良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2015年12月

 

鳥取県琴浦町 松葉がに 平成27年度ふるさと寄附金 お礼の品

  鳥取県琴浦町より「松葉がに」が届きました。 

 以前も書きましたが、なぜか、このブログの検索キーワードで引っかかる件数が多いのが「ふるさと納税 琴浦 」、「ふるさと納税 かに」などの「カニ関連」のキーワードです(笑)。 実は(かにのシーズンではない)春や夏でも検索されます。
 昨年、寄附の時期が遅れて「失敗」したので今年も寄附は(しなくても)いいかなと思ってしましたが、ふるさと納税「かに」ブログの面目を保つべく(笑)、鳥取県琴浦町に「二年ぶりに」寄附を行いました。(もちろん琴浦町のお礼の品はかにのみではありません。皆さんもたくさん寄附を行って、かに以外のお礼の品も指定してください。)そして、その声(キーワードアクセス)にお応えして、平成27年-28年のカニ漁解禁から一か月半あまりが経過し、久しぶりの「ふるさと寄附金 かに(カニ)」の記事掲載の運びとなりました
 今年(平成27年)の松葉がに漁は、11月6日に解禁となりました。実際には11月10日以降から発送が始まる予定とのことでした。
 「多分到着は来年になりそうです。気長に待ちます(笑)。」と前回は書きましたが、12月の中旬には届きました。予想よりも早かったです。ありがたいことです。クリスマスを待たずに食べてしまいました(笑)。

 生とボイルを選ぶことができました。私はボイルを選択しました。
↓ 食べ方の説明書が付いていました。
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 寄付金の基準額が一昨年寄附したときと比べて上がりました。が、今回はひと箱で3ハイカニが入っていました。中が2、小が1です。足が外れているカニも入っていたので、最高級品が食べたいという人はふるさと寄附金ではなく、それなりの代金で購入した方がよいと思います。
 ↓ カニのうち1ハイ。黒いつぶつぶがあまりついていません。ゆでる過程でとれたのでしょう。

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 黒いつぶつぶがたくさんあった方が脱皮から時間が経過しているため身が締まっておいしいとも言われています。ただ、商品的にはくろいつぶつぶが付いていると見栄えの関係で(ついていない物に比べると)売れないようです。本当は関係ないのですけどね。
 カニ棒を二年ぶりに使用してカニを食べます。ボイルのためか塩味がしました。
 甲羅をハズシました。身が詰まっています。

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 余談ですが、カニを食べたあと、その日の夜は爆睡してしまいました。カニの身をむいて食べるため「両手を思いっきり運動させた」ので全身疲れてしまったからようです

※「ふるさと納税」の用語が一般に定着していますが、厳密には納税ではないため、このブログでは引き続き原則として「ふるさと寄附金」の用語を使用します。

高知県田野町 お米15kg ふるさと寄附金 お礼の品

 平成27年度 ふるさと寄附金のお礼の品として12月のとある日、高知県安芸郡田野町からお礼の品が届きました。お米です。1万円につき15kgです。比較的還元率の高い寄附金となっています。
 高知県の市町村はふるさと寄附金のお礼の品に力を入れています。そのため今年は、大月町にも寄附をしてお米を頂きました。
 1袋5キロのお米が単位となっています。1万円の寄附では3袋、入手できることになります。お米のパッケージには「四国一小さい町で・・・」と書いていあります(笑)。
  
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 実は、田野町は奈半利町と隣の町です。高知市から向かうと、安芸市を通り、田野町、奈半利町と続きます。共に安芸郡の町です。更に先には室戸市があります。山の方に道路を進むと「ゆずぽん酢」で有名な馬路村があります。
 田野と(昨年寄附をした)奈半利の両町役場の間はわずか数キロの距離。奈半利町は「ふるさと納税の高い還元率」で紹介されてから、ものすごく有名になりました。よってお礼品の発送が追いついていないようです。実をいうと今年も奈半利町に寄附を申込みしたのですが、納付用の郵便振替用紙を送ってきてくれませんでした。再度依頼して、それでもレスポンスがなく、さらに電話して、もう一回電話してそれからやっと一週間たって郵便振替用紙が届きました。同町のウェブサイトで調べると町の人口はわずかに1300人余。
 今回、お米が届いた田野町の人口規模も同じくらいです。隣同士の共に小規模の自治体が平成の大合併でも敢えて合併しなかったのには何か理由がありそうです。「四国一小さい・・」との田野町は面積が四国で一番小さいのでしょう。
 なお、「田野米」の精米所は隣の奈半利町となっていました。

 ↓ お米の入っていたダンボールに貼付されていたイラストのシール。芸術的な素晴らしい作品です。
   お礼の品の名称は「田野町ふるさと便」とあります。
   カツオなどの高知ならではの町の特産品が描かれ、更に「町の木、花、鳥」の隠し絵があるそうです。

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 「四国一小さくて、日本一魅力的な町」の「ふるさと便」のお知らせでした
 

「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」 鑑賞⑤ (エピローグ、クラウドファンディング)

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」 後期展示 永青文庫 会期は12月23日まで。

 鑑賞した総括です。
 二階の展示室に「エピローグ」のコーナーがありますが、この記事でいうエピローグは私にとっての春画展の「エピローグ」 = 終章のことです(笑)。

 春画の「版画」は、西暦1800年前後から急激に増える。版画技術が進歩し、展示の説明にあったように「貸本屋」などにより大衆に広まったこともあるだろう。「需要」を満たすために、「供給」が増えたのかも知れない(笑)。少し前の年代、1780年頃の明和年間の春画も展示があった。春画の発展は、のちの町人文化「化政文化」の発達とも関連するかも。

 江戸前期は(春画の中心は)肉筆画であったが、その全盛期は元禄の頃までかな・・・・・・。徳川の世が安定した(する)頃から版画技術が発展するまでの間といえる。

 しかしながら、江戸時代の末期に春画が急速に増えたのは、「乳児死亡率が上がった」「子が育たない」ことも関連があるのでないかと私は推測する・・・。印刷技術は向上したが、医療技術の向上は追いつかず、乳幼児の死亡率が高い。「多産多死」の著しい世の中で、子が育たなかった。

 幕末期が過去の日本の歴史の中で、日本人の身長が一番低かったと言われている。飢饉や疫病の流行で栄養が悪く身長が伸びなかったのであろう。栄養が不足していることは死亡リスクが高くなるので、体力的に弱く、免疫力の無い乳幼児の高死亡率に直結する。
 つまり、死亡率の高さは、この時代に頻発した飢饉とも大いに関連がある。世界的な気候変動などで飢饉が勃発。西洋では革命が起きた時代と一致する。この時代に「何か」があったのだ。
 今、私は「関連」と書こうと(パソコンの)キーボードをたたいたのだが、「寒冷」と間違って変換しまった。はっと気づいたが、単なる間違った入力ではなく、「寒冷」と「飢饉」は大いに関係しているのだと気付いた。(今さらだが・・。)
 なぜ寒冷だったかとういと、現代では「浅間山の大噴火」が地球環境に大きな影響を与えたことが知られている。ヨーロッパ、フランス革命の発生やその後のナポレンの登場による戦争の勃発などとも関連があると言われている。アメリカ独立戦争(革命)もあった。つまるところ、飢饉の発生による食糧(領地)争いだったという一面もある。
 同時に現代でも大きな影響を与えている欧州の偉大な芸術家達もこの時代に生きた。危機の時代だからこそ、新たな芸術が生まれたのかも。偉大な芸術家達とは、モーツァルト、ベートーベン、ゲーテ達だ。

 同時代の日本に話を戻すと、まさに春画(特に版画)が急速に発達した時代なのだ。大名家でも実子が育たず養子を取る例がこの時代に急激に増えている。当主の若死にも増えている。
 御三家や親藩、有力外様大名で、「齋」の片諡(かたいみな)を賜っている大名がとても多い。この時代、将軍 家齋が、長期間その座にあったことも理由のひとつだが、当主の死亡、交代が相次いだことにも理由があろう。
 (嗣子として)養子入りしたり、末期養子で家督を継いで将軍にお目見え「片諡を賜って死亡」、次の当主がまたまた家齋公にお目見えする相次いだのだ・・・・。お目見えする前に(片諡を頂く前に)死亡した嗣子、当主も多かったろう。(当主がお目見え前に死亡したら取り潰しでお家断絶だろうが、何とか取り繕いをしたのだろう。)

 「跡継ぎ」がいないとは、「家」を基盤とする社会では大問題だ。増幅増大する不安・・・・・。生と死が隣りあわせの時代。そんな時代に急速に春画が普及したのは、単に印刷技術の発達、町人文化の爛熟だけではあるまい。娯楽の少ない時代、しかも「死」が日常と隣り合わせの時代、「性」は最も重要な実益とともにエンターテインメントだったと思う。
 今回の春画展、確か豆本展示コーナーでの説明で「着物を着ている女がほとんど。全裸はめずらいしい。」とあった。確かに女性の乳房は強調されていない。地物が着物で隠れている春画がほとんどだ。何かで読んだ春画の解説の本には「混浴が当たり前だったので、女の乳房が珍しくないため、ありがたくなかった。」と説明があった。本当にそれだけだろうか?。
 江戸時代前期が中心だった「肉筆画」では、女が全裸の作品もいくつか(展示が)あった。例えば長谷川等仙の「モロに股を開いた女の絵」だ。「片目だけ出した男がうしろから女をまさぐっている絵」は横向きになった女の乳房が垂れ下がっている様子がリアルに描かれていた。

 全裸、巨乳をやたらと強調する現代とは異なる表現だ。しかし、私は現代のこの考え(「全裸、巨乳主義」)には反対ですけどね(笑)。
 (春画展に関連する書籍なども読んだが、それらによると)昔は、着物を着てすそをを開いて交合することが通常であったようだ。当時の木造の住宅事情、防音ではない、襖を開けばすぐにと隣の部屋、という家屋の構造の問題というのもあるが。
 「全裸、巨乳」礼賛は、科学、医療技術が進んで、死と隣り合わせでなくなった現代ならではの「ありがたい」主義主張ではないかと仮説を立てる。実にショーモない仮説かもしれないが・・・・・・(苦笑)。
 「全裸、巨乳主義」は第二次大戦後の食生活の急激な変化に伴う、動物性たんぱく質や脂肪分の大量摂取も関係していると思うし、特に「巨乳」礼賛は、死亡リスクが少なくなった男の「幼児帰り」の現れか・・・・?。春画(特に版画)において女性の乳房は実にシンプルに描かれていました。胸の部分に腺(線)をゆるく半円程度に引いて、突起の部分に乳首の点を軽く描くだけ。
 他方、「何でもあり」の春画は西洋人のキリスト教感覚とは異なるので「ストレンジ」でしょう。ただし「子孫繁栄」観点からすると同性愛などの春画は合致しない。一概には言えないが、多神教の国、八百万の神がおわす日本ならではの「何でもアリ」とも関係しているのでしょうか?。色々あるな~(笑)。


 春画では性器が強調されている。ことさら大きい男性器は、古来から日本にある「男根信仰」にもつながる。ことさら赤い充血したような強調された女性器は、男のモノに対する「女陰信仰」でしょうか。真っ赤な女性器は、男性器を受け入れる準備を象徴していたのでは?。
 ペストが大流行した中世ヨーロッパの「デカメロン」の時代にも共通する認識だ。「男と女、とにかく性を楽しんで精一杯生きましょう。」というメッセージだ。
 性器を結合させて、男性器から白い液体を発することにより子ができるという原理は昔から知られていたのだ。いつのころからか知られているのか、恐らくは文明の誕生の前、原始時代から本能として刷り込まれていたのではないか。女は性交によりどの男の子でも妊娠しえることは、経験則というより、本能で源氏物語の頃から当たり前だった。だから、「不義の子 薫の君」という描写があるのだ。子を産む行為を尊び、生殖器官を強調することは、性を知るとともに、信仰に近いものがあったのではないだろうか?。
 写真、ことデジカメの発達した現在は容易に性器の様子を記録して見ることができる。(しかし、法、道徳という規範はあるので、これらは何でも自由ではない。)今の時代、春画は実用ではなくなった。だから、現代の私達は「芸術だ。」ということができるのだろう。


