2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学4
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。

  緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがある。その脇に中3階??の展示室がある。のぞいてみると、小さいが長方形の展示室があるので、入ってみる。室内には10人くらい見学者がいるだろうか。正月、早速見学者が来ている。
 この展示室は松山出身の「秋山兄弟と正岡子規の生涯」の展示のようだ。

 当時の松山の地図、風景写真がいくつかある。子規の家族や、秋山家の一族の写真が展示してある。
 展示としては、兄、好古の展示、説明ボードなどをみると・・・・・
 好古は、大阪の師範学校を出て、17歳らいで代用教員になった。其の後、士官学校に入ったという。士官学校の募集要項も複製と思うが、活字を印刷してあるものが展示してあった。要綱によると願書の様式は自由であるが、用紙に縦書きで府県 華士族平民の別、氏名を書き、生年月、住所も 書くようになっていた。
 更に身元引受人を2名書くようになっていた。自分のみではなく、他にも人が必要。現代の「保証人」ということではないようだ。「身元を引き受ける」人2名が出願に必要であった。それらの決まりに従って、作成された願書(複製??)も展示してあった。
 願書に記入する生年月日は他の誰かの証明が必要だったようだ。証明するのは、自分の入っている戸籍の戸主だったか、近所の人だったか?・・・・・。自己申告で戸籍を作成した名残であろう。テキトーに年齢を書いて出願する例も多数あったから。
 たとえば、森 林太郎という明治時代に出世した人物は、年齢を2歳くらい偽って当時の大学に入ったし。


 好古はフランスに留学している。久松家の殿様(旧藩主家のご当主)の留学に随行する意味もあったそうだ。この展示室だったと思うが、正岡家と秋山家の系図があった。子規の母の実家、大原家の父は漢学者である。このことはしられてるいる。大原観山という。正岡子規の叔父、加藤恒忠 (大原家から 加藤家に養子に入る) が当時フランスに 外交官として駐在していたので、好古と現地でも交友したと展示解説にある。好古と 恒忠は、ほぼ同じ年。松山の秀才は「正岡の恒忠か秋山の好古(当時の名前は違う)か 」といわれていたそうだ。


 正岡と秋山の両家の、藩政時代の石高の変遷グラフも展示してある。グラフでは両家の石高の推移を表示している。 60石くらいの正岡家は目付 ?身分で幕末まで変遷はない。
 秋山家は、3人扶持くらいで、石高は10石くらいだったか??。足軽よりは上の家格であるが、徒士身分。 しかし、父、久敬は藩政時代に昇進している。西暦の1847年くらいには40石くらいに加増。馬廻番か徒士目付だったかな。1868年か維新後の1870年くらいの廃藩直前期には、秋山家は60石くらいで、ついに正岡家と石高がならんでいる。
 司馬氏の小説「坂の上の雲」によると「・・・・秋山家は馬に乗れない身分であった・・・だから好古は軍で(歩兵ではなく)騎兵科に進んだ・・・・・」と書いてあったと記憶している。


 真之と子規が共に東京で通った学校は、大学予備門とある。当時の大学予備門の生徒の名簿が展示してある。名簿は活字で印刷されているのだが、芳賀矢一や南方熊楠が同級生であったことが判る。
 更に名簿を見るが「夏目」、つまり夏目金之助(漱石)、の名前は分からずじまい・・・・。名簿の別のページに名前があるのかも・・・・。それとも当時は「塩原金之助」の名前だったので、「夏目」で探していたので見落としていたかな!?。
 
 展示の説明には無いが、正岡(子規)の隣の隣に「平岡定太郎」の文字がある。出身地は「兵庫」となっている。
ハテ、どこかで見たことのある名前だ・・・・・・・・・・・。同じ苗字の人物に「平岡 公威」がいる。大蔵省(当時)に採用されるも1年足らずで退職した元官僚・・・・。「平岡定太郎」は、つまり作家 三島由紀夫(平岡 公威)の祖父であった。

 名簿には各科目の点数や合計の成績の平均点がかいてある。科目は、無機化学や、幾何学などだったかな。数学、物理のような科目ではない、もっと細かい科目。平岡定太郎は平均72.2点である。正岡は70.2。更に左のページに南方熊楠の名前 和歌山出身。南方の平均点は65点あまりで、同級生の中では高くない・・・。
 全体的には平均68~70点くらいの人が多い。すると三島由紀夫の祖父、兵庫出身の平岡定太郎は大変な秀才であったのだ。

 秋山真之と正岡子規に注目するのもよいが、作家、三島由紀夫の祖父「平岡定太郎」にもっと注目してもよいのではないだろうか?。

 更に隣りのガラスケース内には、明治43当時の愛媛県出身の軍人の名簿がある。日露戦争後の名簿。陸軍から書いてある。中将は2名いる。 騎兵監 秋山好古と仙波太郎 下関要塞司令官の名前がある。

 少将は1名のみで「歩兵12旅団長 小倉 恒吉忠道」とある。名前のような苗字であるが、この人物、子規の妹、正岡律の最初の結婚相手・・・・だった筈。展示の説明にはないが・・・・・。日露戦争終結5年後で少将の階級、出世しているでは、ないか!?。何がいけなかったのかな?。女にとって男は出世すればいいのではなかった!?。家同士の不和か、病気か??。

 大佐は 仙台 歩兵29連隊長が1名。白川義則(のちの張作霖爆殺事件当時の陸軍大臣だった人物であるが説明はない。)は静岡 歩兵第34連隊長である。
 名簿には、官職名とともに任地の地名が書いてある。
 中佐の欄に「歩伯」と書いてある人物は、かつての松山のお殿様のご当主、久松 定謨(ひさまつ さだこと)。
 つまり「歩兵」と書いてある。伯爵で「東京 歩兵第3連隊附」である。(近衛連隊附では無かったと思う。)

少佐 は、川島義之 独逸国 駐在(のちの二、二六事件当時の陸軍大臣だった人物であるが説明はない。)ら。

大尉は、東京 経理学校生徒隊長 櫻井忠温 などの名前。同じく説明にはないが、日露戦争後、旅順攻略戦を書いた「肉弾」で有名になった人物だ。

 中尉、少尉の人数は多い。各数十人はいる。


 次いで海軍の部が下にある。士官は大佐が一番上で、将官がいない。

××艦長 秋山と、××艦長 山路一善とある。
 この名簿が作成された背景には「明治以降になっても 旧藩意識があった・・・・・。」と説明がある。

 櫻井真清は 「第1艦隊参謀」とある。


 続いて展示を見る。真之、明治42年?? の元旦、年賀状には「恭賀新年」とある。「軍艦 音羽 秋山真之」と差出人に書いてある。村上×× 宛てのハガキである。
 子規の展示では夏目漱石の回想記の展示があり、「正岡は、なんでも大将にならないと気のすまないものであった。・・・・・・」と書いてある。子規の性格は、郷土の友人にたいしても、東京に出てからの友人に対しても変わらなかったようだ・・・・。すぐにイバる、ちょっと「俺様感」が強い人物であったようだ。悪く言えば「わがまま」かな??。
 妹、律なども含めた子規の家族の写真の展示があった。正岡子規16歳くらいのときの写真もある。友人と撮影した 上京直前の撮影だったかな。正岡氏の系図によると 外祖父は「大原観山」と強調されている。祖父は「松山藩第一の漢学者であったので文才が育まれた・・・・。」というような解説があった。
 加藤恒忠(拓川)は 叔父とはいうものの子規にとっては、年の近い兄のような叔父であった。




 ↓ 展示室は写真の左手にあった。
「順路」と看板が出ている。

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