良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2016年07月

 

「中村不折の魅力」 中村屋サロン美術館 見学2

 2016年7月の雨の日。 新宿 中村屋サロン美術館。
 生誕150周年記念 「中村不折の魅力」の見学。

 展示スペースの壁には、洋画が展示してある。まずは、フランス留学時代の師であったフランス人の画家の作品。次いで、留学時代の油彩画が並んでいる。
  年賦、写真を見て、奥の展示室へ進む。
 
 ↓ 企画展チラシの表面。
  入場券やチラシに掲載されているこの写真の画。大きいサイズの作品であった。
  題名の漢字が読めなかった・・・・・。中国の何かの故事に基づいて描いた作品。奥に吊り下げられている、鼎に何かの意味があったような・・・・。誤解だったかな・・・・。

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 ↓ 企画展チラシの裏面。不折の写真も掲載されている。

  白黒の画は、コンテによるデッサン。「裸体習作」とタイトルが付いている。(留学前の作品の隣にあったような記憶が・・・・。)
  1902年頃の作品というから、日露戦争の前のことだ。

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 展示作見ると、多くは「台東区立書道博物館」の所蔵。
 初期の作品は、明治20年代、日清戦争前の19世紀の時代。年賦によると不折は、日清戦争に記者としても従軍している。「日清戦争で従軍記者」とは、誰かと同じだったような・・・・、と考えると不折の友人であった松山出身の「正岡子規」であった。近年放映された某ドラマでも従軍して大陸に渡った子規のシーンがあった。
 初期は身近な風景画が多い。留学をしてからは、展示スペースの最初にあったように油彩画が中心となっている。

↓ 展示リストに付随している説明のパンフ。



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 油彩画では、昭和時代に入っても女性の裸体画を描いている。ただし、タイトルは「懸泉」「湖畔」「眺望」のように女性の裸体をイメージさせないものだ。
制作年を見て驚いたが、女性のヌード画は、三作の展示があったが1939年から1942年にかけての作品。時代背景でいうと、戦争中である。不折最晩年の作品だ。
 あの戦争で統制が強かった時代にどうして不折は女性の裸体画を残したのだろうか?。
 「懸泉」豊満な乳房が垂れ下がった日本人の女性の裸体。
 「湖畔」裸体の日本人の女性が部屋の中にいて、外には湖が見える様子。
 「眺望」湖であろうか、水面の見える部屋の中での女性の裸体画。
   黒田清輝の「湖畔」を思わせるような絵だ。(勿論、シーンは違うが。)
      また、室内から外の水面を描いた絵は現在、重要文化財指定の「舞妓」を思わせる。

 いずれも、カラフルでこれでもか、と豊満な女性の裸体を表現している。とても、戦争の時代に描かれた作品とは思えない。 

↓ 展示リストに付随している説明のパンフ。

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 「書家」としての不折の作品展示はほとんどなかった。
 「山水図屏風」が一番大きい作品であった。水墨画の屏風絵。「不折」と落款が押してある。書道博物館蔵ではなく、寄託作品である。所蔵者は誰か分からない。
 卓上ガラスケースの中に挿絵などの作品の展示があった。「吾輩は猫である」の本の挿絵の展示もある。どうしても、写真でよく知られている「表紙」の絵(細くて首の長いネコがこちらを向いてニャアと鳴いているような絵)が不折のものと誤解してしまうが、不折作は本の中の「挿絵」である。

 展示室を一通り見て、最初の(レジのある)展示スペースに戻る。
 退出する前に改めて、不折の年賦や写真を見る。老年期の不折夫妻の写真の展示があった。丸顔で笑顔の写真である。夫人も笑顔である。陽気な性格の人物であったのであろう。それゆえ、荻原守衛、森鴎外、夏目漱石、黒田清輝など錚々たる人物と交友を結び、信頼されていたのだろう。
 「中村不折の魅力」の企画展のタイトルの通り、不折の人となりと魅力が伝わってくる展覧会であった。

「中村不折の魅力」 中村屋サロン美術館 見学1

 2016年7月の雨の日。

 新宿の中村屋サロン美術館にやって来た。生誕150周年記念 「中村不折の魅力」の見学。

 美術館の入口は中村屋ビルの3階。「純印度式カリー」の食事を終えて、レストランのある地下2階からエレベータで上がります。
 3階でエレベータを降りると、例のブライダル旅行サロンのお出迎えの方がいます。店頭には「ウエディングドレス」が飾ってある。美術館に来る人は、ほぼ皆、ブライダル旅行サロンのお出迎えを受けることになるのでしょうか?。
 私が訪れたときも、エレベータを降りて美術館に行く人が、(ブライダルサロンの人に)「こっちですか?」聞いていた・・・・。もちろん、美術館の入口のことを・・・・・・。

 受付で入場券を購入。レシートと新宿中村屋のお店での割引券がもらえた。割引券はレストランでも貰ったのだが。ダブルでゲットした(笑)。
 私と同じエレベータに乗って、3階で降りたのは、いずれも女性で3人いた。一組は母と娘のよう。母は、相当高齢で小柄。明らかに80歳以上。娘は60歳前くらいか。もう一人は、おひとり様の女性で、50歳台くらい。かわいらしいワンピースを来ている。生地の色は深い緑や暗い水色の寒色系で地味だが、花柄、唐草の模様。
 受付近くの展示スペース(壁で区切られた部屋にはなっていない。エレベータ前の廊下とつながっている。)には、私も含めて7-8人くらいは、作品や解説パネルを見ている。平日のランチタイム、見学者は比較的多いように感じた。
 
  新宿中村屋ビルの地上の入口。美術館もこちらから。 ↓

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 「中村不折」、本名は知らないが、夏目漱石の作品に付いている年賦には必ず出てくる人物だ。以前から名前だけは知っているという人は多いだろう。もっとも、漱石の友人で満鉄の総裁を務め、漱石を満州に招待もした「中村是公」と混同している場合もあるが・・・・。
 荻原碌山(守衛)とも密接な関係にあったことが知られているし、事実、碌山美術館での碌山の年賦や解説にも「不折」の名が出てくる。そして、森鴎外とも密接な関係があったこと、墓碑の揮毫は、鴎外自身が遺言で不折を指名していたことを、昨年、文京区津和野の鴎外記念館を見学して知った。その有名な「森林太郎之墓」の墓碑が不折の書であることは、以前、何かの本で読んだ記憶はあったが・・・・・・。

 鴎外と漱石を結び付け、なおかつ近代日本で最も重要な彫刻家である碌山とも密接な関係にあった人物「中村不折」とは一体どのような人物であったのだろうか?。
 昨年の鴎外記念館の展示にもあったが、「鴎外」と「漱石」自身は、手紙のやりとりはしていたが、実際には4回ほどしか会ったことが無いというのに・・・。不折は彼ら二大文豪とどれだけ親しい付き合いがあったのだろうか?。

 展示スペースの壁には、洋画が展示してある。まずは、フランス留学時代の師であったフランス人の画家の作品。次いで、留学時代の油彩画の展示が並んでいる。
 「あれ、不折は、書家ではなかったの?。」の疑問が・・・。「書」の展示が中心と思ったが、展示スペースを見回した感じ、絵画のみ・・・。「えっ、不折は画家だったの?。」と知りませんでした(苦笑)。
 
 絵画を展示している壁とは反対、店に近い壁には、年賦や写真の展示があった。
「不折」が写った集合写真が何点かある、以前もここや、安曇野の「碌山美術館」で掲示があった中村屋関係者との記念写真にもその姿が写っているし、明治42年文展西洋画部門での審査員の集合写真の前列、向かって中央左側にもその姿がある。写真の解説では「不折」のみを「→」示しているが、文展審査員の後列中央、不折の斜め後ろには軍服姿のやや禿頭の男の姿が・・・・・・・。紛れも無い、鴎外 森林太郎その人であった。その右、人物群の端に近い立っている恰幅のよい背広姿の人物はこれまた紛れもない、洋画家の「黒田清輝」子爵だ。
 鴎外についても黒田についても、掲示写真では、解説が無い・・・・。知らないと見過ごしてしまう・・・。せめて「鴎外、黒田らと」と写真に(一緒に写っている人物名を含めて)解説を入れて欲しかった。残念だ・・・・・・。
 鴎外は当時、陸軍軍医総監(中将相当)で陸軍省医務局長。軍服を着つつも、審査員もしていたのですね。写真は白黒で鮮明ではないので、鴎外の軍服の肩章の「星の数」は判別できない。が、兵隊の肩章ように赤い色が多くは無い、金色地の割合が多い将官の「ベタ金」といわれる階級章だ。軍服の襟の色も白黒写真なので判別できないが、軍医は「深緑色」であった筈。

 当時の鴎外は40歳台後半の筈。が、ずいぶんと現代感覚からすると老けて見える。確かに、右に体がやや傾いている。文京区の鴎外記念館で見た鴎外の死去の前年の映像にもつながるが、あの映像では、右に体を傾けてかばうように歩いていた。この時から、右に体が歪んでいる・・・。鴎外は、意識しないと体直立不動の姿勢はとれずに、自然体だと体が右に傾いたのだ・・・・・。
 彼自身、医師であったのに自分の体の歪みについて意識していなかったのだろか?。悪い姿勢は、病気に繋がっていることを気付かなかったのか?。
 写真前列中央のヒゲを生やしているご老人は分からなかった・・・・。
 不折自身は小柄である。鴎外よりも更に小柄のようだ。丸い顔をして、ヒゲを生やし、愛嬌のある表情。不思議と鴎外はしかめっツラで写っている写真が多いにうよ思うのは、気のせいか・・・・・。

 不折の年賦には、慶応2年に現在の「中央区新川」の生まれとある。江戸っ子だったのだ。江戸の下町の出の「江戸っ子」かな?、と思いきや。明治4年かに、信濃の高遠に一家で引っ越しをしている。「維新後の混乱を避けるため、母の郷里である高遠に移った。」とある。
 年賦のボードには、高遠は「母の郷里」とあった。「父の郷里」とは無かったと記憶する。碌山とは信州の同郷であったことが分かった。そうか、信州繋がりか!と理解。すると、高遠からほど近い、南信州、飯田出身の「菱田春草」とも繋がりが出てくる筈だが、企画展では解説に「春草」の名は一切登場しなかった。

 昭和時代、老年期に入って不折は本名を「不折」と改名しているが、本籍地の「高遠町役場」に届け出た、とあった。終生、本籍地は高遠のままだったようだ。彼は、父の死後「戸主」になったと年賦にあった。すると、本籍地の高遠は父の代からの本籍地であり、父の故郷では無かったか。

 ↓ 展示リストと入場券。
   前回の訪問時は入場券は無かったと記憶するが、今回は入場券があった。

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新宿中村屋 レストランで食事 と企画展「中村不折の魅力」中村屋サロン美術館

 2016年7月の雨の日。今年の梅雨は、去年よりも長いな~。まだ、梅雨明けをしていない。しとしと雨が降る、涼しいお天気の下、新宿の中村屋サロン美術館にやって来た。

 2014年10月にオープンしたこの「美術館」。訪問するのは、前年の2月「開館記念特別展」を見学して以来、ほぼ一年半ぶりです。新宿駅東口からすぐという好立地のため、行こうとすれば、何時でも、いくらでも訪れる機会はあるのですが、ついつい延び延びになってしまいました・・・。
 今回は大幅リニューアルになった「南口」からアプローチ(笑)。新宿駅東口から歩くよりも、南口からでも距離的には、変わらないのではないか。

  (南口から歩き)歩道上、「後ろ側」から新宿中村屋ビルが見える。 ↓

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 (展示でも解説があったのだが、現在の看板の「中村屋」の文字も不折の書になるもの。)

 今回の企画展(もっとも「企画展」、「特別展」という呼び方はしていないようですが。)のタイトルは「中村不折の魅力」です。 生誕150周年記念の展覧会で、会期は7月24日まで。会期末に近い訪問となった。

 時刻はちょうどお昼の前。さあ、昼食だ、ということで美術館では無く、レストランを先に(笑)。
 やっぱり、ボクは常に「花より団子」だな(笑)。
 新宿中村屋ビルの上層階にもレストランはある。が、お値段が張るため(笑)、(ここのレストランの中では一番)リーズナブルなお値段でお料理を提供している地下2階の「マンナ」で食べることにする。

 ↓ 地下に階段を降りる。地下1階のフロアは、地下鉄の通路、新宿地下街と連結している。
   更に、地下2階に降りる。

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 地下2階のレストラン前では、順番を待っている人がいた・・・・。まだ12時になっていない、正午の15分前だというのに。椅子に座り、少し待って店内に案内される。私は仕事の合間兼ランチの時間だ。この日は雨の平日なので、普段よりかは、すいているかな、と思ったが混んでいるようだ。地下鉄の通路と直結しているから、天気は関係無いのかも。
 店内はすべての席は埋まっていない。一人用のハイテーブルもある。が、店の一番奥の二人掛けのテーブル席に案内された。地下のフロアは広い。フロアは、ビルの形状と同じ「L」字の形をしている。
 席に落ち着いて見ると、店内は内装も新しい。おととしに改装オープンしたばかり、だからだろう。このときに、中村屋サロン美術館も開館したのだ。

 「純印度式カリー」を注文。サラダと飲み物のセットにする。
 おなじみであるが「カリー」と呼ぶところに、こだわりがある。カリーのみは税抜1500円、サラダとドリンクのセットは税抜630円でプラスする。
 先にサラダが出てきて、注文から15分くらいすると「カリー」本体が出てきた。チキン「カリー」である。

 ↓ カリーと薬味。
   カリー皿は円型。らっきょうなどが載った薬味の小皿は半円形なので、カリー皿のフチにピタリと合う。
   何気ないことですが、カリーと薬味を並べて食べるのに便利。料理だけでなく、食器にも注目です。

