良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2017年01月

 

国立歴史民俗博物館 常設展示 見学11 (第5展示室)「近代」 

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第5展示室) 

 次の部屋へ廊下を進む。第5展示室は「近代」。期間は、幕末明治から昭和の始めまでだ。明治維新から「十五年戦争」が始まる時期までということが出来る。大日本帝国の興隆と発展、そしてあの戦争へ向かう時代ともいうべきか。

 展示室ま角に、「つき米(ツキヨネ)学校」の模型がどんとある。以前、訪れたことがある。そのときに現地では写真撮影をしなかった・・・・。2013年6月のことだった。さくらんぼ狩りの後に、富士川に沿って南下し、静岡に出た記憶がある。

 代わりに今回、模型を撮影。思わぬこところでリベンジできた(笑)。

 学校建築の写真がいくつかある。甲信地区の学校についての説明があり、いくつかの当時の学校の写真が。須玉学校の写真もある。


DSC06221



DSC06220



 鉄道の模型、横浜の港の模型など。 ↓赤レンガは現在でもありますね。
 現在はショッピング、観光スポットだ。

DSC06222


 展示室内のアーチをくぐり、次の部屋へ。
 その途中で「被差別部落」についても展示がある。博物館で部落問題についてここまで踏み込んだ展示は、なかなかない。展示の性質上、当然であるが写真撮影は禁止だ。
 死後の差別についてまで解説がある。墓石にも刻まれていたと展示があった。その墓石のレプリカの展示がある・・・・。幼児で死んだ子にも 差別的な戒名を授けていた。具体的にどの宗派が差別的な戒名をつけていたかまでは言及していないが、×××宗は、そのような戒名をつけいていたことを私も知っていた・・・。が、その宗派はでけでなく、墓石の戒名から察すると〇宗の寺院、その他の宗派でもつけていたらしいのだ。
 近代以降の水平社についての運動の解説もあった。
 
 アイヌについても展示がある。「二風谷」地域の写真や説明がある。二風谷ダムの様子も写真展示があった。
 屯田兵の家の模型もある。以前、訪れた現在の旭川市周辺ではなく、いち早く開拓に屯田兵が入った琴似地区の模型だった。

 「近代」展示室の最後の展示は 大正か昭和はじめの街の様子の再現。
 遊郭につながっていたという、商店の様子。花柳病予防が目につく。遊郭と花柳病には密接な関係があったのです。(当たり前だけど・・・・。)
 いつも、カユがっていたのかな~(なったコトが無いので分からない~が・・・。)。

DSC06223


 やっと見終わった。すでに午後3時を過ぎていた。食事の後、3時間近く見ていた。思ったよりも規模が大きい。じっくり見ると1日では、とても足りない。


 「近代」の第5展示室を出る。写真はあまり撮影しなかった。近代の展示は別の博物館などで見たこともあるし、今まで古代~近世の展示室まで、結構撮影したので「ここらでよいかな」と思ったから(笑)。

 半地下の中庭に面した廊下。第六展示室と第五展示室は隣同士だ。
  廊下を最初に入館した入口に戻ると企画展示室がある↓。
  更に構造が分かってきたゾ(笑)。


DSC06153

 一旦 外に出る。中庭のコンクリ広場だ。

 

国立歴史民俗博物館 常設展示 見学10 (第4展示室) 「民俗」

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第4展示室)  「民俗」。

 「第3」展示室は、半地下の中庭に面していた。次の第4展示室へは一旦、外に出る構造になっていた。
外に出ると、中庭になっていてコンクリ打ちの広場だ。第4展示室に向かう前に、先に見学した半地下階の第6展示室の廊下も見える。「コ」の字状の建物で、なんとなく館の構造が分かってきた(笑)。

 ↓ 左が企画展示室。写真の右には、第4展示室への入口があった。


DSC06216

 第4展示室は、上記の通り、中庭に面するゆるやかな階段の途中から入る。「民俗」テーマの展示室だ。
「歴史民俗博物館」であるから、「本領発揮」の展示室かな(笑)。
 「民俗」の最初の展示は、ななんと「現代の スーパーマーケット」で販売されている正月用品の再現。デパートで販売されている正月の「おせち」の模型もある。
 家の様子の展示もある。昭和後期かに平成時代にかけての住宅の部屋の様子。現代に生きる私が、子供の頃から生活して成長した部屋に酷似している(笑)。 学習机、イスなど私が実際に使っていた物と変わらない・・・・・・・。


 これらの現代消費生活の展示コーナーは撮影禁止。色々なメーカー(民間企業)の商品、製品が陳列されているからだろう。いきなり、現代の私達の生活に関する展示なのだった・・・・・。ピンと来ないな・・・。同じ現代生活の展示では江戸東京博物館の「ルーズソックス」「メイド服」などの展示の方がしっくりくるかな(笑)。

 続いて展示室は、階段を降りる先につながっている。スロープのようにもなている。バリアーフリーの構造。お祭りの大画面映像。にぎやかなお祭りの様子の映像が流れている。
 そのスクリーンの横には、広島県の庄原の神楽のお祭りの再現模型があった。
 この付近からは撮影が可能な展示ゾーンであった。
 
 ↓ 庄原の神楽の舞台様子。奥に祭壇がある。しめ縄が立派だ。この祭壇の飾りの内容は、中国山地に共通する習俗ではないかなと感じた。立派なしめ縄は、出雲大社の巨大なしめ縄やその信仰にも共通するのかも。距離的にも近いし。


DSC06218

 広島県の「庄原神楽」については、映像を見たことがある。
 銀座の広島県アンテナショップ「TAU」の三階、イベントスペースのテレビで放映していた。
 同フロアにあるレストランで食事をしたときに見たことがある。 

↓ 「比婆荒神神楽舞台」の説明。

DSC06219

 畳の一室に装飾をこしらえ、奥に祭壇を設置し、踊りというか神事、儀式を行い、奉納したのだろう。
 比婆山信仰の一種のようだ。比婆山は、広島県にある山。さほど高い山ではないが、信仰の山のようだ。山岳信仰に一種であろうか。
 「比婆」といえばその名を冠した豆腐もあったな(笑)。

 広島の神楽以外にも展示がある。
 こちらは沖縄のお祭り、というか祭祀の様子も展示がある。

DSC06217

 「のぼり」には太陽が表現されている。「尊農」の文字も。何を意味すのかは忘れてしまった。
 お面をかぶった人物は琉球かすりを着ているのだろうか。獅子舞も沖縄にあるのですね。
 

 その他の展示としては「河童伝説」がある。その模型もあった。模型はぐろい、グロイ(笑)。各地にかつて棲息した、動物のかわうそではないかな。カワウソが川で水死する例もあり、その死体と河童の姿を重ねたのだろう。
 日本の川にはニホンカワウソがたくさん生息していた、その細長い胴を持った姿は、人の姿と重ねて架空の動物兼人間「カッパ」となったのであろうか。
 妖怪伝説ピリケン人形もある。ビリケンといえば、大阪の通天閣にも人形が飾ってあった。

 葬式ついての模型と解説もある。葬列の様子の写真や用具の説明もある。関連年表もあり、葬儀が式場にひろまったのは1990年代以降とのこととある。葬式の在り方も都市化、核家族化で戦後急速に変わって来たということか。つい先日、身内の葬式も式場であったので私は、しばし展示を見ていた。
 
 日本の民家の模型もある。気仙沼にあった民家のもの。震災後、東北を意識した展示なのか。また、一般的な魚村の写真も。とある海の近くの村と田の様子。説明によると能登地方の漁村のようだ。
 「海の近くにありながら、海に背を向けて生活している集落もある」の説明がある。海の近くまで、田んぼ、つまり棚田が迫っている。漁業は、あまり行わず、稲作と畑作で生活をしていたようだ。
 全国各地の焼き物の解説もある。主な焼き物の展示パネルだ。
 関東地方では「益子焼」。その他の地域の焼き物として、常滑、瀬戸、美濃、四日市の万古焼(ばんこやき)もある。信楽、九谷なども図示されている。こうして地図で見ると中部地方に多い。良質な土が産出されるためであろう。
「萩焼き」はあったかな?、忘れた・・・というか見落とした・・・・。

 九州は、意外にも焼き物の山地が少ない。有田と波佐見?焼。「有田焼き」は全国で一番有名ではないか?。備前について言及がなかった・・・・。備前は、材料となる土が田の底からの採取だからだろうか。山から出る土の産出地ではないからだろうか。沖縄の壺屋焼きも展示されている図に掲載がある。


 合掌つくりの民家の写真もある。現在と昔の集落の様子の比較がある。昔は皆、合掌つくり家だったいうのは本当だ。現在は低いトタン屋根に代わっていまっている・・・・・。観光地、文化財保護地域として指定された地域のみに合掌造りの家が残っている感じ。かつて私も訪れたが、白川郷、五箇山の相倉(あいのくら)などだ。
 住宅としては、現在では維持が難しいのだろう。
 漁業についての展示もあった。更に鰹の一本釣りの船や漁船で使用されるレーダーの模型の展示がある。「民俗」というよりは、「産業」に近い展示かも知れない。

 一通り見て、次の展示室を向かった。







国立歴史民俗博物館 常設展示 見学9 (第3展示室) 

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第3展示室) 「近世」

 展示室は、まず日本橋などかつての江戸の町の模型がドーンと置いてあり、傍らの畳の部屋で、江戸時代の文化の体験ができるコーナーがある。
 次の部屋には、先の記事で紹介した北前船などの模型の展示があった。
 江戸の模型ゾーンの付近では、警備員(男)が看視の制服の女性と私語をしている。「今日は、人が多いな。先週よりもはるかに多い。」と。急に暖かくなったし、お彼岸の連休なのでそりゃ、人は増えますよ。子供の入館者も多い。春休みも近いし、気候も暖かくなってきたのでお出かけです(笑)。

 展示室の端の部分で近世の「農村」についての展示があった。農村の家や農業の様子、暮らしなどの模型の展示であった。
  北前船の模型と同じ部屋には、江戸の「旅」などについての展示もあった。

 ↓ 「道標」の模型。 奥には、北前船の模型が。

DSC06211



 ↓ 寺社縁起 の複製品。
  絵図で寺社の由緒などを説明している。現在のガイドブックといったところか。出版技術の発達も旅を後押しした理由の一つと説明にあった。出版物、印刷物により、庶民にも旅に関する情報が広まったのであろう。

DSC06209


 ↓ 道中日記の模型。
   伊勢参りなど寺社参詣の途中、日記をつけていた。一般庶民も紙に日記を書いていたとは驚きだ。紙は貴重品であったろうし、製紙技術と紙の流通が整っていたことを意味するし、何より、寺子屋に代表されるように庶民でも読み書きができたのだ。高い識字率というのは、日本の文化の特長であろう。


DSC06210

 ドーンと、当時の旅籠の再現模型がある。大きい。二階には行燈の光が漏れている。人影が写っている。給仕をする女や宿泊しているチョンマゲすがたんおじさん達の姿だろうか。

DSC06213

 ↓ 帳場の板間。階段の下が収納になっている。
 

DSC06212

 現在の三重県の津市にあった椋本宿の旅籠の再現だった。
 つまり、江戸を起点とすると東海道から亀山宿で分かれて、更に南下。「お伊勢参り」の途中の宿ということになる。

 企画展示として「和宮ゆかりの雛かざり」があった。この「近世」の部屋の奥での展示あった。明治維新の時期を挟んで、徳川家達の娘とその娘に代々伝わった「お姫様」の「お雛様」の展示だった。古いながらも立派なお雛様がたくさん展示されていた。
 雛人形は家達から「娘の鷹司綏子と松平綾子に伝わった。」と説明にある。鷹司家は、旧五摂家で公爵の家柄。徳川から嫁にいく際に持参したのでしょうか。

 ↓ 企画展示についてのパンフレット(部分)

!cid_46ECAF1F-C7B7-427C-AE53-9F93A01CCBE9

 展示期間は2月下旬から4月3日(日)まで。

 すでに、3月3日のひなまつりといえば、(訪問日現在で)日付を過ぎている。しかし、旧暦ではまだ3月3日ではない。江戸時代は現在の暦を使っていなかったので、太陰暦が暦だった。太陰暦ではまだひなまつりを迎えていない。よって、この時期にお雛様を飾ることは当然なのだ。だから、会期も4月3日までなのですね(笑)。

 あっ、ウチでも旧暦で、お雛様を飾っています。理由は「(現在の)3月3日の雛祭りを過ぎてすぐにしまうのでは、寒いので片付ける気がしないから。出してすぐに片付けるのは、面倒だから」というシンプルな理由です(笑)。
 通常、節分を過ぎるとすぐにひな人形を出して、3月3日まで28日程度(笑)、飾るのでしょうが、ウチの場合2月では、まだまだ正月気分の気だるさ(笑)が残って、出す気分がしない。2月の末になって(ようやく)出すので、3月3日を過ぎてから、すぐにしまうと1週間も飾っておく期間がないのだ・・・・。よって、ダラダラと旧暦まで飾るのです(笑)。






国立歴史民俗博物館 常設展示 見学8 (第3展示室「近世」)

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第3展示室) 「近世」。

 「中世」の部屋を見て、次の部屋へ廊下を進む。廊下になっていて、スロープを下るように歩く。
女性の見学者達が「迷路のようでわかりにくいね。」と話ながら同じく廊下を歩いている。

