良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2016年11月

 

博物館「明治村」  清水医院 外観と見学

 2015年12月6日 博物館「明治村」の続き。

 重要文化財 東山梨郡役所を見た後、坂を少し下る。明治村のメインストリートである。道の両側には、移築建築物が並んでいる。明治村の風景として写真でしばしば紹介される。

 「東山梨郡役所」からやや下ったところ、「斜め前」の位置に小さい建物がある。「清水医院」である。
 白壁に細長い、上が丸くなっている窓が目立つ。

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 ↓ 清水医院の説明

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 医院の建物は「木曽」にあった。「木曽郡大桑村」にかつてあった。島崎藤村の妹も入院していたことがあるそうだ。歴史的人物の親族とも関係のある明治時代の建物でもあった。

 正面の玄関のようなアーチを入ると土間になっている。ここから、診察室に入る、というか、履物を脱いで上がる。畳式の和室は待合室のようだ。その奥に、診察室がある。
 畳の部屋やかつての診察室の上がることは出来なかったと思う。土間から部屋を見たのみで次へ移動した。。二階にも行く階段があるが、実際に昇ることは出来なかった。
 二階が入院用の病床であったか、または別棟があったのかは、分からない。
 
 ↓ 手前の待合室と思われる部屋を含め、内部は日本家屋そのままだ。
   外から見ると窓の上部のアーチがわかるが、内部からは分からない。
   ごく普通の日本家屋のガラスの木戸である。

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 少しばかり写真に写っているが、建物左の土間には、人物の写真バネルがある。島崎藤村だったと記憶する。
 木曽出身の文学者だ。現在は、岐阜県に編入されている地域もあるが、大桑村は、藤村の馬篭、妻籠よりも北にあるので、現在も長野県に属している。中山道沿い、木曽川流域の山間地域を一括して「木曽」というのであろう。藤村 の「夜明け前」 の有名な冒頭「木曽路はすべて山の中である。」





重要文化財 旧山梨県東山梨郡役所 外観と見学

 2015年12月6日 博物館「明治村」 遅ればせながら、見学記の続きです。

 重要文化財 旧東 山梨郡役所 外観と見学


  「旧三重県庁舎」から見る。その後、坂道を下る。「大通り」に出た。移築建築物が並んでいる通りである。明治村の風景として写真でよく紹介される一番有名なポイントではないか。
 その大通りの突き当り、ゆるい坂道の上には、山を背にして疑洋風建築の「東山梨郡役所」がある。
 先に見た「旧三重県庁」とならんで、一番明治村では有名な移築建物ではないか。

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 やや「コ」の字形になっている瓦屋根の「疑洋風建築」だ。
 正面の玄関から入る。二階にも階段を昇り、見学ができる。テラスというか、正面のパルコニー通路にも出ることが出来る。
 玄関から振り返り、大通りを見る。観音開きのドアの上も半円のアーチ。細かいところに、装飾がなされている。

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 ↓ 建物内部に掲示されていた重要文化財の指定書。
  役所にしてみては、小さい建物だ。移築に際して、切り取りされた部分もあるのかな?と思ったが、指定書を見る限りでは分からない。
 郡は、現在ではほとんど名前のみで、独自に役所を置いている訳ではない。町や村に役場があるし・・・。よって、設置当初はたくさんの小さい村を統括していた「郡役所」の仕事もだんだんと無くなっていった??。

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 入口のドアは開け放たれており、やはり冷たい風が室内入って来る。内部の部屋が展示室になっていた。
 明治維新の時代に活躍した人物の解説、写真の展示があった。
 

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 東翼(正面に向かって右)の一階。執務室があった。「郡長」ではなく明治村「村長」の執務室だ(笑)。
 立派な執務机に「明治村 村長」の標識がある。
 村長の等身大?のパネルもあった。向かって、左の壁には、歴代の村長の写真の掲示があった。
 村長さんがパレードしている様子の写真も。

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 展示によると「村長」は有名人、文化人が就任している。実質は、名誉職だ。ここで執務する訳では無い(笑)。
 「村長」に対して「館長」の役職もある。館長は学識経験者が就任している。実質的に明治村の責任者のようだ。
 歴代館長に関野克氏の名前もあった。昔、読んだ本には戦時中、松代大本営の建設にかかわっていたことについて、氏のインタビューが掲載されていた。当時、東京帝国大学助教授。戦前から戦後の時代の著名な建築学者である。
 (NHK出版 「歴史への招待」の「松代大本営建設」の章だった。昭和50年代の出版と古い本だったが、印象に残っている。)  

 一階の部屋。 明治時代の書物が展示されていた。「学問のススメ」「西洋事情」など福沢諭吉の著書。
          

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 階段を昇る。階段は狭い。階段は途中、直角に曲がっている。二階には、写真コンクールの作品展示があった。
 ↓ 手前の部屋は、玄関の真上のテラスのような部屋。
  テラスに出ることは禁止だった。よって、テラスから外を撮影した写真は無い。

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 二階の写真コンクールの作品展示の様子。
 壁は保護のためか、内側にパーテーションのような壁をもう一枚増設している。

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 ↓ 実は 後からの郡役所。
  正面からの写真はあまりに有名である。うしろにも出ることが出来たので、撮影してみた。
 背後は丘になっていいる。一段高い所に道路が通っている。道路の地下道をくぐり、団体用の食堂がある。
 この郡役所を見て、そのまま地下道を通り、食堂へ向かう一団もいた。これから、食事のようだ。
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 横から。現在の位置でいうと、北から。左右両翼は一階建てになっている。
 つまり、この出っ張り部分の内部は明治村「村長」の執務室です(笑)。
 角の石組と瓦の屋根の色がコントラストをなして、和洋折衷感を出している。


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ふるさと寄附金 お礼の品 「こしひかり」10kg 長野県立科町

平成28年 実りの秋を迎えました。 

 11月中旬のある日、長野県立科町からお礼の品が届きました。今年、初めて寄附をした町です。夏に「信州」に行きましたからね(笑)。
 
 「こしひかり」、立科町産のお米です。10kgです。10kg入りの袋が入った細長いダンボールが届きました。配達の方から「重いですよ。」と言われました(笑)。大変ですね。ありがとうございます。
 パッケージには町の「キャラクター」が描かれています。 りんごがお耳にある。「しいな」ちゃんというそうだ

 10月に届いた田野町のお米もほとんど無くなってしまいました・・・。ちょうどよい時期に届いてよかった、助かった


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 立科町は「蓼科」ではない。一般には「蓼科高原」「蓼科山」が有名だ。町域は蓼科山や蓼科湖の北半分も含まれている。それらの有名観光スポットが一番南にあり、北に向かって細長い形状。棒状でかなり変わった町の形だ。

 今年の夏には、諏訪湖畔(サンリツ服部美術館)、野辺山を経由して上田に行った。モチロン、今話題の「真田」のためです(笑)。途中、佐久から、北東方向に向かい、立科町を経由して一般道で上田市の千曲川南岸から上田市街に向かう予定であった。しかし、時間が無いので、佐久からパイパス道路、高速道路で上田に行ったので、立科町を経由することができませんでした・・・・。
 しかし、子供の頃に現在の立科町の町域には行ったことがある。蓼科山に登ったことがあるのだ。(モチロン、頂上まで!)
 よって、立科町は、私にとって子供の頃からおなじみです
 

平成28年ふるさと寄附金のお礼の品 「田野米」高知県田野町

 平成28年 実りの秋を迎えました。 
 ふるさと寄附金のお礼の品として10月下旬のとある日、高知県安芸郡田野町からお礼の品が届きました。昨年に続いての寄附です。
 「田野米」、田野町産のお米です。量としては、昨年と同様に寄附金1万円につき15kgです。比較的還元率の高い寄附金となっています。(勿論、何度も書いていますが、還元率で決める訳ではありませんが・・・・・・。)
 5kgの袋が3つ届きました。9月に申し込みをして、10月に届きました。新米です。 

 田野と(昨年寄附をした)奈半利は、共に安芸郡に属している町で両町役場の間はわずか数キロの距離。奈半利町は「ふるさと納税の高い還元率」で紹介されてから、ものすごく有名になりました。昨年もレポートしましたが、お礼品の発送が追いついていないようです・・・・・。奈半利町の担当者も忙しすきで仕事が回らず迷惑しているようなので、今年はやめておきます(笑)。

 当面、お米は買わずに済みそうです。

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 ↓ (昨年の写真)お米の入っていたダンボールに貼付されていたイラストのシール。
  芸術的な素晴らしい作品です。今年も同じシールが貼ってありました。
  「四国一小さい・・」とのコピーが今年も入っています。田野町は、面積が四国で一番小さい町なのだと思います。

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  今年の夏は、四国に行きましたが、高知県には行けませんでした。高知東部はまだ行ったことが無いため、来年には行ってみたいと思います。
 太平洋を望む田に、海風が吹いて、稲の緑が揺れている風景をこの目

 

「ダリ展」 国立新美術館 行列、混雑状況 (鑑賞せず)

 2016年秋 10月10日のこと。 時計の針を少し巻き戻す。

 国立新美術館で開催中の「ダリ展」。同じく開催中であった「アカデミア美術館展」を鑑賞したのだが、「ダリ展」には入場しませんでした・・・・。
 「ダリ展」は行列していました。ダリ展の会期は12月14日まで。

  今回の「ダリ展」は、展覧会の公式ウェブサイトによると主に三か所の美術館の所蔵品から出品されているようだ。フィゲラスのガラ=サルバドール・ダリ財団、マドリードにある国立ソフィァ王妃(Reina Sofia)芸術センター、サルバドール・ダリ美術館(アメリカ・フロリダ州)の三か所。
 フィゲラスのガラ=サルバドール・ダリ財団は、つまり「ダリ美術館」だ。私も以前訪れたことがある。
 国立ソフィァ王妃芸術センターは、AVEの起点、プエルタ・デ・アトーチャ(私が訪れた当時のAVE路線網はセビリアとの間の一路線のみ。)から徒歩で行ける距離にある。閉館時刻が遅いので、観光に出かけて(宿泊していた市内のホテルへの)帰途、夜間に訪問したことがあった。ソフィァ王妃芸術センターは、ピカソの「ゲルニカ」が一番有名な所蔵品であろう。
 サルバドール・ダリ美術館(アメリカ・フロリダ州)には行ったことが無い。

 更に国内にあるダリ作品も出品されている。 日本国内では諸橋近代美術館のダリ作品が充実しているようだ。福島県の裏磐梯にあるリゾート、観光地立地の美術館。裏磐梯は2009年に訪問して、休暇村に宿泊したことがある。あのときは、夕方の閉館時刻ギリギリで「磐梯山噴火記念館」を見学した。諸橋近代美術館は、その近くなのだが、閉館時間に近い時間帯だったので、見学しなかった・・・・。翌日は、朝食を食べた後、すぐに出発して猪苗代湖畔に近い「野口英世記念館」に向かったのであった。よって、見学する機会が無かった。

 私は現地の二か所でダリ作品を鑑賞したことがあるので、今回は割愛することにした。「現代美術」作家の作品は抽象的で難しいし、作品もどれが重要なのか判りにくい。ダリの代表作として一番有名なニューヨークの美術館にあるアノ作品(記憶の固執、記憶の残像、柔らかい時計などいくつか邦訳の題名はあるようだ。)は来ないし(来る筈もないし。)、フロリダ(の美術館)に行ったことは無いけど、今回はやめておきます(笑)。
 
  ↓ ダリ展の入口。
 

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↓ この日は日曜日であった。待ち時間は20分から30分だった。
いや~すごい人気ですね。
「アカデミア美術館展」の会場は2階であったので、向かう途中のエスカレータから撮影。

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↓ 199×年、私が訪問したときに撮影したフィゲラスのダリ美術館の外観。
  フィルム写真をスキャナーで読み込みしたもの。

2012年01月03日21時07分32秒


 当時の旅行記が残っている。当然、データではなく、当時の私がノートに書いたもの。現在まで、私の自宅に秘蔵されていた貴重??な旅行記だ!?。
 今回、少しばかりプログにアップして活字化してみる。モチロン、世界初公開です(笑)。
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( )内は管理者の注。
「×」は伏字。

