2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」として地下の展示室内で開催されていました。常設展示は室内の壁に沿って「L」字状に配置されていますが、室内中央部と常設展示と反対側の壁側が特別展示になっていました。
 近くには幸田露伴や尾崎紅葉らと鴎外の書簡の展示が個人別にありました。「露伴の交流」、「紅葉との交流」といった具合です。
 正岡子規との書簡もありました。近年放映された「ドラマ 坂の上の雲」で鴎外は少しだけ登場していました。日清戦争のときに戦地で子規会った設定でしたが、実際に交流があったのですね。確か、現在の根岸あたりに子規は住んでいたと記憶します。ここ千駄木からも近いです。
 漱石に関する展示もありました。漱石とも手紙のやり取りをしていました。しかし、展示によると実際に会ったのは四回ほどだそうです。お互い知ってはいるが、いつも交流しているわけではないので、「二大文豪」とはいうものの、二人は深い交友関係ではなかったようです。

 ↓ 記念館の南西方向。正面入り口とは反対側の出口付近から。
   ビルの合間に東京スカイツリーが見えます。奇跡ともいえる角度で一直線に見えます。
   スカイツリーに向けて見通しのきくように「わざと」ビルをよけて建てられているかのようです。
   「観潮楼」といわれるように、記念館の南方向は崖になっていました。高台で眺望がききます。
   高いビルがなかった当時ここから「海が見えた」ということに納得しました。

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ちなみに、写真の右、
崖下に立つのは
区立中学校の建物です。















 ↓ 敷地内の壁に掲示していた観潮楼の図面。

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 そういえば、鴎外の(恐らく)最大の庇護者で陸軍のボスであった山縣有朋はというと、大正11年2月に死亡。鴎外はその半年あまり後に死去。有朋の死で燃え尽きてしまったというのは言い過ぎですが、親子ほども年上の有朋と比べてもあまりに早い鴎外の死でした。
 先の記事では「母の影響が大きかった」と書きましたが、職業生活においては有朋の存在が大きかったと思います。「公にあっては有朋、私にあっては母」。この二人の死亡後ほどなくして亡くなっているのは何かの因縁でしょうか・・・。