2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学3 (佐賀県  佐賀市) 

  公益財団法人鍋島報效会 徴古館を見学する。案内パンフレットによると「佐賀県初の博物館」という。
  「徴古館」のみでは、何の施設が分かりにくいため、記事のタイトルは便宜上「鍋島徴古館」と表記する。

  
 ↓ 鍋島徴古館 特別展のパンフレットの拡大。直正から娘の貢姫への書状が写っている。
    展示室の室内は撮影禁止である。

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 二階の展示室内、奥の突き当りのガラスケースの展示物を見た。そして、右手の壁面のガラスケースを見る。そこには、嫁入り道具のような鼈甲の道具の展示がある。
 続いて、直正(当時は、齋正の諱だった。)の娘、貢姫の刺繍の展示がある。直正から娘の貢姫への書状もあった。色模様のある和紙に書いている。 のびやかな文字の書状だ。娘を気遣うような書状であった。「やさしいお父さん」が「大切な大切な、かわいい娘」に送っている手紙のようだ。

 明治以降、貢姫は東京に再び住んだようだ。貢姫は、(川越の結城)松平直侯にとついだが、6年で夫と死別して、その後23年ぶりに佐賀に帰ったと説明がある。貢姫が佐賀に帰国したのは、1868年頃のことだったか。
 幕末の混乱期だったから帰国できたのであろうが、この時代に家を差し置いて、実家に呼びよせることが可能だったのか?。すると、夫を早くに亡くした娘を直正は不憫に思い、お家が第一の封建時代においても、敢えて実家に戻したということか。子供を思う親の愛情は実は封建時代も現代も変わらなかったのかも知れない。

 1863年に藩主の正室も、在国が許されたので(例の文久の改革のためだろう。)、直正の正室は領国の佐賀に入っている。正室は、田安(徳川)斉匡の娘 筆姫。
 最初の婚姻、将軍 家齋の姫君との話は書いていない・・・・・。「将軍の姫君との婚姻」といえば「赤門」である。東京大学の赤門(つまり、家齋の姫 溶姫の婚礼)が有名である。 直正も赤門を造営している筈だが、赤門は造作したかは分からない・・・・・・正室の没後に解体したのか、のちの時代に失われたのか。
 掲示している年表では「直正が6歳で将軍の娘と婚約した。」と言う表示だ。溶姫の異母姉妹との婚礼なので、佐賀藩の江戸屋敷にも赤門は造営した筈だ。
 しかし、将軍 家齋の姫君、直正(片諱を賜って当初は、齋正)の最初の正室は、37歳くらいで姫は死亡している・・・・・。次の正室 筆姫の父、斉匡は、将軍 家斉の弟。「田安」といっても、実は一橋家の出で、あの松平定信が養子で出た後、定信の実家 田安家の明屋形を継いだ人物。

 齋匡は、意外にも長命で70歳以上まで存命している。幕末の(一橋治齋系)田安家、興隆の基礎となった当主であろう。福井に養子に入った松平慶永は 齋匡の子で、筆姫と兄弟であるし。明治時代以降大正、昭和期の当主、16代目家達もこの田安家の出、齋匡の子孫であるし。

 直正の家族で出かけた様子の文書の展示もある。 
 「(佐賀に来て)3ヶ月経つのに奥方はどこにも出かけない・・・・・。」と。奥方(筆姫)は、当然ながら江戸の生まれ育ちだった・・・・。嫁いだ後も、鍋島家の江戸屋敷で生活し、いきなり、幕政改革の結果、正室の在国が可能となり、佐賀に下ったので、さぞ、江戸との違いに驚いたであろう・・・・。
 その後は「・・・・・・・・・・・・神野のお茶屋に出かけた・・・・・・・・・・・」などの書状。現在の神野公園にあったお茶屋屋敷に出かけたそうだ。コシに乗り、お供の家臣、女中などを引き連れての行楽であつたろう。
 正室 筆姫の実の姉(異母姉妹の姉)が、佐賀のお隣りの柳川にいたそう。つまり、田安家から、立花家に嫁いでいた姫がいたのだ。よって領地の境界線の筑後川で会うことになったと、当時の役人の書状がある。 
 柳川藩と協議して舟の中で合うことになったそうだ。
 直正が、佐賀に帰国すると子供達もあつまって、花見?などに出かけたという記述もある。個々に(書状に)出ている子供というのは、正室が生んだ子供ではなく、側室なども産んだ子供のようだ。複数いる子供の誰が母親なのかは、展示の解説には無い。
 直正の隠居後も正室 筆姫は、佐賀に住んだが、(維新後の)直正の死後、未亡人の筆姫は、東京に出ている。
 当時は一夫多妻なので「家族で外出」といっても、現在の家族のように、お父さんとお母さんと子供達で仲よく外出、お出かけ、レジャー、という訳ではなかったろう。家族の在り方か当時と現在では異なる。
 
 直正は、30年間当主であって、その後、隠居して直大に譲っている。48歳のとき「閑叟」と号して、江戸を出て、佐賀に入ったようだ。後妻の正室、つまり田安齋匡の娘 筆姫は、直正よりも17-18歳くらい年下らしい。直正は、最初の正室(将軍 家齋の娘)と死別後、37歳くらいで再婚している。後妻の正室 筆姫は18歳くらいで鍋島屋敷に入り3年後に婚姻したそうだ。
 年表によると 直正は幕末のころ体調を崩していたそうだ。明治時代に入って、江戸(東京と改称)で58歳でなくなっている。評は「惜しむらくは、病気がちであったことだった。」と誰かの回想記にあった。

 母方のいとこの島津齋彬も聡明であるが、晩年は病気がちだったようなので、正室の子は貴族育ちで体があまり丈夫ではないのでろうか?。遺伝かも?、と思った。

 特別展のパンフレットの拡大。貢姫の刺繍などの展示品がある。 ↓

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