2015年12月6日
博物館明治村 旧歩兵第六連隊兵舎 見学1
↓ 説明板。元々細長い兵舎を切り詰めて、ここに移築している。
説明によると「歩兵第六連隊は、名古屋に置かれていた・・・・。名古屋城跡に兵営が設置され、営庭を取り囲むように設置された。明治村へ移築されたのは第10中隊で、兵営は約7割程度に切り縮められた。」とある。
昔行ったことのある名古屋城は広い砂利の広場のような所もあったと記憶する。明治以降、昭和戦前期は、軍隊が置かれていたのだった・・・。取り壊しされた跡地が、現在は名古屋城の天守閣のある本丸手前の公園のような一角なのだろう。体育館もあったかな。テレビでも映ることがあるが。
営庭の様子と取り囲む兵舎の敷地図面も解説板に掲載されている。兵舎の配置平面図を見ると現在の本丸の南東、どうやら、かつての名古屋城二の丸庭園の南に位置していたようだ。庭園のような地図表示が営庭の北(平面図の上)にあるので。
東京にある旧第三連隊の兵舎跡は見たことがある。つまり、国立新美術館の敷地内に保存されている。解説の写真や模型が、旧兵舎の一部を利用した「別館」に展示されている。(平日の開館日の開場)
ここ明治村での移築兵舎では、兵隊サン達が起居して部屋の様子などの再現がされている。説明によると下士官と中隊長室は本来は二階だが、一階で再現されているそうだ。
旧兵舎の二階部分は、射的の遊び場と長い廊下の先の部分はまっくらにして、暗室の体験場だった。別料金で遊ぶことが出来るようになっている。昔の兵隊さんもびっくりだ(笑)。
↓ 「歩兵第六連隊兵舎」の看板。(現在字体で表示)。明治六年の建築と古い。
本当に軍隊の草創期に建築された建物。
今ではオリジナル「プリントシールマシン」が置かれ、すっかりアミーズメント場に(笑)。平和っていいな~。
↓ 各部屋の解説。 中隊長の部屋は、本来、二階にあった。偉い人は二階に陣取るということか。
下士官室のいる事務室も二階にあり、上から兵隊達にニラミを聞かせていたということか・・・・。
奥が特務曹長の席。どーんと中央にデスクを構えている。両脇には、曹長サンがいる。更に
軍曹が二名か三名配置されている。「鬼軍曹」の由来ですね(笑)。
当番兵のイスと机も。下士官連に囲まれ、何か気の毒な感じが・・・・・(笑)。
↓ 廊下。端はおみやげ物屋さん。ああ、平和だ。ほっとするな~(笑)。
隣には、「中隊長室」の標識。この兵舎のドンのお部屋です。
通常、中隊長は大尉だった。その下に中尉と少尉が数名配属され、中隊の将校として勤務していた。兵隊の訓練、指揮に当たったのだろう。
その下には、特務曹長以下の下士官が配置され、中隊の事務室で実務を担ったのだろう。普段、兵隊を鍛えるのは、下士官の役目なのかな。怖いな~・・・。
明治時代の日清、日露戦争の期間を除く、普段の軍隊の兵舎生活では、中隊長の大尉は基本的に士官学校を卒業していわゆる「職業軍人」として任官し、少尉から中尉、大尉と昇進して、就任していたのだ。
↓ 兵舎内の部屋の再現の様子。見習士官の部屋だったと思う・・・。
机がちゃんとあり、ベッドが二個ある2人部屋。
博物館明治村 旧歩兵第六連隊兵舎 見学1
旧宇治山田郵便局、かつての鉄道の工場「鉄道寮新橋工場」「機械館」を見学、急な階段を昇ると、旧歩兵第六連隊の兵舎の前に出る。
木造の簡素な建物。兵舎なので、豪華なレンガ造であろうはずが無い。しっくい?で壁を塗っているようだが、極めて、シンプルで実用的な建物だ。
登録有形文化財 指定。
↓ 説明板。元々細長い兵舎を切り詰めて、ここに移築している。
説明によると「歩兵第六連隊は、名古屋に置かれていた・・・・。名古屋城跡に兵営が設置され、営庭を取り囲むように設置された。明治村へ移築されたのは第10中隊で、兵営は約7割程度に切り縮められた。」とある。
昔行ったことのある名古屋城は広い砂利の広場のような所もあったと記憶する。明治以降、昭和戦前期は、軍隊が置かれていたのだった・・・。取り壊しされた跡地が、現在は名古屋城の天守閣のある本丸手前の公園のような一角なのだろう。体育館もあったかな。テレビでも映ることがあるが。
