良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2015年08月

 

「前田青頓と日本美術院 大観・古径・御舟」展 観賞 山種美術館へ

 2015年8月

 お盆も過ぎたある暑い日のことでした。
 山種美術館にやってきました。 「前田青頓と日本美術院 大観・古径・御舟」展の観賞です。
 まずは恵比寿駅から美術館までの道のりをレポートします。
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 恵比寿駅で電車降り、少し歩きます。途中、交差点を渡ります。暑い。信号待ちの間、直射日光から身を守るため街路樹やビルの陰に身を寄せます。途中から坂道になります。
 ↓ 坂の途中で恵比寿駅方向を振り返る。写真左のビルは再開発ビルでしょう。
   いろいろなテナント、オフィス(企業の)が入っています。美術館はまだ先です。

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 10分弱歩くと、坂の先に美術館のビルが見えてきます。「あれが山種美術館だな」。とその存在を確認して最御の上り坂をラストスパートで歩きます。決して走る訳ではないです(笑)。が、この炎天下、急坂ではありませんが歩くのはしんどいです(汗・・・)。街路樹が多いので日陰もあります。大助かりです(笑)。
 恵比寿駅から10分は歩きました。やっと到着。美術館の建物は窓が無いオフィスビルのような感じ。見学者が結構出入りしています。美術館の前にはバス停があり。バス待ちをしている人もいます。見学を終えて駅に戻る人達のようです。反対側の歩道には恵比寿駅からのバスが到着しました。何人降りてきます。美術館へ入館する人もいます。この暑い中、坂道を登って来る人はボクくらいなのでしょうか!?

 ビルの壁の脇に掲示されたポスターを撮影。
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 会期は6月29日から始まっています。8月23日で終了です。この日は終了の直前でした。(お盆を過ぎたらすぐ終了という会期設定です。)一年で一番暑い時期に、徒歩で訪れるには交通がやや不便な美術館。日本画専門という館の性格からして高齢者が多いと推測していました。訪れる人はどれくらいいるのか、という興味もありました。予想に反してこの炎暑の中、訪れる人は途切れることがありません。根強い人気の美術館であることがわかりました。
 そもそも炎天下歩いてここまで来るオマエの方がおかしいんや、と言われればそれまでです。ボクが悪かったです。反省しています
 今回の私のメインは御舟作の重要文化財「炎舞」。炎天下、汗だくになりながら「炎舞」を鑑賞するのもまた一興。今回の展覧会は青頓がメインであり、御舟の作品はメインではありません。が、ポスターには「『炎舞』二年ぶりの公開とコピーが入り、写真も掲載されています。」ここ山種美術館のメインの所蔵品のひとつです。
 今回が初めての訪問。私立(民間)美術館といえば企業の創業者(オーナー)のコレクションを元に(没後に寄贈して)設立した施設、財閥が運営する施設などがあります。前者の施設の場合は、施設名に企業名やオーナーの名前が入っているケースがほとんどと思います。ここは典型的なオーナー設立の美術館でしょう。美術館の年賦を見ると現在地に移ってまだ20年も経過しいないようです。建物自体も比較的新しい斬新なデザインです。
 早速チケットを買って入館します。開館時間は17時まで。すでにこのとき16時前・・・・。私の知る限り金曜日や夏期の開館時間帯延長はないようです。夏の17時といえば、「アフターファイブ」開始にはかなり暑い・・・。入館は閉館の30分前までですから、暑い中訪れないといけません。

※「暑い暑い」とばかり書いていますが、ホントにこの日は暑かったです。いや「熱かった。」。











山梨 旧芦川村 道中記(笛吹市芦川地区)

 5月の大型連休中、「山梨のたび」です。

 ここは河口湖のほとりです。観光施設に入る車が列を作っています。私達の車はさこを過ぎて更に進みます。
数年前、河口湖から笛吹市芦川地区に直通するトンネルが開通しています。このトンネルを通り、芦川地区へ抜ける予定です。

 ↓ 河口湖のほとりの畑。トンネルにつながる道路の途中で。カルデラの外輪山にあたる山々です。

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 ↓ 河口湖のほとりの畑。湖の方向。富士山は写真右の丘に隠れて見ることができません。

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 ↓ 山をアップで撮影。

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 トンネルを抜けると下り坂にあります。坂をしばらく下り、芦川地区の家があるエリアに入りました。
農産物直売所があります。ここに車を停めて休憩します。

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 駐車場から遠くの山。南アルプスがあるはずなのですが、写真には写っていません。


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山梨 「道の駅富士吉田」 水汲み場 2015年GWの様子

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5月の大型連休中、
ここは富士吉田の道の駅です。

富士山レーダードーム館の屋根が
見えます。
















 連休中とあって、混雑しています。が、駐車場は待ち時間なく入ることができました。
上の子は部活のため、下の子と妻と私の三人で出発。
 さあ、ペットボトルを持って久々「水汲みだ。」と思いましたが、いつもは大混雑している水汲み場周辺に人垣がありません。大きなポリタンクを持っている人もいません。「もしや」と思いしまたが、やはり勘は当たっていました。
 水汲み場は閉鎖されていました。久しぶりに来たので知りませんでした・・・・・。
 

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 今までもここは特に混雑していました。一人でたくさんのポリタンクを持った明らかに「業務用」という人もいたので、トラブルにならなければ、と思っていました。そのうちに「小さいペットボトル」専用レーンもできましたが・・・・。なぜ閉鎖されているかは分かりません。20リットル入りの大きなポリタンクに汲むのに、ここは待ち時間がかなりかかっていましたしね。

 水汲み場の「石碑」
 「パナジウム」の含有量が多いと説明してあります。

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特別展「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝」 見学記 東京国立博物館

2015年6月6日の土曜日。夕方の東京国立博物館。

  特別展「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝」(略して「鳥獣戯画展」)の「後期」に行きました。
常設展を見てから、平成館へ移動します。本館からつながる廊下を通って平成館へ行こうと思いましたが、閉鎖されていました。この時だけ閉鎖ではなく、混雑している「鳥獣戯画展」の会期中は閉鎖されているようです。

 ↓ 写真は常設展を見る前に撮影したもの。午後4時半過ぎの様子です。

   平成館に向かっている人は多くはないので、一見すると混雑していないように見えます・・・・。

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 5時頃に平成館前に(本館からの廊下が閉鎖なので)到達。
 平成館の前で写真撮影している人も多かったです。最終日まであと一日!!。

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 5時頃入場。エスカレータを上がりました。会場の二階で行列ができていました。閉館時間まであと1時間ですがいまでに約3時間待ち。これほどの行列は、あの「清明上河図」以来です。いやもっとすごいです。あのときでも3時間も待っていません。あのときは年明け早々の寒い真冬、今回は初夏の梅雨入りどき。季節は真逆です(笑)。

 先に第一会場から見学します。昨年の京都で見たと思われる展示があるので、ある程度飛ばして見ていきます。最初の展示室は高山寺蔵の出展が多いですが、他の博物館や寺院所蔵品もあります。例えばここ東京国立博物館や根津美術館や大和文華館の所蔵品もあります。
 最初の仏画の比較展示のようです。弥勒菩薩、毘沙門天など仏画が展示されています。もともとは高山寺伝来の仏画だそうです。
 次いで神仏習合を思わせる展示品があります。高山寺所蔵なのに春日、住吉大明神の姿を描いた絵です。神様をあたかも仏様のように描いています。これらのうち、彩色の鮮やかな絵は江戸時代に奉納されていました。

 重要文化財指定の神鹿、狛犬、獅子の木像も展示がありました。これらは京都では丁巻を見終わった最後の方に展示されていましたが、今回の東京では最初の方に展示がありました。
 「明恵上人像」国宝指定の絵画は、ここ東京でも「前期」展示であり、今期は展示がありません。私は京都の「前期」で見たので今回は「後期」に来ました。後期は重要文化財指定の「明恵上人像[持念珠像]」の展示があります。この絵にも国宝の像と同じく「りす」が描いてあります。高僧の像にリスが描いてある。近代絵画に通じる写実的な絵です。京都展を見ても思いましたが、まさに「鎌倉ルネサンス」というべきではないでしょうか。
 



「終戦の詔書」 期間限定公開 企画展「昭和20年」 国立公文書館

  今年の8月15日は土曜日でした。お盆休み期間中でもあります。真夏の太陽の照りつける中、国立公文書館にやってきました。
 今回は8月10日の月曜日から15日の土曜日まで期間限定で公開のあった
「終戦の詔書」の原本を見にきました。いわゆる終戦の日に来たのはたまたまで、土曜日で私も来やすかったからです。偶然にも展示最終日が終戦の日に当たっていました。
 
 ↓ 8月15日午後の国立公文書館の入口門付近。

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 ここ国立公文書館の展示スペースは、「口」の字状になっていることは何回も書いています。館内中央のロビーは「玉音放送」の音声を聴取できるコーナーになっていました。
 今回の館の半分が企画展「昭和20年」であり、残りの半分は、戦争(第二次大戦)とは関係なく昭和以降の文書がほぼ時代順に展示されている常設展的なコーナーでした。
  
↓ 以前も展示のあった二・二六事件の対応に関する文書。
  内務大臣後藤文夫を総理大臣の臨時代理に任命する文書です。

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 ↓ 展示ケースの最後のほうにあった「終戦の詔書」の複製。これは以前から常時展示があります。

