2019年1月  岡山県立博物館 「冬季展 岡山藩主の書画」 など見学1
 

 ここは、岡山県岡山市。
 愛媛県松山市にも行ったが、岡山にもやって来た。(旅行記は後述する。)

 毎年「後楽園」の正月無料公開があるので、正面門の近くにある「県立博物館」も「無料公開」であるのでついでに行くことにした。後楽園に来たのは、十何年ぶりだ・・・・・。
 かつて、後楽園の無料公開には来たことがあったが、県立博物館が隣接していて、同じく無料公開を実施しているとは、知らなかった・・・・、というより、覚えていないのかも・・・・。 
 県立博物館、県立美術館ともに在住中は来たことが無かったと記憶する。博物館については、無料公開のときにこの日と同じく見学したのかな~?、全く記憶にない・・・・・。

 ↓ 入口の正面を撮影。「無料開館」の大きな告知。

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 寒い日だったので、博物館の入口を入って、ロビーで温まる。と、戦国のカブト、体験コーナーがあった。


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 お正月らしく「岡山藩主の書画」でも見学しようか、と二階の展示室に階段を登る。右手の展示室は、原始時代から古墳時代などの土器など出土品の展示。

 岡山で一番有名な藩主は、池田光政であろう。その子、綱政、更にその子、継政の書も展示があったと思うが、覚えていないのだ・・・・。
 綱政は、後楽園を造営した当主とされているが、実際はフツーというか、凡庸な殿さまだったようだ。子だくさんとしても有名であるが、あとを継いだのは、将軍綱吉の諱を賜った吉政ではなく、小さい子どもの継政。継政の後継はうまく行かなかったと思える。
 (旧閑谷学校にも行ったのだが、光政の子、綱政については暗愚だったというような説明の看板を掲示していた・・・。)
 
 継政の次の藩主、池田宗政の書もあったと思う。

 更に次の藩主は池田治政。大きく「亀」の、一字の書。崩して書いてある。読めない。

 「思秋」とある書は、池田齊政のもの。解説には「治政の嫡男」とある。小さい横書きの書である。

 次の当主は、斎敏である。説明には「齊政の養子で、島津齊興の次男。」とある。
 島津齊興の長男は、有名な斎彬であるが、展示の説明にはない。
 実は、先(12月のミニ旅行で行った)に展示を見た佐賀 鍋島家の当主、直正(将軍 家斎から、拝領した片諱を返上するまでは、斎正)の母方のいとこにあたる。鳥取の池田家の娘が、島津齊興の正室であり、その子が、島津齊彬と池田斎敏。家系としては200年くらいさかのぼるので遠いが、池田輝政の子孫でもある。(女系で別の池田家の血筋もあるかも知れないが)
 その縁で、岡山 池田家の養子となったようだ。この時点で、光政の子孫の男系当主は絶えることになったのだろう。

 斎敏の「寿福」の書は「壽」と旧字である。(昔の書だから、当たり前であるが・・・・。) 説明によると「長寿を願う言葉」とのこと。斎敏の「楽園」の号も、揮ごうの横にかいてある。しかし、斎敏は、わずか31歳で死去したとある。長寿を願う書を書いていたのに、何とも皮肉である。元々病弱だったから、かえって健康長寿を願ったのではないだろうか?。 

 次は、奥平昌髙の子、慶政。(つまり、有名な島津重豪の孫)
  自分の号は朱色で書いている。「鶴宝」と縦に豪快に書く。しかし、「鶴」が崩し文字で読めない・・・・。「豪快」(いろんな意味で、しかも、子だくさんの)な重豪の孫らしい、自由な書だ。


 次の代の茂政や章政の書がある。共に養子である。茂政は、水戸藩の斎昭の子、つまりのちの最後の将軍、慶喜の弟である。

 次の藩主 章政は「人吉藩主の相良頼之の子」と展示説明にある。相良家の当主は、宗政の子が養子に入り、その子孫なので男系で輝政、光政の血筋の筈。男系が維持されたことになる。

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 今回の冬季展示での一番の目玉展示は、岡山藩主 池田家 歴代当主の書のようったので、他の展示はざっと見たのみて、覚えていない。


 ↓ 博物館の反対側に、後楽園の正門がある。
   無料公開中だった。

   
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(補足)

 次の当主は、斎敏である。説明には「齊政の養子で、島津齊興の次男。」とある。島津齊興の長男は、有名な斎彬であるが、説明にはなかった。
 

 斎敏の次は、慶政。徳川家慶から片諱を賜っている。徳川慶喜、福井の松平慶永をはじめ、家慶から片諱を賜った幕末の人物は多い。
 慶政は、島津家から譜代の中津藩奥平家から養子に入った奥平昌髙の子が養子に入っている当主。(解説にはないが、奥平昌髙とその子孫は中津出の福沢諭吉の主君にあたる。諭吉の自伝に出てくる奥平壱岐は、この奥平家の重臣ということになる。 )
 自分の号は朱色で書いている。「鶴宝」と縦に豪快に書く。しかし、「鶴」が崩し文字で読めない・・・・。「豪快」(いろんな意味で、しかも、子だくさんの)な重豪の子の子(つまり孫)らしい、自由な書だ。


 次の代の茂政、章政の書がある。共に養子である。
 茂政は、水戸藩の斎昭の子、つまりのちの最後の将軍、慶喜の弟である。外様の名門、池田輝政の家門は、ついに徳川の親藩の「分家」となったのだ。
 跡継ぎがいないので、この時代の家系は、モー、ホントニメチャクチャですね。他家もそうだが、跡継ぎの子が育たないのだ。何か、この時代はあったのかな?。飢饉の影響かな。医療に対する無知かな?。将軍家だって、跡継ぎ問題でモメたしね。健康で長寿な当主が続けば、跡継ぎ問題は発生しないのだが・・・・。

 次の藩主 章政は「人吉藩主の相良頼之の子」とある。相良家の当主は、宗政の子が養子に入り、その子孫なので、男系で輝政、光政の血筋の筈。男系が維持されたことになる。
 同じく、有力外様でも、親戚の鳥取 池田家(水戸の斎昭の子、最後将軍、慶喜や池田茂政の兄弟)、福岡 黒田家(あの、島津重豪の年をとってからの子で齊興のはるか年下の叔父が養子に入った。)や阿波 蜂須賀家は、養子が相次いで、元々の藩祖の血筋は1mmくらいしか、入っていない??。