2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学1
 

 ここは、愛媛県松山市。松山城に行った。(旅行記は後述する。)
 次は、どこに行こうか?、と考えた。特に決めていなかったので、お城のロープウェイ・リフトの駅から徒歩で比較的近くにある坂の上の雲ミュージアム」に行くことにした。
 
 ↓ 入口の門の正面を撮影。

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 坂の上の雲ミュージアムは、オープンが比較的新しい施設である。実は、松山の市街地の中にあるかと思ったが、観光マップを見ると、かつての松山城内の敷地にある。
 本当に、たまたま思いついて訪問しただけだが、「日露戦争」関連の人物といえば、前年の秋に学習院長「乃木希典」に関する展示会を見たな、と思い出した。

 ミュージアムは少し奥まったところである。表の道路側の隣のビルには、予備校があるようで、制服姿の高校生が自転車を駐輪している。正月から冬期講習であろうか。特に受験生は、正月どころではないな。

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 路面電車の通りを歩いていると、ブルーの「坂の上の雲ミュージアム」の看板があった。「坂の上」の青空をイメージした看板である。看板の先の敷地は、広々とした駐車場である。すいているなー、こちらに駐車できないかな、と考えた。。お役所の駐車場のようだ。正月休みなので、当番?、当直?以外の人の車以外は入れないので、もとより観光客は駐車できないようだ。
 路面電車が通っている道路の対岸(反対側)には三越がある。思い出したが、30年前はたぶんこの上階にあった食堂で食事をしたと思う。


 坂の上の雲ミュージアムは、NHKスペシャルドラマ(スペシャル大河といっていたかな??。)が放映されたので開館したのだろう。ドラマは、複数年に 分けて年末に放映されたと記憶している。大河ドラマが放映期間を短縮しての放送だったと思う。

 第一回のドラマ放送は、既に10年以上前だったと思う。

 (・・・・・・後日ネットで調べたら、2009から東日本大震災のあった年、2011年の年末までの放送だった。当時、私は震災のあった年の年末に、昔のお話のドラマとはいえ、軍艦で大砲同士がドカンドカンするシーンを大々的に放送するのは、どうかな、とも思ったものだ・・・・・。)
 当時マスコミ発表されていた視聴率は、10%なかった思う。時代考証、衣装、軍艦などのセット、CGなどには物凄く制作費を投じていたと当時視ていて感じた。その割に数字は、・・・・・、NHKで数字は関係ないか、それともあるのかな!!??。

 ドラマでは「・・・・弱肉強食の帝国主義の時代・・・」のナレーションがあったと記憶している。
 「この時代の国家は必ずしも国民の幸福を約束するものではなく・・・、・・時には血(命)による貢献(犠牲だったかな?)を求めた・・・・・・・。」という意味の「ナレ」も衝撃的だった。これは、司馬遼太郎の原作の小説「坂の上の雲」の中の作者の言葉だったと思う。
 国が国民の幸福を(無論すべてではないが、ある程度)約束してくれる現代日本は本当にありがたい・・・・・。今の時代に生きているボクは幸せだよ。

 坂の上の雲ミュージアムの近くには、万翠荘があった。もっと、城跡の平地にあるのかと思った。万翠荘は、以前からある観光スポットである。この記事のトップの画像を見れば判るが、入口の門が坂の上の雲ミュージアムと同じだった。
 門をはいってから少し緩やかな坂道を登り、入場券の自動販売機が館外に設置されているので購入、スロープを歩いて入館した。
 入ると エントランスとショップがある。先程入館前に歩いて通った道に面してカフェがある。
 スロープを昇って展示エリアに。



 ↓ 一面のガラス窓である。
   正岡子規の人形がある。机に座って書き物をしている。
   窓の先には、洒落た洋館の万翠荘が目の前に見える。



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 ↓ 万翠荘についての説明。
   お城の山の中腹にあった。地図で見ると、かつての城の二の丸の平地にあるのかと思ったが、誤解であった。

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 近代の洋館を、かつてのこの城の主であった大名家の当主が、近代国家の伯爵となり、住まい(別邸)として建てたのだった。万翠荘はレトロな建物。ここ、坂の上の雲ミュージアムの建物は全面ガラス張りの現代的な建物。万翠荘は「明治大正ロマン」、坂の上の雲ミュージアムの建物は「現代モダン」と対象をなしている。
 

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 拡大。中世の城のようだ。

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(補足)

 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」を見ていたときのことだが
 「・・・・この時代の国家は 必ずしも国民の幸福を約束するものではなく・・・、・・時には血(命)による貢献(犠牲だったかな?)を求めた・・・・・・・。」という意味のナレーションも衝撃的だった・・・・・。
 これは、司馬遼太郎の原作の小説「坂の上の雲」の中の作者の言葉だったと思う。

 国が国民の幸福を(無論すべてではないが)約束してくれる現代日本は本当にありがたい・・・・・。今の時代に生きているボクは幸せだ。

 日露戦争当時、曾祖父は既に存命であって、物心もついていた時期だ。大陸の戦地に赴く兵士達、松山に凱旋した兵士達、戦死した白木の箱となって帰還した兵士達の姿を当時の曾祖父も見たことであろう。その曾祖父は私が幼稚園生のときまで存命であったし、人生というものは「ほんの少しの生まれた時代の違いによって、大きく異なるのだな・・・・・。」としみじみ感じる・・・・。
 のちに曾祖父は日本が戦争によって得た海外の植民地(租借地)に渡り、激動の時代を過ごすことになる。そして昭和20年8月、日本は大戦争に敗れ、明治維新以降獲得したすべての海外領土を失った。
 運がよかったのか曾祖父と曾祖母は内地、故郷・松山に戻ることができた。戦時中、既に私の祖母は関東地方の某県に嫁いでいたし、祖母の兄は内地で学校を卒業して就職し、敗戦時は海軍の主計士官(海軍主計中尉?、大尉にはなっていなかったと思う。=当時は否応なく徴兵された時代。要件を満たしていたので海軍の経理士官に志願したのだろう。)であった。
 自分は外地に渡ったが、自分の子供達をして敢えて内地に行かせたのは、敗戦前より思うところが曾祖父には、あったのかも知れない・・・・。
 きっと曾祖父は外地にあって感じていたのだよ。「日本の海外植民地支配は永続しない。」と。だから戦前期のあの時代にあって、娘は内地に嫁がせたし、息子は旧制高校から内地の学校に通わせ、内地で就職させたのだよ。
 当時、外地(日本の海外領土など)にいた日本人は、日本本土を「内地」と呼んだという。私の母によると曾祖父は孫にあたる私の母が四国・松山に遊びに行くと、四国ではない「日本の本州」のことも「内地」と呼んでいたという。子供の頃の母は、それが不思議に思えたそうだ。「内地ってどこ??」と。
 ずっと外地で生活して、日本の敗戦後、故郷に引き揚げた曾祖父は「内地」という言葉に特別な意味を込めていたのだろう。日本が戦争をすることがなくなった平和な時代、再び故郷・松山に戻った曾祖父は、何を思って晩年、戦後の幾十年かを過ごしたのであろうか?。