2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学5
ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。
緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがある。その脇に4階(見た目では三階)の展示室がある。
緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがある。その脇に4階(見た目では三階)の展示室がある。
↓ 坂の上の雲ミュージアムの入館券販売機。館外にあった。
企画展示のポスターが掲示されている。
企画展示のポスターが掲示されている。
4階は、企画展となっている。弟、秋山真之に関連する企画展示である。昨年の2月から今年の2月まで一年間の期間展示である。
館内に置いてあるパンフレットや(あとで見たウェブサイトによると)企画展は、開館以来、年1回開催しているそうだ。
展示室に入ると最初は真之の生い立ちに関連する資料の展示。海軍兵学校時代の真之の成績などの展示もある。兵学校の「大試験」の成績表がある。それによると「愛媛県士族 秋山真之」の軍事関係や一般の学科の科目の点数が記載されている。英語も細かい評価項目になっている。英語の文法、構文もあるし英作文?、英文和訳もあったような。成績、つまり「席次」は「一番」である。
真之は、ずば抜けた秀才であったようだ。成績表の順位は、活字で印字されているのでスタンプのように押したか、個人別に印刷したかのどちらかだろう。当時、成績表は順位の入ったものを生徒全員に配布さていたのだ。
当時の海軍兵学校の写真の展示もある。広島県、江田島の学校の敷地の様子だ。写真を見ると校地は海に面しているのだが、その波止場には、船が停泊していて、校地内にあのレンガ造の本館が無い・・・・・。海軍兵学校は、明治22年に、東京の築地から江田島に移転したが、校舎が完成したのは、明治25年のことだったそうだ。それまで生徒や教官は、波止場に停泊した船にて起居したそうだ。グラウンドは広いが建物は少ない。工事中の様子であった。
(兵学校の当時の写真は、下の階の常設展示だったかも・・・。どこの展示であったか、忘れた・・・。)
2018年11月に築地から、東京都の卸売市場が豊洲に移転した。盛んに築地の歴史もマスコミで紹介された。魚市場が築地にできたのは昭和時代にはいってからのことで明治維新以降、元々築地付近、は海軍用地だったのだと広く紹介された。海軍兵学校も元々は今までの築地市場の敷地にあったことが、広く知られるようになった。これほど築地の歴史がマスコミで紹介されることは、日本の歴史上最後であろう!?。以降、紹介されても小さい扱いかな??。(考え過ぎかな・・・。)
続いて企画展示を見ていく。室内は三角形である。室内の真ん中に兵棋演習の平板と軍艦の形をした棋(駒というのだろうか?。)がある。傍らに黒板があり、状況を書いていく方法だ。兵棋演習についての解説がある。
演習部は2つある。統監部が1つ。演習は、青軍と赤軍で戦うのである。演習部が各自、10動までできる。つまり、10回運動できるという意味か。 「第5動××する」、「第6動 大砲を発射」のように、動きを紙に書いて貼っていくようだ。統監部が判定し、軍艦同士の砲弾命中や撃沈などを判定するようだ。各、演習部の間には、幕、衝立をして、互いの作戦は、わからないようにする。
以上のような演習を真之が考えて?、教官として指導したそうだ。
壁面のガラスケースの展示に「智謀 沸くがごとし」の書がある。東郷平八郎の書だ。もうひとつ東郷元帥の書があり、「秋山真之墓」の揮ごうだ。真之の墓の碑文で、墓誌はない?そうだ。揮ごうは、墓碑の原本で拓本をとって墓石に刻んだ。真之の実際の墓の写真のバネル展示があった。東郷元帥は、昭和時代まで生きたので、かつての部下、真之の早世を惜しんで、揮毫したのだろう。
真之の結婚写真も展示がある。結婚は、秋山真之36歳のときとかなり遅い。当時、宮内省に勤務していた 稲生氏の娘である。
小説「坂の上の雲」によると兄の好古も結婚が遅かった筈。
子息の秋山大の絵画の作品の展示がある。真之の子とのこと。すると、真之は、子息もちいさいうちに、死亡したことになる。末子は5歳くらいで(父、真之が)死亡していることになる。末子は、ほとんど父、真之の顔は覚えていないであろう、幼少期に死亡しているので。
平ガラスケースに真之の海軍での辞令などがあった。「海軍中将 秋山真之」の名刺も、。シンプルに階級と氏名のみ印刷している。サイズは、現代の名刺とほぼ同じサイズか少し大きいかな・・・・。
展示の説明文では、大正6年12月1日に中将に進級し、同日に待命となっている。同期ではトップの中将進級である。既に病気であったそうだ。待命なので実際の仕事はせず療養したようだ。
翌年、大正7年2月に秋山真之は死去している。
続いて企画展示を見ていく。室内は三角形である。室内の真ん中に兵棋演習の平板と軍艦の形をした棋(駒というのだろうか?。)がある。傍らに黒板があり、状況を書いていく方法だ。兵棋演習についての解説がある。
演習部は2つある。統監部が1つ。演習は、青軍と赤軍で戦うのである。演習部が各自、10動までできる。つまり、10回運動できるという意味か。 「第5動××する」、「第6動 大砲を発射」のように、動きを紙に書いて貼っていくようだ。統監部が判定し、軍艦同士の砲弾命中や撃沈などを判定するようだ。各、演習部の間には、幕、衝立をして、互いの作戦は、わからないようにする。
以上のような演習を真之が考えて?、教官として指導したそうだ。
壁面のガラスケースの展示に「智謀 沸くがごとし」の書がある。東郷平八郎の書だ。もうひとつ東郷元帥の書があり、「秋山真之墓」の揮ごうだ。真之の墓の碑文で、墓誌はない?そうだ。揮ごうは、墓碑の原本で拓本をとって墓石に刻んだ。真之の実際の墓の写真のバネル展示があった。東郷元帥は、昭和時代まで生きたので、かつての部下、真之の早世を惜しんで、揮毫したのだろう。
真之の結婚写真も展示がある。結婚は、秋山真之36歳のときとかなり遅い。当時、宮内省に勤務していた 稲生氏の娘である。
小説「坂の上の雲」によると兄の好古も結婚が遅かった筈。
子息の秋山大の絵画の作品の展示がある。真之の子とのこと。すると、真之は、子息もちいさいうちに、死亡したことになる。末子は5歳くらいで(父、真之が)死亡していることになる。末子は、ほとんど父、真之の顔は覚えていないであろう、幼少期に死亡しているので。
平ガラスケースに真之の海軍での辞令などがあった。「海軍中将 秋山真之」の名刺も、。シンプルに階級と氏名のみ印刷している。サイズは、現代の名刺とほぼ同じサイズか少し大きいかな・・・・。
展示の説明文では、大正6年12月1日に中将に進級し、同日に待命となっている。同期ではトップの中将進級である。既に病気であったそうだ。待命なので実際の仕事はせず療養したようだ。
翌年、大正7年2月に秋山真之は死去している。