 ↓ 廊下の途中にあった、休憩スペース。
   他の博物館などの施設のパンフレットなどが置いてある。


DSC06199

 第三展示室は「近世」。つまり江戸時代。よって、展示内容は「江戸東京博物館」ともかぶるような・・・・・・。部屋に入って、最初の展示は「江戸の日本橋の模型」。
 ↓ 模型と展示室の様子。壁側のガラスケースでは、昔の着物が展示されている。
  模型の「下」側から撮影。

DSC06202

 なぜ「下」かというと、模型の川に浮かんでい舟が皆、下を向いているので何となく川下が下側で方位でいうと、南というか、東というか、南東というか、隅田川に注ぐ方向であろうと(笑)。

 日本橋??の手前から。↓
  日本橋としすると、橋を渡った左の角地が現在の三越のあるあたりかな?。
  通りの右側は、ええっと、現在外資系のコーヒーチェーンがある辺りかな?。

DSC06203

 ↓ 日本橋から更に下流の江戸橋付近の様子。

DSC06204

 模型の端。江戸橋の下流からの(模型の)眺め。
 「江戸橋広小路」と説明がある。明暦の大火の後に町屋などをつぶして、「火除け地」として広い土地をつくった。

DSC06205

 ↓ 絵図の複製品の展示。
   明暦の大火の前には、広小路も無い。ついでに日本橋はあるが、江戸橋はまだかかっていない。
  時代は下り、18世紀の絵図になると川岸の三角形のような場所に広小路が設けられている。江戸橋もちゃんと絵図にある。

DSC06206

 ↓ こちらは、上流の常盤橋付近か。火の見矢倉らしき建物がある。
  川岸には河岸があり、鰹節などの海産物が水揚げされていたことも解説があった。
  物資の荷揚げで、舟がたくさん繋留していて、物資がたくさん集まっている。

DSC06207

  このブロクでも以前書いていますが、日本橋は「鰹節」の町なのです(笑)。
 現在はビルが立ち並んでいるビジネス街、金融街ですが、「現代」においても鰹節のお店が残っています。決して昔の話では無いのです。

  次いで展示を見ていく。
 アイヌなど北方の民族の衣装の展示もある。昆布、干しあわび、干しなまこなど蝦夷の俵物の展示も。

 ↓ 気になった展示。「絵草子屋」の再現模型。
  

DSC06200


 絵を販売していたそうだ。現在でいう、ブロマイド屋というか写真販売屋というのか。
 当時の江戸の人々の習俗がわかります。

DSC06201

 北前船の模型もある。蝦夷地、現在の北海道や北方領土まで航路があったという解説している・・・・・。が、本当だうろか。現在、ロシアと日本とピシャリと遮断されている-北方領土の国際情勢の現状においては、にわかには信じがたい。北の海には、あまり国境は無かったようだ。
 北前船は明治時代の始めまで最盛期だったよう。鉄道の開設などで衰えたようだ。

DSC06214


 北前船で交易をしていた。
 アイヌなど 北方の民族の衣装の展示もある。昆布、干しあわび、干しなまこなど蝦夷の俵物の展示も。
 ↓ アイヌの衣装の展示とともに、「昆布」「干し鮑」「干しナマコ」「干し帆立」などのリアルな模型がある。
 「俵」に入れて運搬したから「俵物」ですね。

   いや~、おいしそうです(笑)。現代においても高級品ですね。

DSC06208


 「昆布」は利尻か羅臼か?(笑)。
 ↓ 北前船の模型の手前には、当時使用されていた方位磁石の模型が展示されていた。
   当時の高度な航海技術の様子がわかる。

DSC06215



国立歴史民俗博物館 常設展示 見学7 (第2展示室「中世」)

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第2展示室)。 


 最初の第1展示室から次の部屋へ。第2展示室は「中世」のテーマ。
 ガラスケースの中に文化財の複製品が展示されている。よって、基本的に撮影が可能。

 ↓ 御堂関白記の複製。5日、6日、7日と日記をつけている。
       説明によると、道長自身が金峯山に参詣したときの日記の部分の複製。
   「経巻を埋納した時の様子は、御堂関白記にくわしく記されている。」とあった。

DSC06185

↓ 御堂関白記の複製。5日、6日、7日と日記をつけている。丁酉、戊申なども毎日ちゃんと書いてある。
   埋めて奉納?したときの様子はどこに、何と書いているのかは・・・・、読めない(笑)。  

DSC06186

 藤原道長が奉納した経筒など国宝「金銅藤原道長経筒」の模型があった。京都国立博物館で見たことがある。見たのは、平成知新館の新規オープン「京へのいざない」のときの展示だったと思う。
 金峯山に奉納したお経の金属(金銅)製の筒。経典の文言が缶(つつまり、筒)に刻まれている。
 このときの日記が残っていたのだ。すごいです(笑)。
 京都国立博物館のときは「道長が・・・」と説明にあったが、本当に現地まで行って埋めたとまでは説明になかった。私は「本当に行ったのかな?。誰か使者を派遣したのかな?」と思ったが、ホンマに行っていたのだ。その事実が解かって驚いた。
 いや~、ただ国宝とはいえ、ただ「物」を見ただけでは何のこっちゃ分からない。その背景も知ることが出来てよかった。

 もちろん、京都国立博物館では国宝のオリジナル品は撮影禁止であった。しかし、ここでは複製なので撮影をした(笑)。

DSC06187

 
 ↓ こちらも経典を奉納した箱(複製)だった。

DSC06188

 現在の福井県にあった、朝倉氏のお屋形の模型もあった。庭園部分だけ現在残っているのだが・・・・。一乗谷へは、ちょうど二年前の2014年3月に行った。そのときの写真は、掲載省略です(笑)。リンクを張るのが大変なので・・・・。

 朝倉氏のお屋形の近くには、戦国時代の街の様子も模型で再現されている。板葺と板塀の家々だ。一乗谷の様子を再現したのかな。一乗谷でも屋外で一部だけ復元していた。

 ↓ 写真の手前が実際方角でいうと西。
  屋形は東西に広がり、南側が空いている。陽当たりをよくするためであろう。
 西には、山が迫り、模型では建物に隠れているが、湧水と斜面の地形を利用した庭園と池がある。
 模型にもあるが、上の敷地に行く狭い階段通路は現在も残っている。上の庭園跡も現在は石組みと池の遺構として残っている。


DSC06191

 上空から見た写真が展示されている。
 現地を訪問したとき、堀にかかる橋を渡って、館の跡地を散策した。

DSC06192


 模型の拡大。(左側の)西には、山があり山の下に湧水と斜面の地形を利用した石組の庭園と池がある。
 が、屋敷の建物に隠れて、庭園部分が実際、縮尺を考慮しても小さいのではないか?。
 模型にもあるが、上の敷地に行く狭い階段通路は現在も残っている。
 上の庭園跡も現在は石組みと池の遺構として残っている。

DSC06193

 有名な「徳政の記念碑」の模型もあった。「ほうそう地蔵」全体の実物大と思われる複製品の展示があるが、さすがに撮影はしない。現物を撮影したことがあるから(笑)。 2013年に現地(奈良市柳生)に行ったことがある。

 複製には「疱瘡地蔵」と説明がはっきりある。徳政を記念する碑ではなく、石に刻んだお地蔵さんの右下の部分に文字を刻んだもの。メインはあくまで「ほうそう(天然痘)」の撲滅?、治癒?を祈願する、お地蔵さん。碑文はのちの時代のオマケみたいなものか・・・・・?。


 「柳生徳政磨崖碑文」 部分の複製。↓
 

DSC06194


 ↓ 2013年11月撮影。奈良市柳生の「ほうそう地蔵」の様子。
  碑文の部分だが、現物では全く分からない・・・・・。
  当時、本当にその文字が刻まれていたのかと疑ってしまうくらい、摩耗している・・・・・・。


DSC08397


↓ 2013年11月撮影。奈良市柳生の「ほうそう地蔵」の様子。
 保護のとめの屋根がある。碑文は右下にあるが、判読は出来ない。

DSC08396
DSC08395


 展示の大きさに比べて、現地(奈良市柳生地区)での扱いは小さい。つまり、観光目的での訪問は、とても行きにくい。まず、案内の看板がでていない。場所を見つけることが難しいのだ。
 柳生の観光案内看板に「ほうそう地蔵」とだけあり、これでは普通のお地蔵さん扱い。道端でも案内はない。小さく「ほうそう地蔵」の「→」看板のみ。これでは、よそから来た人には分らない・・・・。


 「洛中洛外図屏風」は重要文化財指定の「歴博本」がここの所蔵である。その模型の展示があった。現物は、東京国立博物館で開催された「京都展」で見たかな。
 ↓ 「洛中洛外図屏風」歴博本の複製。
  清水寺とその東を流れる鴨川の様子の部分。
  

DSC06189

「洛中洛外図屏風」ではまず清水寺の舞台で位置を確認(笑)。
 ↓ 内裏?。


DSC06190


 戦国時代から信長、秀吉の天下統一、南蛮船までがこの「中世」展示室だった。

 ↓ 起請文の複製。
  西暦の1572年に信長が近江南部の村人達に一向一揆に味方しないことを誓わせたもの。
  

DSC06195

 タイトルに「・・・・起請文事」とある。文字がびっしりと書かれている。途中「・・日本国六十余州大小神祇・・・天照大神・・・・大原野大明神・・・・大明神住吉大明神・・・・伊豆・・・・権現・・・・」と書いている。
 カラスがたくさん集まっている起請文の用紙の模様、書き方は、以前永青文庫で企画展細川家「起請文の世界」で見た戦国末期~江戸時代にかけてのものと同じ。文字は「とにかくたくさんの神仏の名前」を書いている。書式、用紙はほぼ決まっていたのだ。 
 
 ↓ ポルトガル インド副王信書の複製
   以前、妙法院の公開時に宝物収蔵庫(龍華蔵)で現物を見た。いや、京都国立博物館で見たことがある。見たのは、平成知新館の新規オープン「京へのいざない」の第2期展示で見た。妙法院では複製品が公開されていて「現物は、京都国立博物館で現在展示されています。」ということだった。

  

DSC06196


 秀吉あてに来た、お手紙の複製品。本物もさほど色あせていなくて、色彩が鮮やかな信書であった。
 

DSC06197

 南蛮船までがこの第3「中世」展示室だった。
 今まで、現物を見たり、現地に行ったことがある文化財の複製、模型、レプリカを中心に見学した。
 特に絵画、書など屋内展示の文化財は、オリジナルの展示は例外なく撮影禁止なので、複製ながら撮影できるのはありがたい。

 ↓ 遣唐使船を思わせるような南蛮船の復元模型。
   大砲が船体に装備されているが、わかる。

DSC06198

 次の部屋へ歩く。

国立歴史民俗博物館 常設展示 見学6 (第1展示室)

 2016年3月20日 千葉県佐倉市

 国立歴史民俗博物館」(「歴博」)。常設展示 見学 (第1展示室 「原始・古代」) 


 「原始」の縄文時代から展示が始まる。縄文と弥生時代のはサラッと見る。
 次は「古代」の展示。古代は、古墳時代以降から奈良時代くらいまでをいうのでしょうか。

 「古代」の展示では羅城門の模型がドーンとある。大きいレプリカである。羅城門の模型にしても、ここは模型が多く展示されているので、撮影は比較的自由だ。フラッシュは禁止であるが、撮影禁止のマークがなければ基本的に撮影可能だ。
 羅生門と間違えやすい。



DSC06172



 平城京の宮殿の模型。
 ちょうど内裏というか、天皇の生活する御所や正殿付近の模型。
 長いお堂が直線状に並んでいる。現在、唐招提寺や元興寺に残るお堂は、こうした平城京の宮殿の建物を移築したものだった(と思う。)。

DSC06173

 ↓ 羅城門の模型の裏側と展示室内の様子。
 


DSC06174


 薬師寺の仏像の複製品の展示。


DSC06175

 国宝の仏像は現物は撮影禁止。が、複製なので撮影できる。
 記憶にとどめておくことが出来る。見ただけでは忘れてしますが・・・。こうして見ると、エクゾチックな顔の仏像です。モデルが外国の当時でいう「胡人」なのかな・・・、インドかペルシアの影響か・・・・は分からない。
 撮影禁止なので、本物を見てもすぐに忘れてしまうので、こうして複製品を撮影できるのはありがたい。
 が、そもそも薬師寺の東院堂自体に行ったことすら忘れている・・・・・・・・。いや、そもそも行っていない!!??。


DSC06176


 特筆すべきは沖ノ島の展示があった。

 ※ 沖ノ島について、別の記事とします。

 多賀城の模型がある。多賀城の碑もレプリカがある。
 「碑を探してみよう」と書いてあった。。「どこにあるでしょう?」とう謎かけかな・・・・。うーん、なかなか見つからないぞ。

DSC06177


 碑は 城の入口の近くに置かれていた。ちょこんとあるので分からない。城は壁に囲まれたエリアは広い。古代中国のように壁に囲まれた土地、街、役所を守るようなイメージ。


 原始から奈良時代までが第一展示室だった。

 見ごたえがあるので、ずいぶんと見学に時間を消費してしまった。

 ↓ 多賀城の碑。 「西」とあり、京を去ること××里と書いてある。
 最果ての防御の拠点。茫々たる荒野の城だったのだろうか、当時は。


DSC06178

 展示室を出て、次の展示室へ。「中世」の展示へ。



国立歴史民俗博物館 常設展示 見学5 (第1展示室)

