良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2015年05月

 

永青文庫 「細川家起請文の世界」 副題「神の使い八咫烏に誓う」 見学記(最終)

  2015年4月中旬のこと。

 永青文庫の企画展示 「細川家起請文の世界」、副題「神の使い八咫烏に誓う」の見学記も今回の投降で最終です。
 忠興(三齋)没後の起請文、書状に展示が続きます。主なものを挙げていくと・・・・。
 
・忠興没後、その家老が書いた文書。ただし、起請文ではない。
 「二君には仕えません。お暇をいただきたい」という進退伺いです。熊本の家臣にとっては、忠興の威光を着る憎い奴のように映ったかかは分かりませんが、家中で絶大な権力のあったご隠居様の没後、サッと身を引くところは八代の家老も「わかっていた」というところでしょうか。
 説明によると(暇を請わなかった)八代の家臣20-30名は熊本に移されたとありました。

・忠興没後 八代城に入った松井氏に対する起請文
 宛先は(今後の)監視対象の松井寄之も含くめて複数名が入っています・・・。熊本の重臣達宛てなのでしょう。
 忠興没の10か月後、八代城には家老松井氏が入った。つまり、病気にもなった忠興の子で松井氏の養子となった松井寄之のことです。
 松井氏が不正をしないか、監視し、何かあれば報告しますというもの。連判で起請文を差出ししています。60人くらいが血判を押し圧巻です。

 忠利の死後、ご隠居の忠興が没し、その四年後には忠興の孫にあたる光尚も若くして死亡しています。残されたのは幼君。これは一大事です。お家や断絶やお家騒動によくもならなかったものです。

↓ 永青文庫の今回の展示リスト。なぜか写真がヨコになっている・・・。
  二階の常設展では九谷焼の展示がありました。(別館の展示は別料金)
  「北陸新幹線」開通記念とのことです。
  九谷焼は石川県。
  加賀前田氏の参勤交代のルートと北陸新幹線のルートが一致していると、常設展での説明にありました。

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 二階の常設展では私のあとからやってきた背広姿の50歳台くらいのおじさんが熱心に見ていました。たぶん近くの大学の教員のような感じです。
 前回訪問時にも展示があった白樺派の作家と護立侯爵の写真がありました。護立侯は志賀や武者小路達を支援して交流があったが、学習院同級生というわけでは無かったようです。前回訪問時では同級生だったと誤解してしまいました・・・・・。
 護立侯と白洲正子との写真もありました。この写真のことは前回も掲示がありましたが、前回訪問時の記事では言及を忘れていました。ともに壮年以上の様子なので、戦後昭和30年代か40年頃の撮影と思います。年齢としては親子くらいの差があり、むしろ近衛文麿の娘の夫であった子の護貞氏のほうが年が近かったと思います。先年放映されたテレビドラマでも白洲次郎は牛場兄弟長兄ともに近衛側近として登場していましたね。

 前回の「信長の手紙」展よりも今回の「起請文」展の方が、実は見応えがあったも知れません。「信長の手紙」は直筆のものが一点だけで、あとは祐筆が書いて天下布武のハンを押したもの。歴史的には貴重ですが機械的、事務的な感がありました。反対に今回の展示は生身の人間の心や生の人間関係がダイレクトに伝わってきました。

 永青文庫のパンフレットにもありましたが、今回の春季展示「細川家起請文の世界」が6月下旬で終了した後、建物修理のため休館するとありました。再開は9月。再開後最初の企画が先に発表のあった「春画展」。今後大きな話題を呼びそうです。


永青文庫 「細川家起請文の世界」 見学記3

  2015年4月中旬のこと。

 永青文庫の企画展示 「細川家起請文の世界」、副題「神の使い八咫烏に誓う」です。
 
 続いて展示を見ていきます。
 「罰文」、パチモンは、用紙が決まっています。あらかじめ、印刷しておき、起請文の本文と貼り付けして罰文用紙には血判を押します。この用紙は「熊野牛王宝印」といいます。展示室一番奥のガラスケースに展示がありました。まとっまって印刷しておいた物が必要なくなり、明治時代になってからも保管されて現在に至っているのでしょう。説明によると13枚現存しているとあります。もしかしたら、明治初期には前時代の遺産というか、不要になったモノとしてもっと残っていたのかも知れませんが。
 「熊野牛王宝印」の模様に「カラス」がたくさん書いてあります。カラスが何羽も積み重なって、棒のようになった絵です。ちょうど「山」の文字のようにカラスが積み重なっています。起請文はカラスの図柄の裏に描くので、よく見えませんでしたが、説明を読んで改めて見るとたしかに「カラス」です。しかも描き方は「デカい目ん玉」がひとつあるカラスです。ちょっとグロイ感じです(笑)。
 「山」の文字のようにカラスが積み重なった模様の真ん中には縦書きで「天下第一」とあり、その下に「日本」と文字が入っています。「神の使い八咫烏に誓う」とはこのことだったのです。
 起請文の用紙「熊野牛王宝印」の意味がようやく分かりました(笑)。

 永青文庫作成の本展覧会のバンフレットの拡大。主な起請文が紹介されています。
  「熊野牛王宝印」の用紙を貼り継ぎしています。用紙の大きさも違います。
  ↓ なぜか写真が横倒しに・・・・・。
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 印象に残った展示内容としては、

・出入りの商人が書いた起請文
  薩摩など他の領地に行っても熊本領のことは洩らしませんというもの。罰文の貼り付けがありません。商人など武家以外は罰文を貼り付けしなくてもよかったことが分かります。罰文とは武士の特権だったのかも知れません。
・家臣数名が家老松井興長に対して出した起請文
 当主忠利が急死した後に出したもの。忠利は父、忠興よりも先に亡くなっています。先の記事に書いたように「忠興からの毒殺を恐れていた」ことと何か関係があるのでしょうか。
 誓う内容は、「八代の忠興ではなく」新しい当主光尚に忠誠を誓うものでした。敢えて「忠興ではなく・・・」というのが複雑?、深刻?な家中の状況を示しているのかも知れません。
 忠利にしてみれば、せっかく自分の代で小倉から熊本 肥後一国へ表高で10万石以上の破格の加増の上、転封になったのに・・・という思いがあったかは分かりません。すべて祖父、父の功労によるものといわれればそれまででしょうか・・・・・。キョーレツな父の影響下に置かれた生涯でした。「もっと自由に差配したかった・・・・・。父の下に始まり、父の下に終わる。ボクの人生一体何だったの?。」と死の直前に思ったかは、知る由はありません。
 忠興は当時としては異例の長寿の80何歳まで存命。その子達にとっては、キョーレツな性格と相まって大変だったのでしないでしょうか。

・忠利の存命中、父忠興から忠利への書状。
 これは起請文ではありません。忠利の家臣を非難するもの。「・・・何某の借米の利子が〇〇両になっている。トンデモない、やめさせろ・・・・・。」
 非難された家臣がその十年後に書いた起請文もありました。忠利が亡くなった後、忠興には奉公しませんという内容のようです。かつては非難されたが家中では生き残っていたのですね。組織の中でのポジション確保、というか地位キープも必死です。勘気を蒙れば死もあり得たのでしょうか・・・・。
 
・光尚の医師の起請文。
 父、忠利が死亡し襲封した後に差出しされたもの。「江戸や他家に殿様の診察内容などを漏らしません・・・」というもの。医師は他家でも働いていたのですね。
 現代 医局の医師が複数の病院で勤務したり、当直に入ったりしているのと似ていますね。ただ、医局の状況も現在ではかなり変わっていると思いますが。

・家老松井寄之の起請文と医師の様子覚書
 これは極め付けの展示です。一番面白いというか、現代にもつながる内容です。
  八代の忠興と忠利没後、熊本の光尚との間で板挟みになった家老松井寄之の書。病気で出仕できませんといった内容。寄之は忠興の子で、忠利の異母弟。松井氏の養子に入った。実父と実兄、甥、養家の家老の職務で悩んでいたようです。
 病状は「めまい、動悸、多汗・・・」など。うつ病、自立神経失調症のような症状です。
 医師の覚書(つまり診断書)にも同じ症状のことがあると書いています。
 「心の病」は現代社会に大きな問題となっています。が、昔からあったのですね。

 忠利が父に先だって没したのも、実は精神的負荷によるものも多分にあったのではないのでしょうか。毒殺をおそれるくらいなので、かなり精神的に病んでいたような。
 長兄廃嫡、次兄切腹、三男の自分が跡目を継いだものの・・・・といったところでしょうか!?。
 松井寄之は「長岡」姓を授けられていることがわかります。細川を名乗るのは当主と嫡子に限り、他は長岡姓。松井氏が家臣ながら「長岡」姓であるのは、一門として遇したとことの表れなのでしょう。

 ↓ 同じく永青文庫作成の本展覧会のバンフレットの拡大。
   細川氏と松井氏の系図の掲載があります。この養子、婚姻関係が重要なのですね。
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永青文庫 春季展示「細川家起請文の世界」 見学記続き

