東大寺ミュージアム「東大寺の歴史と美術」 鑑賞2 2020年7月(新型コロナ感染症流行下)
7月23日 祝日、4連休の2日目。
東大寺ミュージアムに到着した。館内は、外の人手と比較すると、比較的人が多い。コロナの影響のある現在でさえ、入館者が多いのだから、今まではもっと入館者が多かったのであろう。
重要文化財 木造 持国天立像と木造 多聞天立像は、四天王のうちの2体の展示、もう2体のことは、わからない。展示解説によるとこの重文 2体は「・・・永久寺に伝来した・・・・。」とある。現在の天理市の内山永久寺のことである。明治以降、廃絶してしまったが、長く大伽藍をようする大寺院であったことが改めてわかる。
展示室内には、重文 千手観音菩薩立像
↓ 東大寺ミュージアム の入口横の「大仏の手」
その奥に、重文 千手観音菩薩立像と 国宝 塑造日光・月光菩薩立像の写真が掲示されている。
3体並んでいるところを撮影したようで、仏像の高さの比は、展示仏そのままだ。
続いてみていく。「特集展示 史料にみる戒壇堂四天王立像」の展示がある。
展示は、令和2年7月23日から開始されている。
「・・・公開される機会のほとんどなかった塑造四天王立像に関わる史料を展示します。」と書いている。
重要文化財 東大寺要録(とうだいじようろく) 巻第4 諸院章 紙本墨書 室町時代(15世紀)
解説では「東大寺要録は奈良時代から平安時代までの東大寺の寺誌で、巻第四諸院章には奈良時代の戒壇院のことが書かれている。戒壇院は天平勝宝6年(754)5月に建立の宣旨が出され、翌年10月13日に完成の供養がおこなわれた。戒壇上の四隅には銅造の四天王立像が安置かれていた・・・」という。
紙を綴じて冊子になっていて、あるページを開いて展示してある。四隅に四天王を配置したというが、現在、目の前にある 国宝指定の 塑像の四天王像ではなく、銅造であるという。書いてある内容は、漢字で「・・・・天平勝宝六年 五月一日宣旨により・・・・・・・・・・・、落慶、請僧百二十人・・・。」と読める。お経は読む「読」ではなく「請」と書いてある。「読経」ではなく、法要を「請けた」僧侶が120人いたという意味であるかな?。
ついで、東大寺、その他の寺の名前などがページを挟んで、書いてある。「錫杖・・・」など祭具の道具の名前も書いてある。請経したのは、落慶の10月であろうか。
東大寺年中行事記(とうだいじねんちゅうぎょうじき)は、江戸時代のもの。
解説では「江戸時代、東大寺の運営組織であった年預所が日々の出来事を記した日記。享保16年(1731)9月21日条に四天王像に関する記述がみられる。戒壇堂が復興されるにあたり、戒壇院に止住していた僧の望みにより戒壇堂へ移安されたことがわかる。」という。
・戒壇院如法律儀第三興隆録(かいだんいんにょほうりつぎだいさんこうりゅうろく)
紙本墨書 江戸時代(18世紀)
「戒壇院が復興された際の記録で、復興時に整えたれた諸道具の目録中、尊像の部に壇上の宝塔内に安置された釈迦・多宝両像とともに四天王像が書き上げられている。
この記録からは戒壇堂に安置される前は大仏殿西側の中門堂(現在の指図堂付近)にあった古い像であり、
この時の復興に際して修理が施され、戒壇堂に移安されたことがわかる。」という。
つまり、国宝 四天王立像は、元々戒壇堂にあったのではなく、ずっと後世になってからであり、明治以降も、移すことなく現在に至って、人々に拝観されている。
これらの史料の展示通路から、国宝 四天王立像の背中が見える。ガラスケースではなく、須弥壇の上にそのまま安置されているため、間近に拝観することができた。東大寺戒壇院戒壇堂では、ぐるっと一周見ることが出来たのか、覚えていない。お堂の中では、横からは拝観できたが、後ろは見えなかったと思う。
通路から、国宝 四天王立像と正面奥の(大きな)千手観音菩薩立像、国宝 塑造日光・月光菩薩立像も見える。反対のスペース、つまり第2室に入館者入って、見学している様子も見える。と、須弥壇の反対側 第2室で、
大学生くらいの年齢の若い小柄な髪をポニーテールにした女の子が、じっと四天王像を見つめている。じっと見つめて長い間、見上げていた。国宝 四天王立像には、人を惹きつける何かがあるのでしょう。
東大寺出土の瓦などの考古物の展示もあった。以前、東京国立博物館でも多数の出土物の展示があったことを記憶している。おそらく、以前見たことのある展示物があるのかは、ちょっと分からない。
↓ 南大門は、いつも多くの人が通行しているが、この日は人がほとんど映り込まない状態で撮影が可能であった。