良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2018年11月

 

牛たん喜助 新メニュー 食事 2018年11月

 牛たん喜助 新メニュー 食事 2018年11月

 東京駅の八重洲口側にあるに牛たん喜助のお店に行ってきました。
 
 地下鉄を降り、地下道を歩き、長崎のアンテナ店の隣で地上にでて東京駅に歩いた。
 日本橋口から東京駅のキッチンストリートへ。そこから、喜助に行ったのだ。

 すると、店の前では人がたくさんいる。中国人の団体らしく、10名位はいる。どっと入って行ったが、その次に入店して、カウンターに座ることが出来た。
 左隣は先の団体の内の、中国人女性2名、右隣には、私のあとに並んでいた、30-40歳くらいの女が1人、座ってきた。エキナカ立地としいうこともあり、一人で食事をする女性も結構多い。

 外国人は、いろいろと話ながら、メニューをえらんでいる。時間もないので、彼らが選んでいる間に注文と思い、さっとメニューを見る。

 時々ここで食事はしているのだが、今回はスタンプがたまったので、クーポンとして使用できるのでやって来たのだったのだが、メニューにとまどった。「あれ、いつものが無い・・・・・・・」と。
 今までは「1人前か1.5人前か。」、「塩かたれ」かで選択していたのだが、「1人前、1.5人前。」の区別がメニューに書いて無い・・・・・・・・・・・・・・・。
 店員さんが注文を、取りにきたが、なかなか決まらない。んー、と考え込んで、戸惑った・・・。思わず「あれっ、メニューかわった?。」と声を出してしまった。すると店員さんは「はい、変わりました。」と。

 そのため(普段の外での食事の投稿はあまりしないのだが)、今回の投稿と相なった次第。 

 「3 、4枚、6枚」などのメニューになっている。今年の夏に仙台に行ったときの店の表示方法でな、と思った。実際の肉の数は、切れの枚数の倍となる。先代の「牛たん 善治郎」みたいな枚数表示メニューだ。以前の1人前に値段の金額が近い、2000円(消費税コミ)くらいの、4枚メニューを頼む。
 
 ↓ 10月に行ったときの「ゆでたん」。このときは、ビールも飲んだ
   新メニューの画像は無い。

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 「塩かたれ」の区別は、「たれ」にした。夏に行った仙台の店では、塩やたれの味の区別かないことに気づいたものだ。 それとも、言わないといけなかった?。

 スタンプが一杯になっていたので、会計は500円くらいの追加の支払いで済んだ

↓ 10月に行ったときの「旧」メニュー。ビールも飲んだ
   新メニューの画像は無い。
  麦めしは、大盛り。こうして、画像を見ると、量が多いな・・・。糖質を摂りすぎかも・・・。
  みそ南蛮をお替りできるので、それをおかずに、ごはんも結構な量を食べてれてしまうのだ。

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 東京駅の地下商店街 「キャラクターストリート」も10周年であった。

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学習院大学史料館展示室 「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)及び乃木希典関連建物 見学

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)
 及び乃木希典関連建物 見学

  目白にある学習院大学史料館を見学した。

 小さい展示室であったが、30分弱見ていた。見学者は、途切れることなくやって来ていた。私が入室した時点では、やや太った40歳~50歳台くらいの女性が先に見ていた。そのうち、次いで、フード付のコートを着た小柄な50歳くらいの男性が入ってきた、。男性は、すぐに出て行き、私よりも先に入室していた女性もやがて出て行った。次に、テニスウェアらしき恰好の男子学生。茶髪の兄ちゃんである。ここの学生?でテニスサークル所属?らしい。練習のついでに寄ったらしい??。男子学生は、熱心に見て、アンケートも書いていた。