  2015年4月中旬のこと。

 永青文庫の春季の(企画)展示 「細川家起請文の世界」、副題「神の使い八咫烏に誓う」の見学記続きです。

 「三階」の展示室を見ていきます。
 「起請文の世界」というテーマですが、(江戸時代を通しての起請文の展示ではなく)主に江戸時代前期のものが展示されています。特に、熊本に転封された後、当時の当主忠利とすでに隠居していた父、三齋(忠興)との関係に起因する起請文の展示が中心でした。展示室内の解説パネルには「・・・・八代に入った三齋と熊本の忠利とは緊張関係が続いていた・・・・。」とあります。(本展示会のパンフレットにも同様の記載がありました。)
 なぜ緊張関係にあったか詳しく説明はありませんでしたが、原因は三齋(以下、忠興と書きます。「三齋」は漢字の変換が・・・・。)の激烈な性格にあったようです。
 実の父と緊張関係にあるとは尋常ではありません。封建時代の親子の関係とはこのような他人行儀のものなのだったのでしょうか・・・・。現代感覚では到底理解できません。ただし、これに付き合わされる?、振り回される?、当時の家臣はたまったものではありませんね(笑)。「宮仕え」はホントに大変です(涙)。

 ガラスケース内の最初の展示品の所で起請文の解説がありました。最初の展示は、家老の松井興長が忠利に忠誠を誓う起請文です。宛先は当主の忠利ではなく、忠利の側近。「側用人」といったポジションでしょうか。直接主君に出すのは家臣として恐れ多いということでしょうか?。
 松井興長は信長時代から秀吉時代にかけての家老松井康之の子ですね。以前聞いた「本能寺の変の新説」講演会で言及されていた「細川家の家老」とは、松井康之のことですね。
 起請文に書いてある本文は「罰文」、バチモンというそうです。破るとバチが当たるから「バチモン」ですね(笑)。
 二番目の展示品は、その松井興長に対して別の家臣が差出した起請文。解説によると内容は、「八代の三齋と通じていることはなく、熊本の忠利に忠誠を尽くします・・・・・」というもの。これも尋常ではありません。通常は「ご隠居様は敬いつつ、主君忠利様に忠義を尽くします・・・・」という内容を差し出すと思いますが、全く異なり穏やかな内容ではありません。明らかに八代の三齋を警戒しています。
 起請文の展示は数十ありましたが、「罰文」の解説は最初の展示のみで、他の展示は「罰文省略」となっていました。
  起請文の用紙は先の「信長の展示」で見た、本能寺の変後に光秀に勝利した秀吉から細川家に宛てた起請文と同じような模様です。書いてある内容も同じような・・・。いまでいう「フォーマット」があったのでしょう。
 起請文の書き出しは
 「天罰起請文前書之事」とタイトルのように書き、続いて本文として
 「梵天 帝釈天・・・」と書いてある文字を読むことができます。先に見た「秀吉の細川家宛て起請文」と同じ文章と思います。神仏に誓うといった書き出しなのでしょう。(「天罰」は「天爵」のようにも見えます。)
 続いて「四大王天 三嶋大明神 伊豆箱根両所権現 熊野三社権現 賀茂上下大明神 稲荷祇園 愛宕権現・・・」とありました。続いて各地の神様仏様の名が列挙してあります。諏訪や秋葉、阿蘇もあったような・・・・・・。忘れましたが・・・。「神宮」、つまり伊勢神宮はなかったような・・・、だとすると帝(みかど)の祖先を祀るので恐れ多いと書いていなかったのでしょうか。
 書いてある寺社の順番や「大明神」「権現」の区別は間違って記憶しているかも知れません。とにかく神仏をたくさん列挙して「誓います」という内容でした。
 起請文の書き出しも
 「謹白言上  天罰起請文前書之事」や「起請文前書之事」のように微妙に違います。

 現在ではこれらの寺社は皆、観光名所で世界遺産に指定されている所もありますね(笑)。「稲荷」は「伏見稲荷」のことで世界遺産に指定されてはいませんが、外国人に人気の観光スポットです(笑)。
 本文の冒頭に挙げているということは「梵天 帝釈天」は当時一番ご加護のあった神仏だったのかもしれません。柴又の帝釈天が現在でも有名なのもうなづけます。映画の影響かも知れませんが(笑)。
 意外の点が三嶋神社や箱根神社、伊豆神社の名がかなり上に書いてあることでした。東国の神様にも誓いますという意味があったのだと思います。当時から大きな神社で武士の信仰を集めていたのでしょうか。熊野は「三社」と賀茂神社は「上下」とまとめて書いています。熊野「三社」とはすなわち、現在は新宮市街地近く熊野川のそばの「速玉」、かつては川の中州にあり明治時代以降は山の中腹に遷った「本宮」、一般に熊野神社といえばここ「那智」の三大社ですね。
 「八咫烏」といえば「熊野」です。起請文は「八咫烏」に誓うものであるとのサブタイトルなので「梵天」よりも「熊野三社」が上に来ると思いきや、違います。

 続いて展示を見ていきます。
 
↓ 永青文庫の門  
  春雨に霞んでいます。
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 ↓ 永青文庫の入口。平日とあって入館者は少ない。
   この二か月のうちに緑が深くなりました。
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 ↓ 永青文庫の建物の脇に祠がありました。
   祠の奥の建物一階が本館で事務室、二階が常設展示になっています。

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永青文庫 春季展示「細川家起請文の世界」 見学

  2015年4月中旬のこと。

 永青文庫の企画展示 「細川家起請文の世界」にやってきました。副題は「神の使い八咫烏に誓う」です。

 前回は「信長の手紙」。混雑していました。今回は、平日の日中とあってか見学者は少ないです。門を入ります。胸突坂には幼稚園入学前と思われる子連れの女性が歩いていたり、のどかな春霞の一日です。
 永青文庫の門を入ります。ここには来館者が利用できる駐車場は無いのですが、敷地内には高級外車が一台停まっています。それなりの地位にある役員や職員かの車でしょう。
 入場券を買い、「四階」の展示室に階段を登ります。券売り場にはメガネをかけたまじめそうな若い女性が。その女性はやはり「四階」の展示室の展示室から見てください」と言われました。ここの決まり文句なのですね(笑)。よって、「四階」への階段の途中、踊り場のような所にある「三階」の展示室は一旦通過します。
 このとき三階の企画展示室には老夫婦が見学に来ているくらいで、他には入館者はいませんでした。しかし、見学しているうちに数名はやってきて、全く人がいないということはありませんでした。
 
 四階」の常設展示室から見ます。さすがに常設展示室は私以外に見学者は無く一人占めでした。展示内容も前回訪問時と比べて変わっています。重要文化財の中国の石像はそのまま展示されていました。長持ちもそのままでした。屏風絵は狩野探信の「桜花牧場図」。探幽の子の作品で、古代中国で戦が無くなり崋山に不要になった馬を放った故事にちなんだ絵、と説明がありました。桜はやはり山桜のようで花とともに緑茶色の葉がでています。桜の季節なので桜の描いてある屏風絵を展示しているのですが、現在桜は散っています。説明によると信長の城に永徳の「牧駒図」があったのでそれに倣ったということです。かつて信長の城で永徳筆の実物を見た忠興が後年になって、永徳の子孫に描かせた絵図のようです。忠興が信長を尊敬していたことの表れでしょう。
 三齋、忠利、光尚の細川三代の書状の展示が一通ずつありました。書状にある越中守とは忠利のこと、肥後守とは光尚のことのようです。細川氏は「越中守」として知られています。肥後に移った後、光尚は国持大名として「肥後守」の官位をもらったようです。江戸の町の絵図を見ると「松平薩摩守」や「松平陸奥守」の屋敷などの表示があり、どこの大名?と思ってしまいます。細川氏は松平を授けられていない。あくまで「細川越中守」。松平越中守とは松平定信の家のことですね。「松平肥後守」といえば会津の領主松平氏のことですね。ややこしいです(笑)。


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 展示室内は撮影禁止ですが、館内撮影禁止ではありませんでした。
 ↓ 永青文庫の奥の敷地、現在は和敬塾の施設である旧細川邸。カーテンで見えない・・・・。
  
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 「三階」の展示室は前回「信長の手紙」の企画展示があった部屋です。
 
 「細川家起請文の世界」とタイトルがあるものの、時代は江戸時代を通じての一般的な起請文ではなく主に前期のもの。新聞記事で読んだ内容では毒見役が差出した文書を「・・・・実は毒見役とは毒見をさせることであった・・・」と内容の紹介がありました。この起請文の展示もありました。
 しかし、この起請文が書かれた背景は、新聞記事には記載があったか忘れましたが・・・・。最初私も江戸期を通じて武士の戦(いくさ)や平和な時代の仕事に関する起請文の展示と思い見学に行きましたか。が、「毒見役」の起請文が書かれたのは意外な事情でした。当時の細川家の状況に起因します。
 毒見役が書いた起請文の解説には「・・・・当時 藩主 忠利は(隠居して八代城にあった父三齋の)毒殺を恐れていた・・・・」とあります。殿様が本気で毒殺を恐れていたので、毒見役に差出を求めた起請文だったのです。当時の切迫した状況が伝わってきます。
 現代風にいうと「オレは毒見しないけど、マジ本気で毒見はちゃんとさせます!!。」と誓約書を書いたのです。
 毒見をする役目は料理人とありました。料理を作った人に毒見役が毒見させていたようです。

 毒見役「この料理はそなたが作ったのか?」
 料理人「左様でございます。」
 毒見役「そなんら、食ってみいや。」
 料理人「ハイ!!」・・・食べてみる。食べた料理人に異状なし。
 毒見役「合格!」
 というような感じでしょうか(笑)。

