじつまが合いますが・・・・。

①信長の唐入り計画
  そもそもあったが、変の原因ではない。まだ先のことで仮定の話。唐入りが主要原因で主君を討つはずはないし。

②四国征伐との関係
 このまま侵攻するとヤバいなと思った。だから討つには今がチャンスと思った。今までもあちこち振り回されてモー限界。例の「石谷家文書」で、利三あての手紙が、石谷家に残されていることも裏付けされます。本能寺の変が起きて実際には、光秀や利三には伝わらなかった(届かなかった)のでしょう。

③光秀の行動
 たしかに、手勢が少なかった家康一行を探索していない。だが、そこまで考えていなかった。か、正々堂々とあとで決戦しようと思った。ネライは主君信長であって、家康ではない。
 とすると、本能寺の変は思いつき犯行といえば、それまで。よって一族郎党滅亡を覚悟して反乱を起こした。そもそも「大義名分」とは、悪を断罪するこういうときに使うものではないでしょうか。
 一応書を送ってオレに味方しろ勧誘はしていたが、いずれ織田家中の武将の勝家、秀吉、そして家康などと戦うつもりでいた。あとは野となれナントカとなれ・・・。本当に野に屍をさらすことになってしまいましたが・・・。
 または、家康とは直接、反乱については知らせなかったが、ほのめかす程度、あとは「以心伝心」でわかるだろうということで、信長を討った。家康はある程度は分かっていた。そのため、明智の残党を優遇した。
 または、ぶっちゃけいうと本能寺の変は、複雑なものではなく、短絡的に「キレ」た。まじめそうな人がキレることは結構ありますね。または心の病、そううつ病などの症状があったかしれません。

 やっちまってとにかく考える。定着農耕民族は意外と将来を楽観します。
 近代の張作霖爆殺、満州事変や盧溝橋事件などの例もある・・・。こうやって羅列してみると「夜討ち朝駆け」ばかりですね。
 「なるようになる」「何とかなるさ」「仮定の話では分からない。」「やるときはやらないといけないのだ。」と。来年も同じように稲が実って「食うものには困らないさ」感覚です。
 これらの言葉は、意外と日頃の仕事でもよく聞くセリフではありませんか??。または自分で言ったりして・・・・・・。
 そんな主君を持った封建時代の一族郎党や封地の領民は不幸ですし、近代国家に置き換えるならば、こんな国家指導者やその下で動く官僚をいただいた国民は不幸です。行きつくところは、封建時代あっては、一族郎党の滅亡、領民の虐殺、領地の荒廃、略奪強奪であり、近代国家間の戦争にあってはおびただしい兵士の死であり、非戦闘員の大量虐殺ですし、国土の荒廃、外国軍隊による占領やすさまじい略奪強奪、国家・政権の滅亡ではないでしょうか?。

 人によって異論反論ありますので、素人の私がここで推論するのは自由です。(笑)まっ、批評する人もほとんどの人は自分で研究したわけでも、ましてや論文を書いたわけでもありませんけどね。
 「ほんまでっか?。ウソでっせ!!。」の世界です。(笑)

本能寺の変に関する新説 (個人的考察の続報)

 2014年12月のある日曜日に行った講演会。続きです。

 本能寺の変に関する新説でした。この新説を唱える書籍自体は1年前に刊行されています。
 個人的考察の続報です。

「えっそうなの!?。なるほど、よくよく考えると確かにそうだ。」と思いました。確かにつじつまが合います。
個人的に(調べたわけではないが)考察です。

①信長の唐入り計画
 小学館発行の歴史漫画「少年少女 日本の歴史・天下の統一」の第11巻(児玉幸多氏監修)。現在自宅にあります。私が子どものために買ったものではなくて、昭和58年に発行した古いもの。初版は昭和57年 小学館 東京。
 入手した経緯は、数年前に当時家族が手伝いをしていた児童施設が古い書籍を入れ替えることになり、要らないからともらい受けたものです。(私が親から買ってもらったものではありません。笑。)ですから、最近の研究や通説は反映されていません。昭和50年代半ばの学習指導要領や歴史通説に基づいているのでしよう。
 これを読み返すと信長の配下当時の秀吉が「・・・・信長様が日本を平定された後、私は明(ミン)に攻め入りとうございす。・・・」と話し、信長が「・・・ハハハ。また秀吉のホラが始まった・・・。」大笑いするヒトコマがあります。つまり、誰が計画したかは分からないが信長の存命当時から「唐入り」計画が存在したことが裏付けられます。(小学生が読むレベルの書籍でも。)
 このあと同書は、秀吉が「ついに、日本の統一をしたぞ。・・・次は明へ攻め入ろう・・・」とセリフを言い、そして「(明へ攻め入る道案内を朝鮮が断ったので)・・・諸大名に朝鮮への出陣命令を出しました・・・・」と実際の「唐入り」に物語が進みます。ですから、同書は秀吉がもともと「唐入り」を言いだし、自らが天下を統一した後、実際に行ったのだという流れを小学生レベルでも理解できるように描いています。秀吉が天下を統一した後、「さあ次は、大陸だ!」という漫画のシーンがいきなりでてきたら、「?」ですからね。(笑)

