良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2016年01月

 

備中松山城 見学記(駐車場から山道を登る)

 2015年8月

 ここは山陽、岡山県。
 鴨方から山を越えて高梁市までやってきました。高梁は山陽と山陰を結ぶ国道や鉄道の途中にあたります。
 高梁までの道は、井原からの山越えの道でした。中国山地は深い急峻な山ではありませんが、山また山で人家が沿道に全然ない地域もありました。ゆえに、比較的人里の光が入らない山間地域もあるので天文台もあるのでしょう。事実この道中、天文台の近くも通りました。「美星町」という町もありますから。

 高梁市の市内から、更に山の上へ細い道を登って行きます。目指すは「備中松山城」です。城への登山口にある駐車場に行きます。途中、山麓で警備員が立っています。混雑するときはここで別の駐車場に誘導しているようですが、私達が訪問したときは、通行ができました。土日祝日はシャトルバスが運行され、先に行くことができません。麓の駐車場に誘導されるようです。

 (城までの)登山口へ車で山道を登ります。細いので対向車には注意しながら、山腹を登っていきます。標高はどんどん上がり、林の合間の眼下に市街地が見えるようになりました。やがて、山の中腹に切り開かれたわずかな平地があります。駐車場になっていて、ここが車で到達できる行き止まりの地点です。

 ↓ 駐車場の様子。
 到着した駐車場。夏の混雑時期のためか、警備員が出て、整理していました。麓の警備員と無線で連絡を取り、空きがあると車を上げています。しかし、土日祝日はここまで車で来ることはできません。一般車は通行禁止です。
 が、この日は夏休み期間とはいえ、平日です。山の上の駐車場まで来ることができました。

 

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↓ 駐車場の様子その二。
 写真の右の先には道路が続いていますが、管理用の道路です。一般車の通行は禁止です。天守閣にいる職員は車で容易に天守閣まで移動できますが、一般の私達は不可!!です。自分の足で歩かないといけません。

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↓ 城までの道の案内板。
 実はこの駐車場までは来たことがあります。季節は真逆で冬だったような・・・。夕方の閉館時刻近くだったので、城まで行かずに引き返した記憶があります。その後、この城に来ることはありませんでした・・・・。更にその後、引っ越して現在は神奈川県に住んでいる私です。来ようと思えば、比較的簡単に来ることができたのに、来ることをせず、遠くに住んでいる現在になって、思い出したようにやって来た私でした。

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 山道は駐車場から一旦下がります。あれっと思いましたが、すぐに登りの山道となります。

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 道に沿って歩きます。と、眼下に先ほど車を停めた駐車場が見えました。更に登りは続きます。




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↓ 途中の様子。

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 道の途中から斜面の下を見る。意外にも急です。他の歩いている人が写真に写っていませんが、この暑さの中、登って来る人、登城を終えて下りてくる人は結構います。下って来る人々がうらやましいです(笑)。

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 駐車場から城までは約700メートル。徒歩で20分くらいでしょうか。しかし、この暑さの中、想像以上にきついです。この看板を見たときの感想「え~、まだ半分と少ししか来ていないのぉ~」が正直な心の叫び「偽わざる心境」でした

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 急斜面の中腹での「急カーブ」の山道。実は近くを管理用道路が通っていて、軽トラが走行していました。管理人の車なのでしょうが、「あ~、あの車に乗せてもらえないかな~」とついつい思ってしまいます

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 汗だくです。夕方近くになり、曇ってきました。直射日光こそありませんが、この日はかなり蒸し暑かったです。
 ようやく石垣の下に到着しました。石段を登った後に振り返って撮影。

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 ↓ 上の写真の位置から上方を写す。大きい石垣と立派な通路。かつての大手門の跡ですね。
   石垣の上には大手門の櫓が建っていたのでしょう。

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 大手門を過ぎて更に登って行きます。


「かもがた茶屋」 国道二号線沿い 食事

 2015年8月

 岡山県里庄町の仁科会館と仁科博士生誕地をあとにして、移動します。国道二号線を東へ。 
 この辺りを通るのは久々なので、道沿いのある所を見学を兼ねて食事をすることにしました。 「鴨川そうめん」があったからです(笑)。
 在住しているときは、あまり気にしなかったのですが、離れてみると気になります。(笑) しかし、この日は休みでした。夏休みなのですが、お盆の期間の少し前の平日だったので開いていませんでした。駐車場の車もまばらで、従業員らしき人しか歩いていません。鴨方そうめんの食堂の建物はあるのですが、土日しか開いていないようです。プレハブの建物で、内部にはたくさんの長テーブルとイスがあり広いです。団体さんが来るときは対応しているようです。鴨川そうめんの工場もここにあります。工場は稼働しているようでした。
 そこで、同じく国道沿線にある「かもがた茶屋」の店へ。この道は以前、通ったことはあるので、お店があることは知ってはいませたが、ここで食べるのは初めてです。(お店の看板は「かもがた亭」だったような。)
 うどんと天ぷらと寿司というか簡単な握りりのオーソドックスのランチセツト。「天ざる寿司セット」だったと思います。地元のチェーン店舗、地元のファミレスメニューですね。お値段も首都圏近郊の店と比べるとお得です。
 暑いのでもちろん(選択するうどんは)「ざる」です。「ざるざるざる!!」というテンションでした。私は・・・・・(笑)。

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 上の写真には、わずかにお茶のコップが写っています。暑いのでガブ飲みしてしまいました・・・・。

 夏空と駐車場の様子。遠くに中国山地の山々が。
 昼食の後には、山道を越えて高梁まで行くことにしました。

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 ↓ お店の外観


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 ↓ 高梁への途中の道。
   といいますか、鴨方町から矢掛に出る途中の風景だったと思います。

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飛行機雲が低いです。丘陵地帯の中を曲がりながら走ります。

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岡山県里庄 仁科芳雄博士生家

 2015年8月

 岡山県里庄。
 明治時代、この小さな集落から天才的な物理学者が生まれました。その名は仁科芳雄。日本物理学史上最高の天才のひとりといってよいでしょう。山陽の交通の要衝の沿いといはいえ、現在ものどかな田園地帯が広がる村から稀代の天才が出たとは。その仁科芳雄の記念館、仁科会館の近くには生家があります。仁科会館の展示を見たあとに寄ってみることにしました。

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 博士の生家は仁科会館から国道2号線を挟んで南にあります。国道から直線距離で100メートルあるかないかの南に位置しますが、狭い集落の中の道を通らないといけないので、迷ってしまいそうになります。特に道が狭く、車で行った場合には対向車が来るとすれ違い困難です。私は、狭い路地なので、本当に辿り着けるのかな、と不安になってしまいました(笑)。 が、路地をなんとなく、道なりに進み、とある交差点を曲がると駐車場に着きました。
 ↓ 生家の前にはある駐車場と小路
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 門に続く、お屋敷を囲む白壁。大きな邸宅です。地主だったそうです。子供に教育を受けさせる財力も相当にあつたと思われます。
 現在、公開は日曜日のみのようです。訪れた日は夏休みの期間中でしたが、8月もきっちりカレンダー通りで、この日は公開日ではありませんでした。門は固く閉ざされていました。現在、仁科家の人は住んでおらず、屋敷や敷地は町に寄贈された?か仁科記念財団が持っている?ようです。
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↓ 仁科会館の二階から見た。二号線の様子。
ひっきりなしに車が往来しています。
博士の生家は写真には写っていませんが、右(西)の方向です。


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仁科会館の一階の屋根部分が写っていますが、里庄の「里」の様子。
海(南)の方向には山があります。山の先はすぐ瀬戸内海です。
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↓ 仁科会館の二階、仁科記念ホール前の廊下から見た里庄の風景。
博士の生家も屋根だけですが、わずかに見える筈です。

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仁科記念館 「仁科芳雄博士」展示室 見学

 2015年8月

 岡山県里庄。物理学者 仁科芳雄博士の記念館が生誕地の近くにあります。

 二階の展示室の廊下から吹き抜けの一階ロビーを見る。

 戦後、ノーペル物理学賞を受賞する、湯川秀樹、朝永振一郎の写真とともに仁科博士の写真が中央に展示されています。湯川氏、朝永氏ともに仁科博士の弟子ともいうべき人です。

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↓ 外の風景。のどかな田園地帯です。

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↓ 外の風景。のどかな田園地帯です。


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↓ 展示室の廊下。博士の写真が掲示されています。


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↓ 原爆研究に使用されたサイクロトロンについて。

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↓ 日本に投下されて原爆についての解説展示。

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↓ 博士が子供の頃に描いた「馬」の絵わ再現するロボット。複数の博士が子供の頃に描いた絵を選択することができます。


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↓ エアマシン。子供も楽しく遊ぶことができます。

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銀座 広島県アンテナショップ内 イタリアンレストラン 食事

 2015年12月27日 
 
 年の瀬も押し迫った銀座。
 広島県アンテナショップ「TAU」にやって来ました。商品券を有効期限内に使い切る必要があります。
使い着るには、食事で使用するのがよいというこで久々に三階にあるイタリアンレストランで食べることにしました。ここ何回かは地下の「おちこち」で食べていましたので。混む前の正午前には席を確保。注文しましたが、結構まちました。トータルでは40分くらい待ちました。その間にツレは一階の店内をウロウロ。下の子は、二階の「カープショップ」でグッズを購入。今年のカープの成績は!?、というとあまりパッとしなかったような・・・・。開幕前はいろいろと話題を提供し、シーズン前半は上位に食い込んでいましたが、後半ではいつものように失速。ポストシーズンに出たのかも忘れてしまいました。ジャイアンツが負けたのは覚えています。スワローズが日本シリーズに久々に進出していました。が、カープについてはホントニ覚えていません。謝罪します。
 
 食事を待つ間、私はなぜか体調が悪化していました。先の科学未来館で体調を崩したようです(笑)。

  ↓ ランチの前菜。魚は地元広島の瀬戸内海で獲れた直送だと思います。カルパッチョです。
 とキッシュと野菜など。

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 料金を少しプラスしてカキの6個焼きに変更しました。生ハム巻き、ウニとの焼き、素焼きでレモンかけ、オリーブ油焼きなどそれぞれ焼き方が違います。
 お皿に敷いてあるのは岩塩です。氷ではありません。

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 ↓ オリーブ油焼きを食べた後の殻とこれから食べんとするウニ焼きの拡大です。

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 ↓ ランチメニューのメインディッシユはパスタなどを選択できます。
  じゃこと葉野菜のパスタ アリオ・オリオ。つまり塩味ですね(笑)。
 「じゃこ」は関東の人には分かりにくいですが、「にぼし」です。 お湯で戻したにぼしがパスタに乗っているという食感でした。 

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 私はミートソースのバスを。一般的なイメージのトマトベースのミートソースと異なりあまり赤くないです。
 バジリコが振られていますね。
 ランチメニューにはフォカッチャも付いてきます。オリーブ油を付けて食べます。他のテーブルでおかわりをしているお客さんもいました。年配の方のグループはは来なれているらしく、どんどん追加をお替りしていました。特に案内はなかったのですが、お替り自由のようです。私達も追加で頼みました。

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 お店の看板。広島イタリアン「お魚&江田島バール パッチョ」です。
 三階にはレストランの横にアンテナショップのイベントスペースもあります。庄原の神楽の紹介映像を放映していました。

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 ずっと以前に撮影した限定商品券。有効期限は12月30日まででした。

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岡山 仁科記念館 見学

 2015年8月

 岡山県里庄。カブトガニで有名な笠岡の隣の町です。鴨方郡といいましたが、現在では笠岡に合併されているかも入れません。現在も国道二号線や山陽線が通っています。明治時代、ここから天才的な物理学者が生まれました。その名は仁科芳雄。日本物理学史上最高の天才のひとりといってよいでしょう。
 この稀代の天才が山陽の交通の要衝の沿いといはいえ、現在ものどかな田園地帯が広がる村から出たとは、「才能は出身地に関係なく、本人の努力、向上心次第である。」ことを示しています。その仁科芳雄の記念館が生誕地の近くにあります。 
 以前、岡山に住んでいたときは、この近くの国道二号線は時々通ったので、仁科記念館(会館)のことは知っていました。二号線をを通るのは久々なので見学してみることにしました。ちなみに、最初にカブトガニ資料館に行ってから、こちらに来ようかと思いましたが、子供達はカブトガニには行かないというので、直接仁科会館に来ました。カブトガニは私が子供の頃、一時期ブームとまではいかないものの、話題になったような記憶があります。昔、通っていた小学校でも別のクラスで水槽に飼育していたのか、巡回展示でやって来たのか、カブトガニを見たことがあります。