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示(実際には「総合展示」と博物館では説明している。)を見学する。 第1展示室「原始・古代」

 第6展示室を見たところでお昼の前、11時45分になった。レストランで「古代米」の食事をしてから、戻って来た(笑)。混雑前にお食事確保(笑)。
 食後は一旦、一階(受付のあるフロア)に戻り、最初の展示室つまり「第1展示室」から順番に見ることにする。

 改めて先程入館したときの隣の入口から第1展示室へ。そのまま、(企画展示室と異なりエレベータで地下に行くことなく)廊下で展示室とつながっている。

 ↓  第1展示室の入口。
   順路通り。ニッポンの歴史のワンシーンの切り絵が掲示されている。
  埴輪、南蛮船、戦国武将のヨロイ、中世の一般人?などなど。突き当りの壁には、「ブルーの地球」の写真がある。 


DSC06167

 ↓ 展示室への廊下の壁。
  明治時代の錦絵にかかれた、礼装姿の警官?、軍人?や西洋服に身を包んでいる女性、先ほど第6展示室で展示をみた、昭和期と思われる兵隊さんの軍装の写真、戦後のモーレツサラリーマンのスーツ姿の写真など。その時代を生きた人々の姿がある。

DSC06166


 よくよく考えれば、私の祖父は、上の写真にある兵隊サンの軍服姿も戦後、高度成長時代のサラリーマンの姿も両方経験したことになる。否応なく時代に翻弄された世代ですね・・・・。

 縄文時代から展示が始まる。当時の生活の再現など模型や解説ボードによる展示が多い。続いて弥生時代の展示。室内は、結構人が多い。と、小学生くらいの女の子を連れた家族連れが三人でやって来た。女の子は「あたしの好きな時代だ」と嬉しそうに話をしている。
 私のツレらはは・・・というといない・・・・。皆、単独行動だ。「バラバラ家族」です(笑)。
 これら縄文と弥生の時代の展示はサラッと見る。歴史の授業でも縄文、弥生ら熱中するあまり、全然先の時代に進まない・・・・。道理で「近代、現代」の授業が終わらないはずだ・・・・・・・・・・・・・・。

 ↓ 三内丸山遺跡の様子の復元模型。
   新青森駅の近くにある遺跡。以前、青森県を訪れたことがあるのだが、時間の関係で行かなかった。


DSC06168


 ↓ 弥生時代の高床式倉庫の模型だったかな。

 
DSC06169


 土器など当時の道具の展示もあるが、ほとんどが模型の展示。現物のオリジナルを展示しているのではない。

 ↓ 縄文人の系譜の解説。
  解説よると「日本の縄文人と同じ遺伝子配列を持つ人々が、モンゴル、朝鮮半島・台湾・ポリネシアなど多くの地域でみられることがわかった」とある。

DSC06170

 うーん、私のDNAは南方系なのか、北方民族系なのか・・・・。両方を持つのかな・・・・多分。私の顔ひとつをとっても、色々な地域の特徴を持っていると自分でも思います(笑)。
 
 次いで、展示の時代は「古墳時代」に。
 箸墓古墳の現在の様子の模型。古墳に近接して、人家が密集している。道路も幅が狭い。車で通るにも難儀した。国道に戻ろうとしたが、集落の中をうねうね走って、全然違う方向に行ってしまったことがある。
 卑弥呼の墓ともいわれる奈良県にある古墳だ。模型は現在の森に覆われた墳丘と(向かって右半分は)造営当時の様子を対比している。

DSC06171


 参考 箸墓付近の写真。
 2013年の11月に撮影。かつての古墳の濠は、田んぼになっていた。
 写真左に古墳に近接する集落がある。

 ↓ 


DSC08344

 撮影したのは「11月」のこと。11月であるのに稲刈りはまだだったのだ。

 古墳を一望できるポイントにあった案内の看板。↓
  この付近は「山の辺の道」で散策路としても有名ですね。


DSC08343



国立歴史民俗博物館 常設展示 見学4 第6展示室「現代」

 2016年3月20日 お彼岸

 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。
 第6展示室「現代」の展示を見ていく。
 
 戦時中の展示を見る。8月15日、敗戦の日の新聞の一面もコピーが壁に展示してあった。

 次のコーナーは アメリカの占領時代に関する資料展示だった。


 そして、展示は「戦後」のニッポンに移って行く。戦後のニッポンの世の中は劇的に変わる。
 戦後のダム開発の展示。ダムの模型の展示がある。
 ↓ 福島県の田子倉ダムの模型。只見湖だろう。その下には、ダム湖の下に沈んだかつての集落の模型がある。
   このダムの建設には、当時東北電力会長だった、あの白洲次郎もかかわった筈だ。ダム建設現場での写真を見たことがある。


DSC06147


 戦後、復興を遂げた日本は、生活様式も激変した。戦後の日常生活の様子の展がある。
 住宅団地の様子やその室内の様子。そのまま、室内に入り、「体感」できるようになっている。


DSC06148


 私が生まれてから最初に住んだ、当時親の勤務していた会社の社宅の間取りにそっくりである。
 昭和40年代に急激に増えていったのではないか。昭和20年の敗戦から、20年あまりで急速に時代は変わったのだ。いかに時代の流れが早かったか・・・。
 

DSC06149

 戦後の一般市民の展示は、江戸東京博物館とダブルるような内容だ。

 市営住宅として現在も当時に建てられた団地が残っているが、更に平成になってからも世の中は変わった。住宅団地が「文化住宅」とよばれたのは昔のこと。現在では老人世帯やいろいろな事情のある家庭も多い・・・・。
 (個人の見解です。) 


 テレビスタジオの様子の再現で展示は終わっていた。
 マスメディアも急速に発達した訳だ。

DSC06151

  スタジオの模型の展示と通路を挟んで反対側にはゴジラの模型が置いてある。ゴジラは「ビキニ環礁の核実験の放射能から逃れてきた。」と解説があったような。冷戦下、核戦争のリスクというものも確実にあったのだ。
 実をいうと、私はゴジラ世代では無い。もう少し上の世代の人かな。


DSC06150

 同じ「現代」のテーマでも、前半は戦前、戦中期の軍隊中心の展示。軍国主義の重苦しさも感じる。戦争という多大な犠牲を払い、戦後の日本は平和な世の中に一変した。もちろん、世界各地では戦争、戦乱は頻発しているし、戦後の日本社会、世の中のありようのすべてがすべて正しい訳では無い。
 ただ、平和を享受して生活できる今の私達は本当に幸せだ。ありがたいことだ。世の中いろいろとあるけれど、感謝しないといけない。

 昭和10年当時とその40年後の昭和50年では隔世の感がある。昭和20年の敗戦、アメリカ、他国軍隊の占領を経て昭和50年では高度経済成長時代ですら終わっているのだ。それから40年後が、2015年、平成27年。
 パソコン、携帯電話などIT機器の普及をのぞけば、この40年間はさほど変わっていないのではないか。
 そして、私の人生と重なっているのである。しかし、パッと見、「変わっていない」ようであっても、この20年で世の中の仕組・システムは激変したと思う。私は、ちっとも(気持ちも含めて)変わっていないのに・・・・・・・。歳はとったけどね(苦笑)。

 第6展示室を一通り見たところで11時45分になった。昼食に行かないと、満席の恐れが・・・。博物館では昼食場所が限られるので・・・。レストランの席の確保は最重要課題。レストランへ急いだ(笑)。


 


「国立歴史民俗博物館 常設展 見学3 第6展示室「現代」

 2016年3月20日 お彼岸

 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 第6展示室「現代」の展示を見ていく。

  昭和11年5月に、佐倉の歩兵第57連隊は満州に移転している。1その満州移転の日程表が、満州の地図上に示されていた。船で大連に着き?、鉄道(つまり、満鉄)で移動し、チチハルに着いて、その後、本渓湖という南満州の炭鉱町に移動している。一旦、北満州に行き、南満州に戻っている。その後、再び北のチチハルに戻っている。

 昭和11年の満州移動当時の聯隊の将校、下士官の職員表の展示がある。連隊長で階級が大佐が山口直人大佐。連隊本部には連隊付の中佐がいて、副官の少佐がいる。旗手の少尉の名もある。
 「教主」の中佐が1人いる。「教育係主任」という意味だろうか。少佐は、あと二名くらいいる。隊長として少佐が三人いる。第一、第二、第三大隊の長。つまり、大隊長。その下に中隊がある。第一から第十一までの番号。第十二中隊はなく、「機関銃中隊」?がある。中隊長は大尉だが、代理の中隊長は中尉の階級の人もいる。「陸大」と書いてある隊長も。普段は不在で陸軍大学校に在学しており、籍だけ連隊の中隊長なのだろう。

 移動の翌年、つまり昭和12年にソ連国境にも近い、「孫呉に移動した」とある。移動は、大興安嶺、北安経由の線路だった。
 孫呉には、12年の8月以降に駐屯したようだ?。すると、当時でいう支那事変が拡大した後のことだったようだ。連隊の名前は「山口部隊」と書いてある。数字での「57連隊」の文字はない。アムール川沿いの国境の地帯に駐屯している。
 アムール川(つまり、黒龍江)の中国側、黒河の街の対岸にソ連の「ブラコビヒチェンスク」の街がある。この付近の地図は初めて見た。川が三本、アムール川に合流するところに「ブラコビ」の街があり、中国側、アムール川沿いに黒河の街がある。この街にも北安経由であろうか、鉄道(満鉄)の線路が開通している。

 黒河の南には、昔の条約で有名な愛軍(字が出ないので・・・・)アイグンの街がある。その南のやや奥地に南と北に分かれて孫呉の街がある。 更に川に沿った地域に、聯隊は駐留したようだ。同地での駐屯地の兵舎の模型もある。三角形の木造な兵舎を建てた簡素な陣地といったかんじだ・・・・・・・。

 次の展示は戦時下の生活の様子。物資が配給制となり、どんどん戦時体制が強化されている。日本全体としての展示として全国各地への空襲や広島・長崎への原爆投下に関するものがあった。
 敗戦の日の新聞の一面もコピーが壁に展示してある。昔、学校の資料集で見たことがあるな。たしか、このときは紙不足で、新聞は一枚だけだったはず・・・。「終戦のご聖断くだる」のような見出しだった。歴史の資料集には結構載っていることが多いので、私以外にも見たことがある人は多いだろう。見出しの記事についで社説が紙面の左側に掲載されていますね。
 
 その近くの天井から、日本各地を空襲したアメリカ軍のB29の航空機の模型で天井から吊り下げ展示されていた・・・・。私は、その写真を撮る気持ちにはなれなかった・・・・・。ただ展示模型を見上げるのみだった。

↓ 第6展示室「現代」の順路。
  向かって右の黄色のゾーン、戦前から見て、占領期を経て、ブルーの「戦後」の展示を見る順路。
  黄色のゾーンが細くなっていて「5.占領下の生活」に至る途中にB29の模型が吊るしてあった。


DSC06154

 「戦後」へと展示を見ていく。


↓ 第6展示室「現代」の前の廊下。

DSC06153



 


続きを読む

国立歴史民俗博物館 常設展 見学2 (第6展示室「現代」)

 2016年3月20日 お彼岸

 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。
 
常設展示は、地下(実際は半地下だが)の「第6展示室」から見ていくことにする。第6展示室のテーマは「現代」である。 「現代」といっても、実際に部屋に入ってみると戦前の昭和時代以降の展示だった。
 「膨張する帝国」と「兵士の誕生」から展示が進む。
  「兵士の誕生」のコーナーに佐倉連隊の兵舎の模型などがあった。
 
 展示室の最初は、戦前期の日本、主に地元佐倉に駐屯していた佐倉連隊のことについての展示だった。「歴史民俗」といえば日本全体のことについての展示とイメージが湧くが、かなり「地元の千葉、佐倉」を意識した展示だ。

 佐倉に駐屯していた歩兵第57連隊についての展示。まさに、この歴博があるかつての佐倉城の敷地は、連隊の衛戍地であった。まず、ドーンと室内に兵営の様子の模型がある。
 展示室内の写真撮影は可のようだ。例の紺色の制服を着た係員の女性(50歳台くらいかな?)が、一人立っているので、念のため確認してみた。「撮影禁止」と書いてなければ、撮影はフラッシュなしで撮影はできるそうだ。 
 
 一通り展示を見てから、あとで写真を撮った。展示模型によると、現在博物館となっているこの場所、かつての佐倉のお城全体が連隊の兵営であった・・・・・。かつての城の石垣、廓の内部に木造の兵舎がいくつか建っていたことが模型から分かる。ただし、お城の旧本丸には、兵舎は建っていない。かつての二の丸に兵舎など主要な建物が建っている。

 
 ↓ 兵営の模型。写真の奥、上が佐倉城の本丸の跡。手前に兵舎がコの字状に建っている。
 兵舎の真ん中にある通路の下には門がある。先程、車で通って来た石垣の合間の道のところだ。門そのものは無くなっているが、間違いなく、現在の博物館の入口の道路と連隊の門が同じ位置である。


DSC06144

 ↓ 別の角度から。模型。展示室内には、私以外には見学者がいなかった。例の係員が一人いるのみ。
 後から、男性の見学者が一人やってきた。よって、写真を撮影するとオトが響く・・・・・。

