「二、二六事件」に関する講演会 拝聴記2 (善行雑学大学)

 今年の2月のことだ。「二、二六事件」に関する講演会を聞きに行った。
 「回顧80年 2.26事件とは何だったのか」 善行雑学大学 藤沢市の善行公民館で開催。
 講師は中田整一氏。(元NHKの職員)

 レジュメに沿って講演が進む。以下、私が聴いた内容を箇条書きの続きです。
※聞き違い、誤解があると思うので、ご承知おき下さい。

・日本画家・堀文子さんの生涯について刊行した中田氏の最新刊の案内。堀さんは女学校当時、二、二六事件を体験した。 (レジュメにも同 書籍の紹介がある。)
 堀さんの自宅は、二、二六事件の当時永田町にあった。事件の期間中はずっと家にいざるを得なかった。
 堀さんの言葉「女とマスコミがしっかりすれば戦争は起こらない」を紹介し、いかにもマスコミ人であった中田氏らしいお話。堀さんは、昨年ノーベル賞を受賞した北里大学の大村博士とも親交があるそうだ。
  
・二、二六事件は軍国化、右傾化の契機となった。言論が統制されていった。
 「事件から9年で日本は戦争に負けて破滅した。たったの9年です。」

 (以下、「事件」は断りが無い限り二、二六事件のことを指す。)  

・司馬遼太郎さんは、この約10年弱の期間を「悪魔の森の時代」と呼んだ。統帥権が濫用された。

・戦前、軍部の発表以外の事件の真相は一切報道されなかった。漏らすことは禁止された。戦後、5年くらいたってから当時の事件関係者、軍の将校、刑務所の看守がもらし始めた。

・NHK(の番組)で発掘した(中田氏らの)スクープが二つある。
 1、事件当時、2/27以降の電話を盗聴した録音盤がNHKに保管されていた。
 2、事件の裁判記録が、当時の法務官の自宅に保管されていた。
 事件に関する番組の放映後、匂坂春平(さきさか しゅんぺい)法務官の子息からNHKに電話があった。

・事件を起こすことを統制派は分かっていた。
 事件が起きたら、それを利用して一気に国家を改造しようとした。
 事件の直前の2/23の会議で憲兵司令官が「2/26には、青年将校達が事を起こす。」と発言していた。

 反クーデター「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を昭和9年1月に作成していた。組閣、世論操作、社会の治安対応策などを決めていた。要綱の策定には片倉哀(ただし)大尉がかかわっていた。
 片倉大尉には、三回インタビューしたことがある。「青年将校達をあおって、事件が起こるようにしていた。今から思うとズルい考えだった。」と話を聞いた。
 片倉大尉は満州事変の当時関東軍の参謀で事変の中心人物だった。「岸を満州に連れて行ったのはワシです。」とも言っていた。岸(信介)は、今の安倍首相のおじいさんで官僚だった人。戦後に首相。
 
・事件は昭和天皇にとってトラウマになった。在位50周年のとき「自分の考えて動いたのは二、二六事件のときと、終戦のときの二回だけだった。」と語られたことがある。「二、二六事件のときの判断は正しかった。」と述べられた。

 この昭和天皇のお話は、平成時代になってから昭和時代を振り返るテレビ番組の特番で映像を私も見た記憶がある。

・クーデター計画は終戦のときもあった。参謀次長の河辺が総長の梅津にもちかけたことが河辺の日記に書いてある。梅津は計画には同意しなかったので実現しなかったが、クーデターの考えは(終戦のときも)あった。

・事件勃発後、戒厳令が敷かれた。2月27日-7/17まで。軍が行政と司法の両方を掌握した。
 事件後に東京陸軍軍法会議を設置した。軍人だけでなく、民間人も一緒に軍法会議で裁いた。首謀者は、北一輝、西田税(にしだ みつぎ)と決めつけ、純真な将校がついていったとした。

・事件で戒厳司令官の香椎、山下奉文らは、事件が成功するように動いた。匂坂資料の中に証拠があった。
 
 やました「ほうぶん」と中田氏は言った。「ともゆき」とは呼ばなかった。

 などの内容だった。
 講演の内容はかなり専門的で、予備知識が無いといきなり聞いても理解することは出来ないくらいのレベルであった。講演の中に登場する事件関係者、当時の軍人などの名前、北一輝、西田税、梅津美治郎、河辺虎四郎、香椎浩平、山下奉文などについては、詳しい説明は無いのである程度その人物について知っていないと講演内容を理解できない。
 
 その後、氏がNHKの現役当時に制作した番組の映像をスクリーンで投影。会場の体育館の照明を落として視聴した。NHKスペシャルで「二、二六事件 消された真実」という番組のビデオだった。

 ↓ 善行雑学大学のレジュメと次回などの講演の案内。

 
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(続きの書き込み)

 講演の冒頭におて
 「(二、二六)事件から、たった9年で日本は破滅した。」という中田氏の言葉は私の印象に残った。

 大人になって見ると9年間という時間は、意外にも短く感じる。たとえば、今私のいる現在から過去にさかのぼると9年前というのは、平成20年のリーマンショックの前年のこと。平成19年2月と現在の28年2月を比較してみると、いくぶん老化して年を重ねたが当時の私と今の私にほとんど変化は無い。
 この9年間という時間の中で昭和11年に事件勃発、その年の7月の事件を主導した青年将校達の処刑、その翌年の7月には盧溝橋事件勃発とめまぐるしく世の中は動いた。
 その後昭和20年の敗戦、外国軍隊による日本占領・・・・・・・・・・・・に至るまでの出来事は私がここで改めて書く必要は無いだろう。

 しかも、私の祖父母、合計4人は間違いなくこの時代に生きてたのだ。母方の祖父は戦地にも赴いた。もう一人の祖父は、兵役の経験が無いし戦争には行っていないのだ。同世代の別の親族の男は、戦地に行って戦後、従軍記を残して親族らにも配布している人もいたのだが・・・。この祖父が兵役につかなかったのは視力が悪かったからか?、文弱だったから?。私の知る限りこの祖父は私が子供の頃はメガネをかけていなかった。老眼になって近視は改善されたのか?。