 ↓ 記念館が入っている公民館のような仁科会館の建物。夏休みなのに入館者は少ないです。

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「環境は人を創る。人は環境を創る。」とある仁科芳雄の記念碑。
会館の前には広い駐車場があります。

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 入館しても特に受付はありません。入口の傍らには事務室がありますが、特に事務室で受け付けをする訳ではありません。入場は無料です。
 二歳か三歳くらいの子供を連れたお母さんが遊びに来ていました。こども向けの簡単な遊具や遊ぶコーナーがあります。どうみても展示室を見学に来た母子ではありません。三歳の子に「サイクロトロン」といっても分かり
ませんし。(もっとも、私も分かっていませんが・・・・・。)
 公民館のような感じで、記念館というよりは地元の人が会議や談話、稽古ごと、生涯学習、子連れで遊びなどに来る
場所のようです。公営のコミュニティセンターのような雰囲気です。

 仁科芳雄の事績に関する展示室は二階です。階段を登ると二階のフロアの案内があります。
展示室は三室あり、自由に見学できます。
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 二階が展示室になっています。二階の階段裏の一番広い部屋は、講義室になっていました。「仁科記念ホール」と名前が付いています。歴代の仁科賞の受賞者、ここで講演を行った学者の写真が掲示されています。
 博士の子孫もここで講演をしています。某国立大学の理学部か工学部の教授でした。

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 階段に近い、第二展示室。「欧州留学期」に関する展示です。

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 長岡半太郎に宛てた手紙。日本物理学の大家の一人で、昭和12年の第一回文化勲章受賞者。大正以降では日本物理学者の中での第一人者でしょう。のち、昭和戦前期に大阪帝国大学の総長になっていたと思います。

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仁科博士はヨーロッパに留学し、「ニール・ボーア」のもとで研究したことがわかります。

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原子爆弾の研究、仁科博士の名前からとった「に」、つまり「二号研究」の説明です。

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日本の敗戦後、占領下で学者を迎えています。

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第一展示室は一階の奥にあります。生い立ちなどに関する展示です。まずは、ここから見学していくべきですね。テーマは「学びの時」です。

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 子供の頃の写真。


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第一展示室の様子。子供の頃の写真、通った学校の写真、当時の地元の風景などの展示もあります。

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兵庫県市川町 地元産玉子30個+「きぬむすめ」 ふるさと寄附金 お礼の品

  ふるさと寄附金 兵庫県市川町。
 (平成27年)11月の下旬に寄附をして一カ月弱で先日精米したお米27キロが届いたことはすでに書きました。されから一か月、年が明けてから、「玉子」も届きました。
 2万円以上で「玄米」が30キロプレゼントされます。今年度はプラスして玉子が付いているお礼品がありました。お礼品、特典の「プラン」と呼んだ方がよいのでしょうか。寄附金額は増えますが、「お米」+「玉子」のセットを申込みしました。
 卵は30個入りでした。生産者から直送です。
 説明のパンフレットも入っています。「濃厚卵」と説明があります

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 ゆうぱっくの配送で来ていました。いや~、年末の配達ピーク時と比べると物量は減ったと思いますが、配達の方は大変だったと思います。特に玉子は割れやすい・・・。割れないように細心の注意を払って運ぶ必要があります。わざわざウチにまで届けて下さるとは、生産者の方、配達の方に感謝しないといけませんね。ありがたいことです。


 ↓ 昨年の末にすでに届いた「きぬむすめ」の袋です。

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 黄身以外の汁というか、液体は除くと思いますが、気しないでください(笑)。生でカレーにかけてみました。
濃厚な色の気味です。玉子焼きにしても黄身の黄色の色が濃かったです。
ちなみにコメは山形県最上町のふるさと寄附金のお礼の品 「はえぬき」を炊いたものです。
味が違いますね。「甘み」があります。

 ↓ 濃厚な黄身と殻です。

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 コメの銘柄は詳しくないのですが、「キフヒカリ」は神奈川でも生産されているようです。県央部の農協のマーケットの宣伝で販売されている銘柄に名前がありました。県央部は相模川水系の河川が流れ、県内においてはコメの「一大産地」ですからね(笑)。


日本科学未来館 常設展 2015年12月の様子

 2015年12月27日

 平成27年 名残惜しき哉。今年最後のおでかけとなりました。
 冬休みに入ったので、上の子も含めて日本科学未来館にやってきました。この日は企画展のアイドルターム。つまり、開催されていません。そのためか、入場券売り場は混雑していませんでした。
 今まで見た企画展は「踊るアート展と、学ぶ未来の遊園地」やこの夏の「ポケモン研究所」でした。上の子は今回が初めての未来館。この秋に、家族の年間パスを更新しましたが、更新後のパスは1枚ごとに家族の個人名が記入されるようになっていました。料金は家族でパスを作れば、人数にかかわらず同じなのでお得です。
 
 2015年のノーベル物理学賞でニュートリノに質量があることを発見した梶田教授が受賞しました。このニュースに関連して、科学未来館のスーパーカミオカンデの模型が、10月の受賞発表の翌日から賑わっているとニュースで放映されていました。
 遅ればせながらの訪問です(笑)

 スーパーカミオカンデの1/10の模型。青く輝く光を表現していました。未来館のウェブ・サイトにも説明がありますが。水の粒子にぶつかり光を発しても目に見えないそうで、ほんの一瞬だそうです。青くキラキラしている光はあくまで、再現だそうです。
 本来は水で満たされている筈ですが、ここでは円柱状のドームの中に入って見ることができます。
 ニュートリノは絶えず無数に飛んできていて私達の体も貫通しているそうです。地球そのものも貫通しているそうで。神岡の山の中の施設で光電子増倍管を通して光を捉えます。

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 実物大の光電子増倍管。これを地下1000メートルのプールの周囲に設置し、超純水を満たしてを観測するそうです。地下といっても山頂から1000メートル下のことであり、観測施設の海抜高度や海水面下の1000メートルという意味ではありません。山の高さは海抜1300メートルくらい、神岡の観測施設の標高は350メートルくらいで、入口から横に山腹のトンネルをくぐって(通って)行き、巨大プール(水槽)に着くのが実際のようです。

 ↓ 1/10の再現ドームの横には、ごく一部ですが、実物大で光電子増倍管が壁面に埋め込みされて、プールの壁が再現してありました。

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 ↓ 光電子増倍管の説明。テレビのブラウン管のようにガラスの球体が突出しています。わずかな光を捉えるための工夫でしょうか。
 この光センサーを製作したのが浜松ホトニクスなのですね。観測する対象は目に見えないですが、もはや巨大な設備投資事業ですね。電子機械器具を設置し、水の給水排水設備、循環設備を造り、給電配電設備を造り、観測を始める前に要求されるのは土木建築技術であり、維持するにも配管と電気設備の技術、技能が必要です。ただ、観測してデータをとっていればよい訳ではないと思います。

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 常設展示は改装途中のようで、新しいゲノムというか細胞に関する展示が設置されていました。

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 オトナロイドも場所が変わっていました。人形も新しい個体に変わっていめような。

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↓ 相変わらず人気の施設。住民票を入手して体験します。以前、私も体験しましたが、ついぞ操作方法を理解できませんでした(苦笑)。

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 ↓ ジオコスモスの上演中。
 こうして見ると、オーストラリア大陸の西部は相当に乾燥していますね。

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 ↓  1階ロビーでの実演。あまり気にしていませんでしたが、実はアシモの実演だったとあとで気付きました
    見逃してしまいました。白い布で覆われた小屋にアシモ君は移動して保管されていたのでした・・・。


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 館外に出て、一階に降りると、実演は終わっていました・・・。ここは無料ゾーン。ここで実演をしているということは、有料フロアでの工事が終わるまでの間は入館せずにアシモの実演を見ることができます。気付きませんでした・・・・・(苦笑)。
 実演が終わって、観客が解散した後、司会係らしき人と「コミュニケーター」らしきジャケットを来た人が話をしていました。

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 1時間くらいで見学し、次へ移動しました。初訪問だった上の子も「面白い施設だ。」と興味を示していました。ここ科学未来館の入館者の年齢は比較的低い(ざっと見たところ、幼稚園~小学校低学年の子が一番多いように感じる。)ので、上の子が訪れるには「遅すぎた」かも知れませんが。
 ただ、よくよく展示を見ていくとスーパーカミオカンデの模型や展示解説を含めて相当ハイレベルです。高校の物理、化学のレベルをマスターしていないと理解できないと思います。

「奈良まほろば館」 奈良県アンテナショップ

 2015年12月27日 
 
 年の瀬も押し迫った東京は日本橋。三井記念美術館を見学した後、外に出て、三井記念美術館が入っているビルを背にして道路を渡り反対側の右側にある奈良県アンテナショップ「まほろば館」にやって来ました。
 何回か来ているのですが、ツレは店内をウロウロ。私はここで一休み(笑)。が、食事や軽食のコーナーは無いので誤解のないようにお願いします。
 実はこの記事を書くときにお店のウェブサイトを検索したところ、あるサイトのページにはカフェがあると書いてありました。店の奥や二階にあるのか??、などの詳細は確認していません。私はカフェのことは気づきませんでした。「宿題」が増えました。今度また自分の目で確認しないといけませんね(笑)。
 買い物はツレの専売特許??なので(実際にはほとんど買わないが・・・・。)、私は店内にある観光案内などを見ます。冬の季節なので目ぼしい観光案内は特に無いように感じました。(あくまで私の独自の見解なので、悪しからず。)

  ↓ 店内の様子。明日香村の万葉文化館での展覧会のポスター。
    「すべて見せます万葉日本画~人物~」。
     以前、日本画家 松岡映丘の展覧会もありました。
 

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 柿の葉寿司を食べました。鮭、鯖などの種類があったと思います。鮭はすでに売り切れていました。さすが関東のお店ですな~。歳末とあって尚一層「鮭」が売れるのだと思います。年末、同じ日に鯖と鮭を同じ個数を地元奈良や大阪のとあるお店に置いた場合、どちらが先に売り切れるでしょうか!?。「鯖」が先に売れますね(笑)。
 今回は(鮭が売り切れなので)鯖を買いました。ウチの子は柿の葉寿司が好物です。この日の夕食のメインはもちろん「まほろば館」で買った柿の葉寿司でした

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 「山の辺」さんは有名な柿の葉寿司のお店ですね。


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「近藤廉平-社長の肖像」日本郵船歴史博物館 企画展 見学3(最終)

  2016年1月。「近藤廉平-社長の肖像」日本郵船歴史博物館 企画展 見学3(最終)

 横浜市の中区にある日本郵船歴史博物館にやってきた。続いて企画展を見て行きます。

 第5章 家族
 妻、従子は大正のはじめに夫、廉平に先立って死去しています。妻の旧姓は岩崎姓ではありませんが、岩崎弥太郎の親族でした。夫妻は明治11年に結婚しています。廉平31歳のときです。翌年に長女が生まれています。8男5女の13人が生まれたと説明にあります。三女の貴子宛ての手紙が先の展示がありました。夭折した子も何名かいたようです。昔は夭折する子が多かったのですね。
 三男の滋弥が跡取りです。(本当は旧字体ですが、以下、字体は現代漢字で表記します。)滋弥は明治15年生まれ。もちろん名前の「弥」の由来は、三菱財閥の祖、岩崎弥太郎です。岩崎家の子孫にも「弥」が受け継がれていますし。

 今回の企画展示見学に際して、私の最大の!!??関心事、例の「昭和戦前期のスキャンダル事件」の当事者となった「近藤廉治」の名はこの企画展の展示にありませんでした・・・。
 廉治自身は華族ではあるが爵位を持っていなかったし、嗣子ではなかったよう?なので、例の事件が起きたときの当主は滋弥だったか?。はたまた廉治は滋弥の嗣子か次男だったのでしょうか??。しかし、廉治を滋弥の子、廉平の孫とするには、明治15年生まれの滋弥の年齢が若すぎるし・・・。廉治は、滋弥の子ではなく、年の離れた滋弥の弟と思いました。
 樺山伯爵家の次女・正子の夫、白洲次郎は正子の8年上で明治35年生まれ。樺山家の長女、正子の姉の年齢は分かりませんが、明治30年代生まれで、その夫、廉治は次郎の数歳上と推定します。すると明治30年前後となり、廉平50歳頃の子でしょうか?。よって、廉平の4男以下の子と断定します(笑)。