DSC06146


 
 
 見学している間、「57連隊に弟が入隊して戦死したという人がさっきいた。誰かに話したいんだろうな~。」と。老齢の男性の監視員が巡回してきて、先の女性の監視員に「他人事のように」話していた・・・。余計な私語は、つつしみましょう、看視員、監視員の方々。

 兵舎の室内を再現した展示もある。実物大とのこと。「内務班の様子」と説明文にある。カーキ色の兵士の軍服、軍装の展示があるが、これは再現であろう。木製のベット、棚などの兵舎の室内の様子と食事の模型がいくつかある。明治村でも見た。食事の模型も。キャベツに汁、カツレツに白米の模型。明治時代よりも進んでいる。が、副菜まだは少ないような・・・・。改善されたとはいえ、現代と比較すると、パランスはまだまだ考えられていないようだ・・・・・・。汁の中には豆腐や青菜。何もないコンソメスープのような汁はお茶の模型だった・・・・・。




 ↓ 佐倉での兵舎の大きな模型。

DSC06143

 軍装の様子の再現人形。↓
 兵室の様子も実物大で再現。ベッドが小さい・・・・。手前には、食事の模型も。
 明治村の旧歩兵第六連隊兵舎の内部で昨年の暮れに明治時代の食事の模型展示を見た。おかずは増えているようだ。かつては、森鴎外(林太郎)に代表された陸軍軍医部の栄養バランスに関する考えに基づいて、明治時代に比べると改善されたのでしょうか?。

 ↓ 上でも書いたが、カツレツ以外に味噌汁の具も多い、野菜が付いている。漬物は無いもよう。

DSC06145

 昭和11年、満州へ移動した当時の写真も展示がある。室内においてある、展示に関するパンフレットにも掲載がある。タイトルは「山口部隊の頓営出発」とある。当時の連隊長の名前をとった部隊名だ。
 「奉祝門」が建っている。写真で見るとこの場所は、先ほど、ここ博物館の門を入り、車で登ってきた城の入口の所に間違いない。
 連隊旗手が軍旗を持って、奉祝門をくぐり先頭に歩き、まさに出発している場面だ。続いて兵士や乗馬の人が・・・・。日の丸を持った着物姿の見送りの人が多数写っている。明治時代の写真といってもよいくらいの着物だ。この写真、明治時代といっても区別がつかないくらい。
 服装を含めて、戦後にガラリと生活様式が変わったことを感じる。

 ※「現代」の展示は更に続く。
  長くなるのでここ「第6展示室」、その他の展示室の見学記事は、後日書くことにします。

続きを読む

国立歴史民俗博物館 常設展 見学1 (入館)

 2016年3月20日 お彼岸

 ようやく、春めいてきました。千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきました。
  「東洋文庫」の記事でも書いたように、この日は夕方まで歴博を見て神奈川に戻る途上で都内の東洋文庫の「解体新書展」に行ったのだった。

 ↓ 館の建物の横には、春先の光の中、花が咲いていた。
 2016年の桜は、開花が早かった。が、この日の開花宣言はまだであり、晴れていてもまだ冬の気温であったが、日差しは明るくどことなく春めいていた。


DSC06224

 企画展「万年筆の生活誌-筆記の近代-」の記事は先に投降しました。
 

  歴博を訪れるのは、今回が初めてだった。よって、その道のりから記すことにする。
 神奈川県の自宅から、佐倉に向かう場合、首都高湾岸線を通ることになる。しかし、お台場を過ぎると、道路は渋滞である。江東区から浦安の先まで混雑している・・・・。お彼岸の連休、暖かくなってきたので、皆さんお出かけかな?。やっとのことで、千葉県内、市川付近に来ると車は流れるが、千葉方面は交通量が多いのだ・・・。
 更に幕張の手前から再び混雑。流れているときは、スピードを出す車が多いし、渋滞やノロノロ運転中では無理な車線変更が多い。交通マナーが随分悪い。混んで動かないと、スっと急に入り込んでくる。「ハッ」とするが、特にはクラクションは鳴らさないでいる。と、ツレは「さっきは、なんで鳴らさないのよ。危ないのに。」と文句を言われる・・・・。鳴らすと、「あんまり鳴らすと、報復されるよ。」と文句を言うくせに・・・・。私は、車間距離を開けて運転するクセがあるので割り込まれやすいのだヨ。

 更に宮野木で房総に行く車が渋滞している。分岐点なのだ。よって、房総方面へ行く車が渋滞しているため三車線のうち、二車線のみが通行可。真ん中車線から房総方面へ車列に突っ込み車が止まる場合があるので
危ない。さっと 走行車線に入り込むことも想定されるし。この付近は、千葉の北地域の感じで、ここから房総に行くイメージは無いのだが、東京、千葉の西エリアから房総に行く車は、多いのだと知った。

 分岐点を過ぎる、その先はすいた。順調に走行して四街道インターで下りる。久々の千葉だ。千葉といえば、「丘陵地帯」。洪積台地というのだろうか。インターを降りてからしばらくは、台地の上の道だったが、進むと坂道を下り、台地の下に出る。田んぼの中の道を行く。周囲には田と洪積台地の林と家々が点在する風景が広がる。まさに「ディープチバ」。台地の上の街、成田にも、とんと来ていないな~。

 一般道を走行し、二時間半以上かけて佐倉市の歴史民俗博物館に到着した。市内でも迷った。JRの佐倉駅方向から市内のアプローチした。周知のようにJRの佐倉駅は台地の下の周囲には田んぼが広がるエリアにある。が、佐倉の市街地は、台地の上にある。台地の上に出る坂道を車で登る。市街地に入ると道が狭い。よって、迷ってしまった。市街地をウロウロし、さらに台地の下へ(来た方向とは別の方向へ)下る道を進む。

 やっと「国立歴史民俗博物館」入口の看板を見つけて、曲がる。入口は、市街地のはずれ、台地の下にあった。駐車場までは、城跡の坂道を更に上る。博物館の入口付近には石垣がある。かつての佐倉城だ。博物館は台地の上に築かれた、城跡の石垣の中にあった。

 博物館の駐車場には、空車があった。訪れる人は少ない。駐車場に車を停めて、博物館の建物へ歩く。

DSC06139




 ↓ 駐車場の付近。

DSC06141



 思ったよりも、博物館は大きい建物だ。まるで神殿のようなコンクリートの建物だ。建物までは、ゆるいスロープのような長~い階段を登る。館内に向かう人は、少ない。お彼岸とはいえ、まだ寒いからだろうか。

 建物の中に入る。中は、広いロビーだが、人が少ないのでガランとした感じ。視線の先に、受付の横長のカウンターがある。高い天井に、広いロビー。紺色の制服を着た女性係員がカウンター内にいる。他にも、同じ制服を来た女性の係員が多数いる。
 実をいうと、みなさん40歳~50歳くらいの女性のパート職員のようだ。近くに住んでいる主婦がここで働いているのかなというのは、考えすぎか。実をいうと、展示室内の看視員も含めて係員で40歳くらいだと若手の部類に入るのではないか?。
 ロビーの内部には、大きな模型の展示がある。お寺の門の模型があり、内部構造も見ることが出来るようになっている。
 どこかの奈良の大きなお寺の門かと思った。

DSC06162

 ↓ 京都の東福寺の三門の模型であった。
   巨大な門で、国宝に指定されていた筈。三門の内部公開を行っているとき、東福寺に私も行ったことがあるが、三門の内部には入場しなかった。

DSC06161

 中庭の池に面したところにある、お寺の塔の模型。
 高野山の多宝塔かな。と思った。金剛三昧院の多宝塔は国宝に指定されていて、私も外観を見たことがある。
 あの多宝塔は、だいぶ古くなっていて、部材は色あせていたが、創建当時を復元して模型を制作したのかなと思った。

DSC06164

 ↓ 説明を見ると根来寺の多宝塔であった。
   高野山と根来寺は同じ和歌山県だし「同じようなモノだな。」と勝手に自分を納得させる(笑)。
  
DSC06163

 ↓ ロビーに面した中庭の池。コンクリートが打ちっぱなしの中庭である。
  休憩できるようになっている。ロビーには、書籍などを販売する売店があった。

DSC06165


 地下の企画展から見学した。企画展と常設の第一展示室では入口が違う。企画展へは「そのまま地下へ降りるように」と係の女性に言われる。指示に従ってエレベータで下った。
 企画展「万年筆の生活誌-筆記の近代-」を見学して、同じフロアにある第6展示室を見学する。

 地下の同じフロアに第6と第5の展示室がある。企画展示室Bの隣にある「第6展示室」から見てみることにした。第6のテーマは「現代」である。



 

「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」森鴎外記念館 見学4(終章) と「谷根千」散歩

  2017年1月9日

 この日は、年が明けて間もない冬の一日。東京国立博物館を見てから、徒歩で千駄木まで移動した。
 今、マスコミでもとり上げられている「谷根千」(やねせん)散歩である。この時期は寒いけどね(笑)。

 上野桜木から、北に歩く。谷中を通る。住宅やマンション、雑居ビルの合間には寺院の門が見える。進行方向右手には、谷中の墓地の高い壁がある。老舗と思われるお店もあるが、休日なのかお休みのところもある。
 谷中から更に、台地に沿って歩くと日暮里方向、朝倉彫塑館などがある方向だ。桜並木も見えるが、冬のこと。すっかり落葉していて、枯木が立ち並んでいるのみ。が、春4月ともなれば満開の桜で美しく彩られるのでとろう。そんなことを想像しながら、道を歩く。
 千駄木方向に坂を下る。地下鉄千駄木駅は、ちょうど谷の底を通る道路の地下を走っている。駅の近くになと、急に賑やかになり、人どおりが増えた。
 商店などがあり、買い物をしている人がいる。日常の生活の一シーンである。信号の交差点の名称は「団子坂下」。私は、そのまま直進し、団子坂を登る。
 台地の上から須藤公園に少しばかり寄り道し、団子坂上にある文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきたのだった。

 コレクション展「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」を見学した。
 さて、展示の末尾に協力者、団体の名前の掲載がある。筆頭に「賀古〇次」と女性の名前が。鶴所には、子はいなかったようだ(展示では特に書いていなかったが。)。よって、名前が出ている賀古氏は弟「桃次」の子孫のようだ。 
 桃次は、井上通泰と親しかったというから、和歌をたしなんだのだろう。恐らく医師でもあったろう。井上も医師であったので。

 一通り展示を見たので、階段を昇り、一階に行く。この階段が長いのだ。地下奥深くに地下室を掘っている・・・・。
 一階に戻ると事務室から二名くらい黒服の女が出てきた。すでにいた、同じ黒服の係員女性とともに走って作業している。皆、50歳前後くらいのの女性である。(本日最後の入館者)私が帰るので、閉館準備を開始したのだろう。 地下一階には看視の女性が一人いて、展示室の入口に立っていた。時折、室内を巡回していた。その立ち位置は企画展示室も廊下ごしに直接看視できる位置だ・・・・。ずっと、企画展示室内にいる私の帰りを待っているようだ・・・。展示を見た後は、映像室は見なかった。看視女性係員から「早く帰れオーラ」が出ていたので(笑)。
 外に出ると、すでに真っ暗だった。閉館時刻間際の慌ただしい見学となった。
 ただし、日没時刻はだんだんと遅くなって来ている。「冬来れば春遠からじ」かな。

 森鴎外記念館の入館前に撮影。 ↓
 「団子坂上」の信号付近から、「団子坂下」方向の「大観音通り。

IMG_0321

 
 森鴎外記念館を出た後、
 ↓ 団子坂下、地下鉄千駄木駅の地上出口付近の通り。どこにでもある、都会のとある街並みだ。
 かつての風情は写真で見る限りはあまり無い。
 
IMG_0325

 千駄木駅から地下鉄に乗り、帰宅した。


続きを読む

「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 森鴎外記念館コレクション展 見学3

  2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」の見学です。
 まずは、地下展示室にある常設展を見てから、企画展示室へ行った。

  ↓ 企画展のチラシ。

IMG_0327


 続いて展示を見ていく。室内は私だけになってしまった。入館締切時刻の17時半を過ぎても、あとから人はやってこなかったので、この日の入館者は私が最後ということになる。

 鶴所は、神田の小川町に自分の耳科医院を開設している。場所は小川町の51番地だ。50番地が家で隣に医院があったそう。当時の錦絵にも掲載されている。 絵を見ると、現在の靖国通りらしき通りの両側に、木造、瓦屋根で二階建てくらいの高さの家が並んでいる。現在の鉄筋コンクリのビルがひしめく風景とは隔世の感がある。
 鶴所は、医術開業試験を受けたのか?。その受験願か「医院の開業願」に、鶴所は「安政3年×月×日生」と書いている。鶴所は、実は安政2年生まれとの説があったが、この資料で生年月日が判明したそうだ。現在のような医師免許の制度ではなく、開業には別の開業試験があったのだろうか?。それとも、大学卒業者は「願」のみで開業できたのかは、分からない。

 「島」状に設置されている室内真ん中の展示ガラスケースの中には、賀古がモデルとなっている「ヰタ セクスアリス」の本がある。鶴所は、登場人物「古賀」のモデルとある。よく言われるように「賀古」と「古賀」で「そのまんま」だ(笑)。

