良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

公立、公設の美術館、博物館

 

「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞4(最終) 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞4(最終) 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 (追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)
  (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。
 今から丁度100年前のスペイン風邪の大流行期、恐らくは結核との合併症で20歳で死去した画家の展覧会が、それ以来最大規模ともいわれる感染症の流行の影響で突然閉幕してしまうとは、何ということであろうか。)

  

 関根正二 作、重要文化財「信仰の悲しみ」。2003年に重要文化財に指定されている。

 前述の通り「大原美術館展」の際に国立新美術館で見たことがあるが、今回の展覧会の目玉作品である。今回は通期ではなく、「後期」の展示である。私もこの「信仰の悲しみ」を再び鑑賞するために、「後期」にやって来た。
 あのとき(「大原美術館展」のとき)の作品解説は忘れたが、今回の展示解説によると、キリスト教の信仰ではなく、「日比谷公園のトイレから出てきた女性を見て思い立った描いた・・・・」というようなことが書いてある。タイトルも全く別で、あとで「信仰の悲しみ」とつけたそうだ。絵の中の連なる女性達は「殉教者キリストに連なる女性をおもわせる」が、実際は用を足して出てきた女達・・・・!?。

 神秘的な絵だなと感じていたが、なんだか拍子抜けしてしまうような、作画エピソード!?。


 最初のうちは、来館者は数名だったが、そのうちに午後2時頃となった。たいてい、この時間帯は、来館者が一番増加する時間帯であろう。60-70歳台くらいの男性が多い。夫婦で来ている人もいた。 
 次いで、70歳くらいの老人男性2名や70くらいの小柄の女性3人連れなどもやってきた。一人で来ている30歳台とおぼしき女性もいる。彼女はグレーのチェック柄のスカートに、黒いタイツ、黒っぽいセーターに黒髪である。(すべて黒のような。)マスクをつけてる人が多い。看視員は全員マスクをしている。やはり「まだ、(ここは)開けているの?。」と聞いている老人の男性もいた。国立の博物館、美美術館は、既に臨時休館しているからであろう。誰か聞く人はいるだろうな、と思っていたヨ・・・・。
 すると大きいマスクをつけた女性の監視員は「今のところ、休館の措置はとっていませんが、いつ閉まるかわかり(休館してもおかしくあり)ません。」と答えていた。

 鑑賞者に学生らしき人はいない。退出するとき、順路の最初の第一展示室では、合計して15人-20人くらいの入館者いたのではないか?。私がきたときは、第一と第二合計しても、入館者は10人いなかったと思う。
 「信仰の悲しみ」を再びじっくり見てから展示室の外に出る。廊下にも展示品があった。壁に関ねの年譜などがはってある。(図録の年譜と同じ内容であった。)実は、これらを先に見てから展示作品を鑑賞した方が、展示室内の画家の作品などについて理解できたのではないかと思った。
 関根正二の祖父、利左衛門は、白河藩の3人扶持だったという。明治以後の族籍は(士族ではなく)平民という。父の弟は、第二次大戦後の1968頃まで存命している。正二の父は尾根関係の職人。小屋のような生家の写真がある。白河の城下町の郊外の、農村地帯に住居を構えていたようだ。正二の父は先に、白河から東京に出ている。当時、小学生で8歳くらいの正二は白河に残り、9歳で東京に家族を追って出て、深川に定住してる。

 階段をはさんで、反対側の壁、廊下の部分には、正二の手紙などが展示がある。主に鶴岡黒影との書簡である。壁に解説のバネルなどがあり、階段脇の廊下に平ケースに手紙などが展示されている。手が子には鶴岡に対して「貴兄」などと親しく書いている。色々な制作に関する自分の考えなどを手紙に書いているようだ。山形の、鶴岡黒影の実家に滞在中、「お世話になった家族によろしく」なども書いてある。差出人である、関根の住所は「東京 深川」と書いてある。

 解説によると鶴岡黒影歌人で、「黒影」は号。誰かの門下生という。70歳台後半の年齢で、1978年(昭和53)に死去している。のちに、山形県庁に勤務したそうだ。
 鶴岡は、山形県西川郡河北町?の出身らしい。字は溝延?といういかにも東北らしい地名。
 正二は東京・牛込の四(余丁)町の人物にも手紙を出している。あの
永井荷風の自宅(のちに売却)近くである。牛込区なので当時の私の祖父の家からも近い。1916年頃というと、大正の初めのころ。祖父は子供であった。
 「上野山と遊んだ・・・・。」などと手紙に書いてある。「上野山」は人の名前で友人である。上野の山で遊んだというわけではない。一見すると、上野で遊んだようなイメージだが・・・。

 正二の年譜は、当時の東京市内の地図とともに 階段近くの廊下の壁にはっている。図録に掲載されれていたものと同じ。先に展示室内の図録でも見たが、伊東深水の自宅は、のちに恵比寿に移ったのだが、深川からだと遠いな。
 廊下の突き当り、奥の小テーブルに1999年に開催された「生誕100年 関根正二展」の資料が展示してある。当時のチラシ、チケットなどがある。展示室内の観覧の風景の写真もおいてある。写真はデシタルではなく、フイルム写真である。デジタルカメラが急速に普及していた時期だ。私も当時は、フイルムカメラを使用していた。当時、神奈川を離れて遠いところに住んでいたので、開催は知らなかった・・・・。 写真に写っている、1999年当時の観覧者の服装は確かに当時のまま。夏に開催されていたようで、観覧者は白いポロシヤツにジーンズの人など当時の服装だな。(今でもあまり、変わっていないと思うが・・・。)

 当時のチラシのメイン掲載作品は今回も展示のある「姉弟」。少女が男の子を背負う横顔の絵の写真だ。姉が弟をいつくしむ、暖かさ、家族の愛を感じる絵だ。ほのほのとしている。たとえ、弟が夭折しても、弟に対する愛情は変わらない、永遠不変のものだ。
 当時、「信仰の悲しみ」は重文に指定されていなかった。1999年も2020年今回の展覧会ともチラシに「信仰の悲しみ」の画像掲載が無い。大原美術館の所蔵なので権利の関係でしょう。
 20年後の今回は「生誕120年・没後100年」なので、正二が僅か「20歳」で夭折したことを改めて感じる・・・・。
 神奈川県立近代美術館では1979年頃にも「靉光と関根正二展」として展覧会を開催している。今回が3回目の開催だった。


 今回の展覧会は、没後120年にあたる今年2020年に巡回するのかと思っていたが、三重と福島では昨年既に開催されていて、神奈川が最後の開催であった。

↓ 入口付近のモニュメントのブロンズ像。奥のガラス張の建物はカフェになっている。
  コロナウイルス拡散が言われている世相のためか、すいている。



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 館を出て、鶴岡八幡宮方向に戻った。
 連れと合流する。連れ達は、小町通りにある某喫茶店に行ったのだが、いつもは行列しているのに、待ち時間無く入店できて、しかも「お店はすいていた」と。
 コロナウイルスのため、鎌倉の観光客も激減しているようだ。
 来週から学校も休校になるというし。何か突然、いろいろなことが起こったような感じだ。


 神奈川県立近代美術館鎌倉別館の庭の様子。↓

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「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞3 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞3 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 (追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)
  (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。)

  
  神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で展示室内を順番に鑑賞していく。壁に作品が展示されている。
 

 同じ部屋の角、監視員のイスの近くにはデッサンなどが展示されている。イスの下には看視員の荷物が置いてある。時折、荷物を持って別の監視員と場所の交代をしていた。室内がすいているせいか、時折座り、時折立って巡回している黒いパンツスーツに白い大きなマスクを顔いっぱいにした看視員が妙に目立つ(苦笑)。

 少女の死の横顔のデッサンの展示がある。2歳くらいの幼女の死のデッサンである。解説には「年齢よりも大きくかいている」とある。

 風景の画がある。海岸の風景の画の展示がある。「銚子海岸」というタイトル。千葉の銚子の風景だという。銚子に5歳上の姉が嫁いでいたそうだ。福島県出身だが、どうして銚子の家に姉が嫁いだのかは、不明である。実質、東京・深川で生育したので、姉は東京から千葉の銚子に嫁に行ったのであろうか?。

 先の記事で書いた自画像など、壁に沿って順に見ていくと、第一展示室(つまり、最初に見る長方形の展示室)の終わりほうの展示で、「白いロングドレスを着た女性二人が連れだって歩いている姿の絵」が目を引く。まるで、殉教者の列のような、キリスト教の信仰を思わせる作品だ。
『神の祈り』 1918年頃 福島県立美術館 所蔵
 まさに神に祈る、二人の女性を描いてある。白いロング丈の服が一層信仰心を引き立てるような。地面に描かれている花は、チューリップだろうか。ヨーロッパの女性の信仰を表現したのか?。
 焼けたため断片を集め、撮影された白黒写真とつないだ作品もあった。
 「天使」(断片) 三重県立美術館 所蔵

 姉と弟の絵「姉弟」。少女が子供の男の子を背負う絵。背負われる子は、関根本人、少女は関根の姉という。先の銚子に嫁いだ姉でろあうか?。カラフルでカワイイ色使いの絵だ。姉が弟を慈しむ絵である。

「小供」という作品もある。幼児の自画像のよう。「子」ではなく「小」の表記。関根本人であろう。

 伊東の紹介で関根は1914年に「東京印刷株式会社に就職した」と年譜には記載があった。
 
↓ 展覧会チラシ。左は「自画像」。ゴッホの自画像を思わせるタッチだ。真ん中は「姉弟」。
  右が『神の祈り』 1918年頃。3点ともに福島県立美術館 所蔵と表示がある。


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 次いで、隣の展示室に。扉で仕切られてはいない、つながっている展示室である。便宜上、以下「第二展示室」と書くことにする。
 第二展示室は、ほぼ正方形で、第一展示室よりも狭い空間。関根に関連する画家の作品などの展示がある。幼馴染の伊東
深水の作品もある。

 奥の壁に、大黒天1918年 絹本著色(軸装)がある。そのまんま、まん丸いふくよかな(お腹!!??)大黒天の絵。
 個人現存唯一の日本画作品と解説。近くには、監視員の女性のイスがあり、私が近づいて展示をみていると 邪魔になると思ったのか、席を立って、見やすいようにしてくれた。

 第二展示室は真ん中に当時の美術雑誌などの展示が平ケースにあった。平ケースでの資料の展示は先の展示室にもあった。有島生馬の書いた雑誌の当時の記事の展示もあった。年齢としては、有島は17歳上、伊東は1歳上という。有島は、友人といいうか、先生ともいうべき存在だったようだ。


 出入口の近く、順路の最後には、油彩画が3点ある。一番端、ドアの横には、重要文化財「信仰の悲しみ」がある。前述の通り「大原美術館展」の際に国立新美術館で見たことがあるが、今回の展覧会の目玉作品である。今回は通期ではなく、「後期」の展示である。私もこの「信仰の悲しみ」を再び鑑賞するために、「後期」にやって来た。
 その最後の3点のうち1つの展示は「三星」という。三人の人物が描かれている。真ん中は、関根本人。左の女性は、姉。画面に向かって右の女性は、田口真咲という関根と知り合った新潟・新発田出身の女性ともいわれるが、写真で当時の田口の比較しても姿は、違うらしい。
 解説文らよると田口は、東郷青児に取られてしまったそうだ。フラれした当時の関根は落ち込んだらしい。おそらく、伝え聞く東郷の性格というか、「性向」からいうと、相当強引に田口をモノにしたのだろう。押しに負けたのかな?、田口は・・・。関根は、自画像から察するに大人しい性格のようなので、東郷のように強引に女(田口真咲)をモノにすることは出来なかった!?。
 ↓ 展覧会チラシに掲載。「三星」 東京国立近代美術館 蔵。


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 「信仰の悲しみ」の展示の前のソファでは髪がボサボサの白髪の老女が座って、設置してある展覧会の図録をずっと見ていた。顔を近づけてい見ている・・・・。老眼であるが、老眼鏡が無いので顔を極端に近づけて見ていたようだ・・・・。来館者は 数名だったが、午後2時頃となり、たいていは、来館者が一番増加する時間帯であろう。60-70くらいの男性が多い。夫婦できている人もいた。 70歳くらいの老人男性2名や70くらいの小柄の女性3人連れなどもやってきた。一人で 来ている 30歳台とおぼしき女性も。 グレーのチェック柄の スカートに、黒いタイツ、黒っぽいセーターに黒髪。

学生らしき人はいない。順路の第一室では 15人-20人くらいいたのではないか。私がきたときは、第一と第二合計しても 10人いなかったと思う。


↓ 展覧会の看板「少年」(個人蔵)1917年 の拡大画像。

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「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞2 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞2 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 (追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)

 (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。)

神奈川県立近代美術館 鎌倉別館のエントランス。券売窓口は1つしかない。
 ↓ エントランス付近には展覧会の看板が無い。
   

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 展示室に入り、解説パネルを読む。関根正二の画家としての活動期間はわずかに「5年程度」という。その画業を前期と後期に分けて展示をみていくというコンセプトであった。

 順番に鑑賞していく。壁に作品が展示されている。最初の展示作品から3番目くらいに1915年の作品「菊川橋辺り」という油彩画がある。「菊川橋」とは、現在地下鉄の菊川駅のある付近の地名のことのようだ。大正時代当時の東京の都会の街並みと思われるところの、水路にかかる橋の風景だ。東京の下町のような感じだ。
 関根正二が、どこの生まれの人だったのか、予備知識のないまま入場したので、彼は「東京の下町の人だったかな?。あれ、どこの人だったかな?。という感想をまず持った。
 ある作品(風景画だった。)では解説に、医師 福原道太郎の所有だったという。画家と交遊をもっていた著名な医師なのかな?、私は知らないなと感じた。  

 続いて「菊川橋辺り」と同年の作品、16歳の時に描いた「死を思う日」が展示されている。「第2回二科展に入選」と解説文にある。タイトルとは裏腹に、人の姿は画中になくて、葉のある糸杉?と枯れた木2本が真ん中に描いてあるろ・・・・。糸杉(と勝手に判断したのだが)はゴッホの作品を思わせる。深緑の色使いで、暗いタッチである。結核で死の予感が既にあったのか?。当時の死といえば思い浮かぶのは「結核」である。彼は若年の結核患者ではなかったのかと直感した。(壁面ではない)通路にも立てた状態でデッサン画の展示がある。その裏にも作品を展示している。  


 続いて壁面に沿って展示を見ていく。展示の解説を見ていると関根正二は「福島県白河の生まれ、幼少期に東京(当時)の深川に移住し、東京・深川で成長している。」ことがわかる。 

 東北旅行に出かけている。村岡黒影という、東京で知りあった?人の実家にも行っている。現在の山形県北部、最上川流域の村らしい。旅行の帰路には、自分が生まれた白河によっている。

 東北に旅行したときのデッサンなどの作品がある。東北地方の山形県に旅行して、世話になった家族の画の展示がある。

 老女の絵もある。「村岡みんの肖像」解説では「・・・女性は紋付をきて、正面を見て画家と向き合っている。・・・老女のシワなどを美化することなく、ありのままを描きだしている。」とある。お世話になった山形県出身、村岡黒影の実家、村岡家の母堂の肖像である。冠婚葬祭などに着用するであろう、村岡家の紋付の黒い羽織をまとった、日本髪の老女である。一番よい着物を着てモデルとなっている明治・大正当時の日本人の女性の服装がわかる。
 「真田吉之助夫妻像」の油彩画も、当時の山形県の夫婦の正装らしき着物のカラフルな絵である。