199×年×月10日

(バルセロナ市内の宿泊先ホテルを出て、近くの地下駅の)カタルーニャ広場駅から(地下を通る当時のスペイン国鉄RENFEの)電車に乗り、サンツ駅へ。サンツ駅から9:10発のフィゲラス行き電車に乗る。(切符は)ユーレイル(パス)を使う(ので購入していない)。
(走行中、車掌が検札にやって来る。パスを見せた)検札の際、電車の進行方向を指して「Figueres?」と(一言)聞かれる。「Si」と私は答える。
 (中略)
10:55フィゲラス駅着。日本人も(同じ電車から)結構降りて来る。皆、ダリ美術館へ行くようだ。
静かな(カタルーニャ)地方の街である。ここがダリの故郷である。つい、×年前までダリが(この街)に住んでいたのだ。(駅から)美術館までは、10~15分程歩く。やがて、赤い壁(の上)に白い卵がいくつも乗っかった建物に着いた。(ダリ美術館のこと。)
 入館料は700pts(ペセタ。当時はユーロ導入前であった。当時のレートで100ptsは80円くらいだった。)
 (館内には)ダリの抽象画がいくつも展示されているが、説明の無いものが多い。(個々の作品に説明は、あまり無く、タイトルだけだった作品が多かったと記憶する。)
 (中略)
 (ダリは)だいだい1920年代以前は写実的な画を描いているが、1930年代以降は、例の「ダリらしい」画になっている。(展示作品には)戦後(第二次大戦後)の作品も多い。
 ベラスケスの「女官たち」(プラド美術館所蔵の歴史的有名作品)のマルガリータ王女をモチーフにした抽象画の作品が多数ある。ビカソにも類似の作品が多かった。(当時、私はパルセロナのビカソ美術館も訪問した。)(現代スペインの)二人の大画家がベラスケスの影響を大きく受けていることがこれではっきりした。スペイン人の画家にとって、ベラスケスは最高の特別な存在なのだろう。
 (中略)
 中年の女性をモデルにした作品も多いが、モデルは同一人物だ。それらの作品名には、ほとんど「Gala・・・」とある。「ガラ」はダリ夫人のようだ。
 (中略)
 12時半頃、すべて見終わり館外に出る。(ダリ美術館の前の)道路の反対側にレストランがあり、営業中である。たいていは(レストランは午後)1時からの営業なのに開店が早い。「二本フォーク」が入口のドア横に掲示してある。(店の)中に入ると、他に客が誰もいない。(二本フォークなので)高級店らしく、(テーブルには白い)テーブルクロスが(かけて)ある。
 メニューはカタルーニャ語とスペイン語で書いている。どちらもスペルにあまり違いはないが。
 (中略)
 (再び歩いてRENFEの駅に戻り)13:××分、電車でフィゲラス発。

 (以上、私の旅行記から。)
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 いや~、当時の私はガラがダリ夫人と知らなかったのですよ。 

 この記事を書くにあたり、日本語で書かれたダリ美術館への旅行記をいくつかネットで閲覧してみた。旅行者は、パルセロナからフィゲラスへ行くことが一般的なのであるが、現在ではパルセロナ、フィゲラス間に高速鉄道が開通している。元々あったRENFEのフィゲラス駅ではなく、高速鉄道の新線が建設され、新駅(正式名称は知らないが・・・)で開設されていた。新駅を経由してスペインとフランスを結ぶ高速鉄道も開通している。フランスのTGVもフィゲラスの新駅まで乗り入れしているらしい。

 私が旅行したときは、昼間にバルセロナからフランス南部に至る特急列車は(旅行記に私が記録していたところによると)バルセロナ・サンツ駅11:39発のペルピニャン行き、RENFE運行のTARGOが一日一本だけだった。    バルセロナから鉄道ではリヨンにすら直通では行けなかったのだ。時代は変わったものだ・・・・。

青森県のアンテナショップ 「北彩館」 訪問

 2016年11月5日 土曜日

  神楽坂を下り、外堀を越えて飯田橋の駅に。「そうだ、青森のアンテナショップがあったな。」と気付く。急遽、青森のアンテナ店へ向かう。お店は駅前の交番の更に先、交差点を渡った所にあった。

 飯田橋付近には学校が多い。近くの歯科大では、入試があったよう。校舎の入口に告知があった。制服姿の女の子と母親を多く見る。歯科大か近隣の別の大学の推薦入試かな?。別の高校生の一団もいる。あの有名な白百合学園の制服を着た子やブレザーの制服を着た子も歩いている。近くのある大学では学園祭が開催中のようだ。学生らしき若い人が盛んに行き来している。

 青森県のアンテナショップ「あおもり 北彩館」(ほくさいかん)はオフィスビルの一階にある。奥の部屋が倉庫のようになっている。オフィスビルの通路からその様子が見えるのだ。そこでは、店の人がいろいろと準備というか作業をしている。

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 先程は、銀座にある長野県アンテナショップ 「銀座NAGANO」へ行った。店頭では、長野県産のりんごを売っていた。長野の名産品は「りんご」だ。
 英語では「アップル」。この日の散策では「アップル」がもう一回、後日の記事で登場する。お楽しみに(笑)。
 
 ここ「北彩館」でも青森産のりんごを売っている。「りんご」といえば「青森」と真っ先に思い浮かぶ。「りんご」といえば「アップル」。鉛筆は「ペン」。「アップル」と「ペン」を合成すると「アップルペン」だ(笑)。
 最近の大流行の曲、ピコ太郎さんの「PPAP」につながります(笑)。こと「PPAP」のプロデューサー「古坂さんは青森の出身ですので・・・アップルを(歌詞に)入れた・・・・」とピコ太郎さん本人が先ごろ外国特派員協会でのPress Canfarenceで話をしていたのを私は見たのだ。
 ネットで調べると、青森市の観光大使に古坂氏がなっているよう。すると何らかのポスター、サインがここ青森県のアンテナショップにないかな、と思ってやって来たのだが無い・・・・。早く訪問しないと「歌の流行」が終わってしまう可能性があるので(笑)。何ぶん、短い歌であるし。ブームがどれくらい続くのか分からないし・・・・。
 青森市の観光大使は複数名就任しているが、他の有名人も含めてポスター、サインの類は一切ない。別の県のアンテナショップでは、ご当地出身の有名人のサインを掲示してることもあるが、こちらのお店には無い。「アンテナショップ」は民間企業が経営しているばあはもある。中でも県が出資する外郭団体など行政と関係が深い店の場合はサインの掲示もあるようだ。(あくまで、推測であるが。)

 店内には観光案内コーナーがある。女性の係員がいて、各地の観光パンフレットを置いてあるが、(私が見るところ)出身、ゆかりの有名人のサインなどは無い。観光コーナーには小さい丸テーブルとイスが1セット置いてある。ある親子連れが、ここに座ってアイスを食べていた・・・・。
 店の奥のカウンターでは、ソフトとジュースのみの扱いだが販売コーナーがある。りんごジュースを小さい紙コップ一杯100円で売っている。ソフトクリームはカップに入ったグランベリージャムソフトのみの販売。「りんごソフト」は無い・・・・。 
 試しに「グランベリージャムソフト」を買ってみる。300円。店の人がグランベリージャムのビンを出して、スプーンでよそり、プラのカップに入れたソフトクリームに盛るだけのソフトクリーム。うーん、微妙・・・・(笑)。イートイン販売コーナーのボードには「カップコーンに入ったソフトクリーム」の画像もある。カウンター上の写真ボードとは全く異なる商品の扱いしかないのだ・・・。店のオープン当時はもっとメニューもあったようだが、だんだんと販売を縮小しているようだ・・・・。

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 外に出で、店の前いある丸いベンチに座って食べる。夕方になり、だんだん寒くなってきたが、ソフトを食べることが出来ないような気温ではない。
 ↓ アンテナショップの入居しているオフィスビルの入口。お店の「のぼり」が立っている。

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 ↓ 引き続きソフトを食べる(笑)。

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↓ ベンチに座り、ソフトを食べる(笑)。店の入口付近の看板と写真ボード。
  有名な「酸ケ湯温泉」のヒバ千人風呂の写真がある。浴槽内は、撮影禁止であったので、入浴したことはあるが、写真は無い。

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 ツレは、商品を購入した。レジに係はいるが、自動入金機械だったそうだ。たしかに、マシンがあった。進んでいますね。

 買い物をし、ソフトクリームを食べた後は、隣のビルに「ドトール」があったので休憩する。ツレが「コーヒーが飲みたい。」という。カフェインが切れて、シャきっとしないようなのだ・・・・(苦笑)。そのうちに、時間がたって、夕方四時半くらいになってしまった。日没が迫って来た。

 ↓ 下の写真は、この記事とは関係ありません。
   この日は、夕食はスーパーで惣菜を買って、家に帰って食べた。「東北味めぐり」として陸奥湾産帆立を使用した「ほたてめし」を売っていた。「青森県」にちなんで、買って食べました。

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史跡 林氏墓地 一般公開 東京文化財ウィーク 見学2

 2016年11月5日 土曜日

史跡 林氏墓地 一般公開 東京文化財ウィーク

の中に入る。最初の交差点で、停まる。どこかな、とみると、人が出入り
している壁が。あれだとわかった。 古いコンクリの壁に囲まれている。「林氏墓地」公開と紙がはっている。わかりくい立地。

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5時を過ぎたので、門の扉を半分占めた。テントを張っている。墓の端には、スチールの物置を置き、清掃などの資材を置いているらしい。
その壁の向こうには、普通の住宅が迫っている。

南には「11代の夫人」のように妻や子の墓が林立している。無造作に土に墓の石をおいてあるかんじ。
家族には゜「こちらには、なにをしたかを、大きな石に書いています」
2メートル以上ある石碑があり、文字が刻まれている。複数あり、業籍を残した当主については、設置しているよう。

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羅山の暮石の横には無かった。

時間も終了のようで少しばかり見て、退出した。一人一人事績などをみていら、かなり時間がかかる。
林氏の屋敷がここにうつったので改葬したそう。 よって羅山の墓が小さいと説明していたような。羅山の碑は無い。
説明文には、屋敷に一角に墓所をもうけ、維新後 住宅はなくなり、墓所のみ残ったそう。

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例のハカキももらった。
「鳥居要蔵」も林の出と説明文にあった。幕末の岩瀬も。日差しが西に傾いて来た。秋の日は短い。

近くの公園で荷物整理。と、墓所の前で、区役所か、軽ワゴンが停まった。「のぼり」「テント」「机、パイプイス」などの資材の片づけをしているようだ。
小学校の裏手、ゴム地の校庭。テニスコートになっている。更に歩くと 中学がある。女子が軟式テニスの練習
わしている。人数が少ないのかな。ボールをさわることが出来ないくらい部員がいるものだが。
史跡「林氏墓所」は普段は、先の 「新宿歴史博物館」が管理しているようだ。

。ハイツのような敷地がある。マンションになっている。監視カメラが多数設置されている。その先は旺文社と英検協会がある。


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その裏手の道を進む。

歩く。道を間違い、坂を下ると 絵大江戸線の駅のところに出た。



























 






史跡 林氏墓地 一般公開 見学1 東京文化財ウィーク

 2016年11月5日 土曜日 「史跡 林氏墓地」一般公開 東京文化財ウィーク


 「新宿歴史博物館」を見学した後、次の目的地に歩く。現在開催中の「2016 東京文化財ウィーク」の一般公開を見に行く。目的地は、 「史跡 林氏墓地」。

 ※本来このブロク゛では、期間が決まっている企画展、特別展などの記事を優先して投稿し、「年に一回」「年に二回」などの施設などの「一般公開」は後日に投降することにしている。しかし、今回は「2016 東京文化財ウィーク」の見学記ということで、特別にお先に投降することにします!!。
 (特別って思っているには、ボクだけですけどね(笑)。)

「東京文化財ウィーク」
超目玉な公開は無いというのが、私見。23区内、限定でいうと、興味の有無は個人差が大きいが、私としては

「前田邸」 「和敬塾 旧細川邸」が行けたかも。重文優先だと前田邸。が、前田邸は「和館」のみで洋館は工事中とのこと。明示学院もあったかな細川邸は、予約制で定員ありなので、困難だったかも。

根津神社は、平日のみ。公文書館では、宋版の文書の公開があったようだが、インパクトには欠ける。以前よりは、公開に力を入れたかな。


 さて、新宿歴史博物館から「林氏墓地」までの道のりを少々。
 (博物館近くの路上から)正面、ビルや家々の合間に防衛庁の巨大なアンテナを見ながら、坂を防衛庁の庁舎方向に下る。