(展示にはありませんでしたが) 嗣子ではない廉治の妻に樺山伯爵家の長女を娶らせるとは、廉平は岩崎家、土佐系の人脈ではなく「薩摩閥」にもしっかりと繋がりをつくっています。華麗なる「閨閥」です
 ちなみに展示で名前が出てくる廉平の長女(名前失念)、三女の貴子の嫁ぎ先の説明はなかったように思います。(あったけど見落としていたのかも・・・・・。)
 パリから廉平が三女 貴子に宛てた手紙ともに全権団の一員として随行していた?、大久保利武の絵葉書の展示が一緒にありました。パリでともに滞在していたようです?。利武は名前からわかるように大久保利通の嗣子が爵位を授けられた侯爵家の人。絵葉書から推定すると、利武が貴子の夫か(貴子の)姉妹の夫のようです。見事な「薩摩人脈」です。
 全権委員は西園寺公望や牧野伸顕なので、利武は伸顕の実の弟かおいにあたり、伸顕が随員として連れて行ったのでしょう。伸顕の娘の夫で第二次大戦後に首相となった吉田茂の名は(展示には)ありませんでした。当時、吉田茂は外交官として中国の領事などを務め、随員として岳父と渡欧していたと思います。
 男爵ながら伯爵家から嫁を迎え、侯爵家に娘を嫁がす。NYK社長(同爵者の互選後は貴族院議員)、廉平の権勢の程がうかがえます。

 第6章 タイトルは失念しました。晩年の書跡や妻、子息(3男)滋弥の肖像画、子息、嗣子の滋弥に宛てた手紙の展示でした。
 廉平は1921年2月に没しています。説明によると当時、大流行していたスペイン風邪だというのです。今でいうインフルエンザのことですが、毎年冬に流行することが多いので、廉平が没したのは、おりしも2月です。闘病していた訳ではなく、インフルエンザに罹患して、あっけなく死亡したような感じでした。数え73歳くらいの死去なので、それほど長命であったのではありませんでした。元老、公爵 山縣有朋は廉平10歳以上年長で、まだ存命でしたし。
 廉平の墓の写真もありました。夫妻で染井墓地に眠っています。写真撮影は平成27年9月。この企画展にあわせて撮影したのでした。

 私が見学を終えて、館を出る頃に若い女性がひとりで見学にやってきました。といっても多分年齢は学生、20代ではありません。その女性は受付の人に聞いて氷川丸と共通ではない、ここだけの券を買ったようです。展示の見学を始めていました。
 私は時間の関係で常設展をあまり見ないで、退出しました。特に常設展示の最初の部分「郵船会社の誕生」などの展示、掲示物は全く見ることができませんでした・・・・。
 
 常設展示では、クルーズ船の模型もありました。豪華です。「郵船クルーズ」の広報、宣伝コーナーですね。その他船の模型がいくさかあります。船の模型は、(三菱)みらい館とも共通しているような・・・・・・。「ハードは重工、運航は郵船」ですからね(笑)。
 先の戦時中の商船の壊滅の解説展示もありました。悲しいかな戦争と民間の船舶(徴用)は不可分一体です。ゆっくり展示を見たかったのですが、時間が無かったのが残念です。
 私以外の入館者は仕事ついでらしきスーツを着た人が二人くらい。また、私服の老人が二人くらいいました。
 見学時間は30分くらいで退出しました。警備員が館内を巡回しています。支店のオフィスが建物の二階か、隣の接続する建物にあるようです。
 博物館のフロアにあるトイレに行く女性の社員?(名札は下げていなかったので博物館の職員か支店の従業員か分からないが、明らかに見学者ではない。)がコツコツとかかとの硬い靴(ブーツ?)で館内を歩いて向かっていたのでうるさかったです。背が高くてスタイルのよい、ブーツがよく似合う(このときブーツだったか見ていないが・・・)パリパリと仕事をこなしていそうな颯爽とした感じの女性でした・・・・・・。
 用を済ませたのか、「おトイレ」の方から出てきて、またコツコツと足音を響かせて、元来た方向へ去っていきました。博物館の担当職員や(館内の)カフェ、ショップの従業員ではないようです?。従業員ならば静粛に歩きましょう!!。
 館内にはカフェやショップ、無料で入れるコーナーもあります。
 見学を終えた私は、自動ドアではないので、木の扉をギイと開けて外に出ました。

↓ (既出)日本郵船歴史博物館の建物 入口付近。

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「近藤廉平-社長の肖像」日本郵船歴史博物館 企画展 見学2

  2016年1月。「近藤廉平-社長の肖像」日本郵船歴史博物館 企画展 見学2

 横浜市の中区にある日本郵船歴史博物館にやってきた。 
 第1章「おいたち」に続いて企画展を見て行きます。

 第2章 郵船へ
 入社した後の辞令の展示や同時の横浜の平面の地図の展示がありました。
 当時の会計簿では横浜支店の支配人だった廉平の月給は200円でした。各地の支店の支配人の月給も書いてありますが、支配人の中では近藤が一番高給取りでした。横浜支店には副支配人が3人いて月給をとっています。他の土地の支配人くらいか、それ以上の給与を取っている副支配人もいて、月給が180円の副支配人もいました。横浜支店が一番重要な支店であったことが分かりました。東京、長崎、函館、神戸などに支店があり、支配人なのに月給が100円や80円の人もいました。
 
 第3章 社長に
 
 ↓ 展覧会のパンフレットより。右上の写真が「土佐丸」。その左は幹部の写真。
   「横浜支店 支配人」の辞令の展示は第2章でありました。

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 ↓ 五姓田義松作 「土佐丸」の油彩画の展示がありました。
(神奈川歴史博物館で昨年の秋に開催された「特別展 五姓田義松」の図録に掲載があったので抜粋。)
 
 私が「特別展 五姓田義松」を昨年の秋に見学したときは、本展覧会はすでに開始されていたので、神奈川県立歴史博物館での「土佐丸」の展示は終了していました。「県立」歴史博物館では期間限定での展示でした。「日本郵船」歴史博物館では企画展の期間を通しての展示です。油彩画「土佐丸」は日本郵船株式会社蔵ですから当たり前ですね(笑)。
 「県立」と「日本郵船」の両歴史博物館は場所的にも近いので「特別展 五姓田義松」と(昨年のうちに)合わせて同じ日に見学をすれば効率的でした・・・・。

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 土佐丸は新規に就航した日本郵船期待の船だっのですね。「土佐」はもちろん、三菱のボス、岩崎弥太郎の出身地です。

 第4章 タイトルは忘れましたが、企画展の中核をなす部分で海外視察から日露戦争を経て男爵となる頃までの展示でした。
 明治32年の視察の記録は「北清紀行」とタイトルがついています。(表紙の部分が展示されている。)
 近藤はこの視察8月に出発し、10月に帰国しています。「北清紀行」は8月25日から始まっています。ルートは当時の「新橋駅から汽車に乗って、神戸に行き、相模丸に乗船した・・・・。」とありました。この廉平の紀行文、というか旅行・視察記録「北清紀行」の中で「毎週、北清航路に定期船を開設し、二週間に一回欧州航路を開設する・・・」とも書いてありました。
 翌年4月には欧州に出かけています。このときは一年間の大旅行でした。NYKは「国家とともに歩んで」いた訳です。
 更に、明治36年には再びロシアの沿海州から、ニコリスク、東清鉄道を通り、ハルピン、そこから南下して奉天、大連に出るルートで旅行しています。このルートは、翌年に始まる日露戦争の戦場を(日本軍の進路と)反対側から南下しています。もはや開戦を想定した視察以外の何物でもありません。
 日露戦争後にも近藤は、欧州に視察旅行し、視察先から会社の副社長に出した手紙も展示されていました。

 明治44年8月25日に近藤廉平は男爵を授けられています。藤田傳三郎と同日のようです。サントリー美術館での傳三郎の年賦でも同じ日付が書いてあったと思います。民間人初の「男爵様」の誕生です。その前日の参内通知が展示されていました。
 男爵を授けられた理由は「日清・日露戦争の功績により・・・」と企画展のパンフレットにも書いてあります。
 大正に入って貴族院議員に選ばれています。「同爵者の互選により・・・・」と書かれた当選証が展示されていました。
 第一次大戦後、講和会議の「全権委員随員を命ず」との辞令も展示されていました。
 叙位の通知だったか、「内閣」のみ大きな文字の判が押した書類がありました。なぜか、朱肉を付けた印鑑は押していないです。
 第一次大戦後、講和会議の随員で渡った先のパリから三女の貴子に出した手紙が展示されていました。このときの旅券もあります。外交用バスポートで、各国の入国のスタンプがたくさん押してありました。
 どの章だったか忘れましたが、書簡の展示もありました。書簡で出てくる名前は川田小一郎、加藤高明などです。川田は「男爵いも」で現在に名を残す者。加藤は岩崎家の娘婿、そして総理大臣になっています。伯爵も授けられています。廉平の人脈が分かります。年齢からすると加藤高明は自分の三菱の後輩だったのでしょう。廉平自身は、彼らを束ねる「三菱一家」の大番頭だったのでしょう。

 
 
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「近藤廉平-社長の肖像」日本郵船歴史博物館 企画展 見学1

  2016年1月「近藤廉平-社長の肖像」日本郵船歴史博物館 企画展 見学1

 年明け最初の見学記です。まだ、昨年の記事の途中ですが
 横浜にやってきました。馬車道の近くにある三菱系の名門企業・日本郵船の歴史博物館の企画展示を見学しました。
 「日本郵船創業130年周年記念企画展」と銘打った「近藤廉平 -社長の肖像」展です。
 会期は2015年10月中旬から2016年1月24日までの約四か月間です。

 企画展のパンフレットを公民館か市民センターのロビーで入手して(開催のことを)知りました。日本郵船の運営する企業博物館ですね。横浜港に係留されている「氷川丸」もこの博物館の管轄です。氷川丸には子供の頃に行った記憶がありますが、歴史博物館は初めてです。
 氷川丸は山下公園の端に係留されているため、ここ歴史博物館からは徒歩10分やそこらでは着かないのではないでしょうか。徒歩の場合15分-20分くらいかかると思います。結構遠い・・・・。「氷川丸」は、横浜生まれの私が生まれて物心ついた頃からずっと現在まで繋留されています。赤ん坊の頃は親に連れられて山下公園によく来たそうですが、私は全く覚えていません

 当初ここは「日本郵船博物館」の名称であると思っていましたが「日本郵船歴史博物館」と『歴史』が入ります。「歴史博物館」といえば、神奈川県立歴史博物館もあります。昨年(平成27年)の秋に「五姓田義松展」で訪れました。「神奈川県立歴史博物館」と「日本郵船歴史博物館」は比較的近いです。大きな道路を渡る必要がありますが、信号待ちの時間を含めても徒歩で5分程度ではないでしょうか。

 ↓ 歴史博物館の前に貼っていったポスター。

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 「近藤廉平」のちに華族に列せられ男爵を授けられたこの人物の名を知っている人が、どれだけいるのでしょうか?。歴史上それほど知られている人物ではありませんね。しかし、日本郵船は現在の日本でも古くからの名門企業として知られています。明治時代に民間企業の社長が爵位をもらうくらいですから、明治から昭和戦前期にかけての日本郵船の国家における存在感は現在と比べて相当大きいものだったでしよう。国策と歩んだ企業ともいえます。近藤廉平こそ、まさに「ザ・社長!!」と言えるでしょう。そして、自分の会社の社長を創業記念の企画展で特集する日本郵船(NYK)の自信のほどが窺えます。
 彼は財閥の「大番頭」といった存在でしょうか。三菱系企業、日本郵船の大番頭、近藤、比肩する人物は三井財閥の大番頭「益田孝」でしょうか。益田孝も山縣有朋をはじめとして、政界にも深く関係し爵位を授けられています。