 春画は、性欲の満足だけではなく性の喜び、悦楽、そして「生」を楽しむものではなかったか。人間の性交はコミュニケーションという重要な要素もあるが、それ以上に「死が身近であった時代」の本能、生殖と一致していたのではないか。生物として、子孫を残すことは、最大の本能だ。男女の交わりにより、子孫繁栄を強く願った。  
 「嫁ぐ娘の教科書役割も果たした」との説明もあった。江戸時代の前期は世の中が(ある程度)安定していたので、全裸を描く「余裕」があったのではないか。

 繰り返しになるが、「生は性」ともつながる。安定した結婚関係(一夫一妻制とも関連する)は、安定した社会と生活する人間の健康の獲得、病気の撲滅や長寿、長命と密接に関連しているのではないだろうか?。
 日本でこれらを得たのは、戦後のここ60年くらいのことではないだろうか?。もちろん、江戸時代から庶民は概ね一夫一妻制だったというので、必ずしもこの指摘は当たらないし、現代社会における性の多様化もある。
 反対に世の中が安定しているからこそ、乱れるモノもあるが・・・。


 「春画展」においては、個人でのブログ、ツイッターなどへの書き込みも多いことはすでに書いた。

・女性の感想は・・・混雑している室内で知らない男と春画を見るのは嫌だ。女性限定日を設けてほしい。

・男の感想・・・・・・・女性と ガラスケースの中の男女の接合画をじっと見るのは何ともいえない雰囲気だ。
 
 先にも書いたが、男と女では 脳の構造が違うためか考え方が随分違う。
 「男は誰かと結婚するか。女は誰と結婚するか。」という有名な言葉がある。誰の言葉であるか、私は知らない。春画の中で、男女はともに「対等」とか「性を愉しんでいる」という感想も多いが、結局、男と女は永遠に分かりあえないものなのかもしれません(苦笑)。また、私は男であるため、どうしても男性目線の書き込みになってしまうことはご容赦頂きたい。
 新聞記事によると春画展の12/4までの入場者は、約14万人であったとか。美術館の規模に比べると空前の大盛況といってよいでしょう。
 
 「春画展」クラウドファンディングについて。
 春画展では、スポンサーの企業がつかなかった?ようで、開催資金を得るために「クラウドファンディング」を実施した。会期が始まる前の8月から開始されていたようだ。
 永青文庫は、会場を提供することが主で、主催の中心は「春画展開催委員会」。委員会としては、スポンサーが無いと、今までの永青文庫の企画展と比べて1500円と比較的高額な入場料金を設定しても、なお資金が不足するのでしょう。
 今回の二回目の春画展の鑑賞の前に、春画展の「クラウドファンディング」をウェブサイトで調べるとすでに終了をしていました。会期の最終日までは実施していませんでした。
 1万5千円の寄附が基本のようだ。1万5千円で図録1冊と入場券2枚が付きます。大変お得と思います。1500円の入場券と4000円の図録を買う場合は、15000円の寄付をしても、尚トクかと思います。単純計算(前売り券の割引きなどは考慮せず)で8000円分は返って来るのですから。
 しかし、クラウドファンディング結果は3000万円の目標に対して寄付額は400万円くらい。なんと、二割にも達していませんでした・・・・・。いかに個人から寄付金を集めることが難しく、企業の大口スポンサー様の力が大きいかも同時に知ることとなりました。
 個人の財布のヒモは想像以上に固いです。意外にも個人レベルでは寄付をしないものです・・・・。春画展は「大盛況」といっても、寄附金がこの程度・・・・・。まだまだ寄付文化は、日本に根付いていないようです。
 14万人の入場者うち、1パーセントの1400人が寄附をしたとしても、1400×1万5千円でも2100万円。実績額は、これにも程遠い・・・・。
 しかし、1万円のコースがあれば変わってきたかもしれません。最低1万5千円は個人レベルではハードルが高いかも。「クラウド」だとITに不慣れな人は寄附をしにくい。古典的に現地受付で寄附金を募るならば、もっと集まったかも知れませんが、現金管理や人件費が・・・・・。なかなか、うまい方法はありませんね。
 で、私は・・・・・、というと、寄付はしません(苦笑)。寄附をしたはよいが、図録を自宅に送ってこられた日にゃ・・・・・・・・・・。子どもがいるのでウチには、置く場所がありません・・・・・・。子どものいる家庭では、「春画展 クラウドァンディング」の寄付は困難です。夫婦だけの世帯、子供が大きい世帯、高齢者世帯、独身者、学生(18歳以上の)などでないと寄附は無理ですョ・・・・。図録を辞退すればよいかも知れませんが・・・・・。(ゴメンナサイ。)


↓ この日、帰る前に撮影した敷地内の様子と隣の和敬塾の建物(右)。


  

「春画展」SHUNGA 後期展示 鑑賞④(豆本~エピローグの展示) 永青文庫

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」の会期末も迫って来ました。後期展示を見るため、永青文庫に再び行ってきました。
 三階の展示室を出て、階段を二階に下りる。



※ご注意
 この記事の文章には、性的に露骨な文章が含まれます。不快に感じる表現があるため、あらかじめご承知おき頂き、露骨な文章を好まない方は、以下読まないようにお願いします。


 二階の展示室に入る。ここは、豆本コーナーなど。豆本は展示数が多いが、小さいのでなかなかじっくり見れない。実はこの日見た豆本は、あまり記憶に残っていない・・・・。
 前回は、季節ごとの絵もあったが、今回は無い。いろいろな着物を着て性交している場面が多い。青が基調の着物を着ているものが多いような。豆本の絵は、似通っていました。源氏物語をパロディーにしたものもあったような。今も昔も性愛の基本は、同じか。

 豆本コーナーにあった「日清、日露の戦争でも出征兵士に持たせた。」との説明には、ある女性の二人組、多分学生(一人は小柄だが顔がキリっとして美人、やや茶髪で目がキツイ感じ、ジーンズのズボンをはいている。もう一人は、やや背が高いが普通の感じの子。先の三階の部屋にもいた。私と同じ観覧スピードでこの部屋に下りてきたようだ。)が「えー、日清戦争、日露戦争にも持って行ったんだって~。どうして男の人ってそんな物持っていくのかな~?」と黄色い声を上げる。彼女達は、全然わかっていません。男の心理を。男は死地に行くときは、そういうものなのだということを。(死地に行かなくてもそうかナ・・・・。)


 二階奥の部屋。木のテーブルの上にガラスケースを設置している。永青文庫の所蔵の巻物が。場面は変えているようだが、前回見た場面に似ている。二階から一階に下りる。
 春画展もこれにておしまい。出口付近に、過去の図録のリストが置いてある。「信長の手紙」の図録は完売。その他会報のバックナンバーがある。次の展覧会のチラシもあったが、能面か何かの展示。通常の企画展示に戻るよう。とすると、しばらくの間、私がここに来ることはないかも。
 見学者が次々に出てくる。女性の四人くらいのグループも出てきた。二人連れの女性達も出てきた。と、6人くらいいる今出てきたばかりの人は皆女性だ。書き込みなどでもあったように本日は女性率が高い。


 別館の店(ミュージアムショップ)へ。今回は、図録が山積みされていた。白いプラケース容器ではなく、辞典のようなな外見。パソコン用の市販ソフトのような箱です。例のポロシャツも売っている。ちょんまげ姿の男と日本髪の女の交接部をポケットでうまく隠しているポロシャツ。
 これ(ポロシャツ)をさして、先ほど館内でも見た、若い女の子のグループのうちの一人が「あっ、うまく隠している。アハハハ」とまたも笑っていました(笑)。
 店内は圧倒的に女性が多い。早々に私は退出です。と、別館の建物を出たところで、あるおばはん熟年の女性がカメラのレンズをこちらに向けて動画を撮影している・・・・。玄関からでてきた私が、ちょうど写ってしまったた模様・・・・・。私は、(写されたらまずいっと)さっと体を傾けて、顔をそむける。旦那らしき老人の男がそばいる。このおばさん女性は、懲りずに建物の周囲などをカメラを回しながら、他の入場者はお構いなしに動画を撮影している・・・・。先の展示室内での「こっそり撮影」とともに、おばさん中年、熟年以上の女性のマナーの悪さも目立った。


 早稲田駅まで再び歩く。見学者は、あまり早稲田方面には下りてこないようだ。江戸川橋か雑司ヶ谷まで行くのかも。と、永青文庫の門の前の狭い道路にタクシーが一台待っていた。誰かが、見学を終えるタイミングに合わせて呼んだのだろう。


↓ この日撮影した本館。皆さん盛んに建物を撮影しています。スマホでガラケーで(笑)。


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「春画展」 SHUNGA 後期展示 鑑賞③(版画) 永青文庫

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」の会期末も迫って来ました。後期展示を見るため、永青文庫に再び行ってきました。
 四階の肉筆画の展示を更に見ていきます。肉筆画の展示室を出て、階段を三階に下りる。版画の展示室へ。



※ご注意
 この記事の文章には、性的に露骨な文章が含まれます。不快に感じる表現があるため、あらかじめご承知おき頂き、露骨な文章を好まない方は、以下読まないようにお願いします。


 展示室内は例の木枠のガラスケースです。列をなしてガラスケース内の展示を見ていく・・・・。鈴木春信の作品「女性器から体液が流れ出ている版画」はそのまま。ただし、ページは替わっているようだ。白黒の版画だが、リアルで躍動感がある。
 前期と同じものも展示があったような・・・。作者が同じ春画の本だと、ページをかえて展示しているので、同じに見えてしまうのかもしれません。
 北斎の「タコと女の絵」は展示がありませんでした。その絵が展示されていた箇所には、別の絵の展示があった。着物を着て、下をはだけた姿の女の性器に男がうしろから挿入している様子。コメント(つまり、男と女の会話)がたくさん書いてある。「・・・入れて・・・」などと書いてあったかも。
 その中で喜多川歌麿の作「女 おまえのようにせわしい者はいなえ。・・・まあまちなよ。」男「・・・ なんぼてめえのまらでも・・おれの自由にならねえ・・・」と画中の会話についての解説ボードが掲示している版画の展示がある。
 「ねがいひの糸ぐち」のタイトルの版画。ふんどし姿の男が、着物を着た女に、「さあこれから」と迫るシーンの絵。展示リストによると、前期も展示があつたが、後期とでは場面替えとある。似た絵を前回来たときにも見た。展示替えとはいえ、あまりシーンは、変わっていないような。これから交わらんとする男と女の駆け引きが伝わってくる。
 実はこの絵は、その一部の写真が今回の「春画展」のポスターにもなっている。あおむけになっている女の片足が鏡に映っているところを描いている。細かい描写です。解説には「亭主と女房」とある。つまり、夫婦の行為なのだろうか。画中に文字(つまり、男と女の会話)も書いている。私でも何とか読むことができる。
 と、このポスターになっている作品の展示されているガラスケースの付近で、中年、といっても50歳くらいの女性の二人連れが「まらって何?」と会話をしている。よく声を出して言えますね~(笑)。ホントに知らないのでしょうか!?。この女性は・・・・。
 片方のもう一人の(ツレの)女性は、返事をしていなかったので、彼女は「まらの意味」を知っているのでしょう。が、それは「男のチ×コ」って意味よ!、とは言えません(笑)。私が、傍らから教えてあげともよかったですが、黙っていました。余計なことは言うまい、口慎むべし、と黙っていました(笑)。
 画中の文章の意味は「自分のまらを制御できないので、はやく挿入したい」が、女は「あんた(男)みたいにせわしくしているのはいない。まあ、急がないで待ちなよ。」ということでしよう。いつの時代も同じです。男の方が欲望にかまけて急いでしまいます(苦笑)。


