良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2017年11月

 

「長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」鑑賞1 永青文庫

  2017年11月26日(日)

 永青文庫の平成29年度秋季展 「重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」にやって来ました。9月末からの会期もこの日が最終日となりました。またまたの最終日のドタバタ鑑賞だ(苦笑)。
 会期終了後なので速やかに記事掲載することにする
 展覧会の名称が長いので「天授庵 長谷川等伯障壁画」展と呼ぶべきかな。

 永青文庫、前回は平成27年12月に「春画展」SHUNGA(以下「春画展」と書く。)の後期に来て以来ほぼ2年ぶりの訪問だ。あれから2年たったか、早いものだなぁ・・・・・、オレは2歳も歳を取ったよ・・・・。中年になっての2歳は大きいな・・・。歳はとりたくないヨ、そう思う歳になってきた

 永青文庫の展示会を初めて見たのは27年2月に見た「信長の手紙」展。あのときは、テレビで紹介された直後なので真冬にもかかわらず混雑していた。次は、その2か月後の4月、春霞のなか「細川家起請文の世界」展にやってきた。副題は「神の使い八咫烏に誓う」だったが、平日の日中の訪問とあってか見学者は少なかった。
 よって平成27年は都合4回も永青文庫の展示会(展覧会)を鑑賞したのだが、翌年の平成28年の訪問は皆無だった・・・。同年の夏であったか、永青文庫所蔵の国宝刀剣の企画展示が開催されたのだが、知らなかった・・・。あとから気付いた・・・。「刀剣女子ブーム」で開催されたのだろう。(刀剣に関する)チェックが甘かったゾ(笑)。「刀剣」に関する展覧会が多数開催されているのでインターネットで検索していたら、気付いた次第だ。

 今年の展示会も行っていなかったが、秋季展示会は「天授庵 長谷川等伯障壁画」だと知った。よって、事前に訪問することは決めていた。先だって、10/28(土)には「予習」を兼ねて京都・南禅寺の塔頭 天授庵を拝観した。必ず予習→授業(実際の鑑賞)です
 胸突坂を登って永青文庫へ。敷地に入ろうとすると門が新しくなっていた「春画展」のときは以前の古い門だったと記憶しているので、その後新しく工事をしたようだ。 

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 入館者は切れ目なくやってきている。落葉の時期なので、敷地内や門塀の外の道路で写真撮影をしている人が多い。よって人がいるので敷地内での撮影が難しいのだ。
 ↓ しかし、人がいない瞬間を狙って撮影した。

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 入口に入る。入口付近を含めて建物は春画展のときに改装している。入口ホールの上に空いている.「穴」もそのままだ。春画展以前に使用していた出入り口は閉鎖されていた。春画展のときと同じく(当たり前だが)チケット売り場の窓口カウンターがあり、奥は事務室になっている。券売り場には、楕円形の細い黒ぶちメガネをかけた、まじめそうな若い女性がいる。どう見ても学生のアルバイトにしか見えないが、(本当のところは)わからない。その女性には、いつものごとく「四階の展示室の展示室から見てください。」と言われる。ここの決まり文句なので、もはや驚かない(笑)。
 入場料は1000円である。窓口カウンターは一つというか、受付にはこの女性1人しかいない。受付は玄関ホールで販売している書籍、冊子、図録類の販売も兼ねている。永青文庫私が券を買う直前は年配の小柄な女性が書籍を購入をしていた。その女性は「えーと」とお財布を探して、ゆっくりお金を出して支払いをしているので、数名の列はすぐに受付前に出来てしまう。ともかく、私は券を買い「四階」の展示室に階段を登ります。
 しかし「長谷川等伯障壁画は3階の蔵のような展示室に展示しているだろう。」と勝手に解釈し「四階」への階段の途中、踊り場のような所にある「蔵の内部」のような「3階」の展示室に一旦入った。過去の経験からすると企画展は、3階の展示室で主に開催されていたから。
  このとき3階の企画展示室??には、細川家の文書類や甲冑、刀の鞘(「拵」というべきか。)が展示されている。室内を見回している
 やはり「4階の展示室の展示室から見てください。」と言う言葉は正しかった。まさに「愚者は(過去の)経験に学ぶ・・・。」であった。オレは本当に愚者だ・・・
  
 4階の展示室を見る。大きな障壁画がガラスケース内にドーンと展示されている。「南禅寺天授庵の長谷川等伯筆になる障壁画」は4階にあったのだ!!。室内には常時10-15人くらいの観覧者がいる。
 重要文化財の中国の石像(石仏)は以前と場所は変わったが、展示室の端に展示されていました。細川家の大きな「長持」もそのまま、展示室の入ってすぐの所に大きなガラスケースに入って引き続き展示されていたのでした。
 「長持」は私が初めて永青文庫に来たときから展示されているのだが、明治元年?に当時の細川家当主、護久の正室が婚礼の際に持参したと説明にある。鍋島直正の娘、宏子が細川家に輿入れしたそうだ。
 よーく見ると展示室内のガラスケースの下部、土台部分??のところにもガラスが張ってあり、内部には黒い漆塗り?の長持ちが置いてある。長持ちに説明はないが、うち1個には昔付けたような付せんようなものが貼ってある。「××、〇枚」のように衣服の品名と数量が書いてあるので、当時の(長持の)中身について記入したものがそのまま残っているのだろう。

