「二、二六事件」に関する講演会 拝聴記4 (善行雑学大学)

 今年の2月のことだ。「二、二六事件」に関する講演会に行った。
「回顧80年 2.26事件とは何だったのか」 善行雑学大学 藤沢市の善行公民館での開催。
 講師は中田整一氏。(元NHK職員)
 内容は、講演と中田氏がNHKの現役当時に制作した番組 NHKスペシャル「二、二六事件 消された真実」のビデオ視聴だった。(番組の放送自体は昭和63年2月のことで、今から30年近く前で事件から52年後のこと。)

 実はレジュメにはこの講演で、ほとんど触れなかった資料が付いていた。私は、このほとんど触れられなかった資料に一番興味を持った。それは、事件の青年将校達が死刑を執行された際に立ち会った当時の軍医の回想記であった。しかも、投稿されたのは事件後約60年たってからのことだそうだ。投稿者の元軍医氏は、当時90歳近かったのではないか?。
 中田氏は熊本出身である。「これは、私が高校時代の先生の関係で入手した、地元熊本の郷土史に掲載された回想記です。 このような人がいたとは、私も今まで知らなかった。この方は、99歳くらい(の長寿)で10年くらい前に亡くなられた。元・軍医中佐で戦後は故郷 熊本で開業医をされていた。」と説明があった。

 事件の首謀者とされた者が「非公開の軍法会議にかけられ、多数が死刑になった」ことはよく知られている。が、死刑判決を受けた人は何人だったのか?、死刑執行はいつだったかのか?、どのように行われたのか?は、あまり知られていないのではないか?。

 私も誤解していたのだが、時系列でいうと
 s10.8「 相沢事件」発生。その後、相沢中佐の軍法会議開始。
  s11.2.26 二、二六事件
 までは知っている。
 その後、二、二六事件に関する裁判が開始され「一年間くらい審理された。」と私は思っていた。
 更に私は、二、二六事件に関する軍法会議の途中の
 「s11.7に相沢・元中佐の死刑が執行された。 翌年、盧溝橋事件が勃発し裁判に時間をかける余裕もなくなり、12.7に、二、二六事件の青年将校達の死刑執行」と思っていた。
 しかし、実際はs11.7に相沢・元中佐の死刑執行がされた、わずかその数日後の7月12日に二、二六事件の青年将校達のうち死刑宣告者15名に死刑執行。
 一年おいて、翌年の盧溝橋事件勃発後の「昭和12年」8月に民間人の北一輝、西田税に死刑判決。その数日後に死刑執行。前年7月に死刑判決を受け、執行されていなかった磯部、村中とあわせて、「昭和12年」8月19日に4名が死刑執行と知った・・・・・・。
 昭和12年8月中旬といえば、大陸に戦火が広がっていた時期であり、東京においても在郷の兵士の召集と動員が相次いで「いよいよ戦争だ。」と世情騒然としていたのではないか。
 どうやら、私はいろいろと時系列で混同していたようだ・・・・・・・・・・。

 相沢元中佐と死刑判決を受けた二、二六事件の青年将校達のうち「15名」の死刑執行は、時間の間隔があまりにも短い・・・・。かなり執行を急いだと感じるし、あまりに拙速だ・・・・・。決起を主導した(事件発生当時現役であった)将校達は、とにかく先に死刑にしよう(してしまおう)という軍部中枢の意志が働いていたように感じる・・・・・。

 実は「相沢事件」についてはNHK出版の「歴史への招待」の本が家にあったので子供の頃に読んだことがあった。発行は昭和50年代でかなり古い本だった。二、二六事件についても特集していた号もあった。中田氏は「歴史への招待」の番組制作にもかかわっていたであろう。内容が今回の講演内容やビデオを見た番組とかぶっているし。「歴史への招待」の「 相沢事件」についての特集の章では、当時陸軍省勤務で、今回の中田氏の講演でも名前が挙げられた片倉哀の証言があった。また、。「歴史への招待」では「相沢事件」の発生当時、陸軍省勤務であった有末精三の証言も掲載されていた。
 いつぞやだったか、たまたま図書館で「相沢元中佐の死刑執行」に関する当時の陸軍衛戍刑務所長?の回想記を読んだことがある。元所長?の回想文では「・・・刑務所での死刑執行は初めてであったので、刑場が無かった。・・・・・場所をどこにするか検討した・・・その結果、所内の裏庭かの更地の地面を掘り下げて、執行する場所をつくった・・・・・」という内容であった。屋内での執行ではなく、屋外の刑務所敷地内での銃殺刑であった。
 掲載は「文芸春秋にみる昭和史」かなと記憶していた。講演の後、図書館で改めて読んでみたが、該当の記事は無かった・・・・。記憶違いであったようだ。しかし、インターネットで見た記事では無く何かの書籍で読んだと思う。 