 鶴所は、自分の医院(耳科院)を開いて、軍医として勤務していた。「二足のわらじ」というか、開業しながら軍務に服していたとは、随分とおおらかな制度??だ。
 日清戦争後に第五師団軍医部長に任ぜられたので、東京を離れることをきらい、年賦によると休職になっている。その後、明治34年に予備役になっている。鶴所は「鴎外よりも一足先に軍を退いた。」そうだ。
 日露戦争では召集され、一等軍医に昇進、最初は第二軍兵たん軍医部長、次いで遼東守備軍軍医部長に。
 従軍中の写真の展示があるが、写真には「賀古軍医部長」との文字が入っている。撮影した人が、賀古部長に名前入りで渡したのだろう。また、レンガ壁の建物の前で、イスの傍らに軍刀を持って立つ姿の写真もあった。
満州のどこかで撮影した写真であろう。
 日露戦後、明治39年の大学の同窓会の写真もある。同窓会の参加者のサインが書いてある。小池のサインもある。この同窓会に「賀古は欠席したようだ」とある。欠席した人に出席者がサインをして、後日送ったものだな。
 続いて鶴所が50歳のときの写真の展示がある。それなりに歳をとっているが、丸顔でおだやかな容貌、人ぶりだ。
 明治43年にも新聞の記事で「森鴎外という男」という記事が掲載されたり、生前、軍務の現役の頃から鴎外の作家としての、その人となりは報道されていたのだ。
 「常磐会」の写真もある。政府と軍の最高実力者 山縣有朋の歌会というのだろうか。元々、鶴所が参加していて鴎外はあとで鶴所から誘われて参加したのだったかな???。メンバーには井上通泰もいた。今回の展示によると、元々は鶴所の弟と井上が親しかったそうだ。井上の弟は、いうまでもない、柳田國男である。

  鶴所の妻が大正6年に亡くなったとき、友人総代は鴎外。事前に総代となることの依頼を手紙でしていた。そして新聞に死亡公告を出している。鶴所や親族の名前に続いて「友人総代」として森林太郎の名前があった。

 千葉にあった別荘、鶴荘と鴎荘の変額の写真の展示もある。鴎外の「鴎荘」の額は、現存しないとのこと。千葉の現在のいすみ市に300坪の土地を鴎外が先に買い、のちに鶴所が土地を買ったそう。しかし、鴎外はあまり、別荘に来ることはなく、母静子の療養生活用だったそう。「カモメ」と「ツル」がともにお隣で別荘を構えている。
 「鴎外」のペンネームは、親友の鶴所にひっかけて付けたのではないかと感じた。だって「鶴」と「鴎」で共に酉だから。いや「鳥」か?。今年は「酉年」(笑)。

 鶴所のめいの子は「しげる」。「淋」のような文字。「愛姪」の命名を鴎外が依頼されたそう。子がいなかったので、姪を子のように育てていたのだろうか。鶴所の書いた長い巻物の命名を依頼する手紙には、その末尾につけたしで「父 晋、母 カツラ、(めいのこと)。伯父に豊ゆたか、坦ひろし」と書いている。
 「伯父」と書き、恐らく年下の額田家の兄弟も「叔父」とは表記していない。鶴所の兄弟の名も書いてある。鶴所の弟は、桃次で、この姪の父らしい。親族にはこのような人がいるので、名づけのときに参考にしてね、という意味だろう。

 鴎外は「死去の前は6月に初めて医者にかかった。」と以前来たときに展示で見た。ようやく受診した医者は、この命名を依頼した子の父、つまり鶴所の姪カツラの夫、額田晋だったのだった。
 → 鶴所は「(鴎外は)決して診察に同意せず・・・。」と回想に書いていた。
 そして、鴎外の臨終。あの遺書を口述筆記することになるのだ。
 
 鴎外の死後も鶴所は生きた。時代が変わり、昭和5年の写真も、晋やその子しげる(漢字の文字が出ないので、以下ひらがなで表記)も後列に写っている。しげるは、10歳くらいかな。写真は東邦大学額田記念室の所蔵だ。
 小川町の賀古医院は、火災で焼けているのですね。大正時代にも焼け、火事の翌年には復旧と年賦にもあった。二回被災していた。
 そういえば、かつて神田錦町3丁目4番地住が、(鴎外の最初の妻の実家)赤松家だった。
 展示の写真の撮影された翌年、昭和6年「鶴所は急逝した」と説明にあった。

 鴎外の後妻、しげ子とも親しくしていたと資料にある。家族ぐるみで交流があり、子を連れて小川町の鶴所の家を訪れたこともあるそう。
  映像の放映もある。写真、資料の静止画が、数秒ごとにかわる映像(スライドショー)。賀古の写真や資料が上映されている。

 展示の末尾に協力者、団体の名前の掲載がある。筆頭に「賀古〇次」という方の名前が掲載されている。鶴所には、子がいなかったようだ。よって、弟「桃次」の子孫のようだ。 
 一通り展示を見た。
  階段を昇り、一階に行くと事務室から二名くらい黒服の女が出てきた。すでにいた、同じ黒服の係員女性とともに走って作業している。皆、50歳前後くらいのの女性である。(本日最後の入館者)私が帰るので、閉館準備を開始したのだろう。 地下一階には看視の女性が一人いて、展示室の入口に立っていた。時折、室内を巡回していた。その立ち位置は企画展示室も廊下ごしに直接看視できる位置だ・・・・。ずっと、企画展示室内にいる私の帰りを待っているようだ・・・。展示を見た後は、映像室は見なかった。看視女性係員から「早く帰れオーラ」が出ていたので(笑)。
 外に出ると、すでに真っ暗だった。閉館時刻間際の慌ただしい見学となった。

 晩年にいたるまで、鶴所の風貌は、おおらかな性格を感じさせる。いつも、ニコニコしていて穏やかな人だったのかな。なんとなく、おおらかな風貌は中村不折とも似ている。不折は小柄だったが、鶴所は当時としては大柄な方だった。
 

 


続きを読む

「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 森鴎外記念館コレクション展 見学2

  2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」の見学です。
 まずは、地下展示室にある常設展を見ていく。

 ※「  」内の文章は、前回の記事の引用です。 

 「小さいモニター映像に生前の鴎外の姿がありました。短い映像です。(繰り返し、反復して映像が流れています。)」
 「当時、皇太子であった昭和天皇が欧州視察旅行を終えて横浜港帰着時の、お出迎えのときの映像でした。大正10年の秋の映像です。つまり鴎外死去の前年のことです。数多くの官吏がお出迎えをしたことがわかります。お出迎えを終わり?、別の場所に徒歩で歩くときの映像のようです。お出迎えを終えた官吏と思われる大勢の人々が歩いて移動しています。背の高い軍服を来た人物が2人で歩いている様子も映っていました。鴎外は映像画面の手前のほうに、ほんの "おまけ" のように映り込んだようでした。
 映像中の鴎外は、フロックコート姿です。現在私達の見る鴎外の公的な写真は軍服ですが、このときは、予備役陸軍軍医総監ではなく、文官、つまり(宮内省管轄の)帝室博物館総長兼図書頭としてお出迎えに参集したのでしょう。」

→ 映像は、前回見た内容と変わっていない。再度見ると前回の記事に書いた<背の高い軍服を着た人物が2人>は、見間違いで、互いに敬礼している軍人がいる。一人で歩いている軍人も見えるが、背は高くない・・・・。よーく見ると、鴎外の奥に背の高い、大礼服姿の人物が歩いている。

 ゴマシオ頭の白髪の人物だ。なんだか、西園寺公望のように見える。鴎外は、フロックコート姿で大礼服ではない・・・。鴎外よりも、もっと高位の文官のようだと推測。
 明治村に移築されている西園寺の別荘「坐魚荘」の玄関内部には、等身大の公望のパネルが置いてあった。身長は「169cm」と説明にあった。
 鴎外は見たところ160センチくらいと推測されるので、映像内の人物はだいたい、その位(公望)の身長だ。10cmくらい鴎外よりも大きい人物だ。よって、奥に映っているのは公望と(勝手に)断定(笑)。

 ガラスケースの端(見学者から向かって展示室の左の端にあたる)に、鴎外の遺言書の展示があり、改めて読んでみる。展示品が原本なのか、複製なのかは分からなかった。
 末尾に「言 森 林太郎  書 賀古鶴所 」とある。今回の企画展の主人公、賀古鶴所が筆記したことが分かる。鴎外は病臥しており、もはや起きて筆記することは出来なかったのである。
 更に下の部分には「男 於兎」とある。遺言の場に長男 於兎がいたような書き方だが、展示での説明にあるように、彼が没する年、大正11年の、春先3月に於兎と長女 茉莉は、欧州留学に出発しており、日本にはいなかった。そのとき、鴎外は港で見送っている。長男は留守だったが、嗣子ということで書きくわえたのだ。
 (あとで、展示リストを見ると遺言書は「複製」と書いてあった。)


 ついで、書簡などの展示を見ていく。前回も、作家、詩人などとやりとりした書簡の展示があった。(露伴などとの)。 今回展示があったのは、与謝野寛、伊藤左千夫、上田敏などからの葉書書簡。宛名面のコピーも展示されていて鴎外の住所は「千駄木団子坂上」で、番地が無くても鴎外の自宅にハガキはちゃんと届いている。
 木下杢太郎からの葉書もある。が、差出人は太田正雄と全く別人の名前。丁寧な文字で書いている。つまり、木下杢太郎はペンネームであった・・・・・・・・・・。 前回の訪問記でも書いたが、木下は、のちに鴎外の三男、類とも密接な関係にあったのだった。

 上田敏に関するミニ企画展示があった。上田とも誌上で論争をしている。が、個人的には親しくしていたそうで、上田は鴎外よりも10歳以上も年下。鴎外に師事?していたそう。大正5年、上田が急死したときも鴎外は、上田の家に駆け付けたそうだ。臨終には間に合わなかったらしい。

 常設展示室を見終えて、次の部屋へ。
 途中の壁に森家の系図がかかっている。前回も見たが、改めて見ると森家のある当主は西暦で1801年に死亡。
 覚馬の父は、森 高亮で1831年に死亡。次男で、西家に養子に行った覚馬の子が、かの「西周」。
 森家は、覚馬の兄が継いだが(または家督相続前に)、死亡した。その年は西暦で1819年のこと?。
 覚馬の兄弟には別の人物もいるが、一人は西家の親族である別の家の養子になっている。別の兄弟である更にその弟が「出奔」している。つまり、西周の叔父が、家を出て行ったことになる。その後、養女として木嶋家の娘がやってきた。この娘の夫が「森白仙」。つまり、林太郎の祖父。木嶋家出身の祖母は、明治39年まで長命であったことは周知の通り。祖父、白仙は西暦1861年11月に近江の土山で客死。その二か月後、1862年1月に林太郎が誕生。
(西暦と旧暦の対比がされていないので「11月」というのが太陽暦なのか太陰暦なのか系図の解説はっきりしない。)
 鴎外の母、峰子(みね)と周が「いとこ」のような「感じ」かな(みねは、養子の子なので西周と血縁は無い)。
 系図を見て、企画展示室へ廊下を歩く。

  ↓ 館の外にあった企画展のポスター。


IMG_0323


  「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」は、順路の先の小さい方の部屋での展示であった。
 「賀古鶴所」は一般には「森鴎外の親友」として知られる人物。それ以外に、彼の人となりや経歴を知るすべはほぼ無い。
 「余は、少年の時より老死に至るまで一切秘密無ク交際シタル友は賀古鶴所君なり。」は非常に有名な遺書の一節だ。「・・・余は石見人 森 林太郎として死せんと欲す。・・・・」
 更に遺書は「墓には森 林太郎の墓以外には、一切刻むべからず。墓の文字は、中村不折に依頼し、・・・宮内省、陸軍からの栄典などは固辞して一切受けるべからず。」と書いてあるのである。

 人生の最期に臨んた鴎外をして、そこまで言わしめた「賀古鶴所」は、いかなる人物であったのか?。

 今回の企画展の期間は長くない。前年の12月上旬から、年末年始を挟んで1月29日(日)までの二か月足らずの会期である。

 賀古鶴所は、写真でみると随分とおおらかな表情の人物である。人懐こい性格を感じる。目がキッとしていて、生真面目そうで、痩身で神経質で細かそうな鴎外とは、顔の表情が随分と違うような・・・・・・。

 まずは、展示室に掲示してある鶴所の略年譜を見る。(展示リストにも掲載されているが)
 鶴所は現在の浜松の出。医師の長男で、鴎外と共通点がある。展示の解説にもあるのだが、年齢は鴎外よりも6歳も上。大学南校?、東京大学で同期になった?ので親しくなった。
 が、鴎外が入学した当時は満15歳くらい。鶴所は20歳を超えている。鶴所が兄のような存在で、鴎外はまだ思春期のうぶな少年であったのではないか。友情というよりも、兄弟愛、師弟愛に近いものではなかったか・・・?。

 展示品を見ていく。
 身長、頭長に関するメモ書の展示がある。同窓生と書いたのかな。(展示リストでは、どれを指すのか判然としなかった。)それによると
 森 161.2cm。 頭長は忘れた。 「〇頭身」なのかも書いている。
 賀古 164.7cm 解説に鶴所は「当時の平均身長は160cmくらいであり、当時としては、賀古は大柄だった。」とある。
 小池 158.5cm 小池正直と賀古は同じ6頭身くらい。森がやや小さい。6.4くらいかな。寸尺法ではなく、西洋医学を学んだ者らしく「cm」で書いている。
 鴎外の身長が161と分かった。常設展示の映像や津和野で展示されていた大礼服から推定して「160cm
前後」と推測していたが、大体当たっている。鴎外は当時の平均よりもやや高かったとになる。
 