 私は「オリジナル乃木ハガキ」は入手しなくてもいいや、と思ったのでアンケートは書かずに退出した。

  学習院大学史料館展示室の平成30年度秋季特別展は「学び舎の乃木希典」のタイトル通り、現役軍人ではあったが、日露戦争の後の時期の「学習院院長としての乃木」に関する展示が中心であった。
 明治天皇の大喪という国家の非常時に、学院の最高責任者である院長が突然、自決して死亡し、職務を遂行できなくなってしまったことは、当時の学習院にとっても世間への影響以上に大事件であったろう。 

 学習院の敷地内には、乃木の起居した建物が保存されていた。
 案内看板も設置されていた。


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 乃木は院長時代、「総寮部」に起居したそう。展示でも説明があった。
 現在の乃木神社に隣接している乃木邸が、あくまで当時の自宅であったが、帰ることは月に1-2回、おおくても数回程度??だったようだ。
 共に殉死した静子夫人は、普段は学習院ではなく、赤坂(麻布かな)の自宅にて生活していたのであろう。
 
 旧総寮部は乃木館として保存されている。2009年に登録有形文化財に指定。
 説明には、乃木が院長になった後、学習院に全寮制を導入した、とあるので、寮(寮部)のすべてを統括するという意味で「総寮部」と名付けたのかな?。「寮本部」というべき場所かな。
 生徒にとっては、寮で寝るときも、常にほぼ四六時中、院長が一緒にいたことになる。  

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 実は、最初に展示室を見学に行ったときは、展示室が休みであった・・・・。開館日を勘違いしていた・・・・。
 よって 後日出直しした。
 閉室していて、悔しいので、乃木関連の建物だけ、先に見学をしたのだった・・・・。

 ↓ キャンパスの様子。最初に行ったときなので、季節は秋なのに緑が濃い・・・・。


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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

  目白にある学習院大学史料館を見学した。展示は三つの章に分かれていた。
 「一章」教育者となった乃木希典
 「二章」武課教育と修身教育の充実
であった。限られたスペースの室内なので、実は展示の順番通りに見ていない。
あとで展示リスト見ると「乃木大将などの軍服」は「二章」であるが、先に見てしまった・・・。

 「三章」は終章であり、殉死についての展示である。

 遺書の展示がある。
 遺書には、9月12日の0時とある。自決は、翌日9月13日の20時過ぎなので、前々日の深夜か。「12日」というよりは、11日の夜に書いたものであろう。
 文章中に「明治10年2月22日に、軍旗を失ひ・・・・・死・・・得・・・・」と書いてあるのが読める。「明治10年の役」とは書いていないようだ。
 乃木神社の遺書「遺言条々」よりも、見にくい字だ。文章中「皇恩」と読める一段上げる文字は一か所だけある。「本来はもっと先に死に場所を得るべきだったが・・・、皇恩に浴したので・・・・・今まで得ることができなかった・・・・・」という文章であろうか。
 ただし、乃木神社の遺言と内容は似ている。有名な、死亡当日、自宅前で撮影している乃木の写真は、コンノート公への贈呈のためだったそうだ。また展示の遺書には「・・・・養子の弊害・・・・・」と読めると箇所がある。絶家にしてほしい旨、寺内に依頼いているのであろう。遺言の文章に見る限りでは戦死した乃木の二人の息子を示す「両典」の文字はない。
 宛名は、寺内盟兄と末尾にある。当時の長州閥の同僚、寺内正毅に宛てたもの。封筒も展示されていて、それには「寺内陸軍大将殿 親展」と書いてある。
 
 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 遺書は、自分が接伴員、随行員を務めていた、コンノート公へのものもあったようだ。
 先のイギリスの国王戴冠式の際にイギリスに同行した、坂本海軍中将への遺書も展示している。「坂本 中将閣下」と宛名には書いてある。
 「・・・・コンノート殿下・・・ マクドナルド大使閣下?・・・」なとが読める。恐らく、コンノート殿下に対して申し訳ありません、接伴員の務めを果たすことが出来なくて、マグトナルド大使にもお詫びを・・・・」という内容であろう。マグトナルド大使は当時の日本駐在イギリス大使の名前らしい。
 長州閥のボス、乃木を引き立てた最大の人物、山縣有朋関連の展示はなかった。
 