 なぜ、実の父からの毒殺を殿様が恐れないといけないのか・・・。展示を見ていくとその理由が解かってきました。
 現代人の私の視点からいうと、誓約書を書かせたからといってどこまで本気に「仕事」をするかは分かりませんが・・・・・。タダノ紙切れですからね。ただし、当時の人の場合、ミスったら切腹、一族も連座し、お家は断絶でしよう。必死です!!。
 現代の組織だったら、上司「人にさせないで、だったらオマエが直接毒見せい。」と突っ込んでしまうかも知れません。(笑)








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文京区 芭蕉庵、目白台下 神田川付近散策 

 2015年4月中旬のこと。

 桜の花もすっかり散りました。桜の木の枝はすべて緑色に変わりました。
 前回は寒い2月の訪問でした。あれからわずか二か月ですっかり季節は春に移り変わりました。緑の葉がまぶしいというよりも、非常に濃く感じます。
 前回は目白の台地の上からのアプローチでしたが、今回は台地の下、神田川沿いの道から永青文庫を目指します。

 その前に、川沿いに芭蕉庵があるので寄ってみます。川沿いの土塀は芭蕉庵のものです。奥には椿山荘の建物も少し見えます。雨が降っています。春霞の中の散策となりました。

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 芭蕉庵の門は閉じていました。説明文のみ読んで去ることにします。

 
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 芭蕉ゆかりの地といえば、墨田川沿いにも記念館があったと思いますが。山の手の神田川のほとり(関口町)にもあるとは意外です。 藤堂家の屋敷だったようです。家臣であった芭蕉が滞在したのでしょうが、あくまで伝説、伝承??のようです。
 「早稲田の田を琵琶湖に見立てて・・・」とあります。江戸郊外の田園地帯だったのですね。昔は。

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 桜の花びらを探そうにも、すでに散ってありません。

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 芭蕉庵の入口は坂道の脇のようです。本日は休館のようでした。ここ最近は開いていないとか・・・。誤解でしょうか。坂道を登ります。「胸突き坂」です。
 こうして見ると、リーガロイヤルホテルが真正面にありますね。
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 坂道を登ると眺望が開けてきます。坂の途中から。写真右は、新江戸川公園の敷地です。胸突きとはいうものの、坂道は短いです。まだまだ健脚の私にはチョロイもんです!?(震)。・・結構ガタきてますが(笑)。

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 新江戸川公園の森というか、雑木林。公園内を撮影したのですが、うくり撮影できていませんでした。
つつじが早くも咲いています。というより、桜が散るとすぐに躑躅ですね。

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 あと少し坂道は続きます。ここは、坂道の途中の休憩場所のようです。一休みできるように造成されています。


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 坂道の上から。ここは二か月前の二月にも来ました。新江戸川公園は写真右ですが、ここから通り抜けはできません。永青文庫の敷地に直接入る道しか坂の上には出入り口はありません。(開館中に限る)
 さ、永青文庫の門はすぐそこです。


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 ↓ 神田川の上流方向。
   この付近の地図を見ると、写真右奥方向は豊島区です。写真右(川の左岸)は主に文京区。左(川の右岸)は主に新宿区。神田川の右岸でも文京区地域が張り出しをしていて、川を挟んで入り組んでいます。昔とは川の流れが護岸工事などで変わり、文京区と新宿区の区境が複雑になっています。
 上の写真でも リーガロイヤルホテルは新宿区ですが、撮影した坂道側は文京区。では、境目はどこかというと川ではありません。川向こうのどこか・・・です(笑)。

 

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 誰が呼んだか「胸突坂」。神田川沿いから目白の台地へ上る坂道。永青文庫はこの上です。
 上の写真で、左、つまり右岸の地域は場所柄か製本や印刷関係の会社が多いです。ただ、この15年で急速にインターネットが普及してIT時代に突入したので、印刷関係の需要は急速に変化しし、かなり規模は少なくなっているとは思いますが・・・・。工場(こうば)が路地に面していて、フォークリフトが停まっていたりと、ちよっとした軽工業地と住宅地の混合エリアです。帰りは、胸突坂を下り、地下鉄早稲田駅の方へ歩きました。ちょうど昼休みの時間帯だったので、工場(こうば)では作業服姿の人達が休憩していました。
 一見のどかなお昼休みの風景ですが、時代は知らないところで急速に変わっていくのでしょうか。
 
















 

永青文庫 春季展示 見学へ。 「細川家起請文の世界」

 
※ 順番を変えて急遽 「永青文庫」の見学記を先にアップします。
 この記事は5月になってから書いています。先日、永青文庫で「春画展」が開催されると発表がありました。
 会期は今年の9月から12月にかけて。我が国初の開催のようです。警察など関係官庁との調整もあるでしょうし、恐らく永青文庫だから開催できるのでしょう。  


 2015年4月中旬のこと。

 桜の花もすっかり散りました。桜の木の枝はすべて緑色に変わりました。
 神田川沿いの道から永青文庫を目指します。
 今回お目当ての企画展は「細川家起請文の世界」 副題が「神の使い八咫烏に誓う」です。
 前回の訪問は「信長の手紙」。今回の企画展は「信長の手紙」見学時にポスターを入手したのですが、来る予定は無かったです。たまたま新聞記事でこの企画展のことを取り上げていたので訪問してみることにしました。永青文庫では「企画展(示)」や「特別展(示)」という言葉を使用しないようです。タイトルにあるように「〇季展示」と表示しています。便宜上、私が企画展と書いているだけのことです。
  「細川家起請文の世界」の記事は最近マスコミなどで売り出し中の歴史学者が書いていたいたコラムであり新聞記者が書いた記事ではありませんでした。次のような内容でした。
「永青文庫の「細川家起請文の世界」を見た」ことが書いてあり「・・・細川家の毒見役の家臣が書いた起請文があった。・・・・・・実は毒見役は自分が毒見をするのではなく、毒見をさせる役であった。・・・・・」と。
 新聞にも取り上げられているので、「見に行くぞ」と決意したのです(笑)。

 ↓ 永青文庫門前の掲示板。

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 ↓ 神田川。両岸の桜並木は葉桜です。わずかに淡いピンクが残っていますが、桜が満開だった日のことはすべて過去のことになってしまいました。あれは幻だったのか・・・。また来年・・・と思いつつも、つい10日ほど前まで咲き誇っていたピンク色の花が、本当にそこに存在していたのか幻影(イリュージョン)のように感じます。

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 さて、この日は平日。、「再訪するぞ」と決意したのですが、実は仕事の用でこの付近(というか、東西線利用だけかも。笑。)を通ることもあり、私にとって永青文庫訪問は(時間が許す限り)困難ではありません。この日は、昼前に予定よりも早くとある所用が終わり、少しばかり永青文庫を再訪することにしました。

 誰が呼んだか「胸突坂」。神田川沿いから目白の台地へ上る坂道。永青文庫はこの上です。
 写真右は芭蕉庵です。
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 坂の登り口にある「水神社」
 鳥居に「関水」「関口」とあります。この付近の地名は目白台、関口です。から、説明の看板によると神田川と神田上水の関の近くの鎮守様だったようです。この付近は田んぼが広がっていたそうです。川の向こうは早稲田の地名ですからね。文字通り、神田川沿いの低湿地帯は田園で、付近は大名屋敷、旗本御家人や商人などの屋敷、領民の家々が混在している地域だったのでしょうか。現代とは隔世の感があります。

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 神社には、社の前に大きな木が。守り木だったのかも知れません。
 写真左は新江戸川公園。 昔の江戸の絵図を見れば分かると思いますが、この神社は御一新前から都心の入口に鎮座する「水」の神様だったのですね。江戸における水の守り神です。
 神社の参道の前は、貸し駐車場となっています。土地の限られる都心部、キュウキュウです。


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羽田空港 展望デッキ(第一ターミナル) 眺望

 2015年4月 東京都心部に行った帰りに寄りました。

 首都高を、空港中央で下ります。、第二ターミナルの前を通過して、周回道路を通り、首都高(に架かる橋)を渡り、第一ターミナルへ。都心からの場合、第二ターミナルの方が近いです。P1に車を停めます。モチロン四階の「パンダフロアー」にです(笑)。

 ↓ 第一ターミナルの展望デッキから。管制塔方向。(北)
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↓ 第一ターミナルの展望デッキから。当然JALの航空機がここから出発します。
 
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↓ 南方向から滑走路に着陸します。本日は北からの風でしょうか。34レフトです(笑)。
  奥は多摩川、対岸は川崎市ですね。尾翼とエンジン部の塗装が黄緑色の航空会社です。どこのキャリアーでしょうか?。

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 ↓ 第一ターミナルの展望デッキから。
  国際線ターミナル。昼間はあまり離発着がないと思いがちですが、拡張されてかなりの数の航空機が駐機しています。写真中央手前の航空機はJALの国際線でしょうか。写真左はシンガポール航空?。

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↓ 国際線ターミナルをバックに航空機が二機同時に離陸・・・・・ではなく、一機は着陸した後に誘導路を走行し、手前の小さい航空機は、ターミナルビルのゲートに到着しようとしているのでしょうか。