②家康のイガ越え。
 たった二日で奈良、伊賀を通過し伊勢湾を超えて岡崎に到着している。あまりに早すぎる。事前に準備していた?。
 いきなり伊勢湾の漁村に行って「舟を出してくれ」といってもふつうは近くの領主、水軍の主に通報するはずだし、いきなり舟は出さない。元々そこの領主などと話ができていたか、脅して無理やり舟を出させたか。脅したら、やっぱりだれか通報するはず。裏切って一行を海に落とすことだってアリ。

③光秀の行動
 たしかに、家康を探索していない。当日の家康は京都に向かって堺を発ったのは通説。通常は領地に戻るルートを捜索するばすだが、していない。光秀は安土、京都にいたそう。突発的に反乱したのでそこまで気がまわらなかったか、書を送ってオレに味方しろ勧誘はしていた?。

 人によって異論反論ありますので、素人の私がここで推論するのは自由です。(笑)まっ、批評する人もほとんどの人は自分で研究したわけでも、ましてや論文を書いたわけでもありませんけどね。
 「ほんまでっか?。ウソでっせ!!。」の世界です。(笑)

「本能寺の変」の本 新説


 (画像はアマゾンのサイトより)
 2014年暮れの日曜日に行った明智憲三郎氏の講演会。

 本能寺の変に関する新説でした。書籍(以下「本書」)自体は1年前に刊行されています。
「えっそうなの!?。なるほど、よくよく考えると確かにそうだ。」と思いました。確かにつじつまが合います。
個人的に(調べたわけではないが)講演会の内容をふまえて考察です。

①信長の唐入り計画
 宣教師たちには、世界征服のために渡ってきた人々も含まれる。
 身の回りにそのような人がいれば、権力者は自然と考えるはず。当時としては昔の元寇の逆の発想+コンキスタドーレス達の近い先例。どうやって現在の南米を制服したか、スペイン王国の副王制度など植民地行政についても当然聞いていたはず。なんたって、フィリピンの命名の由来そのものが当時の国王フェリペ二世。フィリピンは行政上、Nueva espana副王領。(スペイン語のフォントがでない。)その主都は、Ciuda de Mexico(メヒコ)。英語で言えばメキシコシティ。イスパニア人とは何とすごいことをやっているのかと思ったでしょう。フェリペ二世はポルトガル王も兼ねる。エスパーニャ=アブスブルゴ家の最盛期。つい20数年前まで統治していたその父カール五世(カルロス キント)の帝国治世や戦争について聞いていたはず。東でオスマントルコと戦い、海を渡って北アフリカではアルジェを攻撃し、まさに戦につぐ戦の生涯・・・・。

②家康の行動と直後の信奪取。
 来年の大河ドラマは真田幸村。小学生の頃に学研の歴史マンガで「真田幸村」を読んだことがあります。その中で意外だったのが、「関が原の15年前?に家康と上田で戦ったことがある」との回想シーンでした。なぜ、本能寺の変後に、信長と同盟だった家康が、武田の旧臣の真田氏を攻めるのか?。当時は、よく分かりませんでした。
 が、今回この説を聞くと辻褄があってきます。「な~るほど。そうだったのか。」と。小学生のときに感じた謎がようやく解けたような気がしました。(笑)
 この2年前、信長の命令?で嫡男を死なせています。しかもその死後、正室である信長の娘は、織田家に戻っているわけで。嫡男を失うことは現代人は理解できないくらいに悲劇です。別の子、のちの秀忠はまだ小さいですし。信長には相当な恨みがあったはず。というのは別の書籍やテレビでも取り上げされていますね。
 本書ではあまり触れていませんが、家康にも動機はあるわけで。
 昔読んだNHKの歴史番組本では、晩年を(今川の人質時代にも住んだ)駿府で送ったのは、「嫌な思い出があれば晩年に住まない。」と解説していました。
 駿府は(今川一族の)正室築山殿と祝言し、嫡男信康が生まれた思い出の地。駿府の地形は、西国、東国をにらむ天然の要害といえばそうだが、やはり信長同盟の犠牲となった正室と嫡男の菩提をとむらうという気持ちもあったのではないでしょうか。