 室内の柱には、乃木の殉死を批判した志賀直哉の文章が掲示してある。「・・・・・死んだそうだ・・・・・。」という、冷ややかな書き方。以前、志賀直哉の著作で見たことがあるかな・・・・?。その10年くらい前まで、学習院に在籍していたから、乃木には直接教えられた事はないはず。
 当時の新聞記事のコピーも展示してあった。展示の説明にもよると「森鴎外や夏目漱石の作品にも影響を与えた。」とあり、乃木の殉死に影響を受けた著書、著作の名前がいくつも書いてある。
 当時、乃木の死にあたって、森の軍医としての役割はないようだ。殉死した当時の陸軍省医務局長は森 林太郎であったが、最高階級にある現役軍人の急な死亡においても、森が直接検視をしたのではない模様。森に宛てた遺書はないらしい?。戸山の軍医学校か衛戍病院で軍医が現在の司法解剖のような解剖、検視は実施したのであろうか?。

 乃木夫妻の葬儀の写真も展示している。コンノート公も参列したとある。明治天皇の大喪に英国を代表して参列したが、まさか自分の接伴員であった乃木の葬儀にも参列することになると思わなかったであろう。
 遺書を展示しているケースの反対側のガラスケース内には、ラベルのはったワインの空き瓶がある。明治天皇から下賜されたワインで、最期の杯を乃木が静子と交わしたワインのビンとの箱書きがある。
 箱書きは、ずっとあとの時代の昭和11年5月の日付。空びんである。箱に墨書している。箱書きしたのは「海軍少将 御堀××」とある。なぜ、昭和11年に至って箱書きをしたかは、不明。 

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。
 ワインのビンとの箱書きの展示ケースの横に乃木の胸像も展示されていた。

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 退出した後、展示室棟の目の前には、当時の図書館の一部が残っている。現在は、図書館でなく、史料館の保管室?として使用しているらしい。
 少しだけ、移築移動し、明治時代の当時とは場所がやや違うようだ。
 広場、通路をはさんで、反対側には当時、明治天皇を迎えた本館があった。


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 ↓ 当時の本館の跡地の方向。明治天皇をお迎えした便殿があった。
  その跡地を示すものは無いようだ。
  現在は、グラウンドになっていた。全面ラバーの運動場でクラブ活動の練習をしていて、学生達の声が響いていた。

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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

  目白にある学習院大学史料館を見学した。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。入場は無料。他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
  会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。「9月13日」は言うまでもない、この特別展の主人公、陸軍大将伯爵 乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した「あの日」である。

 ↓ 室外に掲示してあった乃木に関する年表。室内のものは、もっと詳しく記載されていた。 

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 明治天皇の学習院行啓の資料展示を見た。
 優秀生徒の名に松平信×??、溝口正勝?、佐野××などの名前があったと記憶する。(正確ではないと思うが。)
 溝口は越後国の旧新発田藩の溝口伯爵家の子息、松平信×は「信」の字を名前の通し字とする大名松平家の子息だろう。松平家の爵位は子爵かな?。もしかしたら子爵家の分家の出かも知れない。「佐野」は旧佐賀藩の出の佐野常民(のち伯爵)の子孫だろうか?。

  展示室の奥の柱のエピソードボードが面白い。柱に乃木に関する「小話」を掲示してあるのだ。なかなか、興味深いエピソードが記されている。
 武者小路公共の話が掲示されている。「武者小路・・・・」は、どこかで聞いたことのある名前であるが、白樺派の作家 武者小路実篤の兄であり、子爵。確か、実篤の作品の中の年賦でよんだが、武者小路公共と実篤の兄弟は、父を早くに亡くしたので、兄 公共は既に子爵を継いで当主になっていたのだ。
 公共は、外交官となり、のちにドイツ大使(ナチス・ドイツの時代。昭和11年の日独防共協定締結時の大使)を務めた人物として知られる。