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 ↓ 管制塔。

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↓ 管制塔をアップ。(前にも掲載したかも・・・。) 下の子が撮影しました。
 管制用の機器やモニターの裏側が見えます。中の人までは見えないガラスです。遮光とともに、最高度のテロ対策を施す必要のある施設ですからね。

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 続いて全日空機が着陸。第二ターミナルまでは首都高を渡って、さらに地上走行向かう必要があるため遠いです。

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 ↓ 着陸シーン続き。
   と、国際線ターミナルの新規に延長されたゲートが見えます。総ガラス張りの建物です。

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 この日の離陸は沖合のD滑走路からであり、この展望デッキから遠いです。海の向こう方面に離陸して飛び去って行くのが見えます。
 しばらく展望デッキで眺めてから帰途につきました。

 おしまい。






2015年4月 春の銀座 アンテナシヨップめぐり。

 2015年4月 春の銀座界隈 アンテナシヨップめぐり。

 といっても、鹿児島「遊楽館」、熊本県「銀座熊本館」、沖縄県「わしたシッョプ」しか行っていませんでした。昨年の記事にもアップしてましたが、熊本県のアンテナショップの近く、地下鉄銀座駅の地上出入り口のほど近くに、「長野県のアンテナショップ」もあります。私はツレに「長野県(のアンテナショップ)に寄らなくていいの?。」と聞きましたが、「いい」と一言。バッサリ切り捨てています。こういう人達を相手に商売をしなくてはならないのは面倒です。個人の要望嗜好はそれぞれ違う。いちいち聞いていたら、お店が開けません。嗜好に合わないと「あそこは何も無い。」と一言で片付けられてしまいます。成功するお店づくりもなかなか大変です。   
  
 銀座大通りは歩行者天国でした。曇天ながら春の銀座通り。にぎわっています。
 おなじみ「はとバス」も走っています。某カジュアル服の銀座店の袋を持っている女性もいますね。

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 テレビカメラが何台もあります。取材のようです。「街の人インタビュー」をしているのでしよう。私は全くインタビューがありませんでした。「リサーチ対象外」なのですね(笑)。
 地鶏某ならぬ、「自撮り棒」で撮影する人達も(笑)。昨年来、急速に普及しています。携帯カメラが登場したと思ったら、スマホが登場し、更に「自撮り棒」まで。時代は変わりますね。

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 写真には写っていませんが、結構見るのが入学式帰りと思われる人。入学といっても中学、高校ではなく、土曜日に行われる入学式は専門学校、短大、大学などです。学校用と思われるスーツを着ている人がちらほら。たいていは入学式の帰りに銀座に買物などに寄った『親子』の二人連れです。もっと詳しく書くと「母娘」(おやこ)の二人連れです。一般的には、入学式帰りにスーツで母と息子では銀座や街中を歩きませんね。(別に否定しているわけではありませんが。)

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 パントマイム?を行っていました。静止していて人形かと思いきや、突然動いて機械仕掛けのようなリアクションをするパフォーマンスです。息を止めて静止しなくてはならないため、大変です。
実際自分でしようにも上手くできません(笑)。肩が「カタカタ」動いてしまいます。

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 わしたショップへ向かって歩きました。
 写真の先、ある角を左へ曲がるとまず 広島の「TAU」、次に山形県のアンテナショップがあります。
 そして、「わしたショップ」などがある通りに出ます。

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「銀座熊本館」 玉子の買い物。くまもんもお出迎え。

 2015年4月

 有楽町ある鹿児島「遊楽館」に続いて、線路の高架をくぐり熊本県のアンテナシヨップに、銀座へ向かいました。

 ↓ 店内のくまもん。
   「銀座熊本館」は20周年とのことです。アンテナショップの草分け的存在ですね。新宿のみやざき館も古い   
  と思います。

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 私は二階のグッズや観光コーナーを見ていました。さすがに前回訪問したときと同じくまもんの歌「くまもん・・・・くまもんもんもん!」の歌は流れていませんでした。アノ歌は耳に残ります。なんだかホッとしたような(笑)。
 二階にも軽食コーナーがありました。以前からカウンターと席があることは知っていましたが・・・・。500円程度でごはんと汁物を出す程度の軽食のみです。以前から「Asobiバー」として夜のみの営業だったと思いましたが違うようです。いつもは日曜日に来ることが多かったので、閉まっていたようです。この日は土曜日なので営業していました。

 ここで売っていた玉子のパックを買いました。車で来たので持ち帰りは容易です。電車で来た場合、玉子の箱を抱えて帰るのは少し大変ですね。
 
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鹿児島県アンテナショップ「かごしま遊楽館」二階の店「遊食豚彩いちにいさん」で食事 

 2015年4月

 緑色のシンボルカラーの千代田線で有楽町までやってきました。地上に上がります。
 鹿児島県のアンテナシヨップがあります。以前は石川県の店もありましたが、このブログで昨年の秋に紹介したとおり銀座に移転しています。JR有楽町駅の東口ですね。 既に昼は過ぎています。ここで食事をしようという話になりました。

 下の子は黒豚のとんかつ定食を注文。私達の中で一番高いメニューを注文しました。
 とんかつ用のソースとキャベツ用のドレッシングがあります。それぞれ食材にかけて(つけて)食べます。
 店内にはカウンターもあります。カウンター内の棚には鹿児島の焼酎が並べてあり、夜は「バー」のような感じで楽しむことができるのでしょう。

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 お茶は、ジャスミン茶のようです。無料の飲み物でも、ただの水ではないところがポイントです。

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 私は生姜焼きの定食を注文。赤だしの味噌汁とごはんも合います。
 写真左は「黒豚と野菜蒸し」定食です。ごまタレのようなしゃぶしゃぶのタレにつけて食べます。
 ※ここに来るのはほぼ一年ぶりですが、このときも同じメニューを注文したような・・・・。

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 お店は混んでいました。私達は(ランチには)遅い時間だったのですが、15分くらいは待ちました。私は順番を待ってその間に一階のアンテナショップで買い物をしてもらいました。何を買ったのでしょうか?。
 
 ↓ レストランは入口が二か所あります。お客は二か所が入ってくるため、その分混むのかも知れません。
  窓際にもカウンター席があります。土曜日ですが、女性の一人客も多いです。この付近の土曜日も営業している会社やお店などで働いている女性でしょうか。

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国立西洋美術館 常設展示内 「聖プラクセディス」フェルメールに帰属 を観覧

  2015年4月 国立西洋美術館。
  
 「グエルチーノ展」の見学のあと常設展示を見に行きました。モネの睡蓮などの展示はざっと見て、今回特別に展示されている「フェルメールに帰属」とされる女性の絵を見に行きます。四角い回廊上の常設展示室をざっと見て行き探します。と、別棟に下りる通路の手前に展示がありました。人垣ができているのですぐに分かりました。
 タイトルは「聖プラクセディス」とあります。
 やさしい感じの女性の絵ですが、説明を読むととても残虐で手から血を絞り出しているとか。怖いです。ぞっとしました。 
 作品の写真撮影は禁止でした。この絵の展示は新聞記事で読みました。今年から西洋美術館の寄託になったそうです。所有者は日本人。3月中旬から公開されています。

  ↓ 作品の近くにおいてあったパンフレット。

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 この作品は真作か。いろいろな意見の人がいますが、「帰属」としているので現在は否定されているのでしょう。ただ「帰属」というのは限りなく真作に近いが決定打が無い・・・・ようなニュアンス・・・・と何かで読んだことがあります。誤解でしょうか。
 真作とすると初期の作品とのことで。以前、国立新美術館だったかで、フェルメールの全作品のレプリカを見たことがあります。最初のうちの作品は、はっきりとした写実的な絵ではなく、「教会の祭壇画」のような作品でした。描き方も違う。ボヤかしたような色彩でした。それと比べると似ていないような気がします。模写ならばいくらでも作成できますし。ただ、説明文では科学的調査によると真作に近い化学成分絵の具を使用している、当時オランダで描かれた作品には間違いないとか・・・・。


↓ チケット売り場の横にいつもある告知看板。恐らく常設展示の看板なのでしょう。
   
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 西洋美術館の展示は禁止でない限り撮影できますが、実際に撮影している人はほとんどいません。展示作品は購入などで増えているようです。
 元々松方コレクションを母体にしているため、展示内容はほとんど「変わらないもの」と誤解していました。こと、子供の頃に来ときは松方コレクションとフランス政府からの返還の説明を読んで「200点か300点あまりの限られた数のコレクションなのであまり展示内容は変わらないのかな。観覧は一回だけで十分なのかな。」とも思いましたが、やはり違うようです。子供のときの誤解でしたね。子供のときに違う考えを自分勝手に植え付けてしまうとその後、成人しても尾をひいて「非常に危険」です(笑)。
 すると、誰かに質問するとか教育って、とてもとても重要です(笑)。