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国宝室と刀剣展示室 見学 東京国立博物館

  2015年6月6日

 鶯谷駅から歩いて東京国立博物館の前までやってきました。
 雨がぽつぽつと降っています。
 すでに速報で「鳥獣戯画」の待ち時間のことや待っている間の様子は書きました。入口付近ではそほど混雑を感じません。まずは本館の国宝室へ。展示品は平安時代の「和歌体十種」と断簡。和歌の説明書とのことです。私には読むことができませんでした(笑)。

 「刀剣女子」。ここ数か月でこの言葉を聞くようになりました。「××女子」のフレーズが付く=流行している、という意味もあります。昨今のブームは漫画の影響とのことですが、私は原作を読んだことがありません。
 偶然テレビでも見たのですが、女子が「このハモンがいいよね~。」と評論していました。 

 国宝室の見学もそこそこに一階に下りて刀剣女子、刀剣展示室の見学へ急ぎます(笑)。
 混雑していしまた。この展示室は。係の人が一人立っています。刀剣専門看視係ですね。とくに「女子」ばかりではなく、ボクのように男子もいました。ただ、「刀剣女子」と思われる人もかなりいました。確かに「刀剣女子」達は波文の様子を評論しながら、指さしたりして見入っていました。
 フラッシュでなければ撮影は禁止ではないので、女子達はさかんにスマホで撮影していました。私もシャッター音を気にすることなく撮影できました(笑)。

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 上の写真は、今回の展示期間の目玉、国宝「太刀 銘 三条、名物 三日月宗近」
 解説は・・・、博物館の広報誌に譲ります・・・・。たしかに刀剣女子が撮影していますね。ガラスケースの前は混雑していてやっとのことで撮影しました。

  国宝「相州 貞宗」。相模の刀鍛冶、貞宗の作のようです。

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 「相州 貞宗」の解説。

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 刀の部品?などの展示。

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 刀のツバというのでしょうか、名前が忘れましたが、相手の刃を受け止める部品の展示と説明。
 その他ボードに刃文の説明がありました。波打つような刃文など何種類かあるそうです。
 一読しただけでは、その意味が私には理解できませんでした。どうやらボクは「刀剣男子」にはなれないようです(笑)。

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駒込 東洋文庫 見学終了後 鶯谷、上野 国立博物館へ移動

  2015年6月6日

 東洋文庫で開催された「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(トークショー)が終了しました。すでに16時を過ぎていました。実は私は気が気でなかったのです(笑)。16時までには終わり、国立博物館「鳥獣戯画展」のため上野に移動する予定だったからです。
 移動に30分かかるとして、16時30分までには国立博物館に入場。約一時間半で常設展と特別展の「鳥獣戯画以外」の展示を見て、鳥獣戯画の「行列」に並ぶつもりだったからです。

 東洋文庫を出て、駒込駅方向に向かいます。
 東洋文庫近くの道路からは、六義園の壁(塀)を見ることができます。この一帯は現在巣鴨に残るスポーツクラブも含めて岩崎家の「三菱村」だったようです。駅に向かう途中六義園の門の前での説明などによると、一時期は岩崎家の所有だったそうです。

 ↓ 敷地内から見た東洋文庫のビル。
  壁の内側はミュージアムからも見えた芝生の庭です。
  建物の向かって左の部分にあるガラス窓の内側がミュージアムのスペースですね。

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 駅に向かう交差点の途中、信号待ちをしていると先のトークショーで質問をしていた背の高い「探検部の学生」がいました。待っている間、ツバをペッと植え込みの中に吐いて、信号が青に変わると早足で私達とは別の方向に去っていきました。探検に行っても彼らは同じことをしているのでしょうか。アマゾンなど探検先でも。ただ、未知の世界に行けばよい、好奇心を満たせばよいというものではないと思います。探検とは・・・・。少し残念な学生の姿でした・・・・・。
 
 駒込駅までは歩いて10分とかかりませんでした。山手線に乗って鶯谷駅で下車します。この間に「行列待ちの時間」をスマホでチェックしたのは既述のとおりです(笑)。
 鶯谷駅から坂を登り、谷中の墓地のかたわらを通ると博物館の広大な敷地の裏に出ました。博物館の敷地と平行して寛永寺の塔頭と思われる「××院」という表札のかかった寺が並んでいます。
 雨も降ってきました。10分近く歩いて博物館の門に着きました。博物館敷地の裏から表に回る程度の距離だと思っていましたが、思ったよりもかかりました。
 ↓ 敷地の横を歩いて正門へ。路駐が多いです。
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「谷根千(プチ)散歩」 森鴎外記念館→駒込へ 

  2015年6月6日

 文京区区立森鴎外記念館を出ました。次に駒込の東洋文庫に向かいます。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」のタイトルでもわかるようにこの付近を「やねせん」というそうです。かつて文学者が数多く住んだこの地域。私も特別展のタイトルにちなんで散歩しながら移動します(笑)。
 ただし、厳密には駒込の東洋文庫に到達することが目的であり「谷根千 散歩」ではないので「プチ」をタイトルの途中に付けています(笑)。
 
 森鴎外記念館のウェブサイトによると軍医時代の鴎外は通勤でここ千駄木の自宅を出て白山から電車(当時の市電)に乗ったとあります。
 写真に残っている通り、馬丁を従えて馬で通勤していたのでは無いのですね。昔は馬でのちに電車で通勤していたのか、たまに馬で通勤していたのか、その辺は分かりません。
 白山から電車ということは現在の都営地下鉄三田線のルートに近いのでしょうか?。
 通勤先は陸軍省時代は三宅坂であったでしょうから、白山から水道橋に出て、現在の大手町から皇居(当時は「宮城」)お堀の近くを通り、霞が関か三宅坂で電車を降りていたのでしょうか。
 第一師団軍医部長時代は更に先の青山、今の乃木坂付近まで通っていたことになります。当時の通勤ルートとしてはかなり時間がかかったと思います。
 小倉転任前は近衛師団軍医部長だったと年賦にありましたから、今の東京国立近代美術館の工芸館(鴎外勤務当時とは建物自体は建て替えされているので場所も変わっているかもしれませんが。)、つまり竹橋、北の丸。千駄木からは一番近いはずです。
 軍医学校勤務のときは、おそらく戸山でしょうから、どのように通勤したのでしょうか?。現在では外堀から市谷を通り・・・といった経路で行くのですが・・・。
 
 ↓ 記念館前から鴎外の通勤経路方向の道路「大観音通り」です。
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 ↓ 「大観音通り」を記念館から少し進んだところ。マンション、商店、ビルなどが建ちならび
   鴎外が暮らしていた当時の面影は全くといってよいほどありませんね。

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 ↓ 「大観音通」を過ぎ駒込方向へ歩きます。6月の梅雨入り直前の太陽が照りつけて蒸し暑いです。
   この道路の下には南北線が走っています。
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 駒込に向かう途中にはお寺が何軒かありました。広い敷地を持つ寺院もあります。現在は都市化が進んでかなり縮小していると思いますが、昔の寺の敷地は相当に広かったと思われます。門構えも立派です。
 ここは高燥な、江戸の後背地にあたる台地です。つい数十年前までは畑や民家、お屋敷、寺院などが混在している地域だったと思います。現在でも表の通りから少し脇道に入ると広いお屋敷やまだのこっている畑などを見ることができます。
 ↓ お江戸の昔から、市民はこのような寺院に葬られていたのでしょうか。
 
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 30分以上かかってようやく東洋文庫に着きました。暑かった・・・・。途中から都営バスに乗るべきでした。



森鴎外記念館  「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」など見学記(最終)

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」を見た後、もう一つの展示室に廊下を通って移動します。展示室2も、ほぼ常設展示で特別展に関連すると思われる幸田露伴の子孫の資料の展示もありました。
 廊下の壁には鴎外の一族と子孫の系図が掲示してありました。子孫の方々も医者に学者に作家にとエリート揃い。現代の華麗なる一族を形成しているといって過言ではないでしょう。

 展示室2では鴎外の子供達に関する資料も展示がありました。
 子供達は・・・・・というと、再婚した妻しげとの娘(長女 茉莉)はなんと17歳で嫁に出しています。娘を溺愛したと知られる鴎外ですが、17歳で嫁に出すとは、やはり「家長」としての意識も強かったのでしょうか?。生まれた孫は「爵」(ジャック。厳密には漢字は旧字体で違うようですが。)
 鴎外死去当時、茉莉は洋行途中で異母兄の於兎も同行して洋行していたと説明にあります。つまり死去当時は長男は不在だったわけで。葬儀当時の写真を見ると、まだ小学生くらいの年齢だった三男(次男は夭折)の類が喪主となっています。相当な会葬者があったはずで10歳とそこそこだった類にとっては大任だったのではないでしょうか。

 現在、鴎外は「元祖・キラキラネームの名付け親」とも言われています。現代社会に生きる子を持つ親として、命名には私も多少の関心もあります(笑)。
 当時、鴎外が子供や孫につけた名前が現代でいう「キラキラネーム」に当たるかは議論の余地があります。ただちに「キラキラネーム」ということはできないと思いますが・・・・。ただし、ヨーロッパ風の当時としはてはかなり変わったというか斬新というべきなのか、そういう名前ではあります。外国人の名前を漢字で当て字をするところに多少の無理もあるような気がしますが・・・・・。
 長男にオットー、次男(夭折)にフリッツ、三男にルイ(類)。娘のマリー、アンヌ(杏奴)は現在でも女子の名前としてはある命名なのでそれほど違和感はありません。
 外孫にも「ジャック」などなど。ドイツ系とフランス系の名前を交互に付けています。自分が留学したドイツを第一にしつつフランス語の命名をしている点はフランス、パリにも思い出があったからなのでしょうか?。