 乃木は、イギリス訪問の折にドイツ帝国を訪れたらしい。武者小路が同行して通訳した。すると、乃木が少将当時の明治18年頃のドイツ滞在時ではなく、日露戦争後、東郷大将とイギリス国王の戴冠式のため、随行して訪問した明治44年のときのことらしい。すると当時、武者小路は20歳台後半から30歳台前半で駆け出しか、若手の外交官だったであろう。
 話は「フォン(von)なんとか大将というドイツ帝国の陸軍大臣がいて表敬訪問した。置いてある物(調度品)を見た乃木が、『シェーン、アルバイテ・・・・・。』と言うと、フォンなんとか大将は驚き『シェーン ・・・・・』は、ドイツ語を余程知っておる者でないと、知らない言葉だと驚いた。」というもの。
 訪問を終えたあとで乃木は「アレ(調度品)は、余り出来のよくないものだったが『シェーン・・・・・』と言うしかなかった。」と言うと、同行の武者小路は爆笑したそうだ。

 今でいうと「いい仕事ですね~。」とドイツ語で適当に乃木が大臣にお世辞のホメ言葉を話しをしたのだろう。乃木のユーモアセンスを伝えるエピソードであろう。
 訪問した大臣閣下は、名前に「von」がつくので、プロイセンのユンカー出身の軍人大臣だったのではないか?。
 一般のイメージのように、日露戦争後であっても、乃木はいかめしい、冗談を解しない、謹厳だけの人物ではなかったのであろう。

 奥の柱に年表が二つ掲示してある。学習院の院長になった当初と明治43年から、死後までの二つ。明治40年1月に院長に就任している。満州から凱旋帰国してから、ちょうど1年後のことである。軍人としての現役は、そのままであるが、これは明治天皇の意向だそう。
 「正三位、勲一等、功一級、男爵」で院長に就任している。明治40年、その年の9月21日、一気に伯爵に昇爵(漢字が違うが、以後便宜上使用する)している。伯爵に昇爵の祝賀会を学習院で開催していた。
 その他、小話が小さいボードに掲示してあった。
 
 展示は三つに分かれているようだ。
 「第二章」を見る。「二章」武課教育と修身教育の充実

 覚えている展示を記すと・・・・、
 院長時代、学習院は、鎌倉郡片瀬に水泳場を設けた。片瀬は明治44年まで。明治45の7月から、沼津に移転しただそうだ。沼津は現在も使用されているそうだ。
 片瀬で撮影した写真が展示されている。片瀬の東浜のようだ。背後は腰越の丘かな・・・・?。集合写真には中央の院長の乃木、左が小堀水泳教官、右は、二人目中尉という人がいるが裸だ。教授も写っている。「右端に、舎監が制服でいる」という。軍服の男がいるが、その人かな・・・・。マストにのぼって写っている人もいる。教員か職員のようだ。その人の名も書いてあるが、忘れた。
 別の写真では、乃木はふんどし姿で、実ににこやかな姿であった。沼津の水泳場開設は運命の明治45年7月。明治天皇の重篤な病状が発表され、崩御があった月であり、乃木は沼津での指導はする機会が無かったと記憶する。

 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 室内の奥の角には、「中朝事実」の書籍の展示がある。山鹿素行の中朝事実をよく読んだことは、良く知られている。ただ、それらのエピソードは司馬遼太郎の小説「殉死」や「坂の上の雲」にもよる(広く知られる契機になった)ことが多いのだが・・・・・。

