2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学2 (佐賀県  佐賀市) 

  公益財団法人鍋島報效会 徴古館を見学する。案内パンフレットによると「佐賀県初の博物館」という。
  「徴古館」のみでは、何の施設が分かりにくいため、記事のタイトルは便宜上「鍋島徴古館」と表記する。

  
 ↓ 鍋島徴古館 2階展示室の階段の踊り場、展示室前の廊下。
   撮影可能のパネルがあった。最後の藩主で、明治時代の侯爵 鍋島直大の夫人の栄子の写真ボードだった。「ながこ」と読む。ふりがながふってある。「えいこ」ではない。


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  佐賀藩、最後の藩主、明治時代の侯爵 鍋島直大の夫人の栄子の写真ボード拡大。
 ↓ 等身大かな。写真中の人物の高さは150cm弱。当時の女性の平均身長くらいではないだろうか。

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 展示室に入る。室内は撮影禁止である。監視のおじいさんがいる。奥には、机をおいてある一角があり、女性の職員がパソコンをみている。パーテーションで区切って、パイプイスを置き映像コーナーもある。
 最初は、幕末の藩主、直正を中心とした佐賀藩や鍋島家の紹介。(映像コーナーとのスペースを区切る)パーテーションには鍋島家の系図が展示されている。
 直大の夫人は、最初は梅溪氏の娘。妻が亡くなった後、次に再婚しイタリアにきたのは、室外の廊下に撮影可能の写真の掲示があった栄子(ながこ)。栄子は、広橋氏の娘。説明によると、妻を亡くした直大と結婚するため、イタリアに渡航したそうだ。梅渓、広橋とも京都の堂上公卿の家である。
 栄子の娘が、有名な伊都子、のちに梨本宮妃であった。イタリアの首都、ローマの生まれなので「伊都子」。直大の嫡子、直映は先妻の娘。直映の妻は、公家ではなく、大名の旧福岡藩主 黒田侯爵家から娶っている。すると、鍋島家も黒田家と同様、小田原に屋敷を構えた閑院宮と縁戚関係があるのかな??。

  鍋島朗子は、旧加賀藩の前田利嗣の妻。その一人娘がなみ子(漢字がでない)。先に、金沢の成巽閣の展示でも見たが、養子をとって一族の出の利為と結婚している。成巽閣の展示で知ったが、利嗣は、早くに亡くなっているし、子もなみ子一人だけで、男子はいなかった(早世している子はいるかも知れないが)ので、元々病弱であったようだ。

 直正の嫡子、直大の母は、系図では(私が覚えている限り)判然としない。直正の正室の子だったのか、側室の子であったのかは、忘れた。直正の母は鳥取 池田家の娘である。正室の子であり、つまり母方では、島津齋彬といとこにあたる。 系図ではそこまで解説があったかは不明(撮影禁止だったので、忘れた・・・・・)。

 続いて展示を見ていく。系図を見て、ふりかえって二階の室内、向かって左手には鍋島家と佐賀藩に関する年表が壁に掲示してある。領地の地図も掲示している。
 説明によると佐賀藩は「 石高は36万石で、全国の大名で10番目に石高の大きな藩だった。」そうだ。一番目は「加賀 100万石」の前田家、系図にもあるように、直大の娘は前田家の当主 利嗣に嫁いでいる。もっと大きい石高の大名があったと思ったが、「10番目」とは意外と上位である。(列挙すると前田、島津、伊達、尾張、紀伊、細川、黒田、浅野、毛利、鍋島だろうか?。近い石高に井伊、鳥取池田、福井松平かな・・・。)

    
  鍋島家には、三家と四家老 (親類) 親類同格などの家があり、その他の上級家臣の領地が地図に示されている。「三家」は、鹿島 小城 蓮池である。地図で見る領地の広さでいうと蓮池が筆頭かな?。次に領地が広いのは、小城。
 藩主の直轄地の表示もある。佐賀の東側、現在の吉野ヶ里遺跡の南、柳川近くにかけての地域は、藩主の直轄だったようなかんじ。領地の境界線は、丸く曲線で入り組んでいる。肥前の鹿島家だったか、領内内で飛び地もある。鍋島家の領地内に、他の藩の領地もあり、なんと「対馬藩の田代飛び地領」もある。対馬は、本土にも領地があったのだ。何カ所の村が、対馬 宗家領とされたのだろう。


(このあと見学した佐賀城本丸歴史館の展示では、竜造寺の城のあとには、そのまま竜造寺の子孫の家系の屋敷があったと。現在地の 地図でいうと、城の北西だから、堀端の県庁のある付近かな。村田、鍋島という家名で竜造寺という氏を名乗っているのではない。)


 「三家は 大名扱いだった。」とは説明はなかったと思う。皆「鍋島氏」ではなく、地名が家名になっていて、地名で呼んでいたようだ。ちなみに「武雄鍋島家」もある。 以前、武雄で同家の当主が造営した庭園(御船山楽園)を見たことがある。


 展示品を見ていく。パーテーション近くのガラスケース内には、重文指定のお皿があった。大きい皿が2個あり、共に重要指定である。彩色があり、大変カラフルである。
 下は、特別展のパンフレットの拡大。展示されていたお皿と思う。もっと、赤や緑が鮮やかな皿だったような記憶もあるが・・・・。

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 室内の中心にある平らなガラスケース内には秀吉の朱印状がある。 朝鮮出兵のときもので文書中には毛筆で「小西・・・」と言う文字。「小西行長が、先陣して、どこどとを 占領したので援護に行け。」という文書。ただし文章は秀吉の直筆ではないようだ。祐筆が書いて、秀吉の印鑑を押している感じ。

奥のケース内、

 緑色の鮮やかな 屏風絵がある。狩野尚信の絵。山と松の図。室内には鎧があったような。初代の鎧かな。
「直正も見た 甲冑」という表示だった。直正の集めた 食物、鉱石の展示もあったような。まだ整理がされていないようなコレクションか。{ 展示は、1階ではなく2階だったと思うが、詳細は忘れた。鉱物は1階だったかも?。 }

 鉱石は、数段の箱になっていて、細かく分類されている。包み紙には、鉱石についての説明も個々に書いている。別冊子で、箱の内部の どの区画に、どれがあるか、細かく書いてある。鉱石などの塊が展示されている。粉末の水銀の展示がもる。赤い粉である。当時でいう朱であるか。つまり、保存料である。朱は、死体の保存にも使用されていたはず。食べ物も保管されている。ほとんどは、くさってしまっているだろう。 
 鉱石は海外産のもとがほとんどという。薩摩など国内採取のものもあるそう。 包み紙に集めた地名も書いている。金鉱石もある。直径5cmくらいの小さい鉱石の断片だ。黄色がかっている。硫黄があるように見えるが、石英のような白黄色い筋が通っている。


 更に、右手の壁面のガラスケースを見ていく。

 展示のポスター ↓

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↓ 徴古館の建物は登録有形文化財であった。

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