 さて、回想記の筆者はX軍医とする。7月の処刑である。事件が発生したのは冬のこと。対して死刑は夏のこと。事件発生からわずか、4か月半で季節は、冬から春を過ぎて、夏へと変わっていたのだ。
 昭和11年の梅雨明けの日は知る由も無いが、梅雨明けは、まだの、やや蒸し暑い日の朝ではなかったか。
 気象庁のウェブサイトを見ると、梅雨入り、梅雨明けはの日付は昭和26年以降の統計しか掲載されていない。
 恐らく、梅雨明けの前であるから、当日は湿度が高く早朝は曇天であり、せめて薄日が差すくらいではなかったか・・・。日が登る昇るにつれて、雲の合間に夏の青空も幾分か広がったと思う。ただし、朝のうちは、さほど暑くはなく、半袖シャツでは涼しさも感じるくらいではなかったかと想像する。

 以下、X軍医の回想記からの引用である。 ※(    )内は私の感想、注記など。

 当時X軍医は、軍医学校の甲種学生であった。学校に隣接する済生会病院で治療などに当たっていた。
済生会の患者は当時ほとんど無料での診察であった。
 (現在の済生会中央病院は、三田の国際ビルの近くにあるが、以前は戸山にあったのだ。)
 事件勃発当時の様子が書いてあった。
 事件後は、元の勤務に戻り、数か月が経過した後、突然校長から数名が呼び出された。近く、「例の将校」の死刑が執行されるので、戦地勤務がある者ということで執行の立会い命じられた。
 (戦地ということは、満州事変での従軍経験があったのだろう。)
 相沢元中佐の死刑執行のときは軍医学校の軍医は立ち合いをしていないらしい?。「某陸軍病院の衛生兵が担当したが、動転して役に立たなかった・・・。」と(軍医学校の)校長が言った。「今度は、処刑人数が多いし、君たちは戦地勤務があるので・・」と校長が言った。

 執行当日、7月12日の早朝に交通規制の中、自動車で軍医学校から代々木衛戍刑務所まで移動した。刑務所内の刑場は準備が出来ており、地面が5か所、横一列に等間隔をおいて掘り下げされ、その掘り下げられた地面に5個の十字架が等間隔で設置されていた。
 (死刑は銃殺であるので)銃を固定する机が十字架と10メートルくらいの距離をおいて、5個設置されている。銃は執行を受ける者一名につき2丁設置され、銃座が固定されていた。銃は10丁ある。射手は10名。被処刑者一名につき、正として、一人は将校、副として一人は下士官。正射手がまず発砲する。副射手はその予備だった。
 
 (刑務所敷地内の屋外での執行である。果たして執行時刻の天候や気温、湿度はどうだったのか?。)

 隣接する代々木練兵場では、空砲による演習を行い銃殺の音がわからないようにしていた。
 まず最初の被処刑者5名が刑場に来た。宮城を丁寧に遥拝。服装はカーキ色の作業服で、素足に草履。目隠しをされた。両脇を看守にかかえられて、地面を数十センチ?掘り下げたところにある十字架にかけられた。膝は折ってむしろの上に正座し、両手を左右に広げて縛られ、頭部も固定された。眉間に印をつけた。草履はむしろの横に揃えて置かれた。
 (すると、被処刑者が縛りつけられた十字架の高さは130-150センチくらいだったろうか?。)

 そして、概ね揃って「天皇陛下万歳」を叫んだ。安藤だけは「秩父宮殿下万歳」を叫んだと思う。
 (すると、軍医は安藤大尉(事件後、免官されているため、正確には元大尉)を知っていたのだろうか。目隠しをされていたので、いよいよ執行というときには、顔の区別はつかなかった筈だ。目隠しをする前に本人の顔を確認したか、執行後、遺体の処置、検視をする際に安藤大尉と確認して、彼は執行直前に「秩父宮殿下万歳」と叫んでいたな、と認識したのであろうか?。)