 広い道路(曙橋付近の)を渡り、今度は防衛庁の巨大な庁舎を横目に見ながら坂を再び登る。と、途中には機動隊の看板がかかっていた。門前では、制服姿の女の子の警官が立っている。立哨というのか、警らというのか、立ち番というのかは、知らない・・・・。女性警察官は、まだ20歳くらいじゃないかな?。
 歩いて通過し、その先はに、防衛庁の門がある。付近の道路は、区画整理をまだ行っている。「まだ」というのは、昨年の2月に永青文庫に行く途中、車で通ったからだ。まだ工事は、完成していないようだ。
 更に歩いて、柳町から東へ交差点を曲がる。ここの地下には、大江戸線が通っていて、駅もある。歩道の脇には、交番がある。古い小さい交番だ。
 交番前を通過し、ゆるい坂道を登り、見当をつけて小学校の手前を住宅地の中に入る。最初の交差点で、停まる。どこかな、と見ると、人が出入りしている壁が分かった・・・。「あれだ」とわかった。古いコンクリの壁に囲まれている。「林氏墓地」公開と紙がはってある。目的地に到着した。
 現在は、住宅と低層のビルの立ち並ぶ地域であり、わかりくい立地だ。

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 新宿歴史博物館から20分以上歩いた。門の前には、公開時間が「10時-15時まで」と張り紙ある。現在1458だ・・・・。公開時間も終わりだ・・・・。急いで門の中に入る。
 門には「史跡」と書いている。告知にもある通りここ「林氏墓地」は、一年でたった三日間の公開だ。
 去る11/3(祝日)に公開があり、この土曜と明日(翌日の日曜)も公開がある。「東京文化財ウィーク」ののぼりも立っている。私にとっては、今年の。「東京文化財ウィーク」目玉の史跡公開地見学かな・・・。

 見学者が出入りしている。小学生の男の子をつれた夫婦がやってきていた。対してウチの場合、ウチの子は、「興味ない」と入ってこなかった・・・・。


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 墓地を囲む、古いコンクリートの壁に貼ってある手作りの告知。三日間の公開の日程案内がある。小学生くらいの子が手作りしたものであろう。
 連絡先は「新宿区立新宿歴史博物館」と書いている。普段は公開されていないので、管理は通常「新宿歴史博物館」が行っているのであろう。

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 門の中に入る。敷地は、思ったよりも狭い。門の内側には、テントが設置してあり資料を貰えた。資料や敷地の説明板によると土地の広さは110坪くらい。約330平方メートルと狭い。一般住宅としては、広い敷地なのだが。「史跡」としては狭く感じる・・・・。売買価格でいうと〇億〇千万円はするであろう、というのは余計な推測か・・・。
 墓地の隣は住宅になっている。北は道路に接しているが、東西南は、一般住宅に隣接している。
 ボランティアガイドの女性が、例の家族連れの男の子に声をかけて説明する。「これは、林羅山(はやしらざん)といって初代の人のお墓。・・・(大河)ドラマの真田丸って見てる?。と る徳川家康がでてくるので、その学問をつかさどる人、顧問だった。大阪の陣のきっかけとなった、方広寺の鐘の文章の解釈を・・・・豊臣家に不利なようにした人・・・・」というような説明だったと思う。
 そのような、初代羅山であるが、初代の墓碑は小さい。が、墓地の端、西を背にして、東を向いているので初代に敬意をはらっているよう。


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 ボランティアガイドの女性が説明を続ける「・・・林氏(りんし)の屋敷は、最初、神田の××にあったが、・・・・・・(中略)その後、ここに屋敷をもらった。谷中?にあった墓地を屋敷の敷地の中に移して、初代も含めて改葬をした。明治時代になって、屋敷は無くなり、住宅地になったが、墓地だけは残った・・・・。昔に比べるとだんだんと墓地の敷地も狭くなっていった・・・。」という内容の説明であった。

 ↓ 写真中央。初代羅山の墓碑。

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 更にボランティアガイドの女性は、男の子の家族に向けて「りんしは、七代で血が絶え、養子ををもらいました。  岩村藩 の松平氏から のりひらというひとが、八代のじっゅさい(述齋) として養子になりました。」と説明。
 「乗」は松平氏のある家の通し字だ。比較的、石高の小さい譜代の小大名から養子になっている。林氏は、大名では無い。よって、石高の小さい、家格の比較的近い譜代大名より養子をとったか。

 ※ 帰宅後、ネットで調べてみると「大給松平氏」から林氏に養子入りしている。岩村田、信濃のペンタゴンの城も「乗」の字のつく松平氏のお殿様が造ったはずだ。一族であろう。
























 






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新宿区立新宿歴史博物館 見学4 常設展示室

 2016年11月5日 土曜日
 

  「新宿歴史博物館」
 
 展示室は、地下にある。完全な地下室ではなく、半地下の石垣に囲まれた庭がある。中庭というべきだろうか。一階から階段を下りて地下へ。
 先に特別展を見学した後、常設展示室に入る。

 まず目に入って来るのは、内藤新宿の復元模型だ。
 室内は撮影禁止だ。しかし、模型など「撮影スポット」と表示のあるところだけ撮影が可能だ。

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 常設展示室は、長方形で、内藤新宿の模型から順路に従って進む形式。天井が高い。地下と一階の部屋も使用しているのではないかと思うくらいだ。入口近くには、原始時代の展示からしばまり、江戸時代の新宿の様子もある。入室して一番目立つには、上述のとおり、「内藤新宿の復元模型」。
 
 ついで、江戸時代の展示がある。
 ↓ 大きな商家の復元がある。土間にも入り、室内の展示も見ることが出来る。
  分厚い壁の土蔵造りだ。「耐火」が一番重要なのだ。


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 江戸時代の新宿の様子が参考になる。明治元年の西新宿の様子も絵図がある。見ると、信じられないことだが、本当にににににににに農村地帯だ。(あまりにびっくりするくらい農村地帯なので「に」を連打してしまった・・・・。)
 家の集まった小さい村があり、祠や寺がある。祠や寺は、現在でも高層ビルの谷間にのこっているそうだ。現在の新宿中央公園の傍らになどに。へ~、驚きです
 絵図に江戸の中心の遠景は書かれていない。現在の高層ビルが林立する風景とと比較すると驚く。戦後でも淀橋浄水場がなくなるまで、高層ビルはなかったからな~。この40~50年で劇的に新宿の風景は変わったのかな??。

 室内の写真撮影スポットは限られている。最初は内藤新宿の模型のところ。次いで、土蔵造りの商家のところにあった。

 展示室の奥は、作家や文学関連の展示がある。「夏目漱石が一番深いかかわりがある」と解説。そりゃ、漱石こと、金之助は、この近くの生まれなのであるから。私のかつての本籍地の番地(つまり、私の祖父や曾祖父の生家)からはやや距離があるが。
 常設展示は、次の予定があるので、軽く見て進む。近代の画家で、区内には佐伯や中村ツネのアトリエ記念館があり、無料公開されていることを改めて知った。山手線の外のエリアで、かつての淀橋区の区域だ。


 ↓ 電車の展示がある。
 新宿付近の電車の交通網の地図もある。地下鉄が発達する前の鉄道の乗り入れの様子も書いてある。

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 さすがに新宿繁華街の大規模再現模型は無い。都電やにぎわう新宿界隈の様子の解説展示はある。
 ↓ こちらは、昭和10年代の文化住宅の再現模型。

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 現在の日本の一般住宅の原型ではないか。父方の祖父は、結婚して世帯を持ったのが昭和10年代であった。(実際はに戦争が始まっていた時期だったのであるが。)次男坊だったので、結婚当初は牛込の家を出て別に家を借りたそうだ。ふと、こんな住宅に住んだのかな?と思ったので、模型を撮影してみた。祖父母ともに亡いので、今となっては知る由も無いが。

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 企画展示室よりも常設展示室の方が広かった。見学者はちらほせいる。室内には20人くらいはいたかな。
年配の男と一緒に常設展を出た。1人くらい中年のやせてスーツを来たノーモクタイの男性がいた。その他は60歳以上の年齢の男性が多いかな。家族連れ、子供の見学者はいるが、残念なことに少ない。
 (常設展示の最初にある)内藤新宿の模型の前で熱心にボランティアガイドに質問しては話を聞いていた人は、60歳-65歳くらいの男性だったし・・・。一組だけ年配と35歳くらいの女性がいた。親子かな。


 常設展示室の一番奥には、更に小部屋があり、玉川上水の「木の樋」や「木製の管」が展示してあった。半地下になっている。「ん、つまりこの半地下のところにかつての上水道が通っていたのかな?。だから、かつての木の水道管を展示しているのかな?」と思ったが、ちがうようだ・・・・。なお、この小部屋の撮影も禁止なので写真はない。


 え~、ウチの子は、(室外のロビーの)マッサージイスに座っていて、常設展示室には見学に来なかった・・・・・(愕然)
 半地下の中庭に出ることが出来るようになっている。電車の運転席の切り取ったものが、マッサージイスの近くに展示してあった。ウチの子は、この付近を見たのみ・・・・。


新宿歴史博物館 見学3 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日
 

 新宿区立「新宿歴史博物館」にやって来た。
 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学する。


 保科氏は、転封(しかも、将軍家光の異母弟ということで、異例の大幅加増)されて高遠を去り、続いて内藤氏が領主となった。内藤氏の歴代の殿様のことについての展示が始まる。肖像画の展示ある当主もいる。系図には、「内藤氏は、養子相続が多かった」とある。お殿様は、別の家から来て、内藤の家を継いでいるのだ。

 内藤氏の初代は「清牧」。「清」が内藤氏の受け継がれる字と思ったが、ちがう。名前の字がのちにかわり、歴代の当主は「頼の」字をうけついている。
 「鳥つくし」という彩色画を遺している当主がある。上手い、画である。また、「だれだれに継がせる」という遺言もあったと思います。
 「狩野休真」の筆による黒鷹図の展示がある。時のお殿様と関係のあった絵師のもの??。そして、最後の当主は、明治になって死亡している。名前は「頼直」。
 だいたい、当主一人につき一点程度の展示品が、内藤氏の展示コーナーガラスケース内にある。


 参勤交代の図の展示も。行程は、中山道経由もある。意外にも甲州街道経由とは限らない。中山道は6泊と余分にかかる。甲州道は5泊6日。江戸時代の最初は、中山道経由だったそうだ。遠回りだけど、格式を重視したのかは、分からない。あくまで、行軍なので、時間をかけて、立派の将軍のおひざ元に馳せ参じる、という意味だったのかな??。
 参勤の経路としては、「杖突峠」の脇街道を通ることがあたよう。茅野から、白樺湖への山道かなと思いきや、諏訪湖にダイレクトに下る道であった。いつぞや、車で私も通ったことがある。例の国道「52号線」の道だ。いや、「酷道」かな(笑)。
 甲州街道の経路ではは、当然ではあるが、鶯木宿や台が原宿など、現代に生きる私も通ったことのあるところを経由している。つまり、現在の国道20号線「沿い」ですね(笑)。中山道の経路では「和田」と町の名がてでいる。和田峠、和田宿の道だ。
 高遠領主内藤家は、毎年六月に江戸に参府であり、五月末に高遠を発って、江戸の上屋敷に入ったそうだ。 国元に帰るときは、老中に申し出て、領地に戻るのが、五月末のことらしい。解説によると内藤氏は、高遠と江戸の間を84回参勤をしたそうだ。200年近い歳月をかけて、何代にも渡って往復したのだ。
 掲示されている高遠藩の年賦によると「領地150年の祭典」を実施している。高遠に転封されたのは西暦1689年のことで、150週年祭は西暦1840年?のこと。この時期は、飢饉のときではなかったか。お祝いをする余裕は藩にあったのかは、分からない・・・・。いや~、ちゃんと年数を数えていたのだ。西暦のような通しの年の数え方が無い中で、どうやってカウントしていたのか。年号を記録していたのか、60年周期の「戊戌」かな。昔の文書には、「年号」と「辛亥」など干支を数えているし。
 殿様の初めての入部の際に記述した文書の展示もある。初入部なので家臣も気合いを入れて準備して、お国入りを迎えた様子が文章になっている。また、「分限帳」といって、何の役目?に何人いて、用具は何で、何両かかったかのような帳面もある。


 特別展のもうひとつの部屋は、内藤屋敷の再現。壁に復元した絵を展示している。(特別展では、ふたつの部屋があった。)

 高遠藩(記述の通り、当時「藩」とは呼んでいなかったそうであるが。)の上屋敷の説明もある。順路の最初は上屋敷の解説。江戸の上屋敷にお殿様の一行が入る様子の再現絵が展示されている。今の靖国通りの神田神保町の付近が門になっている。屋敷内には、庭園と池もあり、屋敷の建物がある。隣には、戸田氏の屋敷がある。現在は、靖国通りがやや湾曲していて、スキー店や銀行などのあるところだ。
 内藤氏の屋敷は、現在の位置でいうと「丸亀うどんの店」や銀行の支店のある当りかな。三省堂の南や道路になっている所(すずらん通り)も屋敷だった。面積は、2500坪くらいで、あまり広くはない。
 