③小牧、長久手
 先の彦根からの帰り、名神高速で帰りました。今年の春にも通りました。小牧から名古屋へ走ると遠くに小高い山が見え、ちょこんと建物が建っているのが見えます。復元された「小牧城」?です。おそらく、昔天守閣があり大名が統治していた城で・は・な・い・ですから、昔の戦(いくさ)にちなんだ観光用の復原天守でしょう。で、否応なしに、名神を走ると(もちろん車で。)「小牧、長久手の戦い」について思い出さされます。(笑)。
 なぜ、かつての同盟者の敵を討った秀吉と戦までするのか。通説は有名なので省きますが、これにプラスして確かに新説は辻褄が合ってきます。「そりゃ、仲よくできないよな。戦までするはずだよ。」と。(笑)。「信雄を推して、天下を狙って秀吉と戦った。信雄が秀吉と和睦した後後もしばらく臣従しなかった。」だけでは説明がつかないです。

 人によって異論反論ありますので、素人の私がここで推論するのは自由です。(笑)まっ、批評する人もほとんどの人は自分で研究したわけでも、ましてや論文を書いたわけでもありませんけどね。
 「ほんまでっか?。ウソでっせ!!。」の世界です。(笑)

紀伊国屋ホール 新宿南口 (講演会に行く)

 新宿駅南口の紀伊国屋ホール。
 新宿とはいえ、代々木駅から歩いたほうが近いかもしれません。高島屋に渡り廊下で直結しています。
 ここで「本能寺の変に関する新説」の講演会を聞きました。
 紀伊国屋書店ビルの最上階がホールになっています。コンサートにもよく利用されますね。
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 ホール前のスペースは広くはありませんが゛、ホール内部は800人以上は入るのではないかと思います。
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 入場前は、この空中通路に並びました。高島屋に直結しています。
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 高島屋に直結しています。西新宿方面。「空中回廊」ですね。
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 新宿駅のホームの南端。ここから代々木駅も近いですが・・・。
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 講演会のあとは、イルミネーションの飾られた通路を通り、新宿駅の新南口から電車に乗りました。
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 ↓行きは、代々木駅から歩きました。5分もかからなかったような。
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「本能寺の変」 講演会 に行きました。 


 (画像はアマゾンのサイトより)

 2014年12月のある日曜日。
 講演会に行きました。
 著者 明智憲三郎氏による講演でした。
 講演会について私自身は知らなかったのですが、ツレが新聞広告の書籍紹介欄で見つけました。「織田信成選手は信長の肖像に似ているので、明智光秀の子孫も似ているのではないか?。行って見てみたい。」とのことでした。決っして今回は私から行こうと言ったものではありません。(笑)
 紀伊国屋書店にツレが電話で予約しました。1人千円です。チケットは当日会場で受け取り、その場で代金支払いだそうです。

 講演会の内容は、本能寺の変に関する新説でした。そのベースとなる書籍は1年前に刊行されています。
「えっそうなの!?。う~ん。・・・・なるほど・・・・、よくよく考えると確かにそうだ。」と思いました。確かに辻褄が合います。
 14時30分から開始なのでのすが、早めに行きました。場所は、新宿南口の紀伊国屋の最上階です。高島屋との間の渡り廊下(回廊)に並びます。同書籍の販売もあるので、入場してすぐに購入しました。書籍購入者の特典「先着100名」の著者サイン整理券もゲットしました。
 聴衆は、300人~400人といったところでしょうか。ホールは全部で800-1000人は入るようです。平均年齢は高いです。とても60歳どころではありません。平均70歳前後でしよう。ほとんどが70歳前後の男性です。
 子どもはウチも含め数名。指定席なので子どもがいるグループの席は固めて座席指定をしていたようです。
 私達のうしろの席は、歴史マニアらしき男女(40~50歳くらい)で、講演の最中もあれこれ熱心に議論しておしゃべりしていました。 

 講演の内容は、明智氏がパワポを使用しながら説明し、主に次のようなものでした。
①歴史捜査
 最初は「歴史捜査」についての説明。
 「歴史調査」という言葉はよく聞きますが、「歴史捜査」は聞くことがまずありません。
 その内容の説明がありました。
 また、「蓋然性」を強調していました。
 「一次資料」「二次資料」の言葉を使用していました。
  「一次資料」とは日記など直接そのときに作成された資料とのことです。
②信長の唐入り計画
 「そんな計画があったの?」しかも「九州から寧波への海路の侵攻計画」勘合貿易などのルート。
②家康の討伐計画。
 著者「私も会社員でしたから上司にメンツをつぶされたり、出世の機会を奪われたこともありましたが、殺そうとは思いませんでした。」(会場、笑。)
 「失敗したら一族滅亡するのに、そこまではしない。」
 そして講演の中盤で結論が述べられました。
 本能寺の変は「元々、信長が家康を討つ計画だった。光秀が裏切り、信長を討った。」と話をしたところで、会場から「へえ~」というような、どよめきがもれました。これが核心ですからね。私も「え~。そうなの!?。」と小声をあげてしまいました。なんと、光秀は信長から元々「家康討ち」を命じられていたとのことです。