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 特筆すべきは、3つの陶器の容器に入った付け合せがあること。小さい半円の皿に盛られた薬味(料理を持ってきてくれた人は「薬味」と呼んでいた。)とは別に持ってきてくれる。中には、茶色い何かを混ぜたような固形の調味料?が2種類、粉末のチーズの合計で3種類入っていた。(写真はフタを閉めた状態で撮影したので、写っていない。)
 「薬味」はらっきょうときゅうりの酢漬けともう1種類、唐辛子色だが、辛くないやや甘い漬物のような細長いモノ。
 
 食事をしたときは、これらが何か分からなかったが、あとで新宿中村屋の会社のウェブサイトを見たところによると「きゅうり」の酢漬けは「アグレッツィ」というそう。唐辛子色の細長い、甘い漬物は「チャツネ」というらしい。白い陶器の容器に入っていた、粉チーズ「以外」の薬味は何なのか分からない・・・。

 カリーのチキンは、数個入っている。よく煮込んでいるのであろう、鳥の骨はかなりモロくなっている。じゃがいもは大きいカットが1個入っていた(笑)。カリーなので、確かに辛い・・・。ごはんの量は、大人の男性にはやや少ないかも。ごはん大盛りが出来るかは、分からない。ただ、小さいサイズのカリーはあった。
 私の座っているテーブルの周囲は、女性数人のグループもいれば、一人の女性もいれば、サラリーマンの男性もいる。私の隣は、50歳くらいの女性が一人で食事にやってきた。ツレが後から来るのかな、と思ったが、一人で食事をしていた。
 食事をおえてレジに向かう途中、店内の様子を見たが、結構おひとり様の女性客が多い。女性のおひとり様は、なるべく2人のテーブル席に案内されているようだ。お昼休みのランチで来ているのだろう。
 食事を終えたのは、12時半頃。店内は満席ではないが、店外では10人くらいが待っていた。

 美術館の入口は中村屋ビルの3階。レストランのある地下2階から、エレベータで上がります。エレベータを降りると、例のブライダル旅行サロンのお出迎えの方がいます。店頭には「ウエディングドレス」が飾ってある。美術館に来る人は、ほぼ皆、ブライダル旅行サロンのお出迎えを受けることになるのでしょうか?。エレベータを降りて、美術館に行く人が、「こっちですか?」聞いていた・・・・。もちろん、美術館の入口のことを・・・。

国宝 可翁筆「寒山図」公開 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」 サンリツ服部美術館 見学3

 2016年7月17日 日曜日 
 
  長野県、諏訪湖畔にあるサンリツ服部美術館の特別企画展「禅宗と茶の湯の美」。国宝の可翁筆「寒山図」が特別公開されている。 

  可翁筆「寒山図」の修復の模様が、写真パネルで解説されていた。展示室のガラスケースとは反対側の壁に掲示されている。作品の裏打ちの紙をはがして、新しい裏紙を貼り付けしている。作業をしている様子の写真がある。若い女性が作業をしている様子が写っている。筆を使って、表面の汚れを落としていっている。作品の表面も修復前は、どこか黒ずんで、水墨の輪郭が分からなくなっているが、修復後は輪郭線がはっきりとしている。
 寒山のお顔の横も以前は、赤っぽい複数の線のような汚れがあったように見えるが、修復後はきれいに落ちて、画面がすっきりしている。数年間はかかったであろう、修復を経て今回の「初公開」となったことが分かった。
 修復は所蔵者が支出し、国も補助金を支出しているのだろうが、いくらかかったのか、企業や個人の寄付金を募って修復したのか、修復機関はどこであったのか、何人で修復を担当したのか、までは解説が無かった。
 このたびの「特別出品」はある日突然、「初公開」と称して行われたような感じなので、尚更謎を呼ぶ。

 可翁筆「寒山図」の真正面の壁側に看視員のイスがあって、警備員か美術館の人でろあうスーツ姿の男性が看視係となっている。
 ただし、先程じっと単眼鏡を見たまま作品の前で動かなかった「おっちゃん」に大しては、看視員は何も言わなかったが・・・・。すいているので、その人が陣取っても真正面から見れないだけであって、鑑賞に支障をきたすものでは無いからだ。
 警備員のイスのうしろの壁には、美術館の開館に寄せての故・服部一郎氏夫人のことばの掲示があった。開館以来、常時展示室内に掲示されているのであろう。
 「・・・・・・・・亡き夫、服部一郎は、出張のたびに訪れるここ諏訪の風景と自然を愛していました・・・・このたび、亡き夫の・・・・」というような挨拶文である。
 創業家とはいえ、服部家の生活基盤は創業の地で主力工場のある諏訪ではなく、すでに東京であり、経営者として諏訪に出張していたということだろう。

  第二展示室には、その他茶道具や陶磁器などの展示があった。美術館の展示室は、すべて2階。高床式のような造りだ。

 1階入口のロビーに降りた。販売コーナーには、美術館の図録や絵葉書などが販売されている。が、国宝の茶碗の絵葉書はあるが、「国宝 寒山図」の絵葉書は「7月下旬入荷予定」の表示があり、私の訪問時には、販売されててなかった・・・・。
 図録までは詳しく見なかったので、この国宝絵画の来歴や所蔵者は分からなかった。ただ、図録に詳細が記載されてるかは、分からない。
 作品前の解説文にも載っていなかったが「国宝 寒山図」の所有者はここの美術館の所有ではなく、故・服部一郎氏の親族の所有だろう。しかも故人の夫人や子女ではなく、一族のうち個人の誰かではないだろうか。
 
 後日見た、文化庁のサイトからリンクできる国宝サーチのウェブサイトによると国宝指定は昭和27年。所在地、所有者は「東京都 個人蔵」とある。やはり、本美術館の所有ではない。服部セイコーグループ創業者の子孫で現在もグループ企業の大株主である個人の所有なのであろう。よって、創業の故地、一族の代表者であった故・一郎氏の没後30周年と(恐らく、数年に渡る)修復を終わったことを機会とし、故・一郎氏の収集美術品を所蔵している諏訪の本美術館での公開となったのであろう。

↓ サンリツ服部美術館の前の道路。空がどんよーりしている。

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 ↓ サンリツ服部美術館(以下、主に「本美術館」と書く。)の1階、外側にある入口スロープ。パリアーフリーになっている。(上の写真とほぼ同じアングル)
  右の桜並木(葉桜だが・・)の向こう側が諏訪湖だ。湖畔道路は渋滞をしている。
  並木の向こうに諏訪湖「間欠泉センター」の建物が見える。

 が、美術館の駐車場はご覧のようにすいている。渋滞している車列の中かから、見学に入って来ないのが不思議なくらいだ。 国宝「寒山図」は、かつて切手の図案になったとはいえ、知名度からいうと低い。よって、その「初公開」といつてもあまり話題にならなかったのかも・・・。

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 湖畔の駐車場は、すべて満車で駐車する余地が無かった。サンリツ服部美術館に来る途中、湖畔近くで信号待ちしていると、目の前をアノ「水陸両用車」がお客さんを乗せて、通過して行った。湖畔の停泊場の広場に入って行ったようだった。すぐに、ドボンと湖に入るのだろう。オープンバスのように屋根が無かった。満席のようたっ゛た。デレビでも紹介されているので、おなじみですね(笑)。
 反対にここサンリツ服部美術館がガラガラなのは寂しい限り。せっかくの貴重な国宝の特別公開だというのに。
 道路を渡ると諏訪湖畔の桜並木のある土手なのだが、湖畔には行かなかった。この付近(上諏訪)で諏訪湖畔に来るのは、小学生の時以来かも。昭和60年代のことだった(笑)。今から30年近く前のことになる。
 先程も美術館の2階から見たところ、湖水には「アオコ」(藻)が増殖しているようだった。当時購読していた「小学〇年生」で「諏訪湖の富栄養化による藻の繁殖」読んだ記憶があって、実際に見て「ああ、藻が繁殖していて緑色の水に濁っているな。」と感じた。今回、大人(というか、すっかり歳を重ねてオッサン)になってから改めて見たが、改善はされているようだが、遠目に見ても、藻が発生して水中に漂っている感じだった。
 ただ、当時は道路はたの駐車場のような所から水面を眺めたが、今回着てみて、道路、歩道は整備され、温泉ホテルの立派な建物が並び、湖畔には桜の並木もある。美術館なども立ち並び、ずいぶんと変わったようだ。(ほとんど、覚えていないが。)
 「間欠泉センター」にも行ったことがあるような気がするが、覚えていない・・・。他の記憶と混同しているかも知れない(苦笑)。
 サンリツ服部美術館の今回の展示は「服部一郎氏没後30年」を機会としているので、財団や美術館設立はその後のことだろう。従って私が小学生当時、訪れたとき、この美術館は開館していなかったと思われる。

 美術館を出て、車に乗り込む前、しばし周囲の風景を眺める。
 ↓ 美術館の敷地の北側。上諏訪の市街地と山々。

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↓ と、水が流れ出ていた。湧水かな?と思い、手を当ててみると「熱い!」。なんと、お湯だった。温泉が湧き出ている。(この付近のどこかにある源泉から引いているのだろうが。。。)。
 しかし、温度は40度くらいで、物すごく熱い訳では無いのでヤケドはしません(笑)。
 ここは、上諏訪の温泉街のはずれにある。電車で簡単に来れる標高750メートルの高原の街と温泉街だ。


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↓ 南側。高床の下側のパーキンク゛。向こうは諏訪湖。
  霞んでいて見えない。今年の梅雨明けは遅い。この三連休のうちに梅雨明けするかと思ったが、まだだ。
 その代り、湿度は高いものの涼しいのとは助かる。標高750メートルの高原地帯とはいえ、炎天下では暑いだろう。

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↓ 南側。高床の下側。向こうは諏訪湖。

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↓ 本美術館の建物の裏側から。細長い高床の建物。
  西隣は「北澤美術館」がある。ガイドブックには、たいてい「北澤美術館」は紹介されているが、ここ「サンリツ服部美術館」は地図のみの表示であることが多いようだ。
 知名度という点でも「サンリツ服部美術館」はもうひとつといったところか。同じく湖畔にある重要文化財指定の建物、片倉館は混雑していた。テレビで取り上げられたこともあるが・・・・。


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 ↓ 東側。お隣のタンクは「信州みそ」の工場だった。駐車場の敷地は広いが、車が全然停まっていない。


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 ↓ 二階の展示室の外観。東側の第二展示室。この中の中央壁側に国宝 可翁筆「寒山図」の展示があった。
  柱の上には、「ネズミ返し」がついていて、正倉院を思わせる造りだ。

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 再び、「高床式」の建物の下に停めた車に乗り込み、出発する。道路に出て、渋滞の車列の中に入り込む(笑)。
 先程通って来た諏訪湖畔の道を通るのだが、湖畔道路の「外回り」は渋滞しているので、途中で細い道に入り、上諏訪駅の前の道を通過。上諏訪駅横の踏切で中央線を渡り、国道20号に出た。
 次に「尖石遺跡」に向かう。茅野市に向かう道を途中で分かれて、山の方向に進むことになる。意外にも茅野市と諏訪は距離がある。茅野市までの国道20号線は、交通量が多くスピードが出ない。30分以上かかった。「尖石縄文考古館」を見学したが、閉館は16時30分と、30分も見ることが出来なかった。本美術館も早足で見たつもりだったが、諏訪湖畔の間欠泉センターは断念した。子供達も興味が無いらしい・・・・。そのためか分からないが、「尖石縄文考古館」の開館時間帯には間に合った(笑)。

 
 なお、サンリツ服部美術館で今回の特別企画展のチラシは置いていなかった。配布していないのか、配布終了したのかは、分からなかった。しかし、「尖石縄文考古館」には、サンリツ服部美術館の特別企画展「禅宗と茶の湯の美」、国宝 可翁筆「寒山図」特別公開のチラシが置いてあった(ラッキー)。
 美術館ではなく、別の文化施設などにおいているのですね(笑)。

 ↓ サンリツ服部美術館の特別企画展「禅宗と茶の湯の美」、国宝 可翁筆「寒山図」特別出品のチラシ
   (A4サイズ)、尖石縄文考古館で入手。

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 ↓ サンリツ服部美術館の特別企画展「禅宗と茶の湯の美」の展示リスト。

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国宝 可翁筆「寒山図」公開 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」 サンリツ服部美術館 見学2

 2016年7月17日 日曜日 
 国宝 可翁筆「寒山図」公開 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」 サンリツ服部美術館 見学2
 
  三連休の真ん中の日曜日。長野県、諏訪にある「サンリツ服部美術館」にやってきた。7月10日から始まった企画展。服部一郎没後三十年 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」。8月2日までが前期。前期の目玉「初公開」の「寒山図」を見にやって来た。

 ↓ サンリツ服部美術館の2階のテラスから、窓ガラスごしに諏訪湖。
   湖畔の木々に隠れて、水面が写真では判りにくい。しかし、実際には、湖水がよく見えて、眺めが良い。
ただ、岸辺に近い所では水中に藻のような植物が浮遊しているようだ。緑色に水面がゆらゆら揺れている。
 うーん、天気は雲が多い。梅雨明けは、まだだ・・・。

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 眺めのよいテラスの前は、カフェになっている。長方形の建物のちょうど真ん中の部分だ。席数は多い。諏訪湖が一望できる。カフェには、一組しかお客がいない。2階のカフェと展示室につながる通路はガラン、シーンとしている。
 
 展示室内は撮影禁止なので、写真は無い。
 カフェの奥に入口がある第二展示室に入る。室内に入ると長方形の横に長い展示室である。室内全体を見ると、ありましたね~。国宝可翁筆「寒山図」が。遠目にも「あれだ。」と分かった。大きさは・・・・というと、思ったよりも小さい。遠目には、床の間に飾る掛け軸と同じくらいの大きさだ。
 
