2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」の見学です。
 まずは、地下展示室にある常設展を見てから、企画展示室へ行った。

  ↓ 企画展のチラシ。

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 続いて展示を見ていく。室内は私だけになってしまった。入館締切時刻の17時半を過ぎても、あとから人はやってこなかったので、この日の入館者は私が最後ということになる。

 鶴所は、神田の小川町に自分の耳科医院を開設している。場所は小川町の51番地だ。50番地が家で隣に医院があったそう。当時の錦絵にも掲載されている。 絵を見ると、現在の靖国通りらしき通りの両側に、木造、瓦屋根で二階建てくらいの高さの家が並んでいる。現在の鉄筋コンクリのビルがひしめく風景とは隔世の感がある。
 鶴所は、医術開業試験を受けたのか?。その受験願か「医院の開業願」に、鶴所は「安政3年×月×日生」と書いている。鶴所は、実は安政2年生まれとの説があったが、この資料で生年月日が判明したそうだ。現在のような医師免許の制度ではなく、開業には別の開業試験があったのだろうか?。それとも、大学卒業者は「願」のみで開業できたのかは、分からない。

 「島」状に設置されている室内真ん中の展示ガラスケースの中には、賀古がモデルとなっている「ヰタ セクスアリス」の本がある。鶴所は、登場人物「古賀」のモデルとある。よく言われるように「賀古」と「古賀」で「そのまんま」だ(笑)。

 鶴所は、自分の医院(耳科院)を開いて、軍医として勤務していた。「二足のわらじ」というか、開業しながら軍務に服していたとは、随分とおおらかな制度??だ。
 日清戦争後に第五師団軍医部長に任ぜられたので、東京を離れることをきらい、年賦によると休職になっている。その後、明治34年に予備役になっている。鶴所は「鴎外よりも一足先に軍を退いた。」そうだ。
 日露戦争では召集され、一等軍医に昇進、最初は第二軍兵たん軍医部長、次いで遼東守備軍軍医部長に。
 従軍中の写真の展示があるが、写真には「賀古軍医部長」との文字が入っている。撮影した人が、賀古部長に名前入りで渡したのだろう。また、レンガ壁の建物の前で、イスの傍らに軍刀を持って立つ姿の写真もあった。
満州のどこかで撮影した写真であろう。
 日露戦後、明治39年の大学の同窓会の写真もある。同窓会の参加者のサインが書いてある。小池のサインもある。この同窓会に「賀古は欠席したようだ」とある。欠席した人に出席者がサインをして、後日送ったものだな。
 続いて鶴所が50歳のときの写真の展示がある。それなりに歳をとっているが、丸顔でおだやかな容貌、人ぶりだ。
 明治43年にも新聞の記事で「森鴎外という男」という記事が掲載されたり、生前、軍務の現役の頃から鴎外の作家としての、その人となりは報道されていたのだ。
 「常磐会」の写真もある。政府と軍の最高実力者 山縣有朋の歌会というのだろうか。元々、鶴所が参加していて鴎外はあとで鶴所から誘われて参加したのだったかな???。メンバーには井上通泰もいた。今回の展示によると、元々は鶴所の弟と井上が親しかったそうだ。井上の弟は、いうまでもない、柳田國男である。

  鶴所の妻が大正6年に亡くなったとき、友人総代は鴎外。事前に総代となることの依頼を手紙でしていた。そして新聞に死亡公告を出している。鶴所や親族の名前に続いて「友人総代」として森林太郎の名前があった。

 千葉にあった別荘、鶴荘と鴎荘の変額の写真の展示もある。鴎外の「鴎荘」の額は、現存しないとのこと。千葉の現在のいすみ市に300坪の土地を鴎外が先に買い、のちに鶴所が土地を買ったそう。しかし、鴎外はあまり、別荘に来ることはなく、母静子の療養生活用だったそう。「カモメ」と「ツル」がともにお隣で別荘を構えている。
 「鴎外」のペンネームは、親友の鶴所にひっかけて付けたのではないかと感じた。だって「鶴」と「鴎」で共に酉だから。いや「鳥」か?。今年は「酉年」(笑)。

 鶴所のめいの子は「しげる」。「淋」のような文字。「愛姪」の命名を鴎外が依頼されたそう。子がいなかったので、姪を子のように育てていたのだろうか。鶴所の書いた長い巻物の命名を依頼する手紙には、その末尾につけたしで「父 晋、母 カツラ、(めいのこと)。伯父に豊ゆたか、坦ひろし」と書いている。
 「伯父」と書き、恐らく年下の額田家の兄弟も「叔父」とは表記していない。鶴所の兄弟の名も書いてある。鶴所の弟は、桃次で、この姪の父らしい。親族にはこのような人がいるので、名づけのときに参考にしてね、という意味だろう。

