2015年4月中旬のこと。

 永青文庫の企画展示 「細川家起請文の世界」、副題「神の使い八咫烏に誓う」です。
 
 続いて展示を見ていきます。
 「罰文」、パチモンは、用紙が決まっています。あらかじめ、印刷しておき、起請文の本文と貼り付けして罰文用紙には血判を押します。この用紙は「熊野牛王宝印」といいます。展示室一番奥のガラスケースに展示がありました。まとっまって印刷しておいた物が必要なくなり、明治時代になってからも保管されて現在に至っているのでしょう。説明によると13枚現存しているとあります。もしかしたら、明治初期には前時代の遺産というか、不要になったモノとしてもっと残っていたのかも知れませんが。
 「熊野牛王宝印」の模様に「カラス」がたくさん書いてあります。カラスが何羽も積み重なって、棒のようになった絵です。ちょうど「山」の文字のようにカラスが積み重なっています。起請文はカラスの図柄の裏に描くので、よく見えませんでしたが、説明を読んで改めて見るとたしかに「カラス」です。しかも描き方は「デカい目ん玉」がひとつあるカラスです。ちょっとグロイ感じです(笑)。
 「山」の文字のようにカラスが積み重なった模様の真ん中には縦書きで「天下第一」とあり、その下に「日本」と文字が入っています。「神の使い八咫烏に誓う」とはこのことだったのです。
 起請文の用紙「熊野牛王宝印」の意味がようやく分かりました(笑)。

 永青文庫作成の本展覧会のバンフレットの拡大。主な起請文が紹介されています。
  「熊野牛王宝印」の用紙を貼り継ぎしています。用紙の大きさも違います。
  ↓ なぜか写真が横倒しに・・・・・。
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 印象に残った展示内容としては、

・出入りの商人が書いた起請文
  薩摩など他の領地に行っても熊本領のことは洩らしませんというもの。罰文の貼り付けがありません。商人など武家以外は罰文を貼り付けしなくてもよかったことが分かります。罰文とは武士の特権だったのかも知れません。
・家臣数名が家老松井興長に対して出した起請文
 当主忠利が急死した後に出したもの。忠利は父、忠興よりも先に亡くなっています。先の記事に書いたように「忠興からの毒殺を恐れていた」ことと何か関係があるのでしょうか。
 誓う内容は、「八代の忠興ではなく」新しい当主光尚に忠誠を誓うものでした。敢えて「忠興ではなく・・・」というのが複雑?、深刻?な家中の状況を示しているのかも知れません。
 忠利にしてみれば、せっかく自分の代で小倉から熊本 肥後一国へ表高で10万石以上の破格の加増の上、転封になったのに・・・という思いがあったかは分かりません。すべて祖父、父の功労によるものといわれればそれまででしょうか・・・・・。キョーレツな父の影響下に置かれた生涯でした。「もっと自由に差配したかった・・・・・。父の下に始まり、父の下に終わる。ボクの人生一体何だったの?。」と死の直前に思ったかは、知る由はありません。
 忠興は当時としては異例の長寿の80何歳まで存命。その子達にとっては、キョーレツな性格と相まって大変だったのでしないでしょうか。

・忠利の存命中、父忠興から忠利への書状。
 これは起請文ではありません。忠利の家臣を非難するもの。「・・・何某の借米の利子が〇〇両になっている。トンデモない、やめさせろ・・・・・。」
 非難された家臣がその十年後に書いた起請文もありました。忠利が亡くなった後、忠興には奉公しませんという内容のようです。かつては非難されたが家中では生き残っていたのですね。組織の中でのポジション確保、というか地位キープも必死です。勘気を蒙れば死もあり得たのでしょうか・・・・。
 
・光尚の医師の起請文。
 父、忠利が死亡し襲封した後に差出しされたもの。「江戸や他家に殿様の診察内容などを漏らしません・・・」というもの。医師は他家でも働いていたのですね。
 現代 医局の医師が複数の病院で勤務したり、当直に入ったりしているのと似ていますね。ただ、医局の状況も現在ではかなり変わっていると思いますが。

・家老松井寄之の起請文と医師の様子覚書
 これは極め付けの展示です。一番面白いというか、現代にもつながる内容です。
  八代の忠興と忠利没後、熊本の光尚との間で板挟みになった家老松井寄之の書。病気で出仕できませんといった内容。寄之は忠興の子で、忠利の異母弟。松井氏の養子に入った。実父と実兄、甥、養家の家老の職務で悩んでいたようです。
 病状は「めまい、動悸、多汗・・・」など。うつ病、自立神経失調症のような症状です。
 医師の覚書(つまり診断書)にも同じ症状のことがあると書いています。
 「心の病」は現代社会に大きな問題となっています。が、昔からあったのですね。

 忠利が父に先だって没したのも、実は精神的負荷によるものも多分にあったのではないのでしょうか。毒殺をおそれるくらいなので、かなり精神的に病んでいたような。
 長兄廃嫡、次兄切腹、三男の自分が跡目を継いだものの・・・・といったところでしょうか!?。
 松井寄之は「長岡」姓を授けられていることがわかります。細川を名乗るのは当主と嫡子に限り、他は長岡姓。松井氏が家臣ながら「長岡」姓であるのは、一門として遇したとことの表れなのでしょう。

 ↓ 同じく永青文庫作成の本展覧会のバンフレットの拡大。
   細川氏と松井氏の系図の掲載があります。この養子、婚姻関係が重要なのですね。
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