良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

2019年02月

 

2019年1月 総合文化展(常設展) 鑑賞3  「近代」浅井忠 作品 東京国立博物館

2019年1月 総合文化展(常設展)  鑑賞3  「近代」浅井忠 作品 東京国立博物館

 2019年、平成31年、今年初の東京国立博物館にやって来た。
 特別展「顔真卿」を鑑賞する予定で来たのだが、先に常設展(総合文化展)を鑑賞した。
 近代の展示室に。一番平成館に近い展示室のひとつだ。
 次は、長い廊下を通って、特別展「顔真卿」の会場に移動する予定でいた。

 3年ぶりくらいに 重要文化財 浅井忠 作「春畝」を見た。
 前回は、撮影がうまくいかなかったので、再度と思い、ガラスケースごしに撮影。しかし、反射してしまうので、うまく撮影できないということで納得した・・・・。
 


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 もうひとつの重要文化財指定の浅井忠 作品 「収穫」は、昨年秋も、ここからほど近くの東京芸術大学美術館でも展示された。昨年の公開時も(一昨年も公開があったと思うので)見逃した・・・・。「よって今年の秋に公開を期待する。」と書いたが、はて、、、、、、、、???と思い出してみた。以前の東京芸術大学美術館での展示リストを見て見ると、2015年11月に浅井忠 作 「収穫」 は鑑賞していた・・・・。すっかり、忘れていた

 「近代」の展示室の次は、長い廊下を通って、平成館へ。特別展「顔真卿」の会場に移動した。
 


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2019年1月 総合文化展(常設展) 鑑賞2  「近代」 東京国立博物館

2019年1月 総合文化展(常設展)  鑑賞2  「近代」 東京国立博物館

 2019年、平成31年、今年初の東京国立博物館にやって来た。
 特別展「顔真卿」を鑑賞する予定で来たのだが、先に常設展(総合文化展)を鑑賞した。
 年間パスの期限が切れていたので、改めて購入した。

 1階の北側、というのだろうか、平成館に近い「近代」の展示室にやって来た。ここ近代の展示室には、たくさんの観覧者がいる・・・・・という程では無い。不思議なことに少ない。皆、平成館の特別展に行ってしまうのか?。外国人も少ないような・・・・・。日本の近代は、時代が近すぎて外国人のイメージする日本とは違うので、あまり見ていく人はいないのかなと思った。
 近代の展示では、通常国宝指定の文化財は無いと理解しているので、無し。
 重文が一番の目玉になるとボクは「ホンマに勝手に」思っている。
 さて、目玉の近代重文 絵画はどこかな?、と探すが、1点ある。別の記事で紹介することに。

 ↓  重文指定の工芸品があった。
以前も見たことがある。
白磁蝶牡丹浮文大瓶(たいへい)
三代清風与平 作
シカゴ コロンブス博覧会事務局
  

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説明によると明治26年の シカゴの 博覧会に出品されたとある。
現在も、所有はシカゴの事務局なのであるが、日本に永久貸与されているかまでは書いていない。


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 本当に真っ白な瓶というか壺で、紋様は光っていて、実をいうと、蝶の形はあまりよく判別できない。ボクにとっては・・・。牡丹の華、というか花も・・・、蝶ヒラヒラ待っているのが、浮き上がっているかな。
 最近の近代展示室は、大きなお皿や金属製の工芸品の展示が多いような。

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 文化財指定は無いが、富岡鉄齋の日本画の展示があった。「二神会舞」(ニシンカイブ)
 光ってしまうが、ガラスケースの前から撮影した。
 鉄齋の絵は、本当に細密な描写で人物も顔のシワ、衣服のシワなどがリアルに描かれ、独特の雰囲気がある。頑固おやじが描いたような?、イメージの重厚な描写だ。
 富岡鉄齋の作品で重文指定は、まだ見たことが無い。所蔵している兵庫県の美術館での展覧会を昨年は期待したが、私が行こうとしていた日程での公開は無かった。
 白鶴美術館には、そのときに行った。

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2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞4(最終) 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞4(最終)

 筑前派の国宝の刀剣などを見た。
 長方形の室内の中ほど、平ガラスケース内に展示品がある。刀剣の解説文書の展示がある。京都でも同様の古文書が展示されていた。刀絵図 元和元年の奥が木があるもの。 個人蔵 の展示があった。国の文化財指定は重要美術品。京都でも展示があったかな!?。
 秀吉の所蔵の刀剣「太閤御物」の押形集であり、730と多くの刀剣の図が記載されているという。これは、現物を徳川の世の元和元年に埋忠壽齋なる人物の手により写したものという。ここに記載されている刀剣のうち、17点が国宝に指定されているそうだ。
 「太閤御物 たいこうぎょぶつ」とは、まるで天皇のコレクションのような呼び名だ。ホントに太閤から伝わったから「太閤 左文字」の意味が分かった。
 秀吉は信長の家臣時代、「羽柴筑前守」と呼ばれていた筈。秀吉が最初に城主となって、ついに大名クラスに出世し貰った官位が「筑前守」。筑前には想い入れがあったと思う。のちに、自分の筑前守の官位は親友の前田利家に譲ったと記憶しているので、筑前派の刀剣は好んで自分のコレクションに加えたのであろうか?。
 説明によると現在、展示してある 国宝 短刀 筑前 左文字と刃文の特徴の構成が一致している。「筑州住 左」の書き込みもあり、書き込みされている長さも「7寸7分・・・」と一致しているそうだ。
 墨書されていて、刀身や刃文が見事に筆写されている。確かに寸法も明記されている。ホントに現物を見て、記録したものである。(今見ている展示品は更にその写し)
 昔の刀剣のカタログといったところだろう。

 そろそろ、退出することにする。
 実は展示室内には、座るところは少ない・・・・・・。丸くて大きい、かわしいい感じのソファが3個くらいある。展示室内のそのソファはずっと座っている人がいて、(腰が痛くても)座ることは出来なかった・・・。ひとつのソファに、女三人が、ずっーと座ってで話をしていた・・・・。私が展示室内にいる間もずうっと丸いソファを占拠していた・・・・。

 三人のうち二人はかなり太っている。年は40くらいかな。太っていると実年齢よりも上に見えるので、実際はもっと若くて30歳台と思う。三人のうちもう一人も、見た感じ同じくらいの歳のお方。体は大きいが、下半身は細い。話していて、笑うと目じりにシワが出来る。目がぱっちりとしている美人だが、上体は太っているので実年齢は上に見えるので三人のうち一番年は上だろう。ゲームのオフ会のようで、色々と、ずっ-とおしゃべりしている。時折笑ったりして、決して大きい声ではないのだが、結構気になる・・・・。特に係員は注意しない。人が出入りしているので室内はザワついているかんじ。
 展示室を出るときに、目視で来館者を数えると室内に40人くらいいて、うち男は10人くらい。小学生の女の子も二人くらいいた。家族できているか。中学生くらいのメガネをかけた女の子も1人いたかな。
 白髪の年配の女性も熱心に展示を見ていたが、1人~2人くらいしかその年代の女性はいなかった。変わらずゲームを契機とする「刀剣女子」が多いようだ。来館の刀剣女子のメガネ率はとても高い。もしかしたら、60%以上ではないか?。もっとも男子よりも、女子の方が近視率は一般的に高いし、メガネをかけた方が見やすいからね。黒髪率も高い。(だから何だという感じだが。)西洋画の展覧会とは客層が違うような気がする。(以前も書いたが。) 外国人の入館者もいた。ドイツ人のようなブロンド色の髪の背の高い女性もいた。

 最後に入口付近のガラスケース内にあった 国宝「江雪左文字」を もう一度見る。
 この作品のみ撮影が可能。
 ガラスケースの前の人が少なくなっていたので、この時点で撮影した。先程は混雑していたが、私が退出直前、この国宝の刀剣の前には、入館したばかりの20歳くらいの女の子2人がいたのみだった。彼女たちを避けて撮影したのが投稿した画像。2人のうち1人は赤いチェック模様のシャツとジーンズ、小柄、153cmくらいで茶髪のセミロング。刀剣女子は黒髪の子の地味目の服装のが多いと認識していたが、珍しく少し派手な外見である。

 館内には、撮影禁止の注意事項は何も書いてない。受付のところに係員の男性2人がいる。以前と同じく巡回し基本的にしない。監視カメラはあるようだが。一回だけ室内を巡回して、落ちとているチラシなどを拾ったが、あまり 室内の巡回と監視はしていない。
 よって「撮影禁止」と展示室の入口には書いてあるのにもかかわらず、「撮影禁止」が徹底されず、長方形の展示室内では撮影をしている人もいたのは残念だった。

  ↓ 

  (再掲載) 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字) 。小松コレクション(ふくやま美術館寄託) 
 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)の拵 ↓ 黒漆研出鮫打・・・と解説にある。
 
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 (再掲載) 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字) ↓ 
 

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  ↓ 階段でロビーにくだる。 三階を見上げる。
 室外にイスはあるが、出てしまうと受付を再度通る必要があるので、鑑賞の途中で、室外に出て休憩できるのかが、解からない・・・。よって、腰が痛くともずっと鑑賞していた。あー、座りたかった・・・(けどソファに空きが無かった・・・。)。

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 1階に戻る。

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 ロビーにあった旧両国公会堂の写真パネル。

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 昨年の展示でも同様に感じたが、インターネット通信を媒介とするゲームでのブームには、何か危うさを感じた。新規のファン層が広がることは、文化財の保護、古文化の振興にとっては、大変望ましいことだが。
 オンラインゲームというどこで誰とつながるかわからない世界・・・。刀剣のゲームにはまっているのは、まじめそうな、一途な女の子が多い。
 「ファミコン世代」のボクとしては、明らかに昨今のゲームプレイ層は私達の頃とは違うと感じる。ここでの展示の見学者達を見てもまじめそうな、一途な女の子が多いのは明らかだ。(別に悪いといっているのではない。)しかし、文化財が展示されている室内で、他の来館者は全くスルーして、ひたすらおしゃべりを続けるいい歳の女性達もいる・・・・。
 オフ会や、オフラインでの個別のコンタクトなど、インターネットを媒介とする通信ゲームでの匿名性の高い仮想世界での最初の繋がり(ファーストコンタクト オブ ヴァーチャル ワールド)に起因して、実際に会ったことによる何らかのトラブル(real metを契機とするリアル トラブル= 何れも私の造語)が現実(マジ)世界で起きはしないかと懸念をしてしまうのは、私だけだろうか。

2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞3 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞3 

 今年最初の都心部の博物館関係へのお出かけだ。
 刀剣博物館は二回目の訪問である。

 
 展示はリスト通りの順番に並んでいるので、わかりやすい。

 企画展「筑前左文字の名刀」のチラシ拡大 ↓

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 重要文化財 短刀 「銘 安吉」(やすよし)(名物 日置安吉) この短刀は岡山藩の家臣 日置家のものという。日置(ヘキ)家は備前岡山藩主 池田家の重臣で万石以上の禄高の筈。よって大名クラスである。確かに岡山には日置(ひおき、へき)という地名があったな。
 元々は、日置家の所有で、のちに金沢の前田利常の所有となった。代々前田家に伝わった。重臣 日置氏は他大名家から主家池田家のある刀を「譲ってくれ・・・・・」と言われても同意しなかったという。
 この「名物 日置安吉」は「備前の長船の(名刀工)兼光をほうふつとさせる」作品と言う解説がある。
 のち、明治時代の鑑定家 今村長賀の手に渡り?、鑑定して、岩崎(弥之助)家に所有されたという。現在は岩崎弥之助の文化財を保有する静嘉堂文庫美術館の所蔵。
 チラシにも写真掲載があるが、根本から投信の真ん中は、小乱れというか、波をうつ刃文。そして、刃先の刃文が太くなっている。どこか、どっしりとしている刃文と感じた。