 展示室内は当然撮影禁止。気のせいだが廊下の窓から以前見えていた、永青文庫の奥の敷地、現在は和敬塾の施設である旧細川邸は、和敬塾の新しい鉄筋の建物に隠れて見えなくなっているような・・・・。カーテンで廊下から外はあまり見えないが・・・・。
 旧細川侯爵邸、和敬塾本館は、先日の「東京文化財ウィーク」で1日だけ公開があった。10/29(日)に事前申し込み、定員制、有料で公開された。元々10/28と10/29は出かける予定であったので、今回は申込みしなかった。しかし、1日だけの公開なので定員に達して断られることもあるだろうし、年に1回だけの公開は見学のハードルは高い・・・。
 結局、私は10/28(土)は台風の迫る京都に行って、天授庵を「予習」のため拝観し、京都国立博物館の特別展「国宝」で大徳寺龍光院の国宝「曜変天目茶碗」などを鑑賞したのだった。翌日の29日の日曜日は台風の影響で雨であった。私はほとんど家で過ごして、買い物に出かけたくらいだった。午後か夕方には台風の影響は関東地方から無くなってきたのだが、和敬塾本館(旧細川侯爵邸)の公開が予定通り公開されたのかは寡聞にして知らない。
 
  






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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞5

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞5
 

 静寂の展示室内である。 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」を見ていく。

 ・「鎌倉府侍所禁制(覚園寺文書)」
  うーん、鎌倉幕府の「サムライ所」と最初は誤解してしまったが、幕府滅亡後、足利幕府の「鎌倉府」の禁制。鎌倉府も「侍所」という組織を鎌倉幕府から引き継いだのでしょうか?。足利氏の鎌倉公方の政治を司るところかな。
 ・「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」「当寺仏殿〇〇銘位〇事・・・件」が本文で、「文和三年十二月八日 田香氏」と書いてある。末尾に尊氏の花押がある。更に宛名を書いている。「覚園寺長老」と。覚園寺の(今でいう)住職にあてた文書である。
 仏殿を再建?することについての文書(御教書)らしい。仏殿に滞留し、師範をするよう命じている。覚園寺長老とは.「朴がい思淳」(ぼくがい しじゅん)というお坊さんである。
  (「がい」の文字が出ない・・・・のでひらがな表記しておく。)

 この文書は注目ですよ!!。「田香氏」とは足利「尊氏」のことですよ。「高氏」「尊氏」以外にも優雅に「田香氏」と名乗っていたのですよ。最初は「でんこう」という家の人のことかと思ったが音読みしてハッとした。ただ、こうした異音?読みは昔から当たり前だったのかな?。
 同じく覚園寺長老に宛てた別の文書もあり、覚園寺長老「思淳」(しじゅん)師に「××事・・・丁寧に・・・・」と祈祷に関することを命じているらしい。

 上記の「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」とは別の場所、出入り口に近い壁沿いのガラスケースに尊氏の筆になるという「地蔵菩薩像」が展示してある。縦長の、描け軸になっている。文字が書いてあり、下にお地蔵さんの絵がある。展示リストによると第2章の展示品である。
 文字は尊氏の直筆ということだろう。上手ではないが、丁寧に筆で書いてある。(筆で書くのは当たり前だが・・・。)ただし、達筆ではない。本当に尊氏はこのような文字を書いたのだろうか。下には「尊氏+花押」がある。歴史教科書と同じ「尊氏」と書いてある。花押は、間違いない、「田香氏」と書いた「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」と同一である。素人目にも同一人のサインした花押と判るぞ!。
 地蔵菩薩像は西暦でいうと1349年のもの。。「田香氏」と名前を書いた御教書は西暦1354=文和三年のもの。「田香氏」の署名の方が年長になってからのものだ。なぜ、あて字をしたのかは分からない。説明も無かったと思う。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
  左端の文書の写真、浄光明寺の敷地絵図の上には「田香氏」と名前の入った御教書の画像がある。

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 第4章 「鎌倉に残る基氏の記憶」
 この特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のメイン展示は「1章」に集中しているため、軽く見ていく。展示室の中心付近の展示ケース内に少しばかりある。
 江戸時代以降の鎌倉の絵図がある。以前も写真などで見たことがあるかもしれない絵図だ。寺院と農村に帰した田園の??鎌倉である。
 基氏の位牌も展示してあった。「瑞泉寺殿・・・」と戒名が彫られている。「院号」でない。「寺号」である。江戸時代以降だと、このような戒名は「瑞泉院殿」と院がつくのだろうが、位牌の文字は「瑞泉寺殿・・・」である。この位牌自体、展示目録によると江戸時代18世紀のものなので、何らかのときにつくられたのだろう。所蔵は「称名寺」となっている。あの金沢文庫に隣接するお寺だ。瑞泉寺ではない。