 私は以前から「近藤廉平」の名を知っていたので、興味をもってこのたび訪れたのでした。理由は昔読んだ本、石光真清著、石光真人編の自伝です。中公文庫から「城下の人」「望郷の歌」というタイトルで出版されています。司馬遼太郎の著書「翔ぶが如く」の中でも引用されているので知っている人も多いと思います。
 この自伝本の中に石光と一緒に当時のロシア帝国のウラジオストクに同行した人物として日本郵船社長「近藤廉平」の名がありました。「果たして近藤廉平のウラジオストク行きは展示されているのか?」と思いました。
 もうひとつの理由は「白洲次郎」です。直接、両者は関係ないでしょう。年齢も全然違います。が、次郎の父と近藤廉平は財界人として面識はあったのではないでしょうか?。(根拠はありませんが。)
 数年前の「白洲ブーム」で次郎の妻、正子のことも大きくクローズアップされました。白洲正子は「樺山家の次女で白洲次郎と結婚した。」と紹介されます。では姉である長女は?というと、近藤廉治の妻となったようです。「近藤廉平」と名前が似ているので子ではないかと思いました。薩摩出身の伯爵家の長女と結婚したということは、近藤家はそれなりの家柄だったと思います。長女は戦前のあるスキャンダル事件でも名が知られています。この「事件」についても何らかの解説があるのではないか?、と思い訪れました。
 また、昨年サントリー美術館で見た「藤田美術館展」、藤田財閥の祖、藤田伝三郎(現代字体で表記)は展覧会で掲示の年賦で「民間人として初めて華族となり、男爵を授けられた・・・」とありました。この説明をサントリー美術館で読んだとき「民間人最初の華族は近藤廉平ではなかったのか?」という疑問を持ちました。この疑問を解決するためにも訪問したのでした。

 さあ、入場します。最寄駅はみなとみらい線の馬車道駅です。地上に上がり、地上出口から徒歩で3分くらいでしょうか。博物館の外観はコンクリート造りの建物です。「日本郵船横浜支店」と看板も出ています。支店と博物館は同じ建物にあります。ビジネス的には横浜支店が重要で、博物館はあくまで附属施設ですね(笑)。建物の建築年代は、大正か昭和戦前期でしょうか。
 重厚な感じの木のドアを手で押して建物の中に入ります。まず気づいたのが、天井が高いこと。内装は木を基調としたレトロな感じ。古き良き時代を感じさせます。
 入口から入ってすぐ正面に半円のカウンターがあり、受付の女性が一人います。声をかけて券を買います。氷川丸との共通券ではなく、ここ歴史博物館単独の入場券を買います。一人400円。この料金、企業博物館としてはボランティアに近い安値ですね。
 入館すると船の模型が目に入ります。受付の脇から入場します。とくに有料エリアとそれ以外を分ける壁がありわけではありません。オープンフロアで、一階ワンフロアにあるすべての展示スペースを見渡すことができます。
 企画展は、常設展の中心部の奥、受付カウンターの裏手の正面つき当りのスペースでした。つまり、展示室は部屋ごとに分かれていません。広い部屋と高い天井です。内部の撮影は禁止です。
 企画展を見て行きます。
 企画展の入口に廉平の25歳頃の写真の展示がありました。企画展の第1章は「生い立ち」です。
 生まれは西暦でいうと1848年、明治維新のときに満20歳です。(当時は満年齢では数えませんが)阿波の国の吉野川流域の生まれ。険しいですが山を越えれば、岩崎弥太郎の故郷、土佐、現在の高知県安芸市です。「1848」というや生まれ年や「阿波の国」という生誕地が彼をして三菱の大番頭としての地位を歩ませたのかも知れません。
 廉平には兄がいます。どこかに行っていて、明治のはじめの父の死後に帰ってきたようです。家系図の展示がありました。文字は判読しにくいですが、曾祖父の代など先祖についても書いています。先祖は「藤原の××」のようです。兄が「近衛」を名乗ったと展示にあります。「藤原」の出を名乗るので、その嫡流家たる「近衛」の苗字を付けたのでしょうか?。時間が無かったので、家系図もじっくり見ていませんが、もしかして「近藤」の見間違いかとも思いました。しかし間違いなく「近衛」と名乗ったようです。兄の「近衛」家はその後続いているのか、展示にはありませんでした。
 展示品に「絶家再興願」がありました。兄が家を継いで「近衛」を家名としたため、次男の廉平はある「近藤」を再興した形式で名乗ったようです。
 維新後、鉱山の事務係?などを務め、三菱というか、岩崎家の組というか、会社に入社したようです。高島炭鉱にも勤務していたようです。「朝ドラ」でもあったように、明治の始めの時代「石炭」は国策だったのですね(笑)。

↓ 歴史博物館が入っている日本郵船横浜支店の建物。
写真の右奥に写っているのは、一時期有名になりましたアノ「神奈川県警」の本部ビルです。

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↓ 日本郵船歴史博物館の建物 入口付近。

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「三井家伝来の至宝」 三井記念美術館 鑑賞

 2015年12月27日 
 
 日本橋にある三井記念美術館 開館10周年の記念「三井家伝来の至宝」。
 「三菱一号館美術館」に続いてこちらにも初めてやってきました。「初訪問」です(笑)。 
 
 茶器の展示室に続いて、奥の部屋に進みます。
 艦内の廊下と展示室の間のスペースに「如庵」の茶室の再現があった。傍らには休憩用のソファもあります。展覧会の図録もあったので、よっこれせと腰を下ろして図録を見ます(笑)。
 「如庵」は復元なので真新しい。畳もきれいだ。よく見ると、壁の一部には 歌をかいたような文字を書いた
紙が壁紙として貼付けされている。本物の「如庵」を名鉄犬山ホテルの庭園敷地内で見たときは気づかなかった。あのとき、本物の国宝「如庵」の横に立っていた説明係の人が説明してくれたような記憶があるが、忘れてしまった(笑)。

 と、茶室の中に国宝「志野茶碗」があった。銘の漢字が読めないです。白い不整形の茶碗。わざと形を崩して焼いたような。薄い青の線が横に入っている。線は井桁状に書いている。もしかして、三井の「井」か?、はたまた井桁の井か?。

 ↓ 展覧会のポスターより。右が復元の如庵の室内に展示してあった国宝「志野茶碗」

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 上の写真左側が先の記事で触れた重要文化財指定 光悦の「黒楽茶碗」 銘 「時雨」

 床の間の壁には、伝紀貫之の「高野切」が掛っている。文化財指定はないよう。如庵は最初は東京の三井家の屋敷にあったが、昭和の戦前期に大磯の三井家別荘に移築されたそう。上述の通り、現在は名鉄の所蔵で 三年前に行った。当時、内部の撮影はできなかったので中の様子は忘れてしまった。
 
 復元如庵の前に「第四展示室」があります。書跡、絵画の展示室です。
聚楽第の屏風図が目を引く。文化財指定もなく、作者も不明。金雲をめぐらせた洛中洛外図のような 屏風でした。
 敦煌経 唐の時代シルクロード伝来のお経のうちの一巻があった。紙が茶色でかなり乾燥していてちぎれてしまいそうなくらいです。細かい楷書の文字でびっしり書かれています。

 ↓ 同じ展示室にあった定家筆の国宝「熊野御幸記」。 帝に随行して熊野神社を参詣した日記。
  意外と短期間で京と熊野を往復していました。往路は、京から現在の大阪、更に和歌山とどんどん熊野に向かって移動して行っています。意図して記録したものではなく、メモ書きのようで記した感じが分かります。
 
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 「第四展示室」をぐるっと見て、次は復元如庵の先の展示室に進む。
「手鑑」などがありました。その中で目を引いたのが国宝の銅製船氏王後墓誌。中国のものを入手したのかと思いましたが、日本で出土した古代の墓誌でした。現在の大阪府で出土した墓誌。赤銅色の板。文字が刻まれています。丸い文字で 古墳時代の鉄剣の銘文を思わせる漢字です。「天皇」の文字がはっきり見えます。没年は668年ですから、天智天皇、天武天皇が同時代の人物といったところでしょうか。船氏とは聞かない家系です。
朝廷につかえた貴族なのに。これほどの人物なのにその子孫は飛鳥 奈良の朝廷で活躍していないのでしょうか?。

 重文指定、羊皮紙の地図がありました。江戸初期の日本の姿で、正確ではありませんが、ほぼ今の日本の姿に近い地図です。羊皮紙とはおそらく外国船の影響を受けたのでしょう。

 展示室の途中、廊下というくらいのスペースに小さい展示ガラスが・・・。近代の切手コレクションなどが展示されある。江戸時代の飛脚の宛名を書した書状の包み紙がある。封筒に宛名とある程度の住所を書くと飛脚がちゃんと届けてくれたそう。「飛脚状」とあります。
 大阪の加島屋から三井南家にあてたものがありました。また、京都の三井 三郎座衛門 髙〇へ宛てた大阪の商人からのものも。三井家にあてたものだったので、現在も保管されているのでしょうか。テレビドラマでは 加島屋はあさの婚家のモデルであったようです。出水家ではなく、南家との飛脚状が残っていました。 

 最後の部屋は 向かって左に刀剣。右に能面。正面のガラスケースの中に国宝「雪松図」。
国宝の刀剣は二振。無銘の正宗と貞宗。背の堀りが無い剣がひとつ。梵字と不動明王の剣が刀身に掘られている。
↓ 展覧会のポスターより。上が国宝の短刀。

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 国宝「雪松図」は几帳面な楷書で「応挙筆」旧字体とある。その下に朱肉で落款を押している。あの春画にも同じ署名があった。紛れもなく同じ筆跡。 ともに応挙の作品であることがわかります。サイン落款はマネできますけどね。だから、応挙のニセモノも多く出回っている訳です。右の屏風は右下に。左の屏風は左下にそれぞれ署名と落款があります。写真で見ると光っていて新しく見えるのですが、実物を見ると白い背景に反射して明るく見えるし、たしかに古さを感じない。説明によると、もともと三井家の注文によって描かれた作品で 紙や材料は当時最高級のものを使用しているとのこと。明治以降に購入した作品ではなく、「三井家伝来」のお宝であったことを知りました。
 屏風絵の背景は金箔をまき散らしているんかのよう。シンプルだが、深い色合い。松と雪は墨で描いているよう。カラーの絵の具を使用しているように見える。しかし松の葉は緑に見えるが、実は墨の濃淡で表現している。松の葉を一本一本墨で描き、その上に白い雪がのっかっている様子を見ごとにとらえている。白い雪は、紙の白を生かして雪を表現している?。つまり、白い色を塗っているのではなく、紙の白さを生かして雪を表現しているかのよう。現在 応挙の作品の中で唯一の国宝とのこと。本当に傑作です。国宝に指定されるゆえんが分かりました。(今さら私が言うことではありませんけどね。)

 見終わって展示室の外に出ました。ぐるっと廊下を通って受付の前に出て、元のエレベータに乗り、一階に下りました。

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↓ ビル一階のロビーにあった。「三井本館」の解説。

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 ↓ 三井本館の外観。隣は三越です。年末商戦の真っ只中でした(笑)。

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日本橋 三井記念美術館 初訪問、「三井家伝来の至宝」 鑑賞

 2015年12月27日 
 
 日本橋にある三井記念美術館へ。「三井家伝来の至宝」 開館10周年の記念展です。
 「三菱一号館美術館」に続いてこちらにも初めてやってきました。「初訪問」です(笑)。「三井館」には開館10年にしてやっと来ることができました。
 三井記念美術館は「コレド室町のビルの中にある。」といった方が分かりやすいでしょうか?。地下鉄三越前駅とビルは直結しています。この付近は現在でも三井系の建物や会社が数多く立地は、旧「三井財閥」の総力が感じられます。
 先の丸の内が明治以降の新興、三菱村ならばこちらは徳川様の時代から続く伝統の日本橋「三井村」。ライヴァルでしょうか!?。

 さて、美術館は7階。1階には広いエントランスの階段があるため、「受付は1階にあるのか?」と思ってしまう。通路奥に進むとエレベータホールに出る。ここで「なんだ1階はエレベータだけなのか。」とやっと気づくのです(笑)。エレベータで向かう。7階にチケット売り場がある。
 7階のカウンターで(以前見た)根津美の半券を出すが、割引にはならなかった・・・・。理由は前の企画展示のものだからだそうだ。そのため通常の料金で入る。大人一人1300円でした。