 平ガラスケースに、同じく重要文化財 「左安吉」(さのやすよし)の短刀の展示があった。日置安吉の作者と同一人物かは不明。所蔵は「犬山白帝文庫」とある。つまり、犬山城主であった尾張附家老の成瀬家伝来の刀剣の展示である。
 刃文は忘れたが、刀身に不動明王の持っている刀の刻みがある。
 
 向かって、左手の長辺のガラスケース内(順路でいうと、第三コーナーの長い展示ガラスケースというのだろうか?。)に「国宝 短刀 銘 筑州住行弘」土浦市立博物館所蔵があった。
 茎のなかほどに「筑州住行弘」と刻まれている。行弘は左文字の高弟にあたる1人という。作品に太刀は少なく、ほとんどが短刀だそうだ。
 年号は展示では見えないウラにあるそうだ。観応元年なので、南北朝の時代である。「年号、1350年の年紀が刻まれているのは貴重」という解説文。
 一昨年のふくやま美術館で「見た気分」になっていたが、展示期間の関係で見ていない。私が福山で見たのは、太閤秀吉ではなく、家康など徳川家由来の国宝刀剣群だったようだ・・・・。
 先は、やや湾曲している刃文だ。「色が明るい」とも書いてある。確かに刃文の色が明るい、ライトシルバーといった感じ。「・・・左文字の大成後の刃文の柄・・・」という。「内反り」といって、反っていない。背が刃の方向にやや丸まって曲がっている。
 「土浦藩土屋家旧蔵」と由来が書いてある。よって、現在は土浦市立博物館の所蔵。
 しかし、解説文には「中世以降、筑前派は姿を消した・・・」と書いてあった。
 よって現在の五箇伝にも筑前は入っていない・・・・・。筑前の作刀技術は継承されなかったようだ。その後の筑前など九州の刀工についての展示解説があったのかは忘れた・・・。

 企画展「筑前左文字の名刀」のチラシ拡大 ↓


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 値段が書いてあるという刀剣の展示があった。 「太刀 銘 吉弘」 東建コーポレーション所有
 文化財指定は無いが、ここ刀剣博物館の指定であろうか特別重要刀剣と展示リストには書いてある。
 本阿弥光忠の「折紙」によると「金子 参拾五枚・・・」と書いてあるそうだ??。小判で35両でろあうか。
 (記憶違いかもしれない。拝領品の附け書きに値段は書かないと思うし、別の作品だったかな。)

 岡山藩の池田継政に、徳川吉宗から授けられたと書いてあった。片諱を受けたのは、一代前の家継からであるが、実際に当主になったきとは、吉宗の時代だった。だから、吉宗から拝領したのであろう。
 隣に「短刀 銘 吉貞」 東建コーポレーション所有も展示がある。水戸徳川家から伝来と書いてある。
  
 あとは、ざっと見たが、平ガラスケースに、先日に行った松山の松平家伝来の刀剣の展示があった。「久松家伝来」と説明には書いてある。
 「短刀 銘 国弘作」 27cm 反り0.5cm ほぼ、反りが無い短刀。東雲神社所有。
 茎の下に「国弘作」と銘が刻んである。茎は、すりあげ(用語を覚えてきたぞ)しているのか、短い。つまり、もつ所が短い。刃文は細い、ほぼ真っ直ぐだ。すうっとしている、刃文。刀身にはキズのような文字が刻んであった「併」のような「丼」のような文字。梵字だろうか。不明だ。

 




 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞2 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞2 

 今年最初の都心部の博物館関係へのお出かけだ。
 刀剣博物館に向かった。二回目の訪問である。


 国宝 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字) 小松コレクション(ふくやま美術館寄託)を見た後、展示室内の広いに場所に出る。長方形の室内を見回すと、前回に比べると人は少ないかな・・・。やや「ほっ」としたかんじになった。前回は混雑していたし、撮影ができる刀剣が多かっので展示ケース前で人が滞留して難渋したし。

  ↓ 刀剣博物館入口 2019年1月撮影。 


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  順路最初の展示品は「短刀 銘 良西」。展示リストの番号は1番である。良西は、「筑前派の祖」と作品解説文にある。だから、最初に展示されているのだと理解した。
 短刀といっても、他の短刀と比べても小さい。長さは22cmであるが、こぶりな小さい刀だ。

 3番目の展示に 短刀 銘 国吉 国の重要文化財指定。(筑前、つまり現在の福岡県の福岡市博物館所蔵であった。) 銘 国吉の短刀は、同じ短刀でも 銘 良西よりもおおきい。
  国吉は、1番目の展示の良西の子という。しかも、西蓮(サイレン?)という法名を持つという。国吉が出家した後の法名が西蓮というのだ。
 重要文化財指定の太刀も展示がある。銘は「筑前国博多談義所 国吉法師西蓮」と刻まれている。厳島神社所蔵。 この太刀は、広島藩の家臣 岡田家に伝来したものという。いつの時代か忘れたが、広島 浅野家領内のの代表的な神社 厳島神社に寄進されたものだろう。解説の文章には「匂・・がややうるんだ刃文・・・」と書いてあるが、難しくて理解出来ない。刀身の真ん中や先端付近には、湾曲した刃文がある。「湾」のたれととうのか、私は小乱と思ったが、違うようだ。「博多談義所」という場所があり、そこの出家した法師 西蓮、出家前は 国吉 の作という意味の銘だろうか。まさに「筑前 博多」の刀工であることがわかる。当時の博多は、商業都市で、権力をもった領主の直接統治ではなく、一種の自治都市、自由都市のような存在ではなかったか。
 他にも西蓮の銘の作品が展示されていた。

 続いて順番に見ていく。
 重要文化財指定 太刀展示 銘「元弘三年六月一日 実阿作」 熱田神宮 所蔵。日付まで入っている太刀という。網直刃というのか、刃文はまっすぐである。鎌倉時代の元寇があったころの作であろうか。刀身の部分にも銘があり、刀身切付銘というらしいが、「文禄×年×月・・・・松下小一郎守勝 奉寄進熱田大神宮・・・・」とある。後世、秀吉の時代に松下氏が熱田神宮に寄進した由来が刻銘されているようだ。
 名前が松下小一郎なのでかつての秀吉が青年期に仕えた、松下家の人かな。秀吉の出身地に近い、熱田神宮に寄進したのだろうか。「実阿」も出家した僧、時代が近い、快慶のような仏師のような名前であるが、西蓮の子という。

 展示はリスト通りの順番に並んでいるので、わかりやすい。
 国宝 短刀 銘 左/筑州住(号  太閤左文字) 小松コレクション(ふくやま美術館寄託)があった。
 京都国立博物館の展示リストを復習すると、2か月前に京都国立博物館の特別展「京のかたな」で見ているのだが、すっかり忘れている
 一昨年のふくやま美術館で「見た気分」になっていたが、展示期間の関係で見ていない。私が福山で見たのは、太閤秀吉ではなく、家康など徳川家由来の国宝刀剣群だったようだ・・・・。
 解説には「・・・互いの のたれ? の目を交えて・・・・」とあったようなー・・・・。私が実見するところやや湾曲している刃文だ。「浜松藩の井上家に昭和時代の初めまで伝来していた・・・・・」と由来も書いてある。その後、実業家が恐らくは購入し、このときか、更にのちの時代に同じく実業家の小松コレクションの一部となったのだろう。
 茎(なかご)の下に「左」と一文字のみ、銘が判読できる。
 拵も横に展示されている。国宝の「附(つけたり)」指定になっている。唐草文様のある、さやであるが、金色の三つ葉葵の文様がある。金箔をまぶして制作しているのだろろう。浜松藩 井上家は老中も務めている譜代の家柄。徳川吉宗などの時代にも老中を務めている当主もいたはず。よって、老中の井上氏の功労のねぎらいに徳川将軍から拝領したものではないか?。 

企画展「筑前左文字の名刀」のチラシ拡大 ↓

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 ↓ (再度掲載) 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)
 

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2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞1 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞1 

 今年最初の都心部の博物館関係へのお出かけだ。
 
 ※ まずは、神社で初もうで。国宝の刀剣の展示も見た。国宝の刀剣は季節ごとに定期公開されるようなので、記事は後日とする。
 「ももてなし家」での食事の後、刀剣博物館に向かった。二回目の訪問である。

 電車にて両国駅へ。駅を降りる。国技館の前を通過する。既に初場所が始まっているためか、付近は混雑している。人が歩道にあふれている。力士たちは館の敷地内に入ってから、送りの車で降りるのではなく、車道、歩道の脇に車を停めて敷地内に入るようなのだ、それを待ち構えているらしいのだ・・・・・・。
 事情がわからない私は人ごみを避けながら、歩道を歩いて博物館の方向へ。首都高の高架に沿って歩く。人ごみを抜けるとホッとした。と目の前に旧安田庭園の入り口があらわれる。今回は、園内は通らずに園の横の塀沿いに博物館へ歩道を歩いて向かった。
 旧安田庭園に来るのは、すっかりおなじみすみ(済み)だ!!??。ええーとここは「すみだ」く(墨田区)・・・。

 

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 刀剣博物館のコンクリート打ちっ放なしの真新しい建物の内部に入る。

 ↓ 刀剣博物館入口 2019年1月撮影。 12月に撮影した画像と区別はつかないが・・・。

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 1階のロビー、先日も来たが受付のハイテーブルで入館料金の1,200円を支払う。
 最初は「千円札1枚なので、ちょうど支払いやすいなあ。」と千円札1枚を用意していたのだか、今回は「1,200円」と言われた。ボクは、慌てることなどはせず、冷静に200円の小銭を取り出して支払ったのであった
 今回は企画展「筑前左文字の名刀」なので所蔵品以外の他の館所蔵の貸し出し品の展示も多数あるから、前回の1000円ちょうどではなく、観覧料金が違うようだ。

 ロビーやその先の休憩スペース、受付そばの売店には、刀剣女子の若い女の子達がいる。しかし、前回、昨年末の訪問時ほど混雑はしていない。今回も「展示室は3階です。」と言われ、係員に指示された通りにエレベータで3Fにいく。

 今回の企画展は「撮影禁止」との表示がある。展示の室内に入る。展示室入口のカウンターで再び入館券を見せて、半券は回収される。ここには、前回と同様初老の男性係員2名がいて、半券をちぎって回収している。昔からの刀剣博物館の職員といった感じ。カウンターの上には「日本刀鑑賞の手引」である「日本刀の基礎知識」の新しいパンフレットが置いてあった。上質紙のカラー印刷である。係員から「どうぞ」と言われたので、頂いた。
 入室する。と、受付の廊下の先の正面、展示室第一のガラスケースには、国宝の刀剣の展示があった。
 
 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)であった。小松コレクション(ふくやま美術館寄託)であった。
 他の美術館保管の作品であるにもかかわらず、この展示だけは撮影可能であった。一昨年(2017年)の秋にふくやま美術館を訪れたが、太刀 銘 筑州住 左 (江雪左文字)は展示していなかったとおもう。
 刀剣は名称似ているし、区別がつきにくいので、どれを見たか見なかったのか、判別が難しい。反対に「あれっ、これ見たぞ。」と誤解してしまうことも・・・・。
 皆、かたまって撮影をしているので、入り込むスキがない。
 その拵(こしらえ)が横に展示してあった。

 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)の拵 ↓ 黒漆研出鮫打・・・と解説にある。
 黒い漆と鮫皮で・・・・という工芸手法であろうか。
 
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 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)
 刃紋の幅が太い。なかほどの下に一部波を打つような刃紋(刃文)があって、その先はスーっとほぼ真っ直ぐのような。受付にあった「日本刀の基礎知識」によると「湾れ(のたれ)」の刃文なのかな?。
 先端にキズがあったのが、見えた。画像には写っていないが、キズがあるのだ。(だから、何だというのか、オレは理解していないが・・・。)
 そもそも「刃紋」なのか「刃文」なのかも未だに理解していない・・・。

