2015年2月21日 寒いながもよく晴れた、春の近い訪れを感じさせる日でした。

 平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 於、細川コレクション 永青文庫に行きました。

(展示会のネーミングが長いで以下「信長の手紙展」と省略して記載します。(笑))
 永青文庫では、季節ごとに年四回の企画展示があるようです。「信長の手紙展」のパンフはすでに品切れでおいていないようです。次回、春の展示のパンフはあります。「細川家に伝わる起請文」の展示です。細川家の家臣などから、お殿様などに提出された起請文の展示とのこと。今回の「信長の手紙展」では一通だけ、起請文の展示がありました。先に書いたように山崎の合戦直後に出された秀吉からの起請文です。

 永青文庫のパンレットと「信長の手紙展」の展示リスト。なぜか、画像が横倒しのまま・・・・。

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 先の記事にも書きましたが、本館(勝手に私がネーミングしたのですが、正面入り口と受付のある建物)の三階から四階に至る階段の途中(踊り場)に、「三階」の入口があります。この「三階」が「信長の手紙」の展示室です。普段企画展示はここで開催しているのでしょう。蔵のようになっていて、階段の踊り場には蔵の扉が附いています。きっと、防火のためですね。美術品を保管するために、あとから増築されたかは分かりませんが、特別な構造になっていることがうかがえます。
 展示室(つまり「蔵の中」)に入ります。中は学校の教室よりもやや広いくらいの部屋。モチロン窓はありません。光で展示品が痛んでしまいますからね。
 室内には、数十人の見学者がいます。広くはない展示室なので、キツキツです。ガラスのついた展示ケースは木枠でレトロな感じです。ただ、気密性など防湿を考えると厳しいような・・・・。テレビで放映されていた展示室はここだったのだと分かりました。木枠の展示ケース・・・・、昨年秋に訪問した京都「妙法院」の文化財収蔵庫「龍華蔵」内のベルギー製展示ケースに似ています。

 展示室内を順に見て行きます。今回の展示は、これらの文書が「重要文化財指定」を受けた記念の展示です。信長からの手紙には「天下布武」の判が押してあります。季節行事の進物の礼状、「信長」と名前の記載があります。楷書ではなく、崩し字、しかも優美に崩して署名??しています。
 「信長と幽齋は同じ年」と解説がありました。相通じるものがあったのでしょうか。
  有名な「天下布武」は「天下」の文字は判読できますが、特に「武」は分かりません。ド素人の私は「コレホントニ『布武』って書いてあるの??」が率直な感想でした。(笑)
 宛名は、「細川兵部太輔殿」となっています。ある時期からは「長岡兵部太輔殿」となっています。「長岡」は細川氏の別姓で京都の長岡京付近の地名にちなんでつけたそうです。明らかに 室町幕府が滅びたあと、足利一族の「細川」と名乗るのを(信長の手前)憚ったのでしょう。明治以降でも細川家一族の華族として「長岡氏」と名乗っていたような。つまり細川幽齋あてがほとんどです。
 手紙のかなりの数は「黒印状」。教科書には通常赤い朱肉を付けて押す「天下布武」のハンコを見ているので、「ハンコって赤のインクではないの?」と思ってしまいます。(笑)
 私の頭の中は「黒印状」と「朱印状」はどう違うのか、の一点に焦点が当たり、グルグル回ってしまいました(笑)。ツレも同じことを感じたようで「黒印状と朱印状ってどう違うの??」と私に聞いてきますが、分かるはずがありません。(笑)
 展示の途中で解説がありましたが、主に知行や領地を与えたり、安堵したり権利の保護には朱印状、いくさの作戦指示や一般的な命令や意志伝達には黒印状が押されている・・・・とのことです。
 たしかに「○○の地の○○の権益を与える」「○○を安堵」のような手紙は赤い印。礼状やとくに戦で「ナニナニしろ、ナニナニをコウゲキしろ、戦ではあれこれ注意せよ・・・」などは黒い印。戦の命令は特に重要なので「朱印」かなと思いますが、これは第二次大戦後の現代社会に生きる者の感覚で、戦国の世では、その都度アレコレ発する指示文書の一種なので黒印なのでしょうか。
 同じ判で黒と朱の色わ使い分けていたのか、そろとも同じ刻印で「黒印用」と「朱印用」があったか、は解説はありません。解説が無いということは「天下布武」の判は一個で、使い分けをしていたのでしょう。 
 右筆(祐筆)の名前も伝わっています。解説には祐筆の筆跡も違うとあります。たしかに同一人物の祐筆が書いた書状は私が見ても同一人の筆跡と分かります。展示されていたのは、三人くらいの祐筆の手紙でした。
 教科書でも有名な幽齋の肖像画は展示室の一番奥、正面のガラスケース内にありました。僧形で上に賛文がありますね。
 手紙の内容は、長島一揆や丹波攻め?、浅井朝倉のと戦い関連?、長篠合戦など信長軍団の戦の内容や領地、知行などに関するものが多かったです。こんにち私達が知るような歴史的事件ではなく、案外、日常の領地経営や行事、贈答品などに関するやりとりが多かったような。