 ↓ 1階のエントランスと階段。写真左奥の方向へエレベータへ向けて歩きます。

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「三井家伝来の至宝」
11/14から年を越して1月23日までの長い展覧会。
 途中、展示替えがある。最初の国宝展示は現在、東博所蔵の絵画「菩薩像」など。元々三井家所蔵の品を展示する企画となっている。東博にあればいつか見れるかなと、会期の当初は行かなかった(ホントは行かなかったダケ。)。
 国宝「油滴天目」は12/13からの展示。本官所蔵の目玉である国宝丸山応挙の「雪松図」は、今回、なんと通期での展示。通常はお正月の恒例企画として1月の開館から展示されるのが通例のようです。「お正月」といえば「雪松図」なのだそうです。

 早速入場。展示室の入口から茶碗の展示がある。美術館の入口付近には黒とグレーの制服を着た係員が数名配置されている。
 茶碗などの展示室の入口の前に三井家の系図がある。「高〇」「高×」と当主の男子のみの記載。展示リストは所蔵していた三井家の記載がある。
 今回の展示品は、北家所蔵が多い。ここが本家なので(多く所蔵、展示しているのは)当然か。NHKの朝ドラマ本「あさ」によると伊皿子家が分家筆頭だったそう。朝ドラマ本「あさ」はウチの子どもが読んでいたので、ついでに私も読みました(笑)。
 しかし、明治以降、分家筆頭なのに伊皿子家は男爵になっていはない。本家の北家と別の家の合わせて二家が受爵している。
 所蔵品は、室町家のものも多い。ここがもうひとつの男爵家だったはず。新町家、南家所蔵のもの(出品)がある。「はる」というか、「あさ」の実家の家(モデルとなった三井の家)は・・・・・・今回の展示リストにその家名の記載がないようです。たしか「ドラマ本」によると小石川家、以前は出水家といったはずです。
 南家は 北家の前の通りをはさんで南にあったので南家とか。「そのまんま」です(笑)。室町はかつての室町幕府のあった辺り。現在でいうと相国寺や同志社の西付近でしょうか。地下鉄でいうと今出川駅が最寄のあたりか。

 展示室を見ていきます。
 茶器がガラスケースに入っている。ガラスケースは、アイランド状の設置されていて茶碗を四方から見ることができる。
 「茶入れ」の展示もある。皆、小さい。重文の光悦作の黒い茶碗がある。「黒楽茶碗」銘 時雨 銘雨雲と説明がある。シンプルな黒い茶碗です。
 その奥に重文ながら仁清作の作品は、「カラフルな模様のある茶碗」でした。アノ「仁清」の「国宝のツボ」と共通する鮮やかな彩色。△のうろこ模様などがある。北条家のうろこ模様の集合体みたいな感じです。
 
 ↓ 展覧会のポスターより。右の茶碗が重要文化財 仁清作の茶碗。

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 最初の展示の突き当りに 国宝「油滴天目」がガラスケースの中にありました。黒い。点々がほぼ均等についている。まだら模様の点。「油滴」の意味が分かりました。大阪市立東洋陶磁美術館蔵。出張作品です。本館の運営母体である「三井文庫」の所蔵ではない。大きさは12センチと少しであり、藤田美、静嘉堂の曜変天目と変わらない。というか、官窯なので統一された規格だったのでしょうか。曜変天目のように模様に不規則性はあまりない。

 ↓ ビルの一階の様子。外の通りは日本橋通り。道路を挟んで反対側には「三重テラス」があります。
   これは決して偶然の立地ではありません。三井家は伊勢の松阪の出。日本橋に三井村がある以上、三重県のアンテナショップは日本橋にないといけないのです(熱弁)。
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↓ 1階のビルのエントランスにあるモニュメント
から見た美術館の入口と階段。
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「プラド美術館展 スペイン宮廷 美の情熱」 三菱一号館美術館 鑑賞

 2015年12月27日 
 
 
 イスパーニャ、マドリードのプラド美術館(Museo del Prad)の所蔵品展です。「プラド美術館展 スペイン宮廷 美の情熱」。「三菱一号館美術館 開館5周年記念」のサブタイトルが付いています。私は今回「三菱一号館美術館」に初めてやってきました。 

前回の鑑賞記の続きです。

 次はの展示室は、時代がやや下って西暦1600年前後です。テーマは「バロック 初期と最盛期」。

 パルマ公妃の肖像、パルマ公 アレッサンドロ・ファルネーゼの妻、ポルトガルのマリアの肖像などリアルな肖像画が(展示して)あります。
 続いて、ムリーリョの聖母マリアの肖像。スペイン風の黒い髪の女が赤ん坊のキリストを抱いて
います。以前にも見たことがあるような。有名な作品ですね。

 ブリューゲルの絵も出てきました。次の部屋にも いくつかのブリューゲルの絵が・・。「ピーター」や「ヤン」のものです。誰が有名な「ブリューゲル」か忘れてしまいました。ピーター「父」が大ブリューゲルとして一番有名だったような・・・・。
 「バベルの塔の建設」の絵ももありました。塔が下の部分しかできていない絵です。らせん状に道ができていてどんどん塔わ造っている様子の絵です。しかし、教科書で見る絵と違うなと思いました。1595年とあります。作者は ピーター二世となっていました。一世の描いた「バベルの塔」が教科書や資料集にも掲載される有名な絵のようです。私がかつて教科書で見た絵も「ピーター一世」のものでしょう。

 ヤンはピーター一世の息子でさらにヤン二世もいます。ピーター一世の孫ですね。だんだん分からなくなってきました(笑)。
 ブリューゲル一族の絵にまじって、ペラスケスの絵もでてきました。時代は17世紀です。ベラスケス作「ローマ ヴィラ・メディチの庭園」 タイトルのそのまんま、ローマの庭園の門を描いた作品で風景画です。

 ベラスケスの作品はもう一点、義父を描いたものがありました。
 「フランシスコ・パチェーコ」
 黒い服に白いひだひだの襟のある服を着たいかにもスペイン風の男性の肖像画です。

 ↓ ムリーリョの作品の告知看板。


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 展示室を出ると明るい部屋に出ました。窓があり外の通りが見えます。丸の内のオフィス街です。

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 美術館の内部は、一定の暗さを保つ部屋でないといけないので、明るい部屋に戻るとなんだかほっとします(笑)。途中に、この美術展のポスターや撮影コーナーがあります。
 他の観客のことを書きますと、40歳台半ばくらいでしょうか、スタイルのよいロングヘアの女性が盛んに写真を撮ってもらっていました。一人で鑑賞していて、同行者がいないようです。あとポニテ(ポニーテールの略語)の女の子(後述)もやってきました。
 続いて三階から二階に階段を下ります。階段も幅が広くない。混雑時、大人数で移動するにはやや大変でしょう。明治時代の建築で 部屋、廊下の大きさは当時のままかもしれません。するとキャパは少ないと思います。混雑時は恐らく早めに入場制限をすると思います。

 ↓ 展示順路の途中にあった。記念撮影コーナー。 
   この部屋は窓のカーテンが開いていて、外を眺めることができます。

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 ↓ 内部の様子。階段と上のフロアと下のフロア。明治時代の建物らしく狭いです。
   (実は復元建築なのだそうですが。)

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Ⅴの展示室「18世紀ヨーロッパ宮廷の雅」

 ロココ調の優美な絵画が主流です。作品の説明にも「王家がハプスブルク家からブルボン家に変わり・・」とあります。よってフランス的な絵が多いです。
 そのような中でありました「カルロス二世騎馬像」、小さい作品です。
 恐らくカルロスの肖像はこの絵の写真が使用されると思います。が、展示リストには「大型作品のための準備下絵」とあります。今日プラドに伝わる「大きなカルロス二世の騎馬の絵」があったはずです。大型の作品は、現地で見たような記憶があります。
 偉大なるアブスブロゴ家の初代カルロス・キント(エスパーニャ王としては一世)の生年から丁度200年後、同名のカルロスは没し、ついにエスパーニャ・アブスブロゴ家は断絶・・・・。ルイ14世の孫である王が即位して、ボルボン朝が開始されます。アブスブロゴ家最後の王がまさにカルロス二世です。近親婚のためか弱弱しい風貌で、騎馬の姿もなんとなく無理をしています。(なんかカルロスがかわいそうに見えます。)

 ベラスケスの作品にも書かれたことがあるのは、(カルロスからみて)そのご先祖達ですが、当時、彼らは王室が後年ほどなくして途絶えてしまうとは考えてもいなかったのではないしょうか!?。
 かつての栄光も「夢のあと」か・・・・。 1680年頃から、当時として王室の最大のタブーはカルロスの病弱だったと思います。すると、断絶は既定路線であった訳で・・・・。

 エスコリアル宮殿を見下ろした風景画も展示されていました。山の上から見下ろした宮殿のアングルのようです。建造から150年後くらいのときの絵です。

 ついで、国王フェリペ五世と家族の肖像画。服装は完全にフランス人です。これも下絵と説明があります。

 本展覧会のポスターにもなっている「マリア・ルイサ・デ・パルマ」の肖像画がありました。これも試作品のようです。婚礼のときのもののようですが、とても(当時の実年齢の)十代には見えません。髪がグレーだからでしょうか??。
 パルマ公の娘、マリー・ルイーズがイスパーニャのカルロス王子と結婚したのでした。両人ともボルボン(ブルボン家)の出で互いに親戚です。30年後の「マリーの姿」はイスパーニャー風に髪を染めているのか、もともとは黒髪なのか分かりません。「太ったおばちゃん」といった感じです。目のくりくりした少女当時の面影は全くありません・・・・・。

 ゴヤのカルロス四世国王家族の肖像の写真バネルか模写が隣に設置してありました。

 展示室は通常の居間を改装した感じで狭いです。二階の中庭に面した廊下を戻ります。三階でも中庭に面した廊下がありました。また次の狭い展示室へ。三階の廊下にはQ&Aがありました。お客様の声とそれに対する回答でした。
「くつの音が響く」
「空調の温度が低すぎる」
「順路がわかりにくい」
「入館料が高い」
 などの内容でした。
ウェブサイトにも掲載されていたと思います。


 料金が高いのとはともかく、順路はわかりにくいです。部屋は確かに狭く、大人数、大作品を見るには適していません。迷路のようで照明も落としているので、指示に従って廊下を歩きまわると迷子になった気分です。結構目も回ってきます(笑い)。
 明治時代の建物ですから。バリアーフリーなど機能性は重視されていないですからね。温度もいささか低い。私もずっとコートを着たまま鑑賞していました。しかし、寒気を感じていたのはすでにこのとき発熱していたかもしれません。

 (ここまで読んであれ?っと思う人もいたでしょう。実は見学していたとき、復元建物であることを知りませんでした。)


 小さい作品の展示会だったのも建物と展示室の特性に合うからではないかと思いました。展史室は狭いし、通路も狭い。迷路のように2階へと階段を下ります。旧三菱1号館のレンガの建物の中庭に面したL字の部分が美術館になっていることがわかりました。展示室内には窓はもちろんありません。が、展示室はちようど、外の道路沿いです。


 ↓ 美術館の入口と中庭の様子。

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 入館者は比較的多いです。各作品の前には常に見学者がいる状況です。展示品リストにメモを取りながら歩いてる大学生くらいの女の子がいました。紺のコートとスカート。黒いタイツ。やや茶髪のロング、ポニーテールにしています。また、背の高い170センチくらいの女性もいる。進むスピードは私同じくらいでずっと一緒でした。普通に見ていくと、最初から終わりまでほぼ見学者は並行して進んでいきます(笑)。
 展示室内の気温は高くなかったです。コートをずっと着ていました。このとき体調を崩していたので寒かったのかも知れません。
 実は銀座やここ来る前に日本科学未来館に行ったのですが、館内はコートを着ていると暑かったのでコートを着ないで歩き回ったのがいけなかったようです。


二階の廊下の先は、
「18世紀ヨーロッパ宮廷の雅」の続きです。ロココ調の優美な絵が続きます。次の部屋が「ゴヤ」。小さい作品ですが、しっかりゴヤも網羅しています。天使の絵や一般的な女性の肖像画もありました。最後の展示は19世紀の絵画。こちらは軽く見て 出口へ向かいました。

