2017年11月26日(日) 永青文庫 平成29年度秋季展 「重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」
  展覧会の名称が長いので「天授庵 長谷川等伯障壁画」展と略称でも書く。

 4階の展示室を見る。大きな障壁画がガラスケース内にドーンと展示されている。「南禅寺天授庵の長谷川等伯筆になる障壁画」は4階にあった。室内には常時10-15人くらいの観覧者がいる。「春画展」ではこの4階展示室は「肉筆画」などが展示されていた。後期ではあの応挙の肉筆画が展示されていた。男女が香合交合する生々しい画の端に几帳面そうな「応挙」の署名が書きこまれていて印象に残っている。
 障壁画は「商山四 白告 図」(文字が出ない・・・)。水墨画のような白黒の絵である。解説には「ロバに乗った易士と童子がいる」と書いてある。中国のどこかの山の中、か村で童子がいる。 障壁画を見ていくと左の場面でロバに乗った老人が描かれている。
 
 後期の展示は室中「以外」の左右の部屋の障壁画が展示されていた。前期は方丈の真ん中の部屋、室中り障壁画が展示されていた。
 ガラスケースの横に 配置図が展示されていた。

 ↓ パンフレットより。
  
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 常設展に展示のあった、書状に関連して・・・。
 細川氏は「越中守」として知られています。他方肥後に移った後、光尚は国持大名として「肥後守」の官位をもらったようです。忠利は小倉かその前に「越中守」に叙任されたのでしょう。すでに越中守は忠利に与えられたので、肥後拝領後その嫡子にふさわしい官として「肥後守」が与えられたのだと(勝手に)推定します。だとしたら、国持大名として破格の待遇です。島津、伊達並みといったところでしょう。(先祖光秀のおかげでしょうか!?)
 昔の江戸の町の絵図を見ると「松平薩摩守」や「松平陸奥守」の屋敷などの表示があり、どこの大名?と思ってしまいます。細川氏は松平を授けられていない。あくまで「細川越中守」。松平越中守とは松平定信の家のことですね。「松平肥後守」といえば会津の領主松平氏のことですね。ややこしいです(笑)。