2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」の見学です。
 まずは、地下展示室にある常設展を見ていく。

 ※「  」内の文章は、前回の記事の引用です。 

 「小さいモニター映像に生前の鴎外の姿がありました。短い映像です。(繰り返し、反復して映像が流れています。)」
 「当時、皇太子であった昭和天皇が欧州視察旅行を終えて横浜港帰着時の、お出迎えのときの映像でした。大正10年の秋の映像です。つまり鴎外死去の前年のことです。数多くの官吏がお出迎えをしたことがわかります。お出迎えを終わり?、別の場所に徒歩で歩くときの映像のようです。お出迎えを終えた官吏と思われる大勢の人々が歩いて移動しています。背の高い軍服を来た人物が2人で歩いている様子も映っていました。鴎外は映像画面の手前のほうに、ほんの "おまけ" のように映り込んだようでした。
 映像中の鴎外は、フロックコート姿です。現在私達の見る鴎外の公的な写真は軍服ですが、このときは、予備役陸軍軍医総監ではなく、文官、つまり(宮内省管轄の)帝室博物館総長兼図書頭としてお出迎えに参集したのでしょう。」

→ 映像は、前回見た内容と変わっていない。再度見ると前回の記事に書いた<背の高い軍服を着た人物が2人>は、見間違いで、互いに敬礼している軍人がいる。一人で歩いている軍人も見えるが、背は高くない・・・・。よーく見ると、鴎外の奥に背の高い、大礼服姿の人物が歩いている。

 ゴマシオ頭の白髪の人物だ。なんだか、西園寺公望のように見える。鴎外は、フロックコート姿で大礼服ではない・・・。鴎外よりも、もっと高位の文官のようだと推測。
 明治村に移築されている西園寺の別荘「坐魚荘」の玄関内部には、等身大の公望のパネルが置いてあった。身長は「169cm」と説明にあった。
 鴎外は見たところ160センチくらいと推測されるので、映像内の人物はだいたい、その位(公望)の身長だ。10cmくらい鴎外よりも大きい人物だ。よって、奥に映っているのは公望と(勝手に)断定(笑)。

 ガラスケースの端(見学者から向かって展示室の左の端にあたる)に、鴎外の遺言書の展示があり、改めて読んでみる。展示品が原本なのか、複製なのかは分からなかった。
 末尾に「言 森 林太郎  書 賀古鶴所 」とある。今回の企画展の主人公、賀古鶴所が筆記したことが分かる。鴎外は病臥しており、もはや起きて筆記することは出来なかったのである。
 更に下の部分には「男 於兎」とある。遺言の場に長男 於兎がいたような書き方だが、展示での説明にあるように、彼が没する年、大正11年の、春先3月に於兎と長女 茉莉は、欧州留学に出発しており、日本にはいなかった。そのとき、鴎外は港で見送っている。長男は留守だったが、嗣子ということで書きくわえたのだ。
 (あとで、展示リストを見ると遺言書は「複製」と書いてあった。)


 ついで、書簡などの展示を見ていく。前回も、作家、詩人などとやりとりした書簡の展示があった。(露伴などとの)。 今回展示があったのは、与謝野寛、伊藤左千夫、上田敏などからの葉書書簡。宛名面のコピーも展示されていて鴎外の住所は「千駄木団子坂上」で、番地が無くても鴎外の自宅にハガキはちゃんと届いている。
 木下杢太郎からの葉書もある。が、差出人は太田正雄と全く別人の名前。丁寧な文字で書いている。つまり、木下杢太郎はペンネームであった・・・・・・・・・・。 前回の訪問記でも書いたが、木下は、のちに鴎外の三男、類とも密接な関係にあったのだった。

 上田敏に関するミニ企画展示があった。上田とも誌上で論争をしている。が、個人的には親しくしていたそうで、上田は鴎外よりも10歳以上も年下。鴎外に師事?していたそう。大正5年、上田が急死したときも鴎外は、上田の家に駆け付けたそうだ。臨終には間に合わなかったらしい。