 館内に記念館の広報誌がありました。読んでみると、この前の企画展示は三男の類に関する資料展示であったそうです。類に関する展示資料や広報誌の(類に関する)記事を読んでみると、類は父鴎外と異なり勉学の道はあまり得意ではなかったようです。が、鴎外も当時は小さかった類をかわいがっていたようです。勉強もあまり長続きせず氏自ら「不肖の子」と呼んでいたそうです。画家を目指したようですが、戦後は書店主や作家として生活をしていたようです。
 思い出しましたが昔、類の死亡記事をたまたま読んだことがあります。当時私は少年であり、一応新聞を毎日読んでいました。読むというより、テレビ欄を見ていただけといった方が正しいです(笑)。ただし、テレビ欄の裏の社会面くらいは読むことがありました。私の感覚としては社会面は「テレビ欄の次のページ」といった位置づけですが(笑)。
 社会欄の下の方に「森類(もり るい)氏(森鴎外の三男、作家)。〇日〇時〇分××のため××で死去。〇歳。自宅は千葉県××町・・・。喪主は・・・。著書に「・・・・」などがある。」とあったと記憶します。
 当時なぜ森鴎外を知っていたかというと中学校の「国語の資料集」に載っていたからです。つまり私は当時「中学校以上」でありました(笑)。
 資料集は中学入学時に配布され、三年間使用しました。といより、御多分に漏れず授業ではほとんど教科書のみで資料集は使用しなかったと思いますが・・・・。
 資料集には「二大文豪」としてまず漱石が。次に鴎外の紹介が載っていました。
 当時の私は「鴎外の子が今まで存命であったこと」に驚きました。個人情報保護などはなかったときなので(死亡した人物の)自宅の住所まで掲載されていたので印象に残りました。どうして自宅が千葉のとある町なのか?とも思いましたが、やはり父が文豪だと子の職業も作家なのだな、と(当時の私は)思いました。ただし代表的な著書が父、鴎外関するタイトルだったので父親のことを主に書いていた作家だったのかな、とも思いました。

 話は戻りますが、木下杢太郎も展示や広報誌の記事に出てきます。鴎外と年齢は親子ほど違いますが、医師で文学者という点で鴎外と共通しています。鴎外の死後も類の子の名づけ親になるなど世話をしていたようです。
 観潮楼の模型もありました。母屋と離れがあり、母屋は二階建てです。ただ、二階部分はさほど広くありません。鴎外が再婚し、東京に戻った後は母屋に鴎外と妻しげとその子供達が住み、離れは母や長男於兎が住んでいたそうです。継母のしげと於兎との間は良好ではなかったことがうかがえます。

↓ 敷地内の壁にあったアクリルパネル「観潮楼跡」の表示。
  写真では判別しにくいですが門前で撮影した軍服姿の鴎外の写真もあります。
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↓ 敷地内の壁にあった碑。「沙羅の木」と題する「永井荷風」の書。
   建立は昭和29年7月9日、鴎外の命日の日付で長男の於兎。
   「父鴎外森林太郎33回忌にあたり弟妹と計りて供養のためこの碑を建つ。(日付) 嗣 於兎」とありました。

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 関東大震災の前年の鴎外が死去した当時とは、第二次大戦の戦後10年近く経過した建立当時とは、かつての観潮楼周辺の風景は激変していたでしょう。空襲で焼けた後のこの敷地の写真も掲示されていました。本当に焼け野原になっていました・・・・・。大戦争を経て、世の中も随分と変わっていた筈です。
 観潮楼の家と土地は、後に人に貸していたと説明にありました。空襲で焼けたときは他人が住んでいたようです。
 年賦によると長男の於兎は鴎外が満28歳くらいのときの子ですから、(碑の建立時)すでに父の没年を超えて還暦も過ぎていたはずです。「弟妹と計りて・・・」の言葉にも、父の再婚後に生まれた母の違う弟妹達に対する配慮が感じられます。反面「嗣 於兎」には「森家の嗣子」という父、鴎外が持っていた意識を更に受け継ぐという意志表示を感じます。
 偉大な父を持ち、自らも東京帝大医学部を出て大学医学部教授とエリートコースを歩み、実母とは生まれてすぐ生き別れ、その生母も少年の頃に亡くし、母の愛情をあまり感じることができずに育ったでありましょう。老境に入りつつあった当時の嗣子 於兎の心境はいかなるものだったのでしょうか。

(文中の登場人物については敬称略)





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森鴎外記念館 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」など見学記

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」として地下の展示室内で開催されていました。常設展示は室内の壁に沿って「L」字状に配置されていますが、室内中央部と常設展示と反対側の壁側が特別展示になっていました。
 近くには幸田露伴や尾崎紅葉らと鴎外の書簡の展示が個人別にありました。「露伴の交流」、「紅葉との交流」といった具合です。
 正岡子規との書簡もありました。近年放映された「ドラマ 坂の上の雲」で鴎外は少しだけ登場していました。日清戦争のときに戦地で子規会った設定でしたが、実際に交流があったのですね。確か、現在の根岸あたりに子規は住んでいたと記憶します。ここ千駄木からも近いです。
 漱石に関する展示もありました。漱石とも手紙のやり取りをしていました。しかし、展示によると実際に会ったのは四回ほどだそうです。お互い知ってはいるが、いつも交流しているわけではないので、「二大文豪」とはいうものの、二人は深い交友関係ではなかったようです。

 ↓ 記念館の南西方向。正面入り口とは反対側の出口付近から。
   ビルの合間に東京スカイツリーが見えます。奇跡ともいえる角度で一直線に見えます。
   スカイツリーに向けて見通しのきくように「わざと」ビルをよけて建てられているかのようです。
   「観潮楼」といわれるように、記念館の南方向は崖になっていました。高台で眺望がききます。
   高いビルがなかった当時ここから「海が見えた」ということに納得しました。

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ちなみに、写真の右、
崖下に立つのは
区立中学校の建物です。















 ↓ 敷地内の壁に掲示していた観潮楼の図面。

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 そういえば、鴎外の(恐らく)最大の庇護者で陸軍のボスであった山縣有朋はというと、大正11年2月に死亡。鴎外はその半年あまり後に死去。有朋の死で燃え尽きてしまったというのは言い過ぎですが、親子ほども年上の有朋と比べてもあまりに早い鴎外の死でした。
 先の記事では「母の影響が大きかった」と書きましたが、職業生活においては有朋の存在が大きかったと思います。「公にあっては有朋、私にあっては母」。この二人の死亡後ほどなくして亡くなっているのは何かの因縁でしょうか・・・。




森鴎外記念館 見学記続き(常設展 後半)

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 
 地下展示室にある常設展の見学です。
 退官後・・・帝室博物館総長に就任します。
 洋画家 黒田清輝らと写った会議の様子の写真が展示してありました。上座には鴎外が座っています。
 
 小さいモニター映像に生前の鴎外の姿がありました。短い映像です。(繰り返し、反復して映像が流れています。)
 当時、皇太子であった昭和天皇が欧州視察旅行を終えて横浜港帰着時の、お出迎えのときの映像でした。大正10年の秋の映像です。つまり鴎外死去の前年のことです。数多くの官吏がお出迎えをしたことがわかります。お出迎えを終わり?、別の場所に徒歩で歩くときの映像のようです。お出迎えを終えた官吏と思われる大勢の人々が歩いて移動しています。背の高い軍服を来た人物が2人で歩いている様子も映っていました。鴎外は映像画面の手前のほうに、ほんの「おまけ」のように映り込んだようでした。
 映像中の鴎外は、フロックコート姿です。現在私達の見る鴎外の公的な写真は軍服ですが、このときは、予備役陸軍軍医総監ではなく、文官、つまり(宮内省管轄の)帝室博物館総長兼図書頭としてお出迎えに参集したのでしょう。
 映像で見る限り、着用しているフロックコートなどと比較して推測すると鴎外の身長は160センチ前後ではないでしょうか。現代の感覚でいうと小柄です。歩く鴎外の姿は右半身を傾けて引きずるように歩き、どこか苦しそうです。健康ではなかったことが推測されます。どちらかというと、「右に体が開いている」のが彼の身体的特徴のように思われました。
 モノクロ画像で(判別は困難で)すが、やや禿頭である彼の顔色は、あまりよくないです。映像で見る限り黒ずんだような顔色・・・・。眼力にも覇気がありません。精力を使い果たしてしまっているかのような姿です。
 実際のところ、実にスタイリユッシュな生涯を送った彼は、死去前年当時では相当に精力を使(い切)っていたとと思います(笑)。
 右足をかばうようではなく、右半身を傾けるように歩く・・・・足腰が悪いのではなく、結核のためすでに呼吸器系や内臓が悪かったのではないでしょうか。内臓といっても胃腸系や心臓系ではなく、肝臓か、確かに(当時の公式発表のように)腎臓が悪いのではないかと思わせるような姿でした。このとき彼は満59歳のはず。現代の感覚でいうと、とても還暦前とは思えない・・・・・・。もっと年齢が上に見えます。