 ↓ 美術館入口前の柱の装飾。帰る際はこの柱の横で記念撮影をした(笑)。
   撮影禁止のため、美術館の外に掲示された写真を基に、国宝 可翁筆「寒山図」(以下主に「国宝寒山図」と書く。)などを鑑賞した感想を書いていくことにしよう。

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 まずは、展示室を最初の作品から見て行った。
 「偈頌」(漢字が・・・・)、「法語」など墨蹟の展示がある。読み下しの解説文も配布していた。禅宗の僧の筆になるもの。掛け軸になっている。「餞別偈」は「月庵宗光」とある。南北朝時代の墨跡。「・・・万事休・・・」と読める。
 テーマが「禅宗と茶の湯の美」であるので、茶室、床の間?に掛ける掛け軸や茶器が展示されている。

 下の子は、すいている室内をさーと見て、展示室を出て行ってしまった・・・。下の子は国宝「寒山図」の前をも一瞥しただけで通り過ぎてしまった・・・・。このとき、この国宝の前には、誰も観覧者はいなかった。貴重な国宝を独占して見れる機会は滅多に無いのに・・・・。こんなことするのウチの子だけです(涙)。この国宝、もしかしたら、下の子自身がおぱさんかお婆さんになるまで、公開される機会は無いかも知れないのに・・・・。
 ウチの子が「国宝」の前を「スルー」した直後、50歳~60歳くらいの男性が、その前に陣取った。単眼鏡を片目にあててじっと国宝「寒山図」を眺めている。すぐ、又は長くても数分で移動すのるかと思ったが、国宝の正面に直立して、ガラスケースの前から全く移動しないのだ・・・・。これには困った・・・・。
 私は、展示品をほぼ順番通りに見ていった。そのうち、私が国宝「寒山図」の前に来る迄には、どくかな?、と思ったがトンダ見当違いだった。このおじさん、入室は私よりもあとだったのだが、全く移動しない・・・・・・。
 私が順番に展示品を見て、国宝の前に至ろうとした(考えた)のに、この人は入室するや否や、スーっと国宝「寒山図」の前にやってきて、陣取ってしまったのだ・・・・(愕然)。


↓ 美術館入口前の柱の装飾より。

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  国宝 可翁筆「寒山図」の隣は「伝周文」の「望海楼図」だった。国宝「寒山図」と同じく水墨画で、こちらは風景を描写している。大きさは、国宝「寒山図」とほぼ同じだ。
 「望海楼図」の名の通り、昔の中国の楼閣と岩山と川のような流れと海が表現されている。

 先ほどの「おっちゃん」は全然移動する気配が無い。単眼鏡を片目にあて、じっと国宝「寒山図」を眺めている。正面に陣取ることが出来ないので、 「望海楼図」の横から「寒山図」をまずは拝観。

 作品の前の解説文には次のような説明があった。「可翁は南北朝時代の画僧で、現在、世界で作品数は十数点しか確認されていない。まぼろしの画家である。・・・・本作品は、今回が初公開となります。」と。
 企画展のコピーに「まぼろしの国宝」とあるが、作品の「初公開」による「まぼろしの国宝」という意味と、作品数が極めて少ない画家の筆になる「まぼろしの作品」という意味とを「引っかけて」いる。
 この作品「紙本墨画」なの水墨画であることは分かる。が、説明文には大きさが書いていないし、展示リストにも記載が無い。お隣に展示している「望海楼図」とほぼ同じ大きさ。高さは1メートルくらいだろうか。見上げるように展示してあるので、実際よりも間延びして見える。横幅は30センチくらいかな。

 「寒山」は、「寒山拾得」として表現されることが多い。近世まで、寒山拾得の画は数多く制作されただろう。この画は「寒山」のみのアップの画。「寒山は・・・僧で・・・」と解説文にある。
 髪がボサボサ。カッパのようだ。奇人、変人と言われた?、寒山の人物像を見事に表現している。現代風にいうと、頭はキレて知恵者ではあるが、ちょっと行動のおかしい人というところか・・・・。

 南北朝時代というと、戦乱が続いていた時代。同時代の僧は、絶海中津や夢窓疎石など、現在も残る禅宗の寺を創建した僧がいた時代と重なる。可翁は、当時の有名な僧とも交流があったのかは、全く分からない・・・。
 大徳寺の祖、「大燈国師」とも同時代の筈。現代においては、経歴、生没年すら不明の謎の画僧は、自身、奇人「寒山」に相通じるものを感じていたのだろうか?。

 さて、しばらく「国宝寒山図」の真正面が空くまで、別の展示ケースを見る。
 独立したガラスケースには重要文化財「玳皮×天目」茶碗がある。(一文字漢字が出ない)
 「タイマイの甲羅の模様のような」茶碗であるから、「たいひ」なのだそう。黒地に白っぽい、まだら模様が広がっている。確かに「タイマイ」の甲羅だ。
 別の独立ガラスケース内には重要美術品指定 南宋時代の「唐物肩衝茶入 銘 筑紫」が。小さい茶入れの陶器?。銘がどこに入っているかは、分からないが・・・。この「茶入 銘 筑紫」の独立ガラスケースの脇で、可翁筆「寒山図」の真正面に陣取る機会を待つ。平らのソファも傍らにあるので、ここに座って、遠くからも鑑賞する。
 展示室内は、私達を入れて十人と少しといった感じ。私達が入館した後、入館者も増えて来たような感じが。  
 
 鑑賞者は、(真正面に陣取っている人とは別の)60歳くらいの男性や先程、第一展示室にいた子連れの女性、50歳くらいの夫婦。若い背の高い男性など、必ずしも年配者とは限らない。
 妻は、必ずしも美術関係に興味がある訳ではないが、さすがに「寒山図」の前に陣取って離れない男性に苦笑していた。15分位して、やっとその男性がどいた。かなりのマニアであった(笑)。男性は、展示室の最初のガラスケース内の作品を順番に見て行っている。どくや否や、サッと私は「国宝寒山図」の前に陣取る(笑)。国宝の前には、私も含めて2人か3人くらい。ゆっくり鑑賞できる。でも、ずっと真正面に陣取るのはヤメましょう(笑)。

↓ 美術館入口前の柱の装飾より。
  (以下、鑑賞した感想も含めて書いていく。)

 下半身部分の拡大。わらじと足の指の描写が精密だった。足の指の向きがあれえへんくらいに曲がっている。
「これじゃあ、足の指が地面に当って、痛くないのなかな。」と思った。奇僧の寒山ならではの、姿だ。風体を寒山は気にしないのであろう。
 「可翁」と書いているような落款が鮮やか。「隷書体」の落款なのか。「幻の画家」であるのに落款が鮮明に残っているのはギャップがある。

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↓ 美術館入口前の柱の装飾より。

 寒山の顔は、現物では、写真ほど良くは観察できない。
 展示室では、上方にあり、私の身長でも見上げるような感じでの鑑賞になるから。
 やはり、くちびるが特徴的。くちびるとお鼻の高さがあまり変わらない。
 元祖、キャラクターの「クチパッチ」のような感じだ。(たとえが悪いか・・・・。)

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 ↓ 美術館入口前の柱の装飾より。 寒山のお顔の部分の拡大。
  作品を見るとき、まず最初に顔の部分を観察した。
  上述の通り、現物では写真ほど良く観察できない。

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 ↓ 美術館入口前の柱の装飾より。

   画面の上には、木が水墨で表現されている。木の枝が垂れ下がる様子が見事だ。
   木の下で笑っているのか、考えているのか、正気でないのか、奇人の寒山の様子が表現されている。
   木と人物が見事に調和している。木の下の絶妙なアングルで寒山が佇んでいるのだ。

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 「この国宝、もしかしたら、ウチの子自身が、おぱさんかお婆さんになるまで公開される機会は無いかも知れない。」と書いた。が、今回鑑賞して、「服部一郎氏没後30年」の機会のみならず、修復を契機に公開されたことが分かったので、今後は、毎年とまではいかないまでも、数年に1回は本美術館で公開されることが期待出来るかも!?。
 展示のガラスケースと反対側の壁側には、警備員が座っている。そのイスの横の壁には、修復をしている様子の写真の掲示があった。
お 顔の部分が、かなりきれいに、鮮明になっている。修復前は、寒山のお顔の左横には、(写真で見る限り)赤いヨコ縞のような汚れが付いている。顔の輪郭線も汚れていて、鮮明では無かった。


  





まぼろしの国宝 可翁筆「寒山図」公開 サンリツ服部美術館(長野県諏訪) 見学1

 2016年7月17日 日曜日 
 
  三連休の真ん中の日曜日。長野県、諏訪にある「サンリツ服部美術館」にやってきた。7月10日から始まった 服部一郎没後三十年 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」。この期間の会期は8月2日までが前期。後期は9月上旬まで。
 前期の目玉は何といっても 「特別公開」と銘打たれた国宝の可翁筆 「寒山図」であろう。
 美術館のウェブサイト内の告知では「初公開」とある。5月の下旬に同サイトで「国宝 寒山図」の公開が公表された。なぜ、この時期に公開されるのだろうか。勿論、服部一郎氏の没後三十年の節目の年の公開ということもあろう。
 今まで公開されなかったのは、何故なのか。所蔵者は誰なのか?。同サイトでは、これらの疑問には答えてはいない。後期の展示作品である「国宝の茶碗」は、服部サンリツ美術館の所蔵であることは公表されている。しかし、ウェブサイトを見る限りは「国宝 寒山図」については特に書いていない・・・・。あたかも「茶碗」と並んで美術館「自己所有」のような書き方。ということは、同館が寄附や購入の方法で所有したことも推測できるが・・・・。又は「寄託」なのか?。謎、というか疑問は尽きないままの訪問となった。

 この3連休に長野行きを企画したのはなこと急だった。手軽に宿泊予約ができる市民山荘が野辺山にあるためだ。上の子は、学校や塾の関係で今年の夏はお盆の期間も含めて旅行は出来ないようだ。空いているのは、夏休み直前、7月の3連休ぐらいなのだそう。ならば、市民山荘を(上の子にとっては)久々に予約し、少しばかりの家族旅行とした次第。料金が格安だし、予約を取りやすいということがあるので、決まりです。
 3年前は、休暇村乗鞍を予約したが、すでにこの時期は満室だった。しかし、乗鞍は遠い。今回は下の子の希望で、乗鞍など松本、安曇野付近までは行かないことになっている・・・・・(笑)。 
 初日は、市民山荘にチェックインをする時間帯の関係上、山梨県北部や長野県では諏訪、野辺山周辺に行き先が限られる。お決まりの「シャトレーゼ」の工場にプラスして、初日の行き場所を山梨、長野の八ケ岳付近で探していたところ、諏訪のサンリツ服部美術館の国宝展示を見つめた次第です(笑)。

 2016年7月の3連休、全体の旅行記は後日書く(いつになるやら・・・(笑))として、サンリツ服部美術館の見学記から書くことにする。

 圏央道から中央道を経て、山梨県入りするのは、今回が初めて。出足が遅くて、圏央道~八王子JCT~小仏トンネルまで、渋滞にはまり、1時間以上はロスをした。更に「シャトレーゼの工場」でも入庫待ちの車の行列。
 シャトレーゼの工場を「見学」した後、北杜市からは、国道20号線を通り、諏訪盆地へ。途中、富士見峠の標高は1000メートルを超えている。峠を過ぎて、少し下った所に、「カゴメ」の工場の入口があった。この工場は夏休みの間、見学を受け付けしているようだが、倍率は高いようだ。よって、行ったことは無いし、多分今後も予約は取れないだろう。諏訪盆地に入り、茅野市を過ぎ、途中で昼食。モチロン、諏訪での昼食はB級のグルメの「みそ天丼」です。(その記事は後日書きます。)
 よって時間が押してしまい、諏訪湖畔にやって来たのは、午後2時半を過ぎていた・・・・(苦笑)。

 ↓ 美術館の入口。左の土手の向こうが諏訪湖。

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 (上の写真の「P」は、お隣の「北澤美術館」の駐車場のこと。)

 諏訪湖の湖岸道路は混雑していた。特に湖岸道路の「外回り」は渋滞。テレビでも以前紹介された重文の建物がある片倉館の駐車場は混雑している。ホテルも係員が出て、入ってくる車を待っている。
 湖岸道路を走る。美術館はどこかな、と注意して見ながら運転。と、看板を見つけた。渋滞している道路を右折して敷地に入る。渋滞している車は、サンリツ美術館に入るのではない。警備員が出てきて「美術館の見学ですか?」と聞かれる。「オブ コース」とは言わないが(笑)、「はい」と答えて入る。
 駐車場はすいている。というより、キャパに比べてガラガラだ。もっと混雑しているのかと思ったが・・・。
 中央線の特急に乗って、上諏訪駅で下車すれば徒歩でもここまで来れる。よってもすいているのかな?とも思った。
 美術館の建物はすべて2階。高床式のような造り。建物の下の1階の部分が駐車場になっている。ただし、駐車場は建物の真下だけでは無い。建物の下に停まっている車が10台も無い。ウチの車も入れて、6台くらいかな。
 三連休であるが、思ったよりもすいている。今回の「国宝 初公開」は話題にはなっていないのだろうか?。

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 ↓ サンリツ服部美術館の1階にある入口。
   柱にある「寒山図」の写真入り今回の展覧会のポスターとご対面だ。

