2016年3月20日 お彼岸

 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 第6展示室「現代」の展示を見ていく。

  昭和11年5月に、佐倉の歩兵第57連隊は満州に移転している。1その満州移転の日程表が、満州の地図上に示されていた。船で大連に着き?、鉄道(つまり、満鉄)で移動し、チチハルに着いて、その後、本渓湖という南満州の炭鉱町に移動している。一旦、北満州に行き、南満州に戻っている。その後、再び北のチチハルに戻っている。

 昭和11年の満州移動当時の聯隊の将校、下士官の職員表の展示がある。連隊長で階級が大佐が山口直人大佐。連隊本部には連隊付の中佐がいて、副官の少佐がいる。旗手の少尉の名もある。
 「教主」の中佐が1人いる。「教育係主任」という意味だろうか。少佐は、あと二名くらいいる。隊長として少佐が三人いる。第一、第二、第三大隊の長。つまり、大隊長。その下に中隊がある。第一から第十一までの番号。第十二中隊はなく、「機関銃中隊」?がある。中隊長は大尉だが、代理の中隊長は中尉の階級の人もいる。「陸大」と書いてある隊長も。普段は不在で陸軍大学校に在学しており、籍だけ連隊の中隊長なのだろう。

 移動の翌年、つまり昭和12年にソ連国境にも近い、「孫呉に移動した」とある。移動は、大興安嶺、北安経由の線路だった。
 孫呉には、12年の8月以降に駐屯したようだ?。すると、当時でいう支那事変が拡大した後のことだったようだ。連隊の名前は「山口部隊」と書いてある。数字での「57連隊」の文字はない。アムール川沿いの国境の地帯に駐屯している。
 アムール川(つまり、黒龍江)の中国側、黒河の街の対岸にソ連の「ブラコビヒチェンスク」の街がある。この付近の地図は初めて見た。川が三本、アムール川に合流するところに「ブラコビ」の街があり、中国側、アムール川沿いに黒河の街がある。この街にも北安経由であろうか、鉄道(満鉄)の線路が開通している。

 黒河の南には、昔の条約で有名な愛軍(字が出ないので・・・・)アイグンの街がある。その南のやや奥地に南と北に分かれて孫呉の街がある。 更に川に沿った地域に、聯隊は駐留したようだ。同地での駐屯地の兵舎の模型もある。三角形の木造な兵舎を建てた簡素な陣地といったかんじだ・・・・・・・。

 次の展示は戦時下の生活の様子。物資が配給制となり、どんどん戦時体制が強化されている。日本全体としての展示として全国各地への空襲や広島・長崎への原爆投下に関するものがあった。
 敗戦の日の新聞の一面もコピーが壁に展示してある。昔、学校の資料集で見たことがあるな。たしか、このときは紙不足で、新聞は一枚だけだったはず・・・。「終戦のご聖断くだる」のような見出しだった。歴史の資料集には結構載っていることが多いので、私以外にも見たことがある人は多いだろう。見出しの記事についで社説が紙面の左側に掲載されていますね。
 
 その近くの天井から、日本各地を空襲したアメリカ軍のB29の航空機の模型で天井から吊り下げ展示されていた・・・・。私は、その写真を撮る気持ちにはなれなかった・・・・・。ただ展示模型を見上げるのみだった。

↓ 第6展示室「現代」の順路。
  向かって右の黄色のゾーン、戦前から見て、占領期を経て、ブルーの「戦後」の展示を見る順路。
  黄色のゾーンが細くなっていて「5.占領下の生活」に至る途中にB29の模型が吊るしてあった。


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 「戦後」へと展示を見ていく。


↓ 第6展示室「現代」の前の廊下。

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展示室6 「現代」 
 佐倉聯隊の展示に関して続き。
 
 昭和11年の満州移動当時の聯隊の将校、下士官の職員表の展示がある。連隊長で階級が大佐が山口直人大佐。連隊本部には連隊付の中佐がいて、副官の少佐がいる。旗手の少尉の名もある。
 「教主」の中佐が1人いる。「教育係主任」という意味だろうか。少佐は、あと二名くらいいる。隊長として少佐が三人いる。第一、第二、第三大隊の長。つまり、大隊長。その下に中隊がある。第一から第十一までの番号。第十二中隊はなく、「機関銃中隊」?がある。中隊長は大尉だが、代理の中隊長は中尉の階級の人もいる。「陸大」と書いてある隊長も。普段は不在で陸軍大学校に在学しており、籍だけ連隊の中隊長なのだろう。

 この佐倉連隊の満州移動については、昭和11年5月のことだ。「二、二六事件のあと」のこととは書いていない・・・・。が、この年の二月に事件があったのだ。満州移駐は、第一師団として行ったものであるので、二、二六事件が終結して、事後処理が一段落したあとに予定通り、移駐したことは明白だ。第一師団には二、二六事件を起こした将校が多く所属していた。佐倉連隊と同じく第一師団所属の歩兵第一連隊、歩兵第三連隊もこの時に満州に移駐している。
 翌年、佐倉連隊が移動を完了したときは、日中戦争(盧溝橋事件)の発生わずか四か月前のことだった・・・・。

 あと、満州の鉄路についてはある程度知っています。曾祖父が当時、満鉄勤務だったので。満州事変後の当時、新しい鉄路建設で、満州各地に行っていたのだそうです。時には、飛行機に乗り満州の大地の上空を飛んで、建設予定地に向かっていたそうだ。
 しかも、私と生存時期が重なっている唯一の曾祖父だったので、親しみがあります。

 話は変わるが、以前国立科学博物館にノーベル物理学賞受賞の小柴昌俊博士の昔の家族写真の展示があったのを見たことがある。写真には、陸軍将校の軍服姿の博士の父上姿がある。その隣に、あどけない笑顔の少年がいる。その少年が小柴博士であった。
 写真の解説によると昭和11年7月の夏休みに入った後の撮影とのことだった。ちょうど、57連隊が満州に移動していたときと同じ時期だ。
 博士の回想記や新聞などでのインタヴュー記事も読んだことがあるが、それらによると博士の父上は、職業軍人で階級は当時、少佐だった。豊橋の聯隊に所属していて、博士は豊橋の小学校に通う5年生だった。父上は、11年夏に満州に転属になりその出発前の時期に撮影した記念写真との解説があった。当時、博士の父上は、豊橋歩兵第18連隊付か大隊長であったのだ。