2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞4(最終) 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 (追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)
  (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。
 今から丁度100年前のスペイン風邪の大流行期、恐らくは結核との合併症で20歳で死去した画家の展覧会が、それ以来最大規模ともいわれる感染症の流行の影響で突然閉幕してしまうとは、何ということであろうか。)

  

 関根正二 作、重要文化財「信仰の悲しみ」。2003年に重要文化財に指定されている。

 前述の通り「大原美術館展」の際に国立新美術館で見たことがあるが、今回の展覧会の目玉作品である。今回は通期ではなく、「後期」の展示である。私もこの「信仰の悲しみ」を再び鑑賞するために、「後期」にやって来た。
 あのとき(「大原美術館展」のとき)の作品解説は忘れたが、今回の展示解説によると、キリスト教の信仰ではなく、「日比谷公園のトイレから出てきた女性を見て思い立った描いた・・・・」というようなことが書いてある。タイトルも全く別で、あとで「信仰の悲しみ」とつけたそうだ。絵の中の連なる女性達は「殉教者キリストに連なる女性をおもわせる」が、実際は用を足して出てきた女達・・・・!?。

 神秘的な絵だなと感じていたが、なんだか拍子抜けしてしまうような、作画エピソード!?。


 最初のうちは、来館者は数名だったが、そのうちに午後2時頃となった。たいてい、この時間帯は、来館者が一番増加する時間帯であろう。60-70歳台くらいの男性が多い。夫婦で来ている人もいた。 
 次いで、70歳くらいの老人男性2名や70くらいの小柄の女性3人連れなどもやってきた。一人で来ている30歳台とおぼしき女性もいる。彼女はグレーのチェック柄のスカートに、黒いタイツ、黒っぽいセーターに黒髪である。(すべて黒のような。)マスクをつけてる人が多い。看視員は全員マスクをしている。やはり「まだ、(ここは)開けているの?。」と聞いている老人の男性もいた。国立の博物館、美美術館は、既に臨時休館しているからであろう。誰か聞く人はいるだろうな、と思っていたヨ・・・・。
 すると大きいマスクをつけた女性の監視員は「今のところ、休館の措置はとっていませんが、いつ閉まるかわかり(休館してもおかしくあり)ません。」と答えていた。

 鑑賞者に学生らしき人はいない。退出するとき、順路の最初の第一展示室では、合計して15人-20人くらいの入館者いたのではないか?。私がきたときは、第一と第二合計しても、入館者は10人いなかったと思う。
 「信仰の悲しみ」を再びじっくり見てから展示室の外に出る。廊下にも展示品があった。壁に関ねの年譜などがはってある。(図録の年譜と同じ内容であった。)実は、これらを先に見てから展示作品を鑑賞した方が、展示室内の画家の作品などについて理解できたのではないかと思った。
 関根正二の祖父、利左衛門は、白河藩の3人扶持だったという。明治以後の族籍は(士族ではなく)平民という。父の弟は、第二次大戦後の1968頃まで存命している。正二の父は尾根関係の職人。小屋のような生家の写真がある。白河の城下町の郊外の、農村地帯に住居を構えていたようだ。正二の父は先に、白河から東京に出ている。当時、小学生で8歳くらいの正二は白河に残り、9歳で東京に家族を追って出て、深川に定住してる。

 階段をはさんで、反対側の壁、廊下の部分には、正二の手紙などが展示がある。主に鶴岡黒影との書簡である。壁に解説のバネルなどがあり、階段脇の廊下に平ケースに手紙などが展示されている。手が子には鶴岡に対して「貴兄」などと親しく書いている。色々な制作に関する自分の考えなどを手紙に書いているようだ。山形の、鶴岡黒影の実家に滞在中、「お世話になった家族によろしく」なども書いてある。差出人である、関根の住所は「東京 深川」と書いてある。