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 美術館の中に入る。受付カウンターがあり、係員が一人いる。入場券を買う。大人は一人1,100円。小中学生は700円。ウチの場合1100が3人に700円が1人で合計で4,000円ちょうど。
 下の子は、入館にゴネるかと思ったが、案外素直についてきた。入館しない場合は、道路を挟んで反対にある諏訪湖畔で遊んでいてもらおうかと思った。近くの湖畔には、「間欠泉センター」があり、多くの人で賑わっていたし、遊ぶところは結構ある。
 で、下の子が一番興味を示したのが1階のロビーに置いてある「金魚の水槽」。小さい水槽である。が、「金魚ちゃ~ん」と興味を持って金魚を眺めている(苦笑)。
 展示室は2階。受付の横には、小さい販売コーナーがあり、その脇に階段がある。階段の更に横、駐車場が見えるガラス戸やガラス窓の近くの壁には故・服部一郎氏の写真が掲示されていて、胡蝶蘭の花が飾られている。今回の企画展のあいさつ文が書いてあるボードも掲示されている。ロビーには、可翁筆「寒山図」の写真の入った、今回の企画展のチラシは置いていない。ポスターも貼っていない。
 階段を昇ると第一展示室がある。西洋画の展示がある。まずは、こちらから見学する。展示室は私達の家族だけ。次いで、子連れの若い女性が入って来た。子供は小学生低学年くらいだ。女性は順番に熱心に絵を見ている。どんどん子連れの方が気軽に来れるとよいですね。
 展示作品は「ラウル・デュフィ」の作品など。音楽の教科書によく掲載されている画家k作品だ。1点だけだが、ダリの作品もあった。
 本美術館の一番有名な作品では「ルノワール」もあるようだが、今回の展覧会では展示が無い。
 次に、湖の見えるテラス(テラスに面した館内にカフェがある)の前の通路を通り、第二展示室へ向かう。
 











「美の祝典」 国宝「伴大納言絵巻」下巻公開 出光美術館 鑑賞2

 2016年7月10日 
 
  東京、丸の内の出光美術館。企画展「美の祝典」、4月から始まった国宝「伴大納言絵巻」の公開もそろそろ会期終盤。この期間は、下巻の公開。会期最終日は7月18日の祝日まで。
 
 展示を見ながら「伴大納言絵巻」下巻の展示ゾーンに進んだ。
 解説のボードを見ながら、展示ケースへ順路を進む。「伴大納言絵巻 下巻」の展示ケースの脇には、5-6人くらいの人が列を作っているのみ。前期と比べると観覧者は少ない。
 下巻は、解説のボードを前回の訪問時も見たので、あたかも、既に現物も見たというような錯覚に陥ってしまう。が、ガラスケース内の巻物を順番に見ていくと、意外にも赤い葉のついた木が目立つことに気付いた。季節は秋なのだろう。現在の暦でいうと、11月くらいか。昔は、現在よりも暑かったなんて言われているが、民衆の着物は確かに軽装で衣一枚という感じ。
 平の清盛はマラリアで死亡したとも言われているらしいが、それくらい気候が厚かったのだろうか。この絵巻は事件から300年後に描かれたとあるので、成立したときの為政者は平家ではなかったか、院政~平家政権~源平の合戦の頃かな。紅葉のシーンが描かれているので、さほど気候は現在と変わらなかったのかも。現在の方が、温暖化の影響が著しい?。
 舎人が尋問されている様子から一気に検非違使が逮捕に向かうシーンに飛ぶ。
 逮捕されて、牛車で引かれていくシーンは、伴大納言自身は描かれていない、と解説にもある。確かに、着物の裾しか見えない。
 ポン、ポンと場面ごとに絵が登場して物語は終わった。

 私の前には、若いおにいちゃんが入ってきた。巻物のガラスケースを見る前に予習をしようと、壁面の解説パネルを見ていたら、私の前に横入りされてしまったのだ(笑)。
 このおにいさんは、熱心に見ていて、ついにガラスケースを見ていく途中で私は追い越しをした。私が見終わっても、このおにいさんはまだ見ていた。私の次は、背の高いスラーとした若い女子大生くらいの女の子だったが、この子も熱心に見ている。ガラスケースの前で列が滞留していたが、ケースの前で人が張りついているほどではないため、立っている警備員も特に早く見るようには、促さない。
 私は現物を見た後も、どのシーンがどういう場面かもう一回おさらいしようと、開設ボードを見て、もう一回、現物をさらっと流すように見た。さほど混雑していないので、時間の許す限り、何回でもガラスケースを見ることは可能だった(笑)。
 「伴氏」がその後、どうなったかは、解説には無かった。かつての大伴氏は没落して、伴善男の後、子孫は公家となったのか、寡聞にして知らない。その後、時代は藤沢氏の全盛となるのだが・・・。その血筋は現代においても華麗な人脈を政財界などに築いている。伴氏の時代も現代においても・・・。

 やっと、「伴大納言絵巻」を見た後、次の展示室へ。
 江戸時代の酒井抱一の作品などを見る。尾形光琳の作品と酷似している。「白梅図」や「八橋図屏風」など。
タイトルからはカキツバタの絵とは判断できないが、木道に咲いたカキツバタを光琳の国宝作品と同じように描いている。が、色彩のうまさは、光琳が上手に感じる。特に、紺色の濃淡でカキツバタの花の表や裏を描写している所などは・・・。しかし、よい

 乾山の皿の作品などを見て、展示室を退出した。
 帰りに売店で図録の見本を改めて見る。図録の解説には館長である出光氏の解説文が掲載されている。抱一の「風神雷神図屏風」は尾形光琳の「風神雷神図屏風」を写したもので、この屏風は当時所蔵していた一橋治済の屋敷で現物を見た?ようだ。抱一自身は、元々のオリジナル、宗達の「風神雷神図屏風」の存在を知らなかったらしい。
 現在、重要文化財指定、東京国立博物館所蔵の尾形光琳「風神雷神図屏風」は、将軍家斉(現在字体で表記)様の父、治済(現在字体で表記)が持っていたのか・・・。治済(はるさだ)は、田安家出身の松平定信の終生のライバルといったところか。というより、定信は、父の弟の子ではあるが、年上のいとこの治済の権勢の前には、終生対抗できなかったのではないか。将軍の父君と、老中(経験者)とはいえ11万石程度の大名の定信では。

 再びエレベータに乗って降りた。
 外に出て、振り返って美術館の入っているビルの外観を撮影した。6月の下旬以降、急に新聞の経済面などで出光家や同家が理事長を務める出光美術館を運営する財団のことがクローズアップされた。
 と、先程展示室にいた大学生らしき女の子が出てきた。黒縁の「アラレちゃんメガネ」をかけた茶髪の子だった。底の厚いサンダルを履いている。一人で来ているようで、有楽町の方向へ歩いて消えて行った・・・。先にも書いたが、今回は学生くらいの十代後半から20歳代の学生、社会人とおぼしき若い人もかなり見に来ていた。母親と一緒に見に来ている高校生~大学生くらいの子もいた。
 子連れも何人かいた。幼稚園くらいの子を連れて、お父さんが熱心に説明している。が、子は、分かっていないかもね(笑)。何年か前の私かな・・・・・・。子供が嫌がるので、私はすぐにやめましたが。
 孫を連れてきているおじいさんもいた。

 











「美の祝典」 国宝「伴大納言絵巻」 下巻公開 出光美術館

 2016年7月10日 
 
  再び、丸の内にある出光美術館にやってきた。「美の祝典」、4月から始まった国宝「伴大納言絵巻」の公開もそろそろ会期終盤に近づいた。
 この期間は、下巻の公開。会期最終日は7月18日の祝日まで。「中巻」の公開期間は、行くことが出来なかった。最後に「下巻」を見て、美の祝典のフィナーレを飾ろう。 
 有楽町駅の国際フォーラム脇の歩道を美術館のあるビルへと歩く。途中、道路を横断するが、まっすぐだ。東京駅より有楽町駅の方が断然近い。
 
 ↓ 退出後、皇居のお堀方面を撮影。右手が美術館の入っているビル。
   前回来たときよりも、街路樹の緑の色が濃い。季節は夏に移り変わった。

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  帝劇の看板の脇、ガラスの壁に仕切られたビルの内側に出光美術館の入口がある。警備員と白シャツ姿の係員がいて。次々にエレベータに誘導している。前回はエレベータに同乗する人が何人かいた。次々にエレベータにやってきていたのだ。が、老女とその娘らしき人の2人が乗ってきたのみ。前回の「上巻」公開時よりは観覧者が少なそうだと予感。
 警備員の人が「展示室はエレベータで9階の上がって下さい。」とアナウンスしてくれるので、前回同様9階で降りる。エレベータを降り、受付窓口で入場券を買って入る。今回は、優待割引券をもらっていたので、半額の500円で入場できた。この優待割引券は、有効期限が来年の3月までなので、「伴大納言絵巻」だけでなく、来年の3月までに開催される展示企画でも使用できる。1回来れば、あと1回は半額で入れることになるのかな?。
  さあ、二回目の出光美術館。展示室に入る。と、室内は暗かった。というより、外の夏の日差しがまぶしくて、室内がより一層暗く見えてる。よって目が、展示室内の「暗さ」に慣れるまで時間がかかった。「ああ~、夏だな~(笑)。」

 展示室に入って、すぐ左手の壁には、祇園祭の屏風がある。「祇園祭礼図屏風」。京都の祇園祭りの様子。7月の蒸し暑い日、展示したのは、もうすぐ祭りの本番だからだろう。祇園祭りは「戦国時代に一時、途絶し、西暦1500年より復活した。」とある。戦国の早い時期から、復活していたことになる。西暦16世紀後半の復活では無かった。
 描かれている場所が現在のどこか、図示による解説がある。左双、三条通りの北(絵の左側)には、「内裏」がある。内裏が起点で、左から右へ左双から、右双へ絵が流れている。祭りの行列は、都の路を練り歩いている。
 
 エレベータは、すいていたが、室内は比較的混雑している。が、前回の訪問「上巻」公開時のほどでは無い。
次いで、歌麿の肉筆画、美人画の展示があった。浮世絵ではなく、肉筆画だった。さすがに「春画」は描いていなかったかな、とは決して思わない(笑)。
 続いて、数段の階段を降りた所の大きなガラスケースの展示場所には、「南蛮屏風」があった。文化財指定は無い。作者、来歴は不明だ。説明にも無い。南蛮屏風は当時、数は忘れたが、多く描かれていたとあったと記憶する。
 「洛中洛外図屏風」もある。こちらも文化財指定は無い。
 次の部屋に移動。「伴大納言絵巻」の人物相関図のバネルがあるのは、前回と同じ。近くのガラスケースには、別の展示物があった。「江戸名所図屏風」。長い屏風で、浅草から、芝、田町の辺りまで描かれている。左双、現在の港区か目黒区当たりだろうか、絵では奥に高い「塔」がある。が、説明には「塔」について触れていない。距離は微妙だが、池上本門寺かなと思った。すると、東から西まで当時の江戸の郊外も含めて描いていることになる。芝か現在の築地当たりか、浴場がある。浴槽の近くでは、男の背中を流しているというか、洗っている女がいる。数名同じような男と女の組が描かれている。女はモチロン着物を着ている(笑)。
 二階建てで、上の階には「浴場女」がいる。

 展示を見ながら、伴大納言絵巻」下巻の展示ゾーンに進んで行った。

 ロビーの窓際には、無料のお茶コーナーがある。その傍らから、カシャっとスマホカメラで撮影した。このとき、何故か写真撮影をしている人がいなかった。人は多いのだが、シンとしている。「窓からの風景」ということで撮影したが、なんとカップルの後姿が写っていた・・・。外の光が眩しくて、被写体の様子が判らず。よく撮れなかった。ゴメンナサイ(苦笑)。
 ↓ 右のパーテーションの内側がお茶コーナー。暑いので皆さんたくさん飲んでいた(笑)。


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「二、二六事件」に関する講演会 拝聴記4 (善行雑学大学)

「二、二六事件」に関する講演会 拝聴記4 (善行雑学大学)

 今年の2月のことだ。「二、二六事件」に関する講演会に行った。
「回顧80年 2.26事件とは何だったのか」 善行雑学大学 藤沢市の善行公民館での開催。
 講師は中田整一氏。(元NHK職員)
 内容は、講演と中田氏がNHKの現役当時に制作した番組 NHKスペシャル「二、二六事件 消された真実」のビデオ視聴だった。(番組の放送自体は昭和63年2月のことで、今から30年近く前で事件から52年後のこと。)

 実はレジュメにはこの講演で、ほとんど触れなかった資料が付いていた。私は、このほとんど触れられなかった資料に一番興味を持った。それは、事件の青年将校達が死刑を執行された際に立ち会った当時の軍医の回想記であった。しかも、投稿されたのは事件後約60年たってからのことだそうだ。投稿者の元軍医氏は、当時90歳近かったのではないか?。
 中田氏は熊本出身である。「これは、私が高校時代の先生の関係で入手した、地元熊本の郷土史に掲載された回想記です。 このような人がいたとは、私も今まで知らなかった。この方は、99歳くらい(の長寿)で10年くらい前に亡くなられた。元・軍医中佐で戦後は故郷 熊本で開業医をされていた。」と説明があった。

 事件の首謀者とされた者が「非公開の軍法会議にかけられ、多数が死刑になった」ことはよく知られている。が、死刑判決を受けた人は何人だったのか?、死刑執行はいつだったかのか?、どのように行われたのか?は、あまり知られていないのではないか?。