 先般の記事で「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」 小田原文学館の見学記を書きました。二・二六事件当時の資料は日誌が二冊のみ(うち一冊は表紙のみで記載は無いもの)でしたが、同事件に関する書籍を読んでみました。普段は書籍を読むことはあまりしないのですが・・・。
 たまたま書店で見つけたのは事件当時の首相で、事件でも襲撃された岡田啓介の回顧録。正確には岡田啓介の次男が戦後にまとめたもののようです。まずは事件の第一当時者、第一の襲撃対象者?の自伝類が(事件の内容を知るには)手っ取り早いだろうと読んでみました。
 すると、同事件とは関係のない箇所で松方幸次郎のことが書いてありました。ただし、松方コレクションのことは触れていません。当時、松方は川崎造船の社長で艦船を造る上で海軍の高官だった岡田啓介とかかわりがあったようです。「・・・・個人的には懇意にしていたが、相当の変わり者だった。」と回顧していました。なぜ造船会社の社長と海軍軍人が個人的に親しくなるのか。松方が薩摩出身の元老の息子でもあり、元々薩摩出の海軍軍人(親が薩摩出身で海軍、その子も海軍)も多かったためとも思われるが、回顧録に「当時は大変な不況で・・・・いざというとき軍艦が造れないと困るので、造船会社を潰すわけにはいかない・・・・・・適当に軍艦を発注したり・・・前渡金をやるなどめんどうをみていた・・・・・。・・・・・・川崎造船は潜水艦を造る技術が優れていた・・・。」とありました。
 コレクターとは変わり者なのでしょうか・・・。もちろん皆が皆そうではありませんが。
 


「グエルチーノ展」見学 国立西洋美術館

  2015年4月

 記事の順番が前後してしまいますが、「ダブルインパクト展」東京芸術大学美術館の見学に先立ち、国立西洋美術館の「グエルチーノ展」に行きました。最近、西洋美術館ではあまり知られていない画家の展覧会があります。というより、私が知らないだけかも知れませんが。


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 会場はあまり混雑していません。ホドラー展と比べて・・・・分かりません。同じくらいか、やや少ないか。曜日や時間帯や季節、天気などにもよりますが。あくまで私が見た感じなので、公式の入場者数は分かりません。
 イタリアのチェント市は知りませんでした。鉄道は無い?。展覧会でチェントへの行き方は詳しく書いていませんでした。フェラーラとボローニャから30-40キロくらい。すると、バスで1時間くらいでしょうか。ボローニャからバスが早そうです。
 ここの絵画館に作品が多く収蔵されているとこのたび知りました。
ゲーテがイタリア紀行などで高く評価しているそうです。ゲーテの時代から100年以上前の画家ですね。でも現在のイタリアでは美術館などで有名な作品はあるのでしょうか。昔訪れたフェラーラーの絵画館でも展示はあったか、覚えていません。

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 キリストの絵とポスターになっているマリアの像が有名なようです。作品も聖堂にあったものは非常に大きく教会の祭壇画として迫力があります。

「ダブルインパクト展」 見学 東京芸術大学美術館

  2015年4月

 「ダブルインパクト展」 東京芸術大学美術館にやってきました。
 
 三階から見学開始です。ボストン美術館と東京芸術大学の所蔵品の交互展示のような展覧会です。二年前くらいに「ボストン美術館展」が別の場所(東京国立博物館)で開催されましたが、この展覧会を私は見ていないので分かりません。
 
 一番の目的は高橋由一作の重要文化財「花魁」です。「高橋由一展」では同じく重要文化財指定の「鮭」とともに展示されたと思います。が、せめて「鮭」は無くとも「花魁」だけでもと思いやってきました(笑)。
展示の比較的最初のほうにありました。壁にかかっています。それほど大きくない作品です。うっかりすると見落としてしまいそうなくらい。しかも作品の説明は「芸」(旧字体)と「B」と、どちらの所蔵かの赤いマークがついているため 「重要文化財」指定であることを見落としてしまいます。
 「花魁」の女性は、随分と怖い感じの女の姿ですが、説明によるとこのモデルになった花魁の女性も気に入らなかったとか。

 順番に見て行きます。文明開化の様子「B」マークのある錦絵の展示がありました。ポスター、バンフにも出ている「クネクネ曲がる 龍の置物」は「B」です。

 続いて地下に下りました。エレベータではなく、階段で一気に地下まで。
二室に分かれています。順路が無い部屋は大きい彫刻がおいてあります。つまり、ポスター掲載の木造などです。写真よりはるかに、大きいです。刀の部分は復元したのだとか。
 もう一室は、主に絵画で奥行のある展示室。順番に見ていきます。狩野芳崖の「悲母観音」がありました。昨年春の「世紀の日本画」で見ました。となりに、岡倉天心の甥が描いた、同作の模写がありました。近年「B」の所蔵になったとあります。模写とはいえ、明治時代に描いたものでした。
 進んで 春草の作品で「B」もありました。大きな絹本着色と思われる月の絵です。大観作品でも「B」がありました。意外です。天心が収集したものでしょうか。前にも見たかも知れませんが、大観の卒業制作作品もありました。
 展示画でいうと、「芸」の方が多いです。「B」は錦絵から日本画、鈴木長吉などの工芸品までジャンルは多岐にわたっています。外国人好みの「日本の文化を理解するため」の総花的な展示です。
あと、心に残った作品といえば、
 山本翠芳の「女性の横顔」の油彩画。教科書にもでてくる作品です。「これ見たことあるな。」が第一印象でした。(笑)
 先の三の丸尚蔵館の展示(かつての皇室御物)でも 山本芳翠の作品がありましたし、前年に重要文化財指定もありましたし、実は知らなかっただけで、山本芳翠は多数あるのですね。近く回顧展が開催されることを期待します。


 ↓ 休憩の部屋から外を撮影。校門が見えます。

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 ※ 「山本翠芳」と間違えて表記していた時期がありました。お詫びして訂正します。





「ダブルインパクト展」 東京芸術大学美術館 初めての訪問

  2015年4月

 「ダブルインパクト展」 東京芸術大学美術館にやってきました。
 実に初めての訪問です。

 キャンパス奥に至るところに展覧会の看板がありました。この看板の先の校舎には入っていきにくいものを感じます。というより、関係者以外は立入禁止となっていたと思います。もとより、私は部外者です(笑)。
 

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 大学美術館の建物自体は、道路の壁沿いに建っています。今までこの道沿いの建物が美術館であったとは気づきませんでした。
  ここでチケットを購入・・・・・ですが、実は事前に前売り券を購入しています。コンビニの端末で簡単に購入できます。この日が「ダブルインパクト展」の開催初日。講演会はありますが、それ以外のイベントなどはありません。


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 ここ東京芸術大学美術館では、数年前に「高橋由一展」が開催されました。そのときには来たかったのですが、結局来ないうちに会期は終了してしまいました・・・・・。昨年か一昨年くらいに「興福寺仏頭・・・・展」もありました。ただ、この「仏頭・・・展」は、中核となる展示物が重複している展覧会が過去別の場所でも開催されている(よう)ので来ませんでした。
 大学美術館ということもあり、私のような一般人にわかるような展覧会はなかなか開催が無いと思います。どうしても大学美術館というと専門的になり、一般の公立、民間の美術館のような「万人受け」するテーマでの開催が無いような・・・、というより万人受けするようなテーマを組む必要は無いのでしょう。

 入館すると一階はロビーのようになって、売店(つまり、MS = ミュージアムショップ)があります。エレベータに乗って三階に行くように指示されました。その後は地下二階に下りるように言われました。一階には展示スペースが無いようです。エレベータを待ちます。が、なかなか来ない。なぜかって、上の階を観覧した人が地下に降りるので、一階に停まってもすぐに再び扉を閉めて地下に行くからです。地下二階から昇ってきて、一階で降りる人は観覧を終えた人です。まだ開催初日の昼過ぎです。(開会直後の)午前中から観覧していた人でないと展覧会を見終えた人はいません。退出する人よりもこれから見学としいう人の方が多いのです。
 エレベータに乗ってもあまり大きくないのでぎゅうぎゅう。なぜかって、エレベータの同乗者は皆老齢なのです。つえをついている人もいて。大学美術館なのに大学生くらいの年齢の見学者は全然いない!!。これじゃ階段を歩けばよかったかな・・・・・と。入館当初の私の周囲では平均年齢が最低でも70歳。(ただし、私やウチの子は平均年齢の算出対象メンバーから除く(笑)。)
 その後、展示室を見学していくと、実は学生くらいの若い人も結構観覧に来ていましたが・・・・。


(既出) キャンパスの角地にある桜と「ダブルインパクト展」の告知。











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 東京芸術大学美術館を見学した後は、上野駅まで戻らず地下鉄の根津駅へ上野桜木町のゆるやかな坂を下りました。 東京芸術大学からは上野駅よりも根津駅の方が近いのではないかと思います。しかも、上野の丘の上からは、根津に向けて下り坂なので歩くのに楽チンですからね(笑)。

上野 東京芸術大学美術館と黒田記念館内(上島珈琲店)で休憩

  2015年4月

  4月最初の土曜日、上野の桜は満開はとうに過ぎ、かなり散っていました。この日が曇りでなく、晴天だった場合は、もっと桜の花が散っていて、平成27年のお花見は終了してしまっていたでしよう。
 黒田記念館までやってきました。小腹がすいたので、休憩です。黒田記念館は春の特別公開で黒田清輝の重要文化財指定作品などを展示していますが、今回は割愛です(笑)。いわば「花より団子」ですかね(笑)。
今回は「うえの桜フェスタ」を開催していました。
 