 ここ三階の展示室内でも笑っている人は、女性に多い。「笑い絵」とはよく言ったもの。と、夫か不倫相手か知人か友人か知りませんが、男と来ている中年の女性がいた。ツレの男と会楽しそうに会話をしています。会話をしていて彼女が笑うと目じりに、シワが寄ります。コレが意外に目立ちました・・・・。画の中の男女の姿とあいまって、ツレの男と会話して笑う、彼女のシワの表情まで妙にリアルに見えてしまいます(苦笑)。

 この部屋では、冷房がきいている。先の四階の肉筆画の室内は暑かった・・・・。この部屋では、なぜか白髪の男性は目立つ。つまり、見学者の年齢が若いことを示している。土曜の夕方から夜の時間帯とあってか、白髪の人はあまりいないのだ。余計に目立つのだ。女性は染めているのかもしれませんが。
 室内の一番奥のガラスケース付近は、人が途切れてすいている。と、男女2と2のグループがいた。ダブルデートでしょうか?。若いカップル率は、私の見たところ、この日も高くはない。(京都での)マグリット展の方が高いくらいだ。反対に女性のグループが多い。学生~社会人、年齢では20歳台から30歳前後らしきグループから熟年層まで。ただ、時間帯の関係で老年層の女性グループは少ないというか、ほとんど見なかったような・・・・。
 次に中年以上、老年未満の男女。子育てが終わった世代くらいの夫婦といった年齢層かな。高校生くらいの女の子が一人できている。ひらひらの青い印刷の花柄の綿かポリエステル製のスカートをはき、ややぽっちゃり体型の子。
 韓国人のカップルも。韓国語で会話をしている。女は整形しているかどうかは知らないが、典型的な某音楽グループメンバーのような顔。男は真っ赤にセーターで長身。女は水色のセーター。
 また日本人のカップルもいた。女は小柄で、茶髪。かえってめ目立つ。韓国人カップルに近い位置で巡回していて、服装が似ている。ショートの茶髪、メガネをかけた小柄な女の子グループもいる。二人か三人連れ。
 前回もリポートしたが、なぜか女の子は、小柄で地味な感じの子が多いような。クリスマスも近いこの季節、ひと肌恋しくなるので春画展の後は、イルミネーションを見に行くのが(私としては)おススメです。
 ボクのような歳になったら、イルミネーションは行きたくてもいけません(苦笑)。


↓ この日撮影した本館。

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「春画展」 SHUNGA 後期展示 鑑賞② 永青文庫

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」の会期末も迫って来ました。永青文庫に再び行ってきました。
 四階の肉筆画の展示を更に見ていきます。


※ご注意
 この記事の文章には、性的に露骨な文章が含まれます。不快に感じる表現があるため、あらかじめご承知おき頂き、露骨な文章を好まない方は、以下読まないようにお願いします。






 山楽、長谷川等仙などの肉筆画をて見て進んで行く。が、ガラスケースの最前列は混雑で列が動かない。
 
第二コーナー(展示室に入って最初のガラスケースの角を曲がった次のガラスケース)


 前期の展示で見た「鎧を着てめくると交接している様子が現れる絵」と「目玉だけ出した坊主頭の男が後ろから、乳房をあらわにした裸の女をまさぐっている絵」は、無かった。展示が変わっていた。

 展示室内は撮影は禁止。しかし、行列しながらガラスケースを見ていた見学者の合間で、写真を撮った女がいた。驚くべきことだ。まさに「アメイズ」だ。しかも私の隣で見ていた女・・・・。こそこそと携帯電話(ガラケー)を出して、何をするのかと思ったら、写真を撮影した。「カシャ」とオトが響いた。誰も注意しないし、気付いていない様子。が、オトは確実に響いていた。
 私も特に注意はしませんでしたが・・・・。こういう女は、下手にかかわると騒ぎ出して、何をし出すか分からないので、私も警戒してしまった。混雑して行列しているにもかかわらず撮影するとは・・・。手にたくさん資料のようなものをもっていたので、研究者かなと思ったが、研究している者ならば、美術館の職員立ち合いのもと、堂々と撮影する筈。女は背の低い、年齢が45-50歳くらいのイケてない感じの地味な女だった。
  「看視員はどこだ?」だと思ったが、いない・・・。前回来たときは、会場内の人をじっと見回して「看視」していたのに・・・・・・。この日は人員が不足しているのか看視員がいなかった。というか、混雑しているので私の視界に入らなかっただけなのかも・・・・。

 第二コーナーガラスケースこの辺までは混んでいるが、うしろから最前列の隙間に入り込むことは可能。
 展示されている絵、画中の女は、目を細めて、悦楽の表情だ。


 第三コーナーのガラスケース。
 「圓山応挙の肉筆画の展示が」。二場面あります。あからさまな性器の描写はありませんが。布団に入り、男性上位のいわゆる「正常位」の画とあとの場面は忘れた・・・・・(笑)。タッチはあまり濃くない薄くて軽い。が、とても丁寧な描写です。この描き方といい、画面の左にある「応挙」(実際には旧字体)のサインは、確かに真筆の応挙作品と同一サインです。これを中年の女性「え~、圓山応挙も 描いていたんだね~。みんなあの時代は描いていたんでしょ~。」

 第四コーナーのガラスケース。
 最後に徳川ミュージアム蔵の巻物の展示が。二場面ある。露骨ではないが、横の体位から男性器を入れている男と、挿入されて悦にひたっている女。もう一つの場面は、やせていて、ちょっとキモイくらいの男と女の交わる絵。肌の色が鮮やかで印象的。人物は小さいが、丁寧に描いてある。さすが、御三家の所蔵品だけあり、画材にもお金をかけている感じ。「将軍の家族の家に伝来しただけの作品である。」と展示の説明にもあった。


 四階の展示室内。長持ちの前と同じく、独立したアイランドガラスケース内の展示品。狩野派の巻物だ。こちらは露骨な交接の図だ。

 再度、最初の(壁面の)ガラスケースを見ようとするが、行列が途切れない・・・・。このフロアのガラスケース内の肉筆画は、ほとんど作品や場面が入れ替わっていた。同じ作者の巻物でも、場面が替わっていて、ほとんど別の「春画展」のようだった。二回見に来て正解だった(笑)。

 この日は土曜の夜とあってか、見学者は女性の方が多い。肉筆画の展示室内でいうと、私の見たところ、男性よりも女性の方が多い。ただし、年齢層は男性と女性にそれぞれ分けると、男性の年齢の方が高い。見たところ、白髪の男はいるが、その同年齢らしき女性は少ない。
 私の見る限り、中年の夫婦?(男女)はいるが、老年の夫婦?(男女)は、いなかった。体をぴったりくっつけ、男が女の腰をに手をあてて観覧している中年の男女も・・・・。夫婦ではない感じ・・・不倫かな(苦笑)。
 若いカップルは、前回来たときよりも多い。カップルは学生くらいの年齢かな。子育て世代の20台後半から40台前半のカップル、その夫らしき男性の見学者は、見なかったと記憶する。前回も言及したように、子のいる家庭の場合、家族で来るトコロではありません(笑)。
 たとえば、ガラスケースの最前列の行列、10人をピックアップして数えると男女比は、5対5の場合や男3、女7の列も。列によっては「女10」もある。女の子の単独見学者はいるのだが、前回よりも少ないもよう。この日は、女の子の二人以上のグループが目立った。
 よって、展示室内は若い女性の甲高い声が響く。にぎやかだ。その声とは「うわっ。 これっ、・・・きゃはは・」、「ははッ、スゴイ」、「アハハ、コレヤバイ・・」など、嬉しそうなな声をあげています。「うわっ、入ってる」もあったような・・・(笑)。

 春画の別称「笑い絵」という語はここからきているのではないか?、とようやく気づいた。展示室内で笑っているのは、皆女性です。男ではありません。男は笑って見ていない・・・・・。ただし、画を遺している絵師は皆、男です。
 女絵師の春画はないでしょうか?。展示では、そのような(この絵は女絵師の作であると)説明はなかった(と思う)。
 「春画展」では、「男も、女もともに悦楽にひたっている。春画の世界では男女平等」というコピーも見た。しかし、果たして本当に対等だったか??。当時は圧倒的に男優位の社会。「男女平等」というのは、現代社会の視点から見た春画の価値観ではなかろうか、とも考えた。
 会場でも「絵師は皆、男だよね。」と言っていた50歳くらいの女性がいました。夫らしき人と来ていたような。女性は「(春画は決して男女)対等ではない。男目線だ。」と言いたかったのかもしれません・・・・。
 

 室内の熱気でおかしくなりそう。汗もかいた。ワタクシ「発汗してきました。」(笑)。ガラスケースにも手のアトがついていて曇っていたり・・・。生々しいです・・・・。ただ、この日は、看視員が四階にはいない?。写真撮影をしても注意する人がいない。

 「女性のみの鑑賞日、時間帯はないのか」という人もいるかも知れない。見知らぬ(変な、ワタシのような)男とと一緒に鑑賞したくない女性もいるでしょう。
 ここが男と女の脳の違いです。男の脳の感覚から言えば「ゥエルカム」でしょうが、女は違う。ああ、男はつらいョ。混雑している狭い部屋の中で、見知らぬ男女が、昔のものとはいえ、男女の性愛をモロに表現した絵を見るのは、無理があるのかも。

↓ この日撮影した別館(ミュージアムシヨップ)前のパネル。

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 肉筆画の展示室を出て、階段を三階に下りる。版画の展示室へ。いざ~(笑)。
 

2015年 今年見た 展覧会、展示会のランキング ベスト

 2015年もそろそろおしまい。
 そこで、今年見た美術館、博物館関係の展覧会、文学、歴史資料などの展示会(企画展などと呼称はいろいろとあると思いますが・・・。)のオリジナルランキングです。
 すでに新聞の文化面では「今年の美術展ランキング」の記事が掲載されていましたが、私の場合は美術展以外の展示会、企画展などについても含めます。
 
 「ベスト10」ではなく、「ベスト4」の発表にとどめておきます(笑)。

一位 「五姓田義松展」 神奈川県立歴史博物館
 知られざる名画家、五姓田義松の大回顧展です。画家の作品のみならず、その生涯や家族についても知ることができる貴重な展覧会でした。私の中ではぶっちぎりの第1位です。

 ↓ 歴史博物館の入口(正面とは反対側の馬車道側)と「五姓田義松展」の告知。
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二位 「モネ展 (マルモッタン美術館蔵の)」東京都美術館
 日本人が大好きな印象派。その代表的作家の展覧会。前回モネ展では図録を買わなかったので今回そのリベンジを果たしました。
 
三位 「ブラウの大地図帳」 東洋文庫ミュージアム
 2011年に開設された比較的新しいミュージアム。偶然パンフレットを見て知った展覧会。そもそも「東洋文庫」にミュージアム部門が設立され、所蔵品が公開されているとは知りませんでした。来館者をお出迎え、アテンドをしてくださるMA様のあでやかな衣装にも注目です。が、決してMA様の存在メインで選んだ訳ではありませんよ(笑)。

四位 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」 小田原文学館
 展示室は小さい部屋一室のみ。ミニ企画展といってもよい展示会でした。期間も春先のわずか3週間だけ。皇族の身分ゆえ、戦後も語られることの少なかった明治から昭和戦前期の当主、載仁親王を中心に江戸期~明治、大正、昭和戦前期、戦後を含めて閑院宮家の資料が初めて展示された貴重な企画でした。    

