2017年3月某日

 早稲田大学総合学術情報センター
 「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」 「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をした。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。
 展示会は、第3期まである。国宝が展示されるのは、早稲田大学のウェブサイトによると今回の第1期のみだけ。しかも、同サイトや今回 展示室で無料配布していた展示会の図録によると所蔵する国宝は、なんと「10年ぶりの公開」とのことだ。前回は2007年に大学中央図書館が開館15周年を迎えた際に公開されたそうだ。
 大変貴重な機会である。

 ↓ センターの玄関エントランス部分にあった告知。

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 第1期に展示される国宝の画像部分の拡大。


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 展示室内を見学する。室内には警備員が1人以外、誰もいなかった。ガラスケース内の展示を見ていく。重要文化財指定の「崇光上皇 宸筆願文」と「尾張~百姓等解文」の展示があった。
 続いて、その左、展示室の奥のガラスケースにこのたび10年ぶりに公開された国宝の展示があった。
 まず「礼記子本義 巻五十九」があった。
 ※「疎開」「疎遠」の文字に似た「そ」の漢字がウェブサイトでは表示されないかも知れない。

 解説目録の文章によると「礼記」の注釈本だそう。何を書いているかは、分からない。漢字がたくさん書いてある・・・・。唐の時代の写本。「巻五十九」なので多数ある巻物による注釈のうち、59番目の巻物のみが保存されていて、今、私の目の前に展示されているのだ。
 奈良時代には日本に伝来していて、光明皇后の所蔵印が押してあるそうだ。正倉院の時代には伝来していたので、当然遣唐使によって持ち帰りがされたのだろう。図録の写真には「内家私印」と皇后の印が朱肉で押してある。巻物の末尾に四角い印が斜め、ひし形に押してある。しかし、目の前の展示では巻末の「内家私印」は開いていない。別の部分、巻物の途中の一部の公開である。
 
 展示部分の内容を読んでみる。漢字の羅列なのであるが・・・・。「叶? 」足六衡之第六所××也・・・心也安・・子則即也×士・・・  前有文母而・・・天雨・・・」のような文字。勿論漢字の転写間違いばかりだが・・・。
 ガラスケース脇の室内の壁のパネルには修復したときの様子の写真の展示がある。原本は紙の劣化によってボロボロになっていて、かなり千切れている。というか、巻物として巻いたまま、長い期間保管していたので、ある部分が半楕円形に紙が劣化してえぐられている。裏地の紙に原本を貼り付けして、修復を行っていた。よって、現在は巻物になっている。図録の写真では、裏紙を貼り付けした様子がわかるが、目の前に展示されて、開いている部分は劣化をあまりしていない部分のようで、紙に貼り付けしているようには見えなかった。

 その隣には「玉篇 巻第九」の展示がある。
 
 同じく写本である。
 「玉篇」なので王家、皇帝の伝記や由来書かと思ったが、書いている内容は漢字辞典のようだった。皇帝の伝記ならば史記のように「紀」だろう。「玉」は、皇帝を意味すると思いのだが、勘違いかな。日本では「玉」は天皇を意味するが。または歴代皇帝の伝記ならば「玉紀」というべきなのかは、分からない・・・・。
 
 「玉篇」の内容を読んでみる。漢字の羅列なのであるが・・・・。 「言」のように部首を大きい文字で書き、同じ部首の漢字を列挙して解説している。
 展示して、巻物を開いている部分の文字を観察してみると確かに「言」や「日」が部首の漢字である。が、現在の日本で常用漢字として使用されている文字は無いような・・・・。それらの漢字の日本語の「音読み」も分からないです(苦笑)。

 書いている内容を抜粋してここに書いてみる。勿論、間違って写している文字が多いのだが・・・・。
 「千弓」のような文字の部首の説明は・・・、「第九十 凡六字・・」とこの部首は、「90番目」と番号を振り、文字が6字あるような書き方。
 続いて「去?部」とまたまた分からない漢字。「第一百 凡二字」と100番目らしい。「去? 胡・・毛詩婚姻孔去る侍曰去?抱成・・・・」のように書いている。
 「音部 第百一 凡十六字・・・」「・・・音気 ×奇生天同隆増天声・・・・周礼師氏掌六伸天・・・成分謂之音」のように書いている。解説してある漢字もよく分からない(苦笑)。

 図録の写真には「言」が部首の別の漢字の部分が掲載されている。目の前の展示では、「言」から「日」の部首の漢字の解説部分が開いている。上の写真を見ると分かるが、展示会の告知パネルには、これまた別の部分の「食」の部分の写真掲載である・・・・。ガラスケース内では、写真には無い、巻物の途中の別の部分の公開である・・・・。
 「食」は、当時の文字と現在の日本の「食」の文字は異なるようだ。よって、ここでは現代日本の漢字表記で本記事では記す。JIS第二水準の文字、というのかな??。
 解説目録の説明文には、巻物の展示部分の「展示替え」があります。とは書いていない・・・・。室内にもそのような表示は無い。よって、図録の掲載写真の部分の公開が実際にあるかは、不明だ。

 
 私が見学していると、途中で、見学者が複数入室して来た。

 図録の写真↓ 「礼記子本義 巻五十九」
 「内家私印」と皇后の印が朱肉で押してあるのが判る。

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 図録の写真↓ 「玉篇 巻第九」
 「言」の部の漢字の説明であることが何となく判る(笑)
 末尾の部分も写っている。

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 解説目録の解説文によるとこの2つの国宝の伝来は「明治39年と大正3年に田中光顕から寄贈された。」そう。当時の早稲田大学(東京専門学校の後身)に寄贈されたのだろう。寄贈された経緯に大隈重信の名は出ていないが、当時の勲功者、有爵者として、両人(田中伯と大隈伯、大隈はのちに侯爵)とも友人関係にあったことだろう。
 「礼記子本義」は、明治23年に忽然と古書×××閣(古書商??)に現れたと解説文に説明がある。私の推測だが、公家か大名家が手放したのではないだろうか。清国公使と田中が競った末に、田中が落札し、複製品を作成したので、複製のひとつの寄贈を願ったところ、現物.が寄贈されたのが明治38年とある。「日露戦争」の終結した年のことである。
 「玉篇」は以前は福岡・黒田家の分家、秋月藩の藩士の所蔵でのちに田中光顕が入手した、大正3年に寄贈した、と解説文にある。

 田中といえぱ宮内大臣を務めた人物。かつての小田原の別荘は現在小田原文学館となっている。
 私も訪れたことがある。

 田中光顕邸は、ここ早大の近くの徒歩で3分くらい、道路を渡る信号待ちが無ければ1分か2分くらい(笑)の文京区関口の水神社の近く、胸突坂の下、現在の芭蕉庵の敷地にもあったと記憶する。よって、大隈重信をはじめ東京専門学校・早稲田大学の関係者とは「ご近所さん」だったのかも知れない。いわば当時のご近所関係を含む人間関係によって、寄贈が行われたと推測する。