 ↓ 既出 出口の様子。

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 ↓ 美術館近くの丸の内の様子。

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「プラド美術館展」鑑賞と三菱一号館美術館 初訪問

 2015年12月27日 
 
 2015年、平成27年も終わりに近づきました。歳末の銀座に家族でやって来ました。
 某アンテナショップの「ふるさと割」利用の割引商品券の使用期限が年末までなので、食事とお買いものをしたのです。その記事は後日書くとして、銀座から徒歩で丸の内 三菱一号館美術館にやってきました。

 ↓ 展覧会のポスターを撮影。アクリル板に反射してカメラが写り込んでいます(苦笑)。

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 エスパーニャ、マドリードのプラド美術館の所蔵品展です。「プラド美術館展 スペイン宮廷 美の情熱」、「三菱一号館美術館 開館5周年記念」のサブタイトルが付いています。以降は「三菱美術館」、「プラド展」と略称でなるべく書きます。
 私は今回「三菱一号館美術館」に初めてやってきました。ビギナーです(笑)。開館5周年を迎えるというのに・・・・・。
 
 実をいうと、今まで訪問が遅れた理由のひとつとして、てっきり現代日本人好みの印象派や現代美術の企画展示専門と勘違いしていたのでした・・・・(絶句)。ここ(三菱美術館)は、常設展示は無いようで、年に3回程度の企画展を行っているようです。開館時の展覧会は印象派。当時のポスターはマネのオルセー美術館蔵、アノ「黒い帽子の女の絵」でしたね。開館の「目玉」として日本人にもよく知られている絵をもってきていました。
 現代日本人受けするような集客力の高い企画を持ってきているなあと思いました。その後の企画展もテーマはバラバラであり(上でも書いたように)常時公開するような所蔵品は無いようです。国立新美術館のように所蔵作品は無い、企画展、公募展専門の館と思いました。国立新美術館は公設の公共施設なので、その位置付けは三菱美術館とは異なると思いますが。
 また、訪問しなかった別の理由のとして、「三菱美術館」の経営母体がイマイチわかりません。民間企業運営と聞きました。つまり、ウェブサイト(で確認したところ)によると運営というか経営は三菱地所ですね。サイトには運営母体がはっきりと書いていない・・・。(地所の企業名とスリーダイヤモンドのロゴは入っています。)見落としをしているのかも知れませんが、見にくくて確認しにくい・・・、と思いきや同社が運営と書いてあるページをやっと見つけました。
 よって本館(以下、三菱美術館のこと。)は、他の「旧大名系」、「財閥系」、「創業者存在企業系」などの収集コレクション、財産が母体となっている財団法人の運営する美術館とも異なります。旧財閥系ではありますけどね。財団法人ではないようです。
 本館での展覧会として今年の夏に日本の画家 川鍋暁斎の展覧会がありました。次いでこの秋から年明けにかけてが「プラド展」のようです。必ずしも印象派のみでは無いのだな、とやっと理解できました(苦笑)。
 今回の「プラド展」の会期は平成28年1月31日までの四か月近くです。


 レンガ造りの外観です。以下、訪問記を書いていきます。
 入口は中庭にある。中庭に面した東が入口になっている。チケット売り場まで 誘導されるままに中庭沿いの幅の狭い廊下を歩く。200円割引になった。(静嘉堂で入手したスタンプラリーの台紙を提示したので。)さらに 東洋文庫のレシートを提示。東洋文庫のレシートは係の人が確認に手間取る。あまり見たことが無い??。購入した年月日などを見ているようだった。結果としてレシートでツレも200円引きになった。合計で3000円と少しだった。小学生は無料。ただし、勝手に入館することはできず、小学生も受付で申し出する(小学生用の入場券をもらう)必要があるもよう。

 (静嘉堂で入手の)スタンプラリーの台紙の提示では本人のみが割引。レシートでは本人も含めて同行者が割引のようです。だったら、最初からレシートだけでよかったかも!?。

 
↓ 中庭に面した入口の様子。写真右の方向にガラス壁の廊下を歩いて入場券売り場に向かう順路です。

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 入館します。三階行きのエレベータに乗る。展示室に入ると皆小さい絵ばかり。
今回のコンセプトは小品集だったと思います。最初の一室にボシュ(ボス)の絵があった。本展覧会、目玉作品のひとつです。
 「愚者の石の除去」との邦題。説明文はスペイン語の日本語直訳でわかりにくい・・・・。

お金をかけて治療を受けている男は阿呆だといいたいのでしょう。パロディーで、患者の男の頭に花が咲いています。背景は当時のフランドルの風景でしょう。当時、医療は信じることができたのでしょうか。もしかしたら、画家自身も信じていなかったのかも。どうせテキトーな医療だと思っていたのですかね(笑)。


 ↓ 館内にあった看板を撮影。 ボシュ 邦題「愚者の石の除去」
    作品が描かれたのは1506年頃のようです。

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 当時フランドルの領主はハズスブルク家のフィリップ。戦死したヴァロワ家のブルゴーニュ公 シャルル(突進公、又は豪胆公とも)の娘マリー、つまりフィリップの母親が若くして死後、幼くして相続した領地です。
 展覧会のポスターや看板では「ボス」と日本語表記されていますが、親分の「ボス」を連想してしまうためより優雅に「ボシュ」とここでは表記します(笑)。 トレビア~ン(笑)。

 ボシュはフェリペ二世が好んだことが知られています。一般には「快楽の園」が有名ですが、寓意に満ちたこの画家の作品の裏に込められた「意味」を王は好んだのでしょうか・・・・?。フェリペ二世とボシュは同時代の人かと思っていましたが、すでにフェリペの時代にボシュは死亡しています。存命時期はかぶっていません。
 フェリペの父 カルロス・キントの少年時代にボシュは死亡しています。1515年のことで、すでに当時、父フェリペ(フィリップ)からカールはフランドルなどの領地を相続しています。父方の祖父マクシミリアンが皇帝の時代です。
 少年のフランドル領主のカールはボシュと対面したことはあったのでしょうか?。としたら、ボシュの名声をフェリペ二世は父カールから聞いたのでしょうか・・・・?。

 次の部屋へ向かう途中、壁にイザベル女王の肖像画がありました。が、近年購入された作品で王家のコレクションではありません。ルネサンス時代を含む時代の展示でした。この時代は15世紀~16世紀の初期の絵の展示が中心。
 当時、エスパーニャ、英語でいうとスペインという国はなく、カスティーリャやアラゴンなどに分立していた時代。イタリアではルネサンスの最盛期の時代といったところでしょうか。

 次の部屋は主に16世紀の作品。テイッツィアーノの作品が一点ありました。
小品です。大作ではありません。「十字架を担うキノスト」。その優美な描き方は、過去に見たヴィーナスなどの絵と共通します。カールやフェリペの肖像画など大きな作品もプラドにありますけどね。
 絵の近くには、画家の解説が掲示されています。ティッツィアーノの説明には「・・・・ ××伯爵に叙せられた」とあります。カルロス=皇帝カール五世によって貴族の仲間入りをしていました。お気に入りの画家だったのですね。

 また、グレコの作品もありました。小さい作品です。「受胎告知」で構図はよく知られる他のグレコ作の受胎告知と同じです。教会堂に納める対策の試作品のような作品です。

 ↓ 展覧会のポスターより。左上の絵がグレコの作品。小さい作品でした。
   右はベラスケス作、自分の義父の肖像画。

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 続いて、次の部屋へ移動し順番に作品を見ていきます。

 ↓ 旧三菱一号館の東側の通りに面した玄関。この玄関は美術館の出口とあとで知りました。

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岩国、津和野と萩 世界遺産のたび 総括

 2015年8月

 萩市の郊外にある大板山たたら製鉄遺跡を見た後は帰途につきます。元来た道を戻り、津和野と萩を結ぶ県道に戻ります。やや戻るような感じで走行し、津和野方向の道へ。途中、津和野から萩への道中で通った道の駅うり坊の里で休止。行きは萩への道を急いでいたので、通過しただけでした。すでにすべての予定ポイントを見学した後なので余裕で休息です(笑)。
 「うり坊」とは「いのしし」のことのようです。猪が出るのですね。当然、いのししの料理もあるわけです。道の駅の近くには民家もありますが、国道には街灯もなく、周囲は真っ暗です。ここは、国道315号線との交差点です。
 と、夜空を見上げると星がきれいです。さほど山奥ではないのですが、星の数が多い。「わ~、星がきれいだ。」と思わず声を出しました。今まで私が見た一番美しい星空は「西表島」の東側で見た星空でした。そのお隣の島、竹富島ではあまり星は見えませんでした。ここでは、竹富島よりも星が多く輝いていて美しいです。
 「道の駅 うり坊の里」を出発。そこから国道を進みます。数キロ進むと津和野への道と分かれる交差点に出ますが、今度はまっすぐ進み中国道のインター方向に走ります。国道は中国山地の中、その山中の盆地地帯をうねうね通っています。あとは、道なりに鹿野まで行けばよいのですが、国道までの道は地図を見ても分かりにくかったです。 かなり走って「中国道のある町」鹿野までの距離ができましたが、40キロ以上あります。遠いです。
 一山越えて、また山を下り盆地に出て、国道9号線に出ます。更に進みまた山道になります。また下ります。と、途中星空がきれいだ、とツレが言うので峠道の途中で車を道の端に停めて車を降りてみました。
国道とはいえ、交通量は多くありません。が、時折車はブーン、ゴーと音をたてて通過します。車が近づいてくると車のライトに遮られ、星は見にくくなってしまいます・・・・。
 山の中なので特に南の眺望がありません。が、うり坊の里よりも星が多いです。北斗七星がはっきり見えます。夏の大三角形も。南の空のさそり座は山に隠れて見えません。分水嶺の日本海側の途中の道端なので。
 長野・野辺山の山中から見た星空よりも星が輝いていて美しいです。もちろん、西表島よりは星の数は少ないです。夏の熱せられた大気の中でゆらゆらと満天の星が輝いています。中国山地でこれほど星が見えるとは思いませんでした。 
 もっとも、先の津和野に日原天文台がありましたし、もともと地上の光が少なく、星の観測に適した地なのだと思います。と、西表よりも星が見える場所、また訪れたことの無い波照間島に急に行ってみたくなりました。

 美しい星空の鑑賞。存外のたびの途中のプレゼントでした。残念なことに写真は撮影していません。カメラの露光モードの設定が分からなかったもので・・・・・(苦笑)。
 
 峠を越えて再び道は下りに。日本海と瀬戸内海に川の流れを分ける分水嶺を越えたようです。と、鹿野町に近づいてきました。インターから中国道に乗ります。交通量は少ないです。お盆の時期に近いのですが、少ないです。車は順調に進みます。
 途中、SAで食事をと思い、休憩しました。が、お店は開いていません。というより、自販機のみで設置されていないようです。休憩所とトイレの電気がこうこうとついていました。

 ↓ SAの駐車場。駐車している車も少ないです。

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 ↓ SAの建物。お店は無いようです。
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 別のSA、PAも探して食事を食べるか、購入してもよかったのですが、先を急ぎました。

 ひとつ行き残した場所があります。夕食は益田で食べようと思いましたが、行きませんでした。
大板山の遺跡から再び山を越えて日本海側に出て、更に再び中国山地の山を越えて中国道に出て、戻る必要があったからです。目的は回転寿司屋チェーンの益田店でした。実は同じ会社の浜田店でたまたま食べたことがあります。そのときは、回転寿司ながら絶品でした。特に「はも」がよかったです。夏の「鱧」は京都ではないの?と思いますが、実は鱧は日本海や瀬戸内海で獲って京都に運ばれるのです。
 チェーン店といっても浜田と益田にしか店はないようです。以前食べたときに帰った後にネットで見たのですが、広島の内陸部の三次にも店があったと記憶していましたが、今回同チェーンのウェブサイトを見たときは、三次店はありませんでした。お店は浜田と益田の二か所のみ。
 時間的には、大板山を19時半に出て、一時間弱で到着できたと思いますが、帰路を急ぎました。
 結果として途中の中国道のSAでは店が閉まっていたので食事を逃してしまったのですが・・・。これならば一山越えて益田まで食べに行けば良かったです。車で走るので体力を使う訳ではありませんし・・・。ただし、山道を走るときはそれなりに神経を使うので疲労しますけどね。

