2016年7月の雨の日。

 新宿の中村屋サロン美術館にやって来た。生誕150周年記念 「中村不折の魅力」の見学。

 美術館の入口は中村屋ビルの3階。「純印度式カリー」の食事を終えて、レストランのある地下2階からエレベータで上がります。
 3階でエレベータを降りると、例のブライダル旅行サロンのお出迎えの方がいます。店頭には「ウエディングドレス」が飾ってある。美術館に来る人は、ほぼ皆、ブライダル旅行サロンのお出迎えを受けることになるのでしょうか?。
 私が訪れたときも、エレベータを降りて美術館に行く人が、(ブライダルサロンの人に)「こっちですか?」聞いていた・・・・。もちろん、美術館の入口のことを・・・・・・。

 受付で入場券を購入。レシートと新宿中村屋のお店での割引券がもらえた。割引券はレストランでも貰ったのだが。ダブルでゲットした(笑)。
 私と同じエレベータに乗って、3階で降りたのは、いずれも女性で3人いた。一組は母と娘のよう。母は、相当高齢で小柄。明らかに80歳以上。娘は60歳前くらいか。もう一人は、おひとり様の女性で、50歳台くらい。かわいらしいワンピースを来ている。生地の色は深い緑や暗い水色の寒色系で地味だが、花柄、唐草の模様。
 受付近くの展示スペース(壁で区切られた部屋にはなっていない。エレベータ前の廊下とつながっている。)には、私も含めて7-8人くらいは、作品や解説パネルを見ている。平日のランチタイム、見学者は比較的多いように感じた。
 
  新宿中村屋ビルの地上の入口。美術館もこちらから。 ↓

IMG_4369


 「中村不折」、本名は知らないが、夏目漱石の作品に付いている年賦には必ず出てくる人物だ。以前から名前だけは知っているという人は多いだろう。もっとも、漱石の友人で満鉄の総裁を務め、漱石を満州に招待もした「中村是公」と混同している場合もあるが・・・・。
 荻原碌山(守衛)とも密接な関係にあったことが知られているし、事実、碌山美術館での碌山の年賦や解説にも「不折」の名が出てくる。そして、森鴎外とも密接な関係があったこと、墓碑の揮毫は、鴎外自身が遺言で不折を指名していたことを、昨年、文京区津和野の鴎外記念館を見学して知った。その有名な「森林太郎之墓」の墓碑が不折の書であることは、以前、何かの本で読んだ記憶はあったが・・・・・・。

 鴎外と漱石を結び付け、なおかつ近代日本で最も重要な彫刻家である碌山とも密接な関係にあった人物「中村不折」とは一体どのような人物であったのだろうか?。
 昨年の鴎外記念館の展示にもあったが、「鴎外」と「漱石」自身は、手紙のやりとりはしていたが、実際には4回ほどしか会ったことが無いというのに・・・。不折は彼ら二大文豪とどれだけ親しい付き合いがあったのだろうか?。

 展示スペースの壁には、洋画が展示してある。まずは、フランス留学時代の師であったフランス人の画家の作品。次いで、留学時代の油彩画の展示が並んでいる。
 「あれ、不折は、書家ではなかったの?。」の疑問が・・・。「書」の展示が中心と思ったが、展示スペースを見回した感じ、絵画のみ・・・。「えっ、不折は画家だったの?。」と知りませんでした(苦笑)。
 
 絵画を展示している壁とは反対、店に近い壁には、年賦や写真の展示があった。
「不折」が写った集合写真が何点かある、以前もここや、安曇野の「碌山美術館」で掲示があった中村屋関係者との記念写真にもその姿が写っているし、明治42年文展西洋画部門での審査員の集合写真の前列、向かって中央左側にもその姿がある。写真の解説では「不折」のみを「→」示しているが、文展審査員の後列中央、不折の斜め後ろには軍服姿のやや禿頭の男の姿が・・・・・・・。紛れも無い、鴎外 森林太郎その人であった。その右、人物群の端に近い立っている恰幅のよい背広姿の人物はこれまた紛れもない、洋画家の「黒田清輝」子爵だ。
 鴎外についても黒田についても、掲示写真では、解説が無い・・・・。知らないと見過ごしてしまう・・・。せめて「鴎外、黒田らと」と写真に(一緒に写っている人物名を含めて)解説を入れて欲しかった。残念だ・・・・・・。
 鴎外は当時、陸軍軍医総監(中将相当)で陸軍省医務局長。軍服を着つつも、審査員もしていたのですね。写真は白黒で鮮明ではないので、鴎外の軍服の肩章の「星の数」は判別できない。が、兵隊の肩章ように赤い色が多くは無い、金色地の割合が多い将官の「ベタ金」といわれる階級章だ。軍服の襟の色も白黒写真なので判別できないが、軍医は「深緑色」であった筈。

 当時の鴎外は40歳台後半の筈。が、ずいぶんと現代感覚からすると老けて見える。確かに、右に体がやや傾いている。文京区の鴎外記念館で見た鴎外の死去の前年の映像にもつながるが、あの映像では、右に体を傾けてかばうように歩いていた。この時から、右に体が歪んでいる・・・。鴎外は、意識しないと体直立不動の姿勢はとれずに、自然体だと体が右に傾いたのだ・・・・・。
 彼自身、医師であったのに自分の体の歪みについて意識していなかったのだろか?。悪い姿勢は、病気に繋がっていることを気付かなかったのか?。
 写真前列中央のヒゲを生やしているご老人は分からなかった・・・・。
 不折自身は小柄である。鴎外よりも更に小柄のようだ。丸い顔をして、ヒゲを生やし、愛嬌のある表情。不思議と鴎外はしかめっツラで写っている写真が多いにうよ思うのは、気のせいか・・・・・。

 不折の年賦には、慶応2年に現在の「中央区新川」の生まれとある。江戸っ子だったのだ。江戸の下町の出の「江戸っ子」かな?、と思いきや。明治4年かに、信濃の高遠に一家で引っ越しをしている。「維新後の混乱を避けるため、母の郷里である高遠に移った。」とある。
 年賦のボードには、高遠は「母の郷里」とあった。「父の郷里」とは無かったと記憶する。碌山とは信州の同郷であったことが分かった。そうか、信州繋がりか!と理解。すると、高遠からほど近い、南信州、飯田出身の「菱田春草」とも繋がりが出てくる筈だが、企画展では解説に「春草」の名は一切登場しなかった。

 昭和時代、老年期に入って不折は本名を「不折」と改名しているが、本籍地の「高遠町役場」に届け出た、とあった。終生、本籍地は高遠のままだったようだ。彼は、父の死後「戸主」になったと年賦にあった。すると、本籍地の高遠は父の代からの本籍地であり、父の故郷では無かったか。

 ↓ 展示リストと入場券。
   前回の訪問時は入場券は無かったと記憶するが、今回は入場券があった。

IMG_4378