 死去前は6月に初めて医者にかかったと(説明板に)あります。死去当時は腎の病気(萎縮)と発表されたはずですが、今日では結核であったと知られています。受診から死去まで一か月もないくらい・・・・。が、元々この年は体調が悪かったと(説明に)あります。医者でもある彼は自分が結核であることを知っていたのでしょう。
ようやく受診した医者は賀古鶴所の親族(賀古の姪の夫 額田医師)とありました。結核であることが発覚することを憚り、それまで受診をしなかったそうです。かなり、意地を通しています・・・・。

 7月に入り有名な遺書を口述筆記させ、7月9日に死去。61歳。満でいうと60歳。決して長くはない生涯でした。
 死去時の写真やデスマスクの展示がありました。
 墓碑は「中村不折」が揮毫しています。遺言の内容の展示もあり、その中で揮毫を指名していました。「中村不折」の名は漱石の年賦でも登場しますし、「碌山美術館」の彫刻家 荻原守衛の年賦でも登場していました。

 返り見ると、鴎外の人生で「母」の存在は非常に大きかったと思います。館内掲示の年賦によると父、静男は明治29年かに死去。母は、なんと大正に入って、鴎外死去の数年前に70歳台で死去。生まれてから、軍を退官するくらいまで、彼は母と生涯を歩んだことになります。母は「家付の娘」ですから、ことさら森の家内を仕切っていたのではないでしょうか?。
 鴎外の祖母も長命です。館内には父、母、弟、祖母も写った一族の写真も掲示されていました。この祖母の娘が鴎外の母。森家は「女が強かった」ことになります(笑)。


 ↓ 観潮楼の跡地の敷地内の庭。かつての鴎外邸の庭の跡地ですね。
   庭園の中は立入禁止です。初夏のためか草の丈がかなり伸びていました。
   かつての鴎外邸の正門は写真奥の扉の付近だったようです。

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 ↓ 観潮楼の跡地の敷地内の庭を反対側から、表通り方向と記念館の建物。
   隣のビルとも接近しています。

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森鴎外記念館 見学記続き(常設展 前半)

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 「森鴎外」本名、森林太郎。医師でありながら文学者。そして陸軍軍医官しても軍医総監の階級に昇り、栄達を極めた人物。

 展示室は地下にあります。階段を下ります。先にも書きましたが、コンクリート製の要塞に吸い込まれるかのようです。
 地下の展示室の脇に休憩室があり、地上から陽光を取り入れる造りになっています。
 「要塞」の底から上を見上げているような。やっぱり圧迫感を感じてしまいます。土地が限られているせいでもありますが(笑)。

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 ここ森鴎外記念館は、鴎外の旧居、観潮楼の跡地に建設されたとあります。鴎外が30歳から60歳で死去するまでここに住んだと説明にありました。

 旧居には地下室は無かったと思いますが現在の記念館の建物は旧居の地下を随分と堀り下げています。現代建築の手法からすると、暗くなりがちな地下のフロアにも「陽光を採りいれた」斬新的な設計といったところでしょうか。

 展示室は、鴎外の誕生から解説しています。
 順番を追って見ていきます。
 壁沿いに設置されたガラスケースの展示品や説明パネルを見ます。10歳の頃の「かむろ姿」の鴎外の写真もありました。まだかわいい子供でまるで女の子のような姿です。それが数十年もするとやや禿頭で髭を生やしたいかめしい顔つきのおっちゃんになってしまうのですから、老いというのはリアルというか、ちょっと怖いですね(笑)。誰でも平等に老いは来るのですが・・・・。

 鴎外が10歳で上京したことはよく知られています。一家で上京したコースをパネルで図示してありました。それによると、津和野を発ち現在の山口県にある三田尻付近に逗留しています。『三田尻』とは幕末の歴史の地名でよく聞ききます。現在では防府市周辺です。ここは、林太郎の父、静男の実家のある所で数日滞在したと説明にありました。静男が森家の養子であったことは、よく知られていますが、長州出身(正確には周防国だが。だから現在は防府市。)とは知りませんでした。
 父はいわゆる長州藩、萩毛利氏の領地内の出身だったのでした。林太郎がのちに出世した理由のひとつが分かりました。(独断ですが。・・・・。)
 「なるほど林太郎は(長州のすぐ隣の小藩)津和野の出であるが、父の出身は長州であるから『準長州閥』として扱われたのかな。」と感じました。長州出身の元勲や高官は必ずしも萩に武家屋敷を構えていた武士の家の出身ではなく、農民階級や萩以外の領内に住まう足軽や郷士身分(毛利家中に郷士身分があったかは分かりませんが。)、長府や徳山などの支藩出身の武士、その領民であった人も少なからずいたはずです。といいますか、長州出身で最も有名な伊藤博文自身、武士の家の出ではなく、山縣有朋もそれほど高くない身分の生まれだったはずです。
 山陽の交通の要衝『三田尻』が父の出身地であるとは、長州出の高官と地縁、血縁の繋がりでコネクションを取りやすかったでしょう。「薩長の天下」であった明治時代の郷党意識は現代と比べると相当なものであったはずです。こと陸軍のボス「山縣有朋」のヒキを得るうえでは大きなアドバンテージであったはずです。「長州閥」(と認定された)ならば「本流」を歩くことができます。

 さて、森家は「一家をあげて」上京したことがわかりました。ただし、このときの上京は父と鴎外達が先発し、母と妹達はあとから東京にやって来たようです。父の実家に滞在後、ほど近い三田尻の港から船に乗り瀬戸内海を横断、東京に向かっています。東京の旧藩主亀井家の屋敷に入っています。その後は千住に住んでいます。当時では東京といっても千住はかなり郊外だったのではないでしょうか。父、静男は千住で医院を開業したとあります。
 のちに津和野の自宅は売却しているので、何も残さず相当の覚悟をもって(旧主 亀井家にお仕えするという理由もあったでしょうけど)一族で上京をしたようです。

 大学卒業・・・よく知られるように「8番」で卒業のため大学に残る道は絶たれたそうです。
  当初は就職せず千住の父の医院を手伝っていたと説明あります。東京大学の医学部を卒業したのに、いわば「ニート」とはいかずとも「家事手伝い」だったのでしょうか?。
 その後陸軍軍医に採用されて、その辞令などが展示してありました。辞令は複製品で原本は国立公文書館蔵とありました。 

 そしてドイツ留学。有名なエピソードですが帰国直後、女性が追いかけてきて来日、一か月あまりの後ドイツに返し、その後ほどなくして結婚しています。西周の仲介でした。早く結婚させてしまおうという親族の意志があったことがわかります。しかし、長男於兎氏が誕生してすぐに離婚してしまいます。
 以前(といってもずっと昔、学生の頃に読んだ鴎外の伝記だったかも)読んだ書籍では離婚の件で西周とは絶縁(状態)になったと記載してあったと記憶します。一族の出世頭、西周を「切る」とは相当な覚悟が必要だったはずです・・・・。

小倉転任・・・(展示によると)鴎外自身は「左遷」と考えていたそうです。
 しかし、軍にあっては転任はつきもの。とくに左遷というわけでは無いと思いますが、察するに鴎外は「東京勤務」であり続けることが軍界での栄達と考えていたのではないでしょうか。鴎外の強いこだわり(の性格)をかいま見ることができます。オレは帝大出だというエリート意識が相当強かったような・・・。

再婚・・・小倉での新婚生活。
 18歳年下の「美人」といわれた若い細君、荒木しげを自慢する「ノロケの手紙」の複製?が展示してありました。
 が、前妻が(結核で)死亡してから再婚しているのでそれなりに配慮しているようです。再婚は西周の死後でもありました。
 が相当に「面喰い」だったのですね(笑)。

 やがて東京に戻り、日露戦争に出征。
 戦後、ついに軍医総監、陸軍省医務局長に。
 常盤会の歌会の写真の展示がありました。陸軍のボス「山縣有朋」や賀古鶴所が写っていたと思います。柳田国男の兄、井上通泰も写っていました。当時の人脈が分かります。
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文京区立森鴎外記念館 見学記

  2015年6月6日

 6月の土曜日のこと。文京区千駄木の森鴎外記念館にやってきました。
 アクセスは、地下鉄千駄木駅を降り、地上に上がります。地上に出て歩道を少し歩き、交差点を曲がり坂を登ります。沿道にはビルやマンションが林立していますが、その合間には老舗と思われるお店もあります。坂は、団子坂というようです。なぜ団子の坂なのかは理解をしていません・・・。ともかく坂道を登ります。
 
 ↓ 坂(団子坂)の途中から下(千駄木方向)を見る。  

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 坂といっても、すごい急坂というわけではありません。坂を登ると平坦な道になります。急に視界が開けます、といいたいところですが、道の両側にはマンションやビルが多いので見通しはいいとはいえません。

 「森鴎外」本名、森林太郎。おそらく彼は近代日本における最高の天才、秀才の一人でしょう。医師でありながら、文学者。そして陸軍軍医官としても軍医総監の階級に昇り、栄達を極めた人物。
 近代・現代社会で「二足のわらじをはく」人物のはしりともいうべきお方。鴎外については、その作品のみならず第三者による評伝など様々な書籍が発刊されていますし、テレビなどマスコミでも取り上げられることがあり、その生涯は比較的知られています。が、彼は一体どのような人物だったのか?、私は改めてこの「多才の天才」の生涯と事績について知るべくやってきました。
 (ホントはもっと早く少年の頃に知っておくべきだったのでしょうけどね・・・。)

