2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学3 (佐賀県  佐賀市) 

  副題が、とても長い企画展が開催されていた。入場は無料。
  「肥前さが幕末維新の「志」 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」は、会期が2018年11月1日~2019年1月14日まで。歴史館の中の一室での開催であった。
  
 ↓ 特別展「肥前さが幕末維新の『志』展-北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」のパネル。


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 廊下を進む。更にいくと映像の スペースもある。
 その先の 奥まった部屋に廊下を進む。更にいくと 映像のスペースもある。
 更にその先の奥まった部屋に。企画展(特別展)のこの部屋は撮影禁止と書いてある。

 ※特別展はここの部屋のみの開催。他は常設展示なので、後日の投稿でもよいが、まとめて投稿することにする。


 佐賀藩の出である、島義勇と齋藤用之助に関する展示。
 両名とも知らない・・・・・のだが・・・・。この特別展についての立派な写真入り解説パンフレットが置いてあった。無料で配布されていた。

 島義勇は、明治維新後に開拓使の役人になった。判官という官職。鍋島家の当主、直大ではなく、隠居であった鍋島直正(齋正の徳川からの諱は返上)が開拓使長官になった。
 直正は、蝦夷地に赴任したのではなかったが、家臣の島は、赴いた。札幌の街の今でいう都市計画に携わった。碁盤目状の街並みの計画は、島の計画が後年、そのまま実行されたというような解説があった。

 札幌の鳥瞰図などの展示があった。

 開拓判官から、(転勤の)命令で東京に移った。実際に北海道に在任したのは、1年くらい。東京に戻った後、侍従にもなっている。
 のちに、官は辞めて、佐賀の乱で敗れて斬首されたという。
 直正は、明治に入って早々に没しているし、開拓使長官に任命されたときは、既に病身ではなかったか。先の徴古館での展示を見ても、直正は徳川時代の末期から、病気がちであったというし。東京に戻った辞令は、かつての主君であった直正が没したからではないか?。


 江藤との書状の展示がある。副島種臣の賛文がある、島の束帯姿の肖像画がある。副島は、同じ佐賀の人で、政府の高官となった人。物凄く、太い、筆で賛文を書いている。
 のちに島は、明治22年大赦されて内乱罪はゆるされたと年表にある。

 島の写真の展示があったが、公家のような束帯姿てある。

 転じて、南に・・・。

 鹿島の旧藩主、鍋島直彬は初代沖縄県令となったそう。洋装の直彬の写真の展示がある。
 次の県令は、更に大藩であった旧米沢藩の当主、上杉茂憲であった。尚氏琉球の後、沖縄県が設置され、サ初期の県令が続けて旧大名家の当主、つまり華族だったことは、あまり知られていないのではないか?。(知っている人は知っているが。)

 藩士だった斎藤 も沖縄に赴任したそう。那覇に9年在任、のちに島尻郡長となり、こちらは16年沖縄で在職したという。
 「島尻郡長」の辞令があった。「依願免本官」の辞令で、退任のときのものだ。大正時代の辞令だが、当時まで郡長という官職があったと知った。辞令には、「内閣総理大臣 伯爵 大隈重信 宣」とある。同郷、佐賀の出身の当時、首相、伯爵であった大隈の名前があった。

 齋藤は、鳥島の噴火から島民をすくったと解説にある。島が噴火したので、島の住民を避難させたそうだ。
 今でも沖縄の人から感謝されているそう。
 鳥島は鹿児島と思っていたが、沖縄の島であった。当時の鳥島の図面があった。
 沖縄の島で火山の噴火とは意外であった。どうしても、沖縄はサンゴの穏やかな景色の島を思い浮かべてしまうので。
 島と齋藤の特集展示であったが、両名は、30歳以上年が離れている。
 島は明治7年に死刑になって没しているが、齋藤は大正時代まで仕事をしている。
 

 幕末から近代の初めに日本の北と南で活躍した佐賀藩人の展示であった。

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 展示室は御小書院という部屋であった。当初は小さい部屋の復元ということで、「小御書院」と誤解していた。ややこしくて、正式なかつての部屋の名前が理解できないよ・・・・・。
 江戸時代は、藩主と御三家の当主が面会した部屋だったそう。つまり、側近との面会の部屋であったようだ。

 御小書院近くの廊下。映像コーナーに続く廊下だ。
 時間が無いので、映像は見なかった。ソファがあり、座って映像を見たり、休憩できるようになっている。

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 ↓ 本丸御殿の前に設置されていた、特別展の告知看板

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