 今回、瑞泉寺所蔵の文化財が多数展示されていた。基氏の菩提寺であったのですね。全く、基氏と瑞泉寺の関係について理解していませんでした・・・・(苦笑)。そして、瑞泉寺がどこにあるのか、知らないのです。行ったことも無い・・・・
 3章と4章の展示は、ほぼ同じ展示ケース内にあるので、区別がつかない・・・。順路もごちゃごちゃになってしまうので・・・。
 館内はすいている。私のあとから入場してきた女性が1人いたが、先に出て行ってしまった。更にあとから入館してきた男性1人がいた。私は退出して、帰途につきました。
 帰宅した後、地図や自宅にある鎌倉のガイドブックなどで瑞泉寺の位置を確認した。拝観もできるそうだ。鎌倉時代の作になる庭園があることが分かった。
  今回の特別展のタイトルの一部には「東国の王」とある。鎌倉公方は、足利家の分家でまさに東国の王だったりですね。

 (鑑賞記 おしまい。)



「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞4

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞4
 
 第2章「鎌倉公方と禅宗寺院」 を続けて見ていく。次いで

 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示に続く。
 第2章と第3章の展示はほぼ似ていて、同じ場所に展示されていて、区別はつきにくいが。
 上総国の土地の争いに関する文書の展示があった。上総の国の湯井郷の土地で争いが発生していたらしい。現在の千葉県の房総半島の付け根付近の台地の谷間の肥沃な土地(現在ではすいかの名産地となっているが。)か、九十九里浜に面した地域かな。それとも市原、茂原の辺りかな?。

 「足利基氏御判御教書」、基氏の名前と花押のある文書で年号は貞治二年(西暦では1363年と説明にある。)の二月二十七日(実際の文字は「廿」と墨書している。)の日付だ。「光明寺」文書である。
 「上総国湯井郷事~」と書いてある。宛先は「光明寺長老」となっている。湯井郷はある御家人が勝手に??支配してしまっているが、この文書によって光明寺の領有を認めたのであった。

 尊氏と基氏親子の御教書が描け軸になっていて、連続している展示品があった。「浄光明時文書」である。後世の人が、二人の御教書をありがたや、と軸装したのであろうか?。
 末尾に尊氏の名前と花押のある文書では宛名は「千葉介殿」となっている。
 末尾に子の鎌倉公方、基氏の名前と花押のある文書では年号は 貞治三年(西暦では1364年と説明にある。)四月十六日の日付があり宛名は「伊予守殿」となっている。
 湯井郷の押領をやめさせ、尊氏の御教書の通り、寺の雑掌を渡せという意味だそう。(私の誤解かもいれないが。)
 上記した貞治二年(西暦では1363年)の基氏花押のある御判御教書と「対」になっているそう。同二年(つまり前年のこと。)の御教書に従って、土地は覚園寺に渡しなさい、という命令であった。なかなか、引き渡しをしなかったのですね。あわよくば、そのまましれーっと自分のモノにしようとしていたことがミエミエ!?。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 「光明寺」文書の写真。「湯井郷」のことが書いてある。鎌倉市指定文化財である。

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 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示で重要文化財指定の「浄光明寺敷地絵図」がある。昔のお寺の伽藍配置図である。簡単に墨で和紙に書いてある文書、絵図にしか見えなかったのだ・・・。
 同じく第2章の展示では「明月院」の昔の絵図の展示があった。明月院は「あじさい寺」として有名だし、先の6月に行ったことがあるので、明月院の絵図に見入ってしまったが、「浄光明寺敷地絵図」は特別展のパンフレットにも掲載があるので重要な絵図らしいとあとから、気付いた・・・・。
 明月院は元々「禅興寺」というお寺の塔頭だったと説明にある。読んで字の如く禅宗の振興のための信仰篤き寺であったのだろう。現在の北鎌倉の山の付近、北鎌倉駅から見て建長寺の手前に広大な伽藍を構える寺院であったのだろうか?。

 、「浄光明寺敷地絵図」に描かれていた「浄光明寺」も鎌倉公方 足利家にゆかりの深い寺のようだ。瑞泉寺と並んで重要なお寺だったので、文書が残されているのであろう。今まで、知らなかった・・・今まで知らなかったお寺にも、実はかなり重要な歴史資料が遺されていると改めて気づいた・・・・・。

 「浄光明寺」と「光明寺」とふたつのお寺の文書が展示されている。同じお寺かとおもいきや、違うらしい。展示室内では両寺の違いについて詳しい説明は無かったと記憶する。(説明文はあったが、私が忘れてしまっただけかも・・・。)