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 ↓ 太刀 銘 筑州住左 (号  江雪左文字)  茎の拡大。
  銘は一番下の部分、穴の下側に「左」とあるのが見える。あとは、判別できない。丸い穴がいくつもあいている。

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 国宝を見た後、展示室内の広いに場所に出る。長方形の室内を見回すと、前回に比べると人は少ない・・・。「ほっ」としたかんじになった。前回は混雑していたし、撮影ができる刀剣が多かっので難渋したし。



2019年1月 とっとり・おかやま新橋館 訪問2、レストラン「ももてなし家」食事 

 2019年1月 とっとり・おかやま新橋館 訪問2、レストラン「ももてなし家」食事 

  2階は、食事コーナー(カフェ)とイベントスペースになってたと記憶していたので、再びやってきた。一階からの階段をのぼってすぐのところには、県内各市町村のパンフレットなどが置いてある観光相談コーナーも設置されているのは、そのまま。あのてきは、二階で開店記念イベントを行い、某芸能人が登場したものだった。
 あのときは、混雑する店内のカフェに空席をつくって某芸能人に座ってもらい、テレビカメラも登場して突然の取材が始まったのだった。案内役の県の職員や芸能人のマネージャらしき人も取り巻いていた。
 
 私が行ったのは、昼のピークタイムを過ぎたであろう、13時15分過ぎたった。2階の店内も空いている。先客は数名いる。スペースは、広い。一人でカウンターに座って食事をしている男性もいた。私も一人、カウンターに座った。
 
 ↓ 一階から二階へ。鳥取=「蟹鳥県」の告知。
  マスコミにも県知事が登場して紹介していた。バラエティー番組にも登場して芸人とカラんでいたのをたまたま視聴したことがあった。芸人が「おい、あそこに蟹(のかぶりものをかぶった男)がいるぞ!!。」と県知事にツッコミを入れていた


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 通常のメニュー以外にも日替わりセットのメニューもあった。白い紙のメニューを示され「本日のおすすめは、海鮮丼と鳥取 和牛肉ステーキ(定食)。」と言われる。

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 日替わりの「海鮮丼」にする。メニューには海鮮丼に載っている魚の種類が書いてある。「さより、めばる、キハダマグロ、サワラ、オナガダイ」とたくさんある。値段は1380円。
 ごはんの量は少ない。漬物があるが、どんぶりのなかにも生姜(ガリ)があるので、ダブル漬物で塩分が多くなってしまったかな。オナガダイ、めばる、さより、サワラなど、どの切り身かは区別がわからなかった・・・・。キハダマグロは分かった・・・・・
 日替わりの岡山ばら寿司は、値段を忘れた。「鳥取和牛肉ステーキ」の定食は、1480円だった。三種類日替わりの定食があった。

 ↓ カウンターの様子。小物の飾りモノや「ゲゲゲの鬼太郎」の登場人物のキャラクターも。

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2019年1月 とっとり・おかやま新橋館「ももてなし」 訪問1 

 2019年1月 ととっとり・おかやま新橋館 「ももてなし」 訪問1 

 久しぶりにやってきた。とっとり・おかやま新橋館、愛称「ももてなし」が新規開店したのが2014年9月のことだったので、それ以来の紹介かな。時々、来ることはあったが。
 この正月はホントに久しぶりに岡山(リアル岡山県)の名所 後楽園に行ったので、アンテナシヨップも同時紹介する。

 あの開店のときは、某芸能人が登場したものだった。
 「ももてなし」の外観 ↓。

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 早いもので、開店から4年半が経過した。店内は、すいている・・・・・。 レジは、学生のバイトのようだ。店内の奥には、日本酒が陳列されている。鳥取と岡山が半々くらいかな。先の岡山の展示でだったか、何かで読んだが、名君と呼ばれた藩主 光政の政策?、治世?ため、岡山ではあまり、日本酒は育たなかったというが、確かに銘柄の数でいうと鳥取の方が多いかな?。お隣の広島県では、西条を筆頭に日本酒が有名で、現代でも国の醸造研究施設が東京より移転されて設置されているくらいだ。
 日本酒の隣りには、倉敷のデニムのコーナーが。ズボンなどを販売している。一面デニムの「ブルー」色だ。

 とくに、店内には目玉商品はないような・・・・。 岡山名物の「ままかり」の 酢漬けのパックがある。日生のカキのパッケージもある。
 おおきい白菜が目をひいた。野菜も売っている。お米は少しだけ置いてあるような・・・・。重いしね。
 鳥取の名物といえば、カニ、蟹。カニもあるが加工品だったかな。 カニ、一ハイが置いてあるのではない。店のインスタによると、11月は解禁された時期にあわせて、カニが入荷して大々的に販売していたらしい。

 あとは地元の加工したスナック菓子などの販売。果物は無い。季節柄、今の時期はフルーツは無いかな・・・・。

 店頭では、洋生菓子の販売をしている。箱入りで売っていて、試食もさせていた。食品関係の商品の奥の棚には、大手まんじゅうがある。 先ごろ正月に行った岡山の街中では、さすがに店は閉まっていたと思う。
吉備団子も あった。 おなじみの白っぽい、紙製の上から開く箱である。

 二階はレストラン「ももてなし家」が入っている。観光 移住 相談コーナーがあり、二人の女性係員がいた。
 鳥取、岡山の県内各地の案内パンフレットが置いてあった。

 店の外観 遠望。

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2019年1月 岡山県立博物館 「冬季展」 見学2

2019年1月 岡山県立博物館 「冬季展」 見学2
 

 ここは、岡山県岡山市。正月、無料公開中の後楽園に行った。(旅行記は後述する。)
 隣接している「 岡山県立博物館 」も無料となったので、に行くことにした。

  ↓ 常設展示室における刀剣の展示。

 まずは、1Fの右手に刀剣の展示室がある。刀剣ブームの影響か、見学者は多い。室内の撮影は不可であった。室内の真ん中の平ガラスケースには、刀剣の付属品、鍔などの展示がある。
 「刀の重さを体験しよう。」というコーナも。刀剣の見本が持ち上げられるようになっている。勿論、鎖で繋がれ、強化プラスチックケース内にある見本。片方の手だけを入れて持ち上げることができるようになっている。鉄なのでやはり、重い。片手では、ずっと持っていると手が疲れるなあ、と思った。
 太刀の展示が中心である。短刀やなぎなたなどの展示もある。現在、ここ岡山県立博物館に寄託されている国宝 太刀、通称名「山鳥毛」(個人所蔵)の購入に関する寄付のお願いのチラシもあった。

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 刀剣の展示室、刀剣の重文は2点あった。展示リストがないので分かりにくい。(あとで、ウェブサイトを見たら、展示リストが掲載されていたが、博物館内には置いていなかったように思う。見つけることは出来なかった。)
 「備前」は刀剣の生産地として大変有名である。美濃などと並んで、備前は重要な生産地であった。「五箇伝」という言葉は昨年知ったばかりだ。相模もそのひとつとは、知らなかった・・・。
 現代において、刀剣といえば、美濃、次いでここ備前ではないか?。しかし、岡山在住中は「備前の刀」も、もうひとつの岡山名物「備前焼」にも全く関心がなかった・・・・・・。でも長船(おさふね)周辺が刀剣で有名とは知っていたよ(言い訳)。

 重要文化財 「太刀 銘 則宗」 鎌倉前期。福岡一文字派の祖。反りは高い、3.3センチ。「そほ身の刀身。刃文は、小乱と小丁子のある直刃調。直刃という。持つところの穴は二つあった。長さは80センチという。

 重要文化財 「太刀 銘 長光」 鎌倉中期 。長光は、衰退した福岡一文字派のあとの長船派の人という。持つところの穴は一つだった。反りは、2センチ、長さ73センチ。
 福岡一文字派は、鎌倉時代の前期から中期にかけての時代までで、長く続かなかったようだ。

 次いで別の展示室では、戦国から藩政時代の展示。原則として撮影は可能であった。昔の船の展示もあった。
 藩政時代、藩祖 池田光政の事績の紹介がかなりの部分をしめた。光政の事績の説明では「池田利隆の嫡男で、姫路、鳥取を経て、岡山に入部したと。」いうような紹介の展示だ。名君とたたえられている。
 後楽園を創設したのは、光政の子の綱政であるが、あまり紹介はない。(綱政には、子供がたくさんいたはず。)
 「初公開」として木山神社の「神狐」像が展示されていた。
 特に文化財指定はないようだ。↓ 博物館のポスターにその写真が掲載されている。
  このフロアの展示物のなかでも「神狐」像は撮影禁止であった。

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  館内の様子。 後楽園の木製の水道管。
 園内には木の管を通して水を供給していた。

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 続いて印象に残った展示を挙げていくと、法然上人絵伝の複製があった。48巻のうちの巻1の複製。
 
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 池田利隆の書状の展示があった。異母弟の忠継が1603年の小早川秀秋の死亡後に岡山の領主となった。利隆自身は、姫路領主。
 忠継は家康の孫(娘の子)なので優遇されて独自に岡山領を与えられたようだ。

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 閑谷学校の絵図。複製品。

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 後楽園の説明や歴代 池田家の当主の系図や説明があった。
 光政を祖とする岡山 池田家の当主は、「左少将、伊予守」が多い。位は、従四位下だったであろう。
 侍従の当主もいる。左少将になる前に死亡したのだろう。備前 岡山藩なのに「備前守」ではない。
 幕末の当主 茂政は、掲示の系図を見る限り、初めて備前守となっている。

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 同じ室内の別のコーナーはうってかわって、昭和初期??の民家の復元。

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昔の船の展示。高瀬船であるので、川の渡船のようだ。
てっきり、瀬戸内海の漁のためだったかと思った。
詳細は忘れた・・・・。
一番、目立つ展示品であった。

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2019年1月 岡山県立博物館 「冬季展 岡山藩主の書画」 見学1

2019年1月  岡山県立博物館 「冬季展 岡山藩主の書画」 など見学1
 

 ここは、岡山県岡山市。
 愛媛県松山市にも行ったが、岡山にもやって来た。(旅行記は後述する。)

 毎年「後楽園」の正月無料公開があるので、正面門の近くにある「県立博物館」も「無料公開」であるのでついでに行くことにした。後楽園に来たのは、十何年ぶりだ・・・・・。
 かつて、後楽園の無料公開には来たことがあったが、県立博物館が隣接していて、同じく無料公開を実施しているとは、知らなかった・・・・、というより、覚えていないのかも・・・・。 
 県立博物館、県立美術館ともに在住中は来たことが無かったと記憶する。博物館については、無料公開のときにこの日と同じく見学したのかな~?、全く記憶にない・・・・・。

 ↓ 入口の正面を撮影。「無料開館」の大きな告知。

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 寒い日だったので、博物館の入口を入って、ロビーで温まる。と、戦国のカブト、体験コーナーがあった。


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 お正月らしく「岡山藩主の書画」でも見学しようか、と二階の展示室に階段を登る。右手の展示室は、原始時代から古墳時代などの土器など出土品の展示。

 岡山で一番有名な藩主は、池田光政であろう。その子、綱政、更にその子、継政の書も展示があったと思うが、覚えていないのだ・・・・。
 綱政は、後楽園を造営した当主とされているが、実際はフツーというか、凡庸な殿さまだったようだ。子だくさんとしても有名であるが、あとを継いだのは、将軍綱吉の諱を賜った吉政ではなく、小さい子どもの継政。継政の後継はうまく行かなかったと思える。
 (旧閑谷学校にも行ったのだが、光政の子、綱政については暗愚だったというような説明の看板を掲示していた・・・。)
 