  ↓ 展覧会チラシ。 左の作品は「井上郁の肖像」福島県立美術館寄託


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 長野県にも旅行している。河野通勢、という人物と旅行しているらしい。放浪の旅で、その途中で描いている。河野は長野県出身の人物である。その旅行や河野との交友ためか、長野県の信濃美術館の所蔵品が何点か展示されている。

  展示作品には福島県立美術館の所蔵、寄託作品が多い。その理由は白河の生まれということでわかった。次に長野県にある信濃美術館の所蔵か寄託作品が多いようだ。

 来館者は、数名だった。白髪の男性や50-60歳くらいの女性など。順路の反対には、別の部屋もあるようだが、入口を挟んでつながっている。特に扉はなく、長方形の展示室である。看視は小柄で黒髪を束ねてメガネをかけた黒いパンツスーツをはいている女性が部屋の隅に立っている。こんな時期なのでマスクをしてほとんど顔が隠れれいる。

 展示室内のソファの横に展覧会の図録を置いてあるので、見てみる。図録では、関係者の住所などを示す地図が掲載されている。先の作品の解説文にあった 医師 福原 の自宅は、関根の当時の自宅近くの水路の橋を渡って、北西の方向で近所である。パトロンとしての資産家医師ではなく、関根とは近所の知り合いの医者だったようだ。 

 掲載地図の恵比寿付近の拡大図に、伊東深水の自宅の表示がある。すぐ近くに恵比寿ビールの工場 現在の「恵比寿ガーデンプレイス」と書いてある。

 正二が交際していたというか、好意を抱いていた女の自宅は、現在の品川区というか、荏原の方向にある。「当時は(現在と比べて東京は)遥かに市街地が小さかった・・・・。」という説明が書いてある。

(あとで見たが、関係者の地図は、展示室を出た2階廊下脇の壁に大きく掲示してあった。)

 図録に掲載されている年譜によると正二は「結核で1919年6月に死亡」している。年譜の横の欄に社会の動きとして「・・・・・1918年の秋から1919年の春にかけて、スペイン風邪が猛威を振るい、(日本だけで)約38万8千人が死亡、・・・罹患は約2800万人(実際はもっと細かい数字が記載されていた)・・・・・・」と書いてあるのが、目を引いた・・・・。
 現在進行形の「コロナウルス」を想起させるではないか!!。


 順路最初とは反対の壁に、自画像の油彩画が展示されている。当時10代。若いな。デサッサンの自画像もあった。彼は卵型の面長顔である。伊東深水が所有していて、正二の死後に両親に返還したそうだ。「伊東深水」といえば、日本画家として著名な人物である。ジャンルは違うが、深水と交遊関係があった。東郷青児、有島生馬とも交流があったことがわかる。同じく夭折の画家、村山槐多との交流もあったという。

 室内の真ん中には平ケースが設置されている。当時の雑誌、新聞記事、正二のデッサンの展示など関連資料の展示がある。書簡の展示もある。

 展示の資料の中の記載に「・・・・正二は 発狂した・・・・。」ともかいてある。冬のある日、深川の野外で叫んで、倒れたのだという。結核の病気が進行していたのであろうか?。
 死亡記事のコピーも展示があった。写真入りの当時の記事で「関根正二氏死亡」とある。既に20歳にして新聞に記事が出るだけの画家であったのだ。
 村山槐多との交流については「(どれだけ交流があったか)不明である・・・・」と(解説文には)書いてあっが、村山は「・・・スペイン風邪で死亡」と書いてあった・・・・。
 当時の感染症の猛威が伝わってくる・・・・・。コロナウイルスの流行が叫ばれる現代(2020年2月の今、現在)の比ではないぞ!!。
 


 





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「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞1(プロローグ) 神奈川県立近代美術館鎌倉別館

 2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞1(プロローグ) 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

(追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)
  (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。)


 関根正二は、その作品1点が重要文化財に指定されている(記事投稿日現在)夭折の画家である。以前、国立新美術館で開催された「大原美術館展」で、重要文化財「信仰の悲しみ」を鑑賞したことがある。
 元々は今回の「関根正二展 生誕120年・没後100年」の開催を知らなかった・・・・。何故知ったのかというと普段はほとんど閲覧することのない神奈川県のサイトで、たまたま見つけたからである。
 神奈川県のサイトのトップページのスライド画面で「関根正二展」のポスターイラスト画像が出ていたので「ハッと」と気づいたのだ。開催は、神奈川県立近代美術館である。サイトの告知画面は切り替わってしまうので、ほんの数秒のことだった・・・。「新型コロナウイルス」の相談、連絡先の告知などもスライド表示されていたので、すぐに「新型コロナウイルス」の画面をクリックして(別のサイトページに移動して)いたら、気づかなかったであろう・・・

 これ程に重要な画家の展覧会を国立の美術館ではなく、神奈川県立の施設で開催するというのに何故神奈川県は大々的に広報しないのかと不思議に思った・・・・。サイトで(開催に)気づいた後、神奈川県の広報誌、おなじみの「県のたより」(つまり紙ベースの媒体)を見てみたが、最新号は既に捨ててしまっていた・・・。前号はなぜか残っていて自宅のリビングにおいてあった。しかし、前号の記事を見ても「関根正二展」については掲載していない・・・。改めて県のウェブサイトに「県のたより」最新号の PDF版のテータがあったので開いて見てみると、小さい枠に文字のみの記事で「関根正二展」の開催の告知があった・・・。
 あまりに扱いが小さい・・・・。これじゃ、気づかずに見落としてしまうョ・・・

 開催場所は、神奈川県立近代美術館の鎌倉別館である。鶴岡八幡宮の境内内にあった「鎌倉館」?が閉館して久しい。「葉山館」は、現在改装中?らしく、長期閉館しているので、今回は鎌倉での開催となったのであろう。
 会期は2月1日の土曜日から3月22日の日曜日まで。開催に私が気づいたときは、既に2月の10日くらいであった。前期と後期で展示替えがある。後期に岡山県倉敷市の大原美術館所蔵 重要文化財「信仰の悲しみ」が展示される。前述の通り、見たことはあるのだが、せっかくなので「目玉」(つまり重要文化財「信仰の悲しみ」)が展示される「後期」に行くことにした。

 ところがである・・・・。「新型コロナウイルス」関連で公共の博物館、美術館などの施設も臨時休館が続出となった。状況を振りかえると2/27(木)に 国立の博物館(東京・京都・奈良・九州)が2/28金曜からの休館の発表。次いで、2/28(金)には2/29(土)からの休館を上野にある国立の西洋美術館や都立の施設(都美術館)などが発表。
 先週行った台東区立の書道博物館は2/28から休みだった。「新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡散防止のため、2月28日から3月16日まで臨時休館」と。行っておいてよかったョ。1月に行った台東区立朝倉彫塑館も2/28から休み。
 
 「はて、神奈川県立の施設は?。」と事前にサイトで開館しているか、調べてから来た。もしかしたら「閉まっているかも」と思ったが、開いていた!!。神奈川県立の施設としては、横浜に歴史博物館があるが、今のところ開館していた。(2/29の午前中の段階。でも、3/2の月曜日から休みなのかなあ。)
 しかし、同じ鎌倉市内でも市立の博物館施設、文学館、鏑木清方記念館、鎌倉国宝館などは既に休みに入っていた・・・・。神奈川県立近代美術館鎌倉別館と同時に鎌倉の国宝館(鶴岡八幡宮の境内にあるが、鎌倉市立の施設)も見学しようと思っていたのだが、不可能となった次第です(笑)。
  

 鎌倉市内の道路は空いているとおもわれたので、車で移動した。確かに普段よりはすいていた。鎌倉駅前から若宮通りの方法へ向かった反対車線の大船方向から鶴岡八幡宮前に至る道路は少し渋滞していたが、普段はもっともっと混雑している筈。
 車線沿いに神社(鶴岡八幡宮)の駐車場、料金1時間600円があるが、停めなかった。ほとんど駐車している車は無く、すいていた。この駐車場には停めなで更に先、一番、鎌倉別館に近いコインパーキングに停めた。1時間あたり330円だった・・・・、時間単価で30円違う。ここも、空車ばかりであった。

  神奈川県立近代美術館 鎌倉別館
 ↓ 道路に沿った壁に展覧会の看板があった。
   

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 館の敷地に入る。空いているようで、入口付近には誰も人がいない・・・。建物の入口の横にひとつだけ、窓口があって券を販売していた。一般700円。
 入口付近は、ガラスの壁でシースルー?である。入口に接続してカフェが、1Fのロビーの横にあるが店内には誰もいない。中に入ると館内ロビーにもカウンターがあり、女性係員が一人いるが、ここは売店。ロビーの棚に今回の展覧会の図録がおいてあり、絵葉書なども販売していた。

 チケット窓口で「2階でもチケットを提示してください」といわれる。階段で2階に行く。比較的こじんまりとした階段だ。

 2階に行くと、すぐ展示室の入口がある。赤い書体で「関根正二展 生誕120年・没後100年」と大きい表示がある。若い女性係員がいてチケットを提示する。展示室内に入る。「入って、左から見てください。」と言われた。
 来館者は、順路に沿って左手の壁に一人、反対側の壁の展示を見ている来館者が2-3人くらいいる。老人の男性と年配の女性だ。

 しかしである。室内を見まわしても展示リストを置いていない・・・・。来館者もリストを手にしていない・・・。一旦、展示室入口の自動ドアを出て「展示リストはないの?」と聞くと、先の女性係員は受付台の下から青い文字で印刷されて いる展示リストを出して私に手渡した。「希望者にだけ配布しています。」という。

 
 解説パネルを読む。関根正二の画家としての活動期間は5年程度という。その画業を前期と後期に分けて展示をみていくというコンセプトであった。



 





2019年1月 岡山県立博物館 「冬季展」 見学2

2019年1月 岡山県立博物館 「冬季展」 見学2
 

 ここは、岡山県岡山市。正月、無料公開中の後楽園に行った。(旅行記は後述する。)
 隣接している「 岡山県立博物館 」も無料となったので、に行くことにした。

  ↓ 常設展示室における刀剣の展示。

 まずは、1Fの右手に刀剣の展示室がある。刀剣ブームの影響か、見学者は多い。室内の撮影は不可であった。室内の真ん中の平ガラスケースには、刀剣の付属品、鍔などの展示がある。
 「刀の重さを体験しよう。」というコーナも。刀剣の見本が持ち上げられるようになっている。勿論、鎖で繋がれ、強化プラスチックケース内にある見本。片方の手だけを入れて持ち上げることができるようになっている。鉄なのでやはり、重い。片手では、ずっと持っていると手が疲れるなあ、と思った。
 太刀の展示が中心である。短刀やなぎなたなどの展示もある。現在、ここ岡山県立博物館に寄託されている国宝 太刀、通称名「山鳥毛」(個人所蔵)の購入に関する寄付のお願いのチラシもあった。

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 刀剣の展示室、刀剣の重文は2点あった。展示リストがないので分かりにくい。(あとで、ウェブサイトを見たら、展示リストが掲載されていたが、博物館内には置いていなかったように思う。見つけることは出来なかった。)
 「備前」は刀剣の生産地として大変有名である。美濃などと並んで、備前は重要な生産地であった。「五箇伝」という言葉は昨年知ったばかりだ。相模もそのひとつとは、知らなかった・・・。
 現代において、刀剣といえば、美濃、次いでここ備前ではないか?。しかし、岡山在住中は「備前の刀」も、もうひとつの岡山名物「備前焼」にも全く関心がなかった・・・・・・。でも長船(おさふね)周辺が刀剣で有名とは知っていたよ(言い訳)。

 重要文化財 「太刀 銘 則宗」 鎌倉前期。福岡一文字派の祖。反りは高い、3.3センチ。「そほ身の刀身。刃文は、小乱と小丁子のある直刃調。直刃という。持つところの穴は二つあった。長さは80センチという。

 重要文化財 「太刀 銘 長光」 鎌倉中期 。長光は、衰退した福岡一文字派のあとの長船派の人という。持つところの穴は一つだった。反りは、2センチ、長さ73センチ。
 福岡一文字派は、鎌倉時代の前期から中期にかけての時代までで、長く続かなかったようだ。

 次いで別の展示室では、戦国から藩政時代の展示。原則として撮影は可能であった。昔の船の展示もあった。
 藩政時代、藩祖 池田光政の事績の紹介がかなりの部分をしめた。光政の事績の説明では「池田利隆の嫡男で、姫路、鳥取を経て、岡山に入部したと。」いうような紹介の展示だ。名君とたたえられている。
 後楽園を創設したのは、光政の子の綱政であるが、あまり紹介はない。(綱政には、子供がたくさんいたはず。)
 「初公開」として木山神社の「神狐」像が展示されていた。
 特に文化財指定はないようだ。↓ 博物館のポスターにその写真が掲載されている。
  このフロアの展示物のなかでも「神狐」像は撮影禁止であった。

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  館内の様子。 後楽園の木製の水道管。
 園内には木の管を通して水を供給していた。

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 続いて印象に残った展示を挙げていくと、法然上人絵伝の複製があった。48巻のうちの巻1の複製。
 
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 池田利隆の書状の展示があった。異母弟の忠継が1603年の小早川秀秋の死亡後に岡山の領主となった。利隆自身は、姫路領主。
 忠継は家康の孫(娘の子)なので優遇されて独自に岡山領を与えられたようだ。

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 閑谷学校の絵図。複製品。

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 後楽園の説明や歴代 池田家の当主の系図や説明があった。
 光政を祖とする岡山 池田家の当主は、「左少将、伊予守」が多い。位は、従四位下だったであろう。
 侍従の当主もいる。左少将になる前に死亡したのだろう。備前 岡山藩なのに「備前守」ではない。
 幕末の当主 茂政は、掲示の系図を見る限り、初めて備前守となっている。

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 同じ室内の別のコーナーはうってかわって、昭和初期??の民家の復元。

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昔の船の展示。高瀬船であるので、川の渡船のようだ。
てっきり、瀬戸内海の漁のためだったかと思った。
詳細は忘れた・・・・。
一番、目立つ展示品であった。

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2019年1月 岡山県立博物館 「冬季展 岡山藩主の書画」 見学1

2019年1月  岡山県立博物館 「冬季展 岡山藩主の書画」 など見学1
 

 ここは、岡山県岡山市。
 愛媛県松山市にも行ったが、岡山にもやって来た。(旅行記は後述する。)

 毎年「後楽園」の正月無料公開があるので、正面門の近くにある「県立博物館」も「無料公開」であるのでついでに行くことにした。後楽園に来たのは、十何年ぶりだ・・・・・。
 かつて、後楽園の無料公開には来たことがあったが、県立博物館が隣接していて、同じく無料公開を実施しているとは、知らなかった・・・・、というより、覚えていないのかも・・・・。 
 県立博物館、県立美術館ともに在住中は来たことが無かったと記憶する。博物館については、無料公開のときにこの日と同じく見学したのかな~?、全く記憶にない・・・・・。

 ↓ 入口の正面を撮影。「無料開館」の大きな告知。

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 寒い日だったので、博物館の入口を入って、ロビーで温まる。と、戦国のカブト、体験コーナーがあった。