 これにて「岩国、津和野と萩 世界遺産 駈足のたび」はおしまいです。メインは私は「砂金採り」と「津和野」、下の子は「ドラマ館」だったかな

 ↓ 星空の他にもうひとつ発見した美しいもの。萩から見た日本海に沈む夕日です。

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世界遺産 大板山たたら製鉄遺跡 見学

 2015年8月

 山口県、萩市の中心部から津和野、島根県方向へ里山の道を走ること20キロ以上。ひと山かふた山越えた集落の先、ダムのほとりに目指す遺跡あります。
 世界遺産 大板山たたら製鉄遺跡
 見学は自由です。新たにトイレや休憩小屋が設置されていました。まだ新しいです。ボランティアの説明員も常駐しているようですが、この時間帯では無人でした。
 さっそく遺跡に歩きます。駐車場に隣接して遺跡はあります。林を切り開いたような土地です。
 ↓ 遺跡の説明陶板。

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 遺跡と駐車場の間に柵はありません。夜間でも自由に入ることができます。ただし、電灯は無いので夜は真っ暗です。
 ↓ 遺跡の入口の碑。

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 ↓ 製鉄をしていた場所を覆うやぐら、といか屋根。
   モチロン当時のものではありません。最近の建築です。柱のコンクリートがまだ新しいです(苦笑)。

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 遺跡を見たときの第一声。上の子は「うわ~。とって付けた感、ハンパねぇし~。」とギャル語(笑)。
 私は無言でした。先の「造船所跡」で「耐性」というか「免疫」が出来ていましたから(笑)。
 感想特に無し。

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 上の写真は遺跡の奥。中心部のようです。説明の「陶板」によると「高殿」(たかどの)といい、製鉄炉があったところで、ここで鉄わつくっていたそうです。

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 ↓ 遺跡から駐車場方向を見る。私達の乗ってきたレンタカーが一台停まっているのみです。日没後のこの時間、他に見学者はありませんでした。

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 下の写真の解説。
 奥が「高殿」、右の屋根は銑鉄場所のようです?。池の跡もあります。
 解説になりません(苦笑)。
 小屋の下や池の跡の地面部分もあとからコンクリで固めたようです。当時の石組みのあとも残っているのでしょうが、どれが当時の遺構でどれが新たに塗り固めたものか判然としません。

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 ↓ この木組みの枠は・・・。

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 製鉄炉の跡のようです。木組みはあとから付けたのでしょう。この下に地下構造物があるのか、別の場所に露出している場所があるのか、それとも埋められていのか、ちょっと分かりませんでした・・・・。

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 周囲が暗くなりました。改めて史跡指定の石碑を撮影。三年たっていません。
世界遺産に指定しようという運動は数年前からあったと思いますが、運動するためには国内での文化財指定が必要ということで、何らかのプッシュの結果、指定されたのでしょう。

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 駐車場に戻ります。日没後、急激に暗くなってきました。夜の闇が迫ってきました。車に戻ります。まるで漆黒の闇から逃れるように。(笑)
 8月のこの時期でも日没は19時30分前です。関東地方では18時50分頃でしょう30分以上日没時刻が遅いので、助かります。

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 日没時刻が遅いので、ここ製鉄遺跡、先の造船所跡、萩反射炉など自由見学の場所を明るいうちに見ることができました。これもコース組みの「想定の範囲内」です(笑)。

 










萩~日本海沿岸~大板山たたら製鉄遺跡へ

 2015年8月

 山口県、萩市の郊外にある世界文化遺産「恵美須ケ鼻造船所跡」を訪れました。まだまだ観光は続きます。午後の三時過ぎに萩やってきて、松陰神社、松下村塾、大河ドラマ館(私は入館せず)、萩の城下町、萩城跡(入城はせず)、反射炉と「めまぐるしく」観光しました。
 次なる目的地は、世界遺産 大板山たたら製鉄遺跡です。萩市内からは20キロはあるようです。それでも萩市です。広域合併の結果です。
 ルートは、松陰神社の方に戻って津和野から来た県道を走るのが速いですが、敢えて日本海沿いに国道を益田方向に向けて走行します。

 (既出の写真)
 造船所跡の堤防の上から見た日本海に落ちる夕日

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 国道から見た夕日と日本海。沖合に浮かぶ島のシルエットもまた美しいです。

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 道は海岸のそばを通っています。冬は冷たい北風が吹きつけるのでしないでしょうか。
今見ているのは夏の穏やかな海です。御気には、島が点在しています。岩礁が迫る海岸線です。

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 途中、「長門大井」駅の近くのガソリンスタンドで給油。今までは時間に追われていたので、給油場所を探す余裕もありませんでした(笑)。
 少し戻って、内陸へ道を曲がります。田園地帯が広がります。

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 山の中の道に入っていきま。家はなくなく、道は細くなります。林の中で暗いのでライトを点灯させます。対向車とすれ違うのも困難な山道となります。やがて、道は広くなり、山を越えました。山間の田園地帯に出ます。山越えをして別の地域に来たと思いきや、実はここも萩市です。山の間に家々が点在しています。

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 しばらく、田園地帯の道を走ると「大板山製鉄所遺跡」の看板が出てきました。道を曲がり、田んぼの中の道を進むとやがて山が迫ってきます。ダムが上流にある地域に入って行きます。
 進行方向の右下にダムの水面が見えるようになります。しかし、巨大なダムではありません。道はやがて行き止まりになります。その奥に駐車ばありました。
 ここが大板山たたら製鉄遺跡です。もともとあったダム管理用の道路を整備してその行き止まりの地点に駐車場を新たにつくったようです。

 ↓ 車は私達のレンタカーしか停まっていません。

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 ↓ トイレも新しいです。 トイレの建物の奥の林の先のがけ下にはダム湖があります。
 

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世界文化遺産 萩「恵美須ケ鼻造船所跡」 見学記

 2015年8月

 山口県、萩市の郊外。一山越えた入江の奥にその造船所跡はあります。
 萩の反射炉からは、600メートルくらいでしょうか。1キロはないと思います。よって徒歩で移動することが可能です。というより「造船所跡には駐車場はありません。」との表示が出ているため、徒歩で移動しないといけません。基本的に反射炉と駐車場は共通です。が、夏の炎天下、寄る陰もないアスファルトの道を歩くのは難儀です。車で移動したいなと思うのが人情です。
 世界文化遺産、萩の「恵美須ケ鼻造船所跡」。地名は「えびすがはな」と読むようです。恐らく七福神の「恵比寿」「戎」様と掛けているのではないでしょうか。
 
 ↓  造船所跡の道からの眺め。静かな入江が広がっています。道は埠頭と一体となっており、漁船が繋留されています。静かな漁港の風景です。

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 「恵美須ケ鼻造船所跡」の看板が設置されています。
 この付近の海岸は国定公園に指定されています。美しい海辺の風景です。
 「造船所跡」と文字が縦書きのコンクリート?の石碑もあります。設置は石碑の方が先のようです。

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 説明によると伊豆の戸田(へた)に人を派遣して、造船技術を学ばせたとあります。戸田の方が当時は進んだ造船技術を持っていたことが分かりました。戸田の造船資料館には以前訪れたことがあります。ここ萩の地で、遠く離れた戸田(へた)の地名を聞くとは、思ってもいないことでした。
 戸田で技術を学んだ後、ここで軍艦二隻を建造したそうです。軍艦といっても最初の船は長さ25メートルといいますから、現在でいうと漁船程度のものだったでしよう。ここで建造された船の動力源は明らかにされていません。石炭を燃料とするの蒸気機関を備え付けていたのでしょうか?。帆船だったのでしょうか?。恐らくは後者です。蒸気機関を組み立てた工場跡は示されていません。

 造船所跡は生垣の内側にあります。「祝 世界遺産登録」の看板が設置されています。
 のぼりにもあるように登録物件名は「明治日本産業革命遺産」です。

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 ↓ 造船所の跡。草が生えています。砂地の更地があります。特に構造物、構築物の遺構は見たところ、ありません。建物の跡を復元するのか、正方形に盛り土がされていました。昔からある盛り土ではないようです。

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 肝心の造船所跡はというと・・・・・。
 その「遺跡」の前に立った私は、しばし言葉を失いました。「絶句した。」と言った方がよいかも知れません。
 次いで出た言葉が「え~、これが造船所ぉ~??。う~ン。」でした。笑いはなく、私の顔は硬直しました。

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 世界遺産の「造船所跡」とは、すずらんテープが潮風に揺られる光景でした・・・・。
 小さいプレートで説明はありますが・・・。


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 傍らの堤防の上に立つことができます。
 夕日が美しい。堤防から沖合を見ます。日本海です。夏の日本海は、実に穏やかです。まさに日本海の水平線の向こうに太陽が沈もうとしています。
 沖合には、うっすらと台形の島影が・・・。鯖島というようです。

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 入江の内側。山がマシュマロのようにポンポンとあります。山と入江が美しい海岸風景をつくり出しています。
ここから湾を挟んで対岸、先に通って来た国道沿いには『道の駅 萩シーマート』があります。ツレに言わせると以前テレビで紹介していたことがあって、賑わっている道の駅だそうです。このときは、夕方6時だったので、お店はすでに閉まっているだろうと思い、寄りませんでした。道の駅のお店は夕方5時閉店のことが多いですからね。
 ↓ 石垣の堤防。当時のものだそうです。
   造船所の跡たる世界遺産の目玉構造物ですね。

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 堤防の内側。まさに造船所の跡です。堤防の海側には、護岸のためコンクリート製のテトラポットがたくさん置いてあります。日本海の荒波にもまれているのですね。




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 堤防の上から見た「造船所跡」。鎮守様の小さな祠があります。
 なんとなく、野球場かゲートボール場のような・・・。石組みのドックが残っている訳ではありません。造船所というと、横浜のみなとみらいに残っている巨大ドックの跡を想像してしまいますが・・・ここは違います。

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 「造船所」というものの西洋式の石組のドックではなく、ここで堤防を造作して船を建造しただけではないかと思いました。ここで進水したのです。ドックは、土を掘って、木の板で固めて、陸上の構造物は木製だったのではないでしょうか。幕末に使用した軍艦を建造した史跡というべきです。あとからナントでもできるような造船所跡です。技術を習いに行った戸田には造船所跡は残っていないのでしょうか?。残っているのならば、戸田も世界遺産の登録されていもよいはずです。戸田は現在でも港町で船が多数湾内に停泊していますね。

 見学をしていると若い女性の二人組が見学にやって来ました。先ほどの萩の反射炉にもいた人です。同じルートを辿って見学しているのですね(笑)。
 二人は、デジカメを取り出して、写真を撮りまくっていました。堤防の上にいた私達もバッチリ撮影されています。もしかしたら、彼女たちのツイッターかブログかFBかに私達の写真が載っているかも知れませんね!?。

 ↓ 萩の市街地は入江の先に見える山の向こう側です。

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 直感ですが、年齢や外見、服装、行動からして彼女達は看護師ではないかと思いました。本当に何となくですが、仕事は医療関係のように感じました。二人は職場の同僚と思いました。普通の会社員のような感じではありません。公務員のようでもありません。学生時代からの友人、主婦の友達同士といった感じでもありません。ここまで来る行動力や「女子力」高そうな雰囲気、そして年齢からして。
 年齢は私よりも全然若いですが、明らかに学生ではありません。何かの仕事にはついている感じです。ぱっと見、20台後半、実際は30歳くらいかも知れません。ただ、観光しいる間のテンションは高くなく、服装も地味で、雰囲気は落ち着いています。何となく表情は・・・・・、特にほうれい線の辺りが・・・・・・(失礼)。彼女たちは軽自動車のレンタカーでここまでやってきていました。運転も慣れているようです。年齢相応以上の旅行経験があるようです。

↓ 港の前の道路と漁船を繋留する埠頭様子。写真の右の集落の奥が萩反射炉のある場所です。

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 もう一人、萩の反射炉で見た中年のおじさんかやってきました。一人です。肩からカメラを掛けています。ここまで歩いて来たようで、汗だくになっていました。
 
 (おさらい)
 造船所跡の堤防の上から見る日本海に落ちる夕日は絶景です



世界遺産 萩反射炉 見学 

 2015年8月

 山口県、萩市。今年世界遺産に指定された萩反射炉にやってきました。 
 浜崎地区から車で5分かかるか、かからないかの距離です。武家屋敷地区からでも車で10分から15分でしょうか。 