別格 「春画展」 永青文庫
 日本初の本格的な春画展。特殊なカテゴリーの展覧会なので順位は付けようがありません
 これだけ展示室の中が「白熱」した展覧会もそうそうないでしょう。まさに「別格」に位置にふさわしい展覧会でした。

別格 「東寺百合文書展」
 今年ユネスコの世界記憶遺産に指定された文書の展示会。すでに文書などが一括して国宝にも指定されています。この展示会は過去も含めて継続的に開催されており、順位付けは難しいです。文書の内容は膨大なのですべてを展示することは到底不可能でしょう。今後も継続して展示会は開催されていくと思います。

 「ランキング」といってもそれほど多くの展覧会、展示会を見た訳ではないので順位付はかなり難しいです(笑)。あくまで独断と偏見です。
 高野山の塔頭といいますか、別院、子院が総じて「別格本山」を冠しているので、それにちなんで「別格」を設けました。

「春画展」 SHUNGA 後期展示 鑑賞 永青文庫

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」の会期末も迫って来ました。永青文庫に再び行ってきました。

 9月の連休から展覧会は開始されています。12月23日の天皇誕生日の祝日まで、3か月以上にわたる長期の展覧会も終盤です。
 展覧会の期間中は展示替えの関係で大きく分けて、前期と後期に、更に前期と後期も二期に分けて、合計で4期に区分することができます。
 10月に前回私が鑑賞したときは、前期の後半に、今回の訪問は後期の後半に分類できる時期に当たります。

 東京国立近代美術館の「藤田嗣治の展示」を見学した後、地下鉄で竹橋から早稲田へ。永青文庫へは、早稲田駅の「大手町側」出口からの方が実は近いのではないかと思います。地図をよーく見ると、そのように感じます。試してみてください(笑)。

 さて、私は、おなじみの早稲田の「後ろ側の出口」から地上に上がる。住宅、ビルの並ぶ街を抜けます。早稲田大学前の道路は通らないため、道もこちらのルート方が広くて歩きやすいです。ただ、歩道は無いので車には注意です。
 リーガロイヤルホテル前から、神田川方向への道を歩き、川べりへ。水神社の前の橋に出る。と、胸突坂の階段の上からは、春画展帰りと明らかにわかる人が下りてきている。なぜなら、「図録を持って」いるから。白いプラケースに入った図録を持った男性がひとりで階段を下りてきていた。10月に訪問したときには、在庫切れだった「春画展の図録の販売が再開されているようだ。

 と、私の後ろからも、カップルがやってきている。胸突坂の階段を登る私のあとを、ついてくるように歩いてきてた。コツコツとハイヒールの靴が私の背後で響く。カップルも永青文庫に来るようだ。階段を登り終わり、文庫の前へ出た。反対に、目白台の平地側(向う側)から永青文庫にやってくる人はいない。再び文庫の門を入る。文庫の建物から出てくる人が二~三人いる。皆、建物の前で写真撮影をしている。ちょっとした「撮影ポイント」です。
 文庫の建物の前にあんちゃん(若い男性係員)がいる。(前回来たときと同じように)門から入場して建物にやって来る人を一人一人チェックするようにこちらを見てくる。出口の前に設営されているテントには、ストーブがついている。はや12月の年の瀬だ。夕方、日没近くの時間帯となると寒い。テント内にいる人は二~三人。鑑賞を終えて休憩をしているのだろうか。休憩場所はこちらでどうぞ(笑)。
 と、建物前の係の人が大きい声を出す。「しゅんがてんの入口はこちらでーす。」

 ↓ この日撮影した写真。前回訪問時と比べて特に変わりません・・・。
   館内にチケットを切る係の女性が立っています。

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 チケット売り場の窓口(カウンター)には女性がひとり。今回も1500円を支払って購入。二回も来るならば、事前に前売り券を買っておけばよかった。「ペア券」を買っておけば、一人で二回来ることができた筈(笑)。
 展覧会入口の受付台に女性が一人。チケットをちぎってくれます。入口付近に行列は出来ていない。入場者も私一人のみ。コインロッカーの前で(預けるために)コートを脱いでいると、続いてやせた男性がやってきた。
 係の人にいつものごとく「四階に行くよう」に言われ、館内の階段を登る。と、二階の展示室は混んでいる。二階の展示室を見終わった人なのか「あれっ、ここでおしまいかな?」と言って階下に下りて行く見学者も。階段の途中、三階の例の倉庫の中のような展示室も混んでいる。文庫の建物外、敷地外や一階の入口付近では、あまり人はいなかった。なのに、展示室内は、どうしてこれだけ混雑しているのか?。とても不思議だった。

 四階展示室の前では行列ができていた。しかし、最前列でガラスケース(内の展示)を見る人の列のようで、別に展示室に入るたに並ぶ必要は無い模様。ゆえに、列を追い越して室内に入る。後ろの列から壁面のガラスケース内に展示されている絵を見る。
 四階は肉筆画コーナー。二列目からは人垣越しに見ないといけないため、やや距離が遠くて肉筆画の細密に描写は見えない。が、絵の様子は分かる。
 室内には「むっ」とする。暑い。熱気もすごい・・・・・・・。来ているセーターも脱ぎたいくらいだ。最初の展示作品、二番目の展示作品は、最前列がなかなか動かず見えにくい。「春画渋滞」と言うべきか・・・・(笑)。列の後ろを行ったり来たり。「見えないな~」と右往左往する。
 と、長持ち(以前からある、旧肥後領主・細川家のもの)のところ(ガラスケースが臨時に置かれている)に展示されてる絵がすいているのでこの作品を見る。なんと、狩野山楽の筆の巻物だった。作品は3場面ある。
 第一の場面 向かって右の展示品。
 男が一人。横に二人並んでいる仰向け姿の女が・・・・。ほぼ全裸。男は片方の女に肥大化したチ××をまさに入れようとしている。モロに赤くなった女性器。興奮して充血しているのか?。マ××のひだひだの中まで見えるようだ。マ××の毛もしっかり描いている。あおむけで両足を挙げている。
 第二の場面 中央の展示品
 男と女が一対一。女は同じくあおむけで両足を挙げている。男は女の足を持って、まさに「入れようと」しているところ。チ××は、現実にはありえないくらいに「でかく」て、「棒」はシワシワに描かれている。
 第三の場面 向かって左の展示品
 男が女のうしろ(お尻の方向)から入れていることろ。(既に挿入しているってコト。)しかし、現実にはどうしてもできない体位だ。

 これらの山楽の作品の前に女性の二人か三人組の見学者がいる。彼女達は、小柄だ。まじめそうな感じの女の子。「うわあ~、二人並んでいるよ。ヤバイヨ。ヤバイヨ。」とのご発言。後ろからの「ありえへん体位」の絵については「明日(あした)の方を向いてる~。」。すると「いや、明後日の方って、感じっ。」ともう一人の子がツッコミ。そしてお互いに『笑』。

 と、日本人の男と外国人の女(欧米系)の連れがいることに気付いた。春画展で、初めて外国人の女性を見た。女性は金髪ではあるが顔立ちや体型からして多分スペイン、南米系のようだ。身長は高くない。彼女は山楽の絵を見て「Strange」と一言、感想を言った。直訳すれば「奇妙だ」であろう素直な外国人の感想ではなかろうか?。
 この女性、日本語もある程度できるようで男と日本語で感想を言ったり、英語で絵を見ながら春画の場面の「実況中継」をしている。

 「春画展」には「世界が先に驚いた」とのキヤッチフレーズ(副題)があるが、どのように世界は驚いたのか?
先年開催されたロンドンの大英博物館での展覧会が大きな反響を呼んだことも、指しているのだと思うし、海外では一定の評価を得ていることも理由のひとつであろう。
 
 「驚いた」とは、外国語ではどのように表現するのだろうか?。英語で言うと「Amaze」、「Grate」なのか?。「Beutiful」、「Exiciting」なのか?。それとも「ワンダフル」か?。どの表現かと思っていた。が、案外、彼女が一言発したように「Strange」なのかもしれない。
 例えば、キリスト教文化の国の外国人にとっては、理解できないだろう。日本人の多種多様な価値観、信仰については。ある意味日本は変態でも「何でもあり」です。この日には展示がなかったが、「放屁合戦」もあり、いいろあります(笑)。
 更に、別の外国人女性を展示室内で見た。小柄なアメリカ人(アングロサクソン系)のようだ。彼女は、さっさと展示品を見て、部屋を出て行ってしまった・・・・。実物を見ても興味がわかなかったのかも知れない・・・・。

 次の展示だったか、坊主が布?隠れた画がある。二順目くらいに見ると近くの女の子グループが 「あれ 男はどこにいるの?」「袋に隠れているんだよ。」「え~隠れてるの~?? ワカらなーい!!」。
 男は着物をかぶり、というか袋の中に入り、チ××だけ出して、上から女がのっかている。女は坊主頭。オキテを破った女性の僧侶なのか?。僧侶といっても女は女です。「破戒の尼」かと思った。


 長谷川等仙の肉筆画もあった。あの、モロに股を開いて性器を見せていた女性の巻物。10月に来たときも見た等仙の作品であるが、展示場面が変わっていた。今回の展示場面は、女性器をあからさまに見せつけるのではく、着物を着たままうしろから、男がチ××入れていたり・・・・。背景が茶色なので 外で行為をしているような感じだ。場面は、外で性交していたり。人間や外の草木、土の色彩が美しい。
 と、三人くらいの女の子の見学者のグループがいる。(山楽の作品の前にいた女の子だったかな?)。三人のうち、二人は背が低く、一人はやや背が高くて黒い服を着ている。皆まじめで、おとなしそうな子のグループだ。皆さん私のタイプです(笑)。
 「うあ~」とか「あれ、××だよね~」などと指しながらあれこれ言っている。大学生くらいの年齢で、まだ19歳20歳くらいの年齢ではないか。
 「狩野派作」の巻物の絵も。後ろから男が入れている場面が。女性の尻が丸見え、しかも女性ならではの大きいおしりが強調して描かれている。

 改めて見てみると、リアルに男の性器も女の性器を描いている。女の子たちの会話「ちゃんと(女の)毛も描いているね。」
 
 四階の肉筆画の展示を更に見ていきます。


 

石見 津和野(島根県)~長門 萩(山口県)へ移動

 2015年8月

 島根県津和野町、森鴎外記念館。
 ↓ 記念館に隣接する道路の南側。天気が急変し、雲がでてきました。遠くではゴロゴロと雷鳴が響いています。
 時刻は午後2時半。本日のたびは萩がメインですが、まだ辿り着いていません。
 津和野の街中にいたときまでは、雲が多いながらも太陽光線が降り注いでいたのですが、午後になって時間が経過するにつれて雲が広がって空を覆ってきました。

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 上の写真と同じ方向。入道雲が発達していく様子が分かります。急激に暗くなってきました。これは夕立がありそうです。
 ちなみに記念館の南隣は土木事務所でした。この日は閉庁日でしたが、平日はお役所で多くの人が出入りしているばずです。この付近に昔の面影はありません。田んぼが広がり、家々が点在する郊外の街並みといった感じです。
 実は津和野の街中からは青野山はよく見えませんでした。国道からはよく見えましたが・・・。津和野の街は国道から更に下がった盆地のようなところにあります。少し街を離れないと青野山はよく見えないようです。
 ↓ 記念館の近くには山口線の線路が通っていて、気動車が通るのが見えました。
   (写真には線路は写っていません。)

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 ↓ 記念館の前の駐車場。大型バスを停めるスペースがあります。