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 お正月らしく「岡山藩主の書画」でも見学しようか、と二階の展示室に階段を登る。右手の展示室は、原始時代から古墳時代などの土器など出土品の展示。

 岡山で一番有名な藩主は、池田光政であろう。その子、綱政、更にその子、継政の書も展示があったと思うが、覚えていないのだ・・・・。
 綱政は、後楽園を造営した当主とされているが、実際はフツーというか、凡庸な殿さまだったようだ。子だくさんとしても有名であるが、あとを継いだのは、将軍綱吉の諱を賜った吉政ではなく、小さい子どもの継政。継政の後継はうまく行かなかったと思える。
 (旧閑谷学校にも行ったのだが、光政の子、綱政については暗愚だったというような説明の看板を掲示していた・・・。)
 
 継政の次の藩主、池田宗政の書もあったと思う。

 更に次の藩主は池田治政。大きく「亀」の、一字の書。崩して書いてある。読めない。

 「思秋」とある書は、池田齊政のもの。解説には「治政の嫡男」とある。小さい横書きの書である。

 次の当主は、斎敏である。説明には「齊政の養子で、島津齊興の次男。」とある。
 島津齊興の長男は、有名な斎彬であるが、展示の説明にはない。
 実は、先(12月のミニ旅行で行った)に展示を見た佐賀 鍋島家の当主、直正(将軍 家斎から、拝領した片諱を返上するまでは、斎正)の母方のいとこにあたる。鳥取の池田家の娘が、島津齊興の正室であり、その子が、島津齊彬と池田斎敏。家系としては200年くらいさかのぼるので遠いが、池田輝政の子孫でもある。(女系で別の池田家の血筋もあるかも知れないが)
 その縁で、岡山 池田家の養子となったようだ。この時点で、光政の子孫の男系当主は絶えることになったのだろう。

 斎敏の「寿福」の書は「壽」と旧字である。(昔の書だから、当たり前であるが・・・・。) 説明によると「長寿を願う言葉」とのこと。斎敏の「楽園」の号も、揮ごうの横にかいてある。しかし、斎敏は、わずか31歳で死去したとある。長寿を願う書を書いていたのに、何とも皮肉である。元々病弱だったから、かえって健康長寿を願ったのではないだろうか?。 

 次は、奥平昌髙の子、慶政。(つまり、有名な島津重豪の孫)
  自分の号は朱色で書いている。「鶴宝」と縦に豪快に書く。しかし、「鶴」が崩し文字で読めない・・・・。「豪快」(いろんな意味で、しかも、子だくさんの)な重豪の孫らしい、自由な書だ。


 次の代の茂政や章政の書がある。共に養子である。茂政は、水戸藩の斎昭の子、つまりのちの最後の将軍、慶喜の弟である。

 次の藩主 章政は「人吉藩主の相良頼之の子」と展示説明にある。相良家の当主は、宗政の子が養子に入り、その子孫なので男系で輝政、光政の血筋の筈。男系が維持されたことになる。

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 今回の冬季展示での一番の目玉展示は、岡山藩主 池田家 歴代当主の書のようったので、他の展示はざっと見たのみて、覚えていない。


 ↓ 博物館の反対側に、後楽園の正門がある。
   無料公開中だった。

   
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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞5

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞5
 

 静寂の展示室内である。 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」を見ていく。

 ・「鎌倉府侍所禁制(覚園寺文書)」
  うーん、鎌倉幕府の「サムライ所」と最初は誤解してしまったが、幕府滅亡後、足利幕府の「鎌倉府」の禁制。鎌倉府も「侍所」という組織を鎌倉幕府から引き継いだのでしょうか?。足利氏の鎌倉公方の政治を司るところかな。
 ・「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」「当寺仏殿〇〇銘位〇事・・・件」が本文で、「文和三年十二月八日 田香氏」と書いてある。末尾に尊氏の花押がある。更に宛名を書いている。「覚園寺長老」と。覚園寺の(今でいう)住職にあてた文書である。
 仏殿を再建?することについての文書(御教書)らしい。仏殿に滞留し、師範をするよう命じている。覚園寺長老とは.「朴がい思淳」(ぼくがい しじゅん)というお坊さんである。
  (「がい」の文字が出ない・・・・のでひらがな表記しておく。)

 この文書は注目ですよ!!。「田香氏」とは足利「尊氏」のことですよ。「高氏」「尊氏」以外にも優雅に「田香氏」と名乗っていたのですよ。最初は「でんこう」という家の人のことかと思ったが音読みしてハッとした。ただ、こうした異音?読みは昔から当たり前だったのかな?。
 同じく覚園寺長老に宛てた別の文書もあり、覚園寺長老「思淳」(しじゅん)師に「××事・・・丁寧に・・・・」と祈祷に関することを命じているらしい。

 上記の「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」とは別の場所、出入り口に近い壁沿いのガラスケースに尊氏の筆になるという「地蔵菩薩像」が展示してある。縦長の、描け軸になっている。文字が書いてあり、下にお地蔵さんの絵がある。展示リストによると第2章の展示品である。
 文字は尊氏の直筆ということだろう。上手ではないが、丁寧に筆で書いてある。(筆で書くのは当たり前だが・・・。)ただし、達筆ではない。本当に尊氏はこのような文字を書いたのだろうか。下には「尊氏+花押」がある。歴史教科書と同じ「尊氏」と書いてある。花押は、間違いない、「田香氏」と書いた「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」と同一である。素人目にも同一人のサインした花押と判るぞ!。
 地蔵菩薩像は西暦でいうと1349年のもの。。「田香氏」と名前を書いた御教書は西暦1354=文和三年のもの。「田香氏」の署名の方が年長になってからのものだ。なぜ、あて字をしたのかは分からない。説明も無かったと思う。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
  左端の文書の写真、浄光明寺の敷地絵図の上には「田香氏」と名前の入った御教書の画像がある。

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 第4章 「鎌倉に残る基氏の記憶」
 この特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のメイン展示は「1章」に集中しているため、軽く見ていく。展示室の中心付近の展示ケース内に少しばかりある。
 江戸時代以降の鎌倉の絵図がある。以前も写真などで見たことがあるかもしれない絵図だ。寺院と農村に帰した田園の??鎌倉である。
 基氏の位牌も展示してあった。「瑞泉寺殿・・・」と戒名が彫られている。「院号」でない。「寺号」である。江戸時代以降だと、このような戒名は「瑞泉院殿」と院がつくのだろうが、位牌の文字は「瑞泉寺殿・・・」である。この位牌自体、展示目録によると江戸時代18世紀のものなので、何らかのときにつくられたのだろう。所蔵は「称名寺」となっている。あの金沢文庫に隣接するお寺だ。瑞泉寺ではない。

 今回、瑞泉寺所蔵の文化財が多数展示されていた。基氏の菩提寺であったのですね。全く、基氏と瑞泉寺の関係について理解していませんでした・・・・(苦笑)。そして、瑞泉寺がどこにあるのか、知らないのです。行ったことも無い・・・・
 3章と4章の展示は、ほぼ同じ展示ケース内にあるので、区別がつかない・・・。順路もごちゃごちゃになってしまうので・・・。
 館内はすいている。私のあとから入場してきた女性が1人いたが、先に出て行ってしまった。更にあとから入館してきた男性1人がいた。私は退出して、帰途につきました。
 帰宅した後、地図や自宅にある鎌倉のガイドブックなどで瑞泉寺の位置を確認した。拝観もできるそうだ。鎌倉時代の作になる庭園があることが分かった。
  今回の特別展のタイトルの一部には「東国の王」とある。鎌倉公方は、足利家の分家でまさに東国の王だったりですね。

 (鑑賞記 おしまい。)



「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞4

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞4
 
 第2章「鎌倉公方と禅宗寺院」 を続けて見ていく。次いで

 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示に続く。
 第2章と第3章の展示はほぼ似ていて、同じ場所に展示されていて、区別はつきにくいが。
 上総国の土地の争いに関する文書の展示があった。上総の国の湯井郷の土地で争いが発生していたらしい。現在の千葉県の房総半島の付け根付近の台地の谷間の肥沃な土地(現在ではすいかの名産地となっているが。)か、九十九里浜に面した地域かな。それとも市原、茂原の辺りかな?。

 「足利基氏御判御教書」、基氏の名前と花押のある文書で年号は貞治二年(西暦では1363年と説明にある。)の二月二十七日(実際の文字は「廿」と墨書している。)の日付だ。「光明寺」文書である。
 「上総国湯井郷事~」と書いてある。宛先は「光明寺長老」となっている。湯井郷はある御家人が勝手に??支配してしまっているが、この文書によって光明寺の領有を認めたのであった。

 尊氏と基氏親子の御教書が描け軸になっていて、連続している展示品があった。「浄光明時文書」である。後世の人が、二人の御教書をありがたや、と軸装したのであろうか?。
 末尾に尊氏の名前と花押のある文書では宛名は「千葉介殿」となっている。
 末尾に子の鎌倉公方、基氏の名前と花押のある文書では年号は 貞治三年(西暦では1364年と説明にある。)四月十六日の日付があり宛名は「伊予守殿」となっている。
 湯井郷の押領をやめさせ、尊氏の御教書の通り、寺の雑掌を渡せという意味だそう。(私の誤解かもいれないが。)
 上記した貞治二年(西暦では1363年)の基氏花押のある御判御教書と「対」になっているそう。同二年(つまり前年のこと。)の御教書に従って、土地は覚園寺に渡しなさい、という命令であった。なかなか、引き渡しをしなかったのですね。あわよくば、そのまましれーっと自分のモノにしようとしていたことがミエミエ!?。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 「光明寺」文書の写真。「湯井郷」のことが書いてある。鎌倉市指定文化財である。

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 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示で重要文化財指定の「浄光明寺敷地絵図」がある。昔のお寺の伽藍配置図である。簡単に墨で和紙に書いてある文書、絵図にしか見えなかったのだ・・・。
 同じく第2章の展示では「明月院」の昔の絵図の展示があった。明月院は「あじさい寺」として有名だし、先の6月に行ったことがあるので、明月院の絵図に見入ってしまったが、「浄光明寺敷地絵図」は特別展のパンフレットにも掲載があるので重要な絵図らしいとあとから、気付いた・・・・。
 明月院は元々「禅興寺」というお寺の塔頭だったと説明にある。読んで字の如く禅宗の振興のための信仰篤き寺であったのだろう。現在の北鎌倉の山の付近、北鎌倉駅から見て建長寺の手前に広大な伽藍を構える寺院であったのだろうか?。

 、「浄光明寺敷地絵図」に描かれていた「浄光明寺」も鎌倉公方 足利家にゆかりの深い寺のようだ。瑞泉寺と並んで重要なお寺だったので、文書が残されているのであろう。今まで、知らなかった・・・今まで知らなかったお寺にも、実はかなり重要な歴史資料が遺されていると改めて気づいた・・・・・。

 「浄光明寺」と「光明寺」とふたつのお寺の文書が展示されている。同じお寺かとおもいきや、違うらしい。展示室内では両寺の違いについて詳しい説明は無かったと記憶する。(説明文はあったが、私が忘れてしまっただけかも・・・。)

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
  左端の文書の写真、実は文字ではなく浄光明寺の敷地絵図である。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞3

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞3
 

  ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
 足利基氏の坐像や国宝「上杉家文書」など展示される文書の画像が掲載されている。


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 鎌倉公方足利基氏の御教書に続いて、展示ガラスケース内には、「足利家文書」 米沢市上杉博物館所蔵の展示があった。文書の国宝一括指定のため、点数は膨大なものであろう。よって、1枚1枚文書を読み込むとは不可能だ。文書がまとめて国宝指定されている点は、金沢文庫で保管されている称名寺聖教の文書群と同じであろう。ただし、称名寺聖教が国宝指定されたのは、昨年か一昨年だったと記憶するので「上杉家文書」の国宝指定はもっと以前のことだろう。
 国宝の文書の傍らには重要文化財の「上杉重房坐像」が展示してあった。鎌倉公方を補佐したのが関東管領上杉氏。よって、「上杉重房」の木像が特別展のスペースに(平常展示から)移動して展示されているのだと理解した。
 今回の特別展の目玉はこの国宝だろう。うち2点のみが今回展示されている。前期は11/12(日)まで、後期は12/3(日曜)までとなっていて、2点ずつ展示替えされるようだ。私が見たのは前期の展示品だ。
 国宝文書の1点目は「足利直義書状」
 「若御前が鎌倉へ下る・・・。」ような内容。「六月二十日 民部? 大輔 」と書いてあるような・・・。日付は「二十」ではなく「廿」文字。昔の文書は皆そうなのかも知れないが、京都国立博の特別展「国宝」にて展示のあった文書などの日付も同様の書き方であった。「民部? 大輔」は尊氏のことか、直義のことか忘れた・・・・。
 解説によると「若御前は」尊氏の嫡子「義詮」のこと。京にいた尊氏は、子の義詮をかつての幕府所在地であった、鎌倉に送り込んで自分の代理として東国支配の拠点としたのだ。 

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
   国宝上杉家文書のうち「足利直義書状」ではなく後期展示の「基氏文書」の画像が掲載されていた。
  

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 続いて 国宝上杉家文書のうち「足利基氏御判御教書」の展示がある。建武の新政の時代から下って西暦でいうと1366年のこと。鎌倉の幕府が滅亡してから30年以上経過した後の文書。すっかり足利の天下となっていたのでしょうか。南北朝に分かれていた時代ではあったが。
 内容は「武蔵国 六浦・・・・事・・・補也 ・・・ 件、貞治五年十月十六日  基氏 花押  上椙×部少輔殿」と書いてある。解説によると「六浦本郷の支配を認めた文書」だそう。そのまんま、現在の横浜市金沢区六浦付近の土地の支配を認められたのだ。よーく見ると今日使用される「上杉」の文字ではないのだ。「椙」である。名古屋に「椙山学園」という学校があるが、同じ「椙」を用いている。椙山を私は「しょうざん」と読んでいたが、実際は「すぎやま」と読むのだ・・・・。
 文書の宛先の「×部少輔」は当時の上杉家の人物の官位だったのだ。だから、現在に至るまで(旧米沢藩主)上杉家に保管されていたのだ。
 ガラスケース内の壁面には「足利尊氏公家譜」の展示がある。江戸時代のもので尊氏や江戸時代の喜連川家の当主、喜連川尊信までの花押の写しを記載した文書である。歴代の足利家の人物の名前の横に花押の見本が記載されている。

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
    「実際に展示されていた文書」の画像もある。

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 展示の第2章に。第1章が国宝の展示もあって導入部の展示ではあるが、実はメインである。
 「鎌倉公方と禅宗寺院」 を見ていく。
 瑞泉寺所蔵の夢窓疎石の座った姿の木像の展示がある。重要文化財指定で、4尺はあろうかという大きな像であった。足利基氏らの小さい木造とは違う。同じく瑞泉寺所蔵で
 夢窓疎石はいうまでも無く、京都 天龍寺の開基として知られるし、基氏の父、尊氏と深い関係にあった僧だ。その縁で展示されているのでしょう。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 夢窓疎石の木像の画像の掲載がある。

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↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞2

