2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞2 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 (追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)

 (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。)

神奈川県立近代美術館 鎌倉別館のエントランス。券売窓口は1つしかない。
 ↓ エントランス付近には展覧会の看板が無い。
   

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 展示室に入り、解説パネルを読む。関根正二の画家としての活動期間はわずかに「5年程度」という。その画業を前期と後期に分けて展示をみていくというコンセプトであった。

 順番に鑑賞していく。壁に作品が展示されている。最初の展示作品から3番目くらいに1915年の作品「菊川橋辺り」という油彩画がある。「菊川橋」とは、現在地下鉄の菊川駅のある付近の地名のことのようだ。大正時代当時の東京の都会の街並みと思われるところの、水路にかかる橋の風景だ。東京の下町のような感じだ。
 関根正二が、どこの生まれの人だったのか、予備知識のないまま入場したので、彼は「東京の下町の人だったかな?。あれ、どこの人だったかな?。という感想をまず持った。
 ある作品(風景画だった。)では解説に、医師 福原道太郎の所有だったという。画家と交遊をもっていた著名な医師なのかな?、私は知らないなと感じた。  

 続いて「菊川橋辺り」と同年の作品、16歳の時に描いた「死を思う日」が展示されている。「第2回二科展に入選」と解説文にある。タイトルとは裏腹に、人の姿は画中になくて、葉のある糸杉?と枯れた木2本が真ん中に描いてあるろ・・・・。糸杉(と勝手に判断したのだが)はゴッホの作品を思わせる。深緑の色使いで、暗いタッチである。結核で死の予感が既にあったのか?。当時の死といえば思い浮かぶのは「結核」である。彼は若年の結核患者ではなかったのかと直感した。(壁面ではない)通路にも立てた状態でデッサン画の展示がある。その裏にも作品を展示している。  


 続いて壁面に沿って展示を見ていく。展示の解説を見ていると関根正二は「福島県白河の生まれ、幼少期に東京(当時)の深川に移住し、東京・深川で成長している。」ことがわかる。 

 東北旅行に出かけている。村岡黒影という、東京で知りあった?人の実家にも行っている。現在の山形県北部、最上川流域の村らしい。旅行の帰路には、自分が生まれた白河によっている。

 東北に旅行したときのデッサンなどの作品がある。東北地方の山形県に旅行して、世話になった家族の画の展示がある。

 老女の絵もある。「村岡みんの肖像」解説では「・・・女性は紋付をきて、正面を見て画家と向き合っている。・・・老女のシワなどを美化することなく、ありのままを描きだしている。」とある。お世話になった山形県出身、村岡黒影の実家、村岡家の母堂の肖像である。冠婚葬祭などに着用するであろう、村岡家の紋付の黒い羽織をまとった、日本髪の老女である。一番よい着物を着てモデルとなっている明治・大正当時の日本人の女性の服装がわかる。
 「真田吉之助夫妻像」の油彩画も、当時の山形県の夫婦の正装らしき着物のカラフルな絵である。

  ↓ 展覧会チラシ。 左の作品は「井上郁の肖像」福島県立美術館寄託


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 長野県にも旅行している。河野通勢、という人物と旅行しているらしい。放浪の旅で、その途中で描いている。河野は長野県出身の人物である。その旅行や河野との交友ためか、長野県の信濃美術館の所蔵品が何点か展示されている。

  展示作品には福島県立美術館の所蔵、寄託作品が多い。その理由は白河の生まれということでわかった。次に長野県にある信濃美術館の所蔵か寄託作品が多いようだ。

 来館者は、数名だった。白髪の男性や50-60歳くらいの女性など。順路の反対には、別の部屋もあるようだが、入口を挟んでつながっている。特に扉はなく、長方形の展示室である。看視は小柄で黒髪を束ねてメガネをかけた黒いパンツスーツをはいている女性が部屋の隅に立っている。こんな時期なのでマスクをしてほとんど顔が隠れれいる。