 黒田記念館と桜。「上島珈琲」の看板が壁に見えます。なかなかよく撮れました(笑)。でも信号と標識が・・・写真の左に写り込んでいます。仕方ないですね・・・・・。




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 ここで休憩です。昼前の時間帯。朝食が遅かったのでまだ昼食はいいやと思い、珈琲と飲み軽食を食べます。
 上野公園内ではなお、場所取りのブルーシートが。着物で記念撮影をする人もいます。
 写真で見ると桜がまだまだ盛りに見えますが、近くでみるとかなり葉桜に変わっています。


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 上島珈琲のお店。一階はすでに満員。席がありません。二階に上がりました。空いている席がありました。一階の道路に面したテラス席もあるのですが、この日は寒い。テラスで座って休憩するには寒いです。気温は10度と少ししかないと思います。さすがに気温ヒトケタではありませんが。テラス席の横では大型ストーブが焚かれていました。外でストーブを焚いているので、その暖房効果は限定的ですが・・・・。

 ↓ 二階の席の窓から。かなり葉桜です。
   ただし、四月になってから寒いのでこの日の気温は曇天で日の光が無いということもあり、桜が咲く前くらいの気候に感じます。

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↓ 一階のテラス席のところから東京芸術大学の建物。「ダブルインパクト展」に入ります。
  周遊のミニバスが走っています。
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↓ 一階のテラス席のところから上野公園方向。

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 角に「ダブルインパクト展」の告知がありました。
 写真奥に写る東京芸術大学の校舎は、近くの国立博物館の本館と似ている建物です。同じく昭和戦前期の建築でしょうか。
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春の上野 散策 (上野東京ライン開通)

  2015年4月

 この三月に「上野東京ライン」が開通して東海道線から上野、東北線、常磐線から東京駅、新橋駅方面への行き来が便利になりました。
 色色、便利、不便はいわれているのですが、ともかく上野駅までは一本で行けるようになりました。秋葉原駅を高架で通過していまうのが意外でした。
 4月に入ると桜の満開は急速に散っていきました。「うえの桜フェスタ」を開催していました。
が、この日は寒いです。
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 出店がでています。
 ここでは買いませんでした。食べ物関係はエスニックのお店が多かったような。

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 混雑しています。実は食べ物などのにおいが結構キツイです。

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 上野駅は混雑しています。そのため、別の出口を開けていました。ただし、ICカードのみ通過できます。
 ここから外に出ました。

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 少し雨が降っていしたが、やがてやみました。いつも通る公園口。


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常設展見学 小田原文学館(旧田中光顕邸)

 2015年3月
 
 小田原文学館の一階で企画展示 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」がありました。旧住宅の一室での展示なのでスペースはあまり広くはありません。企画展示の隣の部屋が常設展示でした。南の庭に面したおそらく以前は居間か応接室であったであろう部屋。日光を遮るため窓にカーテンをかけています。暖房は壁の上に取り付けられた家庭用と思われるふつうのエアコンです。展示館用に建築されていないため、天井に取り付けの集中空調設備方式を取ることができないようです。
 
 展示について見ていきます。
壁面に北村透谷など小田原ゆかりの文学者の写真パネルや年表などの展示があります。ガラスケースの中には手紙、所持品、作品原稿など関連資料の展示があったように記憶します。北村透谷は小田原の出身ですから小田原文学館にとっては最重要人物です。尾崎一雄の展示もありました。もともと小田原の出の一族だったのですね。
 常設展示室を出て、廊下出ます。事務所の前を通り二階へのを上がります。木板の床なので私が歩くとギシミシときしむ音がします。見学者は私以外にはなく、なんかここの職員に注目されています。なんだか、(閉館時刻も近いので)早く締めたいような雰囲気が伝わってきます・・・・・(笑)。
 二階も展示室があります。三階は休憩室とベランダのみでした。

 ↓ 小田原文学館(旧田中光顕邸)三階のベランダから。外に出ることができます。伊豆大島が見えます。
   先に掲載した二階の写真よりも、より遠くの眺望があります。
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 西の箱根方面。箱根の山の裾が見えます。写真では全部写りませんが、山並みは箱根の山の上の方へ伸びています。

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 ベランダに出てみると「ゴー」と遠くから音が聞こえます。海岸線を走る西湘バイパスを遠る車の音でした。実際私も西湘バイパスは時々走るのですが、ここに昔の元勲の別荘があり、現在は文学館になっていることは知りませんでした。海岸ヘリの道路(西湘バイパス)をただ通り抜けるのみでした。

 二階の展示は、小田原に居住したまたはゆかりのある文学者の展示が中心。北原白秋や谷崎潤一郎について展示がありました。白秋は、城ケ島など神奈川に住んだこともあるので小田原ゆかりと知っていましたが、谷崎も小田原に住んでいたのですね。白秋も谷崎も引っ越しが多かったようで、あちこちに「ゆかりの地」がありますね。
 というより、白秋についてはウチの父がその昔、孫にあたる人と仕事をしたことがあったとか。本人から直接聞いたわけではなく、同僚の人から聞いた話なので確かなことはいえないが、苗字はたしかに北原さんだったそうです。年齢的には、その方は白秋の没年と数年は人生が重なっているようです。孫だったとすると、まだ幼いときに白秋が亡くなったことになります。
その他小田原ゆかりの作家の作品、短歌?など原稿、資料の展示がありました。名前は私も聞いたことがあるくらいで実際には作品を読んだことの無い作家達でした。やはりその中でも、私にとっては白秋が身近に感じますね(笑)。

 三階のバルコニーに展望を見て、一階に下ります。ギシギシ廊下のオトを立てながら(笑)。私が玄関で靴をはいて帰ろうとすると、職員の人が出てきて見送りをしてくれました。三名いて全員女性でした。「さっ、〇〇を閉めて・・・・」など閉館の手順について段取りしていました。予期せぬ私の訪問で段取りが遅れたのでしょうか・・・・(笑)。

 ↓ 三階のベランダ。向こうに水平線が見えます。
  ベランダの手すり部分には屋根と同じスペイン瓦?が載っています。
  床面はタイル張り、ベランダの形状は半 八角形です。
  とても手の込んだ洒落た造りであることを感じます。

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展覧会「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」 見学続き

 2015年3月
 
 小田原文学館の企画展示(展覧会) 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」の見学 続編です。
 

 展示について詳しく見ていきました。
一、最初のガラスケース。・・・江戸時代からの閑院宮家の歴史とその資料。
 これは比較的知られています。新井白石の献言で創設され、のちに天皇家の後嗣も出した宮家です。
  壁には宮家の系図や年表の掲示があります。

二、次のガラスケース。・・・明治時代から昭和戦前期の当主。閑院宮載仁親王に関する資料。
 陸軍大将の辞令や「元帥府に列し・・・・」という辞令もありました。大正天皇の署名があります。すでに大正時代に元帥までになっていました。
 大正時代、皇太子であった昭和天皇の欧州旅行にも随行しています。一緒に写真に写っています。昭和天皇よりも身長は低いですが、小柄ながらもがっちりとした体格です。この旅行で随行した皇族は載仁親王のみだったそうです。
 昭和に入ってから6年12月に「補 参謀総長」の辞令がありました。 「奉 内閣総理大臣 ・・・犬養毅 」とあります。
   二・二六事件当時の日誌の展示がありました。が、開いているのは、青い表紙の一冊のうちのあるページのみ。数ある資料の中のひとつで、事件の対応や日誌が展示の中心ではありませんでした。
 日誌には2月28日、医師の診察を受けて車で小田原を出発し、東海道を東上。随行員の名も記載されています。その日の夕方に車で東京の「内大臣官邸」に入ったとあります。永田町付近にあった自分の宮邸には入っていません。その後 小田原に戻り、再び 3月に上京、28日に小田原に戻る(帰着)とありました。三月になって一旦小田原に帰ったと書いてあったような・・・。事件終息後もずっと東京にいたわけではなかったようです。
 日誌はこの時期に動静について一冊目が作成され、二冊目は表紙のみで実際の記入は無かったと説明にあります。二冊目の展示もありました。タイトルに「御転地日記」とあります。
 日誌を見ると現職の参謀総長でありながら、小田原で生活しているのが通常だったようです。日誌にも小田原に「帰着」とありました。ふつうは、東京の宮邸に事件後に入ったことが「帰着」と思います。
 すると参謀総長は普段は(小田原にあって)不在で、誰が参謀本部の中心であったかということになります。トップの参謀総長が日常不在でいわば非常勤なのでは統制がきかなくなってしまいます。
 しかも、組織のトップではあるが皇族が重要な作戦などの決定をして責任を負うわけにはいかないため、部下の参謀たちが意志決定し、たいていのことは載仁親王はそのまま承認だったのでしょう。または、総長宮殿下には事後報告で、参謀たちがどんどん事を進めていってしまったような・・・・。よくいわれる「独断専行」もそのひとつでしょうか。(当時の新聞記事を見ると「閑院参謀総長宮殿下」と呼ばれています。)
 これらの事も二・二六事件の翌年の夏には盧溝橋事件が拡大して、戦火が大陸にもどんどん広がっていき、後の対米開戦にもつながったのも理由のひとつではないか?とも思いました。

 
三、載仁親王の後嗣 春仁王についての資料。
 出征した中国大陸の戦地からの手紙もありました。年代の近い皇族から「参謀総長の父宮殿下にあなたから献言してほしい」と手紙を受けてもいました。敗戦の二か月前、昭和20年6月に「陸軍大佐 春仁王 任 陸軍少将」という辞令がありました。天皇御璽が押してあります。こちらも 奉 内閣総理大臣 とあります。