 継政の次の藩主、池田宗政の書もあったと思う。

 更に次の藩主は池田治政。大きく「亀」の、一字の書。崩して書いてある。読めない。

 「思秋」とある書は、池田齊政のもの。解説には「治政の嫡男」とある。小さい横書きの書である。

 次の当主は、斎敏である。説明には「齊政の養子で、島津齊興の次男。」とある。
 島津齊興の長男は、有名な斎彬であるが、展示の説明にはない。
 実は、先(12月のミニ旅行で行った)に展示を見た佐賀 鍋島家の当主、直正(将軍 家斎から、拝領した片諱を返上するまでは、斎正)の母方のいとこにあたる。鳥取の池田家の娘が、島津齊興の正室であり、その子が、島津齊彬と池田斎敏。家系としては200年くらいさかのぼるので遠いが、池田輝政の子孫でもある。(女系で別の池田家の血筋もあるかも知れないが)
 その縁で、岡山 池田家の養子となったようだ。この時点で、光政の子孫の男系当主は絶えることになったのだろう。

 斎敏の「寿福」の書は「壽」と旧字である。(昔の書だから、当たり前であるが・・・・。) 説明によると「長寿を願う言葉」とのこと。斎敏の「楽園」の号も、揮ごうの横にかいてある。しかし、斎敏は、わずか31歳で死去したとある。長寿を願う書を書いていたのに、何とも皮肉である。元々病弱だったから、かえって健康長寿を願ったのではないだろうか?。 

 次は、奥平昌髙の子、慶政。(つまり、有名な島津重豪の孫)
  自分の号は朱色で書いている。「鶴宝」と縦に豪快に書く。しかし、「鶴」が崩し文字で読めない・・・・。「豪快」(いろんな意味で、しかも、子だくさんの)な重豪の孫らしい、自由な書だ。


 次の代の茂政や章政の書がある。共に養子である。茂政は、水戸藩の斎昭の子、つまりのちの最後の将軍、慶喜の弟である。

 次の藩主 章政は「人吉藩主の相良頼之の子」と展示説明にある。相良家の当主は、宗政の子が養子に入り、その子孫なので男系で輝政、光政の血筋の筈。男系が維持されたことになる。

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 今回の冬季展示での一番の目玉展示は、岡山藩主 池田家 歴代当主の書のようったので、他の展示はざっと見たのみて、覚えていない。


 ↓ 博物館の反対側に、後楽園の正門がある。
   無料公開中だった。

   
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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学6(最終)

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学6(最終)
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。
 4階の企画展示室で、企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」を見学する。

 秋山真之の結婚写真などを展示しているケースの近くに秋山家の系図と親と兄弟姉妹の生没年の解説ボードがある。
 兄の「好古は三男で(のちに秋山家の)家督を継いだ。」と小説「坂の上の雲」で読んだが、本来、家督を相続した長男は、大正時代まで存命している。病弱で弟の好古が家督を継いだのだろう。
 次男も大正のはじめまで存命している。次男は、養子で他家に出た?。説明は見落としているかも・・・・。真之のすぐ上の兄(四男)は、養子に出た。確か、養子先の家は、横浜の貿易商の家だったと思う。四男は日露戦争の前年、明治36年に没している。
 秋山の5人の男兄弟では、三男、家督を相続した好古が、唯一、昭和時代まで存命、長男、次男、五男真之 らは、ほぼ同じ大正5年から8年くらいに没している。四男が一番早く死亡している。

 同じ室内の別の壁面の展示では、真之が死亡した屋敷の所有者 山下亀次郎の写真も展示してある。山下は 「秋山真之と親友であった。」と説明にある。
 療養のため小田原の山下邸で滞在し、同所で死亡している・・・・・。死亡当時、真之は待命中で、現役の軍人であったが、小田原で療養していたのだ。ともに同じ愛媛の出身とはいえ、真之は現役軍人でありながら海運商とも深い付き合いがあったのだ。
 この山下亀三郎の山下汽船の支店長であったのは同じ愛媛の出、石原氏である。有名な石原兄弟の父にあたる人物だ。山下、石原は、ともに南伊予、宇和島(かつては宇和島の伊達家領)か八幡浜(かつての大洲藩領)の出だったと記憶する。旧松山藩の出身ではないので、厳密には「同県出ではあるが、同郷(同旧藩)出」ではない。
 付言すると、真之は少将、中将の進級は同期でトップだったそうだ。少将のときには、海軍省軍務局長をつとめている。日露戦争後、大正時代には少将に進級したが、欧州に出張したときの写真があった。時代は第一次大戦前の時期かな。
 
 一通り展示を見た。入口までスロープ、階段をおりる。2階(実は3階)の三角形の吹き抜けの展示室下は、ギャラリーのようになっている。別の地元に関する展示がある。
 また、別の壁には、入館者がどこから来たのか、都道府県名のところに、シールを貼るようになっている。「シールのグラフ」をみると地元、愛媛からの来館が多いが、次に一番多いのは東京。ついで大阪、兵庫が多い。帰省の時期なので皆、地元に戻ってきているのだろうか?。
 松山からは、東京、ついで大阪に出ている人が多いのだろう。神奈川からの来館者シールも多く貼ってある、関東地方では埼玉、千葉の順番。北海道の人もいる。広島が意外にも多い。しまなみ海道で、海を渡った対岸だからかな。反対に、同じ四国でも高知県は、来館者シールの貼付けがゼロである。お隣、香川は数名いた。香川よりも、九州・福岡からの人が多い。福岡から帰省しているのだろうか?。大分から、フェリーで佐多岬まで来れるので、比較的簡単に帰省できる。

 1階(本当は2階)ロビーの出入口のところでお正月「ガラポン大会」があった。入館者は全員ガラポンが出来るという。参加賞が「お菓子すくい」である。私は「参加賞」に当選。アメとか、小さい個別包装のチョコをスプーンで、すくうことができるようなっている。係員は、おまけで落としたものも、袋に入れてプレゼントしてくれた。お年玉である。
 ツレは、全部で5等くらいあるうちの、三等位を当てた。が、古い「本」だった。子規の俳句関連の本であったが、初版が昭和47年だ。従って、掲載されている松山の街の様子の写真も古い。私の曾祖父(松山出身)が戦後(外地から引き揚げてきて故郷に)在住していた当時の風景だろう。
 係員の主婦のパートらしき「研修中」の腕章をつけた女性が「どちらから、いらしたのですか?。」と私にきいてきた。正直に「神奈川です。」と答えておいた


 坂の上の雲ミュージアムのチラシを観ると「四電ビジネス」の発行となっている。四国電力の関連会社が運営しているのか、市営なのか、ここの館は「市立」と書いていないので、ここ坂の上の雲ミュージアムの運営主体は分からない・・・・。

 帰ってから、ウェブサイトをみると 松山市(役所)に坂の上の雲ミュージアム管理する事務所があるので、建物は市立で指定管理者制度??のようだ。(違うかも。)

↓ 著名な建築家、安藤忠雄氏の設計。
 坂の上の雲ミュージアム の外観。2階の展示室内部、窓に面して「子規の白い像」の背中が見える。
 「坂の上」の青い空と白い雲が反射してガラスに映る設計のようであった。
 1階は、入ることが出来ない。2階が入口になっている。駐車場は障がい者等以外は禁止であった。
 一般車は駐車が出来ない。


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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学5

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学5
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。
 緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがある。その脇に4階(見た目では三階)の展示室がある。

 ↓ 坂の上の雲ミュージアムの入館券販売機。館外にあった。
企画展示のポスターが掲示されている。

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 4階は、企画展となっている。弟、秋山真之に関連する企画展示である。昨年の2月から今年の2月まで一年間の期間展示である。
 館内に置いてあるパンフレットや(あとで見たウェブサイトによると)企画展は、開館以来、年1回開催しているそうだ。

 展示室に入ると最初は真之の生い立ちに関連する資料の展示。海軍兵学校時代の真之の成績などの展示もある。兵学校の「大試験」の成績表がある。それによると「愛媛県士族 秋山真之」の軍事関係や一般の学科の科目の点数が記載されている。英語も細かい評価項目になっている。英語の文法、構文もあるし英作文?、英文和訳もあったような。成績、つまり「席次」は「一番」である。
 真之は、ずば抜けた秀才であったようだ。成績表の順位は、活字で印字されているのでスタンプのように押したか、個人別に印刷したかのどちらかだろう。当時、成績表は順位の入ったものを生徒全員に配布さていたのだ。

 当時の海軍兵学校の写真の展示もある。広島県、江田島の学校の敷地の様子だ。写真を見ると校地は海に面しているのだが、その波止場には、船が停泊していて、校地内にあのレンガ造の本館が無い・・・・・。海軍兵学校は、明治22年に、東京の築地から江田島に移転したが、校舎が完成したのは、明治25年のことだったそうだ。それまで生徒や教官は、波止場に停泊した船にて起居したそうだ。グラウンドは広いが建物は少ない。工事中の様子であった。
(兵学校の当時の写真は、下の階の常設展示だったかも・・・。どこの展示であったか、忘れた・・・。)
 
 2018年11月に築地から、東京都の卸売市場が豊洲に移転した。盛んに築地の歴史もマスコミで紹介された。魚市場が築地にできたのは昭和時代にはいってからのことで明治維新以降、元々築地付近、は海軍用地だったのだと広く紹介された。海軍兵学校も元々は今までの築地市場の敷地にあったことが、広く知られるようになった。これほど築地の歴史がマスコミで紹介されることは、日本の歴史上最後であろう!?。以降、紹介されても小さい扱いかな??。(考え過ぎかな・・・。)
  
 続いて企画展示を見ていく。室内は三角形である。室内の真ん中に兵棋演習の平板と軍艦の形をした棋(駒というのだろうか?。)がある。傍らに黒板があり、状況を書いていく方法だ。兵棋演習についての解説がある。 
 演習部は2つある。統監部が1つ。演習は、青軍と赤軍で戦うのである。演習部が各自、10動までできる。つまり、10回運動できるという意味か。 「第5動××する」、「第6動 大砲を発射」のように、動きを紙に書いて貼っていくようだ。統監部が判定し、軍艦同士の砲弾命中や撃沈などを判定するようだ。各、演習部の間には、幕、衝立をして、互いの作戦は、わからないようにする。
 以上のような演習を真之が考えて?、教官として指導したそうだ。

 壁面のガラスケースの展示に「智謀 沸くがごとし」の書がある。東郷平八郎の書だ。もうひとつ東郷元帥の書があり、「秋山真之墓」の揮ごうだ。真之の墓の碑文で、墓誌はない?そうだ。揮ごうは、墓碑の原本で拓本をとって墓石に刻んだ。真之の実際の墓の写真のバネル展示があった。東郷元帥は、昭和時代まで生きたので、かつての部下、真之の早世を惜しんで、揮毫したのだろう。 
 真之の結婚写真も展示がある。結婚は、秋山真之36歳のときとかなり遅い。当時、宮内省に勤務していた 稲生氏の娘である。
 小説「坂の上の雲」によると兄の好古も結婚が遅かった筈。
 子息の秋山大の絵画の作品の展示がある。真之の子とのこと。すると、真之は、子息もちいさいうちに、死亡したことになる。末子は5歳くらいで(父、真之が)死亡していることになる。末子は、ほとんど父、真之の顔は覚えていないであろう、幼少期に死亡しているので。
 平ガラスケースに真之の海軍での辞令などがあった。「海軍中将 秋山真之」の名刺も、。シンプルに階級と氏名のみ印刷している。サイズは、現代の名刺とほぼ同じサイズか少し大きいかな・・・・。
 展示の説明文では、大正6年12月1日に中将に進級し、同日に待命となっている。同期ではトップの中将進級である。既に病気であったそうだ。待命なので実際の仕事はせず療養したようだ。
 翌年、大正7年2月に秋山真之は死去している。