 ↓ 坂を登り切ってすぐのところに「森鴎外記念館」はありました。

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 コンクリートの要塞のような建物。なぜこのような無機質な外観になってのかは分かりません。デザインとしては斬新な近代建築とったところなので、公募か何かでコンペしたのでしょうか?。
 悪いですが、この建物が「鴎外の記念館」とは連想がつきにくいです。
 
 訪問したときは、企画展として「谷根千 寄り道文学散歩」が開催されていました。
 鴎外記念館は開館して3年くらいです。よってまだ建物は新しい。以前は同じ場所に鴎外記念図書館、図書館鴎外記念室があったようですが、記念館として建物を新築し、リニューアルオープンしたようです。

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 道沿いのエントランスは駐車できるようにも見えますが、「駐車禁止」です。記念館には駐車場はありません。
 下の写真は登ってきた団子坂の方向です。入口も見えます。

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 入館料を支払います。館内は撮影禁止。建物入口に鴎外の胸像がありますが、これも撮影禁止でした。
 大人は500円。特別展開催期間中の料金のようです。あとで知ったのですが、文京区内の博物館、資料館などの公共施設と「相互割引き制度」があり、半券を提示すれば入館料が割引になる制度です。
 対象には「東洋文庫ミュージアム」もあったので、ここ森鴎外記念館を見た後に見学した「東洋文庫ミュージアム」の入館料900円が実は割引きになったのです・・・・。今となっては仕方ないですね(笑)。
  
 展示室は地下にあるそうで、いきなり階段を地下に降ります。潜っていくような感覚です(笑)。
 
 下の写真は記念館の入口の自動ドア。
  人が写っていないのでドアの高さが分かりにくいですが、巨大に感じます。
  高さ三メートルはあるような感じです。
 
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 あたかも、コンクリート製の要塞に吸い込まれるかのようです。ドアがガラス製でなく、館の内部が全く見えない。道路沿いの外観を撮影した写真を見てもわかりますが、建物の壁窓にもが無いので圧迫感、威圧感があり、一層「要塞感」をかもし出しています。
 ドアの高さは隣に置かれた「自転車」の大きなから逆算してください(笑)。




「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」トークショー(拝聴記 最終) 東洋文庫

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(トークショー)。続きです。

高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。
 「ミトコントリアDNAはデータベースがある。自分のものを調べると母系は礼文島のそれと近かった。礼文島に縄文人の住居遺跡があり、出土品にはヒスイがあったり大陸にしか無い貝の殻があった。ヒスイは新潟県の糸魚川が産地であるし、昔(海面が低かったので)サハリンは大陸と繋がっていた。」
 「日本人はどこから来たのか?。 縄文人は二重まぶたで背は低い。顔の彫りが深いのは沖縄の民族やアイヌ民族にみられる。弥生人は一重まぶたで背は高い。メインのルートで、朝鮮半島から渡ってきた。最後に来たルートは沖縄の海のルートではないか。」

 映像が流れました。「グレートジャーニー」が完了した後の新たな海の旅の様子でした。この映像は二年前に開催された国立科学博物館の「グレートジャーニー展」で見たことがあると思い出しました。
  航海に使用する舟は、すべて手作りで道具も手作りしていました。まずは道具造りから。千葉の九十九里海岸で磁石を使って砂鉄を集めています。たくさんの人が作業しています。学生のような若い人が多かったです。
 砂鉄を集めて、たたら製鉄の手法、ふいごで空気を炉に送り、ドロドロに砂鉄を溶解させ、型をとり、斧の形に鉄を鍛冶師が打っていました。『キンコン キンコン』と鉄をたたく音が(映像から)聞こえてきました。
 道具を製作すると、インドネシアで大木を切り、くり抜いて舟の本体をつくります。帆やロープも植物繊維から作っていました。舟の防水のたの塗料もヤシの油だったと思います。
 「砂鉄は120キロ集めた。実際の斧などの道具の重さは5キロ。製鉄をするための炭を焼く必要がある。300キロの炭が必要で炭を焼くために3トンの木を切る必要がある。つまり、5キロの鉄をつくるために3トンの森林伐採が必要です。鉄というのは、文明の発達、軍事力の象徴でもある。人類の文明の歴史は森林伐採の歴史でもあった。」
 のようなお話もありました。

 映像が終わったところで、再びお話が。
 「自然に抗うことはできない。科学で自然を変えることはできない。航海は『五感』でわかる。チャートは必要としない。例えば月の大きさなどで分かる。
 医療も同じで五感に頼るところがある。まず顔を見て、座る様子を見る。打診、触診、内診などで診断する。最近の医者はCTを取って、採血して、モニターを見て・・・・、患者を見ない・・・・・・・。昨日は医師の集まり(学会?)で講演したので、そのようなことを医師から聞いた。」 
 ここ隣の隣には既述のとおり日本医師会もあるので、医師でもある氏にとっては(東洋文庫のある)駒込界隈はなじみ深いのでしょうか。

 「航海は最初の1年で舟の製作、次の1年で航海の予定だった。(大学の自分のゼミの)ゼミ生の2名が航海に参加した。航海は試験航海では1日に40キロ進んた。しかし、目的地に向けて航海すると思うにように風が吹かない。なぎの日もあった。試験のときのように、風を探して方向を決めずに航行するのとは違った。航海は足掛け3年かかった。途中で『3.11の震災』もあった。ゼミ生はずっと航海に参加してくれた『僕たち、もうまともに就職できません。』と言っていた。(会場、笑)。その後、彼らも就職したが『(先生)また何かやりませんか?』と言ってくる。(会場、笑)」
 砂鉄集め、道具造り、舟造りで多数いた若い人は学生のゼミ生だったのだと分かりました。
 最後にまとめのお話です。
 「人間は二本の脚で歩いたから『家族』を作った。言葉というものを生みだした。人間は10か月に一回、出産をすることができる。ゴリラは5年に一回しか(子を)生まない。ゴリラは握力が500kgもある。とても強い生き物。森の中を支配しているので子孫をたくさん増やす必要がない。
 現在、新宿区では生まれる子の4人に1人はどちらかの親が外国人だそうです。新たな人間の移動が始まっています。現代の『グレートジャーニー』です。」

 ↓ 2013年の国立科学博物館「グレートジャーニー展」で撮影した舟の写真。
   実際に航海した舟の実物だったと思います。この舟で小さい舟で
   インドネシアから石垣島まで、航海をしていました。
  
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 お話の終了後は、再び司会の女性職員が立って場を仕切ります。最後に質疑応答の時間がありました。
 3人くらいが質問に立ちました。一人はかつて氏が所属した大学探検部の学生と名乗る若い男性でした。
質問内容は忘れてしまいましたが「探検とは?」というような観念的な質問でした。続いて年配の小柄な女性が「2年前の科学博物館でのグレートジャーニー展も拝見させていただきました。」と前置きをしてから質問をしました。
  終了したときは、16時を過ぎていました。
 終了後、聴衆はどっと会議室を出ていきました。私も階段で一階の下りて、図録を購入し、館外へと出ました。

※このブログに書いたトークショーの内容は、私が当日聞いた記憶や聞きながら時折とったメモを中心に書いています。そのため、実際とは異なる点や記憶違いもあると思います。

 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会 その4

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(トークショー)。続きです。

高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。
 アマゾンのお話
 「(先住民の)マチンガ族には名前がない。名前がある人もいるが、一人くらい。たとえばタローがいて、他の人はタローの弟、兄、子といった具合に呼ぶので(名前は一人くらいが持っていればよい)。
 『川』が彼らの共通の地図。『アンタどこの川から来たの?』と聞かれる。川には名前がついている。(彼らの世界は森と川でできている、というようなお話もあったと記憶します。)」
 「当時、私は国立に住んでいたので『多摩川から来た』と答えた。」(会場、笑)
 「その川はどこか?」などと聞かれた。(××日くらいかかる、と答えて先住民が目を丸くしていたというようなお話がさらにあったと思います。)

 「アマゾンの先住民は私達にとって『別の地図を持つ人達』。私達は共通の地図を持っている。(ペルーのアマゾン流域地帯から山脈を越えて)アンデスに行くと学校がある。シベリアにも学校はある。(つまり共通の地図を持ち生活をしている)。ソ連は医療と教育は無料。才能のある人は高い教育を受けることも可能だった。
 私達と共通の地図を持っていない人は、エチオピアの南部、アマゾンのジャングル、ニューギニアの奥地など1000人くらいではないだろうか。残りの99.99%の世界の人は『共通の地図』を持っている。」

 話は少し替わります。
 「(関野氏は)最初、大学の文系の学部を卒業した。その後、大学の医学部に入学した。医学部の夏休みなどの期間はアマゾンに行った。卒業後、外科の医師となった。アマゾンの先住民達とは友達付き合いをすることをしてきた。治療対象としてではない。
 現地に伝統医療がある所ではそれを壊さないように心掛けた。西洋医学を持ちこめばよいのではない。アマゾンにはシャーマンがいて医療行為をする。動物の鳴きまねをして悪霊を追い払う。あるとき、(氏が医師であることを知った)シャーマン『あたまが痛い』と言ってきた。実は(シャーマンは)幻覚剤を服用していたで頭痛がしていたのだった。(シャーマンは氏に対して)敵視はなかった。薬はあまりあげないようにしている。西洋医は薬を与えて治らないけど『頭痛を治す』。
 チベットにはラマ僧がいる。五人に一人が僧と言われるくらいチベットは僧が多い。ラマ医は『アムチ』という。漢方医に近い。アムチが真っ先に私のところに治療に受けに来た。
 伝統医療は『治ればなんでもよい』。たとえば、腰痛のある人がいるとする。整形外科に行く。整体に行く。カイロプラテックに行ってみたりする。実は日本人(の考え)とよく似ている。日本は神道と仏教。ありがたければ何でもよい。アマゾン、アンデスにも自然信仰があった。南米はカトリックが主流。カトリックは一神教だが自然信仰も残っている。スペイン人が入ってきたときに神殿を破壊したが。」
 

