2015年3月
 
 小田原文学館の企画展示(展覧会) 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」の見学 続編です。
 

 展示について詳しく見ていきました。
一、最初のガラスケース。・・・江戸時代からの閑院宮家の歴史とその資料。
 これは比較的知られています。新井白石の献言で創設され、のちに天皇家の後嗣も出した宮家です。
  壁には宮家の系図や年表の掲示があります。

二、次のガラスケース。・・・明治時代から昭和戦前期の当主。閑院宮載仁親王に関する資料。
 陸軍大将の辞令や「元帥府に列し・・・・」という辞令もありました。大正天皇の署名があります。すでに大正時代に元帥までになっていました。
 大正時代、皇太子であった昭和天皇の欧州旅行にも随行しています。一緒に写真に写っています。昭和天皇よりも身長は低いですが、小柄ながらもがっちりとした体格です。この旅行で随行した皇族は載仁親王のみだったそうです。
 昭和に入ってから6年12月に「補 参謀総長」の辞令がありました。 「奉 内閣総理大臣 ・・・犬養毅 」とあります。
   二・二六事件当時の日誌の展示がありました。が、開いているのは、青い表紙の一冊のうちのあるページのみ。数ある資料の中のひとつで、事件の対応や日誌が展示の中心ではありませんでした。
 日誌には2月28日、医師の診察を受けて車で小田原を出発し、東海道を東上。随行員の名も記載されています。その日の夕方に車で東京の「内大臣官邸」に入ったとあります。永田町付近にあった自分の宮邸には入っていません。その後 小田原に戻り、再び 3月に上京、28日に小田原に戻る(帰着)とありました。三月になって一旦小田原に帰ったと書いてあったような・・・。事件終息後もずっと東京にいたわけではなかったようです。
 日誌はこの時期に動静について一冊目が作成され、二冊目は表紙のみで実際の記入は無かったと説明にあります。二冊目の展示もありました。タイトルに「御転地日記」とあります。
 日誌を見ると現職の参謀総長でありながら、小田原で生活しているのが通常だったようです。日誌にも小田原に「帰着」とありました。ふつうは、東京の宮邸に事件後に入ったことが「帰着」と思います。
 すると参謀総長は普段は(小田原にあって)不在で、誰が参謀本部の中心であったかということになります。トップの参謀総長が日常不在でいわば非常勤なのでは統制がきかなくなってしまいます。
 しかも、組織のトップではあるが皇族が重要な作戦などの決定をして責任を負うわけにはいかないため、部下の参謀たちが意志決定し、たいていのことは載仁親王はそのまま承認だったのでしょう。または、総長宮殿下には事後報告で、参謀たちがどんどん事を進めていってしまったような・・・・。よくいわれる「独断専行」もそのひとつでしょうか。(当時の新聞記事を見ると「閑院参謀総長宮殿下」と呼ばれています。)
 これらの事も二・二六事件の翌年の夏には盧溝橋事件が拡大して、戦火が大陸にもどんどん広がっていき、後の対米開戦にもつながったのも理由のひとつではないか?とも思いました。

 
三、載仁親王の後嗣 春仁王についての資料。
 出征した中国大陸の戦地からの手紙もありました。年代の近い皇族から「参謀総長の父宮殿下にあなたから献言してほしい」と手紙を受けてもいました。敗戦の二か月前、昭和20年6月に「陸軍大佐 春仁王 任 陸軍少将」という辞令がありました。天皇御璽が押してあります。こちらも 奉 内閣総理大臣 とあります。

 これらの資料は今回が初公開たそうです。辞令などが今まで保存されてきたとは驚きです。しかし、軍の役職でも 内閣総理大臣の名前を書くのですね。統帥権の独立で内閣総理大臣は関係ないのかと誤解していました。

 展示の説明を見ると小田原の閑院宮邸の敷地は広大です。現在の小田原城の西半分とその山の上、現在、某私立の学校や競輪場、公共施設がある辺りまで宮邸です。「小田原競輪」・・・・・といえば、私が子供の頃から宣伝していましたね。
 新幹線や東海道線のトンネルの上をも敷地が占めています。昭和の戦前当時には現在の東海道線は熱海まで、のちに丹那トンネルが開通しているので、すくなくとも鉄道路線は開通していました。するといつも宮邸の敷地の下をくぐって鉄道で移動することになります。当時の感覚ではまことに恐れ多いことではなかったのでしょうか。

(既出) 企画展のパンフレット。

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 旧皇族では敗戦直後に首相を務めた東久邇宮稔彦王が知られています。敗戦後とはいえ、軍はまだ存続していましたから組閣当時は現役の陸軍大将であり当初数日間は陸軍大臣を兼務したわけで。戦前期、皇族男子は陸海軍人であったわけで、その存在、影響は大きかったのではないかと推測されます。
 先に写真を掲載した小田原文学館敷地内の看板に、閑院宮載仁親王について「昭和激動期の参謀総長」と説明があります。在任期間も昭和6年12月から15年の途中、対米開戦の一年と少し前までと長い。年齢は稔彦王よりも20年以上も上。その軍歴も相当長い。戦前日本の歴史を語る上で載仁親王は最重要人物の一人ではなかったかとも思えます。
 (ずっと以前に見た歴史のテレビ番組では主に近現代史関係の著作を発表して収入を得ている某職業作家が(海軍の伏見宮博恭王と比較して)『お飾りだった』と発言していましたが。)

(既出) 企画展の「のぼり」です。退出後に撮影。
 
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