 次いで、奥の壁のガラスケースを見る。鴎外が軍医を決意した手紙がある。展示リストによると「明治14年11月20日付」だ。この年の7月に大学を卒業しているので、四か月後のこと。鴎外は、就職がしていなかった時期だ。「昨日は、来てくれてありがとう・・・・。」という書き出しで、書いてある内容は、難解なので理解しにくいが、「いろいろ悩んだけど、陸軍に入ります。」という内容なのでしょう(笑)。
 「軍医になるか迷っていた」という手紙も、津和野の記念館に展示あったが、書かれた時期は、どちらが先なのかな?。
 鶴所は、卒業後は軍医になる予定であり「在学中に陸軍の委託学生になった」と展示の説明にあった。よく知られるように「先に陸軍軍医になっていた賀古に薦められて」軍医部の高官に会ったりして「遂に軍医となることを決意した」のでしょう。
 鴎外、賀古、小池と同じく谷口謙の名前も先の常設展示での読売新聞のコピーに卒業生としてあった。医学部の同期卒業生は相当数、軍医になっている。

 賀古は、山縣有朋に随行して欧州に旅行をしている。そのときの写真の展示がある。陸軍のドン、長身の山縣を中心に随行者が写っている。旅行時期は、鴎外がドイツ留学から帰国したした後のこと。展示リストによると山縣有朋に随行しての欧州行は明治22年3月のこと。
 鴎外の小説「舞姫」で「天方伯爵に随行し、欧州にやってきた、主人公 太田豊太郎の友人 相澤」とは、このときの旅行のこと(山縣伯爵に同行した軍医 賀古鶴所)を指しているのだろうか?。
 
 私が企画展の室内に入ったときには、先客は既に出ていってしまっていて、隣のシアター室で映像を見ていた。その後、先客は、一階に戻っていってしまった。
 いつのまにか、展示室内には私一人だけとなってしまった・・・・。


続きを読む

「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 森鴎外記念館コレクション展 見学1

  2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館に再びやってきました。
 前回の訪問は、初夏の昼間のことだった。対して、今回は冬の夕方のこと・・・。
 すでに午後5時。記念館前の団子坂上の通り(大観音通り)を歩く人は多い。しかし新たに記念館に入館する人はいない。
 通りら敷地の中に入り、一旦庭を抜けて、脇道に出る。敷地内には誰も人がいない。
 戻って入口の高い分厚い自動ドアをくぐり入館。入館料300円を支払う。
 コレクション展「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 の見学がメインです。

 ↓ 崖側から見た記念館の入口の門。
  かつて、鴎外の自宅「観潮楼」の表門があったところ。


DSC09240

 「地下の展示室に行って下さい。」と言われ、本当はおトイレに行きたいのだが、やむなく地下への長い階段を下る・・・(苦笑)。
  展示室に入る。地下の展示室のドアの前には、看視の女性が1人いる。黒い制服を着ている。 
 順番を追って見ていきます。室内には、二組くらい見学者がいる。うち、一組は小学生くらいの女の子がいて、祖父母、母親と来ているようだ。

 あれ、展示室内は改装された??。撮影禁止なので、室内の様子は想い出すしかないが、展示品が少なくなったような・・・・・。展示室内や展示ケースは「白」を基調とした内容になっている。以前はもっと手前の平と壁の垂直ガラスケースが大きかったような感じたが・・・・。
 それとも、津和野の「森鴎外記念館」と混同している!!??。

 白い壁沿いに設置されたガラスケースの展示品や説明パネルを見ていく。10歳の頃の「かむろ姿」の鴎外の写真があった。まだかわいい子供でまるで女の子のような姿だ。
 
 これは、前回訪問時も見たが、鴎外一家の「上京後」の写真であった。写真の左端には西周(にし あまね)がうつっている。周は、座って横を向いているが痩身。長身のようで、今でいうイケメンである。写真の中央左は、鴎外の父の静男で、白髪、あごひげを生やし、周よりも年長に見える。実年齢は両者ともに、さほど変わらないと思うが・・・。
 いち早く、欧州留学をはたし、時代の最先端の知識を得て、新政府にも地位を得ていた周の自信の程を写真からも感じた。津和野の「森鴎外記念館」での展示でだったか、どこか別の場所で見たと思うが、西周は、明治のご一新の後、一旦津和野に帰っている。その際に、親戚筋で、自分の旧居からもほど近い森家(森の本家)を訪ね、当主の静男や、嫡男の林太郎(鴎外)とも会っている筈だ。
 この上京も周のススメによるものだった。
 対して、津和野の「森鴎外記念館」で見た幼少期の鴎外の写真は、確か(上京の途上)防府にて父の実家の一族と撮影したものだったと記憶する。 よって、今回ここで見た写真よりも少し前の時期に撮影したものであるのだ。

 以下「 」内は、以前のプログの記事で書いた内容。引用しながら、今回の見学記を書いていく。
  「鴎外が10歳で上京したことはよく知られています。一家で上京したコースをパネルで図示してありました。それによると、津和野を発ち現在の山口県にある三田尻付近に逗留しています。『三田尻』とは幕末の歴史の地名でよく聞ききます。現在では防府市周辺です。ここは、林太郎の父、静男の実家のある所で数日滞在したと説明にありました。静男が森家の養子であったことは、よく知られていますが、長州出身(正確には周防国だが。だから現在は防府市。)とは知りませんでした。」

 → 今回の訪問時、コースの図示は、展示室の壁には無かった。やはり、展示は変わっているようだ。
 やはり、津和野の「森鴎外記念館」と混同している!!??(笑)。

 「さて、森家は「一家をあげて」上京したことがわかりました。ただし、このときの上京は父と鴎外達が先発し、母と妹達はあとから東京にやって来たようです。父の実家に滞在後、ほど近い三田尻の港から船に乗り瀬戸内海を横断、東京に向かっています。東京の旧藩主亀井家の屋敷に入っています。その後は千住に住んでいます。当時では東京といっても千住はかなり郊外だったのではないでしょうか。父、静男は千住で医院を開業したとあります。」
 → 向島に家を借り、その後、家を購入したそうだ。

 「大学卒業・・・よく知られるように「8番」で卒業のため大学に残る道は絶たれたそうです。  当初は就職せず千住の父の医院を手伝っていたと説明あります。東京大学医学部を卒業したのに、いわば「ニート」とはいかずとも「家事手伝い」だったのでしょうか?。」
 → 当時の新聞のコピーが展示してある。「読売新聞」で明治14年7月12日?の記事。明治14年7月9日に大学り卒業式が行われた。
 式でお祝いを述べた人の名前がある。法学部、鳩山和夫、工学部 某  、理学部 菊地大麓、医学部 ベルツ(お雇い外国人で有名なお方)、文学部 外国人の名前・・・・。文部卿は、福岡孝弟(たかちか、文字が違うかな・・・。)、先の(東京国立博物館で見た)紅白芙蓉図の所有者だ。
 鳩山和夫の子孫は、言うまでもない現代でも有名な政治家一家。菊地大麓とは親戚だったと思います。ルーツは、美作の勝山、津山だったかな?。

 →続いて展示品の新聞のコピーを見る
 「法学士 法学分 ・・・」、「理学士 化学分・・・・、 生物分・・・・、 機械工学分・・・・、 土木工学分・・・・」
 「医学士 医学分 三浦守治、高橋順太郎、中浜東一郎。」ここまで医学部の卒業生の名前は三人。森林太郎は八番目。
 つまり、新聞に掲載されている名前の順番は「成績順」だ。当時の新聞にも成績が記載されているとは・・・・・、成績とは、一生付きまとうという訳か~(苦笑)。
 続いて「十番目に賀古鶴所。十二?番目に小池正直」。成績は、のちの森林太郎の上官 小池の方が下だった。
 中浜は、有名なジョン万次郎の子ですね。万次郎は自分の子を医者にしています。更に下ってその子孫の方も時折、マスコミに登場して、私も記事を読んだことがありますが医師の方でした。東一郎以降の子孫は代々医師のようです。三番で卒業ということは、彼は林太郎を差し置いて、外国留学の権利を得たことになります。

  最後は「文学士・・・・ 理財分、政治分」がある。掲載されているのは、卒業する学生全員の名前だろうか。随分と少ないな。限られた者のみが、高等教育を受けることが出来たのだ。彼らは、ス-パーエリートだ。
 当時の学部には「工学部」は無かった。しかし、理学士の箇所に機械と土木の学科があったと記憶する。文学部にも「理財と政治学科」があった。(見まちがえたかな??。)
 理学部に舎密(科学)、物理、文学部に英文、国文の学科は無かったような・・・・。

 以前の展示では、職員名簿があったと思うが、今回は無かった。それとも名簿は、津和野での展示だったかな?。
 → あとで、過去のブログの記事を読むと、「津和野」での展示であった。
  なお、全学部がそろった卒業式はこの明治14年のときが初めてだったそうだ。

 「その後陸軍軍医に採用されて、その辞令などが展示してありました。辞令は複製品で原本は国立公文書館蔵とありました。」 
 →同じく展示があった。

 「そしてドイツ留学。有名なエピソードですが帰国直後、女性が追いかけてきて来日、一か月あまりの後ドイツに返し、その後ほどなくして結婚しています。」
  →ドイツからやって来た女のことは、展示にはあまり無かったような。展示を無くしたか、元々展示が無かったかな・・・?。

 「(結婚は)西周の仲介でした。早く結婚させてしまおうという親族の意志があったことがわかります。しかし、長男於兎氏が誕生してすぐに離婚してしまいます。」
 → 結婚願い「申進」の複製がある。 現物は、防衛省防衛研究所図書館の所蔵。旧軍の公文書は、現在防衛省が保管しているらしい・・・・・。願には「 海軍中将 従×位 勲×等 男爵 赤松則良 長女 登志子 」とあり、「陸軍一等軍医 森林太郎」、宛先は「陸軍大臣? 伯爵 大山厳殿」となっている。
  「 問題無く 仰付候」と添え書きをしているのは、当時の陸軍省医務局長 橋本綱常だ。願には、林太郎の住所や族籍は書いてない。本籍は、東京であった筈だ。よく鴎外は「島根県士族」と間違えられるが、すでに学生のとき(かそれ以前に)に本籍は東京に移していたのだ。
  妻は明治4年×月×日生、満17歳×ヶ月。」若いな~。現在の高校二年生が、三年生に相当する年だ。いいな~、というのは冗談(笑)。しかし「すぐ離婚した。」と展示の説明にある・・・・・・。
 日清戦争で会った、正岡子規の写真も展示があった。子規とは「俳諧について論じた」と説明にあった。

 「小倉転任・・・(展示によると)鴎外自身は「左遷」と考えていたそうです。 しかし、軍にあっては転任はつきもの。とくに左遷というわけでは無いと思いますが、察するに鴎外は「東京勤務」であり続けることが軍界での栄達と考えていたのではないでしょうか。鴎外の強いこだわり(の性格)をかいま見ることができます。オレは帝大(鴎外が卒業した当時は「東京大学」で、日本で一か所だけ。)出だというエリート意識が相当強かったような・・・。」
 → 赴任前日の写真の展示があった。以前も見た。

 再婚のときにも「結婚願」を出しているが・・・・。
 「軍医監 森林太郎」の名前。附属して「願」に、朱書きで「陸軍将校同相当官 結婚条例」が薄い茶色に変色した紙に手書きで書いてある。漢字は旧字体だが 「・・・婚姻をせんとするときは、将官、同相当官の者に於いては、勅許を仰ぎ・・・・、准士官の者以上については、陸軍大臣の許可を得ることとす。」とある。
 この条例がいつからあったかは、知らないが、(ドイツからやって来た女性)エリス(仮名)との結婚を阻んだのは、この規則だろう。鴎外が陸軍の所属ではなく、当時、大学の教授職や内務省などの文官であったならば、(外国人女性と)結婚できたかも・・・・・。もっとも、大臣の許可の以前に家族(というか、旧民法の戸主)が反対すれば当時は結婚は出来なかったと思うが。

 「(小倉から)東京に戻り、その後日露戦争に出征。」
 → 第二軍の従軍記者であった、田山花袋の写真の展示があった。「文学論について議論をした」と説明があつた。

 ↓ 記念館の敷地内、建物の前。
   木は落葉していて、寒そう・・・・・。実際に寒かったのだが・・・・。
 

IMG_0324

続きを読む

須藤公園 散策 (旧大聖寺藩前田氏屋敷 庭園跡)

 2017年1月10日 
 東京国立博物館を訪れた後、徒歩で千駄木方面に向かった。次の目的地は森鴎外記念館。上野公園から千駄木までは、根津駅よりも徒歩でやや遠い程度だからだ。 
 年初めの「谷根千」(やねせん)散歩である。だんだん、陽が西に傾いてきて、寒いので散歩という気分では無いのだが・・・・(苦笑)。

 地下鉄の千駄木駅を越え、「団子坂下」の交差点信号から団子坂の上の方向に歩く。森鴎外記念館に行く前に寄り道をすることにした。
 「須藤公園」という千駄木にある公園が、かつての大名庭園の跡地なのだそうだ。森鴎外記念館からも程近い。以前、森鴎外記念館に行くため、文京区のウェブサイトなどで調べていたときに知った次第。今回、少しばかり寄ってみることにする。