 解説によると鶴岡黒影歌人で、「黒影」は号。誰かの門下生という。70歳台後半の年齢で、1978年(昭和53)に死去している。のちに、山形県庁に勤務したそうだ。
 鶴岡は、山形県西川郡河北町?の出身らしい。字は溝延?といういかにも東北らしい地名。
 正二は東京・牛込の四(余丁)町の人物にも手紙を出している。あの
永井荷風の自宅(のちに売却)近くである。牛込区なので当時の私の祖父の家からも近い。1916年頃というと、大正の初めのころ。祖父は子供であった。
 「上野山と遊んだ・・・・。」などと手紙に書いてある。「上野山」は人の名前で友人である。上野の山で遊んだというわけではない。一見すると、上野で遊んだようなイメージだが・・・。

 正二の年譜は、当時の東京市内の地図とともに 階段近くの廊下の壁にはっている。図録に掲載されれていたものと同じ。先に展示室内の図録でも見たが、伊東深水の自宅は、のちに恵比寿に移ったのだが、深川からだと遠いな。
 廊下の突き当り、奥の小テーブルに1999年に開催された「生誕100年 関根正二展」の資料が展示してある。当時のチラシ、チケットなどがある。展示室内の観覧の風景の写真もおいてある。写真はデシタルではなく、フイルム写真である。デジタルカメラが急速に普及していた時期だ。私も当時は、フイルムカメラを使用していた。当時、神奈川を離れて遠いところに住んでいたので、開催は知らなかった・・・・。 写真に写っている、1999年当時の観覧者の服装は確かに当時のまま。夏に開催されていたようで、観覧者は白いポロシヤツにジーンズの人など当時の服装だな。(今でもあまり、変わっていないと思うが・・・。)

 当時のチラシのメイン掲載作品は今回も展示のある「姉弟」。少女が男の子を背負う横顔の絵の写真だ。姉が弟をいつくしむ、暖かさ、家族の愛を感じる絵だ。ほのほのとしている。たとえ、弟が夭折しても、弟に対する愛情は変わらない、永遠不変のものだ。
 当時、「信仰の悲しみ」は重文に指定されていなかった。1999年も2020年今回の展覧会ともチラシに「信仰の悲しみ」の画像掲載が無い。大原美術館の所蔵なので権利の関係でしょう。
 20年後の今回は「生誕120年・没後100年」なので、正二が僅か「20歳」で夭折したことを改めて感じる・・・・。
 神奈川県立近代美術館では1979年頃にも「靉光と関根正二展」として展覧会を開催している。今回が3回目の開催だった。


 今回の展覧会は、没後120年にあたる今年2020年に巡回するのかと思っていたが、三重と福島では昨年既に開催されていて、神奈川が最後の開催であった。

↓ 入口付近のモニュメントのブロンズ像。奥のガラス張の建物はカフェになっている。
  コロナウイルス拡散が言われている世相のためか、すいている。



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 館を出て、鶴岡八幡宮方向に戻った。
 連れと合流する。連れ達は、小町通りにある某喫茶店に行ったのだが、いつもは行列しているのに、待ち時間無く入店できて、しかも「お店はすいていた」と。
 コロナウイルスのため、鎌倉の観光客も激減しているようだ。
 来週から学校も休校になるというし。何か突然、いろいろなことが起こったような感じだ。


 神奈川県立近代美術館鎌倉別館の庭の様子。↓

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(続き)
 今から100年前、1918年の秋から1919年の春にかけて、スペイン風邪が猛威を振るったという、記述を展覧会の図録の年譜で読んだ・・・・。
 (日本だけで)約38万8千人が死亡、・・・罹患は約2800万人(実際はもっと細かい数字が記載されていた)・・・・・・」と書いてあるのが、目を引いた・・・・。


 「当時の日本の人口は6000万人くらだったかな?。」と思った。日本統治下にあった朝鮮総督府、台湾総督府などの管内を除いて、日本の人口は6千万人いなかったと思う。(かえって、調べてみたところ、大正時代の前半の日本の人口は約5,500万人。)
 半分とはいわないでも、40-45%くらいが、罹患したことになる・・・。
 流行していた時期は、正二の死亡時期と違うのであるが、正二も「結核にかかっていたところ、スペイン風邪で死亡した・・・・。」と書いてあったと思う。異常なまでの罹患率である・・・。絶句状態。
 今、現在進行形の「新型コロナウイルス」どころではないぞ。

 あの、日本郵船歴史博物館で企画展示があった社長の「男爵 近藤廉平」もスペイン風邪で死亡したと展示にあった筈。