 









2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学4

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学4
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。

  緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがある。その脇に中3階??の展示室がある。のぞいてみると、小さいが長方形の展示室があるので、入ってみる。室内には10人くらい見学者がいるだろうか。正月、早速見学者が来ている。
 この展示室は松山出身の「秋山兄弟と正岡子規の生涯」の展示のようだ。

 当時の松山の地図、風景写真がいくつかある。子規の家族や、秋山家の一族の写真が展示してある。
 展示としては、兄、好古の展示、説明ボードなどをみると・・・・・
 好古は、大阪の師範学校を出て、17歳らいで代用教員になった。其の後、士官学校に入ったという。士官学校の募集要項も複製と思うが、活字を印刷してあるものが展示してあった。要綱によると願書の様式は自由であるが、用紙に縦書きで府県 華士族平民の別、氏名を書き、生年月、住所も 書くようになっていた。
 更に身元引受人を2名書くようになっていた。自分のみではなく、他にも人が必要。現代の「保証人」ということではないようだ。「身元を引き受ける」人2名が出願に必要であった。それらの決まりに従って、作成された願書(複製??)も展示してあった。
 願書に記入する生年月日は他の誰かの証明が必要だったようだ。証明するのは、自分の入っている戸籍の戸主だったか、近所の人だったか?・・・・・。自己申告で戸籍を作成した名残であろう。テキトーに年齢を書いて出願する例も多数あったから。
 たとえば、森 林太郎という明治時代に出世した人物は、年齢を2歳くらい偽って当時の大学に入ったし。


 好古はフランスに留学している。久松家の殿様(旧藩主家のご当主)の留学に随行する意味もあったそうだ。この展示室だったと思うが、正岡家と秋山家の系図があった。子規の母の実家、大原家の父は漢学者である。このことはしられてるいる。大原観山という。正岡子規の叔父、加藤恒忠 (大原家から 加藤家に養子に入る) が当時フランスに 外交官として駐在していたので、好古と現地でも交友したと展示解説にある。好古と 恒忠は、ほぼ同じ年。松山の秀才は「正岡の恒忠か秋山の好古(当時の名前は違う)か 」といわれていたそうだ。


 正岡と秋山の両家の、藩政時代の石高の変遷グラフも展示してある。グラフでは両家の石高の推移を表示している。 60石くらいの正岡家は目付 ?身分で幕末まで変遷はない。
 秋山家は、3人扶持くらいで、石高は10石くらいだったか??。足軽よりは上の家格であるが、徒士身分。 しかし、父、久敬は藩政時代に昇進している。西暦の1847年くらいには40石くらいに加増。馬廻番か徒士目付だったかな。1868年か維新後の1870年くらいの廃藩直前期には、秋山家は60石くらいで、ついに正岡家と石高がならんでいる。
 司馬氏の小説「坂の上の雲」によると「・・・・秋山家は馬に乗れない身分であった・・・だから好古は軍で(歩兵ではなく)騎兵科に進んだ・・・・・」と書いてあったと記憶している。


 真之と子規が共に東京で通った学校は、大学予備門とある。当時の大学予備門の生徒の名簿が展示してある。名簿は活字で印刷されているのだが、芳賀矢一や南方熊楠が同級生であったことが判る。
 更に名簿を見るが「夏目」、つまり夏目金之助(漱石)、の名前は分からずじまい・・・・。名簿の別のページに名前があるのかも・・・・。それとも当時は「塩原金之助」の名前だったので、「夏目」で探していたので見落としていたかな!?。
 
 展示の説明には無いが、正岡(子規)の隣の隣に「平岡定太郎」の文字がある。出身地は「兵庫」となっている。
ハテ、どこかで見たことのある名前だ・・・・・・・・・・・。同じ苗字の人物に「平岡 公威」がいる。大蔵省(当時)に採用されるも1年足らずで退職した元官僚・・・・。「平岡定太郎」は、つまり作家 三島由紀夫(平岡 公威)の祖父であった。

 名簿には各科目の点数や合計の成績の平均点がかいてある。科目は、無機化学や、幾何学などだったかな。数学、物理のような科目ではない、もっと細かい科目。平岡定太郎は平均72.2点である。正岡は70.2。更に左のページに南方熊楠の名前 和歌山出身。南方の平均点は65点あまりで、同級生の中では高くない・・・。
 全体的には平均68~70点くらいの人が多い。すると三島由紀夫の祖父、兵庫出身の平岡定太郎は大変な秀才であったのだ。

 秋山真之と正岡子規に注目するのもよいが、作家、三島由紀夫の祖父「平岡定太郎」にもっと注目してもよいのではないだろうか?。

 更に隣りのガラスケース内には、明治43当時の愛媛県出身の軍人の名簿がある。日露戦争後の名簿。陸軍から書いてある。中将は2名いる。 騎兵監 秋山好古と仙波太郎 下関要塞司令官の名前がある。

 少将は1名のみで「歩兵12旅団長 小倉 恒吉忠道」とある。名前のような苗字であるが、この人物、子規の妹、正岡律の最初の結婚相手・・・・だった筈。展示の説明にはないが・・・・・。日露戦争終結5年後で少将の階級、出世しているでは、ないか!?。何がいけなかったのかな?。女にとって男は出世すればいいのではなかった!?。家同士の不和か、病気か??。

 大佐は 仙台 歩兵29連隊長が1名。白川義則(のちの張作霖爆殺事件当時の陸軍大臣だった人物であるが説明はない。)は静岡 歩兵第34連隊長である。
 名簿には、官職名とともに任地の地名が書いてある。
 中佐の欄に「歩伯」と書いてある人物は、かつての松山のお殿様のご当主、久松 定謨(ひさまつ さだこと)。
 つまり「歩兵」と書いてある。伯爵で「東京 歩兵第3連隊附」である。(近衛連隊附では無かったと思う。)

少佐 は、川島義之 独逸国 駐在(のちの二、二六事件当時の陸軍大臣だった人物であるが説明はない。)ら。

大尉は、東京 経理学校生徒隊長 櫻井忠温 などの名前。同じく説明にはないが、日露戦争後、旅順攻略戦を書いた「肉弾」で有名になった人物だ。

 中尉、少尉の人数は多い。各数十人はいる。


 次いで海軍の部が下にある。士官は大佐が一番上で、将官がいない。

××艦長 秋山と、××艦長 山路一善とある。
 この名簿が作成された背景には「明治以降になっても 旧藩意識があった・・・・・。」と説明がある。

 櫻井真清は 「第1艦隊参謀」とある。


 続いて展示を見る。真之、明治42年?? の元旦、年賀状には「恭賀新年」とある。「軍艦 音羽 秋山真之」と差出人に書いてある。村上×× 宛てのハガキである。
 子規の展示では夏目漱石の回想記の展示があり、「正岡は、なんでも大将にならないと気のすまないものであった。・・・・・・」と書いてある。子規の性格は、郷土の友人にたいしても、東京に出てからの友人に対しても変わらなかったようだ・・・・。すぐにイバる、ちょっと「俺様感」が強い人物であったようだ。悪く言えば「わがまま」かな??。
 妹、律なども含めた子規の家族の写真の展示があった。正岡子規16歳くらいのときの写真もある。友人と撮影した 上京直前の撮影だったかな。正岡氏の系図によると 外祖父は「大原観山」と強調されている。祖父は「松山藩第一の漢学者であったので文才が育まれた・・・・。」というような解説があった。
 加藤恒忠(拓川)は 叔父とはいうものの子規にとっては、年の近い兄のような叔父であった。




 ↓ 展示室は写真の左手にあった。
「順路」と看板が出ている。

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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学3

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学3
  
 最初は展示は、3階のこの付近のみかと思った。「あれっ、展示室はこれだけかな?。」と多少不安に
 しかし、まだ先の別の展示室に続くスロープがあった。なんだかホッとした。スロープを歩く。

↓ 軍艦 ボロジノの模型とミュージアム内部の様子。スロープを歩いて上のフロアへ。
  コンクリートの打ちっぱなしのスロープの壁には、掲示物がある。

  
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 と、上の階の展示室に至るスロープの壁にNHKのアナウンサーであった松平定知氏の文章の掲示があることに気付いた。氏の直筆の文書のコピーのようで、団子のような丸まった文字で書いている。
 「・・・・松山市は私の本籍地であるが。住んだことはない。・・・・・。」と書いてある。「・・・・・徳川家康の異父弟の久松定康の子孫で、松山藩の殿様の分家の旗本の(松平氏の)出で、明治維新後、大名の本家は「久松」に復したが、旗本の家は「松平」姓のまま」だというようなことが書いてある。以前、NHKのニュースなどに出演していた有名な方であるが、確かに昔の大名のようなお名前である。ここ旧松山藩の殿様の大名家の分家の出身であったと知った。
 更に「10年前に102歳で亡くなった父は、陸軍幼年学校から士官学校にすすんだ軍人であったが、幼年学校の保証人に秋山好古大将になってもらったことを自慢していた・・・。父は軍人らしく怖い人だった・・・・。」と言う意味のことが書いてあった。
 松山の旧藩主の一族出身であり、父が秋山真之とゆかりのある著名人ということで、松平氏の文章をここ坂の上の雲ミュージアムに掲示しているのだろう。
 この文章が書かれたのは、いつなのか日付を私は覚えていないが開館した後の平成20年頃であろうか?。「10年前に亡くなった・・・」というと平成10年頃、氏の父は102歳の長寿で亡くなったと思われる。
   
 展示室に続くスロープを昇る。壁面には、小説「坂の上の雲」が連載されていた産経新聞の切りぬきがびっしりと貼ってある。上の方は読めない・・・・。
 実際には、スロープを昇った先の廊下に設置している机の上にファイルがおいてあって、すべての連載記事のコピーを閲覧できる。壁面の記事をパッと見たが、以前、私が文庫本で少しばかり読んだ部分の連載も展示されていた。
 机の脇には「トン・ツー」のモールス信号の電信機の模型が展示してある。「トトツーツー」とレバーを適当に押すと音が鳴る。傍らにモールス信号の五十音の「長短表」(正式名称は知らない・・・。)が置いてある。
 日露戦争の日本海海戦で世界で初めて無線電信が使用されたことにちなむ展示物なのであろう。
 例として「の」は、「・・--」であった。何かの本で読んだが、日露戦争後の海軍ではモールス信号を覚えるときに「の」は「ノギ・トーゴー」と覚えたそうだ。まさに「トントン・ツーツー(・・--)」だ。
 本物は、高圧電流で電波を飛ばすそうだが、模型ではその部分の機械は復元を省略している。
 高圧電流の部分、白い円形のガイシ部分は写真パネルのみの展示であった。 
 
 緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがあり、その脇に中3階??の展示室があった。のぞいてみると、小さいが長方形の展示室になっているので、入ってみる。ようやく「展示室」らしい「展示室」があった。
 入口の手前には上記の通り、小説「坂の上の雲」が連載されていた産経新聞の切りぬき閲覧用ファイルとモールス信号の電信機の模型が設置されている。
 



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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学2

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学2
 

 ここは、愛媛県松山市。松山城に行った。(旅行記は後述する。)
 次は、どこに行こうかと考えた。特に決めていなかったので、お城のロープウェイ・リフトの駅から徒歩で比較的近くにある坂の上の雲ミュージアム」に行くことにした。


 三階(入館した感覚では2階であるが、案内パンフレットによると3階とある。)に真ん中か吹き抜けの三角型、廊下のような展示室がある。「坂の上の雲」とは関係なく、当時の松山の昔の写真などの展示。かつての城下町の街の様子、路面電車の写真、城の写真、人々の暮らしの様子の写真パネルなどだったと思う。