 常設展示室を見終えて、次の部屋へ。
 途中の壁に森家の系図がかかっている。前回も見たが、改めて見ると森家のある当主は西暦で1801年に死亡。
 覚馬の父は、森 高亮で1831年に死亡。次男で、西家に養子に行った覚馬の子が、かの「西周」。
 森家は、覚馬の兄が継いだが(または家督相続前に)、死亡した。その年は西暦で1819年のこと?。
 覚馬の兄弟には別の人物もいるが、一人は西家の親族である別の家の養子になっている。別の兄弟である更にその弟が「出奔」している。つまり、西周の叔父が、家を出て行ったことになる。その後、養女として木嶋家の娘がやってきた。この娘の夫が「森白仙」。つまり、林太郎の祖父。木嶋家出身の祖母は、明治39年まで長命であったことは周知の通り。祖父、白仙は西暦1861年11月に近江の土山で客死。その二か月後、1862年1月に林太郎が誕生。
(西暦と旧暦の対比がされていないので「11月」というのが太陽暦なのか太陰暦なのか系図の解説はっきりしない。)
 鴎外の母、峰子(みね)と周が「いとこ」のような「感じ」かな(みねは、養子の子なので西周と血縁は無い)。
 系図を見て、企画展示室へ廊下を歩く。

  ↓ 館の外にあった企画展のポスター。


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  「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」は、順路の先の小さい方の部屋での展示であった。
 「賀古鶴所」は一般には「森鴎外の親友」として知られる人物。それ以外に、彼の人となりや経歴を知るすべはほぼ無い。
 「余は、少年の時より老死に至るまで一切秘密無ク交際シタル友は賀古鶴所君なり。」は非常に有名な遺書の一節だ。「・・・余は石見人 森 林太郎として死せんと欲す。・・・・」
 更に遺書は「墓には森 林太郎の墓以外には、一切刻むべからず。墓の文字は、中村不折に依頼し、・・・宮内省、陸軍からの栄典などは固辞して一切受けるべからず。」と書いてあるのである。

 人生の最期に臨んた鴎外をして、そこまで言わしめた「賀古鶴所」は、いかなる人物であったのか?。

 今回の企画展の期間は長くない。前年の12月上旬から、年末年始を挟んで1月29日(日)までの二か月足らずの会期である。

 賀古鶴所は、写真でみると随分とおおらかな表情の人物である。人懐こい性格を感じる。目がキッとしていて、生真面目そうで、痩身で神経質で細かそうな鴎外とは、顔の表情が随分と違うような・・・・・・。

 まずは、展示室に掲示してある鶴所の略年譜を見る。(展示リストにも掲載されているが)
 鶴所は現在の浜松の出。医師の長男で、鴎外と共通点がある。展示の解説にもあるのだが、年齢は鴎外よりも6歳も上。大学南校?、東京大学で同期になった?ので親しくなった。
 が、鴎外が入学した当時は満15歳くらい。鶴所は20歳を超えている。鶴所が兄のような存在で、鴎外はまだ思春期のうぶな少年であったのではないか。友情というよりも、兄弟愛、師弟愛に近いものではなかったか・・・?。

 展示品を見ていく。
 身長、頭長に関するメモ書の展示がある。同窓生と書いたのかな。(展示リストでは、どれを指すのか判然としなかった。)それによると
 森 161.2cm。 頭長は忘れた。 「〇頭身」なのかも書いている。
 賀古 164.7cm 解説に鶴所は「当時の平均身長は160cmくらいであり、当時としては、賀古は大柄だった。」とある。
 小池 158.5cm 小池正直と賀古は同じ6頭身くらい。森がやや小さい。6.4くらいかな。寸尺法ではなく、西洋医学を学んだ者らしく「cm」で書いている。
 鴎外の身長が161と分かった。常設展示の映像や津和野で展示されていた大礼服から推定して「160cm
前後」と推測していたが、大体当たっている。鴎外は当時の平均よりもやや高かったとになる。
 