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
  左端の文書の写真、実は文字ではなく浄光明寺の敷地絵図である。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞3

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞3
 

  ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
 足利基氏の坐像や国宝「上杉家文書」など展示される文書の画像が掲載されている。


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 鎌倉公方足利基氏の御教書に続いて、展示ガラスケース内には、「足利家文書」 米沢市上杉博物館所蔵の展示があった。文書の国宝一括指定のため、点数は膨大なものであろう。よって、1枚1枚文書を読み込むとは不可能だ。文書がまとめて国宝指定されている点は、金沢文庫で保管されている称名寺聖教の文書群と同じであろう。ただし、称名寺聖教が国宝指定されたのは、昨年か一昨年だったと記憶するので「上杉家文書」の国宝指定はもっと以前のことだろう。
 国宝の文書の傍らには重要文化財の「上杉重房坐像」が展示してあった。鎌倉公方を補佐したのが関東管領上杉氏。よって、「上杉重房」の木像が特別展のスペースに(平常展示から)移動して展示されているのだと理解した。
 今回の特別展の目玉はこの国宝だろう。うち2点のみが今回展示されている。前期は11/12(日)まで、後期は12/3(日曜)までとなっていて、2点ずつ展示替えされるようだ。私が見たのは前期の展示品だ。
 国宝文書の1点目は「足利直義書状」
 「若御前が鎌倉へ下る・・・。」ような内容。「六月二十日 民部? 大輔 」と書いてあるような・・・。日付は「二十」ではなく「廿」文字。昔の文書は皆そうなのかも知れないが、京都国立博の特別展「国宝」にて展示のあった文書などの日付も同様の書き方であった。「民部? 大輔」は尊氏のことか、直義のことか忘れた・・・・。
 解説によると「若御前は」尊氏の嫡子「義詮」のこと。京にいた尊氏は、子の義詮をかつての幕府所在地であった、鎌倉に送り込んで自分の代理として東国支配の拠点としたのだ。 

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
   国宝上杉家文書のうち「足利直義書状」ではなく後期展示の「基氏文書」の画像が掲載されていた。
  

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 続いて 国宝上杉家文書のうち「足利基氏御判御教書」の展示がある。建武の新政の時代から下って西暦でいうと1366年のこと。鎌倉の幕府が滅亡してから30年以上経過した後の文書。すっかり足利の天下となっていたのでしょうか。南北朝に分かれていた時代ではあったが。
 内容は「武蔵国 六浦・・・・事・・・補也 ・・・ 件、貞治五年十月十六日  基氏 花押  上椙×部少輔殿」と書いてある。解説によると「六浦本郷の支配を認めた文書」だそう。そのまんま、現在の横浜市金沢区六浦付近の土地の支配を認められたのだ。よーく見ると今日使用される「上杉」の文字ではないのだ。「椙」である。名古屋に「椙山学園」という学校があるが、同じ「椙」を用いている。椙山を私は「しょうざん」と読んでいたが、実際は「すぎやま」と読むのだ・・・・。
 文書の宛先の「×部少輔」は当時の上杉家の人物の官位だったのだ。だから、現在に至るまで(旧米沢藩主)上杉家に保管されていたのだ。
 ガラスケース内の壁面には「足利尊氏公家譜」の展示がある。江戸時代のもので尊氏や江戸時代の喜連川家の当主、喜連川尊信までの花押の写しを記載した文書である。歴代の足利家の人物の名前の横に花押の見本が記載されている。

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
    「実際に展示されていた文書」の画像もある。

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 展示の第2章に。第1章が国宝の展示もあって導入部の展示ではあるが、実はメインである。
 「鎌倉公方と禅宗寺院」 を見ていく。
 瑞泉寺所蔵の夢窓疎石の座った姿の木像の展示がある。重要文化財指定で、4尺はあろうかという大きな像であった。足利基氏らの小さい木造とは違う。同じく瑞泉寺所蔵で
 夢窓疎石はいうまでも無く、京都 天龍寺の開基として知られるし、基氏の父、尊氏と深い関係にあった僧だ。その縁で展示されているのでしょう。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 夢窓疎石の木像の画像の掲載がある。

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↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞2

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞2
 

 常設展示(平常展示)から見ていく。平日なのですいている。私以外、展示室内には主婦らしき40歳くらいの私服の女性がひとり見ているだけ。展示室内はシンとしていて静かだ。
 平常展示スペースの端、受付の部屋の裏手には 重要文化財指定の 「木造須弥壇 建長寺所蔵」が展示してある。こちらも以前来た時から展示してあった。昔は仏像を安置していたのだろう。室内の中央にある受付の部屋には係員の女性(2人ともに60歳前後かな)が二人いるようだ。小窓がついているので室内の様子がうしろから.判る。室内の看視カメラのモニターが受付のカウンターの手元にあるようだ。よって、私ら見学者の様子がまる判りなのであろう・・・。展示室内があまりにシンとしているので受付の女性2人の話し声というか、何か雑談をしているな、というかすかな声というか声の振動が俺の耳にまで聞こえてくるのだ・・・・。何か気になるなあ~。黙っていることは出来ないのかな??、と思いつつ順番に見学する。平日のすいているときは、話声の気配まで聞こえてくる、伝わってくるので、静かにしていてくれよ・・・!。鎌倉国宝館の受付のおばちゃんは(苦笑)。
 