↓ 下の写真が世界文化遺産のひとつ萩反射炉です!!。  

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 ささ、それでは萩の反射炉へのアプローチ方法から。
 車で行く場合、駐車場はどこにあるか?というのが問題になります。事前にウェブイトや萩周辺に来てから入射したパンフレットで確認したところ、反射炉の近くに駐車場が整備されていることが分かりました。駐車場を目指して進みます。萩の市内方向から来ると右折入場で駐車場に入るようになります。セブンイレブンの看板がありました。わずかに反射炉と書いてありましたが、右折入場するタイミングを逃して通り過ぎてしまいました・・・。
 引き返して、駐車場に停めます。駐車して分かったのが、セブンイレブンと反射炉の駐車場は共通であることが判明しました。
 「世界遺産」と「コンビニ」の絶妙な組み合わせです。ここを訪れる外国人は「オー、ワンダフォー!!」と感嘆することでしょう。(ウソです。)

 ↓ 駐車場から階段を登ります。「祝」とのぼりがかかっています。入口付近には案内看板もあります。

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 案内板には萩市内の世界遺産についての説明があり、この反射炉自体は『試験用』であったとあります。
本格的築造はせず、ここで試験的に築造したようです。
 また、同じく世界遺産にこのたび指定された「造船所跡」についての解説とその場所までの地図もあります。

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 ↓ セブンイレブンと兼用の駐車場。 階段の上からの風景と夕日の方向とが重なりました。

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 ↓ 別のアングルから。駐車場の様子。お店の名前はその名も「萩反射炉店」でした。
   あっ、あと特筆すべきことに「宝くじ売場」もあります。ここで大当たりすれば「オー、ワンダフォー!!」と感嘆することでしょう。(ウソです。)
 この世界遺産を目指して観光にやって来る外国人にとっては「かゆいところにも届くくらいのコンビニエンス」さに「オー、ジャパーン シヨッピング カルチャー ヴェリー ユースフォー、アメ~イジング!!」と驚嘆すること間違いないでしょう。(ウソです。)
 車でやって来た人が、階段を登って見学にやってきます。夕方6時くらいですが、次々に見学者がやって来ます。

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 更に階段を登ります。入口は特に門はなく、自由に見学できます。

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 ガイドさんの待機小屋と見学者用の休憩場所があります。訪問した時間帯が遅かったので、ガイドさんは帰った後でした。ご多分にもれず大河ドラマと「ドラマ館」の宣伝看板もありました。セミがミーンミーンと鳴いていてかなりうるさいです。 

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 丘の上に反射炉はあります。丘からの眺め。海と夕日が見えます。
敷地には桜の木が植わっています。春には美しい花を咲かせるでしょう。世界遺産の指定を契機とした桜の新名所の誕生ですね
 桜の樹液をセミは好みます。私が訪れた夏のこの日、緑の桜の葉の生い茂る反射炉の敷地ではセミが盛んに鳴いていました。

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 反射炉に辿りつきます。
 子供の頃に伊豆の韮山反射炉には行ったことがあります。記憶を頼りに韮山と比較してみます。「あまり管理されていなかったな。」が第一印象です。韮山の反射炉は炉の外壁のレンガも整備されていて鉄枠で支えられていたと記憶します。しかし、萩の反射炉は崩れかかっています・・・。風化してレンガは崩れかかり、雑草が茂っています。崩れかかった土のレンガを薬液で無理に固めたのではないかと感じました。(実際は違うかも知れませんが。)

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 反射炉の土台部分。崩れかかています。現在でこそ、新しい鉄の柵で囲まれて保護されていますが、以前から鉄の柵はあったと思いますが管理状態はよくなかったのではないでしょうか。
 「平成19年度」に「近代産業遺産」に指定されています。文化財として保護指定の気運は元々高まっていたのだと思います。思わず「政権交代はいつだったかな?」と思い出してみました。最近の政権交代後、急に指定されたのではないようです。なんとなく、ホットしました(笑)。

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 横から見た反射炉全景。


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 コンクリート製の反射炉の説明。煙突の部分が残っているようです。
 入口の近くの説明板にもあったように結局萩では本格的な大砲の鋳造は行われなかったようです。お試しに築造したものが、そのまま放置されて現在まで残ったようです。燃焼室の部分は崩れて残っていないようです。
燃焼室は半地下だったと思いますが、埋まってしまっています。

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 ここ萩の反射炉は「試験用」だったとはいえ、現在、日本で当時の反射炉は韮山と萩しか残っていないそうです。日本でたった二か所しか残っていないのです。萩の反射炉の重要性が理解できました(笑)。
 同じく説明板。反射炉ではなく、造船やたたら製鉄に関する説明です。

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 萩の造船所で建造された軍艦の説明。反射炉の後は、造船所跡に移動します。

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 反射炉の公園の敷地の傍らには山陰本線の線路が通っています。本数は限られますが、気動車が通ります。ゴトゴトと遠くから鉄路を走る列車の音が響いてくるので分かりました。カメラを用意して撮影しました。世界遺産に指定の敷地内から「撮り鉄」となりました
 写真には写っていませんが、この時間でも見学者は多かったです。二十人以上は見学している人がいたと思います。見学のための滞在時間は短いものの、次々に見学者は(駐車場から)階段を登ってやってきます。

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 駐車場は「セブンイレブン萩反射炉店」と共通と書きましたが、場所は違うものの混雑時の第二駐車場もあるようです。











萩 浜崎重要伝統的建造物群保存地区

 2015年8月

 山口県、萩市の浜崎地区。萩の中心部には三か所の国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝)があります。
 ひとりは有名な城跡に隣接する旧城下町の武家屋敷地区。「堀内」というようです。もう一か所は、先ほど訪れた「鍵曲」が有名な「平安古(ひゃっこ)地区」。そして、ここ浜崎(はまさき)地区です。
 浜崎は武家屋敷街と異なり、漁村地区の指定です。これらの地区は、単独で国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝)に指定されています。貴重ですね。短時間で三か所も「重伝」地区を散策できます
 更に萩市には、もう一か所、市街地から離れたところですが重伝指定地区があります。その地区は「農村」で指定されているようです。市内でいうと、四箇所指定されていることになります。(訪問日現在)
 萩は近年の広域合併で市域がかなり広くなっていますね。

 「浜崎」という地区の名前がいかにも港町、漁港といった感じがしますね。
 ↓  浜崎地区の一角。蔵のなまこ壁も見えます。左は神社の境内です。

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↓ 地区の東の方向。松本川の河口付近と港の様子。
ただし、重伝指定地区ではなかったと思います。指定されているのは古い町並みが残る一角です。

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↓ 浜崎地区の中心部にある住吉神社。漁業、航海の安全の神様だったのでしょう。

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 大阪の住吉大社の末社であることに間違いないでしょう。大阪は古くからの港湾都市。あやかって、航海と漁の安全を祈願する神様としてここに祀って信仰したのだと思います。
 航海の神様といえば、大山祇神社も有名です。が、大山祇神社は萩と同じ日本海に近いかつての石見にあった石見銀山をはじめ、鉱山で祀られていますね。

↓ 神社近くの一角。

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 ↓ 港、川沿いの道路脇から街の方向

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 萩の東を流れる松本川の河口に開けています。
↓ 河口付近の様子。漁船がたくさん繋留されています。漁港、港町の雰囲気です。

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 萩城からここ浜崎地区の間には海水浴場があります。この付近で海水浴場の方から、その帰りでしょう、茶髪のギャル二人組が歩いてきました。いかにも海帰りの雰囲気、濡れた水着を入れているのでしょう、ビニール(ナイロン)の手提げ袋を持ち、キャミと短パンの軽装でした。
 ここ萩には萩温泉もあるので、旅館を予約して宿泊し、世界遺産と武家屋敷街散策、更に海水浴を楽しんでもよかったですね(笑)。「世界文化資産と海水浴」の両方が楽しめます


萩 平安古地区 重要伝統的建造物群保存地区(重伝)

 2015年8月

 山口県、萩。平安古(ひゃっこ)地区。
 武家屋敷地区なのですが、お城の近くの屋敷街からは少し離れた地区。この付近は単独で国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝)に指定されています。すぐ近くには広い川があります。萩の砂洲の西側を流れる橋本川です。

 平安古地区はなつみかんの栽培も有名です。写真には写っていませんが、屋敷の中にはなつみかんの木が植わっていました。現在でも栽培されてます。

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↓ 一番有名な曲がり角「鍵曲」(かぎまがり)の写真です。土色の壁と瓦の対比が印象的です。

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 ↓ 上の写真から更に進み、角を曲がるとこのような風景です。
  壁はホントにこの一角に一部のみ残っています。壁は保存されていなくて、普通の民家のフェンスなどに変わっていると思われます。
 重伝の指定区域もこの一角付近です。武家屋敷地区ほど広くはありません。

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↓ 別の辻の部分。片方は白壁です。普通の民家が建っています。

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 交流館の建物。閉館時刻を過ぎていました。内部には簡単な解説展示があるようです。

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 壁の道沿いにある屋敷の入口。現在も人が住んでいて、表札がかかています。

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 ↓ 案内看板。

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 ↓ 地区のはずれ。この先には広い自動車の通る道路があります。
 道路に出て左へ行くと川を渡り、右へ行くと先の市役所やドラマ館前の道につながります。

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 ↓ 少し離れて撮影。道が狭い。車がすれ違うのは困難です。


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 実をいうと、この細い道で反対から車がやって来ました。すれ違うことはできない狭さです。「これはまいったな・・・。」と思いました。後に下がろうにも「鍵曲」です・・・。と車は道端のお屋敷の中に入って行きました。ここの住人の方の車だったようです。ホッと安堵しました。助かりました(笑)。

 辻の一角。夏みかんは屋敷の中の広い空地を利用して栽培されているようです。壁に隠れて外部からはよく見えませんでした。門が開いていて、屋敷地の内側のなつみかん畑も見える家もあるのですが、個人の土地の内部なので撮影はやめておきました。

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萩城跡(指月公園) 見学

 2015年8月

 萩城跡にやってきました。車は城跡に一番近い駐車場に停めました。
 城跡は国の史跡に指定されています。今年からはユニスコによる「世界遺産」の指定も加ったかは分かりません・・・・。
 お堀と石垣が残るのみ。現在は指月公園というようです。
 公園名の由来となっている指月山を背景にしたこのアングルの写真は有名ですね。↓

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↓ お城のお堀。林の向こうは海です。

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↓ 上の写真と同じ方向のお堀。魚が泳いでいます。
鯉などの淡水魚でした。海水のお堀ではないようです。

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お堀の近くには「萩焼」の看板がかかっています。陶芸体験ができるようです。私達が訪れた時間帯はすでに閉まっていました
堀の内側から外。林の向こうは駐車場です。↓


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 お堀の内側の城跡は入場料がかかります。ここは自由散策と思っていましたが、違うようです。すでに夕方なので入場はせずに、お堀の門の前まで見て引き返しまた。
 写真には写っていませんが、入城料を徴収する受付ボックスがあり、係の人がいます。三々五々、見学を終えたのか城跡から出てくる人がいます。この時間で、チケットを買って入城していく人もいます。
 あとで調べたのですが、夏期は18時30分まで入場できるそうです。

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 駐車場からお城のお堀端までの道の途中。かぎ型に曲がった道。石垣には門があったのでしょう。大手門か大手門につながる門の跡と思います。この道は一番広い道でお城の正面につながっていますので。

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↓ 萩のお殿様の銅像。輝元公か。明治維新を成し遂げたときの当主敬親公だったかは忘れてしまいました・・・・。
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↓ 駐車場の様子。
 特に時間が開場時間帯決まっている訳ではなく、駐車できました。無料でした。訪れたときは、5時半を過ぎたくらいの時間だったのですが、自由に駐車、自由に見学に行くという感じでした。ただ、駐車場脇のお店は店じまいの準備をしていました。

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と、駐車場で一人旅らしき女性がいました。赤かピンクのスカートに、すごい露出の高い上着でした。肩が全部出ているキャミソールです。この炎天下、直射日光の当たる下、日焼けしてしまうのではないでしょうか?。多分、日焼け止めはたっぷりと塗っていると思いますが・・・・(笑)。徒歩で散策しているようで、このあと私達が車で移動している道中、武家屋敷街を歩いていました。大丈夫かな?と少し心配になってしまいました。もっとも、私が心配することではないですけどね(笑)。








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