2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」を見た後、もう一つの展示室に廊下を通って移動します。展示室2も、ほぼ常設展示で特別展に関連すると思われる幸田露伴の子孫の資料の展示もありました。
 廊下の壁には鴎外の一族と子孫の系図が掲示してありました。子孫の方々も医者に学者に作家にとエリート揃い。現代の華麗なる一族を形成しているといって過言ではないでしょう。

 展示室2では鴎外の子供達に関する資料も展示がありました。
 子供達は・・・・・というと、再婚した妻しげとの娘(長女 茉莉)はなんと17歳で嫁に出しています。娘を溺愛したと知られる鴎外ですが、17歳で嫁に出すとは、やはり「家長」としての意識も強かったのでしょうか?。生まれた孫は「爵」(ジャック。厳密には漢字は旧字体で違うようですが。)
 鴎外死去当時、茉莉は洋行途中で異母兄の於兎も同行して洋行していたと説明にあります。つまり死去当時は長男は不在だったわけで。葬儀当時の写真を見ると、まだ小学生くらいの年齢だった三男(次男は夭折)の類が喪主となっています。相当な会葬者があったはずで10歳とそこそこだった類にとっては大任だったのではないでしょうか。

 現在、鴎外は「元祖・キラキラネームの名付け親」とも言われています。現代社会に生きる子を持つ親として、命名には私も多少の関心もあります(笑)。
 当時、鴎外が子供や孫につけた名前が現代でいう「キラキラネーム」に当たるかは議論の余地があります。ただちに「キラキラネーム」ということはできないと思いますが・・・・。ただし、ヨーロッパ風の当時としはてはかなり変わったというか斬新というべきなのか、そういう名前ではあります。外国人の名前を漢字で当て字をするところに多少の無理もあるような気がしますが・・・・・。
 長男にオットー、次男(夭折)にフリッツ、三男にルイ(類)。娘のマリー、アンヌ(杏奴)は現在でも女子の名前としてはある命名なのでそれほど違和感はありません。
 外孫にも「ジャック」などなど。ドイツ系とフランス系の名前を交互に付けています。自分が留学したドイツを第一にしつつフランス語の命名をしている点はフランス、パリにも思い出があったからなのでしょうか?。

 館内に記念館の広報誌がありました。読んでみると、この前の企画展示は三男の類に関する資料展示であったそうです。類に関する展示資料や広報誌の(類に関する)記事を読んでみると、類は父鴎外と異なり勉学の道はあまり得意ではなかったようです。が、鴎外も当時は小さかった類をかわいがっていたようです。勉強もあまり長続きせず氏自ら「不肖の子」と呼んでいたそうです。画家を目指したようですが、戦後は書店主や作家として生活をしていたようです。
 思い出しましたが昔、類の死亡記事をたまたま読んだことがあります。当時私は少年であり、一応新聞を毎日読んでいました。読むというより、テレビ欄を見ていただけといった方が正しいです(笑)。ただし、テレビ欄の裏の社会面くらいは読むことがありました。私の感覚としては社会面は「テレビ欄の次のページ」といった位置づけですが(笑)。
 社会欄の下の方に「森類(もり るい)氏(森鴎外の三男、作家)。〇日〇時〇分××のため××で死去。〇歳。自宅は千葉県××町・・・。喪主は・・・。著書に「・・・・」などがある。」とあったと記憶します。
 当時なぜ森鴎外を知っていたかというと中学校の「国語の資料集」に載っていたからです。つまり私は当時「中学校以上」でありました(笑)。
 資料集は中学入学時に配布され、三年間使用しました。といより、御多分に漏れず授業ではほとんど教科書のみで資料集は使用しなかったと思いますが・・・・。
 資料集には「二大文豪」としてまず漱石が。次に鴎外の紹介が載っていました。
 当時の私は「鴎外の子が今まで存命であったこと」に驚きました。個人情報保護などはなかったときなので(死亡した人物の)自宅の住所まで掲載されていたので印象に残りました。どうして自宅が千葉のとある町なのか?とも思いましたが、やはり父が文豪だと子の職業も作家なのだな、と(当時の私は)思いました。ただし代表的な著書が父、鴎外関するタイトルだったので父親のことを主に書いていた作家だったのかな、とも思いました。

