2015年8月

 ここは島根県鹿足郡津和野町。森鴎外の記念館にやって来ました。郷土が生んだ偉大な天才です。
 西周の旧居から鴎外記念館までは川を渡らなくてはなりません。その道は狭いです。住宅地の中の狭い道を通り、車がすれ違うことが困難な橋を渡り、津和野駅に戻るような経路で向かいます。直線距離では100メートルないかもしれませんが、車、徒歩だと川を渡る関係で遠回りする必要があります。

 館の外に胸像がありました。像の鴎外の姿は若いです。東京の記念館の胸像は入り口の内側にあり、撮影禁止でした。ここ津和野では屋外にあり、撮影は自由です。
↓ 故郷の山を背に建つ鴎外の胸像

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 ↓ 記念館の正面。エントランスはガラス張りです。写真には写っていませんが、左に入口があります。
   向かって右の建物が展示室です。石州のベンガラの瓦を使用しています。

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↓ 隣接する旧居の見学はあとにして、先に記念館から。

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 最初の第一展示室は、10歳から60歳で没するまでの展示です。上京の10歳のときの家族写真が掲示されていました。かむろ姿、子供の鴎外と父母などが写っています。これと同じ写真の拡大版が東京の鴎外記念館にありました。
 展示が始まる前、(展示室の)最初に映像コーナーがあります。ふたつの人生、「二生」とタイトルのある映像でした。組織(官僚)と個人、作家と医者の「二生」がテーマの映像でした。映像中のナレーションで
「鴎外は死ぬまで帰郷することはなかった。(津和野を離れて上京した)当時10歳の鴎外は、故郷に二度と帰ることはなかったなど、このとき想像すらしなかったでしょう。」と言っていました。
 
 続いて展示を見ていきましたが、東京の記念館と内容が重複するものもあります。
 
 展示内容を以下箇条書きで書いていきます。

 当時の東京大学の教員の名簿がありました。
 名簿の筆頭に総長の名前がある。総長心得(代理みたいなもの)は津和野の人。法学部、文学部など学部ごとに名簿がありました。
 法、文などの学部は日本人の教授が多い。医学部の教員には、ベルツの名前がありました。医学部の教員はほとんど外国人です。その他の学部と比べても外国人の教員比率が突出して高い。科目は外科、内科学、解剖学、衛生学、生理学などでした。
 軍医の辞令などの展示も。(ただし、公文書館の複製品)当時の鴎外の書いた手紙の展示も。内容については「陸軍で採用が決まってもまだ軍医になってよいか迷っていた。」と説明がありました。採用が決まっているのにまだ迷っていたとは・・・・・・優柔不断です。ホントはあまり軍医になりたくなかったのですね。結構プライドの高そうなヤツです(笑)。
 軍医になった当時の上官は津和野の人でその写真もありました。この人はのちに37歳で死亡したとのことです。

 児玉セキという女性の写真が掲示してありました。二人の妻の間の間にセキの写真が・・・。セキは「結婚までの間身の回りの世話をした女性」と説明があります。セキは、日本髪で目は細いが、キリっとした顔の女です。現代にも通用する日本美人といってよいでしょう。つまるところ、確実におメカケさんです・・・・・再婚するまでの。
 モチロン説明にはそうとは書いて無いですが・・・・。
 
 更に展示を見ていくと、勲章の展示が。勲一等、勲×等など複数(の勲章の展示が)あります。金鵄勲章功三級も。以外にも低い功級です。功一級は、大山、乃木などの元帥、大将クラス。二級は恐らく中将クラス。三級が少将クラス。鴎外は日露戦争当時に少将相当だったので、戦後に三級を授けられたのでしょうか。
 勲章のヒモは長い。胸に勲章をつけるには長いひもが必要のようです。

 医務局長時代の写真あります。庭で撮影しています。軍医のトップとして得意満面だった時代ですね。
 有名な軍服で馬上の姿の写真ありました。馬丁の兵士は、島根鹿足郡 ××村出身の・・・と説明ありました。この写真は鴎外の紹介では必ずといってよいほど掲載される写真で、以前に私も書籍で見たことがあります。

 帝室博物館時代の写真もありました(東京の記念館にも同じものがあり。)上座に館長の鴎外、左に黒田清輝。右手前、末席に近いところに竹内栖鳳が写っていました。(ただし、大観の姿はなし。)

↓ 第一展示室の先にある通路。川沿いにあるガラス張りの廊下です。
   第二展示室に続いています。民家の屋根はベンガラの瓦ですね。

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↓ 川に面したガラス張りの「小憩ホール」
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↓ 川の対岸をアップで。実は西周旧居の方向です。木々や家の合間から屋根を見ることができます。

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