 光秀からの手紙は、前期展示のみで後期は、写真パネルのみでした。後期は「山崎の合戦後、秀吉から細川家に宛てた起請文」の現物展示です。
 秀吉の直筆であることに間違いありません。かなりのくせ字です。漢字が横に広がるような書き方です。
縦書きで、最初は「謀反に加担しなかったことはまことにあっぱれで・・・・感謝いたします。・・・・」のような内容。後半は 「南無八幡大菩薩・・・・」と神仏天命に誓って・・・・・ということが判読できます。
 文字から察するに農民、足軽から身をおこしたとされる秀吉は、仕官して取り立てられた後、あとから身につけた学問で得たと思われる書き方です。幼少のころから教育を受けた武将の洗練された筆跡ではなく、一般庶民のような文字、と感じたのは私でけでしょうか・・・・。また、非常におおらかで、しかし(字は巧くないが)マメな感じの文字です。
 血の判を押し、秀吉と判読できる花押があります。年月を経て、血判はかなりかすれてすうくなっています。起請文では羽柴筑前守と名乗ってあったような・・・。(詳細は忘れましたが。)このころ「ちくぜん」と名乗っていたことはホントだったのですね。(笑)
 
 その近くに、信長直筆の手紙の展示がありました。展示品リストを再度見たところたしかに「前期」展示とあります。テレビ放映で話題になったので、延長したのでしようか。いや~、ラッキーでした。
 宛名は「与一郎」。しかし、「よ~いち~ろ~」みたいな感じ(崩し文字)で書いてあるので読めません。(笑)
 当時の手紙は今でいうA4サイズくらいの用紙を横に使い、半分に折って書いています。つまり縦の行の文字が少ないです。横に折った状態で、上半分から読んで、裏返して下半分を読むのですね。つまり、こんにち展示すると、上半分の文章を読む場合はよいのですが、下半分は「さかさま」になっています。直筆文書では「与一郎」の部分がさかさまです。
 「働きぶり」という冒頭、一段下げた箇所は判読できます。「こたびのいくさではたいそうなはたらきぶりであったと聞いたぞ。これからも油断することなく、これからもがんばれ」
という内容だそうです。丸っこい文字で、几帳面そうな、しかし尊大な印象を受けます。
 当時与一郎は15歳だったと解説にあります。満でいうと14歳、現在の中学二年です。ほとんど初陣だったのでしょう。少年に対する激励の手紙でした。堀秀政の添え状も展示があり、これに「信長公がじきじき書かれたありがたいものであるぞ・・・」というような内容のため「直筆」とされているそうです。この中で信長様と書かれているか、「上様」と呼ばれていたのかは・・・忘れました。直筆に家臣が添え状を付けるとはすでに信長はど偉い、武将の上の更に上の武将=上様、遠い存在になってしまっていたのではないでしょうか。

 そのような超偉いお方がわずかな手勢で油断して京に入ってきた、厳重なはずの警護も緩い・・・・、このあたりが「本能寺の変」の真相なのでしょうか・・・・。