 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。足利基氏の坐像と絵画が掲載されている。

 特別展の 第1章「足利基氏とその一族」
 基氏の木造の坐像が最初の展示作品であった。鎌倉 瑞泉寺の所蔵。ただし、瑞泉寺がどこにあるかは、知りません・・・・・・し、行ったとこは無い(苦笑)。1尺くらいの小ぶりな像だ。パンフレツトにも画像が掲載されているが、白いお顔が目立つ。お公家様の姿で正装して白粉(おしろい)を塗ったのかな。

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 基氏の木像、肖像画の展示がある。展示リストには「伝足利基氏像」とある。続いてかけ軸のようになっている肖像の展示がある。展示リストには「伝足利基氏像」とある。解説には「基氏は28歳で没したのであるが、年をとった姿である・・・」というような文章が書いてあった。制作は江戸時代となっているし、「伝」の肖像なので基氏と確証はないのであろう。作者は基氏ということにして、テキトーに描いたと思う。「昔の武将だから、年をとっているだろう。こんな感じかな~。ヒゲを入れて・・・」と。ホントだとしたら、マジ、テキトーだなぁ(苦笑)。
 そうか、基氏はわずか28歳の若さで没したのか。ところで「足利基氏って誰?。」すっかり忘れていたぞ。室町幕府に「鎌倉府」と「鎌倉公方」が置かれたことは覚えているが、公方様の名前までは覚えていない・・・。基氏は、二代目くらいの鎌倉公方かな、つまり尊氏の甥・・、程度に軽く考えていた。ということは「初代 鎌倉公方は尊氏の弟(直義か直義とは別の弟がいて・・・。)」と誤解していたのだ。オレは・・・・(苦笑)。
 展示室内の解説にも「足利基氏は、尊氏の四男?で・・・。」と何男だかは忘れたが尊氏の子であると書いてあった。
 兄の足利義詮の坐像もあった。小さい木造だ。解説には「2代将軍の義詮は、基氏の同母兄で・・・。」と書いてある。よって、同じ母の兄弟なので親しかったと推定される。父尊氏と叔父直義はのちに仲たがいしたと思うが・・・。

 父、尊氏の坐像もあった。栃木県喜連川のお寺の所蔵。さくら市指定の文化財となっている。今回の特別展で貸与展示されている。鎌倉公方 足利氏の末裔は、江戸時代に喜連川の領主として存続したので、ゆかりの品が喜連川(平成の合併以後はさくら市)に伝わっているのだ。
 ガラスケース内の壁面には重要文化財指定「足利尊氏願文」の展示がある。軸装されている。描け軸のように表装されていたと思う。あの「常磐山文庫」の所蔵だ。同文庫の所蔵する国宝の書跡2点は京都にて、残りの1点を鑑賞コンプリートしたのが、ついこの前のこと(笑)。
 書いてある文字はよく分からないが、なにかを祈願しているというよりも手紙のような感じ。末尾に「八月一九日」の日付と花押がある。「尊氏」の字も判る。

 展示を見ていくと3番目の木像の展示として「足利氏満」の木像もある。同じく鎌倉の瑞泉寺の所蔵。解説によると氏満は「基氏の子で、9歳で基氏のあとをついで鎌倉公方となった・・・。」とある。28歳で没したときに子の氏満は9歳。満でいうと7歳かな。二代目にしていきなり、幼君。大変だなあ・・・。よくよく考えると「満」の字は、足利本家の将軍 義満の片諱を拝領している。(考えなくても、義満から貰っていることは容易に推定できるが。)
 
 続いて国宝「上杉家文書」の展示があった。傍らには重要文化財の「上杉重房像」が展示してある。平常展示に以前はずっと展示されていた筈だ。歴史資料集にも写真が掲載されることのある有名な木造だ。今回は「上杉関連」で特別展のスペースに移動していました(笑)。
 上杉家は、足利尊氏の母の実家であり、関東管領として鎌倉公方を補佐したそうだ。関東管領というと関東地方のトップという感じがするが、鎌倉公方様の家臣ということでしょうか。

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
   重要文化財「上杉重房坐像」の画像もある。

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  その後「鎌倉公方関連」では、京のみやこの足利将軍とも含めて、関東でも結構戦乱とかありましたよね~、鎌倉から別のところに公方が移ったり・・・、と見学しながら軽く考えて流すオレ・・・・・。
 ガラスケースの下側に展示されている国宝「上杉家文書」を読む。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 氏満の木像の画像の掲載がある。「基氏像」と似ている。親子だから似せて制作したのかな。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞1