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 萩へ向けて出発しました。津和野の郊外から山を越えて山口県に入る道を行きます。よって国道9号線には戻らないため、青野山のピラミッドような姿を再び見ることできませんでした。
 鴎外記念館の南に旧藩主亀井家のお屋敷があります。明治時代になって建てられた亀井家のお屋敷のようです。本当はこちらも見学したかったのですが、時間の関係で割愛しました。「温故館」というのですが、津和野の観光パンフにも名前のみの掲載で解説がないため、それほど大きな観光ポイントではないようです。

 道の駅津和野温泉を通過します。津和野には温泉があるのですね。日帰り入浴施設があるようです。更に進み、山道となります。昨年か先年の水害で道路が寸断されたようで、工事を行っていました。山口線の線路も併走しています。線路も流された場所があったと記憶します。

 更に進むと、山道の中をカーブして登って行きます。道は途中で立派な広い道になりました。工事で整備されたそうです。いつのまにか県境を越えていました。
 ↓ 県境付近の道路。立派に整備されていました。雨が急に降ってきました。

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そして到着したのが、萩の松陰神社。
↓ 島根と萩を結ぶ県道の手前側にあります。

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津和野 史跡 森鴎外旧宅 見学

 2015年8月

 森鴎外記念館にやって来ました。
    第二展示室を見学し、時間も無いので資料館を出て隣接する生家(旧宅)に向かいました。一階の別の部屋では企画展を開催していましたが行きませんでした。記念館の二階にも行きませんでした。ただし、二階には展示室はありません。
 旧宅の入場料は単独で入ると100円です。記念館側の入口のかたわらに自動券売機があり、券を購入して入場できます。記念館が休みのときも旧宅は券売機で購入すれば見学できるようです。

 ↓ 記念館に隣接する鴎外の生家。
 写真で見たことがある人も多いと思います。元々あったのはこの生家のみで記念館はあとから建設されました。私も写真で生家は見たことがありましたが、茅葺だったような気がします。今回、訪問して見たのは石州瓦ぶきの屋根でした。実は、生家を囲む塀の向こうには民家が隣接しています。

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 居間と思われる部屋。日差しが入り込んでいます。
 三間並んでいます。

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 玄関と思われる場所。内部は立入禁止で部屋ごとに詳しい説明はありませんでした。建物の周囲を歩いて回りながら見学します。

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 ↓ 北側に門がありました。碑も建っています。
  北側に玄関があります。 門の向こうは公道で、一般の民家が建っています。

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 説明板。鴎外は10歳でこの上を出た後、この家には戻ることがありませんでした。一度くらいは帰郷したことがあったのかと思っていましたが、記念館での映像や説明であった通り60歳で死ぬまで津和野に来ることは無かったことが分かりました。
 なぜ、そのような人が死に臨んで「余は石見人 森 林太郎として死せんと欲す。」と遺したのでしょうか。石見人としての意識があったのならば、なぜ一度も帰郷しなかったのか。または帰郷できなかったことを悔いたのか、または自分の原点に戻るという意味を込めて人生の最期にあのような遺言を遺したのか・・・。謎です。

 ともあれ、その旧宅が国の史跡に指定されているとは、もはや鴎外は、一作家、一官僚というよりも歴史上の活躍した人物なのですね。

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 北側からの様子。玄関や土間への入口があります。黄色い土壁が他の地域の民家と異なると感じました。屋根は・・・・というと、先にも書きましたが、鴎外が住んでいた当時は茅葺だったのではないでしょうか。
 記念館で見た江戸期の津和野の街並みの想像図をみても茅葺屋根がほとんどであり、特産品とはいえ、石州瓦のベンガラの瓦の屋根に変わったのは近代以後のことではないかと感じました。

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 ↓ 建物の東側のあまり日当たりの良くない角部屋に鴎外の勉強部屋の表示がありました。
   この部屋だったような・・・。

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 記念館に隣接する南の出入り口に戻りました。
 鴎外旧宅は南側、下の写真のアングルからのものが知られています。よーく見ると、南側なのに窓が全くありません。今回見学して、北側に玄関や窓が付いていることが確認できました。なのに、南に窓が無いのはこの地域特有の造りなのでしょうか。日本家屋はもともと採光はあまり考慮されていません。日当たりがよい筈なのに、窓がないため、なおさら家屋の内部が暗く感じます。日本海にも近い山間地、冬の北からの冷たい季節風を遮る必要があるため、むしろ北側に窓は造るべきではないと思うのですが・・・。
 この疑問は解決していません。

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 鴎外記念館をあとにします。
 ↓ 記念館の看板

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 ↓ 記念館の建物。 写真の右(北)が正面入口です。

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津和野 森鴎外記念館 見学記2

 2015年8月

 森鴎外記念館にやって来ました。

 第一展示室の見学の続きです。
 展示の最後に家族写真がありました。鴎外と後妻のしげ夫婦と子ども全員が写っています。家族全員の写真で現在伝わるのはこの1枚のみだそうです。
 大正7年、長男、於兎(オト)の結婚式の写真。鴎外の死から遡ること三年前のことです。面長で痩身の於兎とややふっくらした夫人、富貴。小さい類(ルイ)には、母しげが寄り添っている。写真右の端に軍服の鴎外。その隣、この日の写真の主役、於兎に近い方に(鴎外の)妻しげ、三男類などが。小さい類(ルイ)には、母しげが寄り添っている。少学生くらいの類を抱くように坐していて・・・・・という構図です。
 写真の左側前列には、おそらく妻の両親であろう夫婦も写っています。この一枚しか家族全員の写真が無い・・・・・・・ということは、「長男の於兎と彼にとって継母のしげが一緒に写真に写る機会がほとんどなかったから・・・。」という理由ではないでしょうか。
 しげは、継子(ままこ)の於兎に相当つらく当たったようですので・・・・。(写真の中の)長男、於兎は恐ろしく痩身で顔が細いです・・・・。エリート教育を受けて、恐らくは父以上の秀才だったのでしょう。脳にすべてのパワーが集中しているかのような容姿です。

 鴎外の子どもの著書の展示がいくつかありました。於菟の父鴎外について書いた本が展示されています。長女マリは、離婚し再婚と(展示の)説明にありました。次女 アンヌの著書も展示がありました。三男 類は「不肖の子」だったそうです。そのまんまですが、「不肖の子」というタイトルの類の著書の展示もありました。

 従軍記章や大礼服の展示もありました。文官としての鴎外のものでした。鴎外の大礼格は小さい。身長は158から160センチくらいか。現代感覚でいうと、体格はかなり小さかった人のようです。


↓ 第一展示室の先にある通路。川沿いにあるガラス張りの廊下です。
    第二展示室に続いています。川の反対側と南の方向です。

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第二展示に進みます。
 10歳までの鴎外と森家についての展示です。鴎外の系譜上の高祖父の子の三男が西周。1862年にオランダ留学をしていました。(ただし、よく言われる日本最初のフリーメーソンンとしての西周についての説明はなし。)

 森家の曽祖父は出奔し途中で死亡。一旦断絶したようです。つまり、西周の伯父が出奔したのでしょうか?。系図の展示がありましたが、親子、養子関係が分かりにくく、忘れてしまいました・・・・。
 (出奔した人物のあとは、その弟か子が跡目を継いで、その後に断絶していたように系図が読めましたが、誤解かもしれません・・・。)

 鴎外の祖父は養子として森家を継いで「再興」したようです。名は白仙その妻である鴎外の祖母は、日露戦争後まで存命。祖父は幕末の時代に客死し、その翌年 林太郎が誕生。客死したのが東海道の土山宿。現在は新名神高速の土山SAがある付近です。
 祖父の生まれ変わりと言われたそうです。待ちに待った嫡男の誕生でした。祖母も養子。その娘が峰子。峰子の夫で鴎外の父静男は婿養子。
 父、静男は、三田尻の吉次家の生まれ。森の家の出ではなく「吉次」という豪農の家の生まれだったのでした。武士の家の生まれではありません。白仙に見込まれて森家の娘、峰子と婚姻し婿養子になったそうです。
 つまり、父は長州の出です。子の林太郎が明治の世、長州閥の陸軍において出世した理由のひとつもここにあったのではないでしょうか?。
 鴎外が10歳の上京のとき、途中三田尻の父の実家で4日-5日滞在しています。この展示は東京でもありました。
 上京後は千住に住む。(やはり、東京でも同様の展示あり。)

 江戸時代の津和野の復元図面のパネルありました。現在の旧居とは別のところに森家があるが、ここが森の本家かはわからないそうです。津和野には三軒の森氏があるようでした。西周の家の更に南と思われるところの森家があります。が、鴎外の森本家か・・・は分からないそうです。本家から枝別れした分家の森家もありました。
 分家と本家の禄高の変遷図がパネル展示でありました。石高は分家の方が高い時期があった。60-80石くらい。本家は42石?か46石。パネルで比較されていました。森の分家の子孫もいます。昭和40年代の死亡した分家の当主まで掲示がありました。森分家の血が続いているならば、男系で「元の森家」の血筋を引く、西周の血縁ということになります。

 
 東京にあったモニターテレビでの鴎外の生前の映像はありませんでした。東京で見た映像ではモーニングで正装。文官の恰好。横浜へ東宮の帰国を出迎えた写真。背の高い軍服の人物も写っていた。右肩が下がって引きずるように歩く鴎外の姿でした。
 時間も無いので資料館を出て生家に向かいました。

 ↓ 記念館に隣接する鴎外の生家。

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津和野 森鴎外記念館 見学記

 2015年8月

 ここは島根県鹿足郡津和野町。森鴎外の記念館にやって来ました。郷土が生んだ偉大な天才です。
 西周の旧居から鴎外記念館までは川を渡らなくてはなりません。その道は狭いです。住宅地の中の狭い道を通り、車がすれ違うことが困難な橋を渡り、津和野駅に戻るような経路で向かいます。直線距離では100メートルないかもしれませんが、車、徒歩だと川を渡る関係で遠回りする必要があります。

 館の外に胸像がありました。像の鴎外の姿は若いです。東京の記念館の胸像は入り口の内側にあり、撮影禁止でした。ここ津和野では屋外にあり、撮影は自由です。
↓ 故郷の山を背に建つ鴎外の胸像

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 ↓ 記念館の正面。エントランスはガラス張りです。写真には写っていませんが、左に入口があります。
   向かって右の建物が展示室です。石州のベンガラの瓦を使用しています。

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↓ 隣接する旧居の見学はあとにして、先に記念館から。

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 最初の第一展示室は、10歳から60歳で没するまでの展示です。上京の10歳のときの家族写真が掲示されていました。かむろ姿、子供の鴎外と父母などが写っています。これと同じ写真の拡大版が東京の鴎外記念館にありました。
 展示が始まる前、(展示室の)最初に映像コーナーがあります。ふたつの人生、「二生」とタイトルのある映像でした。組織(官僚)と個人、作家と医者の「二生」がテーマの映像でした。映像中のナレーションで
「鴎外は死ぬまで帰郷することはなかった。(津和野を離れて上京した)当時10歳の鴎外は、故郷に二度と帰ることはなかったなど、このとき想像すらしなかったでしょう。」と言っていました。
 
 続いて展示を見ていきましたが、東京の記念館と内容が重複するものもあります。
 
 展示内容を以下箇条書きで書いていきます。

 当時の東京大学の教員の名簿がありました。
 名簿の筆頭に総長の名前がある。総長心得(代理みたいなもの)は津和野の人。法学部、文学部など学部ごとに名簿がありました。
 法、文などの学部は日本人の教授が多い。医学部の教員には、ベルツの名前がありました。医学部の教員はほとんど外国人です。その他の学部と比べても外国人の教員比率が突出して高い。科目は外科、内科学、解剖学、衛生学、生理学などでした。
 軍医の辞令などの展示も。(ただし、公文書館の複製品)当時の鴎外の書いた手紙の展示も。内容については「陸軍で採用が決まってもまだ軍医になってよいか迷っていた。」と説明がありました。採用が決まっているのにまだ迷っていたとは・・・・・・優柔不断です。ホントはあまり軍医になりたくなかったのですね。結構プライドの高そうなヤツです(笑)。
 軍医になった当時の上官は津和野の人でその写真もありました。この人はのちに37歳で死亡したとのことです。