 展示室内の反対の壁が下屋敷の様子の展示。関連資料(小文書など)の展示もある。下屋敷が有名な現在の「新宿御苑」の大部分に相当する場所であることは、よく知られている。
 展示されている大きな絵によると、内藤氏下屋敷の屋敷地の南には、玉川水の分水が流れている。畑にもなっているのだ。高低差の表現が絵図にはないので分かりにくいが・・・。実際のところ、現在の上水の分水の付近は、ガケの下であったであろう。黄色い電車の総武線の車窓から、新宿御苑との境界が見えるし、ガケになっているので。つまり、現在の総武線の線路の下、御苑との敷地の境界に沿って上水が流れていたのではないかな??。
 (展示されている)絵図によると、現在の神宮外苑は街になっているが、実際の外苑は、青山地区で大名屋敷もあったのではないかな。
 上屋敷に比べると、下屋敷はかなり広い。
 下屋敷には、甲州街道から入るようになっている。城のほうに近い屋敷地の入口から入ると殿様の屋敷に。下屋敷地の中央にも門があり、その先は「隠居の屋敷」と説明がある。屋敷地の西は、なんと町屋となっていて、藩士の長屋や家だったもよう・・・。
 屋敷地の南は広々としていて馬場や畑になっている。現在の御苑内の庭園の池は、ほぼそのままの形で、表と奥向きの(殿様が普段使用するであろう)お屋敷が建っている。
 「百姓家も敷地内にある」と展示解説にはあった。農民も敷地内に住んでいたのだ。馬場は、敷地内にいくつかあり、馬を飼育している。馬小屋もある。
 展示を順に見ていく。展示の端には、「上屋敷の建物の絵図」もある。高遠で保管されているものであった。国元でも保管されていたのだ。「下屋敷の墨の絵図」もあるが、下屋敷の広い敷地内のだいたいのおおまかな図面で。が、馬場、池、畑なども記されていて、下屋敷の様子を現在に伝える貴重な資料だ。

 ↓ 常設展内の展示品。内藤新宿の模型。

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 屋敷の変遷に関する説明によると、内藤氏の江戸中屋敷として、もう一か所屋敷があった。(実際にはもっとあったかも知れないが。)上屋敷は、以前は別のことろで、その後は上述のとおり現在の神田小川町から神保町にかけての一角。下屋敷は、現在の新宿御苑で、江戸時代、ずっとそのままだったよう。


 あと、高遠ゆかりの人物として「江島」がある。高遠の「江島囲み屋敷」の案内パンフも置いてあった。私もかつて、「高遠の桜」を見に行った際に「江島囲み屋敷」を見学したことがある。


 地下の受付係の女性の横にいた青いジャンパーのメカネをかけた女性がこちらの学芸員?のようだ。時折、展示室内を行き来していた。

 ↓ 半地下の中庭から、地下展示室のロビー。
  館内は撮影禁止。地下のロビーは、広くてイスや資料を置いてあり、閲覧もできるし、休憩も出来る。
  マッサージ用?のイスも数基置いてあり、リラックス出来る??。実際、ウチの子は、そくさと展示室を出て、マッサージ用?のイスに深く座って、休憩していた(苦笑)。

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 半地下の中庭。地下一階の展示室外の廊下にも光が入るようになっている。
 石垣は、かつての江戸城の遺構??、かは、不明・・・・。

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 ↓ 博物館の入口にあった特別展などの告知看板とポスター。


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新宿歴史博物館 見学2 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日
 

 新宿区立「新宿歴史博物館」にやって来た。博物館、新しい感じの立派な建築である。
 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学する。

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 展示室は、階段を下りて地下にあった。途中、階段の踊り場には、秀吉や大名、保科正之などの絵の写真の掲示がされている。地下は、半地下で掘り下げされていて、ガラス張りになっている。斬新な造りだ。
 
 特別展の展示室に入る。
 ↓半地下の庭から見たガラス張りの窓の階段。 

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 最初の展示は、1582年の「高遠の合戦」に関するものだった。信長の武田への侵攻がはじまったそうだ。武田勝頼の義弟の「木曽某」か何かの人が、織田氏側に寝返ったことが侵攻の契機だったそう。この戦いで、武田氏は滅亡した筈。その合戦の戦場に高遠城はなったということだった。

 高遠城は、戦国の山城が、その後「近世の城郭になった」と解説バネルにある。江戸時代の高遠の城の絵図の展示がある。武田24将の写真の複写などがあった。その中には、今ドラマでおなじみの「真田氏」の真田幸隆の姿と名もあった。
 勝頼の母の墓?も高遠にある。「勝頼は、当主となるまで 諏訪四郎といった。高遠が最初の城主だった。」とある。信玄の父「信虎は高遠で亡くなった。」と説明にある。父親の信虎を追放した信玄ではあるが、実は信玄よりも、父の方が、あとに死亡したことは、知られている。
 昔のドラマでも見たのだが、信玄よりも父親の方が一年くらい長生きしたのだ。信玄を父が「おい、晴信。起きよ。」とセリフを言うシーンがあったような・・・。とうに忘れたれど・・・・。
 「近年の資料によると勝頼は諏訪本家ではなく、分家を継いだようだ」とある。

 展示室は、何人か見学者がいる。 小学生の男の子を連れたおとうちゃんがやってきた。その親子は、私よりもあとに来て、さっさと見て、出て行ってしまった。あとは年配の男が多い。中年の男もいるが。

 高遠の領地の朱印状の展示が壁に沿ってある。いろいろな村が書かれている。都合 三万石のような書き方。末尾に「源朝臣家綱」の文字と朱印と「正之殿へ」のような書き方。
 領地の絵図もある。領地の石高、三万石のうち、山形村や隣の村も含まれていた。変遷しているので、途中領地になって、その後の時代は料領地ではなくなったようだ。 そば集落も江戸時代の初めの時期は、保科家領地だった。
 解説には「藩」という言葉は正式にはなく、「高遠領」と書いたとある。藩の名はどこにもない。領主の個人名と領地の村が書いてある。


 次いで保科家についての展示品がある。正之の肖像画の写真バネルの展示がある。正之は、将軍秀忠が正室とは別の女性に産ませた子(という表現だったと思う。)で第四子と説明がある。長男が別にいて(えーと、母親は誰だかな・・・(笑))、次男が「竹千代」、のちの「家光」、三男が「徳松」??、のちの忠長なのだろう。が、他の三人の子については、説明がない。ここは、「保科氏」の説明であるので、正之のみの説明。 
 正光と弟の正直のことについて説明などがある。展示によると正光は71歳で死亡し11歳の正之が保科を継いだ。その後、 山形、会津などに転封して、最終的に23万石に大幅加増になった。
 他方、(正光の)弟、正直は、現在の千葉県、下総の国の多古に利用地をもらい、17000石くらいの大名になった。正之のときは、「保科」氏であった。三代 正容(まさかた)以降は松平、以後保科の家名は多古藩主に引き継がれたと説明がある。 
 ここでの展示のどこかで当時「藩という公式名称は無かった。」と文章があったと思う。藩主ではなく、領主というのが正しいのかな。領地も高遠藩ではなく「高遠領」と説明があった。「ここより高遠領」という内容の、どこかで石碑を見たような 記憶がある。

 現在の千葉県の「多古」の領地は、高遠の後に、一旦もらった領地で、10年後に正光が再び戻るまで領主でいたので、全く保科氏と無縁ではなかった土地だった。
 のちに正光が、25000から3万石に加増したのは、正之の養育料の意味があったのではないかと推定していた。

 続いて展示を見ていく。「正之の墓地の写真」の展示がある。神式で、墓所は猪苗代にあった。会津の領地内に墓所を営んだのだ。林の斜面に、銅の筒のような形の墓所だった。対して、正直と正光は故地の高遠に墓所がある。


 短刀と「さや」の展示があった。刀身と鞘をわけて展示している。 短刀には銘がある。天目茶碗と朱色の模様の盆の展示が。正之の使用したものだっかは忘れた。

 展示されている「年賦のボード」で注目すべき記載内容があった。「正光は子が無いので最初、真田昌幸の子 左源太を養子とした。」とある。
 その後、見性院に養育されていた「正之」を養子として迎えたとある。養子として、左源太は17歳で死亡している。嫡子でなくなったよう。ドラマの「幸村」には登場するのだろうか??。つまり、幸村とは、兄弟ということになる。
 正光は遺言を遺している。「正之に相続させる」と。10歳から数歳上になる。が、昌幸と年齢があわないよな気持ちがするが。信之の子ではないかな・・・・。左源太の墓の写真も展示があった。伊那市のお寺にある。
 なんだか、かわいそう。左源太さんが・・・・・・・。


 次の領主、鳥居家に関する展示がある。しかし、何の展示があったかは忘れた・・・・。コーナーが小さいので、あまり展示がなかったような・・・・。

 ※あとで、ネットを見てみた。ネットでは、保科家の養子「左源太」は「左源次」と書いてあるようだが、この特別展の資料では「太」だった。











































 






新宿区立新宿歴史博物館「初訪問」 見学1 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日

 「銀座熊本館」に地震の後、初めてやって来た。「銀座NAGANO」にも行った後、地下に下り、丸の内線の銀座駅から地下鉄に乗。所要時間11分で四谷三丁目に着いた。
 地上に出ると目の前に「消防博物館」があるのが見えた。銀座口には「警察博物館」もあるし「好対照」だ(笑)。

 四谷駅と反対の方へ歩く。が、道路を間違った。途中、夕方のニュースで紹介されたと看板が出ているお店の前を通ったそうだ。ラーメン店だそう。子どもは、以前見たことがあるそうだ。

 方向を間違い、先に行きすぎた。
 と「津の守坂」の道の歩道脇に「新宿歴史博物館」の標識がある。坂の名前の由来の説明板も設置されていた。「美濃高須藩の藩主 松平摂津守義行」の屋敷があったからだそうだ。つまり、御三家の尾張家の分家のお屋敷。御三家の分家の場合、領地の石高は低いが官位は意外に高い。従四位下左少将くらいの任官。外様では40万~50万石前後の細川家、黒田家、浅野家クラス。
 「津」のつく旧国は摂津が真っ先に思い浮かぶし、略して「津の守」坂だ。そのまんまだ。傾斜地に屋敷があったのだな~と率直な感想。この一帯、傾斜地やガケ上の台地平坦部も含めて摂津守の屋敷地だったと思うが・・・。

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 ↓ 博物館への路地。。「津の守坂」の横の狭い道を歩く。

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 細い道を通ると、博物館に出た。思ったよりも新しい建物だ。
 四谷三丁目駅から20分くらい歩いたかも。本当は10分とかからないと思うが・・・・。
 「新宿区立新宿歴史博物館」の存在を知らなかった。いや、知ってはいたが、あまり認知していなかったのかも・・・・(言い訳)。
 現在開催されている「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学するためだ。 10月に偶然、とある美術館に今回の特別展の割引券が置いてあったものを入手したのが、訪問したきっかけだ。
 高遠は二回ほど「高遠桜」を見に行ったことがある。高遠藩主内藤氏の下屋敷が現在の新宿御苑の敷地に相当することはよく知られていし、「内藤新宿」が現在の新宿の街に発展したことは知られている。とても興味があるので、初めて見学することにした。

 よく晴れた秋の一日、「2016 東京文化財ウィーク」にあわせて、新宿歴史博物館やってきた。(直接は東京文化財ウィークと関係ないかな!!??。)

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 東京には周知のとおり「江戸東京博物館」がある。よって、こことコンセプトは、かぶるかも知れない・・・。にもかかかわらず、新宿区が、「歴史博物館」を設置しているのは、豊富な財源があるためか、それともバブル時代の遺産(レガシー??)か。ここ新宿歴史博物館の設置年は平成のはじめだったと思う。

 私にとっても生まれたときから子供の頃までの本籍地は新宿区だったから「新宿」とは深いかかわりがある。よって「新宿の歴史」にも関心がある。
 父方の祖父は死ぬまで自分の現在の新宿区の生家の番地を本籍としていた。祖父が生まれた頃は「牛込区」であり、現在の新宿区はなかった。「新宿」というと、現在ではどうしても「新宿の繁華街」や西新宿の「高層ビル群」をイメージしてしまう。しかし、新宿区自体は、かつての「牛込区」と「淀橋区」に相当する地域だ。
 私の父が結婚して、祖父と別戸籍を立ててからしばらくは、同じ番地を本籍地としていたが、のちに神奈川県内の自宅の番地に本籍地を移した。父は海外に行く仕事があったので、パスポートをとるにも本籍地が自宅と離れていると不便だからだという。
 現在の戸籍制度は、日本国内のどこにでも本籍を置いてもよい(らしい)。そこに誰か住んでいても本籍を置くのは構わない(らしい)。たとえば、千代田区千代田〇丁目一番に置いている人も相当数いるそうだ。実際のところ、日常生活ではパスポートの取得以外には本籍地とは、かかわりがあまり無いかも・・・・。


