2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞4
 
 第2章「鎌倉公方と禅宗寺院」 を続けて見ていく。次いで

 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示に続く。
 第2章と第3章の展示はほぼ似ていて、同じ場所に展示されていて、区別はつきにくいが。
 上総国の土地の争いに関する文書の展示があった。上総の国の湯井郷の土地で争いが発生していたらしい。現在の千葉県の房総半島の付け根付近の台地の谷間の肥沃な土地(現在ではすいかの名産地となっているが。)か、九十九里浜に面した地域かな。それとも市原、茂原の辺りかな?。

 「足利基氏御判御教書」、基氏の名前と花押のある文書で年号は貞治二年(西暦では1363年と説明にある。)の二月二十七日(実際の文字は「廿」と墨書している。)の日付だ。「光明寺」文書である。
 「上総国湯井郷事~」と書いてある。宛先は「光明寺長老」となっている。湯井郷はある御家人が勝手に??支配してしまっているが、この文書によって光明寺の領有を認めたのであった。

 尊氏と基氏親子の御教書が描け軸になっていて、連続している展示品があった。「浄光明時文書」である。後世の人が、二人の御教書をありがたや、と軸装したのであろうか?。
 末尾に尊氏の名前と花押のある文書では宛名は「千葉介殿」となっている。
 末尾に子の鎌倉公方、基氏の名前と花押のある文書では年号は 貞治三年(西暦では1364年と説明にある。)四月十六日の日付があり宛名は「伊予守殿」となっている。
 湯井郷の押領をやめさせ、尊氏の御教書の通り、寺の雑掌を渡せという意味だそう。(私の誤解かもいれないが。)
 上記した貞治二年(西暦では1363年)の基氏花押のある御判御教書と「対」になっているそう。同二年(つまり前年のこと。)の御教書に従って、土地は覚園寺に渡しなさい、という命令であった。なかなか、引き渡しをしなかったのですね。あわよくば、そのまましれーっと自分のモノにしようとしていたことがミエミエ!?。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 「光明寺」文書の写真。「湯井郷」のことが書いてある。鎌倉市指定文化財である。

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 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示で重要文化財指定の「浄光明寺敷地絵図」がある。昔のお寺の伽藍配置図である。簡単に墨で和紙に書いてある文書、絵図にしか見えなかったのだ・・・。
 同じく第2章の展示では「明月院」の昔の絵図の展示があった。明月院は「あじさい寺」として有名だし、先の6月に行ったことがあるので、明月院の絵図に見入ってしまったが、「浄光明寺敷地絵図」は特別展のパンフレットにも掲載があるので重要な絵図らしいとあとから、気付いた・・・・。
 明月院は元々「禅興寺」というお寺の塔頭だったと説明にある。読んで字の如く禅宗の振興のための信仰篤き寺であったのだろう。現在の北鎌倉の山の付近、北鎌倉駅から見て建長寺の手前に広大な伽藍を構える寺院であったのだろうか?。

 、「浄光明寺敷地絵図」に描かれていた「浄光明寺」も鎌倉公方 足利家にゆかりの深い寺のようだ。瑞泉寺と並んで重要なお寺だったので、文書が残されているのであろう。今まで、知らなかった・・・今まで知らなかったお寺にも、実はかなり重要な歴史資料が遺されていると改めて気づいた・・・・・。

 「浄光明寺」と「光明寺」とふたつのお寺の文書が展示されている。同じお寺かとおもいきや、違うらしい。展示室内では両寺の違いについて詳しい説明は無かったと記憶する。(説明文はあったが、私が忘れてしまっただけかも・・・。)

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
  左端の文書の写真、実は文字ではなく浄光明寺の敷地絵図である。

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