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞2
 

 常設展示(平常展示)から見ていく。平日なのですいている。私以外、展示室内には主婦らしき40歳くらいの私服の女性がひとり見ているだけ。展示室内はシンとしていて静かだ。
 平常展示スペースの端、受付の部屋の裏手には 重要文化財指定の 「木造須弥壇 建長寺所蔵」が展示してある。こちらも以前来た時から展示してあった。昔は仏像を安置していたのだろう。室内の中央にある受付の部屋には係員の女性(2人ともに60歳前後かな)が二人いるようだ。小窓がついているので室内の様子がうしろから.判る。室内の看視カメラのモニターが受付のカウンターの手元にあるようだ。よって、私ら見学者の様子がまる判りなのであろう・・・。展示室内があまりにシンとしているので受付の女性2人の話し声というか、何か雑談をしているな、というかすかな声というか声の振動が俺の耳にまで聞こえてくるのだ・・・・。何か気になるなあ~。黙っていることは出来ないのかな??、と思いつつ順番に見学する。平日のすいているときは、話声の気配まで聞こえてくる、伝わってくるので、静かにしていてくれよ・・・!。鎌倉国宝館の受付のおばちゃんは(苦笑)。
 
 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。足利基氏の坐像と絵画が掲載されている。

 特別展の 第1章「足利基氏とその一族」
 基氏の木造の坐像が最初の展示作品であった。鎌倉 瑞泉寺の所蔵。ただし、瑞泉寺がどこにあるかは、知りません・・・・・・し、行ったとこは無い(苦笑)。1尺くらいの小ぶりな像だ。パンフレツトにも画像が掲載されているが、白いお顔が目立つ。お公家様の姿で正装して白粉(おしろい)を塗ったのかな。

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 基氏の木像、肖像画の展示がある。展示リストには「伝足利基氏像」とある。続いてかけ軸のようになっている肖像の展示がある。展示リストには「伝足利基氏像」とある。解説には「基氏は28歳で没したのであるが、年をとった姿である・・・」というような文章が書いてあった。制作は江戸時代となっているし、「伝」の肖像なので基氏と確証はないのであろう。作者は基氏ということにして、テキトーに描いたと思う。「昔の武将だから、年をとっているだろう。こんな感じかな~。ヒゲを入れて・・・」と。ホントだとしたら、マジ、テキトーだなぁ(苦笑)。
 そうか、基氏はわずか28歳の若さで没したのか。ところで「足利基氏って誰?。」すっかり忘れていたぞ。室町幕府に「鎌倉府」と「鎌倉公方」が置かれたことは覚えているが、公方様の名前までは覚えていない・・・。基氏は、二代目くらいの鎌倉公方かな、つまり尊氏の甥・・、程度に軽く考えていた。ということは「初代 鎌倉公方は尊氏の弟(直義か直義とは別の弟がいて・・・。)」と誤解していたのだ。オレは・・・・(苦笑)。
 展示室内の解説にも「足利基氏は、尊氏の四男?で・・・。」と何男だかは忘れたが尊氏の子であると書いてあった。
 兄の足利義詮の坐像もあった。小さい木造だ。解説には「2代将軍の義詮は、基氏の同母兄で・・・。」と書いてある。よって、同じ母の兄弟なので親しかったと推定される。父尊氏と叔父直義はのちに仲たがいしたと思うが・・・。

 父、尊氏の坐像もあった。栃木県喜連川のお寺の所蔵。さくら市指定の文化財となっている。今回の特別展で貸与展示されている。鎌倉公方 足利氏の末裔は、江戸時代に喜連川の領主として存続したので、ゆかりの品が喜連川(平成の合併以後はさくら市)に伝わっているのだ。
 ガラスケース内の壁面には重要文化財指定「足利尊氏願文」の展示がある。軸装されている。描け軸のように表装されていたと思う。あの「常磐山文庫」の所蔵だ。同文庫の所蔵する国宝の書跡2点は京都にて、残りの1点を鑑賞コンプリートしたのが、ついこの前のこと(笑)。
 書いてある文字はよく分からないが、なにかを祈願しているというよりも手紙のような感じ。末尾に「八月一九日」の日付と花押がある。「尊氏」の字も判る。

 展示を見ていくと3番目の木像の展示として「足利氏満」の木像もある。同じく鎌倉の瑞泉寺の所蔵。解説によると氏満は「基氏の子で、9歳で基氏のあとをついで鎌倉公方となった・・・。」とある。28歳で没したときに子の氏満は9歳。満でいうと7歳かな。二代目にしていきなり、幼君。大変だなあ・・・。よくよく考えると「満」の字は、足利本家の将軍 義満の片諱を拝領している。(考えなくても、義満から貰っていることは容易に推定できるが。)
 
 続いて国宝「上杉家文書」の展示があった。傍らには重要文化財の「上杉重房像」が展示してある。平常展示に以前はずっと展示されていた筈だ。歴史資料集にも写真が掲載されることのある有名な木造だ。今回は「上杉関連」で特別展のスペースに移動していました(笑)。
 上杉家は、足利尊氏の母の実家であり、関東管領として鎌倉公方を補佐したそうだ。関東管領というと関東地方のトップという感じがするが、鎌倉公方様の家臣ということでしょうか。

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
   重要文化財「上杉重房坐像」の画像もある。

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  その後「鎌倉公方関連」では、京のみやこの足利将軍とも含めて、関東でも結構戦乱とかありましたよね~、鎌倉から別のところに公方が移ったり・・・、と見学しながら軽く考えて流すオレ・・・・・。
 ガラスケースの下側に展示されている国宝「上杉家文書」を読む。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 氏満の木像の画像の掲載がある。「基氏像」と似ている。親子だから似せて制作したのかな。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞1

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞1
 

  今年6月以来の鎌倉国宝館だ。
 11月の平日に訪問した。関西方面に出かけたついでに三連休を挟んで平日も含んで休暇を取得した。今年最後の「三連休」だからね(笑)。 

 先の鎌倉国宝館の展覧会鑑賞においては、例年6月頃に展示されることが恒例の常盤山文庫所蔵の墨跡2点がまさかの展示無し・・・・(笑)。すっこけた感満載だったな(苦笑)。
 うち1点は、昨年の6月東京国立博物館で開催された特別展「茶の湯」で鑑賞した。「後日、鎌倉国宝館で再合会だよね。」とあまり詳しく見ないで、通り過ぎながら簡単に見ただけたった。なのに「約束通り」その同じ月に鎌倉国宝館に行ったが、なんと国宝の展示は2点の墨跡ともに無かったのだ・・・・。同館の展示リストやポスターでは国宝展示は掲載されていないのに、事前(平成29年度が始まった直後くらいに??)に掲載された展示品リストのみ信用して最新情報を確認して行かなかった俺が悪いんだけどね
 東京国立博物館で貸し出し展示したので、今年は鎌倉国宝館で展示しないのは、解かる筈なんだけどね。「察して」いなかったよ。しかし、今回11月に鑑賞した京都国立博物館で開催の特別展「国宝」では常盤山文庫所蔵の墨跡2点うち1点が展示されていたのだ。たった1週間限定で。しかも、私が特別展「茶の湯」見ていなかったものが展示されていた。
 ようやく常盤山文庫所蔵の墨跡2点を鑑賞することが出来たのだ。「鎌倉の恨みを京都で晴らしたぞ!。」という訳で勇躍、鎌倉国宝館にやって来た。(何言ってんだか・・・・。)

 しかしながら、自宅から簡単に行ける場所(鎌倉)でお目当ての国宝文化財を見ることができなくて、遠く400キロ離れた京都でやっと鑑賞できたとは、皮肉というのかな・・・・。あー、疲れたよ(苦笑)。でもアホだな、俺は・・・。

 鎌倉国宝館の入口と特別展の懸垂幕。 ↓


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 高床式の国宝館の階段を昇る。以前来た時に感じたのだか、結構急な勾配だ。特に前回は梅雨の時期、雨の降る中の訪問だったので、滑らないか気になった。昭和戦前期の建物なので、バリアーフリーかは確認していません。同館のウェブサイトによると「受付に声をかけてください。」と書いてある。

 平日なのですいている。受付で入館券を購入。600円。静かに展示室に入る。常設展示(平常展示)から見ていく。平常展示スペースの中央、須弥壇には同じく「薬師三尊」が安置されている。中央の薬師如来??立像は大きいが、両脇の二体は小さい。
 仏像の顔からして、丸い顔なのであるし、後背に丸い輪を背負っているので地蔵菩薩像と勘違いしてしまうが、薬師様なのである。周囲には、十二神将の像が四角い長方形の壇の周りを囲んでいる。
 
 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットに
   平常展示の様子の写真があった。中央に薬師三尊の立像。

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 入口をはいって、並びに展示されている仏像は変更があったような。彩色されている「木造 弁才天坐像」鶴岡八幡宮蔵は、以前別の場所に展示されていたような。勘違いかな・・・。水色の鮮やかな彩色の衣が印象的だ。
琵琶は、外して展示されている。木造の傍らには琵琶をを持った姿の同坐像の写真があった。
 展示室の奥、平壇の上の展示も(以前来た時と比較して)内容が変わっていたような・・・。
 「上杉氏坐像」は、無くなり別の像の展示がある。
 それらの像の中に「木造 明庵栄西坐像」寿福寺所蔵の展示があった。く彩色されている感じの坐像。別の栄西の像と顔かたちが酷似している。臨済宗の開祖、栄西の姿を映した像に違いない。栄西は確かにこのようなお姿と顔だったのだ。現代までその姿が伝わってくる。82歳から83歳頃の姿を彫ったそうだ。解説文には「栄西」と書いて「ようさい」とふりがなをふってある。「えいさい」ではなく「ようさい」の読み方は定着しているのだ。

 続いて特別展のスペースに移動する。

(参考画像)
 ↓ 鎌倉国宝館に向かう途中の鶴岡八幡宮の敷地内。向かて、右奥が国宝館の方向。
  平日なので人は少ないが、遠足の生徒も結構いた。平日の鎌倉は「遠足需要」もありますね。ボクも中学生のときも小学生のときも遠足で鎌倉散策をしたことがあります。


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愛知芸術文化センター展望室 展望と「長沢芦雪展」 鑑賞4(最終)

 2017年10月8日 愛知県美術館「長沢芦雪展」 鑑賞4(最終)と
             愛知芸術文化センター展望室展望台 眺望 夕景

 名古屋・栄にある愛知芸術文化センター内10階の高層フロアにある愛知県美術館の「長沢芦雪展」を鑑賞した。
 鑑賞していると17時30分、閉館の30分前になった。「閉館の30分前です。6時に閉館します。・・・時間までごゆっくりお楽しみください・・・。」と館内アナウンスが静寂な展示室内に流れた。16時20分頃に来たから、1時間あまり鑑賞していた。展示リストによると、展示数は80数点くらいだったので、あまり多くないかな、時間はかからないかなと思っていたが、今回の芦雪展は「展示替え」がほとんど無い。よって、展示リストほとんどすべてを鑑賞するので、存外時間がかかった。
 この日は、別の場所に宿泊するので、移動時間を考慮に入れて、結構駈け足で見たつもりだったが、見応えがあり、かなり時間がかかった。最後の展示室は、本当に急ぎ足で見ることになってしまった。

 芦雪の作品としては、展示の最後に「物凄い小さい絵」の展示があった。パネルに引っかけて展示してあるような・・・展示手法。「方寸五百羅漢図」。
 本当にこれは芦雪の作品なのかな?、と思った。音声ガイドの最後に解説があった。「遊びごころ」の絵らしい。
 五百羅漢とたくさんの人が・・・。「1寸」の大きさで、タテヨコそれぞれ3センチ余り・・・・。カラフルで、細密に人物が描かれている。「五百羅漢図」なので本当に500人もの人が描かれているそう。私が見るところ500人いるとはとても見えないが・・・。
 この作品2010年に再発見され、直近のMIHOミュージアムでの芦雪展でも展示された作品とのこと。

 ↓ 長沢芦雪展チラシの拡大。

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 芦雪は、この作品を描いた翌年、46歳で急死したそうだ。いわば絶筆になった作品。
 芦雪の個人の生活としては、直前に子供も失っているそうだ。当時は、飢饉の時代・・・・、命をつなぐことが困難な時代であった。現代とはくらべものにはならない、生きることに厳しい時代、生活環境であった。
 乳児が育つことの難しい時代、子を失うことが多い時代だったとはいえ、子を失う親の悲嘆、悲劇は今も昔も変わっていない。
 
 鑑賞は17時40分くらいまでかかった。特別展の愛知県美術館所蔵品の展示室も隣にあった。特別券とは別の半券が入場券についているので、入室時には必要になるらしい。しかし、ツレを待たせているので、退出することにした。
 展示室を出ると、撮影可能な黒いパネルが置いてあった。(写真は既出。)老年の男女二人連れが楽しそうにお互いをパネルで撮影をしている。
 と、入館時には気付かなかったが、10階のフロアは美術館のエリアの外に広いロビーがあり、大きな長いソファも置いてある。ツレとは「1階」で待ち合わせをしている。「なんだ10階で(待ち合わせ)もよかったな・・・。」と思ったから、ロビーの周囲はガラス張りになっていて、外の景色、名古屋のビル群が見えることに気付いた。

 ↓ 展望台のようになっているので、10階からワンフロア上に階段を駆け上る。
  展望台は11階にある。
 

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 展望台のガラス窓に近づいてみると、先程通ったテレビ塔や公園通りではなくて「久屋大通り」や名古屋駅近くの高層ビルが見える。日没直後の夕景である。10月に入り、日没時刻も随分と早くなった。神奈川と名古屋で比較すると日没時刻は15分-20分くらい違うのかな?。
 名古屋名物「テレビ塔」と写真の左奥は名古屋駅近くの高層ビル。新幹線の窓から見上げると駅近くのあのビルが物凄く高く感じるが、遠くの高いところから(つまりココ、展望台)見ると、あまり高く感じないのは何故でしょう!?。

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 栄の繁華街と「錦通り」。久屋大通りとの交差点付近が「栄」の中心地かな。名古屋の通りも随分と覚えた。
車で行くと名古屋駅にでるには「桜通り」をまっすぐ行く必要があり、「錦通り」では無い。しかし、名古屋の地下鉄で一番メジャーに路線の東山からの地下鉄(東山線)は「錦通り」の下を通っている。ちよっとややこしい。
 朝は、車で写真でいうと手前から右奥へ走行した。

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 拡大。濃尾平野を囲む、遠くの山地を撮影したつもりだったが、写っていない・・・。
 某デパートのネオンが拡大されるような感じになってしまった(笑)。

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 入館するときに傍らを通った、楕円形の場所。地下街の入口か公園に隣接したイベントスペースか。
 ↓ 楕円形のモニュメント。半地下構造でお店などテナントが入居しているように見えた。
  公園に浮いている船のようだ。公園自体、まだ造成されて間もないようだし、栄の再開発のモニュメントと講演なのかな、と思った。

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 ↓ 10階なのに庭園がある。
  10階の部分が中庭になっていて、庭に面しておしゃれな感じのレストランがあった。

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  ↓ 11階の展望台から見た、10階。
 入館するときに乗って来たエレベータがある。吹き抜けなって、オブジェがある。
 写真左奥のカウンターが愛知県美術館のチケット売り場。

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 おおー、10階から見た吹き抜け。7階から上が吹き抜けになっているのかな?。

