2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞3
 

  ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
 足利基氏の坐像や国宝「上杉家文書」など展示される文書の画像が掲載されている。


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 鎌倉公方足利基氏の御教書に続いて、展示ガラスケース内には、「足利家文書」 米沢市上杉博物館所蔵の展示があった。文書の国宝一括指定のため、点数は膨大なものであろう。よって、1枚1枚文書を読み込むとは不可能だ。文書がまとめて国宝指定されている点は、金沢文庫で保管されている称名寺聖教の文書群と同じであろう。ただし、称名寺聖教が国宝指定されたのは、昨年か一昨年だったと記憶するので「上杉家文書」の国宝指定はもっと以前のことだろう。
 国宝の文書の傍らには重要文化財の「上杉重房坐像」が展示してあった。鎌倉公方を補佐したのが関東管領上杉氏。よって、「上杉重房」の木像が特別展のスペースに(平常展示から)移動して展示されているのだと理解した。
 今回の特別展の目玉はこの国宝だろう。うち2点のみが今回展示されている。前期は11/12(日)まで、後期は12/3(日曜)までとなっていて、2点ずつ展示替えされるようだ。私が見たのは前期の展示品だ。
 国宝文書の1点目は「足利直義書状」
 「若御前が鎌倉へ下る・・・。」ような内容。「六月二十日 民部? 大輔 」と書いてあるような・・・。日付は「二十」ではなく「廿」文字。昔の文書は皆そうなのかも知れないが、京都国立博の特別展「国宝」にて展示のあった文書などの日付も同様の書き方であった。「民部? 大輔」は尊氏のことか、直義のことか忘れた・・・・。
 解説によると「若御前は」尊氏の嫡子「義詮」のこと。京にいた尊氏は、子の義詮をかつての幕府所在地であった、鎌倉に送り込んで自分の代理として東国支配の拠点としたのだ。 

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
   国宝上杉家文書のうち「足利直義書状」ではなく後期展示の「基氏文書」の画像が掲載されていた。
  

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 続いて 国宝上杉家文書のうち「足利基氏御判御教書」の展示がある。建武の新政の時代から下って西暦でいうと1366年のこと。鎌倉の幕府が滅亡してから30年以上経過した後の文書。すっかり足利の天下となっていたのでしょうか。南北朝に分かれていた時代ではあったが。
 内容は「武蔵国 六浦・・・・事・・・補也 ・・・ 件、貞治五年十月十六日  基氏 花押  上椙×部少輔殿」と書いてある。解説によると「六浦本郷の支配を認めた文書」だそう。そのまんま、現在の横浜市金沢区六浦付近の土地の支配を認められたのだ。よーく見ると今日使用される「上杉」の文字ではないのだ。「椙」である。名古屋に「椙山学園」という学校があるが、同じ「椙」を用いている。椙山を私は「しょうざん」と読んでいたが、実際は「すぎやま」と読むのだ・・・・。
 文書の宛先の「×部少輔」は当時の上杉家の人物の官位だったのだ。だから、現在に至るまで(旧米沢藩主)上杉家に保管されていたのだ。
 ガラスケース内の壁面には「足利尊氏公家譜」の展示がある。江戸時代のもので尊氏や江戸時代の喜連川家の当主、喜連川尊信までの花押の写しを記載した文書である。歴代の足利家の人物の名前の横に花押の見本が記載されている。

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
    「実際に展示されていた文書」の画像もある。

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 展示の第2章に。第1章が国宝の展示もあって導入部の展示ではあるが、実はメインである。
 「鎌倉公方と禅宗寺院」 を見ていく。
 瑞泉寺所蔵の夢窓疎石の座った姿の木像の展示がある。重要文化財指定で、4尺はあろうかという大きな像であった。足利基氏らの小さい木造とは違う。同じく瑞泉寺所蔵で
 夢窓疎石はいうまでも無く、京都 天龍寺の開基として知られるし、基氏の父、尊氏と深い関係にあった僧だ。その縁で展示されているのでしょう。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 夢窓疎石の木像の画像の掲載がある。

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↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。

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