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞1
 

  今年6月以来の鎌倉国宝館だ。
 11月の平日に訪問した。関西方面に出かけたついでに三連休を挟んで平日も含んで休暇を取得した。今年最後の「三連休」だからね(笑)。 

 先の鎌倉国宝館の展覧会鑑賞においては、例年6月頃に展示されることが恒例の常盤山文庫所蔵の墨跡2点がまさかの展示無し・・・・(笑)。すっこけた感満載だったな(苦笑)。
 うち1点は、昨年の6月東京国立博物館で開催された特別展「茶の湯」で鑑賞した。「後日、鎌倉国宝館で再合会だよね。」とあまり詳しく見ないで、通り過ぎながら簡単に見ただけたった。なのに「約束通り」その同じ月に鎌倉国宝館に行ったが、なんと国宝の展示は2点の墨跡ともに無かったのだ・・・・。同館の展示リストやポスターでは国宝展示は掲載されていないのに、事前(平成29年度が始まった直後くらいに??)に掲載された展示品リストのみ信用して最新情報を確認して行かなかった俺が悪いんだけどね
 東京国立博物館で貸し出し展示したので、今年は鎌倉国宝館で展示しないのは、解かる筈なんだけどね。「察して」いなかったよ。しかし、今回11月に鑑賞した京都国立博物館で開催の特別展「国宝」では常盤山文庫所蔵の墨跡2点うち1点が展示されていたのだ。たった1週間限定で。しかも、私が特別展「茶の湯」見ていなかったものが展示されていた。
 ようやく常盤山文庫所蔵の墨跡2点を鑑賞することが出来たのだ。「鎌倉の恨みを京都で晴らしたぞ!。」という訳で勇躍、鎌倉国宝館にやって来た。(何言ってんだか・・・・。)

 しかしながら、自宅から簡単に行ける場所(鎌倉)でお目当ての国宝文化財を見ることができなくて、遠く400キロ離れた京都でやっと鑑賞できたとは、皮肉というのかな・・・・。あー、疲れたよ(苦笑)。でもアホだな、俺は・・・。

 鎌倉国宝館の入口と特別展の懸垂幕。 ↓


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 高床式の国宝館の階段を昇る。以前来た時に感じたのだか、結構急な勾配だ。特に前回は梅雨の時期、雨の降る中の訪問だったので、滑らないか気になった。昭和戦前期の建物なので、バリアーフリーかは確認していません。同館のウェブサイトによると「受付に声をかけてください。」と書いてある。

 平日なのですいている。受付で入館券を購入。600円。静かに展示室に入る。常設展示(平常展示)から見ていく。平常展示スペースの中央、須弥壇には同じく「薬師三尊」が安置されている。中央の薬師如来??立像は大きいが、両脇の二体は小さい。
 仏像の顔からして、丸い顔なのであるし、後背に丸い輪を背負っているので地蔵菩薩像と勘違いしてしまうが、薬師様なのである。周囲には、十二神将の像が四角い長方形の壇の周りを囲んでいる。
 
 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットに
   平常展示の様子の写真があった。中央に薬師三尊の立像。

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 入口をはいって、並びに展示されている仏像は変更があったような。彩色されている「木造 弁才天坐像」鶴岡八幡宮蔵は、以前別の場所に展示されていたような。勘違いかな・・・。水色の鮮やかな彩色の衣が印象的だ。
琵琶は、外して展示されている。木造の傍らには琵琶をを持った姿の同坐像の写真があった。
 展示室の奥、平壇の上の展示も(以前来た時と比較して)内容が変わっていたような・・・。
 「上杉氏坐像」は、無くなり別の像の展示がある。
 それらの像の中に「木造 明庵栄西坐像」寿福寺所蔵の展示があった。く彩色されている感じの坐像。別の栄西の像と顔かたちが酷似している。臨済宗の開祖、栄西の姿を映した像に違いない。栄西は確かにこのようなお姿と顔だったのだ。現代までその姿が伝わってくる。82歳から83歳頃の姿を彫ったそうだ。解説文には「栄西」と書いて「ようさい」とふりがなをふってある。「えいさい」ではなく「ようさい」の読み方は定着しているのだ。

 続いて特別展のスペースに移動する。

(参考画像)
 ↓ 鎌倉国宝館に向かう途中の鶴岡八幡宮の敷地内。向かて、右奥が国宝館の方向。
  平日なので人は少ないが、遠足の生徒も結構いた。平日の鎌倉は「遠足需要」もありますね。ボクも中学生のときも小学生のときも遠足で鎌倉散策をしたことがあります。