 話は戻りますが、木下杢太郎も展示や広報誌の記事に出てきます。鴎外と年齢は親子ほど違いますが、医師で文学者という点で鴎外と共通しています。鴎外の死後も類の子の名づけ親になるなど世話をしていたようです。
 観潮楼の模型もありました。母屋と離れがあり、母屋は二階建てです。ただ、二階部分はさほど広くありません。鴎外が再婚し、東京に戻った後は母屋に鴎外と妻しげとその子供達が住み、離れは母や長男於兎が住んでいたそうです。継母のしげと於兎との間は良好ではなかったことがうかがえます。

↓ 敷地内の壁にあったアクリルパネル「観潮楼跡」の表示。
  写真では判別しにくいですが門前で撮影した軍服姿の鴎外の写真もあります。
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↓ 敷地内の壁にあった碑。「沙羅の木」と題する「永井荷風」の書。
   建立は昭和29年7月9日、鴎外の命日の日付で長男の於兎。
   「父鴎外森林太郎33回忌にあたり弟妹と計りて供養のためこの碑を建つ。(日付) 嗣 於兎」とありました。

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 関東大震災の前年の鴎外が死去した当時とは、第二次大戦の戦後10年近く経過した建立当時とは、かつての観潮楼周辺の風景は激変していたでしょう。空襲で焼けた後のこの敷地の写真も掲示されていました。本当に焼け野原になっていました・・・・・。大戦争を経て、世の中も随分と変わっていた筈です。
 観潮楼の家と土地は、後に人に貸していたと説明にありました。空襲で焼けたときは他人が住んでいたようです。
 年賦によると長男の於兎は鴎外が満28歳くらいのときの子ですから、(碑の建立時)すでに父の没年を超えて還暦も過ぎていたはずです。「弟妹と計りて・・・」の言葉にも、父の再婚後に生まれた母の違う弟妹達に対する配慮が感じられます。反面「嗣 於兎」には「森家の嗣子」という父、鴎外が持っていた意識を更に受け継ぐという意志表示を感じます。
 偉大な父を持ち、自らも東京帝大医学部を出て大学医学部教授とエリートコースを歩み、実母とは生まれてすぐ生き別れ、その生母も少年の頃に亡くし、母の愛情をあまり感じることができずに育ったでありましょう。老境に入りつつあった当時の嗣子 於兎の心境はいかなるものだったのでしょうか。

(文中の登場人物については敬称略)






 ずっと昔に見た鴎外に関するドラマの最後のシーンで
 「・・・・・・・・・・・ライヴァルには爵位が与えられたが、彼には許されなかった。・・・・・・」とナレーションがあったと記憶します。このライヴァルとは鴎外の東京大学医学部の同期卒業生で前任の陸軍省医務局長・小池正直で間違いないでしょう。(他の陸海軍医官であった人物か、大学の同窓で医学者となってのちに受爵した人物か、もしかしたら同時期に大学在学、ドイツ留学をしている北里柴三郎という説もあるかも知れません。ただし、北里の受爵は鴎外の死後だったかも知れません。)
 (以前読んだ書籍にのっていた鴎外と同期の卒業生名簿によると)東京大学卒業時、小池正直は26歳くらいで山形県士族でした。のち明治40年9月に男爵を授けられています。このときに日露戦争に関する爵位の授与が行われたようで、伊藤博文や山縣有朋達は侯爵から公爵になっています。その直後の10月かに鴎外は小池の後任として医務局長に就任しています。小池は勇退したといったところでしょうか。