 私も誤解していたのだが、時系列でいうと
 s10.8「 相沢事件」発生。その後、相沢中佐の軍法会議開始。
  s11.2.26 二、二六事件
 までは知っている。
 その後、二、二六事件に関する裁判が開始され「一年間くらい審理された。」と私は思っていた。
 更に私は、二、二六事件に関する軍法会議の途中の
 「s11.7に相沢・元中佐の死刑が執行された。 翌年、盧溝橋事件が勃発し裁判に時間をかける余裕もなくなり、12.7に、二、二六事件の青年将校達の死刑執行」と思っていた。
 しかし、実際はs11.7に相沢・元中佐の死刑執行がされた、わずかその数日後の7月12日に二、二六事件の青年将校達のうち死刑宣告者15名に死刑執行。
 一年おいて、翌年の盧溝橋事件勃発後の「昭和12年」8月に民間人の北一輝、西田税に死刑判決。その数日後に死刑執行。前年7月に死刑判決を受け、執行されていなかった磯部、村中とあわせて、「昭和12年」8月19日に4名が死刑執行と知った・・・・・・。
 昭和12年8月中旬といえば、大陸に戦火が広がっていた時期であり、東京においても在郷の兵士の召集と動員が相次いで「いよいよ戦争だ。」と世情騒然としていたのではないか。
 どうやら、私はいろいろと時系列で混同していたようだ・・・・・・・・・・。

 相沢元中佐と死刑判決を受けた二、二六事件の青年将校達のうち「15名」の死刑執行は、時間の間隔があまりにも短い・・・・。かなり執行を急いだと感じるし、あまりに拙速だ・・・・・。決起を主導した(事件発生当時現役であった)将校達は、とにかく先に死刑にしよう(してしまおう)という軍部中枢の意志が働いていたように感じる・・・・・。

 実は「相沢事件」についてはNHK出版の「歴史への招待」の本が家にあったので子供の頃に読んだことがあった。発行は昭和50年代でかなり古い本だった。二、二六事件についても特集していた号もあった。中田氏は「歴史への招待」の番組制作にもかかわっていたであろう。内容が今回の講演内容やビデオを見た番組とかぶっているし。「歴史への招待」の「 相沢事件」についての特集の章では、当時陸軍省勤務で、今回の中田氏の講演でも名前が挙げられた片倉哀の証言があった。また、。「歴史への招待」では「相沢事件」の発生当時、陸軍省勤務であった有末精三の証言も掲載されていた。
 いつぞやだったか、たまたま図書館で「相沢元中佐の死刑執行」に関する当時の陸軍衛戍刑務所長?の回想記を読んだことがある。元所長?の回想文では「・・・刑務所での死刑執行は初めてであったので、刑場が無かった。・・・・・場所をどこにするか検討した・・・その結果、所内の裏庭かの更地の地面を掘り下げて、執行する場所をつくった・・・・・」という内容であった。屋内での執行ではなく、屋外の刑務所敷地内での銃殺刑であった。
 掲載は「文芸春秋にみる昭和史」かなと記憶していた。講演の後、図書館で改めて読んでみたが、該当の記事は無かった・・・・。記憶違いであったようだ。しかし、インターネットで見た記事では無く何かの書籍で読んだと思う。 

 さて、回想記の筆者はX軍医とする。7月の処刑である。事件が発生したのは冬のこと。対して死刑は夏のこと。事件発生からわずか、4か月半で季節は、冬から春を過ぎて、夏へと変わっていたのだ。
 昭和11年の梅雨明けの日は知る由も無いが、梅雨明けは、まだの、やや蒸し暑い日の朝ではなかったか。
 気象庁のウェブサイトを見ると、梅雨入り、梅雨明けはの日付は昭和26年以降の統計しか掲載されていない。
 恐らく、梅雨明けの前であるから、当日は湿度が高く早朝は曇天であり、せめて薄日が差すくらいではなかったか・・・。日が登る昇るにつれて、雲の合間に夏の青空も幾分か広がったと思う。ただし、朝のうちは、さほど暑くはなく、半袖シャツでは涼しさも感じるくらいではなかったかと想像する。

 以下、X軍医の回想記からの引用である。 ※(    )内は私の感想、注記など。

 当時X軍医は、軍医学校の甲種学生であった。学校に隣接する済生会病院で治療などに当たっていた。
済生会の患者は当時ほとんど無料での診察であった。
 (現在の済生会中央病院は、三田の国際ビルの近くにあるが、以前は戸山にあったのだ。)
 事件勃発当時の様子が書いてあった。
 事件後は、元の勤務に戻り、数か月が経過した後、突然校長から数名が呼び出された。近く、「例の将校」の死刑が執行されるので、戦地勤務がある者ということで執行の立会い命じられた。
 (戦地ということは、満州事変での従軍経験があったのだろう。)
 相沢元中佐の死刑執行のときは軍医学校の軍医は立ち合いをしていないらしい?。「某陸軍病院の衛生兵が担当したが、動転して役に立たなかった・・・。」と(軍医学校の)校長が言った。「今度は、処刑人数が多いし、君たちは戦地勤務があるので・・」と校長が言った。

 執行当日、7月12日の早朝に交通規制の中、自動車で軍医学校から代々木衛戍刑務所まで移動した。刑務所内の刑場は準備が出来ており、地面が5か所、横一列に等間隔をおいて掘り下げされ、その掘り下げられた地面に5個の十字架が等間隔で設置されていた。
 (死刑は銃殺であるので)銃を固定する机が十字架と10メートルくらいの距離をおいて、5個設置されている。銃は執行を受ける者一名につき2丁設置され、銃座が固定されていた。銃は10丁ある。射手は10名。被処刑者一名につき、正として、一人は将校、副として一人は下士官。正射手がまず発砲する。副射手はその予備だった。
 
 (刑務所敷地内の屋外での執行である。果たして執行時刻の天候や気温、湿度はどうだったのか?。)

 隣接する代々木練兵場では、空砲による演習を行い銃殺の音がわからないようにしていた。
 まず最初の被処刑者5名が刑場に来た。宮城を丁寧に遥拝。服装はカーキ色の作業服で、素足に草履。目隠しをされた。両脇を看守にかかえられて、地面を数十センチ?掘り下げたところにある十字架にかけられた。膝は折ってむしろの上に正座し、両手を左右に広げて縛られ、頭部も固定された。眉間に印をつけた。草履はむしろの横に揃えて置かれた。
 (すると、被処刑者が縛りつけられた十字架の高さは130-150センチくらいだったろうか?。)

 そして、概ね揃って「天皇陛下万歳」を叫んだ。安藤だけは「秩父宮殿下万歳」を叫んだと思う。
 (すると、軍医は安藤大尉(事件後、免官されているため、正確には元大尉)を知っていたのだろうか。目隠しをされていたので、いよいよ執行というときには、顔の区別はつかなかった筈だ。目隠しをする前に本人の顔を確認したか、執行後、遺体の処置、検視をする際に安藤大尉と確認して、彼は執行直前に「秩父宮殿下万歳」と叫んでいたな、と認識したのであろうか?。)

 執行の指揮には大尉一名が立った。射手は照準を合わせる。大尉は指揮刀を手に「撃て」の合図で射手は一斉に眉間の印に向けて発射した。同時に、軍医は被執行者の元に飛んで行って、脈拍停止までの時間を計測した。
 (演習の砲声が響いていて、騒々しい中での発砲だったことになる。静寂の中に「撃てー!!」の号令のもと、突如として銃殺の音が響いたのでは無かった。)

 検視と遺体の処置を行った。5名ずつ執行されて、合計15名の執行を行った。遺体は清拭して入棺をした。死体検案書は書いたか覚えていないが、多分書いたと思う。
 (軍医も15名の多数に及んだ死刑執行の場において、極度の緊張状態にあったことが推測される。)
 
 処刑場において、死に臨んだ被執行者の態度は、まことに立派であった。
 勤務を終えて、帰宅する頃には「代々木刑務所に入獄中の・・・・・・15名の死刑執行される」の意味の号外が配られていた。
 
 戦後に二、二六事件に関する映画を見た。死刑執行のシーンを見たが迫力はなかった。特に心理面での迫力が全くなかった。
 処刑された人の名と時刻は、戦後の著書である高橋正衛著「二、二六事件」を引用して記載し、冥福を祈っていた。
 翌年8月の北、西田、磯部、村中の死刑執行は同処刑場にて行われ、死後の処置は軍医学校の同僚学生が当たったと聞いた。
 で回想記は終わっている。(引用終わり。)

 執行当時、被執行者と元々面識がなければ、刑場においても名と顔は一致しなかったろう。執行の順番、時刻も当時は個人として記録する訳にはいかなかったため、X軍医は、執行から数十年後に回想記を書くときは別の著書によったのであろう。

 X軍医は国立国会図書館のサイトで閲覧できる「陸軍将校同相当官実役停年名簿」に名前があった。昭和10年9月1日調べの版によると、所属は某大隊。部隊から、軍医学校に学生として派遣されていたようだ。
 当時の階級は、任官して幾年も経過しない二等軍医かと思ったが、実は一等軍医で大尉相当であった。年齢も事件を主導した大尉の被処刑者達に近かったのではないか?。20歳台後半であったろう。
 銃殺刑執行の指揮をとったのは(兵科の)大尉。X軍医達は、駆け出しの軍医ではなく、処刑場において遺体の処置にあたったのは、皆、一等軍医の階級の軍医学校の甲種学生、ベテランの軍医であったと思われる。

 2016年は事件から80年に当たる。この年の2/26の新聞夕刊などは事件関係者の子孫などによる回想記事も掲載された。死刑は7月に執行れさたが、(2016年7月の)執行から80年に際しては、関連する記事やニュースは私が知る限り報道が無かったと思う。

 NHKの敷地 スタジオパークの入口。↓
 2016年1月撮影。(スタジオパークに行ったときに撮影)
 NHKに中田氏は勤務されていた。事件を主導した青年将校達の死刑が執行された場所は、道路を挟んでその先、下の写真の「NHKくん」のキャラの背中の後方の向かって左手、現在建物が建っている付近。
 当時は陸軍の刑務所(衛戍刑務所)の敷地内だったのだ。

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 昭和11年7月12日早朝、東京 代々木の衛戍刑務所の空に突如として響いた死刑執行の銃殺の発砲音は、翌年から本格的に始まる大戦争への号砲では無かったのか?。
 その1年後、昭和12年7月には、盧溝橋事件が勃発、大陸に多数の兵士を動員・・・・、昭和16年12月には日米開戦。この死刑執行からわずか9年1か月で日本は大戦争に敗れ降伏をしたことになる。
 昭和11年7月12日の死刑執行は15人だった。一度の執行人数としては、かなりの多数だ。しかし、この多数の死刑執行後、日本が降伏するまでの間に一体何人、何万人、何百万人の人命が戦争で失われたのであろうか。あまりの数の多さを思うと言葉を失ってしまう・・・・。


「二、二六事件」に関する講演会 拝聴記3 (善行雑学大学)

「二、二六事件」に関する講演会 拝聴記3 (善行雑学大学)

 今年の2月のことだ。「二、二六事件」に関する講演会に行った。「善行雑学大学」は藤沢市の善行公民館での開催。講師は中田整一氏。(元NHKの職員)
 講演の内容はかなり専門的で、予備知識が無いといきなり聞いても理解することは出来ないくらいのレベルであった。
 
 講演の途中、区切りがついたところで中田氏がNHKの現役当時に制作した番組の映像をスクリーンで投影した。会場の体育館の照明を落として視聴した。

 NHKスペシャルで「二、二六事件 消された真実」という番組のビデオ。なんと放送は昭和63年2月のこと。今から30年近く前のことだ。「2月」に放映ということは二、二六事件の発生した日の近くにあわせて放映したのであろう。
 昭和63年2月の時点で私は学校に通っている少年であった・・・・。当然、当時の私は見たことが無い。初めて見る番組映像だ。
 中田氏は「当時の視聴率は27%だった。当時約2200万人が見たことになる。・・・・」と説明をした。視聴率を述べるあたり、テレビ局の人らしいというか・・・・・。

 事件当時の主任検察官 匂坂法務官(放映当時、既に故人)の自宅に作家 澤地さん(以下「沢地氏」)が訪問する様子。世田谷区内に自宅があり、子息が応対して、軍用行李に納められた事件後の裁判(つまり。軍法会議)資料が示された。いわゆる「匂坂資料」である。講演の中でも触れていた。

 登場している人物の髪型、服装、街の様子なとが随分昔のことに見える。特に沢地氏がコンピュータで匂坂資料をまとめる作業をしている様子は時代を感じる・・・・。沢地氏も随分と若い。
 特にコンピュータの機材、モニターやその画面やキーボードが時代を感じる・・・。たしかに、当時私が通っていた学校にも同じようなコンピュータが設置してあったかな・・・。職員室のある一角の机の上に設置してあった。学年主任などの先生が使用していたのだが。担任の先生がコンピュータを使用しているところは見たことが無かった。「一人一台」パソコンを使用している現在とは隔世の感がある・・・・・。

 番組の内容は主に前半が匂坂資料について、後半は「大臣告示」の時刻についてだったと記憶する。
 なぜ、大臣告示の時刻が重要なのかは、一回この番組を見ただけでは、難しくて理解できない・・・。
 レジュメにも資料のコピーがあったが告示は「下達」と記されている。ビデオの映像の中では、当時の事件関係者も含め「かたつ」と呼んでいる。私は「げたつ」と思ったが誤解だった・・・・。
 レジュメの資料では「・・・・師団司令部二限リ三時保留ス・・・」と午後三時に大臣告示保留したように証言の筆記文書が改ざんされていた。証言をしたのは「陸軍次官の橋本虎之助」と中田氏の説明。まずいと思って、だれがが改変したのだそう。原文は「・・・・師団司令部 ? 限リ一時保留ス・・・」と一時的に保留したという内容に解釈できるが・・・。
 「宮中での軍事参議官会議が昼の12時半からだったので・・・。」「会議の前、午前10時半?の時点で既に、告示の文?原・案が出来ており、電話でその内容が伝えられていた・・・・。文章を作成したのは山下(ほうぶん=奉文)で、電話で山下が先に伝えた??・・・・」というお話だった。(詳細は記憶していない・・・・・。事実関係を誤解しているかも・・・・・。)
 時刻の変更がどれほど重要な意味を持つのか、私には理解が不足している・・・・(苦笑)。