 全面ガラス窓に面した、展示スペースがある。窓の外を見ると万翠荘がよく見える。途中、スロープの通路の壁には、原作者 司馬遼太郎の原稿の写しの展示があった。

 司馬遼太郎(以下、「司馬氏」)は、既に私が中学の時に配布された国語の資料集でも、小説「坂の上の雲」の冒頭の文章が紹介されていた。当時、司馬氏は存命であったから、当時から代表作であったのだ。私が覚えている限り、ドラマの放映にあわせて、文庫本も大々的に販売されていました。「坂の上の雲」は文庫本でも8巻くらいの分量だろうか。 私も一部は読んだことはあるが、全部は読んでいない。
 

 全面ガラス窓に面した、展示スペースは、当時の時代背景を説明する写真や年表のパネルが設置してある。
基本的に撮影は禁止。一部、模型などで撮影可能な展示物は「撮影OK」のマークがついている。

 乗馬体験コーナーがあった。「なぜ、乗馬」といえば「坂の上の雲」の主人公、秋山好古は「日本騎兵の父」であるからだろう。
 NHKのドラマでも好古は「日本騎兵の父」と盛んにナレーションが入っていたし。
 説明によると「日露戦争の当時、日本騎兵の乗っていた馬の多くは日本在来の種で(背の)高さは4尺寸、約140cmくらいであった・・・。」そうだ。
 日露戦争当時の日本の軍馬の高さを体感できるという訳。
 

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 ↓ 西南側の窓。松山市沖の島 興居島の沖にあった釣島灯台の模型。明治6年開設という。


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 絵葉書作成コーナーがあった。
 このミュージアムを訪れた感想などを書いて記録しようといなっている。
 秋山真之の似顔絵が描かれている。

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 展示スペースと大きな窓ガラスの様子。映像コーナーもあった。
 軍艦の模型は「ボロジノ」という。ロシアの軍艦の模型であった。バルティック艦隊で日本海海戦を戦った軍艦だった。 連合艦隊、日本海海戦といえば、戦艦 三笠が有名であるが、三笠の模型は無かった。現在においても本物の戦艦 三笠は横須賀市に保存されている。


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 年表などは撮影禁止だったと思うので、撮影していない。「明治35年5月19日 子規 没 享年×歳」、「明治38年5月 日 日本海海戦 連合艦隊 パルチック艦隊を破る。」、「昭和5年 月 日 好古 没。」のような時代順の歴史と正岡子規と秋山兄弟の生涯の年表。
 他の入館者は、熟年夫婦、三世代の家族連れ、帰省してきて久々会った友達同士なのか若い女の子の二人連れなどもいた。

 ここまで見学し私は「あれ、展示室はこれだけかな?。思ったよりも狭いな。」と思ったが、室内の壁に沿って更に上の階に向かうスロープ通路があることに気付いた。
  




2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」見学1

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学1
 

 ここは、愛媛県松山市。松山城に行った。(旅行記は後述する。)
 次は、どこに行こうか?、と考えた。特に決めていなかったので、お城のロープウェイ・リフトの駅から徒歩で比較的近くにある坂の上の雲ミュージアム」に行くことにした。
 
 ↓ 入口の門の正面を撮影。

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 坂の上の雲ミュージアムは、オープンが比較的新しい施設である。実は、松山の市街地の中にあるかと思ったが、観光マップを見ると、かつての松山城内の敷地にある。
 本当に、たまたま思いついて訪問しただけだが、「日露戦争」関連の人物といえば、前年の秋に学習院長「乃木希典」に関する展示会を見たな、と思い出した。

 ミュージアムは少し奥まったところである。表の道路側の隣のビルには、予備校があるようで、制服姿の高校生が自転車を駐輪している。正月から冬期講習であろうか。特に受験生は、正月どころではないな。

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 路面電車の通りを歩いていると、ブルーの「坂の上の雲ミュージアム」の看板があった。「坂の上」の青空をイメージした看板である。看板の先の敷地は、広々とした駐車場である。すいているなー、こちらに駐車できないかな、と考えた。。お役所の駐車場のようだ。正月休みなので、当番?、当直?以外の人の車以外は入れないので、もとより観光客は駐車できないようだ。
 路面電車が通っている道路の対岸(反対側)には三越がある。思い出したが、30年前はたぶんこの上階にあった食堂で食事をしたと思う。


 坂の上の雲ミュージアムは、NHKスペシャルドラマ(スペシャル大河といっていたかな??。)が放映されたので開館したのだろう。ドラマは、複数年に 分けて年末に放映されたと記憶している。大河ドラマが放映期間を短縮しての放送だったと思う。

 第一回のドラマ放送は、既に10年以上前だったと思う。

 (・・・・・・後日ネットで調べたら、2009から東日本大震災のあった年、2011年の年末までの放送だった。当時、私は震災のあった年の年末に、昔のお話のドラマとはいえ、軍艦で大砲同士がドカンドカンするシーンを大々的に放送するのは、どうかな、とも思ったものだ・・・・・。)
 当時マスコミ発表されていた視聴率は、10%なかった思う。時代考証、衣装、軍艦などのセット、CGなどには物凄く制作費を投じていたと当時視ていて感じた。その割に数字は、・・・・・、NHKで数字は関係ないか、それともあるのかな!!??。

 ドラマでは「・・・・弱肉強食の帝国主義の時代・・・」のナレーションがあったと記憶している。
 「この時代の国家は必ずしも国民の幸福を約束するものではなく・・・、・・時には血(命)による貢献(犠牲だったかな?)を求めた・・・・・・・。」という意味の「ナレ」も衝撃的だった。これは、司馬遼太郎の原作の小説「坂の上の雲」の中の作者の言葉だったと思う。
 国が国民の幸福を(無論すべてではないが、ある程度)約束してくれる現代日本は本当にありがたい・・・・・。今の時代に生きているボクは幸せだよ。

 坂の上の雲ミュージアムの近くには、万翠荘があった。もっと、城跡の平地にあるのかと思った。万翠荘は、以前からある観光スポットである。この記事のトップの画像を見れば判るが、入口の門が坂の上の雲ミュージアムと同じだった。
 門をはいってから少し緩やかな坂道を登り、入場券の自動販売機が館外に設置されているので購入、スロープを歩いて入館した。
 入ると エントランスとショップがある。先程入館前に歩いて通った道に面してカフェがある。
 スロープを昇って展示エリアに。



 ↓ 一面のガラス窓である。
   正岡子規の人形がある。机に座って書き物をしている。
   窓の先には、洒落た洋館の万翠荘が目の前に見える。



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 ↓ 万翠荘についての説明。
   お城の山の中腹にあった。地図で見ると、かつての城の二の丸の平地にあるのかと思ったが、誤解であった。

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 近代の洋館を、かつてのこの城の主であった大名家の当主が、近代国家の伯爵となり、住まい(別邸)として建てたのだった。万翠荘はレトロな建物。ここ、坂の上の雲ミュージアムの建物は全面ガラス張りの現代的な建物。万翠荘は「明治大正ロマン」、坂の上の雲ミュージアムの建物は「現代モダン」と対象をなしている。
 

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 拡大。中世の城のようだ。

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道後温泉本館(愛媛県松山市) 改修工事開始前 入浴記4(最終・エピローグ)

 2019年1月 道後温泉本館(愛媛県松山市) 改修工事開始前 入浴記4(最終・エピローグ)
 

 道後温泉にやってきた。幼稚園のとき以来(多分)の入浴であった。入浴の前後の行動について、少々備忘録的に書いておく。

 一旦、道後を離れ、松山城と「坂の上の雲ミュージアム」に行った。
 その後、県庁前駅から市電に乗った。道後温泉駅に戻る。電車内は混雑していて、座れない。大街道駅ででいくらか乗客はおりるのだが、座れない。運賃は160円均一で、現金で支払った。降車するときに支払う仕組み。
 路面電車は、車の赤信号でも停車するので、終点の道後温泉駅まで15分くらいかかる。道後温泉駅には、大勢の人が電車を待っていた。市内中心部方向などに向かう人達である。
 再び、アーケードの商店街を道後温泉本館へ歩く。坊っちゃん電車の前では、韓国人が大勢撮影している。実は市電内においても乗客の多数は韓国人や中国人であった。会話する言語が日本語ではないので、分かった。

 ↓ 駅舎の建物の正面を撮影。

   
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 道後温泉駅も多分「30年ぶり3回目」の訪問である。前回30年前は、温泉旅館に泊まったので本館には入浴しなかったし、市電には乗車しなかったと思う。(覚えていない・・・・。)
 「1回目」の訪問は、更に昔の私が幼稚園のときだった。「坊っちゃん電車」のことは覚えている。
 当時はなかった足湯温泉が出来ていた。
 

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 テレビで紹介していた道後温泉の新館、つまり新しい日帰り入浴施設はどこかな、と探す。
 新館「飛鳥の湯」は、アーケード商店街の外にあり、歩いていてすぐに分かった。人が多く集まっていたのですぐに分かる。
 飛鳥の湯は真新しい建物。道後温泉の「新館」というべき現代の建物。
 しかし、 ↓ 行列している。夕方になると人は引くと思ったが、新館でこの様子では、道後温泉本館の入浴は厳しいかな・・・・・と推定された。

 先の記事のように、果たして道後温泉本館に戻ると昼間以上に並んでいる。夕方になると「人は引く」という予測は外れたのだった。


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 ↓ 帰り際、南側より。1Fの内部は上等湯のたまのゆ(霊の湯)
   と立派な玄関。高貴なお方は、ここ南側の玄関から入場したのだろう。


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 松山城の天守閣内の展示であったが、神社から途中歩いて来たP(駐車場)などがあって空き地が多かった区域付近、つまり本館の南側の地区には、その昔「遊郭があった。」という解説があった。展示の説明文章によると遊郭には「遊女がいた・・・・。」という記述であった。(遊郭に遊女がいるのは当たり前なのだが・・・。)
 本館の南は、山の斜面に面していたが「遊郭街だったのだ・・・・・・・・。」と知った。本館の南にある山のヘリにあたる部分のようだ。

 入浴後、外に出て見上げた道後温泉本館の三階楼閣上、櫓のような上の建物にはついていた赤いぼんぼりの光は、確かに遊郭を思わせる妖しげな光であった・・・・・。「赤い光」は人の心を刺激する・・・・。温泉と遊郭は切っても切れない歴史があるのだ。

 歩いて、先程の神社の石段をのぼり、暗闇の中、道後臨時パーキングに。(別行動していたので)5分前にツレは、車についたところだったと。

 本館の南側から昼間、本館に向かう時に撮影 ↓

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 昔の街並みが残っているなと何気なく撮影した。山の上方向、本館の南側だ。
 空地などになっていて、建物が少ないなと感じた。

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 入浴後、駐車場に戻るときに撮影。お寺の参道の入り口であった。坂道の両側には家などがある。更に奥にお寺があるようだ。

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 駐車場から車を出し。道後温泉をあとにした。
 (おしまい)

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道後温泉本館(重要文化財) 訪問 (愛媛県松山市) 改修工事開始前 入浴記3

 2019年1月 道後温泉本館(重要文化財) 訪問 (愛媛県松山市) 改修工事開始前 入浴記3
 

 道後温泉にやってきた。
 ↓  豪勢な和風木造建築とあいまって、「明治・大正レトロ感」を醸し出している。南東から。
    「振鷺閣」の上、赤い光の燈籠が輝いている。その上に白い鷺がいる。

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 道後は「30年ぶり3回目」の訪問である。前回30年前は、温泉旅館に泊まったので本館には入浴しなかったと思う。「1回目」の幼稚園のときは、ここ道後温泉本館に入浴したことを覚えている。つまり限りなく40年ぶりに近い入浴だ。
 あのときは混雑していなかったし、すいていた。入浴した後、2階の休憩室で休んだ。広い畳の部屋があった。3階の個室ではなかったことは、確実。確かにお茶とお菓子もあったと思う。幼かったので、実際は記憶しているのではなくて、伝聞や写真であとから合成された記憶も多分に含まれているだろう。
 改修工事の直前のお正月とはいえ、ここまで混雑して、休憩室も使用できないくらい満室なのは意外であった。あのときは、すいていたから・・・(苦笑)。
 

