2016年1月31日 
 
 東京国立博物館の特別展「始皇帝と大兵馬俑」(「始皇帝展」)です。
 第二展示室で銅車馬(複製)を見た後、次の展示スペースへ。

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 次の部屋へは、緩い傾斜になっているスロープを登ります。高台の上から兵馬俑を俯瞰します。見学者がたくさん入場している様子も分かります。今いるだけで数百人は同じ展示室内にいます。ざっと見て200-300人以上は常にいるでしょう。
 第二展示室の最後の部分、先の「エジプトの王妃展」では、クレオパトラなどの色々な彫像が、「鳥獣戯画展」では、あの「甲巻」をはじめ乙、丙、丁とすべての巻が展示されていた場所でもありました。

 壁面には、始皇帝陵の周囲の景色写真のパネルが貼ってあり、その手前に複製品の兵馬俑がたくさん並べられています。手前のスペースに、アイランド状に兵馬俑が単体で展示されています。発掘された兵馬俑の様子を少しでも復元しようという展示方法です。
 展示されている俑は10体です。10体ですが、人が多いので展示数が少ないと感じないです。ガラスケースに入っておらず、素のまま見ることができます。俑字体は「焼き物」ですからね。絵ではありませんし。同時代の日本でいえば、埴輪でしょうか。しかし、土の色をしているのが日本の埴輪ですが、俑は青銅色というか青~茶色です。当時の日本には無かった高度な焼き物の技術があったのでしょうか。
 兵馬俑の発掘当時の写真も掲示されていました。土の中に埋もれており、傾いたり、別の方向を向いていたり・・・・。長い年月、土の中だったので、かなり割れていた状態で発掘されたようです。

 俑には何らかの文字は認められません。何も刻んでいないようです。モデルとなった兵士、将軍、官吏の名前が刻んであれば面白いのですが。
 また、高さの説明がありません。展示品リストにも「高さ」が載っていません。別の解説では将軍は195センチくらいです。ジュニアガイドには、各兵馬俑の高さの記載がありました。兵馬俑の種類は、各一体ずつの展示です。
(以下の番号は私が勝手に振りました。)
1、兵士
 弓を構えたというか、傍らにもっていたと推測される兵士の姿です。この兵馬俑が一番多いのでしょう。ここに展示されている本物は一体だけです。
 兵士の物は、体型がやせています。兵馬俑はモデルがいるとも言われていますが、モデルとなった兵は皆10台から20歳台なのでしょうか?。
 老年とおぼしき兵士(の俑)は、お腹がでています・・・。昔は30歳半ばならば老年でしょう。俑の顔の表情から年齢を推定するのは難しいです。兵士の俑の顔は漢民族がモデルのようです。鼻が高く、目の堀が深い当時の言葉でいう「胡人」のような姿の俑は(展示や複製を見た限り)はありませんでした。意外と俑の高さがある。等身大よりもやや大きく制作したように感じます。(「高さ」については将軍の俑の文章で後述。)

2、お腹のでかい道化師。メタボ腹です。「雑技」とありました。
 棒は失われていますが、タテとヨコ向きの長い棒を二本持っていたそうです。太っています。芸事のためにわざと太っていたのか、兵士ではないので 中年以降の太った男が従軍していたのか。
 彩色がされていたそうで、映像でも解説されていました。リアルです。色の残った発掘当時のものの写真もありました。

3、展示スペース真ん中付近に 「将軍」。
 将軍は冠羽根というか、冠の布が長いので位が高いことがわかるそうです。将軍は約6000のうち、わずか10体しか見つかっていないそうです。すると600人に一人。実際には千人から数千人に一人くらいの隊長格だったのでしょう。年齢は分かりませんが、兵士よりも上のようにも見えます。が、俑その物自体が大きいです。身長に関係なく、大き目に作成したようです。威厳のためでしょう。

↓ ジュニアガイドより。
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 壁沿いのガラスケースに 小さい俑の展示がありました。説明によると もともと秦には 俑をつくる風習があったそうです。しかし、王国時代の秦の俑は高さ15センチから20センチくらい。騎馬、侍従、女官など 展示品には名づけられているのは侍従や女官のように見えるものだからであり、実際とは違うかもしれません。馬や穀倉の俑もありました。大切だったから、模った俑を作ったのでしょう。穀倉とは小麦やコメだったのでしょう。馬と穀物。国力のバロメーターです。
 恐らく彩色はされていたようで、ある俑には釉薬のような緑色が残っていたような。小さい俑の制作年代は紀元前300年までもいかない時代。始皇帝の登場の少し前の時代のもの。急激に大きな俑が制作できたのは、なぜだったのでしょうか。大きな俑はここ以外に発見されていないのでしょうか。
↓ ジュニアガイドより。
 