 さて、新宿歴史博物館に入館する。建物は比較的新しい。エントラスから、受付まではアプローチの通路が長い。 別室や会議室などがあるのだろう。
「高須四兄弟」などのポスターが掲示してある。現在の展示ではなく、過去の展示企画のポスターだった。
受付で、私は例の割引券を提示する。すると、大人500円が300円に割引された。子どもは入館無料だった。
 受付で、私の前には75歳くらいの男性二人連れの入館者がいた。彼らは、現金の受け渡しに時間がかかる。彼らの後で少し待った・・・・。
 と、半地下の石垣のような中庭がある。階段を下りて地下へ。秀吉や大名、保科正之などの絵の写真の掲示がされている。

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長野県アンテナショップ 「銀座NAGANO」 久々の訪問

 2016年11月5日 土曜日

 熊本県のアンテナショップ「銀座熊本館」に地震の後、初めて訪問した。同店の二階にある「バーasobi」で初めて食事をした。

 その後、数ブロック銀座通りの方向にある長野県アンテナショップ 「銀座NAGANO」へ歩く。銀座通りの一本JR有楽町駅側の通りに立地するのだが、通りの端から見ると、実はよくわからない・・・。
 二年前に開店の記事をこのブログでも書いたが、今回来てみてもやはり「NGANO」と黒い、四角い小さい看板のみ(の設置)で分かりにくい・・・・。まるで、銀座の高級スナックかバーの看板のようだ。相変わらずシックな感じの看板です(笑)。

 ツレは、店内で八ヶ岳「ヤツレン」の「牛乳パン」を買っていた。ウチの子の好きなバンなのである。と、ビルのテナント案内の看板を見るとアンテナショップの入居しているビルの三階に「真田」のお店がある。実は、長野のレストランである。アンテナショップと別経営の店なので、アンテナショップのウェブサイトからは、このお店のウェブサイトのリンクに容易に辿りつけないのだ・・・・。
 買物の合間に、アンテナショップ二階のトイレに行った。すると、二階のスペースではイベントとしうか説明会をしていた。二階にある「りんごカフェ」はイベントのためかスペースが階段脇のみで狭くなっていて、カウンターと小さいイスと机にカフェの客が数名座っている程度だ私がトイレから出ると、カフェカウンター内の男性からいらっしゃいませと言われる始末・・・、カフェの客では無いのに。恐縮です(笑)。
 一階に戻る。奥の棚にそば、乾麺のそばが棚にあるが、さほど多くない。ドーンとそばを打ち出しはしないようだ。新そばの季節ではあるが。
 一階入り口近くのの例の「オープンカウンター」では、昼からワインを飲む女性二人がいた。立ち飲みカウンターになっている。メニューとしては、オードブルセットなどがあるらしい。天ぷらもあるみたいだ。アルコール類は、ワイン以外に日本酒もあるのかな?。一階のカウンターのイスは、二個のみのようで、基本は立飲みスタイルだ。「プレートランチ」のメニューも表示があった。熟年の夫婦も食事をしていた。
 店頭では、長野県産のりんごも売っていた。秋、りんごの季節になりました。英語では「アップル」。この日の散策では「アップル」がもう一回、後日の記事で登場する。お楽しみに(笑)。

 ↓ ビルのテナント表示。

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↓ ビルのテナント看板。食事処「真田」のお店名刺も近くの小机の上に置いてあった。
  そば、天ぷらなどのメニューがある。現在、大河ドラマのタイトルに似ているタイムリーな店名だ(笑)。
  信州=真田ですね。

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「銀座熊本館」 「バーasobi」 食事

 2016年11月5日 土曜日

 熊本県のアンテナシヨップ「銀座熊本館」へ向かった。

 今年春の熊本地震の後、初めてお店にきた。、地震の後は復興支援ということで、大行列、大混雑と報道されたこともある。しかし、この日はすいている。地震から半年を経て、混雑も一段落したようだ。
 お店の二階には「バーasobi」がある。道路に面した一階の店の入り口には「asomi 」パーの食事メニューの掲示かある。

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 店内に入り、二階へ。二階は「くまもん」のグッズ店だ。買い物に来ている、子連れのおとうちゃんもいる。私も同じ立場かな(笑)。同じフロアには、熊本の観光案内所もある。係員として女の人が一人いる。グッズ店のレジには、若い女の子ともう一人店員がある。バーのカウンター内にも女性の店員さんが二人くらいいる。
 バーの「カフェタイム」は「12時から」との看板がある。このバー、日曜日は休みだし、食事をしたことはない。日曜に来ると閉店しているのだ・・・・。以前は、ここでお値段500円の高菜のごはんセットがあったと記憶するが、今回来てみると別のメニューもできていた。
 カフェタイムも営業時間帯は限られるし、夜はお酒がメインのバーになるし、ここでの食事は、実はハードルが高いです(笑)。


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 この日は、開店しているので、入ってみる。ちょうど12時だ。食事としよう。カフェスペースには、すでに先客が座っている。マスコミ関連?の人か、と思える中年の男女十名くらいだ。プログかFB用か不明であるが、彼らの写真をデジカメなどで撮影する音が店内に響く。
 バーは料金前払いだ。カレーを注文して代金を支払っているところたった。入店したばかりらしい。店内のテーブルは、一卓だけ、ちょうどあいていた。バーのスペースは広くない。二人席のテーブルが一個、四人の卓が三個あるくらいだ。
 ↓ 店内の四人用テーブル。壁面の棚には、熊本の地酒(日本酒)の空き瓶が展示されている。
 「くまもん」の関連本が置いてあり、閲覧できる。下の子は喜んで読み始めた。

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 注文時に代金の合計2500円を前支払いする。レシートはない。
 実をいうと座った四人卓は、三人しか座れない。四人目のイスには、くまもんのぬいぐるみが置いてあった。座布団もイグサの敷物で、くまもんの絵が入っている。まさに「くまもん」づくし。下の子は大喜び(笑)。

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 注文時に「時間がかかる」と言われる。順番に造っているようだ。先の客にカレーを出す必要があるからだ。彼らの注文した料理が来たその後、私達の注文した「漁師丼、ラーメン二個」と伝えている。出し終わってからの次の調理です。
 料理が来るまでり待っている間、子どもは、隣接するグッズコーナーで「くまもん」グッズを見て、お買物(笑)。
なぜか、ウチの子供は「くまもん」好きだ。学校でウチの子は「クマモン好き」を公言しているらしく、ランドセルにもクマモンぬいぐるみをつけている(苦笑)。苗字から「クマモン」ならぬ「オリモン」(仮名だが)、と言われているそう。
 クッズのコーナーでは、テレビ(ビデオ)の映像が流れて、食事コーナー(つまりバーのこと)には、音のみ聞こえる。「くまもん体操」のビデオのようだ?。

 私が注文したのは1200円の「漁師の沖めし丼」。どんぶりの中には・・・小松菜と大根の千切り、味噌漬けのタイ?の刺身がある。刺身の魚の説明はない。つけもの少々とあおさの入っているみそ汁付きだ。
  食べてみる。生の小松菜の「辛味」が強くて、しゃりしゃりして 刺身の味があまり引き立たない・・・。薬味という意味もあるのだろうが。

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 その他は500円のラーメンを注文。乾燥にんにくがつく。 ラーメンのつゆは、とんこつベースだそう。熊本はとんこつベースで、にんにくを入れるそうだ。
 うち、一個のラーメンには300円で高菜ごはんをプラスした(笑)。九州といえば高菜で決まり(笑)。


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 この8月に訪れた阿蘇神社近くの店では、ひやめしに近い、あまりおいしくない高菜めしなどの食事を食べたが、ここでりべんじのつもり。私には、高菜めしは少しか食べることができなかった。ツレがほとんど食べてしまったので(笑)。

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 ラーメンは食べることができなかった・・・・。先客の男女の中年グループは、食事後に移動していった。会話の内容から彼らはマスコミかライターのような感じだった。立派なカメラも持っていた。客は私達だけとなったがすぐに、あとから、(満席で)待っていた一人の地味な感じの中年女性が着席して食べに来た。料理が来るとその女性は、スマホで写真をカシャカシャ。撮影している音が店内に響く。最近発売になった、某スマホかな?。カメラのオトが大きいと聞くし・・・・・(笑)。
 食事後、一階に降りて一階のお店を見る。実はこのバーにはトイレが無いようだ。食事店があるのに。前は、二階の事務所のフロアにあったはずだが。閉鎖したらしい。

 ↓ 以前あった、店内のくまもんのボード。
  「銀座熊本館」は開店以来、20年以上が過ぎた。
  以前来たときに開店「20周年」のセール中だった。アンテナショップの草分け的存在ですね。

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 私は二階のグッズや観光コーナーを見ていました。さすがに前回訪問したときと同じくまもんの歌「くまもん・・・・くまもんもんもん!」の歌は流れていませんでした。アノ歌は耳に残ります。なんだかホッとしたような(笑)。
 二階の「Asobi」は、夜のみの営業だったと思っていましたが実は違ったようだ。今までは日曜日に来ることが多かったので、閉まっていたいただけのようだ。この日は土曜日なので営業していて、食事ができてよかった。


「どさんこプラザ」北海道アンテナショップ訪問と「さっぽろ圏魅力発見フェア」開催 交通会館内)

 平成28年、2016年10月30日、つまり、日本シリーズの翌日のお話です。


 北海道のチームが「日本一」になった。警備員が手持ち無沙汰・・・・・・・、の広島のアンテナショップで少しばかり買い物をして、有楽町駅近くの交通会館へ。
 一階には「北海道」のアンテナショップがある。「北海道どさんこプラザ」
 行列しているのかな、と思ったが、意外にも混雑していなかった・・。やや、お客が多いかな、という程度。
日本シリーズとはあまり関係なく、特に売り出しはしていないのかも・・・。北海道の食材の販売がメインで特売はお店のコンセプトでは無いということかな・・・。福袋の販売も無かった。 


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 交通会館と有楽町の駅の間の広場では、北海道物産展ではなく、「さっぽろ圏魅力発見フェア」を開催中であった。駅前広場での北海道、特に札幌近郊の市町村によるイベントのようだ。値段500円で、串ベーコン、牛肉の串などを販売している。スナック形式で立ち食いが基本。食べる場所があまりない・・・。テーブルのあるテントはあったが、スペースがあまりなく、混雑すると一杯になって食べるのは、路上で、となってしまう。プラ容器に入れたご当地「ラーメン」の販売もあった。その他、クレープ、アイスなども販売していた。

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 各市町村から、職員もやって来て、セールスをしている。首から名札を掛けているので職員とわかる。観光や移住の案内も行っていた。
 ステージでは、イベント開催の時間外であった。

 次いで、「鹿児島」のアンテナショップ二階のレストランで黒豚の料理を食べた。その後、重要文化財指定 「明治生命館」を見学したのだった。これら両所の記事は後日別稿とします。




広島県アンテナショップ「TAU」 福袋の販売、優勝セール!??