 さて現代、2019年に話を戻す。

 私が服を脱いだロッカーの近くには「東浴室」と木札がかかっている。浴室は東西ふたつあって、交互使用になっているのだなと理解????。
 戸をあけて浴室に入る。入ると比較的新しくきれいな、浴室の床や壁。シャワーの前に陣取る。と、せっけんはおいていない。せっけんは、買わないといけいなが、置いたままにしている人もいる。洗い場のシャワーは新しいので使いやすい。
 シャワーは浴室内に12個くらいある。 
 浴室の中心にある浴槽は、思ったよりも狭い。「あれ、こんなに狭かったかな・・・」と思う。しかし、深い。真ん中に銅箱??(石かな。しかし以下「銅」で表記統一、最初は銅と思っていた。湯気で判別できなかったかな。)があり、湯が出ている。子供も入浴している。皆、風呂の縁で入浴しているので、浴槽の水面の真ん中は、人がいないのだ。 よって、人がよりかかっていない、浴槽のへりから、浴槽に入る必要がある。
 湯が出ている銅箱(本当は石!!)には、文字が刻まれているが、湯気で判読できない。「神・・・・霊・・・」などと刻まれているような。
 浴槽は深いので、正座して、お湯につかると大人の男で丁度によいくらいではないか。
 浴槽のヘリの腰かけにいないと、肩だしでは 入りにくい。10分も入っていなかったかな。 入浴前に、体をあらうのと、シャワーで、流すのに時間がかかった。 

 浴室の天井を見ると、湯気が上に抜ける構造になっている。浴室には窓がない。閉鎖された区画で、廊下と壁が背中合わせの構造になっている。
 脱衣所を出るときに、西の浴室があって使用できる事に気付いた・・・・・。最初は、「西」に気づかず(東があるので、西もあると思ったが、特に確認せず)、西には人が出入りしていなかったので入ることは出来ないと(勝手に)理解。人が出入りしていれば、私も「入浴可能」と気付いたと思う。私が着替えた後に「西」から裸の男が二、三人でてきて、驚いた。
  西浴室も銅製(本当は石)の湯箱が、一つあるようだ。よって広さは同じようだ。以前、幼稚園のときに入ったのは、東西のどっちだったかな??。「あれ、こんなに浴室は狭かったかな。」と思ったが、覚えていない。
 「西」にもはいろうかと思ったが、冬で厚着しているし、一旦着衣したのにまた脱ぐのも面倒なので、ヤメた。

 脱衣所の東西に上からの木製の階段がある。 休憩室から直接脱衣所に おりてくることができる構造だ。
実際、浴衣姿で上から降りてくる人もいた。

 以前のNHKの「坂の上の雲」のドラマの撮影では、この神の湯での撮影だったかな??。海軍に入った真之が 風呂に一斉に入り、集団生活を送るシーンであった??。別のシーンだったかな??。
 (ドラマのラストは、レンガ造りの建物の廊下を軍服姿の真之がコツコツと靴をたてて、歩くシーンだった。)
 

 廊下に出るが、浴室は内側の廊下に壁と相対して接している。例の湯箱も、廊下と背中あわせだ。廊下に本館の案内パンフが置いてある。男湯は 確かに、浴室が東西のふたつある。パンフには、本館の見取り図のイラストが描いてあるのだ。反対に女性用の「神の湯」は、浴槽がひとつだけ。しかし、湯箱は2個ある。 

 構造のイラストを見ると、やはり上に湯気と湿気が抜ける構造だ。脱衣所の窓はしまっているが、外の広場に面している。浴室の真上は休憩室も無い構造となっているようだ。
 入口付近は、下駄箱だけで狭い。よって、休憩は二階以上に行かないと座るところも無い。実際は、改札の内側に籐のイスはいくつかあるのだが、入浴し、お顔のほてっている女性達に占拠されている。

 イスは女湯の奥の出入り口付近の廊下にあるので、男は利用しにくい場所だからかな。もっとも、霊の湯へも女湯の壁を過ぎて行かないと行けないと思うが。


 重文指定は玄関と南館などである。 よって、1階の浴室そのものは、文化財指定ではないのではないか。文化財指定されると改築が困難ナノデ、シャワーの入れ替えも大変だろうし。見た限り詳細は分からなかった。
 
 

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 改札を出て、下駄箱で靴を出し、すぐに外へ。玄関付近には飲料の自動販売機はあるものの、座る場所はほとんどないので、休憩は困難だ。

↓ 外に出て、本館の外観を撮影。撮影している人は韓国人、中国人が多い。
 私の傍らで、とある男子が撮影していた。浴室の横の外から撮影したのだが、共に撮影している女はメイクだけだと、日本人と間違う。連れの女はもう一人いて、メイクが韓国人の様相なので日本人ではないとわかるが、外見だけでは、日本語をしゃべるか、しゃべらないかの違いのみで、日本人と全く判別できない。

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↓ 男湯の神の湯脱衣所の外側。脱衣所からすぐに外に出ることができる構造。
浴室から直接、外には出ることが出来ない。
脱衣所の上が休憩室。満席。

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霊の湯の外にある、「玉の石」、盛んに観光客が撮影していた。
囲い塀の内側は霊の湯(たまのゆ)。

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道後温泉本館(重要文化財) 訪問 (愛媛県松山市) 改修工事開始前 入浴記2

 2019年1月 道後温泉本館(重要文化財) 訪問 (愛媛県松山市) 改修工事開始前 入浴記2
 

 道後温泉にやってきた。昨年、つまり2018年の年末以来テレビなどのマスコミでも「道後温泉本館がしばらくの間修復工事に入る。・・・・・・。」と紹介されていたのでやって来たのだ。
 改修工事の期間は7年間という。しかし、全面閉鎖で「入浴できなくなる」のではなく、順次工事しながら営業は継続する
 道後温泉本館ウェブサイトによると、2階と3階の休憩室は全面的に閉鎖となるが、第1期の工事期間は「神の湯」には入浴できるという。料金の高い「霊の湯」は閉鎖されて入浴できない。
 今回の私のように「神の湯」の入浴のみならば、急いでこの正月に入浴する必要はなかったのだ・・・・。
 
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 日没時刻近くになって、再び歩いて道後温泉本館に。アーケードの下から本館の正面を見ると、果たしてどうであろう、昼間よりも更に更に凄い人出だ!!!。
 たくさん人がいて、昼間以上にたくさん本館の前で写真をとっている!!。何より、入浴のため切符を買うため人が長い列をつくって並んでいる。「ええー!?、昼間の方がマシやん、行列が・・・・!?。」と私は絶句。
 正月の夕方以降は、人が引くだろうというのは、大きな間違いだった。周辺には宿泊施設が多数あるから、宿泊客が自分の泊まる宿以外にも、ここ本館に入浴に来るのだよ。入浴して食事して。
 道理で昼間よりも混雑しているワケだ・・・・・・。こんな簡単なロジックを理解できないボクです・・・・
 
 ↓ 日没直後、大勢撮影している人がいるので、上部だけ撮影。
   料金表も・・・・少しだけ写っている。
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 料金表を確認しようと近づいて見るが、並んでいる人から「撮影の邪魔なので、どいてくれ。」と言われる。何だよ。料金確認すら、ゆっくり確認できない・・・・・。んでもって、入浴システムがよく分からないぞ!!。

 仕方ないので、料金体系の理解は後回しにして、道後温泉本館に並ぶ。だから、最初はなぜ並ぶかわからないのだ。もう一本列があるし・・・。並んで、人が進んでは、係員の青いはんてんをきた男性が人の列を停めている。
 入浴の切符売り場の前でとめいるのだ。 どうやら、中が混雑しているので、浴室があくと、順次ロープをあけて切符を販売しているらしい。整理している係員のおじいさんに次々に人は切符の買い方や種類などについて、聞く。 韓国人もきいてくる。英語で、又はたどたどしい日本語で聞いてくる。見ていると、特に韓国人女性のメイクは、日本人と同じであるので外見では外国人と分からない。
 係員のおじいさんは「あっちで聞いて」と切符販売を中止して手間をもてあましている、窓口のおばさん2人に話をふっている。

 おじいさんによると「休憩室ありの入浴は予約が必要・・・・。」と言う。もう一本の列の意味がやっと分かった。休憩室の予約は1-2時間位待ちという。
 私が並んでいる列は「こっちは、入浴の人の列」と。つまり、休憩室を利用する人は予約が必要なので、通常のキップ販売の列には「並ばない」と理解した。休憩室予約と入浴切符販売は同時にできるとは聞かなかった。
 入浴のみの人は、予約の列には並んではいけない。ただ、予約のみで料金を払うのは別で、今自分が並んでいる列で支払うのかな、と思ったが分からないまま・・・・・。

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 列を停めて順次販売する理由は「20人くらいくらいしか(浴室に)入れないから。」という。
 列が進んで、やっと料金表が見えてきた。料金表には、休憩ありの料金、霊の湯の料金も表示さてあるのであるが、どこで何のを切符を買うのか、予約の必要があるのか、など詳細は分かりにくい。

 私は予約はしないので必然的に「入浴のみ 410円、神の湯」にした。
 
 「霊の湯」は休憩室付きでしか販売がない。つまり、予約が必要ということ。
 二階席と、三階席では 料金が違うし、二階の休憩室(の券)では「霊の湯」には入ることができない。 
 霊の湯は、本館の奥にあって、上等の小さい浴槽のようだ。
 係員のおじいさん「20人くらいしか 入れないから、少しずつ入れている・・・・。」と来る人聞く人に繰り返し説明。質問が相次ぐので、一回だけ大きな声で「休憩室(の予約)は、あっち(の列)です。」と声を出した。


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 列の一番前になって、数分さらに待った。やっと、開放されて券を買う。結局30分近く待ったかな。 
 待つ途中で「宿で入ろう。」と本館での入浴を、やめて列を離れる人もいた。宿の浴衣で来ている人もいる。寒いが・・・・。
 本館に入り、下駄箱に靴を入れる。鍵つきである。外からたくさん見えた、あの靴ばこである。浴室に行くには、館内に更に改札があり、はんてんを着た女性が1人で入浴券をちぎる。ただし、タオルの貸出やせっけんの販売などの販売もここ改札。現金の、やりとりをするのでここでも、時間がかかる・・・・。
 貴重品は、どうしようかと思ったが、ロッカーは無いようなので、荷物をもって改札をはいる。 左手に男湯の入口がある。右の奥には女湯らしい。

 ↓ 帰り際に撮影。出口から見た靴箱と浴室への改札。

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 改札内部の廊下の籐イスには、女性がすわっている。 入浴を終えた後らしい。と、廊下に コインロッカーがある。 入れようとすると「中にもあるよ。」と係員のおじさんがしてえてくれるので、荷物を持ったまま、男湯の脱衣所に入る。

 脱衣所には木製のロッカーがある。すべてカギつきである。カギには、ゴム輪がついていて、手に巻いて風呂に入ることが出来る仕組み。ロッカーは大きいので、コートやリュックも入る。 