 展示室内のソファの横に展覧会の図録を置いてあるので、見てみる。図録では、関係者の住所などを示す地図が掲載されている。先の作品の解説文にあった 医師 福原 の自宅は、関根の当時の自宅近くの水路の橋を渡って、北西の方向で近所である。パトロンとしての資産家医師ではなく、関根とは近所の知り合いの医者だったようだ。 

 掲載地図の恵比寿付近の拡大図に、伊東深水の自宅の表示がある。すぐ近くに恵比寿ビールの工場 現在の「恵比寿ガーデンプレイス」と書いてある。

 正二が交際していたというか、好意を抱いていた女の自宅は、現在の品川区というか、荏原の方向にある。「当時は(現在と比べて東京は)遥かに市街地が小さかった・・・・。」という説明が書いてある。

(あとで見たが、関係者の地図は、展示室を出た2階廊下脇の壁に大きく掲示してあった。)

 図録に掲載されている年譜によると正二は「結核で1919年6月に死亡」している。年譜の横の欄に社会の動きとして「・・・・・1918年の秋から1919年の春にかけて、スペイン風邪が猛威を振るい、(日本だけで)約38万8千人が死亡、・・・罹患は約2800万人(実際はもっと細かい数字が記載されていた)・・・・・・」と書いてあるのが、目を引いた・・・・。
 現在進行形の「コロナウルス」を想起させるではないか!!。


 順路最初とは反対の壁に、自画像の油彩画が展示されている。当時10代。若いな。デサッサンの自画像もあった。彼は卵型の面長顔である。伊東深水が所有していて、正二の死後に両親に返還したそうだ。「伊東深水」といえば、日本画家として著名な人物である。ジャンルは違うが、深水と交遊関係があった。東郷青児、有島生馬とも交流があったことがわかる。同じく夭折の画家、村山槐多との交流もあったという。

 室内の真ん中には平ケースが設置されている。当時の雑誌、新聞記事、正二のデッサンの展示など関連資料の展示がある。書簡の展示もある。

 展示の資料の中の記載に「・・・・正二は 発狂した・・・・。」ともかいてある。冬のある日、深川の野外で叫んで、倒れたのだという。結核の病気が進行していたのであろうか?。
 死亡記事のコピーも展示があった。写真入りの当時の記事で「関根正二氏死亡」とある。既に20歳にして新聞に記事が出るだけの画家であったのだ。
 村山槐多との交流については「(どれだけ交流があったか)不明である・・・・」と(解説文には)書いてあっが、村山は「・・・スペイン風邪で死亡」と書いてあった・・・・。
 当時の感染症の猛威が伝わってくる・・・・・。コロナウイルスの流行が叫ばれる現代(2020年2月の今、現在)の比ではないぞ!!。
 


 





(続き)
 今から100年前、1918年の秋から1919年の春にかけて、スペイン風邪が猛威を振るったという、記述を展覧会の図録の年譜で読んだ・・・・。
 (日本だけで)約38万8千人が死亡、・・・罹患は約2800万人(実際はもっと細かい数字が記載されていた)・・・・・・」と書いてあるのが、目を引いた・・・・。


 「当時の日本の人口は6000万人くらだったかな?。」と思った。日本統治下にあった朝鮮総督府、台湾総督府などの管内を除いて、日本の人口は6千万人いなかったと思う。(かえって、調べてみたところ、大正時代の前半の日本の人口は約5,500万人。)
 半分とはいわないでも、40-45%くらいが、罹患したことになる・・・。
 流行していた時期は、正二の死亡時期と違うのであるが、正二も「結核にかかっていたところ、スペイン風邪で死亡した・・・・。」と書いてあったと思う。異常なまでの罹患率である・・・。絶句状態。
 今、現在進行形の「新型コロナウイルス」どころではないぞ。

 あの、日本郵船歴史博物館で企画展示があった社長の「男爵 近藤廉平」もスペイン風邪で死亡したと展示にあった筈。