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 「1階」で待ち合わせをしているので、急いでエレベータに乗った。これがクセものだった・・・・。
 しかし入館時に私がNHKのビルを横目に見ながら、ゆるやかな公園の丘を登って入った入口は実際には「2階」なのであったでござーる・・・・・。「1階」ではなかったのであーる・・・・。
 私は「1階」でエレベータを降りた。果たして「1階」にツレはいた・・・・。が先程入館してエレベータに乗ったフロアではないのだ。半地下のような構造で、出入りする人がほとんどいない、外には車寄席があるフロアだ。「あれ、おかしいな。」と感じた。

 待ち合わせしていたツレは、私の顔を見るなり言った。「ちげーだろ!!、どうせ勘違いしていると思ったよ!!。さっき入ったのは2階なんだよ!!。自分で1階と言っただろー!!、(あたしは)ちゃんと来たけどよー。1階はここで、さっきのは2階なんだよ!!。ちゃんとわかって言ってたのかよ!!??、ああー!?。オメーはよ!!!。」と罵声を浴びせられたのであった。

 ↓ 入館前に撮影。 楕円形の屋根の下。半地下のスペースがありイベントをしていた。
   芸術文化センターに向かって緩やかな斜面になっていて公園からだと「2階」から入館するのだ。
   分かりにくい。何なの?、ナゴヤの施設・・・・・・・納得いかない・・・・。何でやねん!?(と関西弁)。

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 ここの地下に栄のバスターミナルがあるそうだ。地下鉄の栄駅ともつながっているそう。愛知芸術文化センターにも地下通路から入れるそうだ。美術館に興味が無いツレは、この周辺をプラプラして地下にテナントで入っていた喫茶店で休んでいたそうだ
 
↓ 入館前に撮影。名古屋名物「テレビ塔」と秋晴れの空。
  地下へ降りる階段は、バスターミナルと地下鉄駅への入口なのですね。

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  さて、近くのコインPに移動し、出庫する。名古屋を去り、本日の宿泊地に移動することにした。「錦通り」を通行、南に曲がり、名古屋高速のランプへ。そのまま、東名阪、新名神と夕日を追うように西下した。
 反対車線、名古屋方面の上り線は渋滞であった。


「長沢芦雪展」 鑑賞3 愛知県美術館

 2017年10月8日 名古屋市 愛知県美術館 「長沢芦雪展」 鑑賞3

 愛知県美術館で開催中の「長沢芦雪展」を鑑賞した。

 第2章「大海を得た魚 : 南紀で腕を揮う。」
 解説によると天明6年(西暦1786年)10月頃、当時33歳の芦雪は師匠の応挙の作品を携えて、紀伊の国の南部に滞在した。約4か月間滞在し、臨済宗の無量寺、真言宗の高山寺な度に作品を描いた。
 南紀の旅行は、応挙が注文を受けた作品の納品のためだったそう。応挙も信頼できる弟子の芦雪に任せたそうだ。納品で訪れ、弟子が現地で作品を制作したということか。
 天明といえば、「天明の飢饉」が想い浮かぶ。食糧難の危機の時代に南紀から注文があったということは、生活に余裕がある豊かな地域ではなかったのではないか?。気候が温暖で果実などが実り、海産物が獲れたので南紀は豊かな地域だったのではないかな。
 京のみやこにも、飢饉の様子は伝わって来た筈。現在のように、車や特急列車で簡単に南紀に行くことが出来る現代とは全く違う。お店に行けば簡単に食材が手に入る現在とは隔世であったろう。
 重要な注文だからこそ、応挙は信頼できる弟子を南紀に派遣したのではないか。その結果、貴重な文化財が現代に伝わった。
 
 ↓ パンフレットの拡大。 
 無量寺の本堂、仏壇の間「室中の間」の向かって右の「龍図襖」、「虎」と対になっている。

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  本堂の仏壇は簡素だ。禅宗の仏壇はシンプルで本尊も小さい。臨済宗なので禅宗の本堂の様子をよくあらわしているのではないか?。
 重要文化財指定の「虎」と「龍」の襖絵がこの展覧会の展示のメインだ。しかし、この襖絵の裏側の部屋の襖絵の説明を聞くと興味深い。無量寺の襖絵として重要文化財に一括して指定されている。ちゃんと、裏面の虎と龍、それぞれ意味のある絵を描いている。室中の間の隣には、「薔薇に鶏・猫図襖」が描かれている。水面の中の魚を狙う、猫の絵。薔薇の花を描いているのも斬新的。「魚」は芦雪が落款のハンコにも使用しているし。
 説明によると「虎の襖絵」の裏面に「猫」の絵が描いてあるそうだ。表と裏を行ったり来たりしたが、確かに表裏になっている。ともにネコ科の動物を描いている。昔の人はちゃんとわかっていたのだ。芦雪をはじめ当時の人が実際に虎を見たことがあるのかは、私は知らない。
 

 第3章にも展示は続く。そして、第4章と展示が続いている。展示作品数は結構多いので鑑賞に時間がかかる。
 犬の絵も多い。犬の絵はユーモアに富んだ描写だ。若沖に似ている犬の描き方だ。
 若沖展では「百犬図」は見なかったが、若沖の百犬図に描かれている犬ととてもよく似ていると思う。
 それとも、犬の描写は芦雪自身の師匠の応挙の作風と似ているのかな。若沖と応挙は当時交流があったのかは、忘れた・・・。

 ↓ パンフレットの拡大

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 第5章の展示室。
  ↓ 大きな牛と象の屏風絵があった。 (パンフレットの拡大) 
   黒い牛は実にリアルに表現している。

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 若沖のコレクションで知られるジョー・アンド・エツコ プライスコレクションの所蔵。
 白い象は恐らく想像で描いたのだろう。若沖の作風と似ていると感じた。サントリー美術館で見た若沖の「象の屏風絵」に酷似している、とかんじるのは私だけかな。


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↑ パンフレットの下に写真の掲載があるが
 
 重要文化財指定「群猿図屏風」は、無量寺の重要文化財指定の襖絵と同じく「第2章」に展示があった。
山のピークの上にのっかった白い猿の表情が印象的。深山幽谷にたたずむ猿を表現しているのかな?。
左の屏風には、白い猿を振り返る数匹の猿の姿が描かれていた。

 第4章には重要美術品指定として「蓬莱山図」の展示があった。南紀に伝わる蓬莱山伝説に基づいて描いたのだろう。西暦でいうと1794年の作品なので南紀滞在よりも年数がたったとくのもの。彩色されていて、カラフルな松を描いて伝説上の蓬莱山を表現していた。





「長沢芦雪展」 鑑賞2 愛知県美術館

 2017年10月8日 名古屋市 愛知県美術館 「長沢芦雪展」 鑑賞2

 名古屋の繁華街、栄にある愛知芸術文化センター10階のフロアにある愛知県美術館。


 会場内に入ると結構見学者がいる。最初は大きな長方形の展示部屋で、室内には40-50人くらいはいるのではないか。学生くらいの若い人も多い。
 
 展示は、長沢芦雪の紹介から。展覧会では「長」と「芦」は現代字体で表記している。よって、この記事では展覧会の「公式表示」にならって現代漢字で表記する。本当は「澤」と「蘆」かな?。
 実は私も芦雪は「江戸時代中期~後期にかけて人物」という以外はあまり知らなかった。若沖と同じ時代を生きた人であった。若沖よりも30歳以上も年下なのに、若沖よりも1年ではあるが早く、40歳台で死亡している。いかに若沖が長生きしたかが分かる。
 2年前にサントリー美術館で「与謝蕪村と若沖は同じ年である」というテーマで展覧会があった。この展覧会でも当時の人間関係に注目していた。
 芦雪は応挙の弟子であったことを知った。だから、南紀に「応挙・芦雪記念館」が現在あるのだと(やっと)知ったのだった。

 ↓ 展示リストに居住地の解説地図があった。
   展示室内の解説と同じだったと記憶する。

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 「蕪村と若沖展」では「(蕪村と若沖の)二人を直接むすぴつける資料は残されていない。」と解説されていた。二人は知人ではあったと推測されるが、実際に交流があったことを示す資料は無いのだった。今展覧会の展示リストでは「蕪村と応挙は仲良しでした・・・。」と解説あるし・・・・。蕪村と若沖の関係は不明だが、「蕪村と応挙」は交流があった。「応挙の弟子が芦雪」である。ん~、複雑に交友関係が絡み合うので、「人物相関図」が必要だなぁ(笑)。

 第1章 氷中の魚 応挙門下に龍の片りんを現す
 最初の展示として「芦雪の肖像画」の展示があった。彩色画である。作者は「芦鳳」で弟子で芦雪の養子となった人の子と音声ガイドで説明がある。芦鳳は、生前の芦雪と会ったことはないそうだ。父から、その養父の風貌を聞きながら描いたのだろう。

 ↓ 「長沢芦雪展」ウェブサイトの画面の白黒印刷。 「関羽図」などの掲載がある。
  「関羽図」の展示があり、近くの展示としては、鶴を数羽(鶴は「羽」と数えるのか知らないが)描いた「群鶴図」やヘビを描いた「蛇図」、竹にカエルを描いた「若竹に蛙図」があった。いずれも墨で表現した作品だった(と記憶する)が、関羽図は薄い彩色があった。「降雪狗児図」も着色があるかわいい犬の絵だった。「関羽図」と逸翁美術館蔵の「降雪狗児図」は、初公開の作品という。直前に展示が決まったのか?、音声ガイドには解説が無い。初期の作品だそうだ。


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 順番に作品を見ていく。
 師の応挙の作品との比較展示があった。「牡丹孔雀図」、絹本着色の鮮やかな牡丹の花と孔雀の画。応挙にならいつつも、動物の孔雀を芦雪独自の視点でとらえている。応挙作品にはあの丁寧な筆跡で「応挙」と旧字体で署名している。春画にも同じ署名があるし、几帳面な応挙の性格を現している。
 更に着色の「牛図」や犬を描いた絵などが展示されている。
 芦雪の落款は「魚」と朱肉をつけて作品の左に押してある。自らを「氷の中の魚」と読んだので「魚」の落款印鑑を作成したのでしょう。

 次は第2章の展示室だ。
 南紀、和歌山 串本の無量寺の本堂の展示が再現されている。

 ↓ ポスターの一部抜粋。本尊に向かって、手前から左手に「虎」の襖絵がある。
 
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 芦雪といえば「虎」の絵なのだなと改めて思う。館外、会場内に掲示されている展覧会のポスターも「虎図」を前面に出しているし。

(参考画像)
 「1階」のエレベータ乗り場付近の柱にあった、芦雪展のポスター。ポスターは「虎」の画の写真ばかりである。「虎づくし」かな。
 

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 (実は私が1階と思って入ったフロアは、実は「2階」だった。だから上の写真は「愛知芸術文化センター2階」の柱に貼ってあったポスターというのが解説が正しい。)

↓ 10階の撮影可能場所にあったパネル。「虎図襖」の拡大。

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「長沢芦雪展」 鑑賞1 愛知県美術館

 2017年10月8日 名古屋市 愛知県美術館 「長沢芦雪展」 鑑賞1

 名古屋の繁華街は、栄である。地下鉄が交差する駅があり、テレビ塔で有名だ。私が一番最近で名古屋のテレビ塔を見たのは、数年前のことだった。それまで名古屋を新幹線で通過することは何回もあったが、名古屋で降りて、どこかに行くということは皆無であった。名古屋は産業都市だからね。子供の頃に観光に1回だけ新幹線で降りたことや、新幹線を乗り換えるのに名古屋駅のホームで待機したことがあったくらい。その唯一の観光ときに、名古屋のテレビ塔を見たかは、全く覚えていない・・・・。
 
 今回は車で来た。この日の朝、名古屋駅前の著名な喫茶店に行くため、車で栄を通過した。と、「愛知芸術文化センター」の前をたまたま通った。「ああ、ここの中に愛知県美術館があるのだな。」と理解した。内部は劇場のみと勘違いしてしまうそうだ・・・・。
 名古屋駅へ東西に伸びる通りは「錦通り」。まだ名古屋の通りを理解していないのだが、桜通りと混同してしまうがち。錦通りの南には「広小路」もあるので、位置関係を覚えないといけない。
 有名な100メートル道路は南北に伸びていて、テレビ塔のある公園があるのだが「久屋大通り」というらしい。読み方は「ひさや」というが、最初「くや」かな、とも思っていた。
 一番の繁華街はどこかというと、南北の久屋大通りと東西の錦通りが交差するところ、と理解している。地下鉄の栄駅があるのだが、その近くにあるのが愛知芸術文化センター。
 
 徳川園ショップ「葵」を見て、徳川美術館を鑑賞した後は、名古屋城に比較的近い、洋館などを見た。その後、ナゴヤメシで昼食は食べずに、全国チェーンのファミレスで食事(笑)。
 期間のある展覧会の記事を優先して書くため、洋館めぐりの記事は、後日投稿する。(ただし、いつになることやら・・・。)

 栄のコインパークに車を停め、テレビ塔を見上げながら、愛知県美術館へ歩く。先程見た愛知芸術文化センターの建物を目指す。
   
↓ 西側(大通りの公園側)から見た建物。こんもりした丘の上にある。というか、人工の庭園である。
 左の建物はNHKの入っているビルだ。立派な建物だ。
 写真には写っていないが、楕円形の屋根のある半地下のスペースではイベントを開催していた。人で賑わっている。
 

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 建物に近づくと、愛知芸術文化センターの前に「長沢芦雪展」のポスターがあった。
 愛知県美術館の場所はここであった。大きな看板表示が無いので、分かりにくい。
 
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 館内に入る。エレベータに乗る。館内はガラス張りの美しい建築。斬新なデザインだ。グーンとエレベータは上の階へ。10階で降りる。10階のフロアは広い。エントランスも広々としている。エレベータを降り、廊下を少し進むと正面にチケット売り場がある。購入して会場に入る。会場入口には、ポスターにもあった「虎の水墨画」の看板が設置されている。
 「1階」のエントランス付近では、人はちらほらだったが、いざ10階の会場内に入ると結構な数の見学者がいる。最初は大きな奥に長い展示部屋であったが室内にはざっと見たところ40-50人くらいはいるのではないか。学生くらいの若い人も多い。
 音声ガイドを借りて、鑑賞開始だ。今回の「長沢芦雪展」は名古屋での開催のみ。和歌山県 串本の無量寺「応挙・芦雪 記念館」所蔵の作品が展示される。
 ここ名古屋から串本までは車で5時間では着かないであろう・・・・。近年は、某有力政治家(幹事長経験者!?。)の影響なのかは分からないが、自動車専用道路が順次整備された。以前、伊勢から、那智勝浦まで車で3時間と少しだった。勝浦から串本までは更に距離があるし。
 南紀・串本に「応挙・芦雪」の作品が多数あり記念展示施設に所蔵されていることは、元々知っていた。(ガイドブックにも書いてあるし。)串本に一番最近で私が行ったのは、2011年の3月、あの震災の直後であった。元々、宿泊の予約は震災の前には行っていたのだ。ガソリンの確保が難しい中で出発したことを覚えている。
 日程の関係もあったので、串本と橋でつながっている大島の「エルトゥール号記念館」は見学したが、本土にある「応挙・芦雪記念館」は行かなかった。よって、今回は良い機会なので鑑賞するため愛知県美術館にやって来たのだった。
 
 
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 ↑ 既出。徳川美術館の入場券と「芦雪展」の入場券と「金のカステラ」。