④四国征伐
 と今年発見された石谷(いしがい)家文書について。
⑤秀吉の唐入り
 「信長の計画」のちょうど10年後に実行。朝鮮経由であり、信長の計画とは違う。
パワポで信長が本能寺で死なず「唐入り」した場合について説明がありました。「××は、天下統一し、唐入り実行。しかし失敗し、××は死亡。その子の代で一族は滅亡。」と。「××」には「信長」と入っています。
 パワポが操作され、プロジェクターから投影されるスクリーン画面が変わります。
「『秀吉』は、天下統一し、唐入り実行。しかし失敗し、『秀吉』は死亡。その子(管理者註 : つまり秀頼)の代で一族は滅亡。」
(会場、皆納得。)

 質問がでる前に、講演の最後で光秀=天海説は否定されていました。
 
 明智氏は理系出身で情報システム関係の仕事をされていたとのことです。論理的、数学的、工学的に調査されていました。たしかに、この手法は従来の歴史研究者や作家、アマチュア研究家にはできないです。エンジニアならではの視点です。 
 講演は1時間半くらい。その後は質疑応答。
 質疑応答は、面白いものをピックアップすると
年配の女性が「ミーハーですが、織田信成選手と会ったことはありますか?」という質問がありました。(会場、笑。)
答え「会ったことはありません。織田家は大名としては3家ありました。あとひとつ信長廟を守っていた家系があり、その子孫の方とは何回か会ったことがあります。」

 書籍(以下『本書』ともいいます。)はそのとき初めて買ったので、読みきれません。本来は本書をすべて読んでから講演を聞いたほうがよいと思います。
 質問者は先走って質問するのですが、質疑応答でも質問に対して「本の中に書いてありますので読んでください。」という回答が続きました。(笑)

中村屋サロン美術館 開館記念特別展「中村屋サロン-ここで生まれた、ここから生まれた-」 見学

 開館記念特別展「中村屋サロン-ここで生まれた、ここから生まれた-」
 この日は聖ヴァレンタタインデーの夕方でした。
  
  美術館の入口は三階。エレベータを降りると旅行代理店のブライダル旅行サロンがあり、店の入口には「ウエディングドレス」が飾ってあります・・・・。代理店の入口にはドアがないため、お店の中の様子がよく見えます。いわゆる「オープンカウンター」でしょう。数組のカップルで来店して奥のカウンターで話をしています。。
 店頭に飾ってあるウエディングドレスの脇には、黒いパンツスーツを着た女性社員とスーツ姿の男性社員が二、三名立って、来客の出迎えをしています。美術館に行く人はここの目の前を通り過ぎて、同一フロア奥の美術館に行かないといけません。(汗) 
 代理店の社員も心得たもので、エレベータから降りて来る人を一瞥して美術館に行く人は、瞬時に「コイツ違うな」と判別して「いらっしゃいませ。」とあいさつする人、しない人を区別にしているようです。(笑)
 モロチン私は、「あいさつしない人」の一人です。(笑)というよりは、「あいさつすべきでない怪しい風体の人」??。(笑)

 美術館の入口には、扉はありません。エレベータホールから美術館の看板と受付とその奥に展示されている作品が見えます。入りやすい「オープンな美術館」をめざしているのでしょう。
 決して、ウェディング旅行サロンのオープンエントランスに対抗しているわけではありませんね。(笑)
 もう一度ご案内します。「手前がブライダル旅行『サロン』。奥が『サロン』美術館です。(笑)」
 DSC01545↓ 美術館のパンフレット。



























 
 入場料300円を支払い、入ります。小さな机のみの受付です。
 入口近くの壁には、高村光太郎の『自画像』が。有名なブロンズ像『手』の展示もあります。
中村屋ゆかりの作家ごとに展示があり、人物の解説があります。戸張孤雁、柳敬助、中村不折らです。戸張孤雁、柳敬助についてはよく知らなかったのですが、自画像や夫人の肖像画の展示があり、その人物、画業について知ることができました。中村不折は、夏目漱石の伝記でも必ず登場してくる親しい友人ですね。作品には「碌山美術館蔵」のものも多いです。荻原守衛と新宿中村屋の深い繋がりを感じます。