 児玉セキという女性の写真が掲示してありました。二人の妻の間の間にセキの写真が・・・。セキは「結婚までの間身の回りの世話をした女性」と説明があります。セキは、日本髪で目は細いが、キリっとした顔の女です。現代にも通用する日本美人といってよいでしょう。つまるところ、確実におメカケさんです・・・・・再婚するまでの。
 モチロン説明にはそうとは書いて無いですが・・・・。
 
 更に展示を見ていくと、勲章の展示が。勲一等、勲×等など複数(の勲章の展示が)あります。金鵄勲章功三級も。以外にも低い功級です。功一級は、大山、乃木などの元帥、大将クラス。二級は恐らく中将クラス。三級が少将クラス。鴎外は日露戦争当時に少将相当だったので、戦後に三級を授けられたのでしょうか。
 勲章のヒモは長い。胸に勲章をつけるには長いひもが必要のようです。

 医務局長時代の写真あります。庭で撮影しています。軍医のトップとして得意満面だった時代ですね。
 有名な軍服で馬上の姿の写真ありました。馬丁の兵士は、島根鹿足郡 ××村出身の・・・と説明ありました。この写真は鴎外の紹介では必ずといってよいほど掲載される写真で、以前に私も書籍で見たことがあります。

 帝室博物館時代の写真もありました(東京の記念館にも同じものがあり。)上座に館長の鴎外、左に黒田清輝。右手前、末席に近いところに竹内栖鳳が写っていました。(ただし、大観の姿はなし。)

↓ 第一展示室の先にある通路。川沿いにあるガラス張りの廊下です。
   第二展示室に続いています。民家の屋根はベンガラの瓦ですね。

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↓ 川に面したガラス張りの「小憩ホール」
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↓ 川の対岸をアップで。実は西周旧居の方向です。木々や家の合間から屋根を見ることができます。

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津和野のたび 史跡 西周旧居~森鴎外記念館

 2015年8月

 津和野城跡から車ですぐのところにあります。歩いては5分かからない位でしょう。ただし、夏の日に歩くのはツライです。西周の旧居にやってきました。
 車わ停めるところは特に説明はありませんが、旧居の建物の前に空地があるので停めることはできます。周囲は草地や畑、水田になっています。町はずれの土地です。昔はお城にも近い屋敷街だっと思いますが、鉄道が開通し、道路が通り、駅からも遠いこの付近の屋敷地は畑、空地、田園となったのでしょう。

 ↓ 正面の入口から旧居の建物。管理する人はいませんでした。

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↓ 建物の奥にある標識。国の史跡にも指定されています。
  反対側の道路に面しています。こちらには土壁があります。昔は土壁があったと思われますが、旧居の南北の境界は生垣のみで隣地は空地のようで草が生えているのみです。
 特に壁で周囲を囲んで門を設置しているわけではもなく自由に見学できます。

 「西周」、彼は今日、「日本の哲学者の草分け」とも「日本最初のフリーメーソンメンバー」などと紹介されます。何の業績を残した人物と説明するのは難しいです。津和野の出身ながらその才能によって徳川様の幕府でも明治の新政府でも役職についた人物というべきでしょうか。森鴎外を見出した親戚でもあります。

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 説明によると周は「25歳までこの家にいた。」とあります。10歳で津和野を離れた鴎外とは対照的です。前近代の山の中、小領主の街から立身し、徳川様の御世にありながらオランダ留学を果たした周は相当に秀才だったのでしょう。
実に簡素なつくりの当時どこにでもあったであろう民家です。「武家屋敷」と呼ぶような豪邸ではありません。禄高にもよるでしょうが、一般の武家はこのような質素な暮らしだったのでしようか。


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建物の内部には特に説明はありません。昔の民家の造りです。案内する人もいないため、ただ外から内部を見るのみでした。

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↓ 屋敷の内部。しろりの間の先に一室があり、庭に続いています。
庭をはさんで蔵が見えます。

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西周旧居の前の道路。お城の跡地からはこの道を通りました。
↓ 写真の奥がお城の跡です。
昔の武家屋敷地の面影はあまりありません。この付近がかつての城下町の武家屋敷街だったとすると近隣の人家の数は藩政時代の方が多かったのでしょうか。



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西周邸を少しばかり見て、森鴎外記念館に移動しました。
↓ 記念館近くの空地からの眺望。西側の城のある山の上の方向です。

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↓ 拡大です。鳥居が見えます。

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↓ 森鴎外記念館前にある観光案内板。

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津和野城跡「嘉楽園」 探訪 島根県津和野町

 2015年8月
 
 錦鯉の水路から移動しました。駐車場付近に戻り、「沙羅の木」のおもみやげ物屋を見て、暑いのでアイスを食べました。いや~「沙羅の木」グループの巨大さが分かりました。
 車でお城の跡まで移動します。津和野といえば、武家屋敷と水路に泳ぐ錦鯉です。写真でも「津和野」といえば鯉が必ず掲載されます。が、お城は鯉と比べてあまり有名ではありません。天守閣が復元されていないこともあるかと思います。ただし、城跡自体は山の上にあり、ロープウェイかリフトがあります。時間が無いので山の上までは行けません。
 旧藩庁の跡地は「嘉楽園」と名が付いていました。城跡といってもメインの城郭はリフトで登る山の上にあり、平地には御殿、藩の政庁があったのでしょう。

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 かつて御殿と庭園があったそうです。ゆえに「嘉楽園」と現在名前が付いています。かつての大名庭園跡といいたいところではありますが、その面影はほとんどありません。
 ↓ 跡地にこんもり丘が築かれていて大きな石碑(記念碑)があります。


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 城跡の土地のかなりの部分はグラウンドになっていました。道路を挟んで反対側に高校があるので体育や部活で使用するのでしょうか。サッカー、ラグビーに最適の広さです。
 ↓ 写真奥の建物が山の上へのリフト乗り場のようです。

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 正面からやや左を見る。石碑のある丘の左側。写真の中央の奥には御殿の庭があったようです。
写真の左側が南になるため、御殿の南側に広間が設けられ、縁側に面して池泉の庭園が築かれたことが想像されます。
 現在では城跡に接して民家が建っています。現在ではふつうの広場です。柵も特にないので、子供の遊びらは適しているかも知れません・・・・。

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↓ 津和野城跡の説明板
  石碑のある丘は庭園の築山であるとあります。

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 道路に面して櫓が残っています。現在、城跡の土地は櫓が門のように立っていて、山の裾野に広がっています。ただしね説明板によるともともとは現在のところではなくて、移築されたとあります。藩政時代は現在の高校の敷地も含む広い敷地だったのでしょう。
 「嘉楽園」は『萩、津和野』などのタイトルのガイドブックにも載ることは少ないと思います。観光地図でわずかに地名だけ載っているというケースがほとんどと思います。夏のとある一日のこと。訪れる人はほとんどなく、セミの声に包まれていました。

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↓ 物見櫓の説明板。

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 ↓ 城跡見学をする際の駐車スペース。グラウンドの来る人のための駐車スペースでもあります。
  写真奥は高校の体育館です。桜の木が多くあります。春は美しい桜が咲くことでしょう。
  訪れた季節は夏。せみがジージーないていました。ミンミンゼミではなかったです。

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※ この記事では「嘉楽園」を「大名庭園」と位置付けしてカトゴライズしています。通常、ここ津和野の「嘉楽園」
は旧大名庭園には分類されませんが、敢えて独自に分類しています。あしからずご了承ください。


津和野のたび 3(津和野カトリック教会など)

 2015年8月

  津和野といえば、武家屋敷と水路に泳ぐ錦鯉です。写真でも「津和野」といえば鯉が必ず掲載されます。
  津和野カトリック教会の前にやって来ました。


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 教会の敷地内には、事務所と「乙女峠展示室」があった。
 展示室では、資料の展示があった。

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 教会の敷地の奥には司教館があった。

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 司教館は登録有形文化財に指定されていた。


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 教会には多くの人が出入りしていた。教会の建物の横の様子。

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 教会前の水路の様子。
 奥には、交差点があり、観光客が多く歩いている。


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 交差点のメイン道路を外れたところ。水路は狭いが清流が流れている。


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 教会前、メインの道路沿い。

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津和野のたび 2(錦鯉の水路と武家屋敷跡の街並み)

 2015年8月

 国道9号線から「Λ」状に大きく曲がって側道に入り、坂道を下ります。津和野市街地へ下る坂です。観光客らしき車が往来しています。下ると、すぐに津和野駅前まで出ました。駅自体は津和野の観光ポイントからはやや離れた場所にあります。駅の近くには駐車場もありますが、この暑さの中、観光ポイントまで歩くのは大変なため、更に先に進みました。
 旧市街地まで、駅から更に1キロくらい車で進みます。駐車場はないかな、と探した。観光用の駐車場の前も通りましたが、車を入れるタイミングを逃し、旧市街地をぐるぐる回っていまいました。結局、先に通った駐車場に停めました。ここは民間のパーキングでした。

 津和野といえば、武家屋敷、昔の家々の街並みと水路に泳ぐ錦鯉です。写真でも「津和野」といえば鯉が必ず掲載されます。山間の静かな街、清らかな湧水が流れる小さい水路に泳ぐ錦鯉とイメージしていました。ところがどっこい・・・・、最初に水路に泳ぐ「鯉さん」を見た私の感想は「でかっっ」でした
 と、団体さんが水路のほとりに大挙してやってきます。炎天下です。日傘をさしている人も多いです。観光客の一団が列をなして水路の近くにやってきました。灼熱の太陽光線の下、先頭のガイドさん(男性)が旗を持って、汗をふきふき、大きな声で説明します。「さあ、メタボの鯉がいますよ~。」 皆(笑)。

 ↓ 駐車場から一区画先のメインの通り。なまこ壁が連なっています。
   「津和野」の街並みの風景です。
   右手の水路は狭いことが分かりました。
   観光客は、向かって左手、方角でいうと、東の水路に集まります。

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 その一角に教会がありました。津和野カトリック教会です。(教会の記事は別稿とします。)

 教会の敷地と道路の境界に水路が流れています。鯉は、この津和野カトリック教会の水路に多くいるので観光客が集まっています。
 
 ↓ 鯉の泳ぐ水路。
 水は、大雨のあとのせいか、やや濁っています。事実、この後は、天気が変わって大雨が降ってきました。
 カトリック教会の前の水路も鯉がたくさん泳いでいました。いわゆる津和野の観光写真でよく使用されるのはこの付近の写真であることが分かりました。


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↓ カトリック教会の敷地の前の水路。
団体サンがやってきました。暑いので皆、日傘をさしています。
この付近が津和野で一番の「錦鯉」観察スポットだ。


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水路を拡大。鯉が泳いでいます。


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 水路の途中に柵がありました。鯉が流されないようになっています。
↓ 写真で見ると小さいですが、近くで見ると鯉さん達はありえへんくらいデカいです(苦笑)。

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 ↓ 水路と道路をはさんで反対側。
 ベンガラ屋根のお屋敷です。津和野の家老の屋敷だったと思います。
 現在は「沙羅の木」の料亭となっていて公開されています。
 「沙羅の木」側にも上に掲載した写真のように水路があるが、水路幅が狭いためか、観光客のほとんどは、カトリック教会前の水路に集まっていました。