営庭の様子と取り囲む兵舎の敷地図面も解説板に掲載されている。兵舎の配置平面図を見ると現在の本丸の南東、どうやら、かつての名古屋城二の丸庭園の南に位置していたようだ。庭園のような地図表示が営庭の北(平面図の上)にあるので。
東京にある旧第三連隊の兵舎跡は見たことがある。つまり、国立新美術館の敷地内に保存されている。解説の写真や模型が、旧兵舎の一部を利用した「別館」に展示されている。(平日の開館日の開場)
ここ明治村での移築兵舎では、兵隊サン達が起居して部屋の様子などの再現がされている。説明によると下士官と中隊長室は本来は二階だが、一階で再現されているそうだ。
旧兵舎の二階部分は、射的の遊び場と長い廊下の先の部分はまっくらにして、暗室の体験場だった。別料金で遊ぶことが出来るようになっている。昔の兵隊さんもびっくりだ(笑)。
↓ 「歩兵第六連隊兵舎」の看板。(現在字体で表示)。明治六年の建築と古い。
本当に軍隊の草創期に建築された建物。
今ではオリジナル「プリントシールマシン」が置かれ、すっかりアミーズメント場に(笑)。平和っていいな~。
↓ 各部屋の解説。 中隊長の部屋は、本来、二階にあった。偉い人は二階に陣取るということか。
下士官室のいる事務室も二階にあり、上から兵隊達にニラミを聞かせていたということか・・・・。
↓ 中隊の事務室の様子。下士官が行ったことが分かる。
軍隊らしく軍刀置き場がある。
軍隊らしく軍刀置き場がある。
奥が特務曹長の席。どーんと中央にデスクを構えている。両脇には、曹長サンがいる。更に
軍曹が二名か三名配置されている。「鬼軍曹」の由来ですね(笑)。
当番兵のイスと机も。下士官連に囲まれ、何か気の毒な感じが・・・・・(笑)。
↓ 廊下。端はおみやげ物屋さん。ああ、平和だ。ほっとするな~(笑)。
隣には、「中隊長室」の標識。この兵舎のドンのお部屋です。
通常、中隊長は大尉だった。その下に中尉と少尉が数名配属され、中隊の将校として勤務していた。兵隊の訓練、指揮に当たったのだろう。
その下には、特務曹長以下の下士官が配置され、中隊の事務室で実務を担ったのだろう。普段、兵隊を鍛えるのは、下士官の役目なのかな。怖いな~・・・。
明治時代の日清、日露戦争の期間を除く、普段の軍隊の兵舎生活では、中隊長の大尉は基本的に士官学校を卒業していわゆる「職業軍人」として任官し、少尉から中尉、大尉と昇進して、就任していたのだ。
↓ 兵舎内の部屋の再現の様子。見習士官の部屋だったと思う・・・。
机がちゃんとあり、ベッドが二個ある2人部屋。
(続く)
さて、私の祖父は、昭和の戦争の拡大期に軍隊に召集され、のちに内地(と、祖父は言った)の某所にあった軍の学校で教育を受けて将校になった。よって、戦地では中尉でも「中隊長を務めていたことがある。」と生前に話をしていた。
戦地であったから、元々一般人であった者も将校となって、戦地で指揮をとったのだ。よって、平時にこの兵舎の中にあるような中隊長室で執務したということは、勿論無かった。
祖父の赴いた戦地は、南方の激戦地ではなかったが、丸一年以上の戦地生活で、鉄帽(ヘルメット)も脱ぐことができなかった。「寝るときも、ずっとかぶっていた。だから、蒸れたんだ。」と言っていた。
さて、私の祖父は、昭和の戦争の拡大期に軍隊に召集され、のちに内地(と、祖父は言った)の某所にあった軍の学校で教育を受けて将校になった。よって、戦地では中尉でも「中隊長を務めていたことがある。」と生前に話をしていた。
戦地であったから、元々一般人であった者も将校となって、戦地で指揮をとったのだ。よって、平時にこの兵舎の中にあるような中隊長室で執務したということは、勿論無かった。
祖父の赴いた戦地は、南方の激戦地ではなかったが、丸一年以上の戦地生活で、鉄帽(ヘルメット)も脱ぐことができなかった。「寝るときも、ずっとかぶっていた。だから、蒸れたんだ。」と言っていた。