2015年8月

 森鴎外記念館にやって来ました。
    第二展示室を見学し、時間も無いので資料館を出て隣接する生家(旧宅)に向かいました。一階の別の部屋では企画展を開催していましたが行きませんでした。記念館の二階にも行きませんでした。ただし、二階には展示室はありません。
 旧宅の入場料は単独で入ると100円です。記念館側の入口のかたわらに自動券売機があり、券を購入して入場できます。記念館が休みのときも旧宅は券売機で購入すれば見学できるようです。

 ↓ 記念館に隣接する鴎外の生家。
 写真で見たことがある人も多いと思います。元々あったのはこの生家のみで記念館はあとから建設されました。私も写真で生家は見たことがありましたが、茅葺だったような気がします。今回、訪問して見たのは石州瓦ぶきの屋根でした。実は、生家を囲む塀の向こうには民家が隣接しています。

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 居間と思われる部屋。日差しが入り込んでいます。
 三間並んでいます。

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 玄関と思われる場所。内部は立入禁止で部屋ごとに詳しい説明はありませんでした。建物の周囲を歩いて回りながら見学します。

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 ↓ 北側に門がありました。碑も建っています。
  北側に玄関があります。 門の向こうは公道で、一般の民家が建っています。

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 説明板。鴎外は10歳でこの上を出た後、この家には戻ることがありませんでした。一度くらいは帰郷したことがあったのかと思っていましたが、記念館での映像や説明であった通り60歳で死ぬまで津和野に来ることは無かったことが分かりました。
 なぜ、そのような人が死に臨んで「余は石見人 森 林太郎として死せんと欲す。」と遺したのでしょうか。石見人としての意識があったのならば、なぜ一度も帰郷しなかったのか。または帰郷できなかったことを悔いたのか、または自分の原点に戻るという意味を込めて人生の最期にあのような遺言を遺したのか・・・。謎です。

 ともあれ、その旧宅が国の史跡に指定されているとは、もはや鴎外は、一作家、一官僚というよりも歴史上の活躍した人物なのですね。

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 北側からの様子。玄関や土間への入口があります。黄色い土壁が他の地域の民家と異なると感じました。屋根は・・・・というと、先にも書きましたが、鴎外が住んでいた当時は茅葺だったのではないでしょうか。
 記念館で見た江戸期の津和野の街並みの想像図をみても茅葺屋根がほとんどであり、特産品とはいえ、石州瓦のベンガラの瓦の屋根に変わったのは近代以後のことではないかと感じました。

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 ↓ 建物の東側のあまり日当たりの良くない角部屋に鴎外の勉強部屋の表示がありました。
   この部屋だったような・・・。

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 記念館に隣接する南の出入り口に戻りました。
 鴎外旧宅は南側、下の写真のアングルからのものが知られています。よーく見ると、南側なのに窓が全くありません。今回見学して、北側に玄関や窓が付いていることが確認できました。なのに、南に窓が無いのはこの地域特有の造りなのでしょうか。日本家屋はもともと採光はあまり考慮されていません。日当たりがよい筈なのに、窓がないため、なおさら家屋の内部が暗く感じます。日本海にも近い山間地、冬の北からの冷たい季節風を遮る必要があるため、むしろ北側に窓は造るべきではないと思うのですが・・・。
 この疑問は解決していません。

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 鴎外記念館をあとにします。
 ↓ 記念館の看板

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 ↓ 記念館の建物。 写真の右(北)が正面入口です。

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