 これらの資料は今回が初公開たそうです。辞令などが今まで保存されてきたとは驚きです。しかし、軍の役職でも 内閣総理大臣の名前を書くのですね。統帥権の独立で内閣総理大臣は関係ないのかと誤解していました。

 展示の説明を見ると小田原の閑院宮邸の敷地は広大です。現在の小田原城の西半分とその山の上、現在、某私立の学校や競輪場、公共施設がある辺りまで宮邸です。「小田原競輪」・・・・・といえば、私が子供の頃から宣伝していましたね。
 新幹線や東海道線のトンネルの上をも敷地が占めています。昭和の戦前当時には現在の東海道線は熱海まで、のちに丹那トンネルが開通しているので、すくなくとも鉄道路線は開通していました。するといつも宮邸の敷地の下をくぐって鉄道で移動することになります。当時の感覚ではまことに恐れ多いことではなかったのでしょうか。

(既出) 企画展のパンフレット。

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 旧皇族では敗戦直後に首相を務めた東久邇宮稔彦王が知られています。敗戦後とはいえ、軍はまだ存続していましたから組閣当時は現役の陸軍大将であり当初数日間は陸軍大臣を兼務したわけで。戦前期、皇族男子は陸海軍人であったわけで、その存在、影響は大きかったのではないかと推測されます。
 先に写真を掲載した小田原文学館敷地内の看板に、閑院宮載仁親王について「昭和激動期の参謀総長」と説明があります。在任期間も昭和6年12月から15年の途中、対米開戦の一年と少し前までと長い。年齢は稔彦王よりも20年以上も上。その軍歴も相当長い。戦前日本の歴史を語る上で載仁親王は最重要人物の一人ではなかったかとも思えます。
 (ずっと以前に見た歴史のテレビ番組では主に近現代史関係の著作を発表して収入を得ている某職業作家が(海軍の伏見宮博恭王と比較して)『お飾りだった』と発言していましたが。)

(既出) 企画展の「のぼり」です。退出後に撮影。
 
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小田原文学館(旧田中光顕邸) 見学と明治の元勲達の小田原別荘群

 2015年3月
 
  小田原文学館の敷地内に小田原に別荘などを構えた著名人の案内があります。
なんといっても筆頭は 山縣有朋、次に 伊藤博文。三番目にこの建物の建築者 田中光顕の紹介がありました。
 明治の後半から大正10年かに死去するまで政界、官界、軍界では「小田原」といえばまず「山縣有朋」を指したのではないでしょうか。「椿山荘」のある「関口」や「目白」が別名だったのではないと思います。(椿山荘は譲渡して晩年はもっぱら小田原にいたのかも知れませんが。)
 その後、昭和期に入り「小田原」といえば、閑院宮殿下を指したのだと思います。地名で政治家や高官を指す例といえば、昭和戦前期 「興津」といえば「西園寺公望」でしょうか。
 

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 旧福岡藩の黒田侯爵家、山下汽船の山下家の邸宅もあったことが分かります。黒田家には閑院宮家の女王が降嫁しており、春仁王(戦後は閑院春仁、のち純人)とも交流があったと先の展示会でありました。
山下家といえば先年ドラマで主人公となった秋山真之と深いつながりがあることが分かりました。ドラマのついでに伝記などを少し読んだところ、実は秋山真之は小田原のここ山下汽船のお屋敷で療養していて死去したのだそう。同じ「愛媛」繋がりですね。しかし、秋山は現在の松山の人、山下家は八幡浜の出。旧領主は違います。ならば松山に母方のご先祖の墓がある私の方が近しいと思います。でも、秋山と同郷の私の先祖に交流があったという記録は一切ありません!!。小田原には瓜生外吉の別宅もありました。秋山真之と同じ海軍の軍人です。
 益田孝の名前も。三井の大番頭。のちに男爵まで授けられた人物。物産、商船などで政界に食い込んだ(日清、日露戦争などで功績を挙げた)のでしょう。

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 看板下の方に「松永安左エ門」(耳庵)の説明もあります。同じく小田原に屋敷を構えた人でした。先年の原発事故、電力不足に関連して一時的に最注目された人物です。「電力の鬼」。現在まで続く戦後の地域分割、発送電一体制を築きあげた人物。茶器など東京国立博物館の展示、収蔵品にも「「松永耳庵氏贈」のものが多数あると思います。

 小田原文学館(旧田中光顕邸)の外観。八角形の部屋がおしゃれです。一階と二階が洋館で三階部分が和風の四角い部屋で瓦の載った屋根です。説明によるとスペイン風建築とのことで(説明によるとスペイン瓦を使用しているとか)、二階建てのイスパニョール風建築に日本の平屋を三階部分の増築したような印象を受けます。

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 八角形の出窓部分と庭園。
 そろそろ春分を迎える早春の夕日に照らされています。

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 駐車場の様子。林の先には小田原文学館の建物があるのですが、よく写っていません。正面の門から見ると立派な車寄せもあります。

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 小田原文学館前の道路。小田原駅からは徒歩で20分以上はかかるでしょう。写真右の北方向が国道一号線で箱根駅伝の中継ポイントも近くです。道路を一本、二本入るとこのような静かな住宅地。桜並木です。あと一か月もしないうちに満開になるのでしょう。が、この日はどことなく暖かいがまだまだ気温は低いです。

 写真左は文学館前の広い空地です。昔はどこかの財閥のお屋敷があったのかもしれませんが、現在は更地です。地図を見ると数年前まで県や市の施設があったようです。移転して今は更地なのでしょう。
 
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小田原文学館の前の住宅地。更地は昔の県などの施設の跡地。
東の空に雲がかかっています。冬から春への変わり目の季節。雲の北(写真でいうと左)は雪雲のように鉛色でした。春を思われる明るい青空と冬を思わせる鉛色の雲が印象的でした。

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展覧会「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」 小田原文学館 見学

 2015年3月
 
 小田原文学館の企画展示 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」の見学です。
 
 ギイッと小田原文学館の建物の門を開けます。土足は禁止で靴を脱いで上がるようになっています。内部は普通の邸宅のようです。玄関には下駄箱があり、廊下につながっています。下駄箱には靴が一足もありません。訪問者は私以外にいないようです。ちょっと緊張です(笑)。
 玄関を上がると廊下に面して受付のカウンターと事務室があります。玄関の左に今回の企画展 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」の 展示室があります。カウンターには、女性が一人います。券を買います。庭園の奥には、別棟の展示室があるのですが、そちらに行きますか?、と聞かれました。閉館まで時間も無いので行きませんと答えました。もうすぐ戸締りをするようです。

 ↓ 建物右側が玄関です。

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 展示室に入ります。廊下は板なので歩くとギシギシと音を立てます。「うぐいす張り」の廊下ではありませんが、見学者は私一人のみ。板がきしむ音が館内に響きます。なんだか肩身が狭いです。自意識過剰ですかね(笑)。
 企画展示室は広くはない。一室が閑院宮家の資料紹介であてられていました。窓はありません。文学館に改装するに当たり、閉じたのでしょう。資料に日光が当たり、変色していまいますから。
 展示は大きく分けて三つありました。
一、最初のガラスケース。・・・江戸時代からの閑院宮家の歴史とその資料。
二、次のガラスケース。・・・明治時代から昭和戦前期の当主。閑院宮載仁親王に関する資料。
   二・二六事件当時の日誌の展示もありました。
三、載仁親王の後嗣 春仁王についての資料。
 四番目として、隣の常設展示室との境の壁際に小田原の閑院宮邸の敷地などの説明がありました。
 年表も掲示し、閑院宮家の歴史と載仁親王、春仁王父子の資料展示でした。

 企画展のパンフレットより。載仁親王と子女の女王、春仁王の写真の掲載があります。
 
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 載仁親王は立派な髭を生やした貫禄ある皇族です。


(既出) 企画展の「のぼり」です。退出後に撮影。
 
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展覧会「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」 小田原文学館

 2015年3月
 
 早春のある日のこと。私の姿は、神奈川の西部、小田原市内にありました。
 小田原文学館の企画展示 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」の見学です。
 
 実をいうと、小田原文学館は初めての訪問です。というより、存在を知りませんでした・・・・・・。今回の企画展示は新聞記事を読んで知ったのです。記事の内容には「・・・・・・青年将校らが決起した二・二六事件当時、参謀総長であった閑院宮の・・・・・事件当日などの動静を記した日誌などが展示される・・・・・。」とあったように記憶します。
 訪問前にあらかじめ、ウェブサイトで調べましたが、文学館独自のサイトは無いようです(あくまで私が調べたところによる。)。全くサイトが無いというわけではなく、小田原市の公式ウェブサイトの一部として小田原文学館の案内がありました。
 今回の会期は2月27日から3月18日まで。今年の2月は28日間しかありませんので、会期は3週間もありません。非常に短いです。しかも2月27日から会期開始なので、やはり2月26日に発生した「二・二六事件」に関する資料が中心なのかな、と思いながら訪問しました。

 ↓ 小田原文学館の玄関と展覧会の「のぼり」。閉館後、帰る前に撮影。

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 ↓ 小田原文学館の建物(写真右)前、南面に広がる庭園。
   写真右、つまり西側から夕陽が差し込んでいます。 
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 二階の窓からの眺め。この先は海です。
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 二階のバルコニーの様子。休憩室になっています。八角形の洒落た造りです。