 2016年10月30日 
 
 ここで、少し時計の針を巻き戻す。
 宮内庁三の丸尚蔵館の展覧会「書の美、文字の巧」、東京国立博物館の特別展「禅」の鑑賞に先立つ時間帯のこと・・・。
 ここは、「一夜明けた」銀座。一体、何から「一夜明けた」のでしょう??(笑)。

 わした会員にダイレクトメールが来たので、そのフェアに行くため「わしたショップ」まで歩くのだが、その前に 広島県アンテナショップ「TAU」にやって来た。店の前は、開店前から大行列、、、と思いきや、全く通常通り・・・。あれっ??。
 
 今年の「カープ」は強かった。シーズン前半から上位に食い込んでいましたが、後半も勢いをそのまま、ポストシーズンを勝ち、日本シリーズに進出!!。
 いや~、今年のカープについては、いつも(例年)と違ったですよ~。が、残念。「大一番」ではファィタースにまさかの連敗で敗れた・・・・。つまり、前夜29日にファイタースが日本シリーズを制したのだ。
 「日本シリーズ」から一夜明けたのが、この日だったのだ・・・・。カープについてはホントに残念だった


 一階の店内では盛んに声を出して「福袋」の販売をしていた。
 本当は、瞬間的に売り切れる予定ではなかったのではないか。ある袋には、「5000円の商品券」も入っているのだそうだが、私の買ったものは、入っていなかった。残念・・・。
 二階のカープグッズコーナー、人は多かったが、レジが混雑というほどでは無かった。その横の熊野筆、化粧品コーナーでは、女性従業員が2人いたが、特にお客さんはいなかった。

 店外では、警備員が三人くらいいて、手持ちぶさたにしていた。本当は、行列を整理するのにてんてこ舞いになる予定だったろうに・・・・。
 リーグ優勝やプレーオフを制したときは、行列だったのではなかっただろうか。特に9月のリーグ優勝決定のときは、大行列だったとニュースで見た記憶がある。
 この日も優勝と行列を予測して、警備員をあらかじめ手配していたのだろう。残念「空振り」に終わってしまった・・・。

 ↓ 「TAU」のビル外観と付近の様子。平常と同じだ。

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 ↓ 自宅に帰ってから開けた福袋。「赤軍団」にちなんでか、バッケージが赤い商品が多く入っていた。

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 次いで沖縄「わしたショップ」に。ここでは、上記の通り、あるフェアを行っていた。(記事は後日)
 その次は、交通会館の「北海道のアンテナ店」に向かった。

 ↓ 参考画像。 
 昨年に発売された限定商品券。有効期限は、平成27年12月30日まででした。


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東京国立博物館 10月下旬の総合文化展 鑑賞

10月30日(日) 
 「東京国立博物館」 特別展「禅」にやってきた。この日の気温は、最高でも13度と少しだった。曇天の寒い日だった。
 
 私にとっては今年の春に開催された「春の京都禅寺一般公開」in京都と、京都国立博物館での特別展「禅」「後期展示」の続編である(笑)。
 京都での最大の目的は「雪舟の水墨画」である「彗可断臂図」(えかだんぴず)の鑑賞であった。無事に鑑賞できた。さて、夏が過ぎて秋になり、気温も随分と下がってきた。東京での「禅」展では、「京都展」で鑑賞できなかった作品や「東京展」のみの展示作品の鑑賞である。

 15時15分くらいに平成館に行く。特別展の入場前に映像コーナーで特別展の紹介映像を視聴。映像はは35分あるので、結構長い。
 


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歩いて、大手町へ歩く。千代田線で根津へ。
10分とかからない。
地上にあがり、根津の自由宅の間を歩く。と 文京区と台東区の境界。4メートル道路だ。
以前止めたことのあるコインパークの横に出た。 目の前が上野高校のコンクリの壁だった。
いつもの道を通り、平成館へ。黒田館はあいていた。が、あとで見たら 湖畔、舞妓など重要文化財作品の
公開期間であった。あまり、人は出入りしていなかった。
妻は「らくや寺」の仏像へ。正面階段の奥の部屋。
先に 国宝室。 光能像 神護寺所蔵。
大きい。頼朝像ほどではないが、四角形をしている。掛け軸用の紙に貼付けしている。
頼朝ほどリアルではない。 顔もふっくらしていて、精密ではない。 目つきがリアルではないし。
あくらをくみ、足の様子もありえないくらいで不自然。
撮影は禁止であるが、外国人は撮影をしている。 マナーも悪い。撮影禁止はもっと大きく表示しないとわからないし、無視する外国人もおおい。奥の部屋。 目新しい国宝はとくにはない。 重文で 大仙院の襖絵の展示がある。 男が橋を渡る様子の絵など。
以前見たこがあるかな。
一階に降り、刀剣室へ。刀剣ブームは一段落したかな。高校生くらいの子はいないが、若い女性は三人か四人くらい。
外国人、男の割合の方が多い。相州貞宗の刀。以前 担当は見たことがある。
アイヌ、写真展示などの部屋を通り、近代の部屋へ入る。
近代の部屋で ツレとすれ違った。
近代は、洋がは 偉人の肖像など。 由一の大久保利通の像など。 「甲東」というらしい。
手前に観山の「白狐」があった。 ホワイトフォクッスだそう。
横浜美で以前見た。文化財指定はない。ここの所蔵であったとはしらなかった。 秋か冬を思わせる草とすすきの様子、色の淡い様子は
あの春草の「落葉」の一連の作品を思わせる。重文指定 の落葉のみならず、春草は多数 落葉の作品を遺しているので、影響を
受けたのではないか。

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その右隣のガラスケース内の
日本画は、驚いた。大観の「 しょう湘八景」が八個すべて出ていた。数年はなかったのではないか。横浜美で 半分の四個見た。
前期と後期で半分ずつの展示だったはず。後半を見たのかな、ここの展示でいうと、左半分の。
「無我」が有名であるが、一番重要作品はこれではないか。 鮮やかな彩色画である。体色していない。
もう一個 生々流転は長い巻物の水墨画であり、2012年の秋、近代美で公開された以外には、公開されていないと思う。
解説には、大観は明治43年に中国を旅行し、実際に洞庭湖 トンチン湖を見ているようだ。 古来、水墨画で数多く書かれている風景だが、
実際に見た日本人はどれだけいたろう。 明治維新後 政治家や軍人、学者、僧侶などは訪問していただろう。限られた人しか近代以降も見ていない。
現在でも 一般の日本人が旅行するには、容易ではないだろう。 一度にたくさんの日本人が見たのは 日中戦争で日本軍が占領した後でないか。
戦地で日本兵が洞庭湖 トンチン湖を見たのが、一般の人が大量に見た最初ではないか。


大観は 湖畔の人物の様子を 当時の住民の姿を書いている。水をくみ 運んでいる女と、その傍らで遊ぶ子。船のところでは、男が集まってキセルを
すっている。唐の時代の服装ではなく、頭髪は 辮髪のようだ、 辛亥革命の直後であったろう。 清の時代の頭髪、服装のようだ。見たままの近代中華民国
当時の人を大観は表現したのではないかと思った。重文作品とあって、立ち止まって見る人もちらほら。八幅全部 撮影できる瞬間もあった。
近代の部屋は、東博の 「たより」には掲載が無い。ウエブサイトを見ないと展示は確認て゜゛きない。

特別展「禅 -心をかたちに-」鑑賞2 東京国立博物館

 10月30日「東京国立博物館」で特別展「禅 -心をかたちに-」を 鑑賞する。


 東京での「前期展示」。龍光院(りょうこういん)の国宝「金剛般若経」を見ることが出来た。今回も期間は、短い。龍光院は、なかなか文化財を公開しない・・・・。次は「耀変天目茶碗」の展示が期待されます。以前、公開はされたことがあるようです。いつだったかは、分からないが・・・・。

 この期間は建長寺所蔵の重文「金剛般若経」が展示されている。ただ、建長寺蔵の文化財は、鎌倉でも公開されることがあるので、わざわざ京都で見なくてもよいのだが・・・・。もっとも、同経典を見ても何を書いているのか、さっぱり分からないです(笑)。

土産店を過ぎ、最初は伊達のバネル。
戦国武将と禅のことの展示。
第一展示室の2 / 3ですでに1630くらいになった。
音楽が流れる。
時間がないので、全部 音声ガイドを聞くことができなかった。
国宝は展示替えが多いので、ガイドに含まれていない。西洋画は音声ガイドがよいが、古い日本の文化財展示の場合は
展示替えが多くなり、ガイドに目玉作品が含まれない場合が多いかも。
1630を過ぎて、第一展示の最後の部屋に。
第一の最後の部屋で音声ガイト゛の接触が悪くなった。 なかなか流れない。落ち咲いてボタンを押すと
流れたが。

第二展示室のバネルには、伊達政宗の木造の写真が。遠くからでもわかる。
「禅」と戦国武将の展示。武将の肖像画。人気の高い、武将の像をもってきたということだ。
伊達政宗の木造もあったかな?。
壁には、信長のアノ像。永徳筆。昨年の大徳寺で見て、今年の京都での「禅」でも見た。壱年余りで三回見た
ことになる。
秀吉の絵も。宇和島伊達保存会の所有。宇和島に資料館があるか、以前行ったときは見なかった。
ほぼ通り過ぎるように見て、次へ進む。

天目茶碗は 油滴。 大阪の美術館のもの。昨年も見た。
ガイド「油を たらしたような 黒い模様  」
 近くには たいひ天目もあつた。
相国寺では、見ることが出来なかった。あのときは、京都の「禅」でも展示があったが、期間が合わなかった。
タイマイのガラというが、何かのマーク「※」のような模様が内側の上部にぐるりと碗を囲んでついている。
カメのような染色体の模様のような。外と内は意外にも カメのような模様はない。
ガイドには「アメ色の器の色と・・・」のような説明。
1700の閉館の音楽は、第二展示室の3 /4くいのところ。
まだ先にくねくねと区切られて展示があった。
最後の音声ガイドは 南禅寺のトラと龍の彩色画。
虎は禅の「喝 〃 〃」とつながるので、好んで描かれたそうだ。

あとは、きいていなかった。
次に 若沖の水墨の屏風。文化財指定はない。 若沖展では、展示がなかったと思う。
大きいものが一面あり、その右に四面ある。五面ある。鳥の絵。あれ、大阪のお寺の金地の
鶏の画かなと思ったが違う。あの裏には、若沖展でも展示があったが、水墨でも枯れた草花の絵なのだ。
最後の絵は、 忘れた。

  
  

第三章「戦国武将と近世の高僧」は、二階の途中から始まったような・・・(一階か二階か忘れた)。「章」の紹介パネルがどこにあったか、覚えていない。だって、展示リスト通りの展示順番ではないから分からなくなちゃった~(笑)。
 狩野永徳筆の「織田信長像」、文化財指定はされていない。同じく昨年10月に訪れた大徳寺本坊の曝涼展でも見た。武将と高僧の肖像画が並ぶ。途中で一階に降りる。リストによると伊達政宗の「木像」が展示されていたようだが、気付かなかった。一階のホールは、いつもの通り「仏像の展示コーナー」。その一角、奥まった所にあったのだろう。人も集まっていた。一階の仏像コーナーは、前回と同様に「常設展」の一部と誤解してしまった(苦笑)。

 
  
 最後の展示室には、若沖の「 」図があった。


 国宝「玳玻天目」茶碗 相国寺所蔵、は展示期間だった。これもお目当てのひとつ。



 ↓ 撮影可能なパネル。
   

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1707に展示室を出る。ほとんど一番最後になった。
一時的に 最後の人がみえた。
1時間半弱いたが、後半の第二展示室は相当に割愛した。
「本日 閉館時刻を過ぎておりまーす」と繰り返し、係員が叫ぶ。追われるように退出した。ぞろぞろと出て、
人の列に並んで、エスカレータで下る。はーと一息ついた。

観客といえば・・・・、今回はカップルが少ない(ホッ)。若いカップルといえば、二組~四組くらいだった(笑)。
年配者もいないし、子連れもいない。小中生くらいの子はゼロ・・・・。0歳児のベビーカーを押している人が売店の前にいたが。

外を見ると。ほとんど暗くなっている。平成館の玄関から出る。
コートを着る女の子がいた。この日は、寒かった。私はコートをまだ用意出来ていない・・・・。ベーシュのOLさんが着るようなスブリング?コートだ。同行者らしき男性二人と歩いていた。公園内を歩いているときもかれらは歩いていて、「社会学が」や「社会学的に見ると」などと言っているので、学生さんだろう。暗がりの中、ぞろぞろと 正門に向かって敷地を歩く。

 閉館時刻後門から退出。

特別展「禅-心をかたちに-」前期 鑑賞 東京国立博物館

10月30日(日) 
 「東京国立博物館」 特別展「禅」にやってきた。この日の気温は、最高でも13度と少しだった。曇天の寒い日だった。
 
 私にとっては今年の春に開催された「春の京都禅寺一般公開」in京都と、京都国立博物館での特別展「禅」「後期展示」の続編である(笑)。
 京都での最大の目的は「雪舟の水墨画」である「彗可断臂図」(えかだんぴず)の鑑賞であった。無事に鑑賞できた。さて、夏が過ぎて秋になり、気温も随分と下がってきた。東京での「禅」展では、「京都展」で鑑賞できなかった作品や「東京展」のみの展示作品の鑑賞である。