 ↓ トークショー終了後の会場の様子。
 
 
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「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」 講演会 その3

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」のトークショー。
 高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。

 ↓ 「ブラウの大地図展」の告知バンフ。
   関連する講演会や私が聴いた「記念トークショー」の案内が掲載されています。
   すべてはこのパンフを公民館でたまたま入手したことから始まりました。
 
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 南米(の先端部)にいた人はどこから来たのか?。人類はアフリカで生まれた。(ルートを)逆にたどりアフリカへ辿る旅が「グレートジャーニー」とのお話です。

 「グレートジャーニーは近代動力に頼らない旅。 」
 ここで映像が流れました。会議室の照明が落とされ、前方に垂れ下がったスクレーンに写しだされます。(つまり、プロジェクターです。)
 オリノコ川の激流の様子やアラスカからシベリアに渡るときのカヌーを漕ぐ様子の映像などだったと記憶します。 
 実は旅の最初の方の南アメリカ編や北アメリカ編のテレビ放映は当時見たことを記憶していますが、アジアに入ってから、特に中央アジア編やゴールに近い中東やアフリカ編は見ていなかったと思います。

 なぜかというと、旅の(番組放送が始まった)最初の頃、私は学生である程度視聴する時間があったからです。私自身も少年の頃から、世界の色々な地域の様子について興味を持っていたので(番組を)見ました。その後は社会人となったので見る時間(と気力)が無かった(無くなった・・・)から見ていなかったような・・・。学生の頃は『自分もいつかは世界を巡る旅に出てみたいな。』と思っていました。自分に重ねて投影することが可能でした。若い頃は・・・・。
 しかし、いざ社会人になると現実の仕事に追われて、次第に興味が無くなっていってしまいました。夢を持つことが難しくなり、「現実直視型」になりました。さらに家庭を持つと一層「毎日の生活中心」になってしまいますからね(笑)。
 
 話は戻りますが、トークショーの合間に投影された映像は、当時のテレビ放映とは別の機会(予告編など)にたまたま見た一部の映像や二年前の科学博物館の「グレートジャーニー展」で見た映像などと記憶が重なり「テレビ放映自体は見ていないが、少しばかり見た記憶のあるな。」と感じました(笑)。
 旅のゴール近く、アフリカの「ンゴロンゴロ自然保護区」を自転車で走る映像も流れました。

映像の後、氏が解説します。
「 ンゴロンゴロ自然保護区では本来車で走るのみで、途中で車を降りることも許可されていない。どうしてもゴールは自転車で走りたいので『南アメリカから自転車、カヌーなど人力でやってきた。』と説明したら、驚いてタンザニア政府はレンジャーの同行を条件に特別に許可してくれた。保護区ではヌーやガゼル、ゼブラなどが野生で暮らしている中を(自転車で)走った。ライオンやヒョウはいないことを確認してから走った。」

 シベリアのお話
「トナカイのソリを使用した。動物は言葉がわからない。(動物の)1.5m先にエサを付けて(つりさげして)ムチを打って走らせた。トナカイにも賢いトナカイト賢くないトナカイがいる。賢いトナカイはムチをたたくふりをすれば走るが、賢くないトナカイはムチで打たないと走らない。」会場「笑」。トナカイは犬そりよりもパワーがあるそうです。
 「犬ソリは言葉で操作できる。ただし、言葉は四つだけ。右、左、進め、止まれのみ。」

「ヒトは熱帯生まれた。ヒトに近いサルの場合 日本サルは下北半島が北限。(そこより北には日本のサルはいない。) 
 (人類は)寒いのが苦手。ヒトの皮膚は(温度が)ゼロ度でもよい。肝臓、腎臓、心臓などは体温が30度以下になると死んでしまう。機能が停止してしまう。水中も怖い。水中で体温が低下すると命の危険がある。
 人類が北緯60度を超えたのは3万年前。一番重要だったなは何か?。それは『縫い針』の発明だ。熱帯では服を羽織るだけでよい。(しかし、寒い地域ではそうはいかない。)ブーツ、毛皮の服、帽子など『暖かい空気層』のある衣服をつくることができるようになったから。もちろん、その他に住居などの条件もあるが。 食べ物は寒い地域にも大型動物はいるので困らなかった。」
 医師ならではのお話もありました。

 「なぜ、寒い地域にもヒトは行ったのか?。『好奇心』や『向上心』ではないのではないか?。『弱い人』だったからではないでしょうか?。ある土地に定着すると人口が増える。そうよると(ジャマになった?)出ていく人がいる。弱い人が突き出しされて出ていく。(例えば)南米の先端に住む先住民(先端まで行った人)は好き好んで行ったわけではない。ただし、(追い出しされた人が)必ずしも弱い人ではなく、イギリスや日本のように軍事力や経済力を付けて追い出した人よりも強くなった例はある。アメリカもそうで、イギリスを追われて新天地を求めたピルグリムファーザーズの例もある。」

 ↓ トークショーが終わった後の会場。東洋文庫二階の会議室での開催でした。

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「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」講演会 その2 

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会。続きです。
 正確には「トークショー」なので固苦しいお話ではありません。
 高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。
  アマゾンには学生のとき以来20年間通っていたそうです。
 だいたい次のようなお話でした。
 「アマゾンに学者やジャーナリストの人を案内することがあったが、何もないところで(彼らは)感動していたので不思議だった。(アマゾンは本流ではなく、支流などが面白いのだが。)
 南米の先住民族は日本人と、似てハニカミ屋。顔付き、体格、しぐさなども、似ている。あいさつをこちらからしても、一回しか返さないし、握手をこちらからしてもあまり握り返さない。
 なぜ似ているか? (南米の先住民族は)獲物の動物を追いかけて、(アマゾンに)やってきたことは知っていた。
 (ひちくちに人種を)モンゴロイドとくくることはできない。モンゴロイドは蒙古班があると言われている。が、蒙古斑がない民族もいる。モンゴロイドと言われているくらいだから、元々はモンゴル、シベリアのあたりの民族だろうが、シベリアに行っても(蒙古斑のある、ないは)分からない。
 シベリアのチュコト半島にチュコト人という、民族がいる。チュコトの伝説に『人間は死ぬと天に昇り、また精霊になってもどってくる。おかあさんのお腹の中でお尻もたたいたから、青くなる。』というみのがある。お尻が青くない赤ん坊もいるといることだ。(つまり蒙古斑がない)
 西洋人、いわゆるコーカソイドには2-4%くらいのおしりが青い人がいる。(蒙古斑がある)。モンゴロイドでもおしりが青いとはかぎらない。
 ネグロロイド、コーカソイド、肌の色の黒さは紫外線によるものだし、血液型でも分けることはできない。遺伝子でも特有なものはない。ただし遺伝子としては、九州の人やチリの先住民族に白血病の一種が多いことが知られているが。」
 という医師ならではのお話も。
 私も四国~九州に白血病が比較的多いという話は実は「家庭の医学」等の市販の医学書でも読んだことがあります。
 

 「どこかで人種を切ることはできない。(関野氏自身は)自転車で旅したが、(中国で)漢人の地域を通り、ウイグル族自治区に入ると人々の顔立ちはだんだんエキゾチックになる。
 国境を超えて、旧ソ連の国、キルギスに入ると日本人に似ている、次のカザフスタンに入ると日本人に似ていない。
 (次の国の)トルクメニスタンに入ると、ここは独裁国家。終身大統領がいて、食堂などに入ると大統領の肖像画がある。ここでは『ソ連』が残っていて、旅行するには大変厳しい。旅程はあらかじめ決められていたが、宿がないときは民家に泊まってよいと、言われていた。(宿がないところで現地の)民家に泊まったら、その家の人々は日本人によく似ていた。

 カザフスタンからやってきて、人々を見てみると、グラデーションというか、徐々に(人種が)混ざっている。
 元をたどれば、みなアフリカで生まれた。
 700万年前に猿人が登場した。身長はは120センチくらい。脳の重さは500グラムくらい。直立歩行をしていた。アフリカのチャドで発掘された。私が子供の頃は猿人の誕生は100万年前と言われていたが。現在は学説が異なっている。
 次に原人。原人はアフリカを出た。ジャワ、北京原人などがいる。20万年前にホモサピエンスが登場した。改めてアフリカで生まれた。(ホモサピエンス)6万年前にアフリカを出た。ネアンデルタール人と1-2%混血している。」