 更に奥へ進む廊下があります。廊下を抜けると、細長い展示室に出ました。新宿中村屋サロン集った芸術家たちの相関図が掲示されています。入って右には、守衛の『女』のブロンズ像の展示がありました。1970年代に鋳造されたものと解説がありました。
 その中で、中村彝が中村屋主人の長女 相馬俊子に求婚したと点線があります。しかし、俊子はインド人のボースと結婚したとあります。
 今回のオープン記念展覧会ポスターにも写真が掲載されていてメイン作品の「少女」のモデルはこの俊子だそうで、これまたびっくりです。実らなかった恋心なのでしょうか?。中村彝もまた、荻原守衛と同じく若くして死去していますが、この時代の若年での死の原因は、当時の国民病『結核』だったのでしょう。病気でなかったら結婚していたのかもしれませんけど。なぜ、結ばれなかたのでしようか・・・。
 『少女』のモデルの俊子は、ふくよかで健康的な体つきであり、どこか『ルノアール』の画に描かれている女性達を連想させます。さらに時代をさかのぼれば、リューペンスのような(というのは大げさかな・・・・。)
 当時、俊子はなんと10代なかばの若さで、今でいうと中二か中三くらいでしょうか・・・・。しかも、俊子は当時ヌードモデルにもなって彝らが裸体画を残しているそうです。相関図によると、俊子も20歳台の若さで亡くなっています。この裸体が俊子の通っていた女学校に知られることろとなり、彝とトラブルになったとか・・・・。結婚できなかった理由はここにもあるとか。まさに「悲恋」です。
 俊子は他の男(インド人ボース)と結婚したものの病気で早くに亡くなり、彝も結核に倒れ・・・・『ああ・・恋とは・・・』。(絶句)

 全然関係ない話ですが、実は私の知っている女性で、この『少女』象に描かれたモデルに似ている人がいます。その人は、まだ20歳台で私より全然年下の会社員です。しかも長野県出身です。(ただし安曇野出身ではない。)もしかしたら、遠縁???かと思いましたが、そんな訳ありませんね。私が想いを寄せてもその人への想いは・・・・・、成就することはありませんね(笑)。ボクも「悲恋」です(笑)。
 その女性はFBをやっているそうです。せめてFBでお友達に・・・と思っても、私はFBをやっていません。仮にFBで私のサイトが炎上したら困りますからね。(笑)

 ふざけた話はさておき、中村彝の『麦わら帽子をかぶった自画像』の展示がありました。今どきの青年風です。別の作家、鶴田吾郎の作品で「盲目のエロシェンコ」がありました。同一人物をモデルにした中村彝の『エロシェンコ氏像』はいうまでもなく、重要文化財に指定されていますね。
 その他は会津八一や中原悌二郎らの作品がありました。 
 限られた展示スペースですが、近代日本美術を代表する芸術家達の作品が凝縮された見応えのある展示でした。

 ↓ 地下街入口にある看板。ポスターと同じく 中村彝(ツネ。漢字が出ないかも)作 「少女」の写真が。
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中村屋サロン美術館 開館記念特別展「中村屋サロン-ここで生まれた、ここから生まれた-」

 2014年10月にオープンした美術館。開館から早くも三か月余り・・・。みなさんもう周知ですね。開館記念特別展も終盤に近づきました。まだ行ったことがなかったので、会期終了の前日になってようやく行ってみました。行こうとすれば、いくらでも機会はあったのですが、ついつい延び延びになってしまいました・・・。
 その美術館は、新宿駅東口からほど近く。新宿中村屋ビルの一角にありました。タイトルは、
「中村屋サロン-ここで生まれた、ここから生まれた-」
 この日は聖ヴァレンタタインデーの夕方。新宿は賑わっています。
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 きっかけは、2013年夏に訪れた「安曇野」でした。本当は「碌山美術館」に行きたかったのですが、時間の関係で行くことができなかったです。なぜならば、「そば集落」で予想外に時間がかかったから、、、、です。(笑)
 「飯沼飛行士記念館」を見学しましたが、そのあとの宿のチェックインの時間を考えて、安曇野をあとにしたのでした・・・。安曇野の美しい風土にはぐくまれた人々が芸術を作り上げていった・・・。
 安曇野を再度訪問し、「碌山美術館」に今度こそ行きたいな、と思っていましたが、そのとき以来、安曇野に行く機会がありません。昨年(2014)の夏にも行きたかったのですが、結局行けませんでした・・・。テレビでも同美術館と「守衛」の代表作「女」のことを放映した番組を見ました。

 2013年 このとき、事前に調べたところ「新宿中村屋」と近代日本におけるもっとも重要な彫刻家「荻原守衛」の関係を知ることができました。実はこのときまで、私は守衛が「碌山」と号していることを知らなかったのです・・・・。
 「碌山美術館」も安曇野に数あるミニ美術館のひとつ、としか認識していませんでした。
 作品が現在、重要文化財に指定されている作家の集う場所が、東京のとあるお店にかつてあった・・・。いわば、芸術家達の梁山泊。
 そのお店が時代を経て、このたび自社ビルに美術館をオープンしたとは、まさに「すごい!」の感に尽きます。