 番組の放映時間は45分弱であった。つまり、現在の特番9時スタートで9時43分頃終了と同じ時間帯の枠だ。
 映像の中のシーンで匂坂法務官に手紙を出していた「坂本大佐」について調べるシーンがあった。偕行社で資料を調べるシーンであった。机に出した資料を見て「東京憲兵隊長 坂本 俊馬」の名前を見つけるシーン。事件当時の憲兵隊長であった。
 「陸軍将校同相当官実役停年名簿」を見ているようだ。現在これは国会図書館のインターネットページで簡単に閲覧できる。(番組放送当時の昭和63年と比べて)隔世の感がある。
 ビデオ映像の最終のシーンに「法廷らしき木造の小屋の内部」の映像があった。説明は無かった(あったけど私が忘れた?)が、どうやら、東京陸軍軍法会議の法廷用の(バラック建築の)再現セットの映像だと確信した。

以下にも、講演内容の内容を箇条書きする。

 ・事件後、帝国議会で秘密会が開催された。陸軍大臣の寺内は「大臣告示は最初から無かった」と回答した。
 秘密会の議事録を公開する法律が、中田氏らが番組制作当時に閲覧請求した際にも無かった。法律が無いので、公開されなかったそう。現在は情報開示法があるので、公開されるそうだ。
・ 最近、マスコミで報道された「クローズアップ現代」について言及があった。
 放送を制限できるかのように間違って放送法が解釈されていた。現在のNHKは以前と比べておかしくなっている。報道の自由が制限される恐れがある。

 マスコミ人らしく、最近話題になった「放送法」の問題を提起して、講演を終わった。最後は二、二六事件の内容と離れてしまったが・・・・。
 予定時間を超過したので、質疑応答の時間は無かった。

 どっと聴衆は帰った。私も帰途についた。少しばかり、図書室を見る。私が子供を連れて通った当時と変わらず、小さい子供達が読書などをしていた。

↓ NHK放送センターの敷地の南の門。一般人にとってはスタジオパークの入口。
  2016年1月撮影。(スタジオパークに行ったときに撮影)

 講演後に中田氏の著書を図書館で見つけて読んだが、(書籍名は番組名と同じ「二、二六事件 消された真実」、出版社はNHK出版又はレジュメにも中田氏の著書として紹介のあった『盗聴二・二六事件』文芸春秋社、だったと思うが失念した・・・・。)
 それらや今回の講演で聞いた話によると東京陸軍軍法会議の法廷は、かつての代々木練兵場の南の一角、現在の場所でいうと、NHK放送センターやNHKホールの南あたりにあったそうだ。すると、写真に写っている場所のどこかにあったことになる・・・。法廷は急ごしらえのバラック建築だったとのこと。

  放送センターの高いビルの手前、~スタジオパークの入口の北付近にあったのだろうか。
   2016年1月管理者撮影。(スタジオパークに行ったときに撮影)

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↓ NHKの敷地の南の門。スタジオパークの入口。奥にNHKホールがある。

 2016年1月撮影。(スタジオパークに行ったときに撮影)
 NHKは中田氏が勤務されていた場所であり、事件を主導した青年将校達の死刑が執行された場所と道路を挟んですぐそばだったのだ。

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 現在の平和な光景からは全く信じることが出来ない・・・・・・・・・・・。

「二、二六事件」に関する講演会 拝聴記2 (善行雑学大学)

「二、二六事件」に関する講演会 拝聴記2 (善行雑学大学)

 今年の2月のことだ。「二、二六事件」に関する講演会を聞きに行った。
 「回顧80年 2.26事件とは何だったのか」 善行雑学大学 藤沢市の善行公民館で開催。
 講師は中田整一氏。(元NHKの職員)

 レジュメに沿って講演が進む。以下、私が聴いた内容を箇条書きの続きです。
※聞き違い、誤解があると思うので、ご承知おき下さい。

・日本画家・堀文子さんの生涯について刊行した中田氏の最新刊の案内。堀さんは女学校当時、二、二六事件を体験した。 (レジュメにも同 書籍の紹介がある。)
 堀さんの自宅は、二、二六事件の当時永田町にあった。事件の期間中はずっと家にいざるを得なかった。
 堀さんの言葉「女とマスコミがしっかりすれば戦争は起こらない」を紹介し、いかにもマスコミ人であった中田氏らしいお話。堀さんは、昨年ノーベル賞を受賞した北里大学の大村博士とも親交があるそうだ。
  
・二、二六事件は軍国化、右傾化の契機となった。言論が統制されていった。
 「事件から9年で日本は戦争に負けて破滅した。たったの9年です。」

 (以下、「事件」は断りが無い限り二、二六事件のことを指す。)  

・司馬遼太郎さんは、この約10年弱の期間を「悪魔の森の時代」と呼んだ。統帥権が濫用された。

・戦前、軍部の発表以外の事件の真相は一切報道されなかった。漏らすことは禁止された。戦後、5年くらいたってから当時の事件関係者、軍の将校、刑務所の看守がもらし始めた。

・NHK(の番組)で発掘した(中田氏らの)スクープが二つある。
 1、事件当時、2/27以降の電話を盗聴した録音盤がNHKに保管されていた。
 2、事件の裁判記録が、当時の法務官の自宅に保管されていた。
 事件に関する番組の放映後、匂坂春平(さきさか しゅんぺい)法務官の子息からNHKに電話があった。

・事件を起こすことを統制派は分かっていた。
 事件が起きたら、それを利用して一気に国家を改造しようとした。
 事件の直前の2/23の会議で憲兵司令官が「2/26には、青年将校達が事を起こす。」と発言していた。

 反クーデター「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を昭和9年1月に作成していた。組閣、世論操作、社会の治安対応策などを決めていた。要綱の策定には片倉哀(ただし)大尉がかかわっていた。
 片倉大尉には、三回インタビューしたことがある。「青年将校達をあおって、事件が起こるようにしていた。今から思うとズルい考えだった。」と話を聞いた。
 片倉大尉は満州事変の当時関東軍の参謀で事変の中心人物だった。「岸を満州に連れて行ったのはワシです。」とも言っていた。岸(信介)は、今の安倍首相のおじいさんで官僚だった人。戦後に首相。
 
・事件は昭和天皇にとってトラウマになった。在位50周年のとき「自分の考えて動いたのは二、二六事件のときと、終戦のときの二回だけだった。」と語られたことがある。「二、二六事件のときの判断は正しかった。」と述べられた。

 この昭和天皇のお話は、平成時代になってから昭和時代を振り返るテレビ番組の特番で映像を私も見た記憶がある。

・クーデター計画は終戦のときもあった。参謀次長の河辺が総長の梅津にもちかけたことが河辺の日記に書いてある。梅津は計画には同意しなかったので実現しなかったが、クーデターの考えは(終戦のときも)あった。

・事件勃発後、戒厳令が敷かれた。2月27日-7/17まで。軍が行政と司法の両方を掌握した。
 事件後に東京陸軍軍法会議を設置した。軍人だけでなく、民間人も一緒に軍法会議で裁いた。首謀者は、北一輝、西田税(にしだ みつぎ)と決めつけ、純真な将校がついていったとした。

・事件で戒厳司令官の香椎、山下奉文らは、事件が成功するように動いた。匂坂資料の中に証拠があった。
 
 やました「ほうぶん」と中田氏は言った。「ともゆき」とは呼ばなかった。

 などの内容だった。
 講演の内容はかなり専門的で、予備知識が無いといきなり聞いても理解することは出来ないくらいのレベルであった。講演の中に登場する事件関係者、当時の軍人などの名前、北一輝、西田税、梅津美治郎、河辺虎四郎、香椎浩平、山下奉文などについては、詳しい説明は無いのである程度その人物について知っていないと講演内容を理解できない。
 
 その後、氏がNHKの現役当時に制作した番組の映像をスクリーンで投影。会場の体育館の照明を落として視聴した。NHKスペシャルで「二、二六事件 消された真実」という番組のビデオだった。

 ↓ 善行雑学大学のレジュメと次回などの講演の案内。

 
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二、二六事件に関する講演会 拝聴記 (善行雑学大学)

今年の2月のことだ。「二、二六事件」に関する講演会を聞きに行った。知ったきっかけは、市の広報誌。告知の記事が小さく掲載されていた。
 事件が起きたのは、今からちょうど80年前の雪の早朝のこと。が、事件を主導した青年将校達が処刑されたのは、その年の7月のこと。丁度今頃の時期なのだ。

 講演会なので写真は無い。
 「善行雑学大学」は地元ではある程度知られている。その詳細はここでは省く。市の広報誌や地域のニュース誌などで開催内容は紹介されている。毎月一回テーマを決めて開催される。テーマの内容は必ずしも歴史関連ではない。だから「雑学大学」なのであろう。会場は藤沢市の善行公民館。市民センターも併設されているので、住民票などが必要なときはここで取得することが可能だ。図書室もある。私は以前この図書室に子供を連れてよく来たものだった。現在では引っ越しをしてしまい、家から遠くなったのでとんと来たことが無い。

 久しぶりに善行公民館にやって来た。資料代を支払い、レジュメを受け取り、受付(氏名を書く)を済まして中に入る。公民館の体育館が会場。パイプイスがたくさん並べてある。200席以上はあるだろうか。開演時間までにほぼ満席となった。来場者の平均年齢であるが・・・・・、高い。平均年齢60以上ではない。70歳前後ではないだろうか。私と同年代かそれ以下は私が見た限り、満席で200人が来場していると仮定して10人もいなかったのではないか?。女性の聴衆もいるが、ほとんど白髪のご婦人だ。子育て世代以下と思われる世代の女性は私が見た限りいなかった。

 講師は中田整一氏。元NHKの職員でプロデューサーとして二、二六事件に関連する番組を制作したがある。レジュメには氏の善行雑学大学での過去の講演実績が記載されており、約10年前から複数回講演されている。テーマは二、二六事件についてが約10年前に一回、その他は別のテーマであった。
 さて開始前に会場の様子をスマホカメラで写真撮影している「おっさん」がいた。が、講演会の会場なので特に私は場内の撮影はしていない。
 中田氏が登場して講演を開始する。講演会の場合は「登壇」という言葉を使うかも知れない。しかし、檀上の演台ではない。市民センターの体育館のフロアなのでフラット。学校の体育館ならば、舞台が必ずあるので、檀上の講演者はよく見えるのだが、平らなので演壇付近は見えない。
 普通の会議机にパイプイスに座り、講演は開始される。うしろの席の人は、講演中の中田氏の姿は見えなかったかも。
 善行雑学大学は講演者(講師)と受講者(生徒)が対等な立場という意味もあるだろう。

 冒頭「二、二六事件は、私の昭和史の原点だった。」と講演が始まった。
 「今年は事件からちょうど80年前。今日からあと×日後の2月26日のことでした。・・・・・」
 「日本で一番、(二、二六)事件の当事者に会ったのはこの私と作家の澤地久枝さんと自負している。・・・・・。」
 とのお話だった。
 

 ↓ NHKの敷地の南端と道路を挟んで渋谷駅側の渋谷区役所などの建物(写真の左)。
  2016年1月撮影。(スタジオパークに行ったときに撮影)

 講演の中で話が中田氏からあったし、レジュメ内の資料でも言及されていたのだが、実は写真左の建物のあるところは戦前は陸軍の刑務所の敷地であり、事件の首謀者達の死刑が執行された場所なのだった。
 撮影したのは講演会の前の月のことだった。このとき、私は中田氏の講演会のことは知らなかった。
 2月に入ってから、たまたま広報誌で開催を知った次第だ。

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 確かに「二、二六事件」の関係者の慰霊像がこの建物の先の一角にある。以前、私も慰霊像の前を通ったことも何回かある。(写真は無い。)

 この講演会の数日後、今年の2月26日のNHKニュースでは慰霊碑の前で「26日は、事件から80年に当たり・・・・朝、慰霊を行った・・・・」と映像入りで放映していた。私がたまたま見たのは朝の出勤前に見たニュースか昼のランチタイムのときに見たニュースであったかも知れない。
 NHKの取材班は、自社(つまりNHK放送センター)から道路を挟んで反対側にある慰霊像の前での取材なので、NHKの取材クルーにとっては極めて取材場所が近かったことになる。
 当日は新聞でも二、二六事件の関係者の子孫の紹介記事があったし、文芸春秋にも(渡辺大将の娘で襲撃の場所に居合わせた)渡辺さん(シスター)のインタヴュー記事が掲載されていた。

「春の京都 禅寺 一斉拝観」 スタンプラリー 記念品

 平成28年の4月から5月にかけて実施された「春の京都 禅寺 一斉拝観」。
 同時にスタンプラリーも開催されました。
 スタンプラリーの台紙を拝観場所などでゲット、8個以内のスタンプを集めて応募すると、抽せんで記念品が当たるという企画であった。
 おさらいすると、スタンプの数に応じた応募コースは
 ア、 3個
 イ、 5個
 ウ、 8個
 の三コースだった。
 私は、一日のみ京都を訪れて「春の京都 禅寺 一斉拝観」スタンプラリーに参加しただけであった。よって「五か所」のスタンプしかゲットできずに「5個コース」への応募となった。
 時間が無くタイムアップとなった原因は「京都迎賓館」の試験公開(の整理券入手の行列)に並んだためであるのだが・・・・(苦笑)。