 鴎外は「死去の前は6月に初めて医者にかかった。」と以前来たときに展示で見た。ようやく受診した医者は、この命名を依頼した子の父、つまり鶴所の姪カツラの夫、額田晋だったのだった。
 → 鶴所は「(鴎外は)決して診察に同意せず・・・。」と回想に書いていた。
 そして、鴎外の臨終。あの遺書を口述筆記することになるのだ。
 
 鴎外の死後も鶴所は生きた。時代が変わり、昭和5年の写真も、晋やその子しげる(漢字の文字が出ないので、以下ひらがなで表記)も後列に写っている。しげるは、10歳くらいかな。写真は東邦大学額田記念室の所蔵だ。
 小川町の賀古医院は、火災で焼けているのですね。大正時代にも焼け、火事の翌年には復旧と年賦にもあった。二回被災していた。
 そういえば、かつて神田錦町3丁目4番地住が、(鴎外の最初の妻の実家)赤松家だった。
 展示の写真の撮影された翌年、昭和6年「鶴所は急逝した」と説明にあった。

 鴎外の後妻、しげ子とも親しくしていたと資料にある。家族ぐるみで交流があり、子を連れて小川町の鶴所の家を訪れたこともあるそう。
  映像の放映もある。写真、資料の静止画が、数秒ごとにかわる映像(スライドショー)。賀古の写真や資料が上映されている。

 展示の末尾に協力者、団体の名前の掲載がある。筆頭に「賀古〇次」という方の名前が掲載されている。鶴所には、子がいなかったようだ。よって、弟「桃次」の子孫のようだ。 
 一通り展示を見た。
  階段を昇り、一階に行くと事務室から二名くらい黒服の女が出てきた。すでにいた、同じ黒服の係員女性とともに走って作業している。皆、50歳前後くらいのの女性である。(本日最後の入館者)私が帰るので、閉館準備を開始したのだろう。 地下一階には看視の女性が一人いて、展示室の入口に立っていた。時折、室内を巡回していた。その立ち位置は企画展示室も廊下ごしに直接看視できる位置だ・・・・。ずっと、企画展示室内にいる私の帰りを待っているようだ・・・。展示を見た後は、映像室は見なかった。看視女性係員から「早く帰れオーラ」が出ていたので(笑)。
 外に出ると、すでに真っ暗だった。閉館時刻間際の慌ただしい見学となった。

 晩年にいたるまで、鶴所の風貌は、おおらかな性格を感じさせる。いつも、ニコニコしていて穏やかな人だったのかな。なんとなく、おおらかな風貌は中村不折とも似ている。不折は小柄だったが、鶴所は当時としては大柄な方だった。
 

 


 (続き)

 鶴所は日露戦争では召集され、最初は第二軍兵站軍医部長。鴎外は第二軍軍医部長で軍医監の階級。似ている職だ。鶴所は兵站監部の軍医部長だったのだろう。日清戦争のとき、鴎外は「第二軍兵站軍医部長」であり、ややこしい。

 6歳下の鴎外は、アニキ的な鶴所と気があったのだろう。特に少年時代十代の鴎外は、当時20歳を過ぎていて大人だった鶴所に頼る部分も多かったのではないか?。だから遺言書にもある「少年の時より老死に至るまで一切の秘密なく・・・」に繋がってくる。少年のときの「秘密」といえば、アレしかありませんよ(笑)。男性ならばわかると思いますが(笑)。すべてのオレの秘密ごと、「秘事」を知っているのは、色々とアッチの方も教えてくれた鶴所君だけということカナ??。真相は、本人たちのみぞ知るということか・・・・。もはや確かめるすべは無い・・・・・。
 徳川様の武士の時代から間もない明治の初めの頃、出会った当初の少年の林太郎と大人の鶴所の間には何があったのか?。衆道の関係にあったのではないかと推測してしまうくらいだ。共に武士の時代の名残で、別に「そういう」関係も不思議なことでは無い。兄弟愛、師弟愛のような感情だったのか?。林太郎の成長と成熟とともに、鶴所と林太郎の「友情の形」は変わっていったのだろうか?。

 展示では「鴎外の妻[後妻]のしげ子や鴎外の子供達とも親しくしていた。」とあった。しかし、鴎外の没後は、鴎外の家族には、意外に冷たかったと以前読んだ娘、杏奴の回想本(題名は失念)にもあったと思うが・・・・。杏奴が賀古の病院に入院したが、賀古は見舞いに来なかった・・・・など。