 15時15分くらいに平成館に行く。特別展の入場前に映像コーナーで特別展の紹介映像を視聴。映像はは35分あるので、結構長い。
 まずは、禅の歴史、達磨大師のことについての解説。岩壁を向いて坐禅している「達磨」に、振り向いてもらえるように腕を切ってしまった「だんぴ図」の解説がある。達磨が「一祖」で、その弟子の腕を切り落としたという「彗可」が「二祖」。三祖から六祖までの説明があった。
 だが、館内は暖かく、暖房が効いている・・・・。この日は、上記の通り、寒い日だった。よって、やや厚着をして出かけたのだ。不覚にも映像の途中で、あまりの暖かさにほてったのか、寝てしまった・・・・・・・(笑)。
 時折、目を覚ます。映像には、各寺院の紹介もある。建長寺など禅宗の寺の説明がある。最初に寺の門など、その寺を象徴する映像が流れ、次いでその寺の解説ナレーションがある。
 映像は途中から見たが、映像番組の最後近くでは岡山の「曹源寺」の紹介があった。多数の外国人が修行を行っている様子だった。曹源寺は、岡山藩主池田家の国元での菩提寺だったはずだ。

 あるタイミングでハッとおきて、目を覚まし、「あらら、寝過ぎたぞ・・・。」と思いつつ、約35分映像を視聴した??ので、15時40分頃に会場に入る。
 入場に際して、年間パスポートは使用できた。京都展とは別のスタンプなのでOKのようだ。つまり、東博の年間パス(安い方!)が「東京の禅展」見学に、京都とは「別の特別展」と扱いされて使用できた。ちょっと心配だったが、入場できた(笑)。 この数か月間、(入場出来るか、出来ないか)心配していて損をしたかな(笑)。

 二階にエスカレータを上がる。音声ガイドを借りる。

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大きな固定式のパネルに全国各地の禅宗寺院の写真が印刷されている。京都の寺院だけではなく、臨済宗でいえば神奈川の建長寺、円覚寺、広島の仏通寺などの本山のお寺の写真があった。曹洞宗の大本山といえば、総持寺、永平寺だが、実際に写真が印刷してあったかは、探しきれなかった。

 最初にあの写真にもなっている達磨の絵。

一章「禅宗の成立」の展示
 次いで、山梨の寺所蔵、国法の達磨像の展示。朱色の衣をまとっている。

 建長寺所蔵、北条時頼の木造があった。幅が引く、足のころもが左右にとんぎっている。真っ黒な上杉像は鎌倉国宝館で見た。 時代は違うが似ている。「宝物風入れ」では寺に戻るのかな。

 途中から、展示は、寺ごとの箇所もある。「東福寺」「建仁寺」や他方の本山、仏通寺もある。龍光院の金剛はんがあった。前回は見ることができなかった。 まずは、禅宗の高僧や達磨の絵などの展示


 旧大仙院の障壁画「禅宗祖師図」は、中国の高僧の水墨画で、狩野元信の筆。かなり古い時代の作品。重要文化財で東京の国立博物館で展示されていることがあった。山水図など別のシーンだったと思うが、覚えていない。このとき、撮影は可能だったので撮影した記憶はある。
 三階は第一章「禅宗の成立」の展示。展示リストには、ここのカテゴリーの展示作品として雪舟の「慧可断ひ図」(一部漢字が不明)のあるはずだが、展示は無い。


 第二章「臨済禅の導入と展開」となる。
 
 二階は奥に位置する「特別室」から見て行く。ここには、僧侶の絵画像などが展示されている。特別室での二番目くらいの展示に「宗峰妙超像」がある。重要文化財。同じ僧の像でも国宝の展示期間は、すでに終わり後期は重文の展示。つまり大徳寺の「大燈国師」の画像のこと。昨年10月の大徳寺本坊の「曝涼展」で拝観の際に「国宝」の画像は鑑賞した。よって、敢えて後期に来たのだ(笑)・・・・・・・冗談だが。
 今回展示されている重文は「妙心寺の所蔵」。しかし、重文といっても国宝の大燈国師像とほとんど変わらないような・・・。あの、タレ目で、ふっくらしたお顔で、特徴的な坊主頭の頭頂部の国師の像。生前の国師の風貌をよく伝えているのではないか。
 以前購入した「大徳寺曝涼展」の図録を改めて見てみると「国宝」は後醍醐天皇の「勅賛」があるので、大変貴重なのだろう。



 大徳寺の図録によると、国師と天皇は、密接な関係にあったことが書いてある。
 同じく宗峰妙超(大燈国師)の墨跡の展示がある。「関山」道号、国宝。これも妙心寺の所蔵。右から「山 関」と力強く、ふとがきしている。
 続いて、夢窓疎石の肖像画の展示がある。天龍寺の開祖で著名な人物。袈裟を着た普通の僧侶の姿だが、衣の色などで、位が分かるのでしょう。、夢窓疎石の随筆も展示があった。「天龍寺臨幸私記」。墨跡もあった。「太上天皇 持明院殿・・・・」とあったような。太上天皇とは、後醍醐天皇のことであろうか。天皇の追悼の意味を込めて書いたのだろうか。 

 鎌倉時代、南北朝時代の禅宗が日本で発達した時期りの展示からスタートし、室町、戦国時代へ時代が下っている。
 
 展示室を見ていく。「足利義満像」がある。教科書で見る絵と同じような、違うような・・・。子の四代将軍の「義持」の賛文がある。義満没後77日忌に描かせたそうだ。
 将軍 義満とのエピソードが伝わる「一休宗純」の像もある。重要文化財。普段、歴史資料などて見る一休の像は、この写真である。自賛している。賛文は「臨済子孫不知・・・」のような文字が。「××を知らないが、・・・・」というような文章か。下の署名欄のような箇所には「三十年大徳禅寺 天下・・・」とある。
 一休宗純墨蹟のうち「遺誡」には「老僧身・・・」、やはり「大徳禅寺」とある。老境に達した一休が色々と教えを遺したのだろうが、この人「老いてもますます御盛ん」の「オキテ破りの僧侶」としても有名だが。あっしも、あやかりたいものだ・・・・・・というのは、冗談(笑)。
 


 全国各地の禅宗寺院の紹介がある。写真が壁に掲示され、ガラスケース内部にゆかりの宝物が展示されている。かつての「都」の寺院だけではなく、臨済宗でいえば「武家の都」、鎌倉の建長寺、円覚寺などの本山のお寺の写真があった。曹洞宗の展示は無い。特別展のサブタイトルの通り今回は「臨済宗」の展示が基本。
 
 京都展では、その事実に気付かず、「あれ、曹洞宗の寺院」はどこかな、と探してしまったのだ・・・・。
 が、映像で紹介された岡山の曹源寺は、曹洞宗の筈だが・・・・。




 

「書の美、文字の巧」 中期 鑑賞 三の丸尚蔵館

 2016年10月30日の日曜日のこと。

 早くも、中期の会期末も近づいて来た、宮内庁三の丸尚蔵館・書陵部主催 「書の美、文字の巧」展。
 副題は、今回の中期は「豊かな書-歴史を伝え、書風を展開する」だ。
 前期を見たのは、会期の終盤だった。その直後の10月15日から中期の展示が開始されたのであるが、会期は11月6日の日曜日まで。三週間程度しか会期が無い。あっという間に終了してしまう。よって、急きょ、この日の鑑賞をすることにした。
 前期は「玉泉帖」をはじめ、超国宝級の逸品が展示されて。中期は、時代がやや下がり、鎌倉時代、南北朝から室町、戦国時代~江戸時代と「武士の政権」の時代の作品が展示の中心。
 中期でも、その内容を細かく(私は)理解できないが、出品目録を見る限り超国宝級の逸品ぞろいであろう。

 この日は、昼食を有楽町の鹿児島アンテナシヨップ二階の「いち・にい・さん」で食べ、先に重要文化財「明治生命館」を見学しました。
 (見学記は、後日掲載予定)

 和田倉門から、皇居のお堀端を歩き、旧大手門をくぐり、三の丸尚蔵館に向かいます。
 途中、パレスホテルのそばのお堀で白い「鷺」が一羽いた。
 入館します。混雑している。外国人も多い。ガイドブックを片手にやって来ている外国人も多い。恐らく「無料で日本の皇室の珠玉のコレクションを見ることが出来るミュージアム」と紹介されているのでしょう。見学時間はこの日も20分くらいでした。

 入館すると、まず最初の展示は、「足利尊氏の書」、掛け軸になっていて書には「・・天下静謐・・」とある。
 次いで、隣の展示が「花園天皇宸記」。鎌倉時代、西暦でいうと1331年なので、幕府の末期。打倒幕府の時代
。書に「・・・西園寺大納言・・・」の文字がある。すでに、近衛、徳大寺、西園寺など、藤原氏は各家が分立していたと知る。
彼らの子孫(家名を受け継いだもの)は、数百年後の近代日本でも政治家として国家の中枢に参画した者もいる。その政治の結果は・・・・。私は知る由も無いが・・・・・。

 室内は、最初の展示作品の前から、混雑している。次に 「後花園院御文類」があった。

 真ん中、平ガラスケースには「手鑑」の展示が。「前田利為から献上された品とある。加賀前田氏の家柄で、明治、大正から昭和戦前期にかけての当主。戦死後、陸軍大将に昇進したことでも知られる。

 家康から秀吉などの筆になる和歌もある。 折りたたみ式で その部分だけ開いて展示してある。
13\17世紀とある。かなり時代は長い。 「へー
こうやって筆跡を見たんだね」と話をしている人がいる。

 奥の壁のガラスケースには、「紫式部石山参詣図」などが展示されていたと記憶する。別の作品でも(近いシーンを)見たことがあるのだ、「石山寺を参詣」する様子。牛車にのった式部の一行の様子を描いている。土佐光元作で 三条西公条の賛とある。賛文の内容は、読めないが・・・。


 天皇の書で、ひたすら「南無阿弥陀仏」と書いてあるものもある。外国人が多い。欧米人も多い。中国人は以前よりも少ない。韓国人はいない。
 順路を進んだ、壁側のガラスケースには「圓山応挙」の「富士山の絵」もある。なと、有栖川宮が賛文を書いている。やはり、その文字は読めないが。「応挙」の旧字体 タテの丁寧な楷書のサインは間違いない、他の応挙作品と同じ筆跡だ。確かに応挙の作品だ。

 同じ列の壁のガラスケースには、女性天皇の明正天皇の書もある。女性らしい、文字がおおきく、やわらかな感じだ。
 「古歌屏風」。斜めに丸い文字で 和歌を書いてある屏風があった。八条宮智仁親王の筆。親王は、後陽成天皇の弟で八条宮家、のちの桂宮、を創設したとある。有名な桂離宮も 親王のもとは邸宅だったのような説明がある。戦国から江戸初期の親王で 古今伝授に優れた親王であったそうだ。


 売店では、前回は売り切れだった、今回の展覧会の図録を販売していた。2,000円で購入する。レシートを見ると 「重版」と御丁寧に書いてある(笑)。



 ↓ 館の入口。この展覧会の掲示板の様子。前回と変わっていないが・・・・。
  入口に掲示されている写真は「玉泉帖」かな。
 

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なごや旅 帰路 (足柄SAで水汲み)

 2015年12月6日。 
 題して「なごや旅」。
 
 徳川美術館の「源氏物語絵巻」特別公開最終日にあわせて、訪問。
 名古屋市内の山本屋本店のあるお店で「味噌煮込みうどん」を食べた。

 食事の後、18:25頃にお店を出た。。東名高速道路の名古屋インターへ。店を出て、住宅地の間の道から長久手方面へ。
お店で、料理が来るのを待っている間に、スマホの地図でガソリンスタンドを探しておいた。途中にエネオスがあり、ガソリンを満タンに入れて、高速道路へ向かう。長久手から東名のガード下をくぐり、インターに接続する国道へ。意外に交通量が多い。その道から名古屋インターに入る。高速に入る前の道、交差点から(高速のインターへ接続する)国道へ出る交差点も交通量も多い。信号のずっと手前で、渋滞かノロノロ運転であった。
 戻るような感じで 東名の名古屋インターへ入る。左折で入れるので、右折待ちがなくてよい。先のお店から道なりだと、交差点で右折して、更に名古屋インターに入るときにも右折なので、こちら(長久手)経由の方が速いかも。自宅まで夜間走行である。

 東名と伊勢湾岸道との合流地点、豊田ジャンクションも混雑していない。三ヶ日でJCTで新東名に入る。途中、静岡SAで休憩をする。更に進んで、御殿場JCTから、再び東名道へ。東名の御殿場インターを通過し、その先、 
 21時30分過ぎに足柄SAに到着。自宅まで、約1時間のところに戻って来た。久しぶりに、SAの敷地内にある水汲みスポットでポリタンクに水をくむ。
 隣のドックランには、だれもいない。

↓ 真っ暗な中、水汲みをする。

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足柄SAエリアの端、駐車場様子。日曜日の深夜とあって、車の数もだいぶ少なくなっていた。