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 ↓ 本町通り。観光のメインストリートです。
 南の方角。町のはずれの方向でその先には川があります。森鴎外記念館は更に川を渡るを通った先にあります。壁の先には、津和野の町役場があったと思います。
 写真の左手、写ってはいないが、壁の内側には役場とは別の公共施設があった。
 かつて、「津和野の水路と錦鯉」の写真は、この壁沿いの水路と古い武家屋敷の様子が紹介されていたと思う。実際に観光で訪れてみると道路はきれいにブロックで舗装されているし、電柱も無くなって景観に配慮されていて、並木道となっていた。しかし、昔ながらの武家屋敷の壁の脇を流れる水路という趣は無い・・・・。錦鯉鑑賞のメインも、カトリック教会の敷地の前であった。


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 ↓ 水路にかかる橋の一角にある土地。交差点の角地のところだったかな。
   何かの施設で観光用ではないと思う。
 津和野の錦鯉は、カトリック教会の善意によって敷地付近を自由見学に提供しいる感じ。教会前の水路や道路は公共用地であるが。教会に隣接して幼稚園など子供が通う施設もあり、安全に配慮が必要と思った。


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津和野のたび 1(津和野市街地へ移動)

 2015年8月

 道の駅で食事をして津和野に向かいます。津和野への道は二種類あります。山を越えて県道を行く道。もう一つは国道をを経由して山越えではないが、やや遠回りして津和野を目指す道。どちらがよいか考えましたが、川沿いに国道を下ります。川の流れは清流。田んぼの緑のじゅうたんが広がっています。
 民家の屋根は「石州瓦」というのでしょうか、赤い色の瓦です。ベンガラの色なのでしょう。ここ島根西部の旧石見の国など中国山地に見られるベンガラの瓦です。


 川を下り、山口線との合流の街に出ました。日原の街です。こには鉄道駅があります。岩国線の駅以来、久々鉄道沿線の街に出ました(笑)。
 この街の山の上には天文台があります。日原天文台といい、ガイドブックにも掲載されています。観光客も見学できますが、時間の関係もあるので割愛しました。
 日原から線路沿いに、今度は川を上るように南に道路を進みます。「南下」ではありません。標高は上がっていきます。日本海へ流れる川の更に上流域を目指します。
 この道は、瀬戸内海沿岸から県庁所在地の山口市を経由して日本海側を結ぶ幹線国道9号線です。道幅も広く、よく整備されています。信号が無いのでどんどん車は進みます。
 と、正面に大きいおにぎり型の山が見えてきました。地図や道端の看板などを見ると青野山というようです。津和野はこの特徴的な形をした山の懐にある街のようです。津和野まであといくらも距離はありませんでした。
 きっと鴎外こと森林太郎もこの山を見て育ったのだろうなと思いながら・・・。

 ↓ 国道をひた走る。その先におにぎり型の目立つ山容の山が・・・。「青野山」でした。

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 ↓ 青野山がだんだんと近づいて来ました。はっとするくらい印象的な形です。
   いや、ピラミッドのような感じもして、パワースポット的な何かも感じました。

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 国道から大きく曲がって側道に入り、坂道を下ります。津和野市街地へ下る坂です。観光客らしき車が往来しています。すぐに津和野駅前まで出ました。駅自体は津和野の観光ポイントからはやや離れた場所にあります。駅の近くには駐車場もありますが、この暑さの中、観光ポイントまで歩くのは大変なため、更に先に進みました。旧市街地まで1キロくらい車で進みます。駐車場がないか探しした。観光用の駐車場の前も通りましたが、車を入れるタイミングを逃し、旧市街地をぐるぐる回っていまいました。結局先に通った駐車場に停めました。
 ここは民間のパーキングでした。あとで知ったのですが、お土産屋、料亭などを経営する「沙羅の木」の駐車場です。

 ↓ 津和野の市街地の曲がる手前、国道沿いの風景。山また山が連なっています。

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↓津野野の街中。駐車場の近く。ベンカラの赤瓦が印象的です。

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 ここ津和野から昔の江戸、あらため東京に出たのちの鴎外こと少年 森 林太郎は故郷のベンガラの赤瓦の街から灰色瓦の連なっていたであろう東京の街を見て望郷の念にかられ、現在でいうカルチャーショックを受けたのではないでしょうか!?。
 ↓ 車を停めた駐車場。大型観光バスも停まり賑わっています。
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↓駐車場の内部から、お土産物屋さんなどの風景。写真の右奥に旧津和野藩の家老屋敷がありますが、沙羅の木経営の料亭となっています。津和野観光は「沙羅の木」無しには語れないことが理解できました。
一大観光グループです。
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↓ 錦鯉の水路側から駐車場方向。
写真には写っていませんが、左側には沙羅の木のお土産物屋がありました。ここで『源氏巻き』のお菓子を購入しました。


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島根 吉賀町の風景と道の駅「かきのきむら」

 2015年8月

 津和野方面に向けて旅をしてます。
 ムーバーレーから国道に戻り、再び錦川の上流を通り津和野を目指します。いくつかの集落を抜けます。夏の強い日差しがキラキラと輝いています。道路沿いから見る川の水は、とても澄んでいます。やがて、錦川の清流を越え、山道を走ると下り坂になります。中国山地の中の盆地に下る道です。
 ↓ 中国自動車道のインターの看板が出てきました。

 
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 インターを越えて更に走ります。高速道の高架の下をくぐり、更に進みます。盆地を抜け、再び山道に。更に進むと再び山間の盆地を走ります。
 ↓ 鹿足郡吉賀町のエリアと思われる道中。緑のじゅうたんと緑の濃い山々、そして入道雲。ああ、夏だな。

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 ↓ 吉賀町域の国道。ベンガラ瓦の民家もあります。家も一軒、一軒大きいです。
  入道雲のある方向を目指して進みます!!。

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↓ 道の駅に着きました。その名も「柿の木村」(かきのきむら)

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 ここの地名も柿木村です。以前は独立した村だったのですが、合併して吉賀町になったようです。道の駅の隣というか、近くの建物は町役場の支所ですが、以前は村役場だったようです。
↓ 道の駅から西の方向。青い道路看板、実は右が津和野方面への山道です。
 この道を通って津和野に出ようかと思いましたが、山道なのでやめました。「津和野」と大きく告知していないので、通らないで国道を行く方が無難と判断しました。

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 道の駅の内部の食堂で昼食です。津和野周辺でお昼かな、と思っていましたが予定が遅れているためここで昼食を食べることにしました。観光用ではない食堂です。食べにきている人は、これから津和野を目指すであろう親子連れの観光客らしき人もいますが、運転手の人も食べにやってきました。近くの工場でしようか、作業着を着て食堂にやって来たおじさんもいます。道路沿いをざっと見たところでは、製造業の工場がある様子ではありませんでしたが、製材工場の人でしょうか。
 セルフサービスです。メニューは自分で一品ずつ取っていきます。アノ「〇〇(地名)食堂」のような感じです(笑)。ただ、「〇〇(地名)食堂」の一品料理は塩気が多いので私は控えるようにしています。塩分の摂りすぎに注意しています(笑)。
 みそ汁は最後についでもらいます。野菜がたっぷり入っています。そして、お米がおいしい。夏の暑いときのごはんは食が進まないかも知れませんが、「かきのきむら」のごはんは実においしい。
 ↓ 道の駅 かきのきむら食堂の食事。「アラカルト方式」です。
   唐揚げのカロリーが・・・・気になります(笑)。
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↓ 道の駅からの眺め。川は左の方向へ。日本海に注ぐ川です。

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↓ 道の駅の駐車場。食事をして先に進みます。津和野まであともう一息です。

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↓ 川の上流方向。向こう岸にベンカ゜ラの屋根が見えます。

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砂金採り体験と美川ムーバレー

 2015年8月

 美川ムーバレーの砂金体験。
 テントの中でひたすらバン皿を振ります。たとえ、腰が痛くなろうとも一心フラン(漢字が・・・・)です(笑)。

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 私達が砂金採りを開始する前は、体験のお客さんはいませんでした。(私達が開始する前はいたと思いますが。)私達があまりに真剣に(笑)、必死に(笑)バン皿を揺らしているので、かは知りませんがお客さんが何組かやってきました。
 下の子は器用に砂を落として砂金を見つけます。「あった。」と。この一言を聞くと穏やかではなくなるのです(笑)。私の戦果は・・・・というと、15分行って小さい粒が一個のみ。焦ります・・・・。
 下の子は更に砂金採りを進めて再び「あったよ」と。すると近くで体験をしていた他の子やその親がちらっと下の子の方向を見ます。他の人が砂金をゲットするとアセルのは何故でしょう!?。ホントに人間の心理って不思議です
 私は、ついに別の場所に移動して砂金採りをします。今までは一か所に固定されていましたが、ここ美川の砂金採りでは遠慮はいりません。自由に動けるルールを大いに活用しました(笑)。
 移動してずさっとバン皿に砂を入れます。そしてよく回転させます。次いで三角形というか〇を描くように砂を水中で振り落としていきます。金の比重を考えて水の底の砂をこれでもか!!!!っとパン皿に入れたのですが、上手くいきませんでした・・・・。
 結局私は最初にゲットした金の粒よりも更に小さい極小粒しか採ることができませんでした。平均の個数よりも少なかったです。まだまだ修行が足りませんでした
 テント内の台のみではなく、池でも砂金採り体験を開始するおとうさんと男の子もいて、だんだんと砂金採りコーナーが賑わってきました。

 受付係の人が見本で実演してみせると必ず砂金が現れます。しかし、私が行っても一粒も出てこないことがしばしば・・・・・。何回も行ったことがあるのに・・・・・。この違い(毎回ゲットする人とできない人)のコツがまだ掴めていません。えっ、邪心がある!?。

↓ 砂金採り体験の看板。上の通路は坑道から出て、川と道路の上を渡り、レストハウスまで行く歩道橋です。

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 ツレと上の子は、砂金すくい体験はせずに、坑道入口の近くの売店でかき氷を食べて涼んでいました。

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 砂金採り体験のあと、駐車場に戻り出発しました。この鉱山は金山ではなかったようです。昔の鉱山、坑道の説明を見る間もなく出発したので鉱山に関する知識は得ずじまいでした・・・・。
 ともかく先を急ぐため慌ただしい砂金採りでした。





























砂金すくい in美川ムーバレー

 2015年8月

 夏休みに萩、津和野方面を旅しました。途中、錦川沿いの道からそれて、美川ムーバレーへ。
 目的は砂金すくいでしたが、「冷風に魅かれて」坑内に入り、外に出てきました
 と強烈な暑さが再び襲ってきます。眼下には、ムーバレーの施設の全容が見えます。
 ↓ がけ下、川の手前が砂金すくいのテント。川の向こうがレストハウス。写真左が駐車場。

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 坑道の出口から階段を下りて、砂金すくいのテントまでやってきました。坑道の入口付近に戻ってきたことになります。テントの脇に受付があります。体験料金は一人700円です。制限時間は30分間。
 「料金700円、時間30分」は全国砂金すくい体験のほぼ共通ルールです(笑)。


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 ここ美川ムーバレーの砂金すくいはテントの下にあります。いわば仮設の施設です。雨や台風の日は実施ができません。今まで体験してきた砂金すくいコーナーは建築物の中にありました。伊豆の土肥、秋田の尾去沢、山梨の金山博物館、生野銀山しかり。特に伊豆の施設は規模が大きいです。比較するとここでは体験人数が少ないのでテント内なのでしょうか。
 ともあれ、昨年の伊豆 土肥以来の砂金すくいスタートです
 受付では「今までやったことがありますか」と聞かれるので「はい」と答えました。あとは自由に実行します。特にレクチャーもありません。今まで養った技術を基に砂金を採るのみです(笑)。
 「初めて」と言うと丁寧に教えてくれます。もう一回教わればよかったかな?。

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 ↓ 砂金すくいコーナーは木枠の立派なつくりです。砂金を入れるプラ容器を用意します。