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 訪問したのは、夕方の閉館に近い時刻。入口近くに数台停めることができる駐車場があります。文学館の前の道路で近所の子供達がボール遊びをしていました。見学者は私一人のみです。シーンとしています。敷地内には案内看板があり、文学館は「旧田中光顕邸」とありました。明治政府の旧高官の別邸でした。現代につながるような個人住宅ふうの建築で、顕官の住宅にしては豪華ではないな・・・・という感じ。明治時代のレンガ造りのような洋風建築とは違うなと思いましたが、昭和時代のはじめに建築された比較的時代の新しい建物でした。
 神奈川県内の「文学館」というと「鎌倉文学館」の建物を想像してしまいますが、「鎌倉」に比べると「小田原」は簡素な建築です。
 













狩野永徳「檜図」修復後 公開 東京国立博物館

 2015年2月21日

 東京国立博物館。特別展「みちのくの仏像」の見学後は二階の国宝室へ。
 狩野永徳筆の「檜図」。修復が終わり、数年ぶりの公開のようです。公開期間も短いです。1か月もない、2月28日をまたいで3月半ばまでの公開なので実質3週間程度です。
 「檜図」は「狩野永徳展」では公開されたのですが、当時私は開催があったことすら知らなかったので(笑)、見るのは初めてです。
 この日の国宝室は写真撮影禁止の告知がありません。見学者は結構写真を撮影しています。もちろんフラッシュ撮影は厳禁です。係員も制止せず、というよりはいないので、撮影は可だと理解して私も撮影をさせていただきました。が、しょせんは素人の撮影。精密に撮影された写真が載っているパンフレットを貰うほうがより詳しく観察できると思います。
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 ガイドツアーの説明もあり、私も便乗して聞きました「・・・・今回の修復で・・・・八曲を四曲に直して・・・枝がズレている所を直した・・・・」というよな説明でした。
 細かい説明を私がここで書いても仕方ないので、私が見た感想を簡潔に記入します。

 左の屏風。

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右の屏風。
 檜の葉が細かく表現されていました。後背の「金雲」は時代を経てかなり剥落しているように感じます。「紙本」なので紙に描いているのですね。説明によると木の幹は「藁の筆」で荒々しく描いているとのことで、筆で描いた跡が残っています。緻密さと豪快さが同居していると説明にありました。

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 上の写真がピンボケしていたので、左の屏風を再度撮影。
 青の水の部分の顔料?絵具がかなり落ちています。微妙に枝の先の部分がズレています。太い幹の部分のズレは「ふたつ」の屏風に分けることにより修復されたようですが、こちらはまだズレがあります。ということは、襖の枠が以前ははまっていた、というわけでは無いようです。

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 一階の受付で「檜図」のパンフレットを貰いしまた。積極的には配布していないようで、言わないと入手できません。カウンターの後の台においてあるのが見えたので、「そのパンフレットください」。と言って指さして入手しました。
 先の説明にあった「・・・・八曲を四曲に・・・」という言葉がよく理解できませんでした。説明文にも同じ文章がありました。屏風は二個あります。数えてみると折り目は合計で八つあります。「四と四」で合計「八」なのですが、パンフの詳細な解説を見て「四が双つあるので」「四曲一双」とやっと理解しました(笑)。以前は「八曲一隻」、これだから素人には分かりにくいです(笑)。

 たしかこの絵は大徳寺聚光院の襖絵の花鳥図の木と酷似しています。「画面左に向かって木の幹がせせり出す」様子が特に似ています。こちら(檜図)の絵の方がより大胆です。しかしこの絵は以前、永徳筆とはされていなかったような・・・。が、現在では真筆とされているようですが、この点の解説は無かったので真偽のほどは分かりません。私の思い違いかも知れません(笑)。

























特別展「みちのくの仏像」 東京国立博物館 見学

 2015年2月21日

 上野の精養軒で昼食を食べた後、東京国立博物館へ。特別展「みちのくの仏像」の見学です。下の子は、上野動物園に行きました。
 本館一階の奥の展示室です。ここに来るのは昨年夏の「翠玉白菜」、略して「白菜」以来です。(笑)
 
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 展示数は多くはありません。仏像の展覧会といえは、一昨年春の「円空」の展示が想い出されます。(敢えて「思」の字ではなく「想」としています。)
 この時期に東北地方の仏像の展覧会を企画したのは、あの震災の後だったのでしよう。地震と大津波の被害、放射能漏れ事故から四年が経過し、東北の復興を祈念するという意味もあるのでしょう。
 今回の展示で国宝は一点のみ。他は重要文化財などです。
一番目を引いたのは、重要文化財の「薬師如来坐像」 黒石寺。展示わ見て知ったのですが、アノ「祭りのポスター」で話題にもなり、テレビのワイドショーで取り上げられたお寺なのですね。
 後ろの光背を含めれば大人の身長よりも大きいと思われるくらいの仏像です。他の展示仏像よりも大きいので遠くからも目立ちます。光背部分にある小さい仏が印象的です。制作は貞観年間ということですから先の「貞観地震と津波」の時代です。
 現在の岩手県南部に「平泉文化」が栄える150年以上も前の制作です。この時代は朝廷の陸奥国支配も進み、仏教文化が進展したから作成されたのでしょうか、それとも貞観時代なども含めて地震や津波などの天変地異や飢饉、古代から猛威をふるった天然痘など疫病からの救済を祈願したのでしょうか。
 展覧会のポスターの写真になっているのは、この仏像のお顔のアップの写真のようです。仏像そのものは、金色の彩色がかなり褪せていますが、光背は美しく、金色(コンジキ)の「にぶい光」を放っているかのように感じます。
 展覧会の目玉は国宝の「薬師如来坐像」です。所在地は福島県の勝常寺。
 福島県の国宝といえば、いわき市の白水阿弥陀堂。陸奥国では最も都に近い地域でもありましたし、海も近く豊な土地であったでしょう。所在地はいわき市と誤解していましたが、会津地方のお寺でした。しかも、会津でも現在でいう只見線沿線の山間部のお寺ではなく、会津盆地の真っただなか、湯川村のお寺でした。
 湯川村といえば、山の中の温泉も湧く村というイメージがありますが、実は会津若松市のお隣、平野部にある面積の小さい村です。以前、私も磐梯に宿泊したときに車で通過したことがあります。通過のみで観光はしていません。行った時期が夏だったので、田んぼの緑のじゅうたんが広がる平野でした。通過したのは、若松から「喜多方ラーメン」を食べに行く途中のことでした(笑)。
 勝常寺「薬師如来坐像」は黒石寺の像と似ているにうよ見えます。(素人なので区別がつきません・・・・・。)光背の小さな仏像は勝常寺のものは、無くなっているものもあります。完全ではありません。大きさもさほど黒石寺のものと変わりません。国宝指定であるか無いかの違いは何とも分かりませんが、勝常寺は日光と月光の菩薩像も国宝指定されているとのことで「一体性」が評価されたのか、制作年代がより古いのか・・・。制作は9世紀とのことで、西暦でいうと800年代の前半くらいでしょうか。

 会場の最後に円空作の背の高い仏像が三体ほど安置されていました。円空の足跡はみちのくまで及んで現在につたをっていたのです。
 

上野 精養軒 ランチ

 2015年2月

 目白台から、江戸橋駅方面へ坂を下ります。さらに飯田橋から上野方面へ向かいます。車なので、弥生町から根津の坂に入り、少し登って狭い道へと右折します。緩い下り坂を下りると、上野の丘の下に出ます。途中に鴎外ゆかりの地もありますね。
 精養軒の駐車場入口はすぐです。上野台地の斜面を登る坂を車でそのまま上がります。観光客も歩いているので運転には注意が必要です。
 そして精養軒の駐車場に車を停めます。いつも書いていますが、この日も駐車場には余裕があります。車で上野の精養軒まで食べに来る人が多くないことを如実に示しています。(←オマエが言うなって(笑)。)
 やって来たのは昼も12時半近く。行列です。イスがあるので助かりますし、外にわざわざストーブを置いてくださり、外でも暖をとることができました。貴重な化石燃料を大量に消費して一般庶民の私も暖を取ることができるとはありがたいです。

 ↓ 窓近くの席より、不忍図池。おなじみの風景です(笑)。
 まだまだ気候が寒いのでテラス席に座るわけにはいきません。春が待ち遠しいです。どもあと一か月と少し後には、2015春、桜が咲いたのですけどね。 
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 いつものハヤシライスは注文せず、ランチプレートを頼みます。牛肉と白身魚のフライ。あっという間に食べてしましました(笑)。値段は約2,000円ですが、消費税増税後(笑)、の約1,400円のハヤシライス(サラダ付)よりも量は少ないです。どちらかというと、やや多めに食べたい一定年齢以上の女性向けのセットメニューでしょう。

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 子供は『お子様プレート』。子供向けの景品が付いていて満足していました(笑)。
 「パンダ姿のパン」が付いていました。甘口のカレー皿と、なぜか「しいたけ?、マイタケ?の天ぷら」が・・・。カレーに合うのでしょうか?。子供は「天ぷら」をいらないというので、自分のメニューだけでは満たされいなかった私が食べました(笑)。

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りょうげつ

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