 碌山は志半ばにて病に倒れ、同郷の後輩、飯沼飛行士は南方に地に散り、ともに若くしてその生涯を閉じました。
 碌山や飯沼飛行士をはじめ、数々の芸術家や偉人達をはぐくんだ安曇野。
 ↓ 安曇野の野と北アルプスの峰々。2013年夏撮影。
  (駐車場の路面ばかり強調された写真になってしまいましたが、実際の風景はもっと雄大で感動的です。)
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 美術館の入口は三階。エレベータで上がります。地下道ともつながっているので、地下鉄の駅も近くです。
 館というより「展示室」といったほうがよいかもしれない施設です。入口にドアはなく、小さい受付の机とレジがあるのみ。同フロアは「近畿日本」の旅行代理店ですが、通常の旅行カウンターではなく、どうやらブライダル旅行サロンのようです。店頭には「ウエディングドレス」が飾ってあります・・・・。私はここのフロアには場違いではないかと萎縮してしまいました。道理でカップルがエレベータに乗り降りしているわけです・・・・。

清水寺 秋の夜間特別拝観 (22時で終了後、帰途)

2014.11.23 
  
 清水寺 秋の夜間特別拝観です。
 
 夜も10時で拝観終了となりました。入場してくる人が打ち切りになると、やや境内内の人は減りましたが、まだまだ大混雑です。閉堂時刻までこのような状況とは思いもよりませんでした。完全に京都をナメてしました。謝罪します。(笑)

清水の舞台の下を通り、出口へ。途中の木々も紅葉ライトアツプです。

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 入口近くまで戻ってきました。

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 夜間拝観終了後、行きに上ってきた(並んだ)茶碗坂は閉鎖して人がはいれないようにしていました。警備員が立って通らないようにしています。
 そのため、いつもの清水坂?を下ります。昼間と同じくらい混んでいます。この時間は下る人の波です。

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 国道一号線のガード下まで降りてきました。ここから、国立博物館近くのコインパークに歩いて戻ります。
人の流れは、鴨川方向へ下っていきます。五条の駅へ行くのでしょうか。この付近の車の交通量も多いです。
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 帰りは、途中で食事をしました。夕食というより、夜食の時間帯です。行列に並んでいる途中、「焼き八つ橋」を数枚食べたというより、かじったのみだったのでおなかがすきました。京都東インターに至る途中は、いくぶん
清水焼団地の手前で混雑、渋滞していました。一号線沿い、「近江ちゃんぽん」の店に入ろうとしましたが、うっかり通過してしまいました。改めて滋賀、京都にきて「近江ちゃんぽん」のお店が多いので気になったからです。(笑)。 結局、途中にあった近くの王将にしました。関東では駅近くの立地が多いですが、関西ではファミレスタイプのロードサイドの店もあるのですね。

















































































































  

清水寺 秋の夜間特別拝観 ライトアップ (清水の舞台下、音羽の滝 付近)

2014.11.23 
  
 清水寺 秋の夜間特別拝観。

 写真は、ライトアップされる清水の舞台下から。本堂の上にレーザービームが光っています。

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  「音羽の滝」。行列です。子供が並びましたが、10分-15分くらい並んで順番が回ってきました。
  おなじみ、ひしゃくの「紫外線殺菌」ですね。
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 夜もしたたる「音羽の滝」。ここで滝の水を飲むことによるご利益(りやく)は、え~っと「長寿、延命」ですね。
「並ぶことに」気を取られて、ご利益を忘れてしまいます。(笑)

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 「音羽の滝」の落ちる池と(清水の舞台)の上から石段を下りてきた人の群れ。
 閉堂時刻になったので、帰る人のみになり、だんだん人が引いてきました。それでも、まだまだ大混雑です。

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 (もう一度)石段を下りてきた人の群れを・・・・。

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 下からの眺めも圧巻です。堂々たる清水の舞台の木組みをごらんください。
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 舞台の上で、フラッシュが光ました。
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 ブレてしまいましたが、下から見上げる紅葉と舞台。

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 下から見上げる紅葉と舞台。おっ、レーザービームが消えました。夜10時を過ぎたようです。

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清水寺 秋の夜間特別拝観 本堂、清水の舞台 ライトアップ

2014.11.23 
  
 清水寺 秋の夜間特別拝観です。
 奥の院も大混雑。工事中で特に通路が狭いで、写真撮影をしようにも人に押されてブレブレですが、清水の舞台の眺望です。
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 目を転じて、京都市内方向。京都タワーが、小さくまるでロウソクのように見えます。
 写真右、レーザービームが途切れていますね。

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 もう一度、清水の舞台を。この角度がベストです。燃えるような紅葉に浮かび上がる、幽玄の古寺です。
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 京都タワー方向と清水の舞台下の燃えるような真っ赤に紅葉の画像をお楽しみください。(笑)

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 清水の舞台のアップ。ギュウギュウです。舞台には何人くらい載っているのでしょうか。先ほどは、千人はいるかと思いましたが、改めて見ると舞台の上にいることができるのは数百人程度でしょうか!?。
 
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 さらにアップ。押されて落ちないように十分な注意が必要です。
 「群衆事故」もあり得ますからね。

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 奥の院を過ぎて、例の巡回路を下ります。遠くから見た清水の舞台。

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 奥の院を過ぎた順路の途中から。工事中の五重塔が・・・。

