2015年9月21日の月曜日、北海道旅行2日目。
  
 網走の市街地郊外、「博物館網走監獄」の見学。 ここは、地獄への一丁目。人呼んで、網走の番外地、極寒の監獄。入ったからにゃ、出られない。その名も「網走監獄」房舎よ・・・・・。というのは言い過ぎで、今は平和な「博物館」。
 さて、脱獄王「白鳥」のことを聞いて、中央部の「見張り所」まで戻ってきた。「房」は、放射線上に伸びて五本あるが、どこも同じ造りで(当たり前だず)、分からなくなってしまう。全部の房は見なかった。個々に展示してある物は違うと思うが・・・。

 ↓ 中央の見張所からまっすぐ伸びる房の廊下を見る。
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 ↓ 入って、一番左の房と廊下。その横のスペースでミニ企画展示があった。
  先ほど、説明を聞いた「白鳥よしえ」ともう一人の脱獄囚のお話だった。
  題して「2人の脱獄王」


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 ↓ 白鳥由栄(よしえ)のこと。
  女性のような名前に見えるが、男である。彼の年賦によると生い立ちから壮絶である。
  なぜ犯罪に走るか?、その防止策はというと・・・・子供の頃からの「教育」が一番重要ではないかと思った。次に「家族」の存在、「成育環境」だ。いずれかが、欠けている(しまう)と簡単犯罪に走ってしまうのではないか?。もちろん、同じような境遇の人、全員がそうでは無いが・・・。
 犯罪を防ぐには、厳罰以外にも幼少児からの教育など「川上」の部分も大切なのではないかと考えさせられてしまった・・・・。

 ↓ 脱獄の手順というか、方法の解説。

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 ↓白鳥の写真や年賦がある。
 房舎の前でも説明板があったが、過去にも脱獄している。しかも、網走から昭和19年に脱獄した後には、殺人を犯して、二年間も潜伏している。 
 再び捕まったのは、日本が戦争に敗れた後のこと。戦後の混乱期に脱獄殺人犯が潜伏していたとあっては、当時の治安はどうであったのでしょうか。敗戦後の混乱で、刑事事件の犯人一人さえも捕まえる余裕は無かったのだろうか。
 その後もまたまた脱獄し、再び捕まり・・・。しかし、殺人から別の罪状になり、いわば減刑され、服役。昭和30年代に仮釈放された。何と模範囚として。そして、十数年「シャバ」で暮らし、70歳を過ぎてから死亡・・・。戦後も長く存命していた。  

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 白鳥の脱獄は、昭和19年のこと(以前もあったが)。戦争の激化で、看守などは出征し刑務所は人手不足であったのだろう。監視の目が行き届かなかった。元々脱獄の「ノウハウ」は持っていたうえに、戦時下の非常事態だったからこそ、三度(みたび)?脱獄できたのかも。
 しかし、犯罪を犯した人が内地の刑務所で守られて暮らし、戦後も命をまっとう。「名誉」のもと、ふつうの生活を送る人がある日突然召集されて、激戦地に送り込まれて悲惨な戦いの末、戦死を遂げる、あるいは敗走の末、自決に追い込まれた人も相当にいただろう・・・・。それも数万人だったかも知れない・・・・・。
 凶悪犯罪をして、法の裁きを受けて死刑になる人と、戦争での様々な形での死とどう違うのか・・・。死に対する死に直面するときの意識の問題なのか。死刑は不名誉で、戦死、戦病死(その状況は上でも書いた通りいろいろとあると思うが・・・・。)は国家のための名誉だからなのか。違いは何なのか。死とは何か、人の命の重さとは何なのか、兵役とは何か、犯罪による服役、刑罰、ひいては極刑たる死刑とは何のためなのか?、この戦時下の脱獄事件の経緯を知って、複雑な気持ちになった。

 ↓ 明治の脱獄王、西川のことも説明がある。


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 物理的に柵を壊すというか、超えることができることが、脱獄の第一歩ということか。もちろん、現代では、もはや通用しない方法です(笑)。時折、南米などではニュースで耳にするが・・・。「穴」を掘ったりと・・・。


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 「房舎」を出て、まだ見学をしていない「監獄歴史館」へ歩く。
  ↓ 「房舎」の端まで歩いた。長い。鉄格子がある意外は、普通の学校のような建物。

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 農場がある。ひまわり畑で「種」の収穫をしているのだ。「ひまわりの種」から油を搾り、食用油にもなるし、ランプの灯りとなったのだ。
 というのは、想像で、畑にするのは、人形だった・・・・。


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 ↓ ひまわり畑の横から「房舎」遠景。
   右が、横に伸びる房、ななめに伸びる房がもう一本見える。横から見ると「五本」房舎があるようには、見えない。「L」字に見えるが「V」字である。

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