 千駄木駅の地上出入口付近から坂を上がり、「団子坂上」の信号があるので、北に道をに入る。区立の図書館があり、人が出入りしている。更に先は、台地上の住宅地だ。広いお屋敷もある。マンションも建っている。「須藤公園」への看板は無いが、適当に交差点を曲がって歩く。と、壁に囲まれた大きなお屋敷に「須藤」と表札があった。公園の名前と関係する家なのかな?、と思いつつ歩く。マンションもあり、道路上で親子が数組遊んでいる。車は来ないのかな?、大丈夫かな?、と交通安全を気にしながら通過。すると、少し歩いた道の先に公園の看板があった。
  
 入口には自転車数台が停まっている。公園内では子供達が遊んでいるようだ。
 今いる所からは、公園の上から、下を見下ろすようになっている。「はっ」としたが、先程通ったの千駄木駅の地上出入口付近から、歩道添いに数分歩いて、交差点を曲がれば、すぐに須藤公園の下の入口に着いたのだ。わざわざ、団子坂上から、一旦台地の上に出て、公園に来る必要はなかった・・・・。
 実をいうとてっきり、千駄木の台地の上に公園はあると思っていたが須藤公園は、台地の「崖線」の地形を利用した、高低差のある公園であったのだ・・・・。つまり、台地の上と下に公園の出入口があるのだ。
 「崖線を利用した旧大名庭園の公園」には新江戸川公園がある。実際、崖の上から見ると新江戸川公園に地形や池の配置が酷似している。

 公園内を歩く。というより、崖(がい)の斜面の小みちを下るような感じです。
 せっかく、台地を登ったのに再び下る・・・。

DSC09230


 ↓ 公園の案内看板。
  児童公園のようになつていて、遊具もある。子供が数名、公園内で遊んでいた。小学生は明日から、また学校だ。私が見た看板には、ここが、かつての大名屋敷の庭園跡であることは書いていなかった。


DSC09229

 斜面の階段を下る。
 池の上の階段斜面から見た公園内の様子。地下鉄千駄木駅方面にマンションが見える。

DSC09233


 斜面途中から眺めた、斜面の上の様子。
 公園に近接して、住宅やビルがある。かつては、屋敷地や庭園の一部だったろうが。


DSC09237


 さらに、公園を散策します。滝があった。「須藤の滝」と名付けられている。
 見上げると、先程入ってきた、入口がある。台地の上は平坦だが、住宅が建ち並んでおり、とても、ここから現在も水が湧いているとは思えない。
 昔は崖から豊富な湧き水があったのでしょう。現在でも湧き水なのか、地下水のくみ上げか、水道水かそれともポンプ循環かは分かりません。
 あとで、文京区のウェブサイトを見ると、午後4時まではポンプで水をくみ上げして、滝水を流しているそうだ。


DSC09232

 池のほとりまで、下って来ました。日差しは、なくどんよりとしている。
 

DSC09231

 石畳の道を歩いて池のほとりまでやってきました。池の中の島には、弁財天がある。
 初詣のときに掛けたのだろうか、絵馬がいくつかかかっていた。

DSC09238

 ↓ 石段を登り、崖の上に戻る。 

DSC09234

  斜面から別方向。崖上の住宅地。

DSC09235

 遊具のある中腹の広場とその上に広がる住宅地。


DSC09236

 さて、「崖の上」の出入り口に戻り、元来た道を歩いて、鴎外記念館に向かった。「須藤邸」の近くの路上では先程の親子が遊んでいた。

 文京区のウェブサイトの説明文は、下のリンクのページからの引用した。

防災・まちづくり・環境>みどり・公園>公園等の案内>区立公園一覧>須藤公園

「はえぬき60kg」 山形県最上町 ふるさと寄附金」お礼品

 平成28年度の「ふるさと寄附金」のお礼の品
 年があけて1月になって届きました!、山形県最上町から平成の28年産「はえぬき60kg」です。
 「30kg」ではありませんよ。 

 28年9月中旬に申し込みをしました。たまたま、3万円以上で60キロのお米のお礼品のコースが限定で公表されていました。前年(27年)もキロ数は違うが、限定での寄附をたまたま見つけたのでした。今回も数量限定で先着順でした。
 
 お米は、ダンボールに米10kgの袋が三個入っていました。重いです(笑)。来月にもう一回、同じ量が届くことになっています。合計で60キロです。
 私は寄附をした時期が遅かったので、年明けの平成29年の発送になりましたが、寄附の時期によっては28年中にすべて届いていたと思います。

    ↓ 今回届いた「はえぬき」。お礼の手紙が入っています。
   さくらんぼの写真が袋に載っているのは、山形らしいです

DSC09241

 
  

黒田記念館 特別展示室公開 2017年1月 見学 東京国立博物館

 2017年1月9日(月) 

 年が明けた。今年初めて「東京国立博物館」にやって来た。
 「博物館に初もうで」を開催している本館を出て、黒田記念館に向かった。
  
 ↓ 館内に入場する。二年前にリニューアルオープンした黒田記念館の特別展示室は年始の公開中であった。
  廊下から「智・感・情」を撮影。この日は、入館者が少なかったので、他の人にカメラを向けることなく撮影できた。


DSC09216

 三つ並んだ「智・感・情」。大きい。等身大くらいある。大型作品。

DSC09215

↓ 高村光太郎作の「黒田清輝先生」像。


DSC09219


 ↓ 通常開室している展示室の入口の正面に「マンドリンを持つ女」の展示がある。


DSC09217

 展示室の入口の上にある「黒田子爵記念室」の文字は中村不折の揮毫とのこと。
 「新宿 中村屋」の看板とも確かに筆跡が同じである。


DSC09218

 ↓ デッサン「編物をする女」
 「読書」のモデルの女性と同じだ。

DSC09220

↓ 自画像。
 作品の右下に手書きで「紀元2545年8月4日写於パリ・・・黒田清輝」とある。
 まだ絵の勉強を始める前の時期の作品とのこと。
 若々しい清輝の姿がそこにある。年をとると、どうして、あの丸丸と肥えて、いかにも現代でいう「メタボのオッサン」の風貌になってしまうのか?。不思議だ・・・・・・・・・。

DSC09221

 あ~、ボクも歳をとりたくないな~(笑)。
 ↓ 展示されていた作品。


DSC09222

↓ 黒田の師 コランの肖像。紙 鉛筆。
  大正時代の作とある。

DSC09225


DSC09226

 ↓ 「祈祷」 1889年 油彩画。祈りをささげるフランスの少女の像。
  レンプラントの作品をこの時期模写するなど、影響を受けていたと説明にある。
  ミレーの絵も似ているにうな気もする。

DSC09227

↓ 「昔語り 下絵(舞妓)」
  油彩画。重要文化財指定の「舞妓」の下絵として制作されたというような説明だったと記憶する。
  京都の舞妓さんを描いたもの。こちらの方がリアルに舞妓さんの表情を捉えいるような。


DSC09228

 黒田記念館を見た後、そのまま徒歩で芸大の横を通り、森鴎外記念館まで散歩した。(谷根千散歩です。)

「博物館に初もうで」2017年 見学2 東京国立博物館

 2017年1月9日(月)

 年が明けた。今年初めて「東京国立博物館」にやって来た。「博物館に初もうで」2017年 見学2
 特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」が開催期間延長になって約1か月延長となり最終日なので、見学した。 
 一旦、二階の展示室を見てから、再び階段を降りて、一階の回廊状「ロ」の字になっている展示室を見ていく。「刀剣」の展示室は、あまり混雑していない。「刀剣女子」に代表されるブームはまだまだ続いているのでしょうか?。更に館内の奥に進む。一番奥の通路、裏庭に面した廊下に続く(もちろん、展示室には窓はついていないが)展示室に入る。
 
 「臨時全国宝物取調局の活動-明治中期の文化財調査-」のテーマによる展示があった。
説明によると「 明治21年(1888)に発足した臨時全国宝物取調局は全国の宝物台帳を作成することを目的とし、各地に調査員を派遣して文化財の調査と登録を行ないました。・・・・」と書いてある。
 

 壁のガラスケースには国宝 李迪(りてき。字が違うかな・・・・。)筆 「紅白 芙蓉図」があった。
 ↓
 2014年の「日本国宝展」で見たことがある。ここの所蔵なので「プロパー作品」の展示。
  二点あり、紅の芙蓉と・・・・、


DSC09202

↓ 白の芙蓉と二点の展示がある。


DSC09204


↓ 明治中期の調査の際の記録の冊子の展示がある。
「三等」「子爵 福岡孝弟」「木芙蓉図 「双幅」とある。

DSC09205


 国宝の展示よりも、調査記録の展示がメインのようだ。展示品の名称は「鑑査状番号簿」であり、芙蓉図は「第四」巻に記載されている。
 「鑑査状番号簿」自体が、重要文化財に指定されている。近代の文化財調査資料ですね。


DSC09206

鑑査状 ↓

DSC09207

 「右、優等にして美術上に要用なるものと認定す」とある。土佐出身の福岡孝弟(たかちか)は、明治の元勲の一人。どうやって、芙蓉図を入手したのか?。現在はここ東博の所蔵のため、あるときに寄贈されたか、購入したのだろうか?。
 臨時全国宝物取調委員長は 九鬼隆一とある。爵位はない、現在の兵庫県にあった三田藩の殿様の一族だろうか。当主ならば爵位を持っている筈である。「三田」とすると、白洲次郎の白洲家もここの出身だった筈。
 鑑査状には、「臨時全国宝物取調臨時鑑査掛 狩野〇〇」や「臨時全国宝物取調掛 岡倉覚三」とある。
 「狩野」は絵師の狩野一族の人であり、「岡倉」は岡倉天心ですね。

↓展示室内の様子。鑑査状などの文書は平なガラスケース内に置かれていた。

DSC09212


↓ 「芙蓉図」の鑑査状とは別のガラスケースに置かれていた書類。
 「達磨」像で所有者は「伯爵 松方正義」

DSC09209

 「石×観音像」の所有者も「伯爵 松方正義」。
 展示されているのは、当時撮影した白黒の写真なのでしょう。


DSC09210

 松方は、のちに公爵になっている。このとき首相には、まだなっていなかったかな?。
 たくさんいる正義の子の一人は、松方幸次郎で「松方コレクション」で有名な人。当時。政府の高官などお偉いさんは、旧大名や旧公家などから、昔の文化財を購入していたのでしようか?。彼らは新時代の「新貴族」様ですからね。旧体制の名家から、買い集めをしていたのでしょうか・・・・。


 更に進んで、近代美術の展示室に入る。


BlogPaint

 ↑ 「弱法師」は写真の右にある。

 今回、近代絵画(工芸品は除く)で重要文化財指定の作品は、下村観山の「弱法師」(よろぼし)のみでした。
 以前、2013年12月、横浜美術館で開催された「生誕140年 下村観山展」で鑑賞したことがある。

 ↓ 右隻


DSC09198

↓ 左隻

 大きな太陽は四天王寺の西に沈む「夕日」である。左隻は本当にシンプルで、花が咲く木の枝先以外は真っ赤でまん丸な太陽を思いっきり表現している。 
 本当に大きな「日の丸」である。日本の国旗を意識して描いたようにも思える。

DSC09199

 「観山」の落款と署名。美しい桜の花びらの下のそっと入れ込んだような感じ。
 

DSC09200

 近代の洋画の展示は、前回来たときと同じ明治時代の元勲など政治家の肖像画だった。
 「大久保利通」や「岩倉具視」などの。
 ざっと見学した後、次は「森鴎外記念館」に向かうことにした。
 博物館を退出した。


「博物館に初もうで」 東京国立博物館 2017年1月見学1

 2017年1月9日(月)

 年が明けた。今年初めて「東京国立博物館」にやって来た。

 特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」が開催期間延長になっていたので、入場した。
 (「櫟野寺」の文字がウェブ上では表示されないかも知れないが、その節はご容赦頂きたい。「らくやじ」と読む。)
  「博物館に初もうで」というこで館内を見学する。二階の国宝室に行く。

 ↓ 等伯筆 国宝 松林図屏風の展示があった。
  三年前の正月2日に来たことがあり、そのときに公開されていて、鑑賞したことがある。


DSC09189


 ↓ 左の屏風。

DSC09191

 ↓ 左下にあった「等伯」の落款。

DSC09190

 筆で墨をサッサットと描いたのだったのかは分からないが、筆遣いが判る。

DSC09192

 前回見たとき、特に撮影をしなかった。撮影可なのか分からなかったので・・・。今回は撮影禁止とは書いていなかったし、室内で撮影をしている人がいたので、私も撮影した次第。
 フラッシュ禁止ならば撮影可能のようだ。作品の前には多くの人が集まっていた。人が途切れたところで、左右両方の屏風を撮影をするひとができた。

 ↓ 国宝室の隣の部屋に展示があった、国宝「扇面法華経冊子」
   経文はなんと書いているのか判らないが美しい絵が描かれている。


DSC09194


↓「新春特別公開」の告知。


DSC09193

↓ 江戸時代の作品が展示してある部屋を通り、移動する。

DSC09197

↓ 江戸時代の絵画などの展示室。
 円山応挙の「雪中老松図」。文化財指定は無いようだ。
 
 説明文によると「・・・・絹地の白さを生かし、枝上の雪を浮かび上がらせる。・・・・」とある。

DSC09195

 雪の白い部分には、何も塗っていないのでした。墨の濃淡で松の幹や葉の様子を表現している。
 以前、三井記念美術館で見た国宝「雪松図」に酷似している。ああ、やっぱり同じ作者なのだと納得した(笑)。