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 奥の院へ進む通路は、奥の院が工事中ということもあり、なかなか進みませんでした。
  本堂横から、奥の院に至る道の途中、石の柵から身を乗り出すどころか、柵の外に出てしまってふざけている男子学生とおぼしき集団がいました。誰も注意しません。柵の外に出ているのは、一人だけですが、すこしでもバランスを崩すと、清水の舞台下に下りる石段や斜面の崖方向に真っ逆さまです。関西の学生のノリでしょうか。別のテーマパークでもありましたね。悪ふざけ学生集団が・・・・。そんなノリです。
 別に関西の学生すべてがこんなノリってわけではないです。どこでも、ワルノリ集団はいますからね。ただ、万が一でも他人を事故に巻き込まないように配慮が必要です。


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清水寺 秋の夜間特別拝観 ライトアップ (本堂 清水の舞台、奥の院)

2014.11.23 
  
 清水寺 秋の夜間特別拝観です。
 大混雑でおちついて、撮影する余裕がありません。ブレブレです。(笑)
 この写真は一体何でしょう??。 清水の舞台からの眺望を写したハズです。

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 せめて、清水の舞台の最前列に出ようとしますが、人を押しのけて進まないといけません。勢いついて、欄干から落っこちてしまう可能性だってあります。子供だったら、人垣の中で押し上げられて、放り投げられてしまうかもしれません。「そんなことあるもんか」と思うでしょうが、そんなことを考えてしまうくらい、混雑していて、皆々ハイテンションです。 
 清水の舞台では、交通整理する人も警備員もいません。よく舞台から転落する人がいませんね。これじゃ、いつ事故が起きても不思議ではありません。テキトーにドンドコ客は入れておけばエエわ、事故が起きたら考える、そのときはそのとき、今まで何十年も、何万人来ても事故はない。事故があってもほとぼり冷めたころにもとに戻す(リスクは考えず、先延ばし、先例主義、楽観主義)、これぞ京都、ニッポンって感じです。 
 清水の舞台の最前列に出ました。万が一、木の欄干が壊れたら真っ逆さまです。(笑)
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 清水の舞台の最前列から、下を撮影。「音羽の滝」のほう??。もうどこを撮影したか分かったモンじゃありません。(笑)

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本堂の屋根の下。(ブレブレ)

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 本堂の屋根の下。

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 清水の舞台を通過して、先に進む順路の途中から振り返る。

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 本堂の屋根の下か。
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 本堂の「ひさし」の下か。写真奥にかすかに写っているのが、工事中の奥の院の通路。
 奥の院方向も大混雑。


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 お守り売り場。大混雑。写真はブレブレ(笑)。

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 ↓ 本堂横、写真左が奥の院のテラス。写真右の燈籠が本堂脇。

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   地主神社は閉まっていました。最近「恋愛成就」の神様ということで特に人気ですね。
  ↓ 本堂横、地主神社付近、清水の舞台下に下りる石段。(ブレブレ)

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 ↓ 本堂横、地主神社付近、清水の舞台下に下りる石段。と石段両脇斜面の紅葉。

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 ↓ 清水の舞台下に下りる石段。奥の院への行列が進まないため、ここで見学をやめて帰る人は、続々とこの石段を下りて行きます。私達は、奥の院への行列の中にモマれに行きます。
 もみくちゃにされ、「行列に並ぶ」という感じではないです。(笑)
 夜間拝観での名言(迷言)・・・「並ぶより、モマれろ」(笑)。
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 奥の院へ進む通路は、奥の院が工事中ということもあり、なかなか進みません。やっと列が進み、撮影。
 ↓ 本堂横から、奥の院に至る道、清水の舞台下に下りる石段のところ。

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 「夜の特別拝観」のポスター。参道の途中のお店に貼ってありました。
 想像以上の大混雑です!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!。
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清水寺 2014年秋 夜の特別拝観 (成就院~本堂、清水の舞台ライトアップへ)

2014.11.23 
  
 清水寺 秋の夜間特別拝観です。
 写真は、ライトアップされる清水寺の門。レーザービームが光っています・・・・、と思いきや、消えています。
 人もいない。実は帰る際、閉門後に撮影したものです。入場するときは、大混雑で撮影する余裕がありませんでした。(笑)
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 「夜の特別拝観」のポスター。参道の途中のお店に貼ってありました。

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 結局、清水寺 夜間特別拝観の入場券待ちの行列には、40分近く並びました。ほぼ案内の時間の通りでした。
 先に、入場受付時刻直前の成就院の拝観に行きました。成就院に入場したのは、8時30分過ぎ。見終わったのは、9時過ぎでした。
 写真は、成就院前の池のもみじ。幽玄にライトアップされています。
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 もみじの奥には、成就院の本堂の横に続くと思われる庫裡とおぼしき建物が。モミジがライトアップされて撮影ポイントになっています。

