「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞2  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことを知ったのは、ほんの3年か4年前のことだった・・・・。「刀剣女子」がブームのおかげです。

 展示室は2階だった。高床式のようになっている。広い階段を昇ると2階の廊下に。長方形のコンクリートの建物、1階部分はエントランスと受付、高床式のような2階にある展示室の造りは、規模はかなり違うが奈良国立博物館のようだ。
 最初に常設展示を見る。小さな通路のようで、通路に沿ってガラスケースが設置されている。
 重文の 大日如来坐像が展示されている。仏像の展示スペースは、ガラスケースは無い。目の前に昔の仏像が展示されている。 平安 木造乾漆造と解説にある。隣に重文の蔵王権現像。所謂いまで見た蔵王権現と同じお姿の仏像だ。1尺くらいの像の高さかな。大日如来よりは小さい仏像だ。

 ↓ 料亭側の駐車場に設置されている看板に国の重文指定の 大日如来坐像

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 ついで、通路沿いのガラスケースには、花籠印籠など印籠がある。説明には19世紀、江戸時代とある。解説には蒔絵印籠と書いてあるが、黒い漆地の蒔絵?のようだ。かんざし?もある。かんざし?は、鼈甲のような飴色。矢立もある。小さい茶釜などのアクセサリがついていた。矢立についている小さい茶釜はつまり、墨壺になっているのだろう。

 「』」字状の常設展示スペースだった。ここ佐野美術館の創設者、佐野氏の個人収集コレクションの展示なのであろう。
 常設展示スペースを取り巻く(囲う)ように、企画展の展示室があることに気付いた。コの字にようになっている。
 ↓ 退出時に撮影した、佐野美術館の建物入口と外観。2階が展示室。

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 映像コーナーがあるが、設置されているテレビには電源が入っていなかった・・・・。ソファがあるので、しばし休憩。同様に見学者が休憩している。女性の二人連れなどの入館者がいた。
 映像室の隣は、展示室があり展示物も見えるのだが、退出してくる人のみ。順路最後の展示室のようだ。企画展の最初の展示室入口は階段を挟んだ別の所にあったので、その入口から企画展を鑑賞開始する。
 
 室内に入ると人が多いことに「おおっ」と感じた。館の外では、多くの人が出入りしている様子はないが、展示室内は被とが多い。ガラスケース内の展示品の前には、すべて人がはりついていて、鑑賞している。
 第一のガラスケース。長方形の展示室の「短辺」の部分。展示順番の最初にあたるので、ここから見ていく。

 最初の展示は「短刀 無銘正宗」 徳川美術館所蔵。「正宗」で有名なアノ正宗から展示開始。以前、国宝の「正宗」作品も同館で鑑賞したことがある。
  現在の「刀剣ブーム」が起きる前から「正宗」くらいは知識として知っていた。あと、妖刀として名高い、徳川=松平家因縁の「村正」くらいは知っている。ただ、正宗と村正は「正」の字は共通しているが、時代も住地も全然違う。
 展示を見ていったのだが、刃は光っていても、持ち手のところというか、茎(なかご)というのか、根元の部分が黒ずんている展示品が多い。展示のタイトルは「大坂城落城」。説明文には「豊臣氏の滅亡、大阪城の落城に際して、多くの刀剣も同時に焼けた・・・・・。」という意味の内容が書いてあった。
 次の展示は同じく「短刀 正宗」。こちらは、銘が彫刻されていて、判読できる。「相州住正宗」とあり、今の私と同じく、相模の国在住だ。俺は、言うなれば「相州住良月」だな・・・・

 説明では、細川家(つまり、細川幽齋)から豊臣秀吉に献上され、大阪落城の際に焼けたが、徳川家のものとなり、(刀工)の康継によって再刃され、御殿守?、御守殿?、に置かれたとある。同じく徳川美術館所蔵なので、戦利品として、尾張家に伝わったものだろう。茎の部分は赤茶色で鉄の成分が酸化して露出している感じ。銘は読める。

 別の短刀「銘 正宗」 徳川ミュージアム所蔵は「焼身」とある。企画展のパンフレットによると「やけみ」と読む。
 「徳川ミュージアム」所蔵なので、水戸徳川家に伝来した刀剣である。大阪の落城で焼けて、康継が再刃したが、1923年の関東大震災で再び焼身となったらしい。
 「康継」という刀工の名前が登場した。越前の刀工とのことだ。「脇差 貞宗」の焼けたものと、それを復元して、銘文を刻印した作品が展示されていた。。「脇差 貞宗」は、越前 丸岡の城主だった本多成重の所持した短刀。その短刀を越前の康継が写して、作成したものらしい。丸岡城は以前行ったことがある。「一筆啓上」でも有名だ。
 写しの短刀には「越前国康継」と刻銘されているのが読める。焼けた刀は錆びているというか、赤茶けている。刀剣は火災の高温でも溶解することなく、原型はとどめている。鍛造するときに高温で鍛えているので、一般の火災では溶解することが無いのだろうか?。

 説明には「再刃」という言葉が何回も登場した。文字通り、一度焼けた刃を直して刃文を復元するというか、造り直すという意味なのであろう。
 今回の企画展の名称にある「REBORN」とは、「現代に蘇る昔の刀剣」のことかと思っていたが、全く相違した。一旦焼けたが「再刃」して文字通り「再び蘇った」刀であったのだ。私は誤解していた。

 室内の柱の横に短刀の展示の独立ガラスケースがある。「短刀 銘 宗近」である。名古屋の徳川美術館の所蔵であった。独立したケース内の展示なので、特別な刀かと思ったが、特段印象に残る来歴は無かった。

 第二ガラスケース。
 まず「明暦の大火」の解説ボード。大火の説明には「・・・・・江戸城にも 飛び火した。 西の丸は類焼を逃れたが、このとき本丸、二の丸、三の丸が焼け、本丸天守閣も焼け落ちた。其の後、江戸城の天守閣は再建されなかったと書いてあったかは・・・・、忘れた。実際に、再建されずに現代に至っているし。

 この明暦の大火で焼けた刀が展示してあった。
 かの桶狭間の戦いのときに今川義元を討ち取ったという刀なのだそう!!。「桶狭間」といえば尾張の「信長」の戦いである。どうして、西暦で1657年、桶狭間から100年近く後の大火、しかも江戸の火事で焼けたのか?。
 重要文化財の「刀」、その名も由来からとって「義元左文字」 建勲神社所蔵。金象嵌で、「織田尾張守信長」と本当に彫刻されている。裏には「義元討捕・・・所持刀」とあるそうだ。一度、焼けたので、同じく茎の部分は赤茶色で鉄の成分が酸化して露出している感じ。再刃しても、根元の茎の部分は再刃していない。切る「刃」の部分ではないので当たり前か・・・。
 討ち取りに使用した後、武功を残すため、彫刻したのだろう。金色の文字は鮮やかだが、大火で焼けた後に再び入れたのだろう。説明によると由来は「豊臣秀頼から家康に渡り、徳川家が所蔵したが、明治時代になってから、信長を祀る京都の建勲神社に奉納された」そうだ。「刀」なので太刀のように刃は下向きの展示ではなかったと思う。