 執行の指揮には大尉一名が立った。射手は照準を合わせる。大尉は指揮刀を手に「撃て」の合図で射手は一斉に眉間の印に向けて発射した。同時に、軍医は被執行者の元に飛んで行って、脈拍停止までの時間を計測した。
 (演習の砲声が響いていて、騒々しい中での発砲だったことになる。静寂の中に「撃てー!!」の号令のもと、突如として銃殺の音が響いたのでは無かった。)

 検視と遺体の処置を行った。5名ずつ執行されて、合計15名の執行を行った。遺体は清拭して入棺をした。死体検案書は書いたか覚えていないが、多分書いたと思う。
 (軍医も15名の多数に及んだ死刑執行の場において、極度の緊張状態にあったことが推測される。)
 
 処刑場において、死に臨んだ被執行者の態度は、まことに立派であった。
 勤務を終えて、帰宅する頃には「代々木刑務所に入獄中の・・・・・・15名の死刑執行される」の意味の号外が配られていた。
 
 戦後に二、二六事件に関する映画を見た。死刑執行のシーンを見たが迫力はなかった。特に心理面での迫力が全くなかった。
 処刑された人の名と時刻は、戦後の著書である高橋正衛著「二、二六事件」を引用して記載し、冥福を祈っていた。
 翌年8月の北、西田、磯部、村中の死刑執行は同処刑場にて行われ、死後の処置は軍医学校の同僚学生が当たったと聞いた。
 で回想記は終わっている。(引用終わり。)

 執行当時、被執行者と元々面識がなければ、刑場においても名と顔は一致しなかったろう。執行の順番、時刻も当時は個人として記録する訳にはいかなかったため、X軍医は、執行から数十年後に回想記を書くときは別の著書によったのであろう。

 X軍医は国立国会図書館のサイトで閲覧できる「陸軍将校同相当官実役停年名簿」に名前があった。昭和10年9月1日調べの版によると、所属は某大隊。部隊から、軍医学校に学生として派遣されていたようだ。
 当時の階級は、任官して幾年も経過しない二等軍医かと思ったが、実は一等軍医で大尉相当であった。年齢も事件を主導した大尉の被処刑者達に近かったのではないか?。20歳台後半であったろう。
 銃殺刑執行の指揮をとったのは(兵科の)大尉。X軍医達は、駆け出しの軍医ではなく、処刑場において遺体の処置にあたったのは、皆、一等軍医の階級の軍医学校の甲種学生、ベテランの軍医であったと思われる。

 2016年は事件から80年に当たる。この年の2/26の新聞夕刊などは事件関係者の子孫などによる回想記事も掲載された。死刑は7月に執行れさたが、(2016年7月の)執行から80年に際しては、関連する記事やニュースは私が知る限り報道が無かったと思う。

 NHKの敷地 スタジオパークの入口。↓
 2016年1月撮影。(スタジオパークに行ったときに撮影)
 NHKに中田氏は勤務されていた。事件を主導した青年将校達の死刑が執行された場所は、道路を挟んでその先、下の写真の「NHKくん」のキャラの背中の後方の向かって左手、現在建物が建っている付近。
 当時は陸軍の刑務所(衛戍刑務所)の敷地内だったのだ。

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 昭和11年7月12日早朝、東京 代々木の衛戍刑務所の空に突如として響いた死刑執行の銃殺の発砲音は、翌年から本格的に始まる大戦争への号砲では無かったのか?。
 その1年後、昭和12年7月には、盧溝橋事件が勃発、大陸に多数の兵士を動員・・・・、昭和16年12月には日米開戦。この死刑執行からわずか9年1か月で日本は大戦争に敗れ降伏をしたことになる。
 昭和11年7月12日の死刑執行は15人だった。一度の執行人数としては、かなりの多数だ。しかし、この多数の死刑執行後、日本が降伏するまでの間に一体何人、何万人、何百万人の人命が戦争で失われたのであろうか。あまりの数の多さを思うと言葉を失ってしまう・・・・。