「萬鉄五郎展」 開催(情報) 神奈川県立近代美術館葉山館

 きたる2017年7月2日より
 神奈川県立近代美術館葉山(館)で「萬鉄五郎展」が開催される。
 梅雨入りした6月、前の日曜日は鎌倉に行った。あじさいの季節の鎌倉に観光で行ったのは10年以上ぶりであった。鎌倉の国宝館を見学したのだが、そこで同展覧会のパンフレットを見つけたのだった。パンフレットで開催を知った次第です(笑)。

 ※「鉄」は現代字体で表記する。

 神奈川県立近代美術館葉山館は、四角い、コンクリートが打ちっぱなしのビルがいくつも連結しているモダンな建築だった。前回は昨年の4月に訪れた。「原田直次郎展」の鑑賞であった。大変、有意義な展覧会で、私が選ぶ この年の展覧会ランキングの第一位にランキングされたのだった。(自分の独断であるが・・・・。)

  神奈川県立近代美術館 葉山館 
 ↓ 中庭とお店(建物の右側)、お店の左が、小さいながらもレストランの入口。
   中庭の向こうは海。2016年4月の暴風雨の日に撮影した。


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↓ 萬鉄五郎展の重要文化財指定「横たわる女」 201年12月東京国立近代美術館で撮影。  


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 萬鉄五郎展の作品はこの重要文化財指定作品以外は、思い出すことが出来ない。他の萬作品を鑑賞したことがあるかも記憶にない。この機会に他の作品も見てみたいものだ。


 開催期間は7月と8月を丸丸含み、9月初旬まで。
 真夏の期間はすべて展覧会の会期だ(笑)。


  ↓ 入口付近のモニュメントと敷地内の庭。歩道の先は県立公園、海岸につながっている。
    (2016年4月撮影)
  葉山御用邸の隣の敷地だ。今年の夏は神奈川県立近代美術館葉山館とその後は、葉山の海で海水浴かな(笑)。

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 さあ、これからボクの夏が始まる。2017(トゥエンティー セブンティーン)、My Summur !!。
 (スペルが違っているかも。)
 

「雪村展」 鑑賞3(最終) 東京芸術大学美術館

  2017年4月2日 特別展「雪村-奇想の誕生-」 鑑賞3 東京芸術大学美術館
 
 東京芸術大学美術館にやって来た。 三階から見学開始した。
 三階の展示室の順路の最後には、大型の屏風絵があった。
 「花鳥図屏風」 ミネアポリス美術館 所蔵 
 池にコイがいて、池のほとりに鳥がいる。一双なので、つまり2点ある。鳥はサギのようだ。鶴ではない。トキを思わせる優雅な表現だ。カモもいる。実に大きくリアルに水墨で表現している。右双だったか、どちらかの屏風にはコイが何匹も大きく描かれている。コイのウロコや開いた口、目までリアルに表現していて、グロイくらいだ(笑)。
 やはり大きな屏風絵がある。重文指定の「花鳥図屏風」 大和文華館 所蔵
 右双は梅の木と鳥が描かれていて春を表現している。左は夏だそう。夏らしく水辺を飛ぶ鳥が表現されている。(右から左に時間軸が流れていたと記憶する。) 
 「紙本墨画」の筈。展示リストには材質が描かれていないので、彩色か墨画か忘れてしまった。

 ↓ 特別展パンフレットの拡大。鳥が実にリアルに表現されている。
 

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 三階の展示はこれでおしまいです。続いて地下に下りました。エレベータで一気に地下まで。地下は、二室に分かれています。
 一室は、主に雪村や光琳の絵画や関連資料で奥行のある展示室。別の部屋は、近代までの影響を受けた画家たちの作品の展示。

 ↓ 展示室の配置。展示リストの抜粋。

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 順番に見ていきます。
 「第5章 三春時代 筆力衰えぬ晩年」
 70歳を過ぎて三春に居を構えたそうだ。西暦でいうと1560年代かな。信長が京の都で覇権を唱えつつあった時期だろうが、都から遠く離れており、気候の厳しい北国の地では無縁だったのだろうか。
 「金山寺図屏風」 笠間稲荷美術館 所蔵 生まれ故郷、かつての常陸の国にある美術館の所蔵。
 お寺の建物の描写が壮大で古代中国の立派な楼閣のようだ。茶色のようなうすい彩色が施されている。金山寺は長江の中流にある島の寺だそう。「・・・実際には見ていない。雪舟の絵を見て、空想で描いた・・・」と説明文にあった。
 
 雪村を尊敬していたといわれる 江戸時代の画家 尾形光琳。作品の模写もしていたそうだ。
 重要文化財指定「小西家伝来 (尾形)光琳関係資料」には、「雪村」の刻印のある落款(石印)があるのだ。現物の展示がある。説明文によると「どのような経路か分からないが、光琳は雪村の石印を入手した。・・・・」とある。重要文化財指定「小西家伝来 (尾形)光琳関係資料」の点数は、数多くある。以前、文書などは根津美術館の国宝「杜若図屏風」も展示されていた「光琳デザインの秘密」展で見て、光琳の子が大阪の小西家に養子に入って、伝わったことを知った経緯がある。また京都国立博物館の「琳派展」でも同資料の展示品は見たことがあると記憶する。

 地下の小さい方の部屋 「第6章 雪村を継ぐ者たち」

 雪村に関する映像コーナーもあった。
 「山水図」 鶴沢探真という作家の明治時代の作品 雪村の作品の原本を見て模写したようで、画中の描かれているものの寸法がほぼ一致しているそうだ。
 狩野芳崖の作品もありました。江戸時代~明治時代の画家にも影響を与えていたのでした。
 橋本雅邦の「雪景図」(山水画冊のうち)の展示がある。江戸狩野の二代目、常信が雪村の作品の影響を受けて、のこした作品の更に模写か雅邦が影響を受けて制作した作品と解説があったと記憶する。(詳細は忘れてしまった・・・。)

 三春の雪村庵にある額は 西暦1658、明暦4年に制作されたそうで「・・・八十余年前に僧 雪村あり。いみなは周継・・・」と書いてあるとのこと。明暦の大火のあとのこと。昔ことを記録しておこう、という機運から作成したのではないか?。当時の人が80年以上も前に没した雪村を忘れず、顕彰していたことが分かる。
 すると没年は西暦で1570年代ではなかったか。

 4/23(日)までの前期の展示は、重要文化財 大和文華館所蔵 「呂洞賓図」が一番のメインであろう。
 4/25から会期最終日5/21(日)までの後期の展示は、重要文化財 指定で、展示リストによると同じく大和文華館所蔵 の「自画像」であろう。展覧会のパンフレットには「自画像」の写真の掲載がある。後期展示なので、道理で探しても無かったはずだ(苦笑)。
 自画像によると雪村自身は、痩せていて、目が鋭い。まじめで、どこか神経質そうな人物像が伝わってくる・・・・。画風と異なり、厳しい修行に耐えた「禅僧」という感じだ。

↓「雪村展」パンフレット 「自画像」の写真部分
 
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 地下二階の展示室を見た後は、地上二階に行ってショップを通り、一階に階段を降り(エレベータではなく)、退出した。ショップを見ない人は、一階でエレベータを降りて出て行ってしまっていたが。

 ↓「雪村展」 の看板が出ている東京芸術大学美術館の入口。上の階のガラス窓が展望休憩室。

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 ※ 大和文華館 今回の展覧会でも多数出品していた。特に前期と後期の作品のメインは同館の所蔵である。
 大和文華館の所蔵品は、日本美術関連の展覧会では、一品、二品と出品数は少ないものの、出展される機会は多い。2014年10月から12月にかけての「日本国宝展」では、国宝「寝覚物語絵巻」も展示されていたし。行ったことは無いが気になる美術館です(笑)。
 昨年4月、信貴山に行った際に、距離的に近いので見学してみようと思ったが、時間の関係で割愛した・・・・。奈良国立博物館にそのまま向かったのだった。 
 昨年、訪れようとしたときの国宝展示は「寝覚物語絵巻」だったと思う。毎年、3月から4月上旬に展示しているようだ。すると、私が「雪村展」を訪れたこの日も大和文華館では国宝「寝覚物語絵巻」が展示されていたと思う。

「雪村展」 鑑賞2 東京芸術大学美術館

  2017年4月2日 特別展「雪村」-奇想の誕生- 鑑賞2 東京芸術大学美術館
 
 戦国時代を生きた謎の画僧「雪村」の展覧会。東京芸術大学美術館  三階の展示室から見学を開始した。
 展示室に入って正面のパネル壁の展示は「夏冬山水図」(京都国立博物館 所蔵)であった。
 険しい山と峡谷に挟まれ、唐風の家屋が書いてある絵・・・。薄い彩色がされている。「雪村筆」と署名があり、朱肉で落款が押してある。
 この作品、雪舟の「山水図」に似ているのだ。私が知っている雪舟作品は少ないが、東京国立博物館所蔵で時折展示される国宝の「秋冬山水図」二幅の作品に特に似ていると感じた。当時の「山水図」は皆同じように明国や宋、元(当時)伝来の作品をモチーフに描いていると推定されるので、皆似ていると言ってしまえばそれまでだが、雪村自身はこの作品を描く前に雪舟の作品を見たことは、あるのだろうか。
 「書画図」 大和文華館 蔵
 題名は後年付けられたのだろう。童子が描かれているが、実際は男たちが屋外で酒を飲んだりする宴会の場面。

 展示室内は、鑑賞者が多い。どの作品の前にもまんべんなく鑑賞者がいるくらいの人数。若い人も多いのだ。美術を学ぶ学生かな。学生は女の子の方が多い。40歳くらいの女性と白髪60歳くらいの男性が手をつないで鑑賞していたり・・・・。世代はどちらかというと、若めではないか。

 第2章 小田原・鎌倉滞在-独創的表現の確立
 解説によると雪村が小田原、鎌倉に滞在したのは50歳を過ぎてからのこと。以前は記録がないらしい。修行中であったか、高名でなかったので、実際には行き来していたが、記録が残っていないかいずれかだろうか?。

「蕪図」・・・大根がうまっている様子の絵。どこか、後年の若沖の水墨画「野菜の涅槃図」を思わせる。
 「雪村筆」と作品中にある。どこか「雪舟筆」と見間違えてしまう。雪舟は現在、国宝指定の作品にも「雪舟筆」と記しているし・・・・。
 別の作品「列子御風図」 アルカンシェール美術財団 所蔵 では画中、左上に「雪村老筆」と書いている。

↓ 特別展パンフレットの拡大。

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 「竹林七賢酔舞図」 メトロポリタン美術館所蔵 タテに長い描け軸の絵
 竹林七賢の老人を「賢く」表現するのが、このシリーズの作品の常識であろうが、この作品の画中の人物はどこか滑稽だ。杯を手に持って差し出した頭巾をかぶる老人が、酔っぱらって踊りながら、楽しそうにしている。周囲では太鼓?などをたたいて音を奏でている。「ヤレ唄え、ホレ唄え」という声が聞こえてきそうだ。
 解説によると、この「手に杯を持った老人」は「雪村」その人の自画像といわれているそうだ。
 殺伐とした戦国の世にあっても、酒を飲んで謡い踊る、ユーモアも分かる人物であったのだろうか。
 メトロポリタン美術館所蔵なので、今回里帰りしたのだろう。巨大なメトロポリタン美術館所蔵では、ほとんど展示される機会は無いと思われるので、鑑賞できる機会を得たのは貴重かもしれない。(アメリカでの展示実績などの解説は無かった。)

 「百馬図帖」 鹿島神宮 所蔵
 馬の絵を奉納している。馬の頭の部分を拡大し、数頭が並んでいる様子の画。神社に奉納しているので画中に「奉」と記している。雪村は鹿島神宮にも滞在したと年賦にあるので、このときに奉納したのだろう。現在まで500年間近く、同じ鹿島神宮に保管されているとは、驚きだ。

第3章 奥州滞在-雪村芸術の絶頂期
  
 重要文化財 大和文華館所蔵 「呂洞賓図」は三階の展示室りの一番奥の突き当りにあった。
 展覧会のポスターの表紙写真にも採用されているので、今回一番の目玉作品であろう。展示は4/30まで。
 「りょ どうひん」と読むそうだ。
 龍の上にのっている、上を向いた人物の画・・・・。解説文には「ありえへんくらいに首を折り・・・」とは解説していないが(笑)、風に吹かれながら、髭までもピンとなびかせて、何かパワーを発散している感じの絵。見上げる左上にも龍がいる。左下には「雪村筆」と記してある。
 解説文によると「風を どうひん がおこしている・・・・」とあったように記憶する。あるパワーで、風を読んでいるのだ。邪気を払うかのような力強い絵だ。が、これは密教の考え。
 現代でいう「嵐を呼ぶ僧!!」かな・・・、というのは違うようだ。当時は禅宗が主流であった筈なので、説明文によると禅問答をしているそうだ。「龍」の美術では欠かせないものだし。

 ↓ 特別展パンフレットの拡大。 「呂洞賓図」

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  別の「呂洞賓図」もあった。展示目録には、所蔵者が書いていない。つまり、東京芸術大学の「自己所有」作品だ。解説によると「今回、準備段階で存在が分かった 初公開」の作品とのことだった。

↓ 特別展パンフレットの拡大。

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 展示リストを見ると、東京芸術大学所蔵がいくつかある。所蔵品を持つ館、施設としては多い方。やっと、今回「雪村展」がここ東京芸術大学美術館で開催された理由が分かった(笑)。が、一番多いのは、個人だ。
 龍の上の乗る画といい、禅の文化、思想を基に表現しているが、風の動きをよく捉えている。風が漣(さざなみ)のように立っているのが、印象に残った。

 展示を見ていく。
「昭和49年に切手のデザインとなった」という作品があった。
重要文化財 東京国立博物館 所蔵 「松鷹図」。2幅あり、大きい画だ。上を向く鷹と、下を向く鷹の屏風?が対(つい)になっている。説明文によると「別人の作の可能性がある。」とあった・・・・・。
 
↓ 三階にある休憩の部屋から外を撮影した。鑑賞した2017年4月2日 撮影。
 芸大付近の桜は、まだ咲いていない。

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 どうでもよいのだが、下は「二年前」に同じ部屋から撮影した写真(苦笑)。

 ↓ 休憩の部屋から外を撮影。校門が見えます。2015年4月撮影。
   二年前は桜の盛りは過ぎていた?。
  本当に下の写真は二年前の写真です。今回撮影したものでは無い、といっても信じてもらえないかもしれないが(笑)。

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「雪村展」 鑑賞1 東京芸術大学美術館

  2017年4月2日 「雪村展」、正式には 特別展「雪村-奇想の誕生-」 鑑賞1 東京芸術大学美術館
 
 東京都美術館の「ティツィアーノ展」を鑑賞した後、同館の敷地の脇を歩き、工事中の奏楽堂を過ぎて、近くの東京芸術大学美術館にやって来た。

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 さあ、三階から見学開始だ。その後は、地下二階に潜り??、二階にミュージアム店を見てから退館するという、相変わらず分かりにくい順路(笑)。

 「雪村」の展覧会です。が、知らなかった・・・・。マジで一瞬「雪舟」と読み違えして「なんで雪舟が芸大美術館で開催やねん?」と思ったが、一応は瞬時に間違いに気付いた(笑)。
 「雪村周継」・・・一体何者だろうか?。雪舟のややあとの時代、戦国時代の中期の画僧・・・・。名前からして「雪舟」にあやかったものであることは確かだ。その作品も見ていたのだろうか?。戦国の世、雪舟の盛名はその没後も聞こえていた筈だ。