 興味深い資料があります。
 時代は下り、昭和5年9月の陸軍の「実役停年名簿」(8月1日現在)を見る(インターネットで閲覧できる)と一等軍医正の筆頭に第八師団軍医部長「井上隼雄(ハヤオ)」(50歳2か月)の名があります。次の次、序列3番に陸軍省医務局医事課長 医学博士「小池正晃」」(46歳6か月)の名があります。男爵を意味する「男」の文字があります。小池正直の嗣子であり、家督相続して男爵を継いでいることが分かります。小池正直は自分の子も軍医になっていました。
 「井上隼雄」は言うまでもありませんが、戦後の日本を代表する作家 故・井上靖氏の父君です。文学者の系譜?は、当時の軍医の名簿を経由して、すでに歴史上の人物である鴎外から現代の近年まで存命であった井上靖氏まで繋がっているな、と思うと興味深いです。

名簿の記載をよく見ると
井上隼雄 明治37年7月(日露戦争のさなか) 三等軍医に任官。
       恐らく当時の医学専門学校(医専)卒業後に任官。
小池正晃 明治42年6月(当時の医務局長は鴎外) 二等軍医に任官。
       二等軍医からスタートとは帝国大学卒業のうえで任官したからでしょう。
 名簿において他の軍医の記載を見ると、戦時を除いては学校卒業の後に入隊して見習医官になり、例年は6月に任官するようです。帝大卒は任官時から優遇されていたことが名簿からも分かりました。軍医でも「医学博士」を全員が持っているわけではありませんから、博士号の有無もまた昇進には重要であったと思います。もっとも博士号の取得と帝大出は、かなりリンクしていたのではないでしょうか。
 故・井上靖氏が当時の父の任地、旭川生まれであることはよく知られています。その後、各地を転任したので靖氏が湯ヶ島で「おぬい婆さん」と暮らしたことが「しろばんば」にも書かれています。やはり軍医には転勤は付き物です。
 一等軍医正は大佐相当官です。当時の大佐にはどのような人がいたかというと「歩兵大佐」の欄にはあの東條英機(45歳8月)の名前もありました。大佐の193番で歩兵第一連隊(現在のミッドタウン周辺にあった)長とあります。序列が一つ上、大佐の192番は近衛歩兵第二連隊長として「前田利為」の名が(45歳2月)。「侯」とありますので旧加賀藩のお殿様の家系で侯爵様であったことが分かります。
 もう少し上の序列に「関東軍参謀 板垣征四郎」、更に上に「軍務局軍事課長兼・・・委員 永田鉄山」の名が・・・。

 翌年の昭和6年9月の同じく陸軍の「実役停年名簿」(8月1日現在)を見ると「井上隼雄」の名はありません。恐らく軍医監に進級のうえ、予備役編入となったのでしょう。任地弘前から故郷の伊豆・湯ヶ島に帰郷したのでしょうか?。
 小池正晃の名は進級して「軍医監」の欄にありました。17人しかいない軍医監の14番目。「東京第一衛戍病院長」の職です。本省の課長から東京の病院長と「東京勤務」であり続けています。時代はかなり違いますが現役当時の鴎外が東京勤務にこだわっていたのはこうした人事ローテーションと関係があるのでしょうか?。
 ちなみに一階級上の「軍医総監」は2名のみ。時代は満州事変の直前のことです・・・。話は更にそれますが、前年(昭和5年)の時点ですでに事変のお膳立てができていたかのような人事配置です・・・・。
(正「晃」の文字は正確には「晁」です。その他漢字は現代字体に改めています。)

 話は鴎外に戻りますが、彼を主人公?とするテレビドラマで「爵位は彼には許されなかった。」とナレーション入るくらいですから、鴎外=爵位待望説は昔からあったことになります。最晩年に生まれた外孫のジャックに「爵(正確には書体が違うが)」の字を充てたことは爵位を期待していたとのあらわれではないか?、と展示を見ていて直感的に思いました。
 恐らくあまたの研究者や文学者はこの説を検討してきたことでしょう。ただし、その根拠となる論文や著作を読んだことはありませんし、今後も私が読むことはまずないでしょう(笑)。
 その根拠は何か?、と問われても私は答えることができません(笑)。私は一介の見学者(しかも初めて来た)ですので、そこまでは不可能です(笑)。