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特別展覧会「国宝」 第Ⅲ期 鑑賞2 京都国立博物館

 2017年11月4日 特別展覧会「国宝」 2 京都国立博物館

  特別展覧会「国宝」を見学のため再び京都国立博物館にやって来た。前回の訪問からちょうど1週間(笑)。今回は「第三期」を見学、鑑賞する。

 今回は「金印」が目玉である。館内に入ると、金印を最前列で鑑賞するための行列が出来ていた。しかし「待ち時間10分」はなく、すぐに入館できた。歩いて移動して疲れたので、1階の東側の廊下に設置されている長いすで休憩。長いすのあるところは、、御存じのように広ーい、長ーい廊下なのだが、人は少ない。その裏手の壁の向こうの展示室内の混雑がウソのようだ。よって、しばし休憩する。入館したのは、午後4時半前。(この日の閉館時刻の夜)8時までは、まだまだ時間があるぞ
 

 ↓ 鑑賞前にしばし窓に面した廊下に設置されているイスで休憩。 
   既にこの時点で歩き疲れていた。館内の展示室は混雑しているが、不思議なことに廊下には人がいない・・・。廊下に全く人がいないシーンの画像が撮れた。奥のレストランが営業しているのかは、結局この三回に及んだ特別展覧会「国宝」の鑑賞において確認が出来なかった(苦笑)。 

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 イスの傍らに「伝源頼朝像」の看板があった。 

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 「金印」についての告知看板もあった。
 「最後尾は2階」と書いてある。展示は3階である。

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 イスに座って、「国宝」に関する映像を見る。前回訪問時も少し見たかな。博物館の外の庭園では人でにぎわっている。夕日が思いっきり、当たっている。秋の夕日、眩しいな~。

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 さあ、鑑賞開始だ。三回目(くどい・・・笑)の。
 階段で3階へ。「書跡」から鑑賞する。第Ⅰ期や第Ⅱ期の混雑度に比べると随分と「混雑具合」は少しだけ落ち着いていたかな。最初の展示室なので相変わらず人でガラスケース前は一杯だったけど。
 途中、2階には本当に金印を最前列で鑑賞するための行列が出来ていた。階段の上、3階にも行列がつながっている。3階の通路横、2階吹き抜けの柵の横に行列している。行列は奥の展示室に続いている。
 「金印」の威力はすごいな。3年前の「日本国宝展」でも国宝展示期間中は大混雑だったと記憶している。(この期間は東京国立博物館に訪問をしていないが。)

 最初展示は「真草千字分」智永筆。空海の弟子の密教関連の文書と思っていたが、全く違った(苦笑)。説明によると智永は王義之の末裔にあたる人。王義之の最古の写本であるそう。2013年に「王義之」の展覧会で見たことがあったかな?。覚えていないが・・・。
 (「義之」は便宜上、現代漢字に置き換えて表記した。)
 「漢書楊雄伝」の展示がある。開いてある部分にははっきりと「漢書楊雄伝 巻五十七」とかいてある。年号は天暦二年五月廿一日と書いてあったような。漢書の中の伝記のひとつと思う。

 島状に設置されている長い平ガラスケース内、壁のガラスケース側には「日本書紀 巻第二十二」の巻物が広げてある。実は日本国宝展でも見たことがあるのだが、全く覚えていない・・・。
 「日本書紀」と反対の通路側(2階の吹き抜け側)の平ケース内には「御堂関白記」の展示がある。この部分を見たことがあるのかは、覚えていない。世界記憶遺産に登録されたのを契機に私も何回か鑑賞する機会を得た。
 
 「金印」は「考古」の展示室内に展示されていた。「そうか、金印は弥生時代??(日本でいう)の出土品だから考古のカテゴリーだな。」と改めて理解した(笑)。

 「考古」の展示室は、前回「火焔型土器」が展示されていたガラスケースには茅野市の「縄文の女神」の土偶が展示されていた。展示替えではなくガラスケースそのものを移動したのかは知らない。
 金印は更にその奥に展示されていた。最前列はロープが張られて並んだ人のみが鑑賞できる。ロープのうしろからは、自由に観覧できる。後列はすいている。さほど混んでいない。あれ、所蔵する「福岡市博物館では金印の撮影はできたかな?。」と考えた。たしか、撮影は一定条件の下では可能であったような・・・・。(福岡では)広い天井の高い、エントランスのような展示室内に方形のガラスケースに収まって展示されていたと記憶する。当時私はデジカメを所有する前だったので、元々、「金印」の実物を見たことすら忘れていたのだけどね(苦笑)。
 私は後列から「金印」を少しばかり見て、本当に小さい金印の存在を確認し、次の展示室、2階への階段を降りた。
 次は2階最奥の「仏画」の展示室。
 前回から展示はがらりと変わった。注目の文化財も展示されていた。目玉は曼殊院の「不動明王像」(黄不動)であろう。過去に展覧会などで鑑賞、拝観する機会のあった方も多いと思うが私は初めてであった。
 3年前の11月に訪問した「三井寺」の特別公開の拝観券に印刷されていた不動明王のお姿とほぼ同じである。拝観券はカラー印刷ではなかったが、今、私の目の前にある「不動明王像」(黄不動)は三井寺の不動明王像を写したものといわれるゆえんが理解できた。



