2015年9月21日の月曜日、北海道旅行2日目。
  
  
 「旭川兵村記念館」にやって来た。旭川神社の境内と隣接している。神社の社殿の手前に博物館の建物がある。

↓ 旭川兵村記念館の建物の横に「加藤の松」がある。 
  展示室に資料のあった、故・加藤少将ゆかりの松で、移植したと説明にあった。
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 ここ出身のパイロット 加藤建夫少将ゆかりの松で移植されたそうだ。

 学校は校門のところに「旭川市立旭川中学校」と校名がある。門はあるが、学校地の周囲はフェンス、塀で囲っていない。土地が広いし、防犯上も問題無いので、必要ないのだろう。
 「なぜ、旭川中がここにあるのか??」と思った。旭川の街はここから西にある。旭川の中心街からは遠い。なのに、ここは「旭川中」、そして「旭川神社」もここにある。

 公有地の開発の特別展があった。三つの屯田村。当麻、忠別、旭川があったそうだ。永山を入れると四つになるが、記憶違いだろうか。
 特別展の展示室は、常設展よりも小さい。再び館の方が説明をしてくださる。私達の他に見学者がいない。貸切状態での見学であった。
 まず最初に「公有地とは何ですか?」と聞いてしまった。というか、一般に「公有地」と言われても分からない。国有地のことだろうかと思った。自動的に北海道の地は、国の土地「国有地」になったのだと勝手に思っていたので・・・・。

 館の方は、展示の地図を見ながら「この辺が、公有地。下公有地と呼ばれていた・・・・。」と説明。
 「公有地」は「下公有地」と呼ばれる地域が地図で示してあり、共同で開拓したようだ。今の南側、忠別=チュウベツ川に囲まれている。屯田兵の集落から離れた森林や荒れ地付近のことらしい。
 ここを開拓して、畑や水田にしたもよう。「土地すべてが公有地ではなかったのですか?。」と聞こうかと思うが、時間もないので割愛した。理解しながら、見学するとゆうに1時間は経過してしまう。
 「公有地」に対する言葉として、「私有地」、「国有地」という言葉が頭に浮かんでは消えた。未だに解決していない・・・・。ボクの頭では(笑)。
 
  壁には、電車の写真も貼ってある。汽車ではない。電車である。旭川の市内から東旭川、旭山まで電気軌道が通っていた。電車はワンマンカーのようで、江ノ電というか、現在の都電で走っている車両のような形状だ。

 屯田兵の苗字が先ほど、常設展示の中で気になった。特に珍しい苗字は無いし、現在の日本の十大姓がことさら多いわけではない。
 出身県のグラフがあった。東旭川では香川、愛媛が多い。京都もいる。どちらかというと、西日本にかたよっている。四国といえば、私のルーツのひとつだ。気になる・・・・・、聞かずにはいられない(笑)。特に愛媛特有の氏の家は、地割り図には、あまりなかったと思うが・・・。
 「四国の出身が多かったのですが?」と聞くと「そうですね。京都出身の家も45戸いた。上川離宮計画があり、そのために京都の人が多く移住した・・・。」と新たな説明を聞き、驚いた。
 と館の方は「この辺が、上川離宮の予定地でした。結局は実現しませんでしたが・・。」と地図を示した。現在の旭川駅の更に南、忠別川と石狩川が合流する手前の南岸の河岸段丘の上と言うのが、よいのだろうか。
 本当はここに皇室の離宮が来る予定だった。
 「どうしてもここには旭川中があるのですか?。現在の街中が旭川ではないのですか?」との問いには、
 「この付近が、元々旭川と呼ばれていた。現在の市街地は忠別と呼ばれていた。」とここでもうひとつの屯田村の名前が出てきた。旭川中がこにある理由は、私にも想像がついたが、その通りだった。

 私は「(忠別とは別の)もうひとつの村 トウマは、奈良に由来するのですか?」
答「(当麻寺は)奈良にあるようですが、こことは関係ないです。」
 時間もおしてきたので、残念だが、ここで見学は切り上げることにした。
 「四国の人などここに来た人は、士族が基本なのですが?。どの藩の人ですか?。香川出の人は、高松なのか、愛媛は南予 宇和島なのか、大洲なのか、中予の松山なのか?」など聞きたかったが、質問しているとキリが無くなってしまいそうだった。

 兵村記念館の見学を終えて、車で出発したところ、道路脇の土地に記念碑があることに気付く。碑は、中学校の敷地の中にある。グラウンドでは野球部の生徒達が練習をしている。部活に連休は関係ないようだ。グラウンドが広いので、記念碑のところまでボールは飛んでこない。生徒達は盛んに声を出して練習をしている。
 見ると、屯田兵の開拓の記念碑だった。「東旭川開村記念碑」だ。
 入口付近 というか、道路の「L」字に曲がる地点にある記念碑だ。旭川中の敷地の中の道路に近い外れにある。フェンス、塀はないので自由に入ることはできる。

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 開拓碑の説明。
 記念碑自体は明治41年8月と開拓からほど近い年代に建立されている。開拓開始から16年しか経過していない。つまり、開拓初期入植者は相当数在住していたのではないだろうか。

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 碑文の揮毫は陸軍中将 上田有澤。かつての第七師団長で、ここ東旭川の屯田兵でも顔を知っている者は相当いたであめう。日露戦争の後、元師団長閣下を碑の除幕式に来賓として招いたかは分からないが、揮毫を頼んで碑を建立したのだろう。 
 建立は明治41年6月のことのようだ。前年の9月に日露戦争の論功行賞がおこなわれ、陸軍中将 上田有澤は男爵を受爵。萩の旅行記でも書いたと思うが、伊藤博文はこのとき侯爵から華族最高位の公爵に。森鴎外に関連して書いたが、鴎外と大学同期の上官、小池正晃は男爵を受爵している。

 標識の別の面には「屯田兵練兵場跡」とあ。村の集落に隣接してあった広場、グラウンドのような土地はここで、練兵場だったのだ。現在は旭川中のグラウンドやテニスコートがある付近を中心としたエリアだろうか。


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 北方向。鳥居の向こうが動物園通り。鳥居は鉄で出来ており、茶色にペンキが塗られている。巨大だ。
道路の傍らには、旭川中のグラウンドがあり、野球部が練習をしていた。道路とグラウンドを区別するのは、ボールよけのネットしかない。
 それにして、空が高く。青い。いや、蒼い。空気が澄んでいるからであろうか。いいお天気だ。気持ちよいな~。

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 (下は先日は記事で掲載の写真)
 東旭川の集落から進み、動物園通りを動物園方向に走った先にある。ある地点。住宅と畑の混在地域だ。とうもろこしなどを畑で栽培している。

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