2014.11.9訪問

 (寺の外壁には「妙法院門跡」とありましたので、記事のタイトルもそれにならいます。特別公開の告知には写真の通り「三十三間堂本坊 妙法院」でした。)
 さて、衝立の奥、廊下を進みます。
 書院の前まで来ました。 ここで、一名「こびけんの学生」説明員の方が立っており、ここでもお話を開始してくださいます。やはり、観光客が数人が集まると説明をしてくれます。今度は、黒いスカートスーツに白いブラウスを着て、メガネをかけたいかにも「こびけん」の女子学生といった方です。やはり、腰に名札を付けており「古都保存文化協会 京都女子大学」とあります。ここの担当は、京都女子大の「古美術研究会=こぴけん」(多分)なのですねと確信しました。(笑)。やはり、妙法院の近くの立地のため毎年、特別公開の説明を担当しているのでしょう。(と勝手に推定していますが・・・・。)
 部屋が三つ?あります。一番手前の部屋、つまり先の庫裡にに近い部屋、
 正面と左右の襖絵は・・・重要文化財 狩野永徳・・・とあります。説明員(の学生さん)によるとここは、書院。左の部屋(ナントカの間)の襖絵は、「四季花鳥図」で春の桜や秋草、夏や冬の草木が描かれているとのこと。
 ここに永徳の重要文化財指定の絵画があったのでしょうか?。知りませんでした。
 正面左側の襖絵に、桜の絵があります。丸いたわわにような花が塊になってえがかれているといった感じ。現代の私達の見る「染井吉野」ではなく、山桜の一種なのでしょう。絵でも、桜の花と一緒に、葉がでているが分かります。その他の絵も、どの絵が夏と秋と冬の場面か説明がありましたが、忘れました・・・・・。学生さんは、結構早口で説明して理解するまもなく話が次に行くため、固くなりつつある私のアタマには理解が追いつきません。(笑)。
 秋の場面は、紅葉した楓のような絵が描いてあり、松やすすきなど枯れない草を描いています。向かって左手のふ襖が冬で、椿のような花や松のような常緑の草木の絵があったです。冬の絵の丸い花は、椿だそうです。夏は、・・・緑の木々が書いてあった・・・と記憶します。(細部の記憶は違っているかもしれませんが・・・。)

 何となく、智積院でこの前見た等伯一派の「桜図」やその他の絵もように似ていると感じました。特に「桜の花がたわわ」になっている様子は酷似しています。大きさはここの絵の方が小さいですが。この絵は「永徳作」なので、等伯一派の「桜図」などは年代的にあとになります。すると等伯一派が、この「四季の襖絵」を見たことがあり、参考にしたことは推定できます。
 秋の様子を描いた絵も「日本国宝展」の展示で見た等伯の「松に秋草図」に似ているような。もしかしたら、記憶がごっちゃになっているかもしれませんが・・・・。
 庭に面した廊下の角を曲り、別の部屋があります。
 そして、別棟、その建物正面の庭園のほうに渡り廊下を進みます。次は、庭園のよく見える大きな建物に来ました。その先の廊下で説明員の学生さんがいます。
 説明は、「ここの由来、門跡寺院で東福門院の御所をたまわった。明治維新までは皇族が住職だった。」なとです。ここの建物は、住職の部屋、で東向き。一の間、二の間、三の間とあり、手前は水墨画の作家は忘れたが松村呉春?、中の部屋は、作家は忘れました。月遷?の景色を描いた水墨画。奥は有名な応挙の絵。もっとも、部屋の説明では、「伝応挙」となっていいました。テレ東の「何でも鑑定団」でも応挙の絵はニセモノが多いそうで、これもそうなのでしょうか?。

  書院奥に、行在所が増築されています。庭園と池が広がっています。東向きで、東山の斜面を利用して木が植えられて、立体感のある庭園になっています。一番メインの庭園ですね。「縁側には座るな」と表示があります。思わず、座って見入ってしまうほど見事な庭園です。
 「明治天皇の行幸」の際の行在所が庭園に突き出て建築されています。おそらく天皇が庭園の景色を見ることができるようにと増築したのでしょう。この行在所について同じく女子学生の説明員が解説してくださいます。
 この学生さんは説明が上手です。姿勢もよくキリッとしています。先の庫裡の説明の学生さんと並んでオーラがあります。見たところ上級生なのでしょう。(笑)。入口の庫裡、メイン庭園及び行在所の前という「二大重要ポイント」に「ツートップ」の「こびけん」部員の学生さんを投入したのでしょうね。(笑)。
 宝物庫と寝殿(宸殿)を見学後、外から撮影した写真。
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  寝殿(宸殿)の写真。写真右奥が大書院の方向。
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 帰ってからネット調べましたが、「狩野派」の襖絵ではあるが、「永徳」とは明記が無いような・・・。襖絵単独で重文指定されているのではなく、重文指定されてる大書院の一部、ということなのでしょうか。ともかく、永徳かは分かりませんが、説明には確かにそうありました。