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 特に「池に写る紅葉の姿」が見ものです。それでは、秋たけなわを迎えた成就院前の池「映りもみじ」をお楽しみ下さい。
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 さて、成就院を先に見学し、池に映る紅葉を撮影したので、坂を登り、本堂への人の波に再び合流します。人の流れに身を任せ、本堂へ向かいます。まさに「川の流れのように」本堂へ向かって人がドーっと流れていきます。

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人人人、
 やっと清水の舞台に出た・・・・・としてもすごい人。人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人。言葉で表すことができないくらいの混雑です。(笑)
 舞台のそでから辛うじて写した紅葉。写真右が本堂に附属する建物の屋根??。
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 入口に近い方の舞台の端っこから。カメラの設定が、夜間撮影モードのためブレてしまいました。

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 舞台の奥から、カメラのみ高い位置の構えて、紅葉のモミジのみを撮影。もう必死です。(笑)

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 清水の舞台の正面近く。上の段から。清水の舞台は、本堂から一段低くなっているため、前に行かなくてもある程度眺望はききます。ただし、子供は景色が見えませんね。
 舞台の欄干というか、一番前には人の群れで危なくて近づく気になれません。

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 清水の舞台の眺めが良い対岸を撮る。いわゆる「奥の院」ですね。
 最初「奥の院へは・・・」とアナウンスがあったときは、「奥の院ってどこ??。向こうに見える三重塔のこと??。」と思っていました。(笑)

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清水寺成就院 月の庭 夜間特別拝観

2014.11.23 
 
 清水寺の夜間(ライトアップ)特別拝観です。一連の清水寺の記事の写真ではあまり写っていませんが、レーザービームが強烈に光っています。
 清水寺の門を入ってまず、目指すは「成就院」の特別拝観です。普段は非公開で、毎年春と秋のこの時期に夜間特別拝観や昼間の特別拝観を行っているようです。この冬2015年「京都冬の旅」でも公開があるようです。
 寺の境内をものすごい人の後流れに沿って進むと、案内の声が聞こえてきました「じょうじゅいん 月の庭の夜間特別拝観は9時までで~す。そろそろ拝観受付終了の時刻で~す・・・・・。」と。声のする方に足を向けます。怒涛の如くの人の流から外れることができました。(笑)
 案内に従って、成就院に歩きます。意外や意外、成就院は清水寺の本堂の更に上の敷地と思っていましたが、清水寺に入場して、進行方向左にやや下り坂を下ります。窪地のような所に池があり、その先に 成就院への階段がありました。
 写真は、その階段。ぼんぼりにうっすらとライトアップされる成就院の入口付近。

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  院の前でも「夜間特別拝観は9時までで~す。そろそろ拝観受付終了の時刻で~す。」と係の人が声を張り上げています。本堂方面への流れからそれて、ここ成就院に来る人の流れは圧倒的に少ないです。それでも院に入堂する人の流は絶えません。次々にやってきます。とすると、一体 清水寺本堂へは今何人向かっているでしょう。数百ではなく、数千人??。
 入場は一人600円。拝観券を渡されます。受付の机の横には、案内のチラシがありますが、渡してくれません。自分で取ります。気付かないと「ん??、ここは説明のバンフなどは無いのかな??」となってしまいます。
 ただし、月の庭の簡単な説明が書いてあるピラ一枚の紙で、パンフレットと呼べるものではありません。
 入口付近に机を置いて女の子数名が案内や券やお金の受け渡しをしています。おそらく学生のアルバイトでしょう。
 
 成就院の入口外観。拝観を終えた後に撮影。
 すでにこの日の入場は締切の後だったので、入場者は写っていませんね。

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 入場して、月の庭が見える畳の広間に案内されます。写真撮影は禁止。
 ここからお庭を眺めるのですが、人数が集まるごとに説明するので、前の組が説明を受けている間は庭から見て奥の部屋で待ちます。100人以上はいると思いますが、庭が見える広間一杯に人が集まると次の組の説明が始まります。広間に人は入りきれず、縁側まで立ってみます。
 ただし、端だとよく見えない場所があるので、説明を聞くときは、真ん中に陣取るのがよいですね。前の方の列の人は座って説明を聞くように言われます。
 「ペンライト」を使って説明してくれます。「これこれは、こうです。」と。説明の詳細は・・・、覚えていません。(笑)
 ちょうど月に照らされるような形で池や築山、植え込み、燈籠などが配置されているような。この日、月がでていたか・・・、出ていなかったと思います・・・。というか、「月の庭」に来たのに、そこまで考えていませんでした。(笑)
 ただ、「池の向こうに川が流れていて、橋がかかっている?」ような説明が印象に残りました。清水の山(このような名前の山かは知りませんが)から川が流れていて、そのほとりの斜面の平地に成就院が営まれたのでしょう。
 入口付近の池のほとり。もみじが紅葉しています。
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