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砂を入れてバン皿で三角形を描くように水中で砂を落としていきます。時折、回転させ金を沈殿させるのがコツです。砂が少なくなると少しずつ振り落としながら、砂金を出現させます。
 実は、ここでは移動が自由なのです。今までの砂金すくい体験では30分の制限時間中、移動をすることは固く禁じられていました。よって指定されたり、一旦自分でポジショニングすると制限時間が来るまで、ひたすら同じ場所で作業しないといけません。が、ここではどこでも砂金をすくってよいのです。(実際にはバン皿に砂金が含まれているかもしれない大量の砂を入れて水中で振り落とすのですが・・・・。)
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 実はここでは、下の写真の池の中でも砂金すくいができるのです。水は坑道の中から瀧のように流れて来ます。広い池と腰の高さの砂金すくい台とどちらがよいかと思いましたが、従来のとおり「台」を選択しました。

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「全巻一挙公開 国宝 源氏物語絵巻」 徳川美術館 名古屋

 2015年12月6日

 「全巻一挙公開 国宝 源氏物語絵巻」のことを知ったのは、最近ことです。東京国立博物館の廊下かどこかでパンフレットを見ました。以前、ウェブサイトを見て知ったのですが、いつのもにか忘れていました。急ぎ 徳川美術館に向かいました。とはいっても、家からは遠隔地のため、結局公開最終日の訪問となってしまいました・・・。
 公開は11月14日から12月6日までの3週間余りでした。「源氏物語絵巻」は言うまでもなく徳川美術館のメインの所蔵品のひとつです。学校の教科書、資料集で「徳川黎明会蔵」と必ず書いています。
 全巻公開は「10年ぶり」のようです。行ってみて気付いたのですが、東京の五島美術館所蔵の「源氏物語絵巻」も展示されていました。夕方に会場に着いたのですが、最前列で絵巻を見る通路の入場待ち時間は「60分」でした。後列ならば「待ち時間なし。」展示室の廊下に「最前列鑑賞待ち」の行列ができていました。

 すでに全巻を見たことがある人は多いでしょう。全巻見たことがある人はこのたび、名古屋の徳川美術館まで行く必要はありません。しかし、私は全巻を見たこことは無いので「この機会は逃すまい。次回はいつあるか分からないし、あと10年は待てないな。」と思い、名古屋に遠征しました。「明治村」にも行ったことがなかったので、初訪問の機会を得ることができました。
 先に明治村へ、次に夕方着で徳川美術館に。4年ぶり2回目の徳川美術館でした。徳川園に隣接する市営駐車場も満車。近くのコインパーキングも満車。そして、最前列の鑑賞待ちの行列・・・と混み合っていました。注目度の高さがうかがえます。
 美術館は17時閉館ですが、並んでいる人には「五時前の入室になります。特別に開館時間を延長します。」と説明をしていました。図録は前日の土曜日で完売したそうです。

 先程ようやく自宅まで帰ってきました。「ひつまぶし」「みそ煮込みうどん」そして「徳川美術館」の「ナゴヤたび」でした











地底の王国「美川ムーバレー」へ 岩国市

 2015年8月

 夏休みに萩、津和野方面を旅しました。
 
 まずは、錦帯橋から。実に20年以上ぶりでした。ついで、その錦帯橋がかかる、その名も「錦川」に沿って車で上流方面に移動います。岩国付近の国道2号線は山の中を通っています。錦川の上流を経由して津和野を目指していたはずが間違って2号線に入って西方向に向かってしまいました・・・・。
 道路沿いから見ると川を流れる水は、とても澄んでいます。先の記事にも書きましたが、この川が「錦川」と呼ばれるようになった理由が分かりました。

↓ 途中 停車したときに錦川を撮影。夏の陽射しに清流が映えます。

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 錦川沿いの道を進み、途中で支流方面へ曲がります。山合いの道を更に走ります。途中、道幅は狭くなったりします。山道のカーブで見通しが悪い所も。錦川沿いの分岐点から車で10分も走ると「美川ムーバレー」に着きました。まだ早い時間帯なので駐車場はさほど混雑していません。
 ここも岩国市です。広域合併のため、岩国市域はとても広いです。ムーバレーの更に先の津和野方面の山地、山間部の盆地など中国自動車道の手前まで岩国市でした。

↓ ムーバレーの看板

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 ムーバレーの入口付近の様子。昔の坑道入口です。が、昔は鉱山であったことはどこにも説明がありません。別の建物の中にはそうした説明があるのかも知れませんが、先を急いでいたので私達は見ませんでした。

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↓ 道路沿いのムーバレーの看板 「呪文の書Ⅱ」。一体何があるのでしょうか??。

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↓ 川の下流方向。元来た道の方向です。錦川に注ぐ支流です。
 川のほとり、写真の右は駐車場です。渓流釣りをしている人がいました。清流なのでしょう。

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↓ 入口方面に向かいます。そして旧坑道の入口、ムーバレーの入場券売り場の近くに砂金すくい体験が。
 さあ、ここで砂金を採るぞ、と意気込みました。が、気温は上昇し、暑くなってきました。真夏の陽射しが容赦なく照り付けます。暑い、暑い。

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 と、どこからか涼しい風が吹いてきます。ムーバレーの入口近くに寄ると、とても涼しい風がビュービューと吹いてきます。「ああー、チョー気持ちいい~」と思わず声を上げました
  (写真は帰り際に撮影)

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↓ 入口の様子。涼しいというより、冷たい風が坑内から吹き出ています。写真では「風が吹き出している様」をお伝えすることができないので残念です
 (写真は帰り際に撮影)

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 あまりの気持ちよさに、当初砂金すくいだけの予定でしたが「冷風に魅かれて」坑内に入ることにしました
↓ 入口脇の看板。

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錦帯橋 訪問 岩国市

 2015年8月

 夏休みに萩、津和野方面を旅しました。
 山陽道をひた走り、広島市域を抜け、宮島SAを経由して岩国インターで降りました。川沿いに下流、つまり岩国市街の方向へ。高速道路は途中「山陽道」と呼ばない部分もあるようです。が、ともかく山陽道で岩国までやってきました。

 2キロか3キロほど川沿いの道を下ると、視界が開け、川幅が広くなり街があります。有名な錦帯橋が川にかかっています。
↓ 橋の上から上流方向。

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 私が錦帯橋に来たのは、実に20何年かぶりです。あの頃はまだ少年でした。周囲の風景、ことに岩国城のる山の風景は覚えています。ただし川を挟んで城の山から対岸、左岸について風景はすっかり忘れていました。家や旅館、ホテル、お店などが集まる地区です。「あれっ、こんな風景だったかな。」と記憶を辿りましたかが、やはり思い出すことはできません(笑)。
 あと「世にも不思議な白ヘビ」を見ました。橋から近い小さな建物の一室で飼育されているのを見たことがあります。
 ↓ 右岸側の橋入口。つまりお城や「白蛇」に近い入口のことです

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実はこの日は夜が花火大会のお祭りの準備中でした。駐車場が制限されていました。停めようとしていた駐車場が駐車禁止だした。予定が狂ってしまいました・・・・。朝から打ち上げの準備をしていたと思います。夜は大混雑するのでしょう。
 ↓ 橋のたもとの道路にも提灯が下がっています。橋と後方は右岸の山。
   お城は写っていません。
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 左岸から右岸方向。つまり写真後方の山の上にお城があります。ロープウェイも通っているのですが写っていません。記憶よりも白ヘビなどのいる公園が狭く感じました。もっと広々として橋を渡ってからロープウェイまで資料館や白ヘビを見学しながら歩いた記憶がありました。というより、当時より公園の木々が成長して公園内の見通し、つまり視界がないせいかも知れません。あと、昔に比べて民家やお土産物屋などの建物が増えたように感じました。

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↓ 更にアップで(笑)。
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↓ 錦帯橋よりやや上流の錦川の風景

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 錦帯橋はその名も「錦川」にかかっています。ゆえに「錦帯橋」と呼ばれたのでしょう。橋から見ると「川を流れる水は澄んでいて綺麗です。水に濁りがない。現在では、ダムの影響か川の水の水深は浅いですが、市街地に近いわりには美しい清流です。昔はもっと清流だったでしょう。この川が「錦川」と呼ばれるようになった理由が分かりました。























たびのプロローグ 宮島サービスエリア~岩国 錦帯橋へ

 2015年8月

 夏休みに萩、津和野方面を旅しました。
 今回のたびは、レンタカーを使用します。山陽道をひた走り、広島市郊外から岩国の方向へ。

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 やってきたのは、宮島SA。ここから安芸の宮島を望むことができます。海峡の向こうの島が厳島です。サービスエリアから見て島の中央付近の入江に厳島神社があると思います。
 山陽道は山道が多いです。トンネルも多い。兵庫県から瀬戸内海に近い所を通って、山口県に至る道路ですが、途中標高の高い所も通ります。最高地点の標識がでていましたが標高400メートルくらいあったと思います。東名高速の場合、富士山ろく、高原地帯の御殿場付近が最高所で標高450メートルで゛すからさほど変わりません。ゆえに山陽道は起伏も多く、長い下り坂あり、カーブもきつい所があり、事故も多い。連休などては必ずといつてよいほど事故渋滞があります。死亡事故も多いような・・・・。数年前ですが、山陽道を通ったときのこと。私達が通った二時間後くらいに死亡事故が発生していたこともありました。

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 広島高速への分岐手前。市内に近づいても山の中の道です。広島周辺は山に囲まれています。平地は限られ、山が開けるとすぐ海です。それ故、景色は綺麗なのですけどね。風光明媚とはこのことをいうと思います。

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 宮島SAの駐車場の様子。よく晴れた夏の朝です。今日も瀬戸内沿岸は暑くなりそうです。駐車場には朝から多くの乗用車が停まっていて混雑しています。ワンボックスカーが多いので家族連れの行楽、帰省客が多いのだと思います。反対にトラックは少ないです。

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 宮島SAの見晴ポイント。宮島がうっすら見えます。 

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 宮島SAの敷地内、少し歩いた所に展望エリアがあります。朝とはいえ、真夏の日差しは容赦ない。しかも屋根が無い・・・。宮島を見んが為に歩きました・・・・。展望台に鳥居があるのが分かります。厳島神社の鳥居を模しているのですね。

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 展望エリアから宮島SAの建物と駐車場方向を見る。青空が広がっています。気温はすでに31度くらいはあるでしょう。

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 展望台から。宮島は更に西の方角にあります。意外と距離があります。

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 宮島と反対側の広島市内方向の沿岸部。工業地帯です。沿岸部は埋め立てが進み自然海岸はあまりり残っていないように見えます。夏の朝、霞んでいます。山側はクリアに見えますが、海の方向はご覧のとおりです。

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 宮島方向を拡大。 人間の目で見た大きさと同じくらいではないでしょうか。ワイドに撮ることができないのが残念です。パノラマ撮影すればよいのかも知れませんが。

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更に拡大。写真ではわかりませんが゛、社殿のような建物も見えなくは無い程度の眺望です。連絡船が往来しているのがかすかに見えます。

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 ん~、やはり霞んでいますね。沿岸の丘陵地帯も開発されて家やマンションが建ち並んでいます。現在よりも風光明媚だった昔の面影はあまり残っていないのでしょうか。が、厳島の山は「ニョキニョキ」という感じで海から屹立しているように見えます。山の形も特徴的です。昔の船乗りは航海の目印としたのでしょう。だから、古来より海の神様として神社が建立され、平家をはじめとして武士、貴族の信仰を集めたのでしょう。近くから神社の社殿のみを見ただけでは分かりませんが、こうして遠くから厳島の地勢を見てみると、信仰を集めた理由が何となく分かります。

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りょうげつ

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