 と「東浴室」と木札がかかっている。その内部が浴室になっていた。

 ↓ 出口付近、館内には靴箱(下駄箱)がたくさん設置。
  しかし、休むスペースは無い。入浴するとすぐに出ないといけない仕組み。

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松山市 鍋焼きうどん 食事2

 2019年1月 松山市 鍋焼きうどん 食事2

 ここは、道後温泉(愛媛県松山市) 入浴前に食事です。

 鍋焼きうどん 追加料金で大盛り、ただし「卵とじ無し」で注文をした。
 通常の松山「鍋焼きうどん」は卵とじ「あり」であろう。

 店内には、愛媛県のガイドブックが置いてあるので読む。松山名物 鍋焼きうどんの特集ページがあり、ここ「鍋焼きうどん MANMA」が鍋やきうどんで一番大きい枠記事で紹介されている。読んでいると、料理がやってきた。
 土鍋ではなく、アルミなべでやってくるのが大きな特徴。そのままガスコンロにのせて、温めるのであろう。
 うどんは「讃岐うどん」とは異なり、柔らかい。讃岐のような生めんではない。関東のうどんのような、「やわ麺」というのだろうか。つゆは、モチロン関東のしようゆベースとは異なり、薄味のやや黄色いスープである。いりこと昆布の出汁かは、私には分からない。
 出し巻玉子とアゲとかまぼこと薄切りの肉が付く。

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 トッピングとして、いなりずしといりこの揚げを注文。メニューでは「いりこの昆布のかき揚げ」とはなっていたと思うが、昆布の深緑色にコロモはあまりついていないが、小魚を加工したものを揚げたトッピングだ。
 稲荷ずしの皿は砥部焼きかな??。


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 いりこと昆布のかき揚げは、本当に不思議な形と味だ。昆布の揚げ物のようであるが、小魚の揚げ物なのだ。
 この日は、正月のためで短縮営業だった。午前11から15時くらいまでの営業時間だったと思う。
 座ったカウンター席の窓からは、ひっきりなしに車が通行しているのがみえるし、音もする。臨時駐車場の入口の下にあたり、渋滞している。先程、私達が停めたときは、坂道の下では渋滞していなかった。


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 窓からは「1月5日入試合格祈願祭」と書いてある看板が目立ちました。
 お店の壁には、ここで食事をした芸能人のサインがいくつか書いてあった。
 正午を過ぎたので、店内も混雑してきた。私らの座っているカウンター席の横には、熟年の男女が2組座ったし、スマホで「バシっ」と音を出して撮影している家族連れもいた。

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 鍋焼きうどんの店は、ネット検索で上位に来る店はいくつかあるが、松山市街地の「ことり」という店が一番有名?らしいが、この日は正月休みであった。私がテレビで昨年に見たお店も「ことり」であったと思う。

松山市 鍋焼きうどん 食事1

 2019年1月 松山市 鍋焼きうどん 食事1

 道後温泉本館(重要文化財)が、混んでいるようなので、お昼どきということもあり、先に食事をすることにした。 
 松山の名物の食べ物のひとつが「鍋焼きうどん」という。実は最近まで知らなかった・・・・・・・。昨年(2018年の)秋か暮れにテレビで見て知った。いや「名物」とは知っていたが、忘れていたのかもしれない・・・・・。
 お正月の寒い季節。寒いから「鯛めし」より、やっぱり「鍋焼きうどん」だよね。。
 
 テレビで「鍋焼きうどんが松山名物」と知ったとき、私は「ハッ」とした。実は思い当たるふしがあったのだ。それは「家庭料理」であった。私は子供の頃、よくカゼをひいたり、病弱だった・・・・(今もそうかな・・・。でも大人は仕事を休む訳にはいかないよね・・・。)。熱を出して寝込んでいると、母は、よく鍋焼きうどんを食事につくってくれた。小ぶりの土鍋に入っている一人前サイズの鍋焼きうどんだった。しかも、必ず「卵とじ」ありの。
 なぜ「病気のときには、鍋焼きうどん」なのかは、当時の私には理解できなかったが、昨年そのテレビを見て私はハタと気付いた。「恐らく、母は自分の母親(私にとっては祖母)が作ってくれた鍋焼うどんの記憶があり、祖母にとっては自分の母親(私の曾祖母=曾祖父とは同郷同士の結婚で松山出身)が作ってくれた料理が松山名物の鍋焼きうどんではなかったか?。」と。
 祖母自身、結婚前の本籍地は当時の愛媛県松山市であったが、松山に住んだことは戦前、戦後を通して生涯無かった。外地(戦前の日本の海外植民地、租借地)で生まれて、外地育ちであった。
 当時、祖母が家族と住んでいた外地で米を入手することは出来たろうが、小麦の方が入手しやすかったのではないか?。大陸では当時の日本本土(当時は「内地」と呼ばれていた。)よりも小麦が多く栽培されていただろう。小麦を材料とするうどんは比較的外地在住の日本人家庭の家庭内料理でもつくり易かったのではないか?、と推測する。「外地で作った松山の郷土の味が受け継がれたのではなかったか?」と。

 先程、山の上にある臨時駐車場から、近くの神社の境内を通って、石段を降りた。石段を降りたところに 「鍋焼きうどん」のお店があった。こじんまりとした個人の店のようだと感じた。昼前の時間帯だし、人も多いので混雑する前に食べたいなと思い「ここにしようか?。」とツレに聞いたが、「他にも 見てから。」ということになり、道後温泉本館に歩いたのだった。
 いざ「鯛めし」より、やっぱり松山名物の「鍋焼きうどん」だ、ということになり、再度スマホで「鍋焼きうどん」のお店を検索することにした。
  すると、先程目の前を歩いて通過したお店が載っていた。しかも、検索すると上位に出てくる。「さっきのお店にしよう。」と、再び神社の方向に歩くことにした。
 アーケード商店街の端から、先程の神社の石段が見えた。「アノ石段のたもとにお店がある。」と見定めて向かった。「混雑していないと助かるな」と思いながら。
 神社は「伊佐爾波神社」という。難しい漢字だ。先程境内を通ったときには、社殿は「重要文化財」と表示されていた。


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 ↓ 伊佐爾波神社から石段下を見下ろす。


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 鍋焼きうどんの先ほどのお店に歩く。先に席をとることにして歩く。外のガラス窓から店内を見ると、空席があり、混雑していない。早くしないと、混雑してしまうことを危惧して、店内にそそくさと入る。
 お店の名前はローマ字で書いてあるが「鍋焼きうどん MANMA」であった。

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 カウンターの中の調理場に店主がいる。中央の大きいテーブルには、男が1人で座っていたので、カウンターに自分らの席をとる。
 メニューを見る。鍋焼きうどんは600円?くらいと安い。追加料金100円くらいで大盛りもできる。玉子とじもできる。先に、ひとつだけ自分用に大盛り「卵とじ無し」で注文をする。母のつくる鍋焼きうどんは必ず卵とじであった。私はあまり、卵は好まないので、卵は無しにした。しかし、通常の松山「鍋焼きうどん」は卵とじありであろう。
しばらくして ツレがやってくる。
 店内には、愛媛県のガイドブックが置いてあるので読む。松山名物 鍋焼きうどんの特集ページがあり、ここ「鍋焼きうどん MANMA」が鍋やきうどんで一番大きい枠記事で紹介されている。
 私は次に訪問する予定地の松山城の場所、道後から市電での行き方を確認するべく、市内の地図を見て位置関係を把握。

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道後温泉本館(重要文化財) 改修工事開始前 入浴記1

 2019年1月 道後温泉本館(重要文化財)  (愛媛県松山市) 改修工事開始前 入浴記1

 お正月といえば、寒い。「寒い」といえば「温泉」。 一般に日本のお正月は寒いからね・・・・・・。


 今年は、はるばる道後温泉にやってきた。昨年、つまり2018年の年末以来テレビなどのマスコミでも「道後温泉本館がしばらくの間修復工事に入る・・・・・・。」と紹介されていたので、やって来たのだ。
 改修工事の期間は7年間という。しかし、全面閉鎖で「入浴出来なくなるので」はなく、順次工事しながら営業は継続するという。だから、急いで行く必要は無いのであるが、私は「無理に」やって来たぞ・・・・・・。それなりに、来た理由はあるのだけど・・・・・・
 私が松山市内に来るのは瀬戸大橋が開通した年の夏休み以来、実に30年ぶりだ。しかし、松山の近くを通ることはあった。2016年の夏にも松山市内の近隣や石手寺の前は通ったが、道後温泉や松山市内の別の場所にある先祖の墓参には行かなかった・・・・・。
 「30年一世代」という言葉のように、あれから月日は流れ、世代は替わり、松山に自分の両親の墓参をしていた祖母も数年前に亡くなった。せっかくの機会なので、再び松山を訪れることにしたのだった。
 メインの目的は「道後温泉本館(重要文化財) 改修工事開始前 入浴」だ!!。なので、タオルと下着の着替えの「入浴セット」は事前準備して持参している

 車は、臨時の無料駐車場に停めた。初もうでの客で混雑する神社の境内を通り、石段を下り、坂道を下り、温泉本館に歩く。先ほど、駐車場に向かう前、車で道後温泉本館の目の前を通過した。
 あのとき(30年前)は、車を運転できる年齢ではないので、歩いて通ったが随分と本館付近は区画整理されていて、道路も新しかった。「あれ、こんな風景だったかな・・・。」と運転しながら、思った。
 さて、駐車した場所から歩いていくと、道後温泉本館の裏手に出た。

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 ↓ 私が30年ぶりに見た道後温泉本館の拡大。 

 マスコミで見たところ「重要文化財に指定されている・・・・」と解説していた。いつ、文化財指定されていたのかは、知らないが、以前訪れたときは「昭和時代」だったので、指定されていなかった??と思う。 
 「文化財」として見ると、この裏手の玄関は随分と立派だな、と思った。たぶん、高貴な人を迎える玄関だろう。だから、一般客用には使用せず、普段は閉鎖しているのだろう。

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 更に歩いて本館の表に回る。

 と、どうであろう、凄い人出だ!!!。たくさん人がいて、本館の前で写真をとっている!!。何より、入浴のため切符を買うため人が並んでいる。「ええー!?、昼間から行列か・・・・!?。」と私は絶句。
 昼間から混雑している・・・・・・。この正月限りで、修復、改修工事に入るというので、メディア露出が多かったため観光客が例年以上に大挙して押し寄せたかな。


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 ↓ 行列しており、入浴は躊躇したので、建物の側面に回って撮影。
   出口付近、館内には靴箱(下駄箱)がたくさん設置しているのが見えた。

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 軒下から見上げると立派な造りだ。明治時代のガス灯のような街灯が設置されている。
 豪勢な和風木造建築とあいまって、「明治・大正レトロ感」を醸し出している。

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 道後温泉といえば「アーケードの商店街があった・・・・。」と記憶していた。果たして、本館の前から伸びるアーケード街があった。アーケードの下を歩く。
 と、「丸水」のお店があった。以前も行った宇和島の鯛めしの有名店である。このときの時刻は正午前であったが、店の外まで人並んでいる。 
 更に歩く。と、アーケード屋根が途切れている。「あれ、短いな。アーケードが・・・、もっと長かったと・・・。」と 思った。と、見るとアーケードは途中で曲がっている。更に長いアーケード街があった。「ああ、ここだ。こんな風景だったな。」と思い出した。この付近は「30年ぶり3回目」の訪問である。前回30年前は、温泉旅館に泊まったので本館には入浴しなかったと思う。
 訪問「1回目」は私が幼稚園のときだった。すると、道後温泉街を歩くのは更に久しぶりとなる。
 更に歩く。アーケード街の途中には、さぬきうどん店もあった。さすがにここは、伊予の国。「讃岐」はすいていそうなので入ろうとしたがせっかくならば、伊予名物をと思い、入ることをやめた。
 更に歩くと、市電の道後駅の駅舎前に出た。 
 「丸水」とは別の松山の鯛めしの店があった。二階にある店なので、ここで食事をしようかと近づくと既に並んででいる・・・・。
 では松山名物「鍋焼きうどん」の店に行くことにした。 

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 ↓ 本館を背にして左折の方向にアーケード街は続いていた。

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