 「昭和天皇は晩年(に至る)まで、最も影響を受けた人物として、乃木をあげている。」と説明があった。
 乃木、玉木、吉田(松陰)、杉の系図が展示してある。「玉木家は、元禄年間に乃木家より、分かれた・・・・」と説明がある。乃木の弟の正之が、松下村塾を創設した玉木文之進の養子になっている。養父の玉木文之進は1876年没と書いてある。萩の乱のあとのことである。
 最近のNHKドラマでも登場した人物だ。文之進は「・・・腹をお召しになられた・・・。」とドラマでは、その死についていっていたな・・・・。偶々そのシーンだけ見たことがある。

 「中朝事実」の書籍の展示、その他書籍もあったが、乃木が特に山鹿素行の中朝事実の重視して読解、研究をしていたことが判る。
 吉田松陰についての書籍も寄贈していた。乃木希典が寄贈したことが書かれているページの展示があった。
 著者はあの徳富猪一郎(蘇峰)である。松陰と縁戚である乃木の思い入れの程が覗える。

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 乃木は、「中朝事実」を筆写していたようだ。司馬遼太郎の小説「殉死」にもそのことが書かれている。
 写して自費で出版して、配布していたそうだ。
 写した原本名が描かれている箇所が実際の展示でもあった。
 肥前平戸(現在の長崎県平戸市)の領主であった「松浦伯爵家の蔵書の中朝事実を学習院総寮部に於いて「源希典」が謹写したことが判る。

学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

  目白にある学習院大学史料館を見学した。元々、学習院に史料展示施設があるとは、知らなかった。以前は、国学院大学博物館や、早稲田大学中央図書館の展示室を見学したことがある。この特別展のことは、とある財団法人の美術館に置いてあるチラシで開催を知ってやって来た次第だ。

 交通は、至便である。 目白駅を降りて、地上の改札に出ると、すぐに学習院大学のキャンパス。キャンパスの中ほどの建物に史料館展示室はあった。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。目玉展示として、国宝、重文クラスの文化財が展示されるのではない。が、無料だし、他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
 
 会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。なぜ、9月13日開始なのか?。言うまでもなかろう、乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した日である。
 会期末の12月の2日の理由は分からない(年末に近い日曜だからか)。 

 大学の敷地内の教室棟などいくつもビルがあるのだが、そのひとつの棟の一階のフロア。文学部の研究室などが入ってる?棟のようだ。

 ↓ 特別展の告知看板。

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 展示室の入口の扉は開いている。受付台のうえで記帳があり、氏名を書くようになっている。若い女性の係員が座っている。別展の案内のチラシとアンケート用紙を渡される。アンケートを回答すると、「オリジナル乃木さんハガキ」が貰えるそうだ。係員は文学部の大学院生かな?。
 以下、乃木希典は「乃木」又は「乃木大将」と記す。
 
 
 順番に展示を見ていく。「一章」教育者となった乃木希典
 展示の最初は、乃木の使用していた道具など。食器、箸などの日用品やメガネなどもあったような・・・。
 日露戦争当時の乃木や山縣ら陸軍の首脳の写真、日露戦争の旅順攻略戦での乃木の写真の絵葉書などの展示がある。
 更に室内の壁面にほ、当時の学習院の敷地の地図。元々は、四谷にあったが、明治27年の「明治東京地震」で四谷の校舎に被害があり、その後用地を選定して、目白に移転したという。初等科は、現在も迎賓館の近く、四谷駅から徒歩数分のところに校舎がある。

 「明治東京地震」は知らなかった・・・・・。江戸時代末期、1858年の「安政地震」の後の東京直下型の地震なのだろうか?。すると、今後、断層が動いて、東京の地震というのは、発生する可能性はあるのだ、と感じた。

 明治41年に現在の目白に移転している。当時は東京市ではなく、目白村だったかな?。当時は、明治末期とはいえ、畑、雑木林なども広がる台地だったろう。現在の大都会、東京の目白付近の風景とは隔世の感があるだろう。
 当時の地図を見ると現在の川村学園の敷地には、学習院の職員官舎や、さらに敷地の東には、馬場がある。敷地は、ほぼ現在の川村学園の敷地と一致するのではないか?。学習院の北を通る現在の目白通りに沿って東西に細長い。