  以前、このスタンプラリーの記事で「期限ギリギリの5月中の消印にて応募する。」と書いたが、少し余裕をもって、5月の下旬には切手を貼ってハガキを出した。すると奏功したのか、7月のある日突然「禅文化研究所」から深緑色の厚紙の封筒が届いた。
 封筒の中には「相国寺 御朱印帳」では無かったが、「栄西」に関する書籍が入っていた
 当選していたのだ。改めて、保管しておいた(スタンプラリー)のパンフレットを見て(確認して)みると、書籍の「当選者は20名」とあった。書籍の提供は建仁寺である。
 「ギリギリ」ではなく、締め切り前だが少し余裕を持って出すと抽せんで当選するらしい!?。
   
↓ 書籍と当選案内の文章

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 同封されていた案内文によると、今年の秋には東京国立博物館では「禅」が開催されるとある。更に10月の下旬には、鎌倉の建長寺、円覚寺で座禅体験などの行事が開催されるそうだ。
 鎌倉ならば、近い。すぐに行くことも可能だ。しかし、私が神奈川在住だから鎌倉での行事案内をしてくれたのかも!?。
 「春」の次は「秋」や!!、ということで、「秋の京都 禅寺 一斉拝観」はあるのか??、と思ったが、案内文によると無いようだ。秋の京都は、春以上に観光客が来るので、特別な拝観、公開企画を開催する必要が無いのかも!?。 

 今回のスタンプラリーの開催は京都市観光協会などの主催。つまり、当選者20名のうちで神奈川某市在住だと、応募ハガキに書いてあるので、私の氏名、年齢、住所はバレバレだ(笑)。協会の方々、どうか私の住所、氏名、年齢は秘密厳守でお願いします。
 京都市観光協会のウェブサイトを見ると、今回の応募者総数は三コース合計で1900人くらい。そのうち無効の応募が80通以上もあったそうだ。押したスタンプ数が足りなかったのか応募に関する必要事項(氏名、連絡先など)が書いていなかったのか?。せっかく応募したのに勿体無いな・・・・。
 


 

知床岬遊覧船 乗船記1 (出航~沿岸航行)

 2015年9月22日の火曜日、北海道旅行3日目。
 知床岬遊覧船 乗船記1 (出航~沿岸航行)

  10時に「知床岬観光船 オーロラ」は出航した。ほぼ、時間通りに出航したようだ。席の確保のことで、出航を落ち着いて迎える余裕が無かった(笑)。
 さて、先の記事にも書いたが、一階の右舷側を向いた席に移動。この席の前は、通路なのだが。席のイスは通路よりも、高い位置に設置されているので、人が通路を通行していても、通路を越えてガラス窓の外の風景を見ることができる。窓側の席の人を見下ろすかのような感じになる。こちらに移動して「本拠地」を移した。あと、4時間も乗船するのであるから、座席の確保はベリーインポータント(笑)。つまり、重要ってコト。

 10時に出航し、落ち着いたところで、船尾のデッキに出る。と、もう一隻、緑の船がウトロの港に入ってきた。先に出て、戻ってきた「硫黄山コース」の遊覧船であろう。
 船の横のデッキは、人でいっぱいだ。ただし、二階と三階の後方船尾のデッキは人がいない。特に、右舷のデッキは人でいっぱい。進行方向右が、半島の様子が見えるためだ。

 ウトロの港から遠ざかる。

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 船尾の日章旗。堤防の外に出て、どんどん速力が上がる。港近くの大型ホテルが見える。この日は、満室で段混雑でしょう。

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 さて、デッキに出たり、後方デッキの屋外階段を昇り降りしたり、船室に出入りしていると、船は三層構造になっていることがわかった。先程は、二階から乗船した。船の一階は室内席が一番多い。二階は、(乗船口に近い)前方が特別室。後方には売店とがあり、両舷に席がある。後方デッキには二階と三階をつなぐ階段がある。後方デッキで景色を見る場合は、水面に近い一階後方デッキ、二階後方デッキ、三階後方デッキと陣取ればよい。よって、後方の景色は見物しやすい。 

 船の定員は席で280名、立ち席で119名の合計390人。470トンくらいの船だ。後方のデッキに白い服の船員さんがひとりいる。乗客の安全を確認する監視役だろう。売店に二人の船員がいる。客室には、後方デッキにいる一人と合計、三人で担当というところだろう。
 本日の海面は「なぎ」である。揺れはない。静かな水面だ。私は、最初は後方のデッキで景色を見ることにする。


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 ↓ ウトロ港の外洋。オホーツク海。これほど、穏やかな表情を見せるとは思わなかった。

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 左舷の後方から前方を撮影。ウトロの港の郊外の岩が見える。


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 ウトロに続く、陸地の様子。先ほど、知床五湖への往復で道路を通行した。国民宿舎の「桂田」の建物が見える。

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 ↓ 国民宿舎の拡大。


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 国民宿舎を過ぎ、どんどん沿岸を航行する。


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 ↓ 先ほど通行した、ウトロから知床五湖や知床峠に向かう国道の橋。
   ここから、山の中腹の道となっている。

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 ↓ ウトロ湾? の端の岬にある岩のそばを通過。最初のハイライトのヴューポイントかな。

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 道路の遠景。

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 三階の後方のデッキと船の煙突。
 デッキは眺めがよい。しかし、この日は暑いくらいなので、直射日光がきつい。ずっと、ここに陣取るのはかなりの体力を消耗する。長袖シャツを私は着ているが、暑い。半袖でちょうどよい。
 

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 この日の航行に備え、昨日の夜、斜里郊外の100円ショップでレインコートを買ったが、必要なかった。レインコートは防寒、海の上の冷たい風を防ぐためでもあっが「杞憂」に終わった。
 冷たい風雨なぞ、どこ吹く風、といった感じの快晴だ。が、山の上には雲がずっとかかっている。

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 だいぶ、ウトロを離れた。

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 ウトロの先にある滝で、船は一旦陸地に近づく。ここで、カメラを構えて乗客は盛んに撮影する。出航したばかりで皆気合いが入っている(笑)。ただし、三階後方のデツキの両舷は狭いし、人もいっぱいなので見にくい。 一階のデッキ後方は比較的、二階後方デッキとともに人がいない。
 三階デッキは煙突があるので、やや石油のにおいがする。さほど煙はでないが。羅臼岳は相変わらず雲で頂上が隠れている。右舷に人がでているので、船は右に傾いている・・・。









知床岬遊覧船 乗船~出航

 2015年9月22日の火曜日、北海道旅行3日目。

  10時に「知床岬遊覧船」が出航する。、「オーロラ」に乗船だ。
 車を停め、その足で岸壁に停泊している「オーロラ」に乗船する。観光バスの人はすでに乗船している。私達のあとからも、続々と乗船して来る。定員は400人くらいなので、大挙して乗船だ。

↓ 港に停泊している「オーロラ」。 二階が操舵室で、三階は、特別室であった。窓が大きい。

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 港の堤防内の様子。クルーザーが帰って来た。後方のデッキの上に、人がライフジャケットを着用して乗っている。船首にも人が。ライフジャケットを着用している。航行中の移動は大変かも。

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↓ 車を停めた場所の近くから、停泊している「オーロラ」

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↓ 岩場を削って、コンクリで固めた埠頭を歩いて乗船。階段を昇り、二階から船内へ。
客を降ろした大型バスが何台も停まっている。「硫黄山コース」などから帰って来るのを待っているのだ。

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 席を確保せん、と後方のデッキに出るが、人がいっぱいだ。二階と三階の後方船尾のデッキは人がいないが座るところが無い。どこに座ればよいのか。これから、往復4時間の航路なのに。
 後方のデッキの「右舷」は人でいっぱいだ。知床岬までは、進行方向右に半島を見ながら進むので、右舷に人が集まっている。

↓ 後方のデッキに出ていると、別の船が港に戻ってきた。
もう一隻は、緑の色の船だ。「オーロラ」と姉妹船の「オーロラⅡ」。先にウトロ港出て戻ってきた「硫黄山コース」の船であろう。「硫黄山コース」は、一時間くらいなので、便数が多い。

DSC04445

 出発15分前には乗り込みした。本日の航海は、定員いっぱい満員と思ったので、早めに行ったつもり。でも、出航15分前の乗り込みでは遅い・・・・。二階部分から乗り込み。だが、まだ船の構造を把握していないので、どこに行ってよいのやら・・・・。
 二階乗船口のすぐ船首側にある「特別室」は先着順で、その場で料金を支払うのだが、すでに満席になっていた。
 席を探す。三階の外デッキに出ると人でいっぱい。ベンチはすでに人で占拠されている。この晴天の下、ずっとここにいるのだろうか?。席を確保したはよいが、それも辛い。この天気だと、「天日干し」になってしまう可能性も・・・・。
 船の側面の柵まで人が立っている。デッキの柵で立ち見も不可だ。ここデッキでは席か場所の確保は、無理だなと思い、船室内へ。二階の船室もほぼいっぱい。更に、下のデッキに下りて、一階後方に席を取ることかできた。左舷後方だ。
 行きは右舷が景色を見えるので行きは反対側の通路に行かないといけない。下の子と座席を確保。荷物を置く。次々に人がやってきている
 席がないか、探す。座席は四人掛けくらいのシートだが、一人で座っている場合もある。「空いているか?」と
既に座っている人に聞く乗船客もいるが、一人で座席を確保している人は冷たく「空いていない。」とお返事。
 と、ツレから携帯メールが来て、一階の前方に席が取れれたという。席を移動する。一階の右舷、前方、窓の外を向いた席を確保していた。席は、内側にあり、関の前は通路だが、席は、窓側の席わりも、高く設置されているので、通路ごしにガラス窓の外の風景を見ることができる。更に、窓側の席の人を見下ろすかのような感じだ。

 デッキから見た、堤防の向こう側、つまり外洋の世界。
  堤防の高さとデッキの高さがほぼ同じ。

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↓ 左舷後方、一階のソファ席を確保した。この付近は、デッキと異なりまだ人が少ない。
あとから、続々と人がやって来たが・・・。おばあさんを含むご一行様もこの付近のお座席を確保されていました。

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 ↓ 左舷後方、一階のソファ席。
 窓の外からは駐車場が見える。席を取るのも、ひとりが席をキープして残りのツレはどこかに行って、景色などを見ているのだ。一見、空席と思っても、席は空いていない。「商業施設のフードコート」の席取り競争に似ている(笑)。先の人の冷たい言葉にもあるように、今船内にあるのは「速いモン勝ち」の論理だ。「ここは、ワイらの席や、あとは知らんで、あっちイケの世界。」というのは、言い過ぎかな・・・(笑)。

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世界遺産 知床国立公園  (知床五湖フィールドハウス~ウトロに戻る、知床岬遊覧船乗船手続き)

 2015年9月22日の火曜日、北海道旅行3日目。知床五湖 (高架木道)~ウトロへ戻る。

 知床五湖の展望台から、雄大な景色を見て、急ぎ足で木道を駐車場に戻る。
 10時に「知床岬遊覧船」が出航するので、乗船するためだ。乗船手続きは30分前にはする必要がある。9時半前には、ウトロ港に戻る必要がある。すると、最低でも9時10分には知床五湖を「出発」しないといけない。

 ↓ 木道をフィールドハウスへ。森の中にフィールドハウスの隣の「センター」の屋根が見える。
 終点はあそこだ。

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 高架木道は曲がりくねっていて長い。木道の、下には電流が流れている。木道は、まだ新しい。しかしその維持は大変そう。
 今までは、盛んに写真を撮っていたのに、時間がなくなってきたので景色には目もくれず、ほとんど立ち止まらずに早足で歩く。最後は早足に。駐車場に戻ったのは、出発予定最終時刻の「0910」を過ぎていた・・・。
 「フィールドハウス」で約15分間のレクチャーを受けて出発したのが、8時25分頃。「小ループ」を含む高架木道を含めた標準散策時間は「40分」だった。しかし、ゆっくり景色を見たので、40分では無理だった・・・・。

 車に乗って、すぐに出発する。駐車場のゲートを通過して出る。駐車場は満車。入口ゲートで、車が待っているのがわかる。(とうか、見えた・・・。) 
 ゲートを出て私達はウトロ方向へ元来た道を戻る。ゲートからやや下りの道であるが、駐車場に向かう道には、車が「ずらーーーーーっ」と並んでいる。だいたいだか、乗用車が60台くらい並んでいたような。バスは予約制なので、待つ必要は無いようだが・・・、このときバスは見なかった・・・。
 車一台が前後の間隔をふくめて10メートルと仮定すると約600メートルの渋滞。車列の末尾には、警備員がついて説明をしている。一時間待っても入庫できないのでは無いか・・・・?。分からないが・・・・・・・。
説明する警備員、「最後尾」などのプラカードは持っていない。都市部のショッピングセンターの入庫待ち車ではないですからね。秘境、世界遺産の知床で駐車場待ちの大渋滞とは・・・、皮肉だ・・・・(絶句)。

 ↓ (既出) 知床五湖 フィールドハウスの駐車場の様子。
 場内は一方通行。出入り口のゲートは下の写真には、写っていないが、写真でいうと左奥にある。

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↓ 知床五湖 フィールドハウス駐車場近くの撮影ポイント。
海側の方向。近くに、高架木道の通路の出入り口がある。

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 さて、道路を走るが、前を走る車が、キャンプカーで遅い・・・・。センターラインは白い・・・。しかし、対向車は(知床五湖の駐車場に向かって)どんどんとやって来るので、追い越しはできない・・・。
 でも、対向車は皆、渋滞にはまる運命なのですけどね(苦笑)。
 岩尾別の峡谷を過ぎ、「知床自然センター」まで来た。ここは、知床五湖と知床峠、羅臼方面への道との分岐点。キャンプカーは、(左折して)知床峠方向にまがるかと思いきや、まさかのウトロ方面へ・・・。ウトロまでの道をずっとあとをついていった・・・。
 「知床自然センター」の駐車場も車でいっぱい。どれだけの人が来ているのだろうか。
 