 ↓ (イメージ画像) 入館し、展示室を鑑賞する前に見た京都国立博物館の庭園と門(画像、右側)


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特別展覧会「国宝」 第Ⅲ期 鑑賞1 京都国立博物館

 2017年11月4日 特別展覧会「国宝」 第Ⅲ期 鑑賞1 京都国立博物館

  特別展覧会「国宝」を見学のため再び京都国立博物館にやって来た。前回10月28日の訪問からちょうど1週間(笑)。今回は「第三期」を見学、鑑賞する。11月の三連休の2日目、土曜日の訪問である。
 「何回来れば気が済むのか?。」自分でもあきれているよ・・・・(苦笑)。家の者もあきれているしね・・・・・。よって、(あきれている家族に配慮して!?)なるべく費用をかけないため、飛行機のマイレージを利用して伊丹空港から京都入りした。時間は度外視で(笑)。横浜を起点にするならば京都までの移動は飛行機よりも新幹線の方が圧倒的に速い。 
 言い訳であるが元々は「国宝展の第二期は来ない。一期とせめて三期の2回は来たいな・・・。あとは、後年の機会あるときに・・・・・・・。」と思っていたが、ご周知の通り大徳寺龍光院の「曜変天目茶碗」が展示されたのでイレギュラーで台風の間隙をついて京都国立博物館やって来たのが先週の事(苦笑)。こんなに来て、大丈夫かな?、オレ・・・・・・・

 先週は、台風の迫る中、雨脚の強い時間帯の入館だった。やや冷たい雨の降る中の入館であったが、あれから一週間たち、この日は晴れていた。しかし夕方には雲がやや出てきていたが、穏やかな秋晴れだった。
 「小春日和」かな。この日は七条の駅ではなく、東福寺の方面、東海道線の線路から智積院前を歩いてアプローチした(笑)。東福寺付近から博物館までは私の足で15分くらいかかった。10分くらいで着くかなと思ったが、存外遠かった。東山の斜面の途中なので、夕日に照らされる京都の市街地がビルの合間から見える。

 
 館の敷地の南東の端、つまり妙法院や智積院に近い坂の上近くの柵には大阪・金剛寺所蔵の「仏像」の画像が大きく看板で表示されていた。「一番新しい国宝」のコピーが。同仏像は、特別展「国宝」が始まる前から展示があったと記憶している。昨年私が来たときにも1階の吹き抜けのフロアーで展示があった。今回も同じ場所で展示があった。今年だけでこの日を含めて3回鑑賞したことになる。都合4回目の鑑賞になったのかな(笑)。


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 ↓智積院の道路を挟んで西側の歩道を歩いて博物館へ歩く。
 博物館の敷地の柵が見えた。博物館よりも坂の上は「国宝」ののぼりが無い・・・。「のぼり」は七条駅から博物館までの特別な掲揚のようだ。


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東側から坂を下ってのアプローチ。駐車場は当然ながら満車。この展覧会の期間中、ここに駐車するのは至難の業であろう。

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 坂の上の入口。小さい入口である。今までこの通用口のような入口は気づかなかった。
「待ち時間は10分」と書いてある。


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 今回は「金印」が目玉である。館内に入ると、金印を最前列で鑑賞するための行列が出来ていた。しかし「待ち時間10分」はなく、すぐに入館できた。歩いて移動して疲れたので、1階の東側の廊下に設置されている長いすで休憩。長いすのあるところは、、御存じのようにひろーい、長ーい廊下なのだが、人は少ない。その裏手の壁の向こうの展示室内の混雑がウソのようだ。よって、しばし休憩する。入館したのは、午後4時半前。(この日の閉館時刻の夜)8時までは、まだまだ時間があるぞ。
 
 正門の前は人が多かったが、券を買うための列はほとんどなかった。
 雲がはれて、三十三間堂の向こう側から、急に西日が差してきた。眩しい!!。秋の淡い夕日に照らされている。
 
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 本館に入る。晴れていると入館が容易だ。チケットを購入した後、傘をさして雨の中、館の入口まで歩く必要がないので。
 第Ⅱ期の目玉、龍光院の「曜変天目茶碗」は展示が終わっていた。あの、喧噪がウソのようだ。1階の茶碗というか、陶磁の展示は国宝「油滴天目茶碗」が展示されていた。第Ⅱ期に龍光院の「曜変天目茶碗」が展示されていたガラスケースにである。
 最前列で鑑賞するための列もあった。ロープを張っていた。最近「油滴天目茶碗、展示されることも多い。大阪市の東洋陶磁美術館所蔵である。ただ、行列の長さは龍光院の「曜変天目茶碗」には及ばない。やはり「公開頻度」が違うためであろう。



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