(画像はアマゾンのサイトより)
 2014年暮れの日曜日に行った明智憲三郎氏の講演会。

 本能寺の変に関する新説でした。書籍(以下「本書」)自体は1年前に刊行されています。
「えっそうなの!?。なるほど、よくよく考えると確かにそうだ。」と思いました。確かにつじつまが合います。
個人的に(調べたわけではないが)講演会の内容をふまえて考察です。

①信長の唐入り計画
 宣教師たちには、世界征服のために渡ってきた人々も含まれる。
 身の回りにそのような人がいれば、権力者は自然と考えるはず。当時としては昔の元寇の逆の発想+コンキスタドーレス達の近い先例。どうやって現在の南米を制服したか、スペイン王国の副王制度など植民地行政についても当然聞いていたはず。なんたって、フィリピンの命名の由来そのものが当時の国王フェリペ二世。フィリピンは行政上、Nueva espana副王領。(スペイン語のフォントがでない。)その主都は、Ciuda de Mexico(メヒコ)。英語で言えばメキシコシティ。イスパニア人とは何とすごいことをやっているのかと思ったでしょう。フェリペ二世はポルトガル王も兼ねる。エスパーニャ=アブスブルゴ家の最盛期。つい20数年前まで統治していたその父カール五世(カルロス キント)の帝国治世や戦争について聞いていたはず。東でオスマントルコと戦い、海を渡って北アフリカではアルジェを攻撃し、まさに戦につぐ戦の生涯・・・・。

②家康の行動と直後の信奪取。
 来年の大河ドラマは真田幸村。小学生の頃に学研の歴史マンガで「真田幸村」を読んだことがあります。その中で意外だったのが、「関が原の15年前?に家康と上田で戦ったことがある」との回想シーンでした。なぜ、本能寺の変後に、信長と同盟だった家康が、武田の旧臣の真田氏を攻めるのか?。当時は、よく分かりませんでした。
 が、今回この説を聞くと辻褄があってきます。「な~るほど。そうだったのか。」と。小学生のときに感じた謎がようやく解けたような気がしました。(笑)
 この2年前、信長の命令?で嫡男を死なせています。しかもその死後、正室である信長の娘は、織田家に戻っているわけで。嫡男を失うことは現代人は理解できないくらいに悲劇です。別の子、のちの秀忠はまだ小さいですし。信長には相当な恨みがあったはず。というのは別の書籍やテレビでも取り上げされていますね。
 本書ではあまり触れていませんが、家康にも動機はあるわけで。
 昔読んだNHKの歴史番組本では、晩年を(今川の人質時代にも住んだ)駿府で送ったのは、「嫌な思い出があれば晩年に住まない。」と解説していました。
 駿府は(今川一族の)正室築山殿と祝言し、嫡男信康が生まれた思い出の地。駿府の地形は、西国、東国をにらむ天然の要害といえばそうだが、やはり信長同盟の犠牲となった正室と嫡男の菩提をとむらうという気持ちもあったのではないでしょうか。

③小牧、長久手
 先の彦根からの帰り、名神高速で帰りました。今年の春にも通りました。小牧から名古屋へ走ると遠くに小高い山が見え、ちょこんと建物が建っているのが見えます。復元された「小牧城」?です。おそらく、昔天守閣があり大名が統治していた城で・は・な・い・ですから、昔の戦(いくさ)にちなんだ観光用の復原天守でしょう。で、否応なしに、名神を走ると(もちろん車で。)「小牧、長久手の戦い」について思い出さされます。(笑)。
 なぜ、かつての同盟者の敵を討った秀吉と戦までするのか。通説は有名なので省きますが、これにプラスして確かに新説は辻褄が合ってきます。「そりゃ、仲よくできないよな。戦までするはずだよ。」と。(笑)。「信雄を推して、天下を狙って秀吉と戦った。信雄が秀吉と和睦した後後もしばらく臣従しなかった。」だけでは説明がつかないです。

 人によって異論反論ありますので、素人の私がここで推論するのは自由です。(笑)まっ、批評する人もほとんどの人は自分で研究したわけでも、ましてや論文を書いたわけでもありませんけどね。
 「ほんまでっか?。ウソでっせ!!。」の世界です。(笑)