 展覧会のポスターにも「ゆきむら でなく せっそんです。」みんなの誤解に答えるようにちゃんと書いてある(笑)。 
二年前くらいに「ボストン美術館展」が別の場所(東京国立博物館)で開催されましたが、この展覧会を私は見ていないので分かりません。
 展覧会の展示リストを見ると重要文化財指定の作品はあるが、国宝指定は無い。まだまだ認知度の高くない画家ではないだろうか。やはり「雪舟」の名が圧倒的だからかな。

 展示室の最初には、「雪村」が過ごした町や足取りの説明ボード地図が掲示してあった。
 まず、その足跡からみる。常陸の人。陸奥の国の会津や田村郡というか、三春に移動して生活している。当時の常陸は佐竹氏の勢力下だ。佐竹氏の庇護の下に佐竹の同盟関係の蘆名氏など東国を移動したのだろうか?。 会津を本拠地とする蘆名氏の名が解説にもあるので。
 考えるに「独眼竜政宗」の更に「前の時代」背景と一致するのだ。「佐竹、田村、蘆名」などは、当時大河ドラマでもよく出てきた固有名詞だ。えっ、なぜ知っているかって?。当時、私は小学生高学年なので少しは見た(視聴した)のですよ(笑)。
 反対に「伊達」という名は会場に展示されている説明ボード地図年、賦には出てこない・・・・。伊達郡発祥の豪族の伊達氏は、あまり関係がなく、のちに伊達氏に負かされた蘆名氏や大河ドラマでは敵方としても描かれていた佐竹氏と雪村自身は深い関係にあったようだ。元々常陸の生まれなので、伊達氏はむしろ敵方?。
 雪村は僧であったから、比較的自由にあちこち移動できたのだろうか?。常陸太田(生まれたところ)、会津、小田原、鎌倉、鹿島神宮などに滞在したそうだ。鹿島神宮は、先の東京国立博物館の特別展覧会「春日大社」でも展示があったが、「春日信仰」にも関連が深い場所であった。鹿島の「鹿」ですね。
 晩年は三春に滞在して没している。没年は不明・・・・。80歳以上の当時としてはかなり高齢だ。没時は豊臣秀吉が天下統一する頃かその前、どうやら没年は(断定されていないが)1580年前後のことのようだ・・・・。すると、伊達氏の当主は若い頃の政宗ではなく、その前の世代、政宗の父が当主の時代かな・・・・・。政宗が戦で蘆名を破って、会津を手中に収め、事実上追放した頃には、既に没してなのではないか?。

 大河ドラマでも放映していたが、政宗の正室は、三春の田村氏から迎えていた筈。すると、三春は当時田村氏の支配下で、まだ娘が政宗の正室となる前で、勢力伸長していた伊達氏の強い影響下になる前に雪村は没した。すると、雪村は当時の田村家の当主、のちの政宗の義父(正室の父)の保護の下に三春に滞在していたと推測される。当然、著名な画僧として令名は、聞こえていたと思うし、田村の殿様と面会していただろう。
 展覧会の会場にも写真が掲示してあったが、現在、雪村が滞在した「雪村庵」がある。現在の郡山市にある。ただし、旧三春町、合併した後の田村市の所在ではない。有名な「滝桜」は、田村市だったと思う。

 その生涯は、生存していた時代は、一部しか重なっていないが、西国の雪舟に対して東国の「雪村」といったところか。雪舟が庇護をうけたのは、有力な守護大名だった大内氏。その大内氏は、雪舟の没後であるがのちに滅亡した。戦国の世とは非情で、厳しいものだ。
 
 展示室を見ていく。「滝見観音図」が最初の展示作品だった。ごく普通の観音様の掛け軸の絵。
次の作品もタイトルは「滝見観音図」。ともに茨城県のお寺の所蔵。紙本彩色である。基本は水墨で淡いカラーの彩色が施されているような感じだ。
 更に「葛花、竹に蟹図」がある。群馬県立近代美術館の所蔵。蟹などに薄い彩色がある。

 ↓ 特別展のパンフレットに掲載の作品。


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 最初の展示、入室して奥に向かって右手には、尾形光琳の国宝指定作品「紅白梅図屏風」の複製のレースの垂れ幕がかかっている。「なぜ尾形光琳か?」と予備知識無しで訪れた私は思った。「きっと光琳は雪村から影響を受けているのだな。」と考えた(笑)。
 「紅白梅図屏風」複製のレースの垂れ幕(透けて反対側が見える)の内側、ガラスケースにはメタボのおなかの大きいおっさんの絵と木の絵の掛け軸が展示されている。
 あまり見なかったのだが、戦国の世に似合わないメタボのおっさんは「布袋様」、左右の描け軸画は「紅白梅」。
 実は、尾形光琳の「紅白梅図屏風」(現在、国宝指定)はこれらの雪村作品の影響があるため、このような展示がされているそうだ。が、打ちだし方が弱いので、「光琳の影響」はあまり認知出来なかった・・・・。音声ガイドでは説明していたのかな・・・・?。
 食料不足のための争いの時代ともいわれた戦国の世に「本当に布袋様のような人がいたのかな?。」と別のことを考えてしまった・・・(苦笑)。

 ↓ 特別展のパンフレットの拡大。
布袋様が酔っぱらっている。どう見ても現代に生きるメタボのおっさん(笑)。

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特別展「忍性菩薩」金沢文庫 見学3 と称名寺 境内散策

 2016年11月26日 神奈川県立金沢文庫。  
 生誕800年記念特別展「忍性菩薩-関東興律750年-」を見学する。
 (以下「金沢」と現代字体で表記する。)

  ↓ トンネルを抜けて隣接する称名寺の境内。
 

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 金沢文庫の建物の二階の通路を通って、南翼(南側)の部屋は、図書室であり、展示室ではなかった・・・。最初は、展示室と思っていたので、早く見ないと、閉館時刻になってしまう・・・と心配したが、「杞憂」であった。
 つまりは、北翼の一階と二階に展示室がある。一階は基本的に常設展示で、広くない。広さは、二階の半分より少し広いくらい。一階が「ほぼ常設展示」。二階が「企画展示室」のようだ。

 二階の通路は吹き抜けになっていて、一階のエントランスを見下ろすことが出来るようになっている。
 通路にはベンチもあり、休憩することができる。他の博物館などの展覧会バンフレットがラックに置いてある。奈良国立博物館で開催予定の「快慶」の特別展のチラシも置いてあった。(「運慶」では無かったです。たぶん。)
  
 通路にも、展示品がある。いわき市の「長福寺」に関する資料。展示によると同寺の「地蔵菩薩像」の胎内から鎌倉時代?の書状が出てきたそうだ。きっかけは、東日本大震災に伴う、修復だったそう。書状は、老婦人が書いたものらしい。
 その他江戸時代の同寺に関する文書の展示があった。展示資料の中には「寺領43石」などの文字が見えた。
 いわき市周辺には「真言律宗」の寺院が集まっているそうだ。

 文庫の建物から出る前にも再度、特別展の展示室に戻り、一通り文書の展示品などを見る。室内には、年配の小柄な 人しか他に展示室にいない。4時半が近づき、館の人が閉館の準備にやってきた。
 展示室を出て、通路に出る。二階の通路から階段を下りて一階のエントランス、受付前のロビーに戻った。

 ↓ 二階の電気がついている部分が展示室外の南翼と北翼を結ぶ通路。

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 エントランスから、入って来た入口とは反対の岩山方向には、トンネルがあるのがガラスごしに見える。金沢文庫と称名寺をつなぐ、有名なトンネルである。
 広いガラスの自動ドアから外に出た。先ほど、入館した入口は手押しの小さいドアなので大違いだ。
 外に出て、トンネルを見る。日没時刻となり、暗くなってきた・・・・。

 文庫の建物の前に「中世の隧道」の跡があった。フェンスで閉鎖され、通ることは出来ない。
 昔の鎌倉の切り通しのトンネルと同じ要領で掘削されたのだろう。


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 中世の隧道は閉鎖されているが、現代では立派なトンネルが開通している。トンネルの天井には、電灯もついていて、明るい。さて、トンネルをくぐり、お寺へ向かう。
 
 ↓ トンネルを出ると視界か゜開けた。広々とした称名寺の境内だ。雪降ったのは、数日前のこと。かなり、落葉している。境内、池のほとりにあるイチョウの木は、黄色に葉が染まっていて、美しい。


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 広い境内を散策をしている人がちらほら。市民の憩いの場となっているようだ。
 太鼓橋の拡大 ↓渡っている人がいる。
 池の水面に橋の姿が反射している。まるで、人間の口のようだ。その昔、金沢氏健在のときも、同じように水面に橋の姿が映っていたのだろう。
 (もちろん、橋は何回もかけ替えがされていると思うが。)


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 ↓ 境内と金沢文庫をトンネルの様子。金沢実時の胸像があった。

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 現代のトンネルを抜けると、金沢文庫の建物の正面の入口に出る。実は、こちらが「正面入口」であった。よって、金沢文庫の正面玄関は、東向きのトンネル方向、岩場に面してあり、陽当たりは悪いかな・・・・・。
 トンネルごしに、文庫の建物が見える。トンネルの入口には「忍性菩薩」の特別展の告知看板が設置されている。
 ↓ トンネル内の電灯に照らされる金沢文庫の建物。

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 橋の正面までやって来た。橋が中の島を経由して、二本かかっている。
 お堂を正面に、池が東西にある。お堂(説明によると「金堂」)は南面を向いている。典型的な「阿弥陀思想」に基づく寺院の伽藍配置ではないかと思った。

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 庭園の説明。「浄土庭園」だ。極楽浄土になぞらえて、造営された、平安時代末期から鎌倉時代にかけての庭園様式ではないか。

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 お寺の背後の丘と緑は「称名寺市民の森」。森と丘は、鎌倉時代から称名寺の背後にあって、現代まで残っているのであろう。

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 あの世の極楽を表現した「極楽浄土」の庭園であるが、平安時代の有名な浄土庭園の「平等院」や京都府南部の「浄瑠璃寺」の庭園とは異なる。東向きではないのだ。ここ称名寺は、「南向き」の庭園だ。特に浄瑠璃寺は、東の太陽が昇る方向をお堂お安置する仏像が向いている。太陽の沈む西に背を向けている。 
 時代が下がるにされて、南向きの庭園とお堂が造作されるようになったのだ。 典型例としては、福島県のいわき市に残る有名な国宝建築「白水阿弥陀堂」とその庭園であろう。(行ったことが無いのだが・・・・・。)
 白水阿弥陀堂は、南向きのお堂と庭園があり、ここ称名寺と酷似している筈だ。
 先の、いわき市の長福寺と白水阿弥陀堂は、何か関係があるように思えるが、私が見た限りでは、展示には、「白水阿弥陀堂」に言及は無かった。

 ↓ 橋の正面から。現在はまっすぐ、一直線上に金堂があるのではない。
 (昔はどうだっかも、知らないのであるが・・・。)

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 ↓ 南には、立派な門がある。見上げるくらいの大きな門。「仁王門」。
  正面から見る。「仁王像」が両側にある。まるで、東大寺の仁王門のようだ。

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 仁王門の横には、寺の門柵がある。一応、16時30分ど閉門とある。が、柵の傍らに、小道があり、門が機能していない。事実上、境内には時間無しで入れる??。
 境内を出て、門前の参道を、南に歩く。昔は南に海というか、金沢の潟が広がっていて、海岸に向けて通じている道だったのだろう。
 境内では、中年カップルもいた。そのカップルは、寺の門の脇を歩いて、振り返って門を眺めている私の方向にやってくる。私と同じ道を帰るようだ。

 参道の両側は、一般の住宅地になっていて、遊んでいる子供、車を掃除している父親もいる。参道に面して、搭頭というか、子院もある。ひとつは、仁王門の近く、門柵のそばにあり、墓地を管理している。一般寺院になっているようだ。海側(シーパラの方向)にも、もう一軒、子院がある。子院の門構えが立派だ。
 参道をお寺を背に、南に歩く。と、自動車の通る道路に出るところにも門がある。車の道は、門を避けて、細い道が通っている。その横には料理店がある。割烹、料亭のようだ。ここから、八景島近くの広い道路もすぐ近くなのだが。付近の道は狭い。

 歩いて、コインパーキングの方向に戻る。買い物袋を持って、京浜急行の駅の方向から歩いて来る人がちらほら。 主婦らしき人が多いかな。ここには、生活があるのだ。帰って、夕食をつくるのであろう。
 称名寺を少し離れると、そこは、ごく普通の首都圏のある都市近郊の住宅地だ・・・・。かつての中世の面影は微塵も無い・・・・・。
 若い人が買い物をして家に帰る姿も。ピニール袋を下げて歩いている・・・・。
付近の住所は「寺前」である。最寄の駅は、「金沢文庫」であるが、お寺の前なので「寺前」だ。



↓ 行きにも通った金沢文庫近くの交差点。道路は狭い。
  写真左が文庫への道。まっすぐ進むと称名寺の参道に南端にある門の前に至る。

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生誕800年記念特別展「忍性菩薩-関東興律750年-」 見学2 神奈川県立金沢文庫

 2016年11月26日 神奈川県立金沢文庫。生誕800年記念特別展「忍性菩薩-関東興律750年-」 の見学。
 (以下「金沢」と現代字体で表記する。)

 一階の展示室を順番に見ていく。壁面に展示している金沢北条氏の肖像画の写真をしばし見入る。
 展示では「金沢」氏は、「かねさわ」とヨミガナをふっている。対して「金沢文庫」は「かなざわぶんこ」と読む。地名や駅の名前、横浜市の区の名前のヨミも「かなざわ」であることは、言うまでもない。
 元々は北条氏の分家でここ「金沢」に居館を構えた一族は「かなさわ」氏なのですね(笑)。
 国宝肖像画の写真を見ると、最後の当主、貞将は、若い武者姿だ。父の貞顕は、中年以上の年齢。 ということは、貞将の死後に描かれた?。作成の時期は、忘れてしまった・・・・。当主になったり、出家した後に、代々、その都度描かれて、所蔵されたものではなく、ある時に四人分一度に描いたような印象を受けた。
 若くして(といっても、展示の年表によると満で31歳くらいだが)戦死しているので、貞将の姿は若い。金沢氏最後の事実上の当主は貞顕だったのかな。

 大きな仏像の複製品がドーンと二階の吹き抜けまで届くかのように鎮座している。称名寺の本尊の仏像だ。平成17年には天皇・皇后両陛下がここ金沢文庫を見学され、この複製の仏像前で、説明をお聞きになっているご様子の写真の展示があった。
 壁面には、金沢文庫で保管されている称名寺蔵の「文選集注」の複製品というか、その写真と解説があった。現在の中国でもこの現物は残っていにないそう。昔、日本にもたらされ、金沢氏滅亡後も称名寺に保管されてていたことにより、現在は日本にのみあるのだそう。

 二階から、展示品の説明をしていると思われる声が聞こえてくる。解説の時間になったようだ。男性の声が聞こえてくる。
 二階への階段の傍らにガラスケースがある。「称名寺聖教」の一部の展示がある。このガラスケースで順番に少しずつ展示しているそうだ。「伝法灌頂秘印」などの古文書が三種くらい展示されていた。