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 水汲みのついでに、少し休憩した。
 再び出発した。予定通り、足柄から約1時間で自宅に着いた。圏央道が開通したおかげで、厚木インターから自宅までの所要時間が今までよりも短くなった。

 これにて「なごや旅」はおしまい(笑)。
 さあ、いよいよ年末だ、という気分に・・・。



名古屋 「味噌煮込みうどん」 食事

 2015年12月6日

 博物館「明治村」を見学、その後、名古屋市内の徳川美術館に移動し、「源氏物語絵巻」の特別公開を鑑賞した。
 徳川美術館を16時50分頃に出る。ぐるりと徳川美術館の敷地の壁の脇を歩いて、コインパーキングへ戻った。車を出庫させる。
 日没時刻を過ぎている。だんだんと、周囲は暗くなっていた。だが、東京よりも日没時刻は遅い。東京では真っ暗な時刻でもここ名古屋ではまだ明るい。

 さて、帰途につく訳だが、その前に食事だ。明治村で昼食は食べていないので(スナック、軽食のダラダラ喰い)、夕食はちゅんと食べたいな(笑)。
 名古屋名物といわれる「味噌煮込みうどん」に再度チャレンジすることにした。
 車で「山本屋本店」の名古屋南インター店へ向かう。徳川美術館から東名のインターに向かう途中ではなく、やや離れたところにある。
 大曾根から、東へ走る。車線が広いのであるが、ここ名古屋の道路のバスレーンがわかりにくい。と、猛烈にうしろから飛ばしてくる車がある。うっかり、車線変更すると、後から追突されとしまう・・・・・。やはり、トヨタ車だ。「ナゴヤ走り」の車をまさに目撃・・・・・・・。車線が広いし、後から猛烈にスピードを出す車が迫って来るので、右折がしにくい。
 星が岡を通り、東山の先で右折。かつて、東山動物園に来たことがある。この付近は、起伏のある広い度老で交通量も多い。渋滞していた。そして、二車線の道路へ右折する。その先、坂道の底、環状線のインター手前で急に一車線に。更に進み、左折すると「極楽」という地名のところに店があった。市内での移動であるが、30分以上かかった。
 ↓ 冬の寒い夜空にこうこうと輝く店の看板。

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 駐車場には車が多く停まっている。店の入口では、待っている人がイスに座っている。まだ、夕方の6時前であるが、待っている人がいる。が、すぐに呼ばれた。
 座敷の席に案内された。

 ↓ 座敷の様子と、食事の前に出されたおつけもの。白菜ときゅうりの漬物。私は「漬物男」なので(笑)、(うどんが来る前に)どんどん食べてしまった・・・。
 「うどん」以外に「漬物」が付いているのが良かった。

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 注文したのは「名古屋コーチン」の煮込みうどん。
 注文して10分ほど出てきた。漬物を完食する前に「本食」の「味噌煮込みうどん」が出てきたのでよかった(笑)。
 ↓ 生卵が二個あるは、子供のぶんを私が食べるから。
  お肉は「名古屋コーチン」。 
 「味噌煮込みうどん」をフタを取り皿しにして、よそるのは常識(笑)。4年前に初めて「味噌煮込みうどん」を食べたときは、知らなかった・・・・(苦笑)。あのときは、「取り皿が無いな~」と思いつつも、直(じか)に、はしを突っ込んで、口を熱い陶器鍋に近づけて食べていた・・・・・・・・・・・。今回は、「知ったかぶり」をして食べた苦笑)。。


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 このブログでも、何回も書いているが、ツマの影響か、生まれ持ったものか分からないが、特に上の子は、生卵を極端に嫌う。だから、私が二個食べる。関東風の「すきやき用の卵」も絶対に食べない。讃岐うどんの「かまたま」も決して食べない・・・・。別に玉子アレルギーでは無い。ちなみに、ウチの子には食品の「五大アレルギー」をはじめ、アレルギーは無いのだが。
 同じ名古屋関係でも、「コメダ」のモーニングのゆでたまごは、バクバク食べる(笑)。

 店内は、夕方6時を過ぎるとほぼ満席になった。店の待ち合い席で待つ人も多くなる。アルバイトで働いている店の子の多くは、高校生だろう。上の子と同じくらいの年齢。
 ↓ 店の入口の横。

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↓ 店の座敷の様子。店を出たときに撮影。


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 会計を済ませた後、レシートを見ると「煮込みうどん 山本屋本店」と書いてある。「みそ」だけが、煮込みうどんでは無いのだ。たぶん。レジを打っていた女の子は、明らかに高校生のアルバイトだ。ウチの子に同じことが出来るのかな~??(笑)。
 次いで、住宅地の中の道を抜け、広い通りに。起伏のある道を通り、東名高速の名古屋インターへ向かった。






明治村 見学 正門付近散策、お土産購入

 2015年12月6日。 (明治村 見学)

  正門に近い、博物館「明治村」の「一丁目」を散策した。「森鴎外、夏目漱石住宅」から木の中の歩道を下った。丘の下へ歩く。この小さな歩道を「偉人坂」という。「鴎外」「漱石」やここに保存されている建物にゆかりの深いまたは所有者 西郷従道や乃木希典にちなんだ命名であろう。

 「偉人坂」を下ると、鉄道局新橋工場(明治天皇御料車展示)や二重橋飾電燈の前に出た。最初に見た三重県庁舎を横に見ながら、坂道を登って、正門へ戻る。
 
 正門のやや先に「大井肉店」がある。明治村では一番有名なレストランだ。
 現在も「牛鍋」を出す店として営業をしている。


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 「大井肉店」は午後二時を過ぎても「満席」の表示だった。「満席」の札がかかっている。
 西洋建築の建物。玄関ドアの上には、半円のガラス窓が。
 店舗は二階にあるようだ。店の一階部分は自由に入ることが出来る。二階だけだと、店の席数は少ないと思う。この建物自体、あまり床面積は広くない。
 二階への階段の昇り口に「飛騨牛の肉」の見本の展示がある。いや~、高級牛肉ですね~(笑)。


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↓ 店の前にあるメニュー。
 「飛騨牛」の「牛鍋」である。「文明開化の味」、メニューは松と「竹」と「橘」がある。「梅」は無いようだ。竹と橘は同じ値段である。
 「大井肉店」で食事をするために明治村にやって来るという人も多いだろう。

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 今回、園内のレストランは混雑していたし、私達自身も見学する時間が限られていたため、お昼は食堂、レストランでは、食べずに、「スナック、軽食」系を買って「ダラダラ喰い」であった。もっとも、ウチはいつも「ダラダラ喰い」です(笑)。あと、上の子は少食なので、昼食はほとんど食べないのであるが・・・。だから、成育状況が悪い・・・・、といつもツマとケンカになる・・・・・。

↓ 退出の直前、門の内側から撮影。
 外は、バスロータリーになっている。

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 正門近くのお土産物店「ミュージアム」で自宅におみやげを買う。「園内ゲーム」のゴールがあり、参加者が集まっている。「答えあわせ」をしていた。ゲームは、家族連れや女の子のグループが中心となって参加しているようだ。カップルも参加しているが。参加者は、若い人が多い。参加はしていないが、結局私はゲームの仕組みが理解できなかった・・・・(苦笑)。
 
 正門は、既述の通り、名古屋にあった旧第八高等学校の門。園内を巡ってみると、中京圏の建物移築が比較的多い。重要文化財「三重県庁舎」が最たる例であろう。岩倉変電所、三重県の学校、名古屋衛戍病院、歩兵第六連隊兵舎などだ。
 また、以前の館長の出身校の関係であろう、八高以外に、北陸、「四高」や金澤関係の建物も移築されている。四高の物理教室建物、四高の武術道場、金沢監獄だ。人脈によって昔の建物が移築されたということは、反対に本来は保存されるべき貴重な遺構なのに、取り壊しされた建物も数多く全国には存在することを意味するのではないか。
 最後は、本当に駆け足になってしまって、十分に見ることが出来なかった。またの機会としよう。
 午後2時半過ぎに、明治村をあとにした。すでに窓口の行列は解消されている。


 駐車場へ「歩道の無い」道を歩いて戻る。午前中に停めたときよりも、車の数は少なくなっていた。ここの管理人の男性とその子供がいた。先程、たき火をしていた人だ。ここの地主さん家族であろう。

 ↓ 自宅に戻ってから食べた「明治村バタークッキー」

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博物館「明治村」見学 「森鴎外、夏目漱石住宅」

 2015年12月6日。 (明治村 見学)

  博物館「明治村」の「一丁目」を散策する。ただし、次の予定もあり、時間が無くなってきたのでかなり急ぎ足だ(笑)。そろそろ、村を退出しないといけない時間だ。


 重要文化財「西郷従道邸」を見て、坂道をやや下る。木に囲まれて「森鴎外、夏目漱石住宅」が
建っている。
 先の乃木の官舎から「従道邸」へ移動「乃木から西郷へ」、更に「鴎外、漱石へ」という訳だ・・・・・(苦笑)。
乃木と西郷の両者は薩長政府の軍人、高官だったから当然知り合い。鴎外は陸軍軍医であったから、乃木と西郷とも仕事での関係があっただろう。特に乃木と鴎外は同じ陸軍に在籍する者として少なくとも鴎外の欧州留学時代から、乃木の死まで密接な関係にあっただろう。
 さて「森鴎外、夏目漱石住宅」はごく普通の昔の住宅。平屋の建物。著名人、二大文豪が住んでいたことを除いては、特に見どころがあるのか、までは知らない・・・・。
 説明によると鴎外が先に住んでいる。その後に漱石が居住している。
 漱石は、当時高名な文学者で軍医の鴎外が住んだことを知っていて、ここに住んだのか?。それとも偶然なのか?、説明は無いので分からない。この住宅のかつての所在地は「千駄木」。この「千駄木」がポイントではないか?。
 その後、千駄木に鴎外は自邸を構えた(観潮楼)し、漱石は、当時東京帝国大学、第一高等学校が勤務先であったから、通勤に便利なので、ここに住んだのだろう。


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 作家になる前(つまり、一高や帝国大学講師?、教授?時代)に漱石は、鴎外と面識があったのかは、分からない。
 この住宅に住んだ時期・・・・は、説明によると・・・・、
 鴎外は、明治23年から一年余住んだとのこと。
 欧州留学から帰国して、(自己の意思に反して)ドイツからやって来たカノジョ「オンナ」と別れさせられ、親戚の西周のあっせんにより結婚し、明治23年に長男が生まれた。「舞姫」を発表したのは、同じく明治23年1月のこと。結婚中に、自分の体験かどうかは知らないが(笑)、「ドイツに留学していた間、ドイツ人の女性を妊娠させました。」という小説を発表したら、そりゃ、新婚の若妻(まだ十代・・・。)は仰天するでしょう。しかも、発表したのは、若妻の妊娠が判った直後ではないでしょうか?。
 鴎外が離婚をしたのは、この家に住む直前のことだった?。離婚の後に、(生まれたばかりの長男を連れていたのかは不明だが)この家を借りて住んだ推定。コレ(離婚して家を出て、どこに住むか)って、個人の生活レベルでみると結構重要ですね(笑)。

 漱石は、明治33年‐39年の日露戦争を挟んだ時期にこの家に住んだ。「吾輩は猫である」もここで執筆したそう。この後、漱石は帝国大学の職を辞めて、作家としてスタートする。当時の常識では、官を辞して新聞社に入社して作家となることは、考えられないことだったのでは?。漱石が、人生のまさにターニングポイントを過ごした家であるといえる。
 この住宅は、あの「猫」のくぐり戸など、当時の様子を残しているそう。
 いや~、文学史上、大変重要な住宅です。
 
  ↓ 庭に面した部屋。廊下がガラス戸になっている。建物の左に突出ししているのは、「厠」かな?。

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 庭に面した部屋の戸が開いていた。外から室内が見える。漱石の書斎であったのか?。
 漱石の写真バネルが展示してある。


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 玄関。内部に入らなかった。「入れなかった。」のかは忘れた。内部見学できるか、時間を決めてガイドはあるのか?、など明治村のウェブサイトには、私が見る限りは記載が無かった。現地や個々の保存建物に行って、表示を見るしか。ないのかな?。

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 「森鴎外、夏目漱石住宅」から木の中の歩道を下る。丘の下へ。この小さな歩道を「偉人坂」というそうだ。
 「偉人坂」を下ると、鉄道局新橋工場(明治天皇御料車展示)や二重橋飾電燈の前に出て、視界が急に開けた。目の前には、三重県庁舎が建っている。坂道を登って、正門へ戻った。




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