 次いで、奥の壁のガラスケースを見る。鴎外が軍医を決意した手紙がある。展示リストによると「明治14年11月20日付」だ。この年の7月に大学を卒業しているので、四か月後のこと。鴎外は、就職がしていなかった時期だ。「昨日は、来てくれてありがとう・・・・。」という書き出しで、書いてある内容は、難解なので理解しにくいが、「いろいろ悩んだけど、陸軍に入ります。」という内容なのでしょう(笑)。
 「軍医になるか迷っていた」という手紙も、津和野の記念館に展示あったが、書かれた時期は、どちらが先なのかな?。
 鶴所は、卒業後は軍医になる予定であり「在学中に陸軍の委託学生になった」と展示の説明にあった。よく知られるように「先に陸軍軍医になっていた賀古に薦められて」軍医部の高官に会ったりして「遂に軍医となることを決意した」のでしょう。
 鴎外、賀古、小池と同じく谷口謙の名前も先の常設展示での読売新聞のコピーに卒業生としてあった。医学部の同期卒業生は相当数、軍医になっている。

 賀古は、山縣有朋に随行して欧州に旅行をしている。そのときの写真の展示がある。陸軍のドン、長身の山縣を中心に随行者が写っている。旅行時期は、鴎外がドイツ留学から帰国したした後のこと。展示リストによると山縣有朋に随行しての欧州行は明治22年3月のこと。
 鴎外の小説「舞姫」で「天方伯爵に随行し、欧州にやってきた、主人公 太田豊太郎の友人 相澤」とは、このときの旅行のこと(山縣伯爵に同行した軍医 賀古鶴所)を指しているのだろうか?。
 
 私が企画展の室内に入ったときには、先客は既に出ていってしまっていて、隣のシアター室で映像を見ていた。その後、先客は、一階に戻っていってしまった。
 いつのまにか、展示室内には私一人だけとなってしまった・・・・。


 
(続き、オマケ)
 昔のことですが、鴎外に関するテレビドラマを見たことがあります。確かNHKでした。しかし、現在インターネットで検索しても鴎外に関するNHKのドラマは(私の知る限り)無いようです。民放だったのでしょうか?。
 鴎外を演じた俳優も忘れてしまいました・・・・。

 ドラマの中で鴎外は基本的に軍服姿でした。今日私達が鴎外を知るのは主に文学者としてです。その写真も着物姿のほうが知られているので、軍服姿とは意外に思いました。
 覚えているシーンといえば、日露戦争に出征し、戦場で砲弾がさく裂する中、他の軍医や衛生兵に指示を出しながら、自らも負傷した兵士を「ええい」とメスをふるって手術するものでした。
 もっとも、鴎外自身外科手術をしていたのでしょうか?。

他のシーンとしては
家庭で・・・・
 家の中で家族がケンカ。学生服姿の長男が反発、部屋を出ていこうとするシーン。荒れる長男に「オトちゃん!」と血相を変えて叫ぶ着物姿に日本髪の若い女性が・・・。この女性が後妻のシゲ(役の女優さん)だったのでしょう。今から思えば、しげと於兎が反発しあうシーンだったようです。
 次いで、家庭内のゴタコダから逃げて夜間早足で家の周囲を歩く(逡巡する)軍服の鴎外の姿・・・。ドラマ、映画によくでてくる詰襟、カーキ色の軍服です。襟の色が「深緑」です。一般にカラー映像で見る軍服の襟の色は赤(佐官以下の兵科色はあるが)というか緋色なので軍医の色が「深緑」だったことがわかります。
 なんか、家庭内をうまくまとめることができない(情けない!?)軍人さんのように映りました・・・・。