↓ 説明文。明和2年の作であった。

DSC09196
 
 元号の「明和」は9年で改元となったことはよく知られている。「明和9年」は「迷惑年」とひっかけられたことはよく知られている。
 ところで、この見学の翌週にセンター試験があった。翌日、新聞に載っていた問題をたまたま見たのだが日本史の問題で「明和」と「宝暦事件」の順番を問う問題があった。どっちが、先の年号だったかな?(笑)。


↓ 「新春の特集」の展示があった。今年は「酉」年なので鳥の作品の展示がある。
「若沖」の鶏を描いた作品の展示があったが、私が注目したのは、「赤坂離宮」の七宝の装飾の下絵だ。
 「赤坂離宮花鳥図画帖」とタイトルがついている。

 迎賓館旧赤坂離宮の「花鳥の間」は前年(2016年)の2月に見学をしている。

 ↓ この鶏の絵は、実際に「花鳥の間」にあった鶏の絵の七宝作品とほぼ同じである。
   

DSC09188

作品は渡辺省亭と荒木寛畝の筆。説明によると実際に採用されたのは、渡辺省亭の作品とのこと。
↓ 鴨。二羽(数え方が間違っていたらスミマセン。)

DSC09187

↓ 鶏。

DSC09186

 これらの下絵を基に七宝を制作したのだった。迎賓館の「花鳥の間」での七宝作品は下絵のように楕円形であり、金属製の枠に囲まれて木の壁に埋め込みされていた。

 このブログ、実は「迎賓館 一般公開」など「迎賓館旧赤坂離宮」関連のキーワードでアクセスが結構あります。


特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」 見学 東京国立博物館

 2017年1月9日(月) 櫟野寺

 年が明けた。今年初めて「東京国立博物館」にやって来た。
 入り口のところで気付いたのだが、特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」が開催期間延長になっていた。本当は、前年2016年12月11日(日)までの会期だったが、約1か月延長となった。最終日なので、見学してみることにした。 この日の気温は10度以上になり、冬にしては暖かい陽気だった。天気は快晴である。

 「櫟野寺」の文字がウェブ上では表示されないかも知れないが、その節はご容赦頂きたい。
 「らくやじ」と読むそうです。当初は、読めませんでした・・・・(笑)。
 櫟野寺の場所は・・・というと、滋賀県の南部にある。いわゆる「甲賀」地域にあたる。滋賀県といっても、三重県の伊賀に近い地域にある。
 拝観寺院かどうかし知らなかった。重要文化財指定の仏像を収蔵、公開する収蔵庫はあり、一般公開されていたそうだが。現在建て替え、補修をしているとのことで、今回の特別展の開催になった模様。
 以前買った、滋賀県のガイドブックをみると「櫟野寺」は掲載されていない。主な観光寺院ではないようだ。ガイドブックについている地図を見ると、お寺の名前は書いてある。新名神の土山インターの南、数キロに位置する。何回か宿泊したことがある、三重県伊賀市にある「旅籠屋伊賀店」からも近い。県境を越える必要があるとはいえ、旅籠屋から直線距離で10キロも離れていない。今まで、気付かなかった・・・・・。


 ↓ 最終日を迎えた展覧会に入場する。

BlogPaint

 入場すると目の前にご本尊の観音様がドーンと鎮座している。古い仏像なので、色はややくすんでいるが金色に輝いている。見学者は壁に近い、仏像から離れたところから、見上げている。
 頭に小さい仏像がいくつも載っている「十一面観音」である。「あらゆるところを見ている。民衆を照らして救済する仏様」という意味なのだろうか。  
 近づいて見てみる。傍らには、11面観音について解説がある。頭の回りに10体あり、側面後方を向いているものもある。頭長に1体載っており合計で十一体。日本では「十一面観音」はメインの仏のお顔を含めて実際は「十二」面である、と説明に書いている。
 「十一面」のうち正面に近い仏はやさしい顔をしている。側面、裏側に行くにつれ、怒った顔をしている。あの「不動明王」を思わせる怒髪天のようだ。怒った顔をして、邪気を払うのであろう。ということは、観音様のお顔はやさしい柔和な表情であるが、密教の影響を多分に受けていると感じた。
 説明には櫟野寺は「天台宗」であるし、由緒は「最澄が比叡山の建立のための良い木材を求めて、この地にやって来た・・・・」そうであるので、当然であるが。「十一面観音」の制作は10世紀とある。西暦でいうと9××年なので、比叡山の創建から100年後くらいのことであるかな。


 ↓ 大階段の下。
   特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」の出口。


DSC09185




 ↓ 2016年10月に訪れたときに撮影。
   「平安の秘仏」展の懸垂幕がかかっている。約四か月の長い会期となった。

DSC08781





「特選黒毛和牛」 佐賀県上峰町 ふるさと寄附金 お礼の品

 平成29年1月
 
 年明けに「ふるさと寄附金」のお礼の品のお肉を食べた。
 佐賀県上峰町のふるさと寄附金、お礼の品「特選黒毛和牛」 だ。
 すでに28年10月中旬にはとどいていた。早く食べればよかったが、「冷凍」だったので、冷凍庫の中に入りっ放しになっていた・・・・。
 
 実をいうと寄附をしたのが、28年9月中旬。到着まで1か月と早かった。もっと時間がかかると思ったが、早かった。お礼の品の銘柄にもよるようだ。
 今回は「特選黒毛和牛」であり、「佐賀牛」ではない。「佐賀牛」は、やはりお高いので、同じ金額でも内容量はぐっと減る。ウチはお金があまり無いし、質より量を優先(笑)。

 ↓ スライスされたお肉が丸められて、ビニール袋に包装されていた。
   丁寧に加工されいることが分かる。


DSC09181

 寄附をした先は「上峰町」だったが、食肉の加工会社は別の町に所在する会社であった。
 
 ↓ 年末に来た兵庫県市川町の「タズミの玉子」につけて、スキヤキで食べた。


DSC09183


 上峰町は佐賀県三養基郡に属している。「みやき」郡と読む。一見しただけではも読むことが出来なかった。
上峰町の位置は、有名な吉野ヶ里遺跡の隣の自治体。佐賀平野とその北の山地に、南北に細長く伸びる町域だ。
 何回か町を通ったことがあるので、今回初めて寄附をした次第だ。最近では2013年に、長崎から博多駅に向かう特急に乗ったときに鉄道で「通過」。その日は、博多駅近くに宿泊し、翌日はレンタカーを借りて、高速道路で再び上峰町を通過し、吉野ヶ里遺跡に行ったのだった。連日で「通ったこと」があるのです(笑)。

 上峰町のウェブサイトを見ると、上峰町のふるさと寄附金の収入額は、平成26年はなんと40万円・・・・・。4000万円では無いです。40万円・・・・。
 平成27年は、な・なんと申込み件数が約95,700件余、合計で約21億2千900万円です。ケタをひとつ間違えて見たのかと思いました(笑)。急激に増えました。やっぱり、公式には「納税」ではなく「寄附」という用語を使用しています。
 上峰町は、ふるさと寄附金のお礼の品が充実していて「還元率」の良い自治体と一気に認識されたようです。申し込みが殺到しているのでしょう。





「クラナーハ展」鑑賞1 国立西洋美術館

  2016年12月24日

 国立科学博物館を見て、クリスマス・イブの夕刻、上野公園内を少し移動しの国立西洋美術館にやって来ました。ツレ達は、鑑賞しないそうです。
 西洋美術館は、春の「カラヴッジョ展」以来です。「世界文化遺産」に指定後は初めて来ました
 
 西洋美術館のチケット売り場に行列はな、かった。この日は、20時まで常設展は開館しているが、特別展は17時30分で閉館。閉館まで1時間を切っているので、いそいそと入館して、地下(の特別展示室)への階段を下る。
 クリスマス・イブにちなんで「西洋」の美術を鑑賞するのもまた一興かな!?

 「日本最初のクラナーハ展」だそう。「クラナッハ」と思っていたが、展覧会では「クラーナハ」と日本語の表記を統一している。私は、ルネサインス・マニエリスモ期のドイツにおける代表的作家を「クラナッハとホルバイン」と記憶していたが、今回「ホルバイン」についての展示は無い。「クラーナハ父子」の展覧会である。

↓ 館のチケット売り場と入口の間にある看板。
 

IMG_0315




 まずは、映像コーナーを見る。ベンチに座っている人は、私以外に4人くらい。
 クラーナハの生きた時代は、西暦1500年前後。人生の後半期にはちょうど「皇帝 カール五世」などの君主がいた時代、そしてルターの登場による「宗教改革の時代」。まさに「ヨーロッパの激動期」である。
 昔、フィレンツェのウフイッツィ美術館で見たクラーナハ作「マルティン ルター」の肖像画も今回、この日本で展示されるので、興味を持ってやって来た。

 音声ガイドを借りる。「ガイドは全部で50分くらいあります。閉館まで1時間ありませんが、よろしいですか。」と聞かれるが、勿論OKですょ(笑)。
 
 展示室に入る。すいている。鑑賞するには丁度よいくらいだ。
 
 最初の壁に「神聖ローマ皇帝 マクシミリアン一世」の肖像画。「デューラー」工房、追随者の作とある。
 写真で見たことがある皇帝マクシミリアンのザクロの実を持った肖像画ではない。しかし、その顔や姿は似ている。かぶっている帽子も同じではないか、首に「頸飾」の勲章を下げている。胸元には「羊」のペンダントが下がっている。「金羊毛騎士団長」としての勲章のようだ。つまり「ゴールデン フリース」ですね。制作年は、皇帝の死後、孫のカール五世の時代である。注文によって制作されたと思うが。
 なぜ、デューラー関係の展示から始まるのかというと、当時の権力者の肖像画は、画家が注文を受けて制作し、時代背景を表すからというような(音声ガイドの)説明だったかは、忘れた(笑)。
 
 次いでクラーナハ(父)作の「ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公」の肖像画がある。顔がアップのあまり大きくない肖像画である。賢公の肖像画は、二点あったと記憶する。




IMG_0317


 

 あっ、クリスマス・イブだからといって、カップルが多い訳ではないです
 もちろん、学生らしきカップルはいますが。私のようにおっさんの一人もいる。
 クリスマスは静かに世の中の平和や、友人知人、家族などの健康、安寧のために祈りを捧げる日と思うので、極端な「カップル主義」には反対。上の子は去年か一昨年くらいから(思春期なのだろう)「クリボッチ」という言葉を盛んに言うようになった・・・。「クリボッチ」のどこがいけないのか??。「クリボッチ主義」を貫くのだ。オレは・・・・。
 そもそもこういう言葉が先行すること自体がおかしい。だから、ボクはスル~です(笑)。





特別展「ラスコー」見学と食事 国立科学博物館

 2016年12月24日

 国立科学博物館にやって来ました。
 特別展「ラスコー」 見学の前に、食事をすることにしました。「特別展」の会場の後方、というか敷地の奥、入口から見て、「地球館」の奥にレストランの入口がある。
 今までここで食事をしたことは無い。なぜなら、昼の時間帯は、ものすごく混むので。いつも混雑している。夕方の閉館時間の前に休憩程度で利用したことがあるくらい・・・・。
 (「国立科学博物館 レストラン 昼食 混雑」 で検索してみてください(笑)。)
 食事をしたことは無いが、いつも特別展の入口付近や地球館の一階まで、レストランの食べ物の「におい」が流れてくるのだ。よって、私にとって、この「におい」こそが国立科学博物館の「におい」なのだ(笑)。

  この日、レストランの入口に来た時刻は、14時40分頃。ランチタイムは既に過ぎているが、待っている人がいる。ウエイティングリストに名前を書くが、7組くらい前に待っている。待ち時間の表示は「10分~15分」と書いている。待っている間に注文するメニューを決めておくとよいでしょう(笑)。
 10分くらい待つと名前を呼ばれた。着席して、そくさと注文だ(笑)。時間も無いことだし・・・・。私はハヤシライスを注文した。
 すると5分もしないで、料理が出て来た。早い。ごはんを皿にもって、ハヤシのルーを鍋からすくうだけだし。  
 「ラスコー展 記念 オードブル」もあるが、注文はしなかった。すでに完売だったかも知れないし・・・。
  
 ↓ ハヤシライスと「ラスコー展 記念 オードブル」のメニュー各種。

IMG_0313

 この科学博物館内のレストランは上野「精養軒」の運営。値段は、同じく上野公園内にある精養軒本店レストランのハヤシライスよりもずっと安い。そのぶん、付け合せのサラダは無いし、煮込んだお肉もルーの中に入っていない。

 なお、この日は土曜日。今年(2016年)9月以降、常設展示の開館時間は午後8時まで延長になった。
 よって、この日は三連休の中日(なかび)で、なおかつ午後8時閉館。連動して、レストランの閉店時刻が延長されていたように記憶する。


 ↓ (既出)「ラスコー展」の入口チケット売り場。


IMG_0310


 


プロフィール

りょうげつ

カテゴリー
  • ライブドアブログ