 私とほぼ同時に入室した男女は、上に行ってしまったし、あとからゃって来た子供がいる家族連れの一団も一階の展示はざっと流すように見ただけで、二階への階段を昇って行ってしまった。
 私も二階への階段を昇る。
 と、広い長方形の展示室があった。階段の昇り口に近いガラスケースには、仏像などが鎮座して、展示してある。説明は、更に奥のガラスケースの前で行われている。説明を聞こうと、手前の仏像などの展示は、あとで見ることにして、説明員のいるとこに移動する。10名くらいの人が説明を聞いている。
 

 国宝指定の「金沢実時像」は、ガラスケースの左端に展示してあった。その他の関連資料と一緒に展示されているため、最初は見落とししていた。
 この企画展でのこの国宝の展示は一週間のみ。指定では四人の金沢北条氏の当主の肖像画が一件の国宝として指定されている。平安時代から鎌倉時代にかけての「似絵」の一種と思うが、神護寺の「頼朝像」と比べると小さい。軸装されているが、絵画そのものはほぼ、長方形でタテ1メートルも無いくらい。僧形の地味な色彩の北条実時の肖像画である。足元をみると、あぐらをかいているような感じで足は見えない感じ。これは、神護寺の「頼朝像」とも似ているボーズであるが、僧形なのでちょっと違うかな・・・・。


 外に出た後に撮影。↓ 正面入口と一階ロビーの様子。
 私は、写真奥の通用口のようなドアから入館した。

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↓ 正面側、称名寺からのトンネルを抜けたところにある告知看板。


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※ あとで知ったが、展示室の説明は土日、休日の午後2時と3時に開催されているそうだ。
私が聴いたのは、午後3時の説明の途中からであった。


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生誕800年記念特別展「忍性菩薩-関東興律750年-」 見学1 神奈川県立金沢文庫

 2016年11月26日 
 金沢文庫にやって来た。生誕800年記念特別展「忍性菩薩-関東興律750年-」の見学のためである。
 (以下「金沢」と現代字体で表記する。)

 今年の夏に「忍性」にかんする特別展は奈良国立博物館で開催された。春に「信貴山縁起絵巻」の特別展に行ったときに開催を知った。遠い所での開催なので、奈良まで行くことは出来なかった。
 ところが、秋になって、今度は横浜市金沢区にある金沢文庫で特別展が開催されることを知った。ウェブサイトで展示内容を見ると、奈良での特別展とは別の展示企画のようだ。
 国宝指定の「金沢(北条)実時像」が一週間の期間限定で展示されるので、この国宝展示期間にあわせて、金沢文庫を訪れることにした。

 車で金沢文庫の近くまでやって来た。なぜなら、東海道線沿線からは電車で来ることが乗り換えの関係で結構大変だからだ。みれは、半永久的に解決しない、神奈川県民のテーマ??です(笑)。
 で、車でやって来たはよいが、金沢文庫には、駐車場が無い。来るまでも道路はノロノロで渋滞する。私が子供の頃に比べると、道路拡張が進んだので、昔ほどは渋滞しいなかも知れないが。神奈川県については、現在も人口が増え続けているので、渋滞が(昔と比較して)激しくなっているのかは、分からない・・・・。
 
 ともかく、道路沿いのコインパーキングに駐車した。金沢文庫の駅への道にも近いところだ。住宅地の中を文庫に歩く。道は狭い。直線道路では無いので、うねうね道なりに歩く。 近隣の住民であろう、歩いている人も多い。もう少し、東に行くと、八景島沿いの広い道路に出るのだが、以前、八景島シーパラダイスに行くときに通ったことがある。
 住宅地の中の道の十字路のそばの電柱に「金沢文庫はこちら」という看板がある。看板に従い、更に緑のこんねもりしとた丘陵に向けて歩く。金沢文庫はあの緑の木々の麓にあるのであろう。沿道には、一般の一戸建てで州宅、単身用のアパートなどが並んでいる。晩秋の午後のこと。洗濯物を干している家もあり、生活感が満載だ。が、かつて、この付近は鎌倉幕府の有力な一族、金沢北条氏の屋敷があったのだ。
 歴史は遥か彼方に、現在では大都市近郊のどこにでもある日本のベッドタウンである。
 突き当りに、目指す金沢文庫の建物が見えた。「ああ、あれだ。」とすぐに分かる。私の前後らも歩いて、文庫に向かう人がいる。
 文庫の敷地の近くには、小さい公園があり、親子が遊んでいる。どこにでもある、土曜日の午後の風景。ウチの子は、まはや私と遊んでくれません(涙)。道は、金沢文庫の建物を「L」字に曲がり更に続いているが、もう少し進むと、丘の緑地の崖地で行き止まりであろう。
 随分と立派な建物である。初訪問である。しかし、写真では見たことがある。歴史資料集などには写真の掲載があるので。「神奈川の歴史」のようなタイトルの副読本も学校で配布されていたと思うし。
 昔の写真で見たときは、本当に「文庫」という感じの鉄筋コンクリではあるが、唐破風屋根の小さい建物であった。建て替えをしたのであろうか。

 ↓ 入口付近。「金沢文庫」の張り紙しか無い・・・・。
  「あっ、カフェがある。」。前面にカフェを持ってくるとは、斬新なデザインだな。が、入口のドアが小さいのには、驚いた。「あれっ、通用口のような感じだな。ここは「文庫」で、(目的は)あくまでも資料保管であるから、入口は小さいのかな?」と思った。


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 実際のところ、あとでこちら(私が最初に入館した入口)は、正面ではなく通用口であることが分かったのだが(笑)、後述する。

 文庫の建物と、歩いて来た道の方向を振り返る。写真右の手前には、公園があった。

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  入館すると、エントランスは広い。受付カウンターまで距離がある。「ローカウンター」で高さが低い。カウンター内には女性が2人いる。チケットを購入する。700円。カウンター近くのパンフレットなどを少し見て、展示室に入る。展示室でチケットはちぎらない。購入後、そのまま、展示室に入る。
 展示室に入って、正面の最初のガラスケースには、三重県のお寺所蔵の重要文化財指定「忍性像」の展示がある。忍性の人となりが判る肖像画である。その他、導入としての展示品があった。
 特別展に関する展示は最初のガラスケースまで。次いで、北条一族の領地の変遷などのバネルが別の壁に掲示してある。こちらは、常設展示のようだ。
 バネルを見ると、年を追うごとに北条氏が守護となっている国が増えている・・・・。北条一族の系図も展示されている。しかも、名前の横には、その人の花押も記載されている。ここ金沢文庫の創設者である「北条実時」に始まる金沢北条氏の系図も、もちろんある。国宝に指定されている歴代金沢氏の歴代当主四名の肖像画の写真も展示してある。
 次のコーナーの広い壁面には、鎌倉幕府、鎌倉、北条氏、金沢北条氏などについて解説した大きなカラー年表の展示がある。
 映像テレビも設置されている。年表の上にテレビが設置され、視聴することが出来る。プログムは、金沢文庫について、金沢北条氏について、などなど複数のテーマがあり、ボタンを押して(映像を)選択できるようになっていた。 しばらく、映像を見る。
 展示室内は、すいている。私以外に数名いるのみだ。

↓ 企画展のポスター。

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史跡 林氏墓地 一般公開 東京文化財ウィーク 見学2

 2016年11月5日 土曜日

史跡 林氏墓地 一般公開 東京文化財ウィーク

の中に入る。最初の交差点で、停まる。どこかな、とみると、人が出入り
している壁が。あれだとわかった。 古いコンクリの壁に囲まれている。「林氏墓地」公開と紙がはっている。わかりくい立地。

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5時を過ぎたので、門の扉を半分占めた。テントを張っている。墓の端には、スチールの物置を置き、清掃などの資材を置いているらしい。
その壁の向こうには、普通の住宅が迫っている。

南には「11代の夫人」のように妻や子の墓が林立している。無造作に土に墓の石をおいてあるかんじ。
家族には゜「こちらには、なにをしたかを、大きな石に書いています」
2メートル以上ある石碑があり、文字が刻まれている。複数あり、業籍を残した当主については、設置しているよう。

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羅山の暮石の横には無かった。

時間も終了のようで少しばかり見て、退出した。一人一人事績などをみていら、かなり時間がかかる。
林氏の屋敷がここにうつったので改葬したそう。 よって羅山の墓が小さいと説明していたような。羅山の碑は無い。
説明文には、屋敷に一角に墓所をもうけ、維新後 住宅はなくなり、墓所のみ残ったそう。

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例のハカキももらった。
「鳥居要蔵」も林の出と説明文にあった。幕末の岩瀬も。日差しが西に傾いて来た。秋の日は短い。

近くの公園で荷物整理。と、墓所の前で、区役所か、軽ワゴンが停まった。「のぼり」「テント」「机、パイプイス」などの資材の片づけをしているようだ。
小学校の裏手、ゴム地の校庭。テニスコートになっている。更に歩くと 中学がある。女子が軟式テニスの練習
わしている。人数が少ないのかな。ボールをさわることが出来ないくらい部員がいるものだが。
史跡「林氏墓所」は普段は、先の 「新宿歴史博物館」が管理しているようだ。

。ハイツのような敷地がある。マンションになっている。監視カメラが多数設置されている。その先は旺文社と英検協会がある。


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その裏手の道を進む。

歩く。道を間違い、坂を下ると 絵大江戸線の駅のところに出た。



























 






史跡 林氏墓地 一般公開 見学1 東京文化財ウィーク

 2016年11月5日 土曜日 「史跡 林氏墓地」一般公開 東京文化財ウィーク


 「新宿歴史博物館」を見学した後、次の目的地に歩く。現在開催中の「2016 東京文化財ウィーク」の一般公開を見に行く。目的地は、 「史跡 林氏墓地」。

 ※本来このブロク゛では、期間が決まっている企画展、特別展などの記事を優先して投稿し、「年に一回」「年に二回」などの施設などの「一般公開」は後日に投降することにしている。しかし、今回は「2016 東京文化財ウィーク」の見学記ということで、特別にお先に投降することにします!!。
 (特別って思っているには、ボクだけですけどね(笑)。)

「東京文化財ウィーク」
超目玉な公開は無いというのが、私見。23区内、限定でいうと、興味の有無は個人差が大きいが、私としては

「前田邸」 「和敬塾 旧細川邸」が行けたかも。重文優先だと前田邸。が、前田邸は「和館」のみで洋館は工事中とのこと。明示学院もあったかな細川邸は、予約制で定員ありなので、困難だったかも。

根津神社は、平日のみ。公文書館では、宋版の文書の公開があったようだが、インパクトには欠ける。以前よりは、公開に力を入れたかな。


 さて、新宿歴史博物館から「林氏墓地」までの道のりを少々。
 (博物館近くの路上から)正面、ビルや家々の合間に防衛庁の巨大なアンテナを見ながら、坂を防衛庁の庁舎方向に下る。

 広い道路(曙橋付近の)を渡り、今度は防衛庁の巨大な庁舎を横目に見ながら坂を再び登る。と、途中には機動隊の看板がかかっていた。門前では、制服姿の女の子の警官が立っている。立哨というのか、警らというのか、立ち番というのかは、知らない・・・・。女性警察官は、まだ20歳くらいじゃないかな?。
 歩いて通過し、その先はに、防衛庁の門がある。付近の道路は、区画整理をまだ行っている。「まだ」というのは、昨年の2月に永青文庫に行く途中、車で通ったからだ。まだ工事は、完成していないようだ。
 更に歩いて、柳町から東へ交差点を曲がる。ここの地下には、大江戸線が通っていて、駅もある。歩道の脇には、交番がある。古い小さい交番だ。
 交番前を通過し、ゆるい坂道を登り、見当をつけて小学校の手前を住宅地の中に入る。最初の交差点で、停まる。どこかな、と見ると、人が出入りしている壁が分かった・・・。「あれだ」とわかった。古いコンクリの壁に囲まれている。「林氏墓地」公開と紙がはってある。目的地に到着した。
 現在は、住宅と低層のビルの立ち並ぶ地域であり、わかりくい立地だ。

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 新宿歴史博物館から20分以上歩いた。門の前には、公開時間が「10時-15時まで」と張り紙ある。現在1458だ・・・・。公開時間も終わりだ・・・・。急いで門の中に入る。
 門には「史跡」と書いている。告知にもある通りここ「林氏墓地」は、一年でたった三日間の公開だ。
 去る11/3(祝日)に公開があり、この土曜と明日(翌日の日曜)も公開がある。「東京文化財ウィーク」ののぼりも立っている。私にとっては、今年の。「東京文化財ウィーク」目玉の史跡公開地見学かな・・・。

 見学者が出入りしている。小学生の男の子をつれた夫婦がやってきていた。対してウチの場合、ウチの子は、「興味ない」と入ってこなかった・・・・。


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 墓地を囲む、古いコンクリートの壁に貼ってある手作りの告知。三日間の公開の日程案内がある。小学生くらいの子が手作りしたものであろう。
 連絡先は「新宿区立新宿歴史博物館」と書いている。普段は公開されていないので、管理は通常「新宿歴史博物館」が行っているのであろう。

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 門の中に入る。敷地は、思ったよりも狭い。門の内側には、テントが設置してあり資料を貰えた。資料や敷地の説明板によると土地の広さは110坪くらい。約330平方メートルと狭い。一般住宅としては、広い敷地なのだが。「史跡」としては狭く感じる・・・・。売買価格でいうと〇億〇千万円はするであろう、というのは余計な推測か・・・。
 墓地の隣は住宅になっている。北は道路に接しているが、東西南は、一般住宅に隣接している。
 ボランティアガイドの女性が、例の家族連れの男の子に声をかけて説明する。「これは、林羅山(はやしらざん)といって初代の人のお墓。・・・(大河)ドラマの真田丸って見てる?。と る徳川家康がでてくるので、その学問をつかさどる人、顧問だった。大阪の陣のきっかけとなった、方広寺の鐘の文章の解釈を・・・・豊臣家に不利なようにした人・・・・」というような説明だったと思う。
 そのような、初代羅山であるが、初代の墓碑は小さい。が、墓地の端、西を背にして、東を向いているので初代に敬意をはらっているよう。


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 ボランティアガイドの女性が説明を続ける「・・・林氏(りんし)の屋敷は、最初、神田の××にあったが、・・・・・・(中略)その後、ここに屋敷をもらった。谷中?にあった墓地を屋敷の敷地の中に移して、初代も含めて改葬をした。明治時代になって、屋敷は無くなり、住宅地になったが、墓地だけは残った・・・・。昔に比べるとだんだんと墓地の敷地も狭くなっていった・・・。」という内容の説明であった。

 ↓ 写真中央。初代羅山の墓碑。

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 更にボランティアガイドの女性は、男の子の家族に向けて「りんしは、七代で血が絶え、養子ををもらいました。  岩村藩 の松平氏から のりひらというひとが、八代のじっゅさい(述齋) として養子になりました。」と説明。
 「乗」は松平氏のある家の通し字だ。比較的、石高の小さい譜代の小大名から養子になっている。林氏は、大名では無い。よって、石高の小さい、家格の比較的近い譜代大名より養子をとったか。

 ※ 帰宅後、ネットで調べてみると「大給松平氏」から林氏に養子入りしている。岩村田、信濃のペンタゴンの城も「乗」の字のつく松平氏のお殿様が造ったはずだ。一族であろう。
























 






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