2017年10月8日 秋季特別展「天璋院篤姫と皇女和宮」 鑑賞3(最終)  徳川美術館

 ※この記事とは別に、本日20時に徳川園のショップに関する記事を掲載します。

 名古屋市東区の徳川美術館。
 特別展の展示室。展示の途中で、パーテーションで区切られて、裏に行ける場所があった。かつての旧館の正面玄関であった。戦前の建築当時は、こちらが正面玄関だった。
 
 幕府瓦解に関する展示を続いて見ていく。
 
 江戸は無血開城され、その後徳川家が、駿河70万石に封じられたときの沙汰書の展示があった。田安家から養子に入った亀之助あらため家達に「駿河府中 七十万石・・・・」と墨書されていた。新政権の下、徳川は70万石の大名となった。家達は駿河に移り、その後明治に入ってから、上京している。再び駿河に入って、廃藩置県まで在職したようだ。
 展示は 「エピローグ 明治時代の徳川宗家-天璋院と十六代家達-」
  家達が明治2年、7歳?くらいのときの天璋院宛の書状の展示があった。まだ字を覚えたての子供の習字のような文字だ。子供の字ながら「・・・天璋院様・・・・」と丁寧なご機嫌伺いの手紙のようだ。現在の小学校1年生くらいかな。更に子供のときの家達の写真がある。 
 天璋院が書いた熱海箱根湯治日記の展示があった。このときに病気の和宮をお見舞いしていた。この後ほどなくして、和宮は若くして逝去している。

 明治16年の家達と近衛泰子の婚礼写真の掲示がある。家達は満でいうと21歳くらいかな。西洋式の礼服の恰幅のよい若い家達とおすべらかしに十二単?の着物姿の泰子の写真。「家達は欧州に留学し、帰国後、結婚した・・・」とある。天璋院も満足であったろう。養女となった近衛家の娘と結婚させることは悲願だったそうだ。のちに、二人の子の家正は、島津家の娘と結婚している。
 明治18年に天璋院死去。19年に描かれた「天璋院送葬之図」の展示があった。
 
 展示を一通り見て、退出した。出口までの廊下は結構長い。入口のエントランスまで戻ってきた。結構流して見たつもりだったが、1時間半くらいかかった。じっくり見ていれば2時間以上いたかも知れない。
 その後、退出して、外へ。
 
↓ 徳川美術館のエントランスにある、撮影可能な甲冑。
(ガラスに反射して、入口自動ドアが写り込んでいる。。。)
展示を見終えると写真左奥の通路(甲冑のガラスケースの左)から手前に出てきて、ミュージアムショップを見て退場することになる(笑)。

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↓ 自由撮影可だった、エントランスホールにあったパネル。

 
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