 やがて、ウトロのセブンイレブンの前まで来た。ここが信号で、右折するとウトロ港。交差点信号の手前には、すっかりおなじみ「セイコーマート」があり、少し寄って、船内で食べる昼の軽食を買おうかと思ったが、時間が無いのでやめた。
交差点でそのキャンプカー車は、直進。私達は港へ右折した。やっとお別れできました・・・・。
 遊覧船の営業所の前でツレをおろし、受付に行ってもらう。道端に車を停めて、車の中で待つ。その間にも車がやってきて、次々に受付をする。
 路駐で北の港の周囲の道はプチ混雑となった。

 ↓ 待っている間に撮影。ウトロの港の様子。

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 ウトロ港のそばの小さい道路は、世界遺産の街の観光ラッシュである。
 乗船する「オーロラ」はすでに二か月前に予約していた。夏の間、「オーロラ」のウェブサイトではずっと「空きあり」にマルであったが、昨日のホテルのロビーでの表示では「満席」とのこと。
 営業所の建物の中には小さい待合室もあり、座って待っている人がいる。

 と、(待っている間)前方を見ると、道の先には、岩をくりぬいたトンネルがあり、その先がオーロラの乗り場と車の駐車場になっているのが見えた。しかし、トンネルの入口、駐車場の手前には「満車」とプラカードを持っているおじさんがいて、トンネル手前の横の空き地のようなところに車を次々に誘導している。
 トンネルの先は、有料の駐車場になっている。
 「オーロラ」の乗客の車は、トンネルの先のP(有料駐車場)に停めることができるようだが、おじさんの誘導が右へ右へと棒を振っているようで実に適当(テキトー)・・・・。
 オレンジ色の誘導棒を左右に振っているので、トンネル奥には行ってはいけないような気分になってしまった。

↓ 待っている間に撮影。ウトロの港の様子。

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↓ 待っている間に撮影。ウトロの港の様子。
視線の先のトンネルと警備誘導の人。向かって左には、空地があり、盛んに車を誘導していた。
どの船に乗船をする人の車を誘導していたのかは、今を持って謎だ(笑)。
写真、右には「オーロラ」が停泊している。

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 ツレが予約番号を告げ、料金を支払い、乗船手続きをしてきた。車を移動させ、駐車場に無料で停めることが出来るそうだ。

 オレンジ色の誘導棒を左右に振っているので、「トンネル奥には行ってはいけない。」ような気分になってしまった。間違って、魚港の岸壁広場に入ってしまった。ここでも駐車できるだろうが、警備の人が入口に立っている。
ターンして、再度道路に戻り、「オーロラ」の乗船券を見せて、トンネルを通過。やっと通してもらえたョ(苦笑)。
 と、私達の後ろから(受付に)来た車の方が先に、トンネルの先のPに入って行ってしまったョ・・・・。「先を越された。(苦笑)」
 その(先行した)車のうしろに、私達も車を停める。その足で岸壁に停泊している「オーロラ」に乗船する。

 ↓ 駐車場の様子。写真の左横の所に小さくてほとんど見えないが、「オーロラ」の営業所がある。
 他の船の乗船受付所もある。さながら「遊覧船営業所銀座」だ(笑)。

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↓ 別の角度から。港のそばに大ホテルがある。
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知床五湖 散策5 (高架木道と知床連山の眺望)

 2015年9月22日の火曜日、北海道旅行3日目。知床五湖 散策5 (高架木道)


 二湖を見た後、一湖のほとりに出た。そして、高架木道の上にやってきた。散策路から、木道への入口は、鉄の扉になっている。クマの侵入を防ぐため、堅牢な造りであることが分かる。なんと、木道の下には電線を張っていた。電流を流して、クマ対策を何重にも施している。

 高架木道の終点は、眺望ポイント(展望台)になっている。見通しがきく。団体さんは、ここまでの行動のようだ。設置してある「知床五湖」の標識は、団体さんの恰好の写真撮影ポイント。標識横は、なかなか空(あ)かない。撮影は順番だ。

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↓ 高架木道が起伏のある丘をアップダウンして通っている。
 木道は、混雑時に備え、二段になっている。下の写真は、上段から撮影した。
 展望台付近は中国人も多い。業界団体や組合の旅行であろう、おじいさん、おっさんの集団も。連休を利用しての慰安旅行か。

 この付近は、かつて開拓地だったのだ。草原になっているのは、自然のためではなく、人工的に切り開かれたためと知った。何も眺望を得るために開拓したのではない。生活のための開墾だったのだ。
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 一湖のほとり。↓

 先に設置されていた看板で知ったのだが、ここはかつての「岩尾別」の開拓地。一湖は、貴重な生活、酪農、自作作物のための耕作に必要な水源池だったのだろう。
 森を切り開いたのは、酪農のためだった。当時は、国立公園に指定はされてなくて、自然保護は考えは無かったはず。産業の新興、経済発展が優先だったのだろう。しかし、開拓地に入った人々は、自分の生活を維持するのみで精一杯で、そんな理念は毛頭考えていなかっただろう。「昭和40年頃までには酪農で入った家族」はすべて離農したのも、厳しい自然環境であったためなのだ。
 昭和40年代といえば、高度経済成長の時代。都市化、グローバル化(当時は国際化といったかも・・・?)の進展に伴い、昔ながらの酪農経営では立ち行かなくなったのであろうか。
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 かつての放牧地が離農後、放置され、現在見るような草原となっている。
 知床の自然と一体化して、素晴らしい眺望を生み出しているように見える。しかし、結果論であり、風雪厳しい北の土地、一旦森を切り開いてしまうと、元の植生には、戻らないのだからであろうか。

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開拓家族が切り開いた土地。オホーツクの海の断崖まで続いている。
「開拓家族の夢の跡」か・・・・。

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 高架木道終点の眺望ポイント(つまり、展望台)の様子。上段の展望台もあり、混雑時でも後方から絶景を見ることが出来ます(笑)。標識の横で、一湖と知床連山をバックに団体さんが記念撮影だ。
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 さあ、時間が無くなってきた。木道を歩いて、駐車場に向かうとする。
「チョコン」とした山頂の山が本当によく目立つ。地図で調べてみたが、山の名前は忘れてしまった・・・。
どうやら「音根別岳」らしい。半島のより付け根に近い所には「海別岳」もあるが、距離からすると「音根別岳」だ。

 ↓ 知床五湖 高架木道ごしに「音根別岳」のちょこんとした峰(ピーク)を望む。

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 一湖の方向を振り返る。眺望ポイントと一湖。
 木道の傍らに一本の木がたっている。開拓当時、切り倒さなかった木だ。かつては、木のそばに開拓家族の家があったのかも知れない。家の目印にするため、木は伐らずに残したのだろうか?、というは全くの推測だ。

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先程は、雲に覆われていた羅臼岳の山頂がわずかに見えた。
まーるい、お椀を逆さにしたようなドーム型の山頂だ。
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↓ 木道の手すりにあった「オホーツク海」の説明看板。

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↓ ウトロ方向のオホーツクの海。
写真には写っていないが、
沿岸部を航行しているクルーザーなどの遊覧船を海上に見ることができます。

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↓ もう一度、去り際オホーツクの海。このあとは、

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一湖の拡大。早足で木道を歩く。駐車場へ向かう。
毎度ながら「時間が、次の予定が・・・・・」(笑)。

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山の拡大。恐らく、「硫黄山」があるはずなのだが、雲に覆われている。見えない・・・。

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更に一湖から遠ざかる。

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 木道途中の「展望ポイント」。↓
 こちらにも「知床世界自然遺産 知床五湖」の標識板がある。ここでは、どの団体さんも記念撮影していなかったので、すんなり撮影できた(笑)。


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 展望台とは反対の海側を撮影した。
穏やかなオホーツク海。海に落ち込む岩場というか、断崖が切れている所は、先程通過してきた岩尾別川や河口付近であろう。かつて、この付近の集落も含めて地名は「岩尾別」といったようだ。

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知床五湖 散策4 (一湖~高架木道)

 2015年9月22日の火曜日、北海道旅行3日目。知床五湖 散策4 (一湖~高架木道)

 フィールドハウスを出て、約40分の散策コース「小ループ」を歩く。二湖を見た後、一湖のほとりに出た。
 林がなくなり、草原や灌木が広がる。見通しのよい野原に「高架木道」があるのが見えた。「あれが高架木道」た、と指さした。

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 一湖のほとりから。半島のつけ根の方向の山々。池の水面に山々の姿が反射している。 羅臼岳は相変わらず雲に覆われている。時間が経過するにつれ、雲の量が増えてきた。
水面には雲に覆われた羅臼岳が見事に映っている。
 ↓ 映る羅臼岳。美しい。神々しい。「逆さ羅臼岳」、「逆さ知床富士」というべきか。

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知床連山も山容が険しくない。どこかなだらかな広いワイドな感じ。
北海道の山に共通しているが、旭岳も同様。山の上はなだらかな峰。準平原というのだろうか。
石北峠の山も稜線が広い、標高は高くないし、険しくない。
氷河地形の名残かもしれない。山頂部が削られてなだらかになっているのかも。

↓ 山の拡大。氷河で山頂を削り取られたかのようだ。
ガクンと、鳥のくちばしのように山頂部が尖っている。

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↓ 雲が増えてきた。

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 説明には、岩尾別の開拓地が、あり、一湖の手前、高架木道付近は樹木がないとのこと。岩尾別開拓地の説明看板があった。
 昭和40年頃までには酪農で入った家族は離農したそう。

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一湖のほとり。ここで最初に一湖に出会い、そして高架木道に歩みを進める。

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 起伏のある森の中の道を通る。
 クマの気配は無い。クマの目撃情報は、人間の立ち入りが禁止されているエリアに近い、奥の区域、つまり、四湖、五湖、三湖付近であった。


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林を吹けると急に視界が開けた。眼前に高架木道が現れた。高床式の木組みの木道の構造がわかる。

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木道の手前の丘から、オホーツクの海が見えた。「湖の近く」ではあるが、ここは海のそばの断崖の上であるのだ。

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オホーツクの海、本日は大変穏やか。空と海の境界線の区別があまり無い。
マリンブルーとスカイブルーが同化している。
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 知床な火山から流れ出た溶岩が固まり。湧き水がたまり、湿地や五湖となったのだろう。
すぐ脇は断崖で海に落ち込む。
 なんとなく、伊豆高原に似ています。「高原」とはいっても標高はあまり高くないのだ。伊豆は・・・。しかし、伊豆は明らかな溶岩でかなり新しい地層。なぜって、黒い溶岩がごつごつしていて、海までせり出しているので。ここ知床は、木がかなり植えているし、伊豆ほどは溶岩がむき出しになってはいないので、同じ溶岩台地とはいえ、更に古い地質ではないか。

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 高架木道まできた。鉄の柵と扉を引いて木道の階段をのぼる。扉を「引く」のは、熊が入らないようにするためだろう。階段の上でも鉄柵の扉。高架木道から遊歩道に降りて、二湖を目指すことはできない。
 「逆戻り」は禁止。つまり、レクチャーを聞かないで、高架木道のみを歩いて来た人は、ここで終点で同じ高架木道を引き返して、駐車場まで戻る必要がある。

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 階段を昇り、木道の上へ。入口は鉄の回転扉になっている。頑丈だ。クマの侵入を防ぐため、堅牢な造りであることが分かる。いざというときは、避難場所となるし。
 高架木道は曲がりくねっていて長い。なんと、木道の下には電線を張り、電流が流れている。クマ対策が何重にも施されている。
 木道は、まだ新しい。しかし、木製であり、木材に塗料を施してはあるが、北の厳しい気候の土地のこと。腐食してしまうだろうし、しかもその速度は早いだろう。維持が大変そうだ。
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知床五湖 散策3 (二湖~一湖 小ループ)

 2015年9月22日の火曜日、北海道旅行3日目。知床五湖 散策3 (二湖~一湖)

 フィールドハウスを出て、約40分の散策コース「小ループ」を歩く。二湖のほとりに出た。

 ↓ 二湖のほとりにやってきた。「知床五湖」とご対面だ。
   フィールドハウスからここまで10分くらいであった。
  
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 山の上には、雲がかかっていて、見通しはよく無いが、雄大な風景だ。

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 二湖とその奥の知床連山。

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↓ 二湖の拡大。 鏡のように映り込む、緑の山々に注目だ。

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↓ 二湖の拡大。 周囲の林も水面に映っている。

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 ↓ 二湖の拡大。 
   次に、散策路を戻り、先程の分岐点に出て「小ループ」を歩いて一湖に向かう。

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 一湖へ向かう途中の道。林の中の様子。


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 と、倒木の上というか、切り株の上に木が生えているのが、見えた。

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 林の中の道を歩くと、やがて急に視界が開ける場所に出た。「一湖」だ。先の二湖からは、歩いて5分くらいだった。林がなくなり、草原や灌木が広がる。見通しのよい野原に「高架木道」があるのが見えた。「あれが高架木道」た、と指さした。

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 一湖のほとりから。半島のつけ根の方向の山々。池の水面に山々の姿が反射している。

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 羅臼岳は相変わらず雲に覆われている。時間が経過するにつれ、雲の量が増えてきた。
水面には雲に覆われた羅臼岳が見事に映っている。
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 ↓ 映る羅臼岳。美しい。神々しい。「逆さ羅臼岳」、「逆さ知床富士」というべきか。

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 ↓ もう一度、羅臼岳と知床連山が一個の水面に映る様子。
   ここでも、何回も撮影してしまった。

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 一湖のほとりの展望ポイント。二湖の方向を見る。
 パッと写真だけ見ると、一湖か二湖か区別はつきにくい。

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