2014年11月23日、この日は三連休の中日です。
 「芳春院 秋の定期拝観」にやって来ました。

 参道を進み、受付近くにある芳春院の門。拝観券を買ったのち、ここから入ります。

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 更に門があります。この先が本堂前の枯山水庭園になっています。
 写真撮影は禁止で、写真を撮影できるのはここまでのようです。この門を入り、靴を脱いで庭を見ながらお堂に上がります。


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 本堂の内部に入ります。仏壇前の畳の部屋です。正座をして説明が始まるのを待ちます。説明員は数名待機していて、交代で説明をしてくださいます。
やがて60歳くらいの女性が説明をはじめます。箇条書きにすると・・・(記憶違いは結構ありますが・・・)

「・・・・『芳春院』は、利家夫人のまつの法名。大徳寺の中で唯一 女性を開基とする。前田家の菩提寺。

ここは、本堂。真ん中が本尊。(仏像名は忘れた。筆者註。)
 向かって右が、開祖王室和尚の像。左はまつの像。
10年ほど前に(まつが)大河ドラマの主人公となり、(実は)そのときに新たに制作されたもの。
仏壇の下の絵は桔梗。まつは桔梗の花が好きだった。・・・・・。」

 確かに、本堂の仏壇の下には桔梗の花の絵がいくつも描かれています。桔梗の花は青い色をしています。おそらく日本画の技法で描いたのでしょう。ただ、色彩が鮮やかなので近年書き直されたか修復されたものでしょう。
 ここは、総見院の裏に当たります。昨年春に行った総見院のお堂とおぼしき建物の裏側もここの本堂から見えます。『桔梗』は信長にとって仇敵以外の何物でもありません。明智光秀の家紋ですから。なぜ、「まつの方」は桔梗をわざわざ描いたのでしょうか。まるで総見院殿(信長)のうしろ(裏)から、桔梗の花で脅しているのでないか、とも思いました。建築年代は総見院が先、ここ芳春院は、利家が死亡し、「まつ」が出家したあと、おそらく関ヶ原の合戦の前後の時代でしょうから、恐らく秀頼、淀君または家康の了解を得て建立したはずです。秀吉が生きている時代でしたら、桔梗を描くなど決して許さなかったでしょう。描いたとしても、もし秀吉が知ったら激怒するかも知れません。それこそ、ここ大徳寺の山門の像が切腹の理由のひとつになった利休の二の舞にもなりかねませんし・・・。「まつ」自身は大名ではありませんが。当然のことながら利休の切腹の理由も「まつ」は知っているはずです。
 何らかの意図があってのことでしょうか。前田家の家紋は桔梗ではないでしょうに・・・・・。もっとも桔梗は古来、一般的に愛でられた花であるので、特に深い意味は無し、といったところでしょうか・・・。

説明は続きます。
「正面の庭(南向き)の説明。・・・・。枯山水です。(詳細は忘れた)
応仁の乱で京都の街や寺はほとんど焼けた。大徳寺で秀吉が信長の葬儀を行って再興した。
秀吉は時の権力者。それにあやかって、戦国大名が塔頭(子院)を次々に寄進した。
本堂と三門があるのまわりに(塔頭が)次々に建てていった。開山堂が大徳寺にはない。禅宗の寺には開山堂があるが。(理由は忘れた)
 ここは、大徳寺の一番北にある塔頭。22の塔頭があるが最後のほうにできた。
本堂に近いところから立てていった。ので一番北なってしまった。ここからみる景色は電柱やビルなどがない。
400年前とほとんど変わらない風景。京都は北のほうが標高が高いため東寺の五重塔57メートル
とほぼおなじ高さになっている。(この点は、昨年春に聞いた、総見院の説明とほぼ同じ。)


 京都の大きなお寺には、塔頭があり、つまり子院です。実は 枯山水の庭で有名な龍安寺は、妙心寺の塔頭。金閣寺と銀閣寺も同様に『しょうこくじ』の塔頭。塔頭のほうが世界遺産に登録されて有名になってしまった。

 前の庭は枯れ山水。大海に水が流れ込む様わあらわしている。」

 本堂と庭の前での説明を終わり、時計まわりに堂の縁側を回ります。本堂の北側には池があり、池に西、境内の端にあたると思われる場所に二階建ての観音堂のような建物が目に飛び込んできました。これが、名高い「呑湖閣」なのだと分かりました。銀閣と比べても小さいですし、飛雲閣と比べても遥かに小さい。道理で、大仙院など通常拝観できるエリアから見えない訳だと理解できました。
説明つづき。

 「これは、呑湖閣 のんこかく。 京都四閣のひとつ。湖とは琵琶湖のこと。この二階に上ると、比叡山がよく見える。その向うには琵琶湖があり、池を琵琶湖に見立て、その琵琶湖を?みこむように・・・・との意味。
本堂から閣につながる橋は、打月橋。池の説明。池の名は、飽雲池。・・・。

 池をはさんで、呑湖閣の東、本堂とは北への廊下で建物につながっている家屋があります。ガラスの窓が入っています。
「京都大学に在籍していた当時の近衛文麿がここで勉強をしていた。」そうです。ここは前田家の菩提寺、文麿の母(とその妹である継母、ただし関係はよくなかったようだが・・・)は前田慶寧の娘ですから、その縁ですね。
 先ほどその門の前を通った近衛家墓所に文麿の墓もあるはずですから、「青春」と「終の」棲家はここ大徳寺といったところでしょうか。

 本堂の東でも説明ありました。そして本堂に戻り、説明は終わりです。


 写真撮影は禁止だが、拝観者は、デジカメや携帯、スマホを取り出して呑湖閣などを結構とっています。説明を聞いているのは二十人以上はいます。説明の人はこの女性一人だけで、説明で手一杯なのか、気が付かないのか特に注意しません。そのため、呑湖閣の写真も皆バシバシ撮影していました・・・・・。
 さすが・・・・ですね・・・。「まあ、ええわ。知らんかったわ。」というのが言い訳でしょうか・・・・。

 外国人も数人入ってきます。デカいカメラをもって、入ってくるなり、本堂の庭を撮影しようとしたり・・・・。「No Pfoto」などイラストや英語で目立つように告知していない(?)ためでしょうか・・・。「撮影禁止」の文字は日本人には分かりますが、漢字で大きく書いても外国人にはなんのこっちゃ分かりまへんな・・・。