2015年12月6日 博物館明治村 旧歩兵第六連隊兵舎 見学2
かつて名古屋に駐屯していた旧歩兵第六連隊の兵舎。現在の名古屋城、二の丸の跡に衛戍地があった。第三師団司令部、他にも騎兵、工兵などの部隊なども旧名古屋城の二の丸から三の丸の地域に駐屯をしていたようだ。名古屋衛戍病院もあった。
旭川では第七師団であった。名古屋には第三師団とその隷下の部隊が駐屯していた。
ここ明治村での移築兵舎では、兵隊サン達が起居して部屋の様子などの再現がされている。等間隔でベッドが並ぶ。机のようなベッドだ、柵が無い。本当に使用していたのであろうか?。寝返りをうつと、落っこちでしまうくらいだ。私だったら、すぐに落っこちてしまう。「ううっ」と痛がっている間に、古参兵がやってきて、廊下に連れ出されて往復ビンタかな(苦笑)。いや、鉄拳制裁か・・・・。イヤだな~・・・・・。
もう一方の端の部屋は、展示室とかつての兵が起居した部屋の再現。
ガラスケースに展示がある。従軍記章で、つまり日清戦争と日露戦争に従軍した人の記章だ。ちょうど、十年間隔で明治の二大戦役を行っていたことが分かる。鴎外・森林太郎も両戦役に従軍しているので、当然持っていただろう。確か、この夏に行った津和野の鴎外記念館でも展示があった?。
↓ 辞令の展示。ここ歩兵第六連隊に配属された「計官」の辞令。階級は「陸軍二等軍吏」とあるので、経理将校であろう。
「兵卒応用歩兵野外要務」は漢字の羅列であるが、読んで字の如く、歩兵の野外で応用できる戦闘の方法の指南書というか、現代でいうマニュアルであったのだろう。兵隊さんの教科書であろうか。
徴兵されて入営した兵隊が、こうした「要務」などを理解するには、学校教育が重要であった筈だ。教育を受けて、「読み書き」が出来ないと、兵士として役に立たないことも意味する。
「酒保」の説明。現在では死語かも知れないが、日本に駐留する米軍の売店、PXを日本語で「酒保」と言うことがあるかも・・・・。神奈川県では、米軍の基地が多いので、基地の開放デーで、酒保の米軍版、PXを利用したことがある人も少なからずいるだろう。軍事郵便の展示も。 ↓
↓ 兵隊の部屋の再現。隣には、当時の銃の展示も。
近衛兵、少佐と少将の第一種軍装の展示。つまり、礼服であろう。パッと見ただけでは、区別がつきにくいが、少将は、金のモールが大きい。ズボンにも赤い線が入っている。帽子の白い羽というか、フサフサも大きいし・・・。
食事の再現も展示されている。朝は、ごはんと漬物くらいで簡素だ。夕方は、カツレツもある。「高カロリーでバランスは重視されていない。」と説明にある。
また「しかし、パンと洋食を取り入れた海軍に比べると脚気の発生率が高く・・・・。」つまり「患者が多かった。」とある。現在では、白米の摂取によるビタミンB1(だったかな・・・)の不足と知られているが、当時は知られていなかった・・・・か。
また「しかし、パンと洋食を取り入れた海軍に比べると脚気の発生率が高く・・・・。」つまり「患者が多かった。」とある。現在では、白米の摂取によるビタミンB1(だったかな・・・)の不足と知られているが、当時は知られていなかった・・・・か。
と、小柄なふっくらした女の子二人組が展示を見学している。会話「これ、警察みたいな??」と軍服を見る。「近衛兵」の表示については「きんえいへい?。何やってたんだろうね。」と会話。
↓ 小銃が壁を仕切る、柵のように展示されていた。「三八式」であったかは、知らない。
彼女たちは食べ物の模型の展示を見て「じゃあ 朝は何を食べていたのかなーー。」のように、廊下にでた後も軽い感じで話をして、移動して行った。彼女たちの会話でも「自衛隊みたいだね。」という言葉すらもでてきませんでした・・・・。ああ、平和だな~。「明治は遠くになりにけり・・・・」だ。
↓ 昼食の模型。 第六連隊ではなく、東京にあった第一連隊(現在のミッドタウンがかつての衛戍地。)の第九中隊の明治33年6月の食事。梅雨の時期だ。
時代としては、日清戦争の後、日露戦争の前、西暦でいうと、ちょうど1900年だ。
ごはんとカツは、現代の食事とほぼ同じだろう。が、野菜が極端に少ないし、副菜のマメの意味が・・・・?。
われらが、誇る日本の「ミソフスープ」、味噌汁は無かったのかな?。
↓ 夕食。
味噌汁が登場。中身は、ニンジンだけのようだ・・・・。豆腐が無い・・・。
主食の白米も無いようだ・・・。煮たのだうろか、大根とジャガイモ(馬鈴薯)。
現代の私達の感覚からすると、絶句してしまうような食事の内容。本当にこれで、戦争に勝てる兵隊を育成で来たのだろうかと心配になってしまった。(今さら心配しても仕方無いが・・・・。)
森鴎外が当時の軍医として大変有名であるが、軍医部では栄養学の観点から兵隊の食事の研究を本当にしていたのだろうか?。
↓ 廊下の様子と二階への階段。
↓ 二階は、昔ながらのレトロな雰囲気が漂う、射的場などの遊戯場があった。「お祭り気分」になれる。
今、旧歩兵第六連隊の兵舎は、ホントに平和です。
↓ 小銃が壁を仕切る、柵のように展示されていた。「三八式」であったかは、知らない。
彼女たちは食べ物の模型の展示を見て「じゃあ 朝は何を食べていたのかなーー。」のように、廊下にでた後も軽い感じで話をして、移動して行った。彼女たちの会話でも「自衛隊みたいだね。」という言葉すらもでてきませんでした・・・・。ああ、平和だな~。「明治は遠くになりにけり・・・・」だ。
↓ 昼食の模型。 第六連隊ではなく、東京にあった第一連隊(現在のミッドタウンがかつての衛戍地。)の第九中隊の明治33年6月の食事。梅雨の時期だ。
時代としては、日清戦争の後、日露戦争の前、西暦でいうと、ちょうど1900年だ。
ごはんとカツは、現代の食事とほぼ同じだろう。が、野菜が極端に少ないし、副菜のマメの意味が・・・・?。
われらが、誇る日本の「ミソフスープ」、味噌汁は無かったのかな?。
↓ 夕食。
味噌汁が登場。中身は、ニンジンだけのようだ・・・・。豆腐が無い・・・。
主食の白米も無いようだ・・・。煮たのだうろか、大根とジャガイモ(馬鈴薯)。
現代の私達の感覚からすると、絶句してしまうような食事の内容。本当にこれで、戦争に勝てる兵隊を育成で来たのだろうかと心配になってしまった。(今さら心配しても仕方無いが・・・・。)
森鴎外が当時の軍医として大変有名であるが、軍医部では栄養学の観点から兵隊の食事の研究を本当にしていたのだろうか?。
↓ 廊下の様子と二階への階段。
↓ 二階は、昔ながらのレトロな雰囲気が漂う、射的場などの遊戯場があった。「お祭り気分」になれる。
今、旧歩兵第六連隊の兵舎は、ホントに平和です。