「6万年前は現在の白人も同じところにいた。紫外線・・・ないと困る。ビタミンD。これは皮膚で作られる。(肌が)白くなった人は(適応して?)北欧で生き残った。

 ただし、急激な変化は起こらない。たとえば、北オーストラリア・・・今から100年くらい前にイギリス人が来た。彼らは皮膚は日焼けして赤くなるが、黒くはならない。

 皮膚の色は紫外線の強さ(などで決まる)。皮膚の色で人種を区別して優劣をきめることほどバカらしいことか。もとをたどればみな同じです。」
 「皮膚の色で人を区別することがどれだけバカらしいことか・・・。」というフレーズが私の脳裏に焼き付けられました。
 講演は、内容盛りだくさんです。更に続きます。



「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」関野氏トークショー IN東洋文庫ミュージアム

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(正確には「記念トークショー」)。
 「ブラウの大地図展」に関連しての企画です。
 前述のとおり妻が偶然見た告知パンフを見て知ったのでやってきました。事前に電話して予約を入れていました。氏が旅をした「グレートジャーニー」を私もテレビで見ましたし、「グレートジャーニー 」展がちょうど二年前に国立科学博物館で開催されました。私も子供を連れて見学したので、当時の企画展を補完する意味でもやってきた次第です。
 講演会は14時から。その前に一時間くらいで駆け足で「東洋文庫ミュージアム」内の展示と「ブラウの大地図展」を見学しました。結構慌ただしかったです(笑)。次回はもっとゆっくり見たいですね。
 
 「東洋文庫の名品」の展示室を見学し、「回顧の路」を通って「ブラウの大地図展」の展示室へ。何とか一通り展示を見て、一階に下りて出口を出て、再び二階に登って講演会の受付へ・・・と思いしまたが、モリソン書庫前の通路から、二階の会場の会議室へと抜ける通用ドアが開いていました。実は壁一枚で有料の展示室と会議室はつながっていました。ドアを開ければ(通れば)すぐ到達です(笑)。このとき開演の5分前でした。展示室内にいた人も次々に通用ドアをくぐって会場へと向かいます。年配の男性が多かったように思いました。皆、展示を見ながら開演を待っていたのですね。
 しかし、必ずしも講演会参加は有料入館が条件ではありませんでした。会場の二階会議室は有料ゾーンに入ることなく、建物の入口に直結している階段から登ってくることができることに気付きました。そのため、(有料入館はせずに)講演会だけ聞きに来た人も多数いました。

 (講演会が終わった後、有料ゾーンとを結ぶドアを通って有料展示室内に戻ろうとしましたが、閉まっていました。講演会前にしか開かない『本来は関係者用のドア』のようです。)
 受付で名前を告げて会議室内に入ります。すでに席は配置されていていました。と、前にはプロジェクターとスクリーンが用意され、すでに関野氏の姿がありました。氏は係の人と打ち合わせをしています。Tシャツ姿のずいぶんラフな格好です。前の方の席には余裕があるので前方の席に座ります。後方で講演会の模様を撮影するビデオカメラがすでに設置されていました。

 やがて室内はほぼ満席になりました。席の数は100以上はあったでしよう。学校のように机とイスの教室形式ならば100名が入るくらいの大きさですが、机はなく、イスだけの設置だったので150名はいたでしょう。
 実はこの講演会のためだけに来た人もいるようです。会場の会議室は自由に入れるゾーンにあります。よって入場しなくても講演会を無料で聴くことは可能でした。
 講演会の司会は、「MA」ミュージアムアテンダントの方ではなく、職員証を提げた私服姿の若い女性でした。学芸員の方かは分かりません。

 ↓ 二階部分の渡り廊下の上に置いた机で講演会の受付が始まっていました。 

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 講演会が始まりました。席は満席となりました。まずは、関野吉晴氏の紹介から。医師で探検家であることはテレビを通してもよく知られています。私も元々知っています。現在は、武蔵野美大の文化人類学教授。医師であるのに美大の教授とは異例です。先に見学した鴎外記念館の「森鴎外」と同じような「医師にして二足のわらじ」を履いている方です。

 氏のお話が始まりました。本講演会は「ブラウの大地図展」に関連する講演会です。関連講演会はいくつかあって、この日は関野氏の講演ですが、別の日には大学教授の方によるフェルメールが地図を作中に描いた理由についての講演会など、専門的な内容です。
 冒頭で氏からは「今日は(こちらで、と展示室の方向を指して)地図展をしているが、地図の無い時代のお話をします。」といきなりのカウンターバンチのようなお言葉。「大地図展」に関連する講演(正確には「記念トークショー」)ですが、確かにグレートジャーニーの旅はその通り「地図のない旅」でありました!!。これは、すごいツッコミです(笑)。

 続くお話の内容の概略は次の通りでした。

 「20代はアマゾンに通った。当時通っていた大学には探検部がなかった。そこで、早稲田の探検部に入れてもらった。ナイル川を下ったが退屈だった。流れがゆったりで、その上、川幅がひろいので。しかし、上流の源流部は面白かった。次いでアマゾン川下りをした。本流を下っても大体しか分からない。(面白くない)。(支流の方がも白い。支流沿岸にはには原住民の生活がある。)文明化していない人をアマゾンでみた。その後10年くらいアマゾンに通った。ペルー(のアマゾン側)が一番面白かった。
(世界各地を探検したのではなく)20年間南米しか(行ったことがないので)知らなかった。
 
 「ペルーのアマゾン地域が面白かった。」という理由は、その支流地域での原住民の生活を体験し、彼らと交流を重ねたからなのでしょう。
 講演は更に続きます。

 ※このブログに書いたトークショーの内容は、私が当日聞いた記憶や聞きながら時折とったメモを中心に書いています。そのため、実際とは異なる点や記憶違いもあると思います。



「ブラウの大地図展」 東洋文庫ミュージアム 見学記(最終)

  2015年6月6日

 「東洋文庫ミュージアム」の『ディスカバリールーム』で開催中の「ブラウの大地図展」を見学します。
 
 アジアはというと、インドは正確なほうですが、日本はあまり・・・。でも大きく島が描かれています。実測よりも大きく描かれているとは、それだけ当時の日本の様子がヨーロッパに伝わっていたのでしょう。
 当時は清朝だった中国本土は意外にも小さく描かれ、むしろ東南アジアの方が詳しく描いてあります。マレー半島にベトナム、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、フイリピン群島など。特にジャワはオランダ領東インド統治の中心となる島ですから実際よりも大きいです。当時はイギリスもここに進出してきていたし、激しい植民地獲り合戦が繰り広げられたと思います。従って、より正確地図が必要だったのでしょう。『地図を制する者は国を制する』といったところでしょうか。
 現在のニューギニアより東が空白です。オーストラリアとその周辺地域のヨーロッパ人進出はもっと後だったと思います。測量が進んでいなかった様子が分かります。
 しかし、1600年~1620年代の時点で、熱帯の島々、ボルネオ、セウェラシ、ジャワ、スマトラまでかなりオランダの支配が進んでいたことがわかります。
 小さい島の都市ですが、重要な香辛料の産地であったモルッカ諸島に近い都市「アンボイナ」も形成されていたのでしょう。ただ、地図ではアンボイナの様子までは判読できませんでした。

 ↓ 東洋文庫発行の「ブラウの大地図展」図録より。
   アジアの様子。中国と東南アジア、インドなどが一緒に描かれています。

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 写真は展示の後半部ともいうべき箇所です。右の平ガラスケース内には日本の重要文化財に指定されている「ジョン・セーリスの航海記」が展示されていました。
  ↓「ジョン・セーリスの航海記」の現物。こちらもフラシッュ禁止ならば撮影可能です。

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  ↓ 写真は展示室(ディスカバリールーム)。
    向かって左のガラスケースに「大地図」が展示されています。
     向かって右の平ガラスケース(上部がやや斜めになっているが)に重要文化財
     「ジョン・セーリスの航海記」が展示されています。
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 「セーリス」は1600年代のイギリス航海士で、家康にも謁見したことがあると説明にはありました。
 オランダ、ブラウの地図よりも数十年早い、イギリス人でした。イギリスを出航し、日本に航海し再びイギリスに戻った記録とのこと、今までセーリスについて知りませんでした。

 ブラウの地図帳、2011年に再発見されてから今回の公開となったのですが、「ブラウ」とは出版社の経営者の名前でした。今まで知りませんでした。親子で出版業を営む一族であり、測量をブラウ一族が行ったわけではありませんでした。現在知られていないのは、後年火事で地図の原版を焼失したからなのでしょう。火災の翌年、当主のブラウさんも失意のうちに亡くなった、と説明にはありました。

 展示室内には常時私も含めて二~数名がいるといった混雑度合でした。看視用の席もありましたが、MAの方は座っていませんでした。この展示室『ディスカバリールーム』一室が「大地図展」の会場でした。細長い、あまり大きくない部屋です。外観のビルの大きさと比べると展示スペースは広くないので、やはり東洋文庫はあくまで図書の収蔵・研究がメインなのだなと理解しました。2011年という、つい最近まで一般公開されていなかった理由も分かったような気がしました。

 実は、講演会(トークショー)終了後、受付で図録を買いました。500円台と安価です。A5サイズのコンパクトな図録で助かります。特に国立博物館や大きな美術館などで開催される展覧会の図録。実は大きな図録というのは、あまり必要でなくミニ図録はないかといつも思っていました。ここの小さい冊子の図録はピッタリです。 
 しかし、図録に掲載された地図は文字が小さくて地名が読めないです・・・。実際の展示はガラスケースに顔を近づけて地名を判読しようとしていましたから、図録に期待したのですが、文字が読めなくて残念でした。図録は地図の雰囲気を楽しむような物、という位置付けになってしまいました(笑)。