 明治41年、乃木が院長に就任した当時の庶務日誌も展示されていた。院長に就任したのは、皇孫 裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育のためだったことはよく知られている。
 「教育者」として学習院長としての展示が中心なので、乃木の院長就任前の軍功に関する展示は限られる。

 乃木大将は、自宅から四谷では、馬で通っていたあと、遠いので、目白の敷地内には住み込みであったという。家を構えたのではなく、起居していたという解説だ。乃木大将の自宅は、地下鉄乃木坂駅(そのまんまだが。)の近くの旧乃木邸として、乃木神社に隣接した敷地にあるし、某アイドルプロダクションの本社もかつては、近年まで乃木神社、旧乃木邸の近くにあった??。
 室内の壁のガラスケースには、乃木大将の軍服、刀は、黒い拵え付きである。刀の銘は見えない。江戸時代の??刀だったかな。軍服には、大将の肩章がついている。星が3つある。明治38年式の軍服で、いわゆるカーキ色である。戦前期(日中戦争や太平洋戦争期を除く)の時代を背景としたテレビドラマで見る軍服は、だいたいこの軍服の形式と色ではないか。軍帽も展示してある。
 「明治18年には、最年少で少将に昇進」と説明文にある。長州閥のおかげと思うが、すごいスピード出世である。
 軍服の布は、陸軍製ジュ所の製造のものを用いて、仕立ては自分の動きやすいようにしたと説明にある。「参考」ということで金鵄勲章も展示してある。勲章の実物はのちの時代、海軍の及川古志郎が昭和17.4.4に受けたものである。乃木は日露戦争の功績で「功一級」最高の金鵄勲章を授与されているので、現物が無いかわりに、別の人物が授与された実物を展示したのだろう。
 昭和17年4月といえば、日米開戦後、日本の占領地域が最大版図まで拡大した時期。恐らく、日中戦争以降の論功行賞が行われ、功一級の金鵄勲章が授与されたのだろうか。
 金鵄勲章は、乃木大将の軍服の下に展示してある。

 続いて見学していく。
 室内の平らなケースには、敷地内の図面と式次第が展示してある。明治42年7月に明治天皇が学習院に行啓したときのもの。行事の次第が書いてある。
 次第をよんでみる。天皇は、学習院の北にある正門から入り、本館に向かう。馬車であろう。正門は現在も同じ場所にあるようだ。
 図書館の向かいにある建物に天皇は入られている。今、私のいる建物は昔の図書館付近らしい。建て替えされているので、建物の大きさも一致しない。一部、敷地がかさなっているだけという感じ・・・・。天皇が建物に入る図も書いてある。天皇の入る建物は「便殿」と書いてある。つまり、天皇専用の建物。この行幸のために、新たに設けたらしいです。手渡された特別展のパンフには、当時と現在の建物配置の比較表がある。私は、手許と展示物を見比べながら、明治天皇の順路を確認した。

 午前10時より式典が開始。高等官、判任官は・・・、など供奉の次第が書いてある。侍従以外に多数の官吏が付き従ったようだ。院長(乃木)の案内にて、授業をご覧になられ、ご覧になる順番に「五年生」など学年を書いてある。
 たとえば、英語の授業では、数名の名が、「優秀学生」と書いてある。生徒の名前は「松平信×??、溝口正×?、佐野××・・・・・」などだったと思う。授業をご覧になった後、正午は食堂に移動。食事をとる。
 一時間の休憩の後、午後1時から午後の参観が開始される。馬術などをご覧になる。
 天皇の御前で馬術を演じる中等科学生、高等科学生の名前が書いてある。
 すべての次第を終えて、お帰りになる。お帰りは「還御」と、書いてある。



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