2015年8月15日
 
  くしくも70回目の「終戦の日」のこと。ここは国立公文書館。平成27年度の第2回企画展「昭和20年-戦後70年の原点-」の見学に訪れました。
 すでに速報は8月の時点でアップしていますが、随分と遅れての記事の投稿です。
 
 公文書館の敷地内と北の丸の様子。平成27年の8月15日、東京は晴れの暑い日でした。
 70年前、昭和20年8月15日の東京も「よく晴れた暑い日であった。」と回想されています。

IMG_2696


























 「速報」に書いたとおりこの15日まで「終戦の詔書」の原本の展示がありました。
 今回の企画展は、昭和戦前期の全般を通じての展示ではなく「昭和20年」に焦点を当てています。

 いつものように正面の入口を左に曲がり、公文書館の展示室の入口を入ります。ガラスケースの最初の展示は「プロローグ」として宣戦の布告の詔書でした。
 ↓ 昭和16年12月8日 「宣戦の詔書」

DSC03640




















 原本は御名御璽のページが開いてあります。その他のページは複製品のようです。
 漢字は旧字体で書いてあるので難解です。現代字体で一部を書き出ししてみると「・・・・東亜の安定に関する帝国積年の努力は水泡に帰し・・・・」とあり、末尾は一部隠れているのですが「・・・・平和を確立し、帝国の光栄を保全セシムコトヲ期す」と読めます。
 大臣の署名欄には「内閣総理大臣内務大臣陸軍大臣 東條英機」の名が。三つも兼務しています。最後から二番目に商工大臣岸信介の名も・・・・・。
 ここに名前のある人物のその後の運命は多様です。東條は東京裁判で刑死。裁判で禁固刑に処せられたものの後に出所した者、敗戦後自決した者、総理大臣となった者・・・。
 気づいたのですが、大臣の数が意外にも少ない。名前を知っている人も少ない。そして爵位を持っている人が一人もいない。近衛文麿が退陣したので、同時にその仲間の華族大臣は閣外に去ったのでしょう。

 1月の展示書類のテーマは「日本本土空襲と空襲下の生活」
 空襲に対する対策の文書の展示がありました。
 2月の展示書類のテーマは「硫黄島の戦い」
 2月には硫黄島にアメリカ軍が上陸して激しい戦闘が行われたりですが、展示文書は3月になってからのもので「陸軍中将栗林忠道進級ノ件」
 ↓ 

DSC03641




















 陸軍中将から陸軍大将に進級させるための文書でした。日付は昭和20年3月22日。陸軍大臣が内閣総理大臣小磯国昭あてに提出しています。後世の戦史では硫黄島が玉砕して栗林司令官が戦死したとされる日よりも少し前の日付のようです。が、文書によると「・・・本人は第109師団長として硫黄島に在りて作戦指導に任じ其の功績特に顕著なる処3月17日戦死せる者に有之候・・・・」とあります。当時の大本営としては3月17日に戦死したと認識していたためその後進級を決定したのでしょうか。

  3月の展示書類のテーマは「東京大空襲と空襲への対応」

 ↓ 空襲後の行幸に関する文書

DSC03642



















 3月17日に宮内大臣 松平恒雄の名前で内閣総理大臣小磯国昭あてに出されています。
 空襲後の視察に天皇陛下が「明18日午前9時に」出発はて東京都内の罹災した場所に行幸をするとの内容です。箇条書きの一に「午前10時頃還幸の・・・」とあるため10時頃には戻る予定だったようです。   

 4月
 「鈴木貫太郎内閣の成立」
 小磯国昭が依願免本官となり、枢密院議長で海軍大将で正三位に叙位されていて勲一等の勲章を受章していて武功により功二級の金鵄勲章を授けられていて男爵の爵位を有している鈴木貫太郎内閣が内閣総理大臣兼外務大臣兼大東亜大臣になています。
 同時に外務大臣兼大東亜大臣は依願免本官並兼官となり交代しています。首相が兼務ということですね。
 海軍大臣が奉じ、奏上しています。前任者が後任者を奏上するのではないのですね。米内光政は留任し、敗戦時も海軍大臣だった訳です。

DSC03643




















 昭和20年5月に関する文書としては、「独逸降伏の際の帝国政府声明案」がありました。文字が細かく読みにくいので写真は撮影していません。
 4月下旬にベルリンにソ連軍が押し寄せて陥落。4月30日だったでしょうか・・・、ヒトラーは自殺。翌月の7日(日本時間では8日でしょうか)にドイツは無条件降伏文書にサインをして欧州の大戦は終結しました。
 帝国の声明は「独逸降伏に関係なく戦争遂行に邁進」というような内容でした。そして日本は戦争を継続したのでした・・・。