「ブラウの大地図展」 見学記続き 東洋文庫ミュージアム

  2015年6月6日

 「東洋文庫ミュージアム」の『ディスカバリールーム』で開催中の「ブラウの大地図展」、正確な主題と副題は「大地図展 フェルメールも描いたブラウの世界地図」を見学します。

 「フェルメール」作品に描かれている地図の展示がありました。ガラスケースの手前にフェルメール作品の複製品が置かれています。説明には「地図の色が反転して描かれている」とあります。
 どういうことかというと、ブラウの地図を色彩もそのままに、まるごと写している(いわゆる『丸写し』)のではなく、フェルメールは海の部分を色を濃くして描いています。フェルメールの作品中では、どちらが海でどちらが陸が分かりにくくなっています。地図をそのまま写すのではなく、背景としての装飾性を重視したようです。
 余程詳しい人でなと、説明文を見ずにフェルメールの作品中、絵の中心たる女性のうしろの壁にかかる物が「地図」、しかもネーデルランドの地図であるは判別できないです。
 私も「どれが地図なのか?」と複製のフェルメール作品を目をこらしてみました。ネーデルランドの地図といっとも広域の地図ではなく、とある入江、内海の『輪中』を含む複雑な海岸線と北海に面したまっすぐ伸びる砂浜海岸の地形を拡大で描いています。海岸線の弧を確認して、ああこれが陸地でこっちが海なのだなと分かりました。

 ↓ 東洋文庫発行の「ブラウの大地図展」図録より。
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 続いてアフリカやアメリカ大陸などの地図。大陸が一ページの地図にまとまっています。北アフリカは文明が福から開けてヨーロッパ史とも深く関連しているので、実際の縮尺よりも大きく、詳しく描いてあります。現在のサハラより南、特に南半球のアフリカは小さくなっていて、海岸線はかなりわかっているが、内陸の測量までは進んでいないのだなと分かります。
 地図の両脇には、大陸の先住民族と思われる人々が描かれています。
 特にアメリカ大陸の先住民族の描写はリアルです。衣装をまとい、道具をもっています。髪や肌、体格、衣装が写実的に描かれています。
 当時のヨーロッパ人から見た先住民族の様子が分かります。当時の先住民族の習俗、文化まで知ることがてせきます。

 ↓ 東洋文庫発行の「ブラウの大地図展」図録より。
     アフリカとアメリカ大陸の部分。

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アフリカ大陸やマダカスカル島の地図は現代のものとあまり変わりません。
 当時でも相当に沿岸の測量が進んでいたことが分かります。






























  南北アメリカの地図は、アフリカと比べると、探検や測量が進んでいない様子が分かります。
 北アメリカは現在のアメリカ南部、カリフォルニアくらいまではカラー印刷ですがその北は白く空白地帯が多いです。当時の植民地の状況が分かります。

  南北アメリカはスペインとポルトガルの植民地ですが、いかんせん地名の文字が小さいので都市の名前が判別しにくい。銀山有名なポトシや南米地域統治の主要都市リマなどは読めたような・・・。ポトシには鉱山のようなマークがあったようなも見えました。
 ヌエバ・エパスーニャの主都 シウダー・デ・メヒコを探してみました。なんとか判別できました。文字や絵記号は小さいので分かりにくいです。昔のアステカの都、ティノティティトランの跡地に建設されたのがスペインの植民都市シウダー・デ・メヒコなのです。
 当時の副王領やアウディエンシアごとに境界線で区別されているようです。現在の中南米の国境とも似ています。

 イベリア半島の地図の説明で当時は「スペインとポルトガルは一体化していた。」とありました。
  ↓ 東洋文庫発行の「ブラウの大地図展」図録より。
 
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 スペイン・ポルトガルのイベリア半島の部分はエスコリアル宮も描いてあるようですが、分かりにくかったです。イベリア半島のほぼ中心部にあるフェリ二世が建設した大宮殿です。
 カスティーリヤ、グラナダ、カタルーニャナヴァラなど当時の境界も描いてあります。ひとくちにスペイン、エスパーニャといっても別々の王公領地の集合体だったのですね。
 スペインとポルトガルの王を兼ねたのはフェリペ二世からで、ブラウの地図の時代もスペイン・ハプスプルク家がポルトガル王だったのでした。
  フェリペ二世の母でカルロス・キントの妃イザベラ(イザベル)はポルトガル王の娘ですから。もっともカルロス・キントと妃イザベラはその母親同士が姉妹だったはずです。「いとこ婚」でしたね。

 











「ブラウの大地図展」 東洋文庫ミュージアム 見学記

  2015年6月6日

 6月の土曜日のこと。文京区駒込の東洋文庫にやってきました。
 「東洋文庫ミュージアム」で開催中の「ブラウの大地図展」を見学します。
 「東洋文庫の名品」の展示室を見学し、案内表示に従って「ブラウの大地図展」の展示室へ。細い廊下のような通路を歩きます。ちようど、モリソン書庫の裏側にあたる部分が通路になっていました。「回顧の路」と名付けられています。この通路で写真は撮っていないのですが、通路の突き当りには大地図展にちなんで「オランダ東インド会社」のコインが多数展示されていました。日本語では「会社」と翻訳されいますが、「東インド会社」の実態は通貨の発行、貿易の独占、居留地経営などなど実は「国家」のような体裁だったのではないでしょうか。
 回顧の路を抜けると「ブラウの大地図」が展示されています。

 ↓ 写真は展示室。向かって左のガラスケースに「大地図」が展示されています。

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写真は展示の後半部ともいうべき箇所です。右の平ガラスケース内には日本の重要文化財に指定されている「ジョン・セーリスの航海記」が展示されていました。













 展示の最初は関連展示パネルから。いきなりブラウの大地図の展示ではなく、16世紀後半の地図や航海記探検記の説明がありました。
 「アントワープからアムステルダムへ」の説明で、なぜアムステルダムが発展したかを理解できました。世界史では「フランドルのアントワープは重要な貿易港だった。」と説明されますが、その後は(アントワープ)なぜかパッとしません。土砂が堆積して港が海から遠くなったのも理由のひとつと思いますが、もっと重要な理由があったのです。
 アムステルダムの発展の歴史=オランダ独立の歴史であったのです。フランドルといえば、ブルゴーニュ公ヴァロワ家の領地を経てタナボタで婚姻による相続によりエスパーニャ・アプスブルゴ家の領地だったはず。なぜオランダになったかというと、カルロス・Ⅴ(キント)の息子、フェリペセグンドがカトリックを強制したそうで・・・。独立戦争を起こすほどですから、相当だったのですね。
 現在オランダは歴史ある王国というイメージが強いですが、私に言わせればオランダは「新しい国、新天地、権力にも支配されない、自由の国なるぞ。」です。(オマエが言うなって。笑。)いわば『北方のヴェネツィア共和国』です。その後、ナポレオン時代を経て変わっていったのでしょうけどね。
 現在でも日本で禁止されているコトがオランダでは合法化されています。例としては、え~っと・・・に、×××に、〇〇など、これ以上書くのは『憚れるので』ヤメておきますね(笑)。「自由の国 オランダ」考えは現代においても受け継がれているのではないでしょうか。
 説明によると16世紀初めのアムステルダムの人口は一万人程度。当時フランドルのガンで生まれたハプスブルグ家のシャルル(のちのカルロス・Ⅴ=カール五世)が少年の頃です。100年以上後の1620年には20万人、1650年には20万人。単に独立戦争による人口流入のみならず、その後のオランダの海外進出と貿易による繁栄とも密接に関係していることが分かりました。
 
 続いてガラスケースの中に「ブラウの大地図」があるページを開いて展示されています。タテ1メートルまではいかないと思いますが、大きな装丁の本です。書籍展示のむずかしさでガラスケースの中では、たくさんあるページのほんの1ページのみしか見ることができないのが残念です。
 ヨーロッパの地図が開いてあります。地形は現在の
地図に似ていますが、現代の地図と比べると正確ではありません。が、当時の高度な測量技術の一端を知ることはできます。地図中には、細かく地名が記入されています。豪華なカラー刷りです。海には船の絵を描いていたりと、装飾性が高いです。縮尺の大きい(広範囲を示している)地図では、当時の衣装をまとった人物の絵が地図の両端などに描いてあり、当時の風俗を知ることができます。

 上の写真にもある通り、展示室内は細長いです。決して広くはありません。他の二階の展示室や一階の展示室も含めて決して「ミュージアム」のスペースが広いとはいえません。東洋文庫はどちらかというと、公開、展示よりも専門図書館としての研究に力を入れていると感じました。ではその研究活動の財政的な裏付けはというと、以前は、(先ほどここに来る途中に見た)道路看板にあったように「国立国会図書館東洋文庫支部」としての交付金がありましたが、現在は国会図書館の支部ではないようです。すると税金から運営資金がでているわけではない。(研究事業などの補助金はあると思いますが。)やはり、強力な三菱グループ企業の寄附でしょう。だから、私のような一般人(パンピー)が入場する「ミュージアム」の料金収入は当てにせず、公開部分をあまり広くとる必要はなく、運営できるのでしょう。恐れ入りました!!!。
 余談ですが・・・・、
 室内には空いているイスがひとつありました。「ミュージアムアテンダント」が看視のときに座るイスと思いますが、無人でした。MAの方も忙しいのでそこまで看ていられない、といったところでしょうか。



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