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4、立射俑
 秦時代・前3世紀 西安市臨潼区 秦始皇帝陵 2号兵馬俑坑出土  秦始皇帝陵博物院蔵
 始皇帝の時代は「紀元前三世紀」になってしまいますね。少し時代の下った漢の高祖は「紀元前二世紀」です。
「弓の準備、完了 半身に構えて遠くを見据えている。もともと弓か弩弓に矢をつがえて待機している兵士の姿を表したもの。 鎧ではなく、上着を身にまとい革帯で留めています。動きやすい軽装備の射手。」
とのウェブサイトの説明。弓を射るということは、比較的後方にいるので、軽装備で鎧は付けていなかったのでしょうか。接近戦になったら、どうしたのでしょう。私だったら、逃げますけどね(笑)。すぐに、背後から切り付けられて討ち死にですね・・・・。

 
 5、軍吏俑
 秦時代・前3世紀  西安市臨潼区 秦始皇帝陵 1号兵馬俑坑出土  秦始皇帝陵博物院蔵
 ウェブサイトの説明より
「二の腕まで覆う重装備の鎧をまとい、頭に板状の冠を載せています。前に出した左手の角度から、
当初は何らかの武器を少し傾けて持っていたものと推測されます。いかにも豪傑風の髭をもつ部隊長級の人物です。」
 説明文から察すると軍の後方支援を担当する吏員というよりも、戦いの指揮をとった隊長という推定のようです。日本語に訳すと「軍吏」となるのでしょうか。将軍に対して「隊長俑」と名付けとも良いのでは?と思いました。
 
6、跪射俑
 秦時代・前3世紀 西安市臨潼区 秦始皇帝陵 2号兵馬俑坑出土 秦始皇帝陵博物院蔵
「片膝を立てて、緊張した表情で前方を見ている。攻撃命令を待っている。鎧を着た重装備の弓兵で、立射俑とは異なる部隊を編成」。とのウェブサイトの説明。
 より重たい、つまり殺傷力のある弓を射た部隊なのでしょう。

7、8、博物館のウェブサイトには写真や説明がありませんが、「騎兵像」は馬を下りた、兵士のと馬の「兵馬俑」でした。馬を下りて、手綱を持つような手の恰好です。独立しているので、(ここでの展示の)設置のときに馬の横に侍立して立たせたのでしょうが、もともとは、埋葬当時もセットで立っていたと推測されます。先の銅車馬のように馬具まで再現しています。こちらは焼き物なので精度はかなり落ちます。

↓ ジュニアガイドより。跪射俑。弓の復元品の展示もありました。(後述)


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9、10、馬の御者と馬てい。
 御者は先の「銅車馬」の一号の御者のように立っています。当時、御者は立って乗ったようです。

 出口に近い壁面(の騎兵俑のそばですが)に「石鎧」の展示がありました。日本の鎧は肩を保護する帷子というのでしょうか、その部分が、石を紐で通した鎧です。石を加工する技術があったのでしょう。非常に重かったでしよう。どうやって行動したのでしょうか。軽くて丈夫に素材を開発しなかったのでしょうか。火には強いてのでしょうが。その他弓の復元品や鉾、などの軍隊の武具、用具の展示がありました。


 最後に撮影コーナーが設置されていました。模型の兵馬俑をパックに撮影ができます。係の人もいてカメラを預けて写真撮影をしてもらえます。
 
 総括です。
 肝心の兵馬俑はオリジナルの数が少ない。何かの媒体では「兵馬俑は一体も無い」ようなことを書いていたようで、私も入場するまで本当にあるのかなと誤解していました。先入観とは恐ろしいものです。もしかしてライバル媒体の情報?かとも思いました。あとで銅車馬も複製と知ってがっかりしました。あれだけスペースを使って展示していたのに。複製ならばもっと近づいて「始皇帝の世界」を間近に感じたかったです。「壮大な」という形容詞がふさわしい博物展なのですが、内容は上述のとおり私的には微妙です。

↓ 撮影コーナーでは皆さん盛んに